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中国の権力闘争

       中国の権力闘争

 

 法治国家の最高指導者は、法に従って最高指導者の役職に就任し、同時に前任者から全ての権力を継承する。そして最後は法に従って最高指導者の役職を解任され、同時に全ての権力が後継者に継承される。いかに強大な力を持った権力者といえども、法の手続きに従い解任されたら、何の権力も持たない、ただの人になってしまう。これが法治国家の権力の継承である。法治国家では、このようなことは当たり前である。ところが法の支配が確立されていない国では、法治国家のような権力の継承は不可能である。法の支配が確立されていない国では、たとえ法の手続きに従って最高指導者の役職に就任したとしても、その者に政治の実権があるとは限らないのである。
 たとえば鄧小平が健在だった時の中国のことを考えて見ればよい。1993年以降、中国における法律上の最高指導者の役職は国家主席であり、2003年まで江沢民がその役職にあった。ところが鄧小平が健在だった時は、事実上の最高指導者は鄧小平であり、江沢民国家主席も李鵬首相も、実態は鄧小平の家来の如き存在だった。重要な決定はすべて鄧小平が行い、江沢民国家主席も李鵬首相も鄧小平の決定に従うだけだった。鄧小平は十数年間、事実上の中国の最高指導者でありながら、法律上の最高指導者の役職に就任したことは一度も無かったのである。
 また、清朝末期に実質的な最高指導者として中国に君臨した西太后も同じである。実の息子の同治帝や甥の光緒帝を形だけの皇帝に立て、政治の実権は西太后自身が握っていたのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、しばしばこういうことが起きる。その理由は、法の支配が確立されていない国では、最高指導者と、その配下の官僚や軍人との関係が、法治国家とは全く異なるからである。
 法治国家の場合、最高指導者と官僚や軍人との関係は、法によって定められた上司と部下という関係で成り立っている。一部の側近を除けば、ほとんどの官僚や軍人は、大統領や首相の法律上の部下である。そして大統領や首相に就任した人物が、官僚や軍人たちにとって、いかに気に入らない人物であろうと、いかに無能な人物であろうと、正統な法の手続きに従って最高指導者に就任し、正統な法の手続きに従って行政上の命令が下される限りは絶対服従しなければならない。つまり法治国家の官僚や軍人は、大統領や首相といった法律上の制度に仕えているのであって、最高指導者個人に仕えているのではない。たとえば、アメリカの官僚や軍人は、大統領の法律上の部下であっても、ドナルド・トランプの個人的な家来ではない。これに対して、法の支配が確立されていない国の最高指導者と官僚や軍人との関係は、主人と家来、または親分と子分といった個人的な主従関係で成り立っているのである。鄧小平が健在だった時の中国の官僚や軍人は、鄧小平個人の家来か子分であっても、国家主席や首相の部下ではなかった。それどころか江沢民国家主席や李鵬首相自身が鄧小平の実質的な家来になってしまっていたのである。
 主人と家来、或いは親分と子分といった関係は、個人的な主従関係である。そして、その関係は、自分の好みや都合で決めることである。家来や子分にとって、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かにかかわらず、自分自身がその人物の家来や子分であり続けようとする限り、主従関係は続くのである。つまり、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かは、主従関係には全く影響が無いのである。従って、鄧小平が法的に正統な最高指導者でなくても、鄧小平を自分の親分、或いは国家の最高指導者としてふさわしい人物だと思っている官僚や軍人や国民にとっては、法的な正統性とは関係無く鄧小平が最高指導者なのである。そして、法の支配が確立されていない国において最高指導者としてふさわしい人物とは、毛沢東や鄧小平のように強力なカリスマと指導力を持った人物である。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、強力なカリスマと指導力を持った人物ならば、法の手続きや正統性とは関係無く、実質的な最高指導者になることができるのである。逆に、たとえ法の手続きに従って法的に正統な国家の最高指導者に就任しても、江沢民のようなカリスマにも指導力にも欠ける人物では、実質的な最高指導者にはなれない場合もあるのである。つまり、法治国家では、大統領や首相といった法的な制度が国家・国民を指導するのに対して、中国のような法の支配が確立されていない国では、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマと指導力を持った個人が国家・国民を指導するのである。従って、法治国家では、大統領や首相のような法的に正統な最高指導者の役職に就任しなければ最高指導者になれないのに対して、法の支配が確立されていない国では、最高指導者にふさわしい実力さえあれば、法的に正統な最高指導者の役職に就任しなくても実質的な最高指導者になることが可能なのである。これが、法的に正統な最高指導者の役職に就任していない西太后や鄧小平が実質的な最高指導者になることができた理由の一つである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、官僚や軍人が、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマを持った個人に仕えるという考えはあっても、法治国家のように大統領や首相といった法律上の制度に仕えるという考えは無いのである。これが意味することは、中国のような法の支配が確立されていない国では、皇帝、国家主席、首相と言った役職は、法律上の制度ではなく、単なる肩書きに過ぎないということである。アメリカなどの法治国家で採用されている大統領制は、大統領や首相といったカリスマを持った役職が前任者から後継者に継承される制度である。しかし、役職がカリスマを持つのは、法治国家の大統領や首相のように、役職が法律上の制度である場合のことである。つまり、法の支配が確立されていない中国のように、最高指導者の役職が単なる肩書きに過ぎない国の場合は、毛沢東や鄧小平といった個人がカリスマを持つことはあっても、国家主席や首相といった役職がカリスマを持つことは無いのである。そのため、法の支配が確立されていない国では、法治国家のように国家主席や首相といった役職と一緒に、カリスマを後継者に継承させることができないのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、法治国家のような大統領制は成立しないのである。
 また、中国のような法の支配が確立されていない国で実質的な最高指導者になるために必要不可欠なことが、軍や警察のような、力を行使する組織を支配することである。法の支配が確立されていない国では、武断政治ができなければ国家を統治することができない。武断政治とは、武力を背景にして力と恐怖によって政治家、官僚、そして国民を法・秩序に従わせることである。従って、武断政治をするためには、力の根源と言うべき軍を支配することが絶対に必要なのである。そして、法の支配が確立されていない国において軍を支配する方法とは、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持つ指導者が、その力を使って軍人たちを「子分」あるいは「家来」にすることによって軍を掌握することなのである。法の支配が確立されていない国では、軍を支配する者が実質的な国家の最高指導者なのである。このように、軍を実質的に支配していたことが、鄧小平が中国の実質的な最高指導者であったもう一つの理由なのである。中国のような法の支配が確立されていない国は、軍を制する者が国家を制する国なのである。
 鄧小平時代の中国と同じことが、ロシアでも起きている。プーチン大統領は、ロシア憲法に定められた三選禁止条項のために2008年の大統領選挙に出られないため、身代わりとして「家来」のメドヴェージェフを大統領候補者として擁立することにした。そして2008年3月2日に大統領選挙が行われ、メドヴェージェフは大統領に当選した。そしてプーチンは、メドヴェージェフ大統領の下で首相に就任した。ところが、この時のプーチンは、首相と言っても実質的にはロシアの最高指導者であり、法的に正統な最高指導者であるはずのメドヴェージェフ大統領は、鄧小平にとっての江沢民と同じく、プーチンの傀儡に過ぎなかったのである。つまり、メドヴェージェフ大統領は、法的にはプーチン首相の上司であっても、実態は、プーチンという「主人」に仕える「家来」だったのである。その後、2012年の大統領選挙では、再びプーチンが大統領に当選した。ロシアで中国と同様に、実質的な最高指導者と法的に正統な最高指導者が別人と言う事態が起きたことは、ロシアも中国と同じく、法の支配が確立されていない国であり、大統領制が成立してはおらず、大統領の役職は単なる肩書きに過ぎないことを示しているのである。つまり、プーチンが大統領だと言っても、それは、プーチンという権力者が大統領と言う肩書きを身にまとっているに過ぎないのである。ロシアは、軍と秘密警察を制する者が国家を制する国と言える。従って、現在のロシアでは、軍と秘密警察を制する力を持つプーチン以外の者には最高指導者は務まらないのである。
 更に、武家政治の時代の日本も、法の支配が確立されていない国の権力がいかなるものかを示すよい例である。たとえば徳川家康は、征夷大将軍の役職を就任から二年二ヶ月で息子の秀忠に譲ってしまう。ところが征夷大将軍を辞職したはずの家康は、大御所様と呼ばれ、隠居城である駿府城から二代将軍秀忠の頭越しに様々な指令を出し、事実上の最高権力者として天下に君臨するのである。そして大坂冬の陣や大坂夏の陣も、家康は自ら陣頭指揮をしているのである。つまり、この時期の二代将軍秀忠は、家康の傀儡に過ぎなかったのである。家康を主君と仰ぐ徳川家の家臣たちにとって、征夷大将軍であるか否かにかかわらず家康だけが自分たちの主君だった。そのため家臣のほとんどが、家康が死ぬまで家康個人を自分たちの主君と仰ぎ続けたのである。二代将軍秀忠が名実共に征夷大将軍として天下に号令できるようになったのは家康の死後のことである。その二代将軍秀忠も家康と同様、存命中に息子の家光に征夷大将軍の役職を譲り、大御所様と呼ばれ、事実上の最高権力者として君臨するのである。後に名将軍と称えられた三代将軍の家光も、秀忠の存命中は、その傀儡の地位に甘んじていたのである。つまり、日本の武家政治における征夷大将軍の役職も、中国の皇帝や国家主席、そしてロシアの大統領と同じく、単なる肩書きに過ぎなかったのである。また、幕末には徳川慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷に返上し、大政奉還が実現したが、大政奉還の後も依然として徳川慶喜は事実上の武家の棟梁であり、江戸幕府は実質的に存続していたのである。つまり徳川慶喜が肩書きに過ぎない征夷大将軍の役職を失ったところで、江戸幕府が消滅したわけではなかったのである。そのため、薩摩や長州と言った倒幕勢力が日本に本格的な変革を起こすためには、武力によって徳川慶喜を打倒するしか無かったのである。
 中国、ロシア、江戸幕府の例で分かるように、法の支配が確立されていない国では、最高権力者が政治力を保ったままで生きている間は、事実上権力の継承ができないことがある。このことが、時と場合によっては、国家や国民に悲劇をもたらすことがある。なぜなら、権力者が政治力を保ったままで生きている間に権力の継承をしようとすれば、権力者を失脚させて政治力を失わせるか、さもなければ権力者を殺してしまうしかない場合があるからである。また、逆に権力者も、自分に取って代わりそうな人物が現れたら、その者に、いつ権力や命を奪われるかわからないのである。そのため、法の支配が確立されていない国に権力闘争が起きると、身の毛もよだつような血みどろの闘争に発展することがあるのである。
 その一例が、旧ソビエトでスターリンが行った粛清と呼ばれる政治弾圧である。ソビエトの独裁者スターリンは、粛清によって数多くの人間を殺害したり強制収容所や刑務所に送り込んだりした。粛清の犠牲者は、幹部を含めた共産党員、軍人、そして文化人や一般市民にも及んだ。粛清によって殺された人間の数は、数百万人とも数千万人とも言われている。スターリンがこのような大量殺戮を行った理由は、自らの権力を守るために自分に敵対すると思われる勢力を抹殺することである。これに加えて、スターリン自身の猜疑心が強く残忍な性格や、ロシア独特のツァーリズムと呼ばれる武断政治の伝統も粛清の背景にあった。更に、ソビエトが法の支配が確立されていない国だったこともスターリンが粛清を行った理由である。
 ソビエトのような法の支配が確立されていない国は、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような主従関係で成り立っている。レーニンが死にスターリンが最高指導者になっても、かつてレーニンの「家来」だった者が政権内に数多く残っていた。法治国家ならば前任者の部下だった者も、法の手続きに従い後任の最高指導者が就任すれば、その部下にならざるを得ない。しかし、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような個人的な主従関係で成り立っているソビエトでは、主だった共産党幹部や軍人や官僚を最高指導者の「家来」に替えてしまわなければ最高指導者の地位を確立できないのである。そのためにスターリンは、前任者レーニンの「家来」を一掃し、自分の息のかかった「家来」と入れ替えなければならなかった。その過程でスターリンは多くの人間を抹殺してしまったのである。
 また、法の支配が確立されていない国では、法の手続きによる権力の継承の仕組みが確立されていないため、国家の最高指導者は、自分に取って代わりかねないと思われる人物が現れたら、その者に、いつ最高指導者の地位や命を奪われるかわからない。だから最高指導者にしてみれば、最高指導者の地位を奪う可能性のありそうな人物は、前もって始末しておかなければ安心できないのである。そこでスターリンは、自分に取って代わって最高指導者になりそうな人物や、その人物を支持する人たちを抹殺してしまったのである。
 更に、共産党政権下の中国の例を見てみよう。
 毛沢東が推進した「大躍進」と呼ばれる経済政策の失敗によって中国経済は混乱に陥った。そのため、1959年4月に開かれた全国人民代表大会で毛沢東は国家主席を辞任し、新たに劉少奇が国家主席に就任した。劉少奇国家主席は「大躍進」によって混乱した中国経済を立て直すため、鄧小平と共に市場経済を導入した経済政策を始めた。
 当時の国家主席は、中国における法律上の最高指導者の役職である。アメリカならば大統領に匹敵する地位である。法治国家ならば、法律上の最高指導者の職を辞してしまったら、どんなに偉大な指導者も、ただの人になってしまう。ところが法の支配が確立されていない中国では、そうはいかない。法の支配が確立されていない国では法的な地位に一切関係なく、多くの人間から最高指導者だと思われている人物が最高指導者である。毛沢東が国家主席の職を失っても、毛沢東を自分たちの最高指導者だと思っている共産党員、軍人、官僚、そして国民が多数存在していた。その人たちにとっての中国の最高指導者は依然として毛沢東であって、法律上の最高指導者である劉少奇国家主席ではないのである。また、毛沢東は、国家主席を辞任しても、もう一つの国家権力とも言うべき共産党主席の地位にはとどまっていた。
 一方、新しい国家主席の劉少奇が江沢民のような非力な人物だったら、毛沢東の傀儡と化している所である。しかし劉少奇は、政治家として、それなりに有能だったため、劉少奇を支持する勢力も少なからず存在していた。そのため、劉少奇もまた最高指導者となった。この結果、中国は、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が並び立つことになってしまったのである。
 ところが、毛沢東は、もう一度たった一人の最高指導者として中国に君臨することを望んでいたため、何としても劉少奇と、その支持勢力を葬り去りたかった。そこで毛沢東は、学生や市民を煽動して文化大革命と呼ばれる大衆運動を起こし、これを利用して劉少奇を始めとした政敵を攻撃して葬り去ろうとした。やがて毛沢東によって煽動された紅衛兵と称する学生たちは、劉少奇や鄧小平を大衆運動によって攻撃し始めた。また、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。そこで毛沢東は、軍の実力者の林彪を味方にして軍に対する影響力を強めようとした。やがて林彪は、1969年4月の第九回中国共産党大会で毛沢東の後継者に指名された。一方、劉少奇は毛沢東との権力闘争に敗れ、あらゆる役職から解任され、1969年11月に幽閉されていた建物の中で病死した。
 しかし、これで血生臭い抗争が終わったわけではない。今度は、毛沢東と、その後継者に指名された林彪との間で確執が始まったのである。
 1969年3月に中国とソビエトの国境の珍宝島で中国軍とソビエト軍の武力衝突が起きたことをきっかけに、毛沢東はソビエトの脅威を実感するようになり、ソビエトに対抗するため、かつて敵視していたアメリカに接近しようとした。これに対して林彪は、中国にとって最大の敵はあくまでアメリカであるという立場だった。この対外政策での立場の違いが、毛沢東と林彪の確執の始まりと言われている。
 1970年8月から9月にかけて開かれた第九期中央委員会第二回総会で、林彪と、その一派は、毛沢東を天才と持ち上げ、国家主席に就任するように求めた。これに対して毛沢東は、自分が国家主席に就任することを辞退すれば、林彪が国家主席に就任するつもりではないかと疑った。
 そもそも林彪にしてみれば、毛沢東の後継者に指名されたとは言え、毛沢東が健在である限り、自分が必ず権力者になれるという保証はどこにも無いのである。つまり、林彪が確実に権力を手にしようとするなら、毛沢東を打倒するしか無いのである。従って、毛沢東にしてみれば、林彪は自分の権力や命を脅かす危険な存在なのである。林彪を危険視する毛沢東は、林彪と、その側近の粛清に乗り出した。
 やがて、毛沢東が林彪を「極右」と批判したことをきっかけに、林彪と、その側近たちは、自分たちの身に危険が迫っていることを感じるようになったため、毛沢東を倒して権力を奪うクーデターを計画した。しかし、クーデター計画が事前に毛沢東に漏れたため、計画は失敗してしまった。林彪は飛行機でソビエトに亡命しようとするが、1971年9月13日、飛行機がモンゴルで墜落して死亡した。
 この事件の反省から、毛沢東が最終的に自分の後継者に指名したのが華国鋒である。華国鋒は毛沢東の言いなりになるしかない無能な人物である。毛沢東は、華国鋒のような無能な人物ならば自分に危害を加えることは無いと判断したのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者の数だけ最高指導者が出現し、国家が分列してしまう可能性がある。だから一旦権力を握った者は、自分以外にも最高指導者としてふさわしいと思われている者が存在する場合は、その者を抹殺してしまわなければ権力を安定させることができないのである。こうした中国の指導者たちの権力闘争は、まるで三国志の世界の出来事である。つまり、中国の権力のあり方は、三国志の時代と大して変わっていないのである。それは、中国に法の支配が確立されていないからである。法の支配が確立された国は、法律や制度が、一人の人間しか最高指導者になれないように作られ、それに従って最高指導者が決定されているため、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者が何人いようと、国家が分列するようなことは起きないのである。ただし、中国にも権力の継承の仕組みを定めた法律は存在するが、法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が別人であるようなことが起きる中国では、安定した権力の継承を保障するものではない。
 国家の最高指導者の地位を安定させるためには、最高指導者の法的な正統性を確立することが必要である。最高指導者の法的な正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという法的な根拠である。最高指導者の法的な正統性を確立するためには、アメリカの大統領制のように、あらかじめ最高指導者に就任するための正統な法的手続きを定めておき、それに従って最高指導者に就任しなければならない。しかし、これは法の手続きに従って意志決定が行われる法治国家にのみ可能なことであり、法の支配が確立されておらず、法の手続きとは無関係に意志決定が行われる国家では不可能である。従って、中国のような法の支配が確立されていない国は、最高指導者の法的な正統性を確立することができないのである。中国は、古代から王政や帝政といった君主制が続いて来たが、常に政治の実権が君主にあったとは限らない。有力な臣下や外戚、そして君主の母親や后などが政治の実権を握ることもあった。そして、彼らや彼らの一族が新しい王朝を作ることも希ではなかった。このようなことが起きる原因は、中国は法治国家になれなかったため、歴代の君主が法的な正統性を確立できなかったことである。強大な権力を持っていた秦の始皇帝以降の皇帝といえども、法的な正統性など無かったのである。だから中国では易姓革命や皇位の簒奪が絶えることが無かったのである。最高指導者としての法的な正統性が確立されていなければ、政治家も、官僚も、軍人も、そして国民も、一体誰の指導に従ってよいのかわからなくなり、政治や社会が混乱状態に陥ってしまうこともある。その典型的な例が、共産党政権下の中国で起きた文化大革命なのである。また、歴史上、世界の多くの国では、権力の継承を巡る争いが激化した結果、国家が分裂して内乱状態に陥ってしまった例がいくらでもある。国家の最高指導者に法的な正統性が確立されていないと、このような政治の混乱を招く危険性が高いのである。従って、最高指導者の地位を安定させるためには、法の支配を確立し、国家の最高指導者の法的な正統性をしっかりと確立しなければならないのである。
 近代の欧米諸国や明治維新以降の日本のような、法の支配が確立された国では、最高指導者としての法的な正統性が無ければ、名実共に最高指導者になることはできない。最高指導者としての法的な正統性が無い者が、実質的な最高指導者や、それに匹敵するような権力を持つのは、中国や明治維新以前の日本のような、法の支配が確立されていない国に起き得ることである。
 明治維新以前の日本は、七百年近くにわたって征夷大将軍を頂点とする武家政治の統治下にあった。日本に武家政治が成立した背景にあったのが、本来は法的に正統な最高指導者である天皇が国家を統治する力を失ったことと、法の支配が確立されていなかったことである。法の支配が確立されていなかった明治維新以前の日本では、天皇が国家を統治する力を失った結果、源氏と平氏の抗争、南北朝の争乱、戦国時代といった乱世になってしまった。この乱世を武力によって平定した者が天皇から征夷大将軍の称号を与えられ、日本を武断政治によって統治したのが武家政治である。
 一方、明治維新以降の日本は、法の支配が確立されているため、戦後体制下のように、天皇が国家を統治する力を失っても乱世になることは無い。そして、法の支配が確立されている国家では、法的に正統な最高指導者でなければ国家の最高指導者になることはできない。そのため、法の支配が確立された明治維新以降の日本では、幕府のような法的な正統性の無い体制は成立しないのである。更に、日本は、天皇制の伝統のため、天皇以外の法的に正当な最高指導者の役職が成立することが無い。従って、明治維新以降の日本は、天皇が国家を統治する力を失っても、武家政治が成立することも天皇以外の者が正統な国家の最高指導者になることもあり得ないのである。


中国の伝統が民主化を否定する

     中国の伝統が民主化を否定する

 

 中国の政治には、様々な形で、中国固有の伝統が影響を与えている。
 中国の政治において、指導者が最も警戒しなければならないことが国民の失業問題である。なぜなら、中国にとって失業問題は、古代から国家を揺るがす重大な問題だったからである。
 中国のほとんどの王朝では、末期になると大規模な農民反乱が起きている。秦の始皇帝の死後に起きた陳勝・呉広の乱を始めとして、黄巾の乱、李自成の乱、太平天国の乱といった大規模な農民反乱によって、歴代中国の王朝は国力を衰退させられて滅亡していった。中国の王朝の末期には、圧政による貧困や天災による不作、あるいは人口増加による食糧不足などによって飯が食べられなくなり失業した農民が増大する。更に、失業した農民たちの中には、流民と呼ばれる小規模な徒党を組み、村々を襲い、食料を奪い、荒らし回る者も現れる。やがて国中の失業した農民や流民たちが、張角や李自成や洪秀全といった強力な指導者の下に集まり大規模な反乱を起こすのである。
 ただし、王朝を滅亡させるほどの農民反乱が歴史上何度も繰り返し起きる国は、中国以外には存在しない。中国に繰り返し農民反乱が起きる理由の一つには、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないということもあるが、それだけでは説明にならない。なぜなら、世界には、国民に、自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないにもかかわらず、失業して飯が食べられなくなった者が多数出たとしても、国が滅亡するほどの反乱など滅多に起きない国が数多くあるからである。中国に繰り返し農民反乱が起きる根本的な原因は、失業した農民による反乱が中国の伝統になっているからだと考えざるを得ないのである。つまり、国民に飯を食べさせることができないような無能な指導者は、武力を行使してでも打倒して、国民に飯を食べさせることができる有能な指導者と取り替えなければならないという考えが中国人の伝統になってしまっているということである。そのため、中国の指導者と国家体制を守るためには、指導者が国民に飯を食べさせることができないような無能な人物だと思われることは、何としても避けなければならないのである。従って、中国の指導者にとって、大量の失業者を出すことは自殺行為なのである。
 歴代王朝と同様に、現在の中国にとっても失業問題は国家の重大問題である。経済の失速による失業者の増加は、国家体制を危機に陥れかねない。1989年の天安門事件の後、一時、多くの外国資本が国外へ引き上げてしまったこともあり、中国の経済成長は鈍化してしまった。この事態に対して最高指導者の鄧小平は、1992年の1月から2月にかけて広東省などの中国南部を視察し、経済成長の加速の必要性を説いて回った。これが、「南巡講話」である。これをきっかけにして中国経済は再び成長し始める。その結果、中国は失業者の増大による経済や国家体制の危機を免れることができたのである。しかし、これは鄧小平のような強力なカリスマを持つ指導者だからこそできたことであって、誰にでもできることではない。現在の中国には鄧小平のような強力なカリスマを持つ指導者は存在しない。従って、今後、もし中国の経済成長が失速し、大量の失業者が出るような事態になれば、対処できなくなる可能性もある。そのようなことになったら、共産党政権の存続が危うくなってしまう。
 近年の中国は、「世界の工場」などと言われ、日本の製造業を脅かすような経済発展を遂げている。しかし、経済発展の恩恵にあずかっている人たちがいる一方で、中国の人口の約六割を占める農民の中には依然として貧しい生活を強いられている人たちも数多く存在する。そして、あまりの貧しさのために農村で生活ができなくなった農民の多くは、仕事のある都市などへ出稼ぎに行って生計を立て、農民工と呼ばれている。この農民工と呼ばれる出稼ぎ農民の数は、二億人近いと言われている。もし、中国の経済成長が行き詰まるようなことになれば、農民工を始めとした多くの中国人が職を失うことになる。その時、出稼ぎ先での生活に行き詰まり、農村へ帰っても生活ができない農民たちが一体どのような行動に走るのか全く予想ができない。最悪の場合は、過去の失業した農民のように、徒党を組んで暴動や反乱を起こす可能性も無いとは言えない。従って、共産党政権の将来は楽観視できないのである。
 また、中国の民主化問題にも中国の伝統が影響を与えている。
 結論から言ってしまえば、中国の民主化は不可能である。なぜなら民主主義国家は、法の支配を前提に成り立つものだからである。法の支配が確立されていない中国は、国民に自由を与えることも民主主義国家になることも不可能である。
 国家が国民に自由を与えることは、国家権力による強制が無くても国民が自ら法・秩序に従う慣習が確立された国でなければできないことである。中国のような法の支配が確立されていない国の国民は、軍や警察といった力を背景にした権力者が恐ろしいから法・秩序に従うのである。これが武断政治であり、力と恐怖による支配とも言える。そのため、中国のような法の支配が確立されていない国では、国民が権力者を恐れなくなったら、法・秩序の維持どころか国家体制の維持さえできなくなる恐れがある。たとえば、言論の自由を与えるということは、権力者を自由に批判する権利を保障することである。つまり、国民がいくら権力者を批判しても、報復されたり罰せられたりすることは無いということである。中国のような法の支配が確立されていない国で、このようなことを認めたら、国民は権力者を恐れなくなり、その結果、武断政治ができなくなり、統治能力を失ってしまうのである。だから、中国のような法の支配が確立されていない国は、国民に言論の自由を与えるわけにはいかないのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国で、国民に政治活動の自由や政党・結社を作る自由を与えたら、国家体制が崩壊するきっかけになる可能性がある。中国では、小さな勢力が、やがて強大化し、圧倒的に強大な武力を持つ者を倒してしまうこともある。そのよい例が、中国における共産党政権の成立である。中国共産党は1921年7月1日に上海で結成されたが、この時の中国共産党は、わずか数十名の共産主義者の集まりに過ぎなかった。その後、中国共産党は、毛沢東の指導の下で国民党の軍と戦いながら次第に力をつけていく。やがて毛沢東の率いる中国共産党の軍は、圧倒的に強大な兵力を持つ国民党を台湾へ追い払い、共産党政権を成立させたのである。中国で国民に政治活動の自由や政党・結社を作る自由を与えたら、今度は、共産党政権が国民党政権の二の舞になる恐れがある。そこまで行かなくても、治安を乱したり社会を混乱させたりする恐れもある。
 また、反政府活動や反政府暴動のようなことが起きるきっかけになるような情報が国民に届かないようにするためには、情報統制をしなければならない。
 これらの理由のため、中国政府は国民に、言論、政治活動、報道といったものの自由を与えることができないのである。中国のような法の支配が確立されていない国は、武力による革命や国家の分裂と言った事態が起きる危険性が常に存在するのである。そういった危険性から権力者や国家体制を守るためには、力と恐怖の支配とも言える武断政治が必要であり、そのために民主化ができないのである。
 法の支配が確立されていないために民主主義国家になれないのは中国に限ったことではない。世界には、中国と同様に、法の支配が確立されていないために民主主義国家になれない国が数多く存在する。その一例が、イラク戦争後のイラクである。
 アメリカがイラク戦争を正当化する理由の一つに、イラクに民主主義国家を樹立することがあった。しかし、法の支配が確立されていないイラクに民主主義国家が成立するとは考えられない。つまり、イラクのように、法の支配が確立されていない国は、中国と同様に力と恐怖による支配、すなわち武断政治をするしかないのである。
 アメリカとイギリスは、2003年3月20日にイラクに対して開戦を宣言し、イラク戦争を開始した。そして4月9日にはイラクの首都バグダッドが陥落し、サダム・フセイン政権は崩壊した。ところが、サダム・フセイン政権が崩壊した直後から、バグダッド市民による略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が始まった。個人の家や商店どころか、病院や博物館までが略奪の対象となり、医療器具や貴重な文化財までが略奪されてしまった。それまでイラク国民は、サダム・フセイン政権の力と恐怖を背景にした武断政治によって法・秩序を守ることを強制されていた。ところがサダム・フセイン政権が崩壊した結果、法・秩序を守ることを強制する力が失われてしまった。そのため、略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が横行する結果になったのである。これが法の支配が確立されていない国の国民なのである。イラク国民のような法の支配が確立されていない国の国民に自由を与えたら、法・秩序が混乱してしまうだけである。イラクのような法の支配が確立されていない国で法・秩序を維持するためには、権力者がサダム・フセインのように国民から恐れられていなければならないため、力と恐怖による支配、すなわち武断政治が必要不可欠なのである。従って、イラク国民に自由を与えることなど到底不可能である。このような国に民主主義が成立するわけがