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君主制が復活する

       君主制が復活する

 

 カリスマも国家にとって重要な権力であり、法的権限だけが権力ではない。国家の指導者には、新しい国家体制を作ったり、偉大な業績を成し遂げたり、国家の危機を克服したりするなどして「建国の父」「偉大な指導者」「救国の英雄」などと言われ、多くの国民から尊敬され、強力なカリスマを持っている者も存在する。国家体制の成立と安定のために絶対に必要なのが、このような強力な最高指導者のカリスマの力を法的権限などの権力と共に後継者に継承する体制を確立することである。これがうまくいかなければ、最高指導者が不在の欠陥国家になってしまう可能性が高いのである。カリスマを後継者に継承することに失敗し、最高指導者が不在となってしまった国家では、国家の最大の役割である国家の防衛や非常事態に対処することができなくなってしまうどころか、最悪の場合は国家が崩壊してしまうこともある。その典型的な例が、アレクサンドロス大王亡き後のアレクサンドロス帝国、始皇帝亡き後の秦帝国、そしてチトー大統領亡き後のユーゴスラビアなどである。国家体制と国家の機能を維持するためには、法的権限と共に最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立することが絶対に必要なのである。
 最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制として、主なものが君主制と大統領制である。君主制は、家族や血族の間で最高指導者のカリスマが継承される体制である。そして、大統領制と、実質的な大統領制である議院内閣制の首相は、法の手続きに従って最高指導者の役職とともにカリスマが後継者に継承される体制である。
 君主制や大統領制以外で、最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立した例としては、チベットのダライ・ラマ制がある。前任のダライ・ラマが輪廻転生した人物を見つけ出してダライ・ラマの後継者とするのである。言わば「輪廻転生制」である。ただし、ダライ・ラマ制に類するような体制はチベット以外には存在しないため、ダライ・ラマ制は極めて特殊で例外的な体制と考えざるを得ない。
 ただし、国によっては、君主制も大統領制も成立しないため、古代中国の禅譲のように、前任の最高指導者の指名によってカリスマや法的権限の継承者を決定する方法が試みられたこともある。旧ソビエトや共産党政権下の中国が、その例と言える。旧ソビエトや共産党政権下の中国では君主制は否定されている。しかも、法治国家ではないため大統領制は成立しない。旧ソビエトでスターリンが粛清と呼ばれる大量殺戮を行ったのも、中国で文化大革命のような政治の混乱が起きたのも、法治国家ではないため、法の手続きによってカリスマや法的権限を継承することができないことが原因の一つである。そこで旧ソビエトや中国では、前任者が後継者を指名することによって、カリスマや法的権限といった権力を継承する方法が試みられたのである。
 ところが、前任者が後継者を指名することによって権力を継承する方法は、非常に不安定な方法であり、失敗した例が多のである。失敗した理由の一つが権力闘争である。前任者によって後継者に指名された人物が権力闘争に敗れた結果、権力の継承に失敗してしまうのである。ソビエトのスターリンが後継者に指名したマレンコフは、フルシチョフとの権力闘争に敗れて失脚してしまった。また、中国の毛沢東が後継者に指名した華国鋒も、鄧小平との権力闘争に敗れて失脚してしまった。
 前任者の指名によって決定された最高指導者は、前任者によって後継者に指名されたことを根拠に自らの最高指導者の地位を正当化できる。これに対して、前任者によって後継者に指名されていない者は、自らの最高指導者の地位を正当化することに苦慮する羽目になってしまう。たとえば、ソビエトでレーニンの後継者となったスターリンにしろ、スターリンと権力の座を争ったトロツキーにしろ、レーニンから後継者に指名されてはいなかったのである。そこで、この二人は、自分がレーニンの後継者であることを正当化するため「一国社会主義論」や「世界革命論」を唱えて理論闘争をして、自分こそレーニン思想の正統な継承者であり、レーニンの後継者としてふさわしいと主張したのである。やがてスターリンは権力闘争に勝利して政治の実権を握ったものの、それでも自らの最高指導者の地位に不安があったため、多くの政敵を粛清によって葬り去ることになったのである。こうしてスターリンは、どうにか最高指導者としての地位を固めることができたのである。
 前任者から後継者に指名されなくても、スターリンや鄧小平のように、もともと強力なカリスマや指導力を持っている人物なら、自らの力で最高指導者としての地位を確立できる場合もある。しかし、スターリンの後継者の地位を権力闘争によって勝ち取ったフルシチョフのような、カリスマにも指導力にも欠ける人物の場合は、最高指導者としての地位を確立するのは極めて困難である。しかもフルシチョフは、1956年2月に行ったスターリン批判によってスターリンのカリスマを否定してしまった。フルシチョフがスターリンのカリスマを否定することは、スターリンから継承したはずの自分自身のカリスマを否定することでもある。そして、カリスマも国家にとって必要不可欠な権力である以上、カリスマの否定は国家権力の否定である。フルシチョフのスターリン批判は、ソビエトの同盟諸国を動揺させることになり、ハンガリー動乱のような混乱を招く結果になってしまった。つまり、フルシチョフは、スターリンからのカリスマの継承に失敗した結果、最高指導者としての権力を確立することができなかったのである。
 スターリンからのカリスマの継承に失敗し、強力な最高指導者を失ったフルシチョフ政権以降のソビエトは、有力者たちの合議によって国家の意志決定をする集団指導制に移行していった。ところが、集団指導制による意志決定には大きな問題がある。集団指導制による意志決定では、決定にかかわる有力者たちの反感を買ったり意見が対立したりすると、合意を得るのが難しくなり、意志決定が困難になってしまう。そのため、有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な意志決定ができなくなってしまうのである。つまり集団指導制は、集団的無責任を生じる危険性が高いのである。その集団的無責任のため、ゴルバチョフが指摘したように、ブレジネフ政権時代のソビエトは腐敗と停滞の時代になってしまった。ブレジネフ政権以降のソビエトは、経済が悪化して危機的な状況であるにもかかわらず、集団的無責任のために何もできなかったのである。有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な意志決定は、最高指導者の強力な指導力と決断によってのみ可能である。そこでゴルバチョフは、大統領制の導入によって自らの指導力を強化してソビエトを改革しようとしたが、1991年にソビエトが崩壊したことによって失敗に終わってしまった。ソビエトは、集団指導制のために滅んだと言っても過言ではない。
 これまで述べたことからすると、最高指導者のカリスマの継承を安定したものにしようとすれば、君主制か大統領制のどちらか一方を採用するしかないと言えるのである。
 ただし、君主制と言うと、現代の世界では、何やら時代錯誤の遅れた国家体制のように思っている人が多い。しかし、数は減ったとは言え、世界には依然として君主制国家は存在している。
 人類史上最も古い、最高指導者のカリスマの安定した継承ができる体制が君主制である。この君主制の成立によって、人類は安定した強力なカリスマを持った最高指導者の下で、国家という大規模な人間集団を形成することが可能になったのである。そして、この君主制国家の下で文明が発展していったのである。特に農耕文明は、灌漑や治水といった大規模な公共工事をしなければならず、そのためにも強力なカリスマを持った最高指導者が必要だった。従って、君主制国家の成立は、農耕文明の成立と発展には必要不可欠だったと言えるのである。
 ただし、君主制には多くの欠点があることも事実である。君主制は、最高指導者の地位に就ける者が君主の一族に限られる場合が多いため、しばしば人材不足が起き、無能な人物が君主になってしまうことが多く、これが原因で政治が停滞したり混乱したりすることがある。また、最高指導者の地位が特定の一族によって独占される場合が多いため、国家権力が私物化されやすく、君主や君主の一族の都合や利益のために権力が乱用されることがある。更に、君主の地位は終身制である場合が多いため、長期政権となり、政治腐敗の蔓延や権力者の堕落といった事態を招きやすい。
 このような多くの欠点を抱えた体制であるにもかかわらず、古代から近代に至るまで、世界の大多数の国が君主制国家だった。その理由は、近代になって大統領制や議院内閣制が成立する以前は、君主制は国家の最高指導者のカリスマを継承できる、ほとんど唯一の体制だったからである。最高指導者のカリスマの力は、国家権力が成立するためには必要不可欠である。従って、最高指導者のカリスマの継承に失敗することは、国家権力の消滅を意味するのである。そして、国家権力の消滅は最悪の場合、政治を混乱させ、国家を滅亡の危機に追いやってしまうことさえある。従って、最高指導者のカリスマの継承には国家の存亡がかかっていると言っても過言ではないのである。つまり、最高指導者の人材不足が起きようと、国家権力が私物化されようと、政治が腐敗堕落しようと、カリスマの継承に失敗して国家権力が消滅してしまうよりはましだということである。
 やがて、十八世紀から十九世紀にかけて欧米諸国で大統領制や議院内閣制という新しい体制が成立した。大統領制や、実質的な大統領と言える議院内閣制の首相は、出自に関係なく幅広く人材を集めることが可能なため、人材不足が起きにくいと思われている。また、指導者を選挙で選んだり、議会制度を設けたりすることによって、権力の私物化や政治の腐敗堕落を防ぐことができると思われている。そのため、大統領制や議院内閣制は、非常に合理的な体制と見なされ、世界中に普及していったのである。ただし、言うまでも無く、選挙制度や議会制度を採用している国でも、指導者の人材不足、権力の私物化、政治の腐敗堕落といったことは起きている。従って、選挙制度や議会制度が君主制の欠点を克服する制度とは言えないのである。
 また、大統領制や議院内閣制には、法の支配が確立された国でなければ成立しないという難点がある。かつて君主国だった国の多くが、欧米諸国の大統領制などの真似をして君主制ではない体制を作った。ところが、法の支配が確立されていない国で君主制ではない体制を作ろうとすると、カリスマの継承に失敗するなどして様々な問題が起きるのである。中国では、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が出現して政治が混乱した。そして、多くのアジアやアフリカ諸国では、クーデターや内戦などによって政情不安が続いている例が多い。これらの国の多くは、法の支配が確立されていないため、法の手続きによる最高指導者のカリスマの継承ができない国である。そのため世界には、形式的には大統領制や議院内閣制のような君主制ではない体制を採用しているのに、実際は権力の世襲が行われ、実質的な君主国になってしまった国がいくつも存在するのである。
 その実質的な君主国の典型的な例が北朝鮮である。北朝鮮では、1974年2月に金日成の長男の金正日が金日成の後継者に決まった。そして、1994年7月に金日成が死去した後、金正日は北朝鮮の最高指導者になった。更に、2010年9月には金正日の三男の金正恩が金正日の後継者に決まった。そして、2011年12月17日に金正日が死去したため、金正恩が北朝鮮の最高指導者になった。
 なぜ北朝鮮では、権力の世襲が行われるのか。そもそも北朝鮮以外の共産主義国家では、権力の継承にともなうカリスマの継承に成功した例が無い。カリスマの継承をする体制は、事実上、大統領制と君主制の二種類しかないが、ソビエトや中国では大統領制も君主制も成立しないためカリスマの継承ができない。一方、北朝鮮は、アメリカや韓国との間で常に軍事的な緊張が続いている。しかも北朝鮮は、深刻な経済危機からなかなか脱することができず、国民の不満が充満している。つまり北朝鮮は、軍事的な緊張や経済的な危機が日常化しているのである。国家の危機に対処するためには、国民を一致団結させることが可能な強力なカリスマを持った最高指導者が常に存在していなければならない。従って、国家の危機が日常化している北朝鮮にとって、強力なカリスマを持った最高指導者の不在によって国家の危機に対処できなくなるという事態は、直ちに国家体制を破滅させかねない。従って、北朝鮮の国家体制を存続させるためには、何としてもカリスマの継承を成功させ、強力なカリスマを持った最高指導者が不在という事態を阻止しなければならないのである。しかし、ソビエトや中国と同様に法治国家ではない北朝鮮に大統領制は成立しない。そのため、北朝鮮がカリスマの継承を成功させるためには、実質的な君主制を導入するしか無いのである。これが、北朝鮮で権力が世襲されている理由である。
 また、タイ王国は、形式的にはイギリスと同様の立憲君主制ということになっているが、実態は専制君主制である。イギリスの君主は政治の実権の無い形式的な存在であり、首相が実質的な最高指導者である。ところが、タイの国王は名実共に最高指導者であり、首相は国王の臣下に過ぎないのである。そのため、首相の力では国民を指導することも団結させることもできず、政治の混乱が起きて収拾できなくなることがある。このような場合は、軍や国王が政治に介入して政治の安定を図るしかないこともある。これが、タイで何度も軍事クーデターが起きている理由である。しかし、軍事クーデターのような違法な行為が何度も起きる国が法治国家であるわけが無い。タイにイギリスのような立憲君主制が成立しないのは、タイに法の支配が確立されていないからである。
 大統領制や立憲君主制が成立しない国があるのは、法の支配が確立されていないという理由だけではない。日本のように法の支配が確立されているにもかかわらず、大統領制や立憲君主制が成立しない例もある。日本では天皇制の伝統が国家に定着した結果、天皇のみが法的に正統な国家の最高指導者の役職になってしまったため、大統領制や立憲君主制が成立しないのである。
 このように欧米諸国以外の国々では、大統領制が成立しない例が多いのである。しかし、君主制や大統領制以外に、安定した最高指導者のカリスマの継承ができる体制は今のところは成立していない。従って、大統領制が成立しない国々では、国家の機能を維持して政治を安定させるために、君主制を復活させたり、権力を世襲することによって実質的な君主国になったりする例が増えると私は考えているのである。


中国の崩壊

        中国の崩壊

 

 中国では辛亥革命以来、君主制は否定されている。そして中国は、法の手続きによる最高指導者のカリスマの継承ができないため、大統領制が成立しているとも言えないのである。つまり、現在の中国には、最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていないのである。
 1993年以降、中国の形式的な最高指導者の地位は、国家の最高指導者である国家主席、中国共産党の最高指導者である総書記、そして中国軍を統括する中国共産党中央軍事委員会主席の三つの役職で成り立っている。そのため、1993年以降の中国では、国家主席、中国共産党総書記、中国共産党中央軍事委員会主席という三つの役職と法的権限を継承することが権力の継承ということになっている。この三つの役職は、江沢民から胡錦濤へ、更に習近平へと継承された。
 しかし、最高指導者の役職と法的権限を継承しても、それだけでは権力が継承されたとは言えないのである。国家の非常事態において国民を団結させることが可能な強力なカリスマが無ければ、国家の最高指導者は務まらないのである。従って、役職や法的権限と共に、国民を団結させることが可能な強力なカリスマも継承しなければ、本当の意味での権力の継承とは言えないのである。毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持っていなければ、国家の非常事態に遭遇しても、中国国民を一つに団結させて非常事態に対処するのは困難である。従って、中国の指導者が党則や法の手続きに従って中国共産党総書記や国家主席に就任しても、それだけで中国共産党や国家の最高指導者になったとは言えないのである。
 更に、中国軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、それだけで中国軍を掌握したとは言えないのである。法治国家ではない中国では、法律上の指導者になっても、それだけでは実質的な指導者になったとは言えないが、このことは、軍に関しても同様である。かつて毛沢東や鄧小平は、その強力なカリスマと指導力によって軍人たちを「子分」と為すことによって軍を掌握していた。従って、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持っていなければ中国軍を掌握できないのである。中国は、軍を制する者が国家を制する国である。従って、軍を掌握できなければ中国の真の最高指導者になったとは言えないのである。かつて鄧小平は、実質的な中国の最高指導者ではあったが、法律上の最高指導者である首相や国家主席に就任したことは一度も無かった。その鄧小平が実質的な中国の最高指導者であった理由の一つが、軍の実権を握る実質的な最高指導者として中国に君臨していたことである。つまり、軍の実権を握ることは、中国の最高指導者になるための必要条件なのである。従って、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマや指導力を持たない指導者に、軍の実権を握ることができるのか大いに疑問がある。
 中国では、2018年3月に第十三期全国人民代表大会第一回会議が開かれ、3月11日に憲法改正案が可決された結果、二期十年と定められていた国家主席の再選限度が撤廃されることになった。国家主席の任期を二期十年と定めた憲法の規定は、最高権力者が強大な権力を握って暴走することを防ぐための制度であり、毛沢東が強大な権力を背景に文化大革命を起こして政治を混乱させ多くの人命を犠牲にしたことの反省から作られたものとされている。ジャーナリズムは、国家主席の再選限度が撤廃されたことによって習近平国家主席の任期が二期十年を超えて長期化する可能性が生じたため、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を持つ可能性があるような報道をしている。しかし、この報道については疑問がある。なぜなら、毛沢東が強大な権力を持つに至った理由は、毛沢東が長く政権にとどまっていたということだけではないからである。毛沢東の強大な権力の背景には、中華人民共和国を建国した功績によって強大なカリスマを確立したということがある。つまり、中華人民共和国を建国したことが、毛沢東の強力なカリスマの源となった「神話」なのである。これに対して習近平は、強力なカリスマの源となる「神話」と言えるような政治的な功績を挙げたわけではない。従って、今の所、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を握る可能性は低いのである。
 法・秩序に自ら従う慣習が確立されていない中国の民衆は、いつ何をきっかけに、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからない。そこで秦の始皇帝以来、中国では、最高指導者たる皇帝の強力なカリスマの力と武力で民衆を押さえつけ、力ずくで法・秩序に従わせることによって政治や社会の安定を維持して来たのである。しかし、このような統治の方法には、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持った実質的な皇帝と言えるような最高指導者の存在が必要不可欠である。ところが現在の中国には、実質的な皇帝と言えるような指導者が存在しないため、始皇帝流の統治は困難になってしまった。鄧小平亡き後の中国の指導者が共産党体制を守るためには、経済成長を維持することによって、中国国民の不満が爆発しないように手なずけるしかないのが現実である。従って、経済成長が行き詰まって経済が失速して大量の失業者が出るような事態になったら、共産党体制は破綻する可能性が高いのである。1989年の天安門事件の危機や、その後の経済の停滞は、実質的な皇帝と言える鄧小平の力によって、どうにか乗り切ることができたのである。現在の中国は、経済の順調な発展によって一時的に政治や社会が安定しているに過ぎないのである。もし今後、中国に実質的な皇帝と言えるような最高指導者が存在しない状況の下で政治や経済の危機が起き、国家や社会が混乱するような事態になったら、民衆を法・秩序に従わせることが困難になり、その結果、中国の共産党体制は、ソビエトと同様に崩壊する可能性が高いのである。


近代国家とは何なのか

 第三章 日本の民主主義は虚構だ!

 

 

           近代国家とは何なのか

 

 私は、日本は民主主義国家でも近代国家でもないと考えている。その理由は、憲法改正ができないからである。
 日本の憲法改正を巡る政治状況は、明らかに異常である。
 日本国憲法が施行されて以来、今日に至るまで、一度も憲法改正が行われたことが無かった。それは一体なぜなのか。
 また、日本には、護憲論者と呼ばれる人たちが存在する。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊するなどと言って憲法改正に反対している。しかし、憲法を一字一句変えただけで崩壊するような民主主義があるわけがない。もし、そのような民主主義があるとすれば、明らかに近代国家の民主主義とは異質なものである。
 まず、近代国家とは何なのか。
 一般的に、近代国家が成立する条件とされているのは、法の支配の確立、政教分離、国民の自由や基本的人権の保障、個人主義の尊重などといったものである。このように近代国家が成立する条件とされているものはいくつもあるが、最も重要なのが十七世紀から十八世紀頃のヨーロッパに出現した社会契約説や啓蒙主義と呼ばれる思想である。
 社会契約説とは、おおよそ次のような思想である。国家、社会、法律、制度といったものは、本来、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものであるから、既存の国家、社会、法律、制度が人間の自由や権利を侵すような、人間にとって不利益なものなら、これを人間の自由な意志に基づく社会契約をやり直すことによって変更することができる。
 そして啓蒙主義とは、人間の理性を絶対的に信用し、人間の理性に基づき、伝統や習慣や迷信と言ったものにとらわれず、合理的に国家や人間社会などを見直そうという思想である。
 近代国家が成立する以前のヨーロッパの社会では、合理的な社会や国家の改革は不可能だった。その最大の理由が宗教の存在である。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、次のような思想の上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、国家、社会、慣習、伝統といったものも神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、人間が、これらを神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは神を冒涜する行為である。そして一神教では、神の意志は預言者を通じて語られることになっている。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える役割を神から託された人間である。旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、あるいはイスラム教の創始者のムハンマドと言った人たちが預言者である。ただしイスラム教では、ムハンマドは最後の預言者ということになっているため、神がムハンマドを通じて語った言葉は神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということになる。その、神の言葉を記した聖典がコーランである。従って、イスラム教徒は、永久にコーランに記された教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような法律や制度を制定することは困難なのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国の多くは、近代的な改革が停滞しているのである。言い換えれば、イスラム教の神は、近代的な改革を拒否しているである。こういったことは、近代以前の中世ヨーロッパの社会も同様だった。
 中世ヨーロッパの社会には、ローマ・カトリック教会が君臨していた。中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会にとっての神も、イスラム教の神と同様に近代的な改革を拒否する神である。そして、ローマ・カトリック教会の長であるローマ法王は、地上における神の代理人を称し、ヨーロッパの社会や政治に対して絶大な影響力を及ぼしていた。そのため中世のヨーロッパ諸国は、近代的な改革など不可能だったのである。
 ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の影響力は低下し始める。ルターは、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。このルターの主張を支持する人たちは、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックを信仰する勢力との間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を引き起こす結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会の権威と影響力は低下していった。
 これらの宗教改革を発端として起きた一連の出来事の結果として、宗教がかかわるのは人間の内面に限るという考えが確立され、プロテスタントやローマ・カトリックに浸透していった。これを信仰の内面化と言う。この信仰の内面化をきっかけに、信仰の自由、内面の自由、思想の自由、そして個人主義といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かっていったのである。
 そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーなどの思想家が登場し、社会契約説や啓蒙主義が成立する。こうしてヨーロッパ人は、宗教や伝統的思考とは関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、法律、制度、習慣といったものを改革できると考えられるようになったのである。これが近代国家と呼ばれる国家の理念である。やがて社会契約説や啓蒙主義は、アメリカの独立革命やフランス革命などの市民革命を推進する理論となる。
 更に、社会契約説や啓蒙主義から主権在民という理念が生まれた。主権とは国家を統治する権限のことである。そして国家を統治する権限を持つ者を主権者と言う。主権在民とは、国家を統治する権限が国民にあるため、国家体制や政府の政策は、主権者である国民の自由な意志によって決定されなければならないという理念である。そして、主権在民は、民主主義国家の基本理念ということになっている。
 ただし、社会契約説や啓蒙主義の成立によって国家や法律などが国民の自由な意志によって改革できると考えられるようになったと言っても、これはあくまで理念の上のことであって、必ずしも現実とは言えない。ヨーロッパの貴族制度のように、社会に定着した結果、いかなる手段によっても変更できなくなった制度もある。従って、近代国家が成立しても、国家、社会、法律、制度、習慣といったものの全てが人間の思い通りになるわけではない。
 また、主権在民も、あくまで理念の上のものである。国家を統治する権限が国民にあると言っても、実際に国家を統治しているのは政治家や国家官僚である。そして、国家を統治する都合によっては、増税のような、主権者ということになっている国民の反発を買うようなことを決定せざるを得ないこともある。更に、イラク戦争を始めた時のイギリスのように、主権者ということになっている国民の猛反発を無視して戦争を始めた例もある。
 更に、アメリカの独立革命やフランス革命のような市民革命によって民主主義体制が成立しても、それだけで民主主義国家が完成するわけではない。既に述べたように、アメリカやイギリスのように非常独裁制が成立しなければ、民主主義国家が完成したとは言えないのである。
 近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかといった判断は、宗教に委ねられていたが、それを政治や国家のあり方に関しては人間の自由な意志や理性に委ねるという理念が成立したのが近代の始まりである。
 もし、宗教が政治に介入するようになったら、中世ヨーロッパのように宗教が政治に大きな影響を与えるようになってしまう。そして、キリスト教やイスラム教のような一神教は、神の教えに反するという理由で、あらゆる変革を拒否したがる傾向がある。更に、一神教の考えでは、この世の全ては神の意志によって成り立っていることになっているが、この考えは、民主主義国家の基本理念である主権在民と矛盾する。そのため、中世ヨーロッパのように、一神教が政治に介入するようになったら、近代的な改革も民主化も困難になってしまう可能性が高いのである。従って、近代的な改革や民主化のためには、一神教の影響は政治から排除されなければならないのである。そこで、近代国家や民主主義国家を守るためには、政治と宗教が互いの領域に介入しないという原則が必要になる。これが政教分離である。
 政教分離の原則が存在せず、一神教が政治に介入する国家に何が起きるのか。その一例として、イランを見てみよう。
 イランでは1979年に、イスラム教シーア派のイスラム法学者であるホメイニ師の指導によってイスラム革命が起きた。イランは、この革命によって王政を廃止し、イスラム教シーア派のイスラム法学者が政治を主導する宗教国家となった。
 1997年5月、イランの大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するハタミ師が出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月に行われた国会の総選挙で、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化することに期待する意志を表明した。しかし、イランの民主化は容易なことではない。なぜなら、イランはイスラム法学者が政治を主導する宗教国家であり、欧米諸国とは違い、政治と宗教が分離されていないからである。
 民主主義国家は、社会契約説に由来する主権在民という理念に基づいて成り立っていることになっている。民主主義国家の理念では、国民に主権があり、政治家は主権者である国民から選挙で選ばれることによって、主権を代行する権限を国民から与えられたことになっている。つまり、理念の上では、民主主義国家の指導者は、主権者である国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっているのである。
 ところがイランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家体制が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この理論からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や政治のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて国家や国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者である神の意志を政治に反映させるためには、聖典であるコーランの解釈に基づいて作られたイスラム法に従って国家を統治しなければならないことになる。そして、イスラム法に従って国家を統治するということは、イスラム法の専門家であるイスラム法学者が国家を統治するということなのである。これがイスラム教の宗教国家であるイランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法学者なのである。つまり、イランのイスラム法学者たちは、イスラム法に基づいた政治をすることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。そして、ホメイニ師の死後、イランの最高指導者となったのが、イスラム法学者のハメネイ師である。このように、イランには、民主主義国家の基本理念である主権在民が存在しないのである。
 ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、イスラム法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハメネイ師を始めとしたイスラム法学者たちによって民主化や改革・開放政策が拒否されたら断念するしかないのである。国民から選挙で選ばれた政治家が国家・国民の指導者というのは、主権在民という理念が確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・開放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満を反映したものである。ハタミ大統領も改革派の国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではないのである。主権在民という理念の無い宗教国家では、国民に支持されて選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とはなり得ないのである。
 イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会はイランの国会を監督する機関であり、国会が可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限を持っている。国会が可決した法律が護憲評議会によって差し戻されたら法律は成立しない。そして、護憲評議会が大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派のイスラム法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派のイスラム法学者たちが意のままにイランの政治を動かす、保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙で改革派が国民の支持を得て圧勝した結果、イランの国会は改革派が主導することになった。ところが、護憲評議会の抵抗によって改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままだった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民を失望させることになり、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という理念が無いということであり、国会は単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに、近代的な改革や民主主義国家の成立などあり得ないのである。


現人神が近代国家を否定する

     現人神が近代国家を否定する

 

 明治体制下の日本の天皇は、現人神と言われていたが、そもそも、現人神とは何なのか。
 一般的に、神と言われているものには二つの種類がある。
 一つは、多神教の神である。日本の神話に登場する八百万の神々、古代ギリシャの神話に登場する神々、そしてインドのヒンドゥー教の神々などである。
 そして、もう一つが一神教の神である。ユダヤ教徒がヤハウェと呼び、キリスト教徒がイエス・キリストと呼び、イスラム教徒がアッラーと呼んでいる神である。一神教の考えでは、この世に存在する全てのものは、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。そのため、人間も、人間の社会も、更には社会の規範も、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。
 社会の規範とは、たとえば、他人の物を盗んではいけない、人を殺してはいけないと言ったような、人間が社会生活をする上で最低限度守らなければならない原則であり、善悪の基準である。もし社会の規範が失われるようなことになったら、多くの人間は、何が正しく何が間違いなのか判断できない無規範状態に陥り、社会が混乱してしまう。そして一神教を信じる人間にとっての社会の規範は、宗教の聖典という形で存在している。それがキリスト教の聖書やイスラム教のコーランといった書物である。一神教を信じる人間は、創造主たる神によって記された聖典に従って生きなければならないことになっている。
 一神教の理論では、社会の規範を作る権限は、創造主たる神のみにあり、人間には作る権限が無い。モーゼの十戒で知られるモーゼにしろ、イスラム教の創始者のムハンマドにしろ、神が作った社会の規範を民衆に伝えるだけの預言者であって、彼ら自身が社会の規範を作ったわけではない。そして、社会の規範を記した聖典は、神のみが書き記すことができるものである。従って、聖典に書かれている内容が、人間にとっていかに不都合なものであっても、いかに不合理なものであっても、決して人間が神の許可もなく勝手に書き換えることはできないことになっている。つまり、聖典の内容の変更は事実上不可能なのである。人間の意志による聖典の内容の変更は、考えること自体が神を冒涜する行為である。要するに、一神教の神とは、この世に存在する全てのものを作った創造主であると同時に、社会の規範である聖典を作る権限を持った神のことである。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教も、このような理論の上に成り立っているのである。
 社会の規範は、人間が社会生活をする上で必要不可欠なものであるため、あらゆる国や民族に存在する。ただし、あらゆる国や民族の社会の規範が、宗教の聖典という形で存在しているわけではない。たとえば、日本人の日常生活における社会の規範は、伝統や慣習という形で存在しているため、宗教の聖典のような目に見える存在ではない。そのため、一神教を信じる人間から見ると、日本は、あたかも社会の規範が存在しない国のように見える場合もあり、誤解や偏見を招くこともある。日本にも、神道や仏教と言った宗教が存在するが、日本の神道や仏教には社会の規範という役割は無い。日本人が神道や仏教に求めている役割は、人間が不幸や苦境に陥った時の癒やしや救い、あるいは祭りや葬式のような行事である。日本には古くから、神道と仏教を一緒にして信仰する神仏習合という慣習が存在するが、このような慣習が存在する背景には、日本人が神道や仏教に対して社会の規範という役割を求めていないことがある。なぜなら、もし日本の神道や仏教が社会の規範であったら、一人の人間が同時に二つの異なった社会の規範に従わなければならなくなって混乱してしまうからである。日本の神道や仏教に社会の規範という役割が無いがゆえに、同じ人間が、神社で初詣をしたり仏教形式の葬式をしたりするようなことが可能なのである。
 日本は、古代より八百万の神々が存在する多神教の国である。更に、神仏習合という慣習が示すように、日本には一つの神や宗教だけを絶対的に信仰するような伝統は無い。従って、日本は一神教の国ではない。しかし、明治体制下の天皇には一神教の神との共通点もあったのである。それはキリストやアッラーと同様に、聖典を作る権限を持っていたということである。明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典が、軍人勅諭(正式には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)と教育勅語(正式には「教育ニ関スル勅語」)である。
 1878年(明治11年)、軍と政府の実力者である山県有朋は、軍の統制を計る目的で、自らの名で軍人訓誡という文書を軍人の守るべき規範として発布したが、軍人たちは、なかなかこれを受け入れようとはしなかった。そこで1882年(明治15年)に、今度は軍人勅諭が、軍人の守るべき規範を記した聖典として明治天皇の名で発布された。軍人勅諭は、現人神たる天皇によって作られた聖典であるという点が、山県有朋という人間によって作られた文書に過ぎない軍人訓誡とは根本的に違うのである。軍人勅諭は、前文で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と述べ、天皇が軍の最高司令官であること示し、本文では軍人の守るべき徳目として、忠節、礼儀、武勇、信義、質素を説いている。軍人勅諭の背景には現人神たる天皇の強大な権威があったため、日本の軍人たちは軍人の守るべき聖典として受け入れざるを得なかった。そのため帝国陸海軍の将兵は、軍人勅諭を覚えることが求められ、特に陸軍では全ての将兵が軍人勅諭の全文を暗誦できることが求められていた。こうして軍人勅諭は、日本の軍人の神聖な聖典となったのである。
 教育勅語は、国民にとっての一般的な道徳観を天皇の名において記した日本の教育における規範である。教育勅語は、1890年(明治23年)に明治天皇の名で発布された後、文部省令によって学校で式典が行われる時に朗読されることになった。その後、教育勅語は神聖視されるようになり、ほとんどの学校で奉安殿や奉安庫と呼ばれる施設で神聖な聖典として保管されていた。
 ただし、教育勅語が明治体制下の日本の学校教育にとって重要だったのは、教育勅語に記されている内容よりも、「勅語」という語句が示すように、教育勅語が現人神たる天皇の言葉であるという点にある。明治体制下の日本の教育現場における教師は、教育勅語に記された現人神たる天皇の言葉を、天皇に代わって生徒に教えるという立場にあった。つまり、明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人なのである。従って、明治体制下の日本の生徒にとって、教師の言葉は現人神たる天皇の言葉であり、教師に逆らうのは現人神たる天皇に逆らうのと同じことだった。明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人という特別な立場にあったからこそ、生徒から恐れ敬われ、教育者が務まったのである。こういうことを教師に権威があると言うのである。このように、明治体制下の教師の権威は、現人神たる天皇の権威の下に成り立っていたのである。ところが、この現人神たる天皇の権威と教育勅語によって教師に権威を与える仕組みは、太平洋戦争の敗戦と共に失われてしまった。そして戦後体制下の日本の学校教育は、教師に権威を与える仕組みが失われたままの状態で現在に至っているのである。つまり、戦後体制の成立によって、日本の教師は、明治体制下の教師のような権威を失った結果、普通のおじさんやおばさんになってしまったのである。これが戦後体制下の日本の教師が生徒から恐れ敬われることがなくなってしまった理由である。こういうことを教師の権威が失われたと言うのである。戦後体制下の日本の教育現場では学級崩壊などの様々な問題が起きているが、教師の権威が失われたことも問題の原因の一つである。
 このように、現人神とは、政治的な権限に加えて、聖典を作るという宗教的な権限も兼ね備えた指導者のことである。
 ただし、日本人の日常生活における社会の規範は、軍人勅諭や教育勅語が成立する以前から伝統や慣習といった形で存在していたため、軍人勅諭と教育勅語は、軍隊や教育現場のような限られた場所でのみ通用する聖典となった。
 明治体制下の日本では、軍人勅諭や教育勅語の内容を公然と批判したり、内容の変更を主張したりすることはできなかった。それは、現人神たる天皇の名において発布された軍人勅諭や教育勅語の内容を批判するのは、現人神たる天皇を冒涜する行為だったからである。このように、軍人勅諭と教育勅語は明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典として神聖視されていたのである。つまり、明治体制下の日本には、天皇を神とする宗教によって軍隊や教育における規範が作られた天皇教国家という側面もあったのである。
 明治体制下の天皇は、国家の最高指導者としての政治的な権限に加えて、宗教的な権限も兼ね備えていたのである。しかし、このような、政治的な権限と宗教的な権限が一体化した国家体制を持つ国は、一種の宗教国家であり、近代国家ではない。
 日本は明治維新以降、欧米から近代的な法・制度や科学・技術を学び、導入して来た。その結果として富国強兵政策に成功し、日清戦争ではアジア最大の清帝国を打ち破り、日露戦争では、帝国主義の大国であるロシア帝国を打ち破った。また、零戦や戦艦大和といった兵器は、当時としては世界の一流品だった。こうして見ると日本は、あたかも近代化に成功したように見える。しかし、日本は決して近代国家になったわけではない。日本が近代化に成功したと言っても、それはあくまで法・制度や科学・技術といったものに限られ、日本人の思考や国家のあり方までが近代化されたわけではない。
 では、一体なぜ、近代国家ではない日本が近代的な改革に成功したのか。明治維新以降、日本では様々な近代的な改革が行われたが、それは欧米諸国のような社会契約説や啓蒙主義に基づく近代的な改革ではなかった。明治政府の改革は、現人神たる天皇の命令による近代的な改革であった。イスラム国家や中世のヨーロッパ諸国に近代的な改革が困難なのは、神がそれを許可しないからであるのに対して、明治維新以降の日本で近代的な改革が可能だったのは、現人神たる天皇が近代的な改革を許可したからである。天皇という神が許可する限り、どんな大胆な改革も神を冒涜することにはならない。それどころか日本人にとっては、現人神たる天皇が推進する近代的な改革に反対することこそ、神を冒涜する行為なのである。現人神たる天皇の力によって日本人の意識が変化したことが、明治維新という大改革を推進する原動力となったのである。


「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

 

 かつて、明治体制下の日本には、「大正デモクラシー」と呼ばれた時代があった。
 1918年(大正7年)に長州藩閥出身の寺内正毅総理大臣の内閣が、米騒動の責任をとって辞任すると、後任の内閣総理大臣に就任したのが議会政治家であり政友会総裁である原敬だった。これをきっかけに政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明や若槻礼次郎といった議会政治家による政党内閣が成立し、議会政治が行われた。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。また、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年(大正8年)には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年(大正9年)には日本初のメーデーが行われた。更に、吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生などに大きな影響を与えた。
 この「大正デモクラシー」の時代の日本の政治や社会の状況を見ると、あたかも当時の日本が欧米的な民主主義国家に近づいていたようにも見える。しかし、議会政治は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに議会政治は終わってしまった。
 議会政党が政治の主導権を握ったという意味では、この時期の政治は議会政治と言えるかも知れないが、「デモクラシー」や民主主義などと呼べるような代物ではなかったのである。それを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。
 1927年(昭和2年)4月、若槻礼次郎総理大臣の退陣の後、衆議院第二党である政友会の田中義一総裁が内閣総理大臣に就任した。そして1928年(昭和3年)2月に衆議院の総選挙が行われた結果、田中義一総理大臣の与党の政友会は、衆議院第一党となった。
 1928年(昭和3年)6月、中国北方の満州を拠点とする軍閥の指導者である張作霖が、乗っていた列車ごと爆破されて死亡するという事件が起きた。やがて河本大作関東軍高級参謀らが、この事件の首謀者とされた。しかし、陸軍と与党の政友会の幹部が、事件の真相究明にも、事件の首謀者とされた河本大作らの処分にも反対したため、田中総理大臣は、河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して、昭和天皇は田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、田中総理大臣は辞任する羽目になってしまったのである。
 もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、明治体制下の日本は、イギリス型の立憲君主制国家だったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家の理念では、主権は国民にあり、議会は主権者である国民の代表である。田中義一が衆議院第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者である国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになった結果、辞任せざるを得なくなったのである。もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」が存在するイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いはずである。田中総理大臣が昭和天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、明治体制下の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持だったことを意味するのである。従って、原敬や田中義一のような議会政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されることによって国家・国民の指導者としての立場を正当化していたのである。これは、明治体制下の政党内閣は、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人だったことを意味するのである。つまり、国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった議会政党の代表者といえども、内閣総理大臣や閣僚に就任した途端に、天皇の代理人になってしまうのである。これが「大正デモクラシー」なるものの実体だった。明治体制下の日本の議会政治は、「デモクラシー」の化けの皮をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
 明治体制下の「デモクラシー」の化けの皮が剥がれたのが、統帥権干犯問題である。
 1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限が無かったため、各国は争って補助艦の建造をするようになった。そこで補助艦の建造を制限するため、1930年(昭和5年)1月21日からロンドン軍縮会議が開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
 ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして、議会内の野党勢力では、1930年(昭和5年)4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに統帥権干犯論争が起きる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃されて重傷を負ってしまう。
 「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、明治体制下の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚や軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は、なるべく制限し、国民の代表である議会政党による政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、海軍や政友会の鳩山一郎などの議会政治家は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を理由にして、政党内閣の権限を制限しようとしたのである。これが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが明治体制下の日本で起きた根本的な原因は、日本の社会には主権在民という理念が定着していなかったことである。主権在民という理念が定着している国では、政党内閣は国民の代表である。従って、政党内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の反発を招くことになる。しかし、明治体制下の日本のように主権在民という理念が定着していない国では、いくら政党内閣が軍部などにないがしろにされても、国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という理念が無い国では、選挙で国民から選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国家・国民の代表とは言えないからである。明治体制下の日本人や議会政治家に主権在民という理念があったなら、国民の代表であるはずの政党内閣の権限が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出て来るはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり、統帥権干犯問題が意味するのは、明治体制下の日本人の多数が、主権在民という理念を支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。



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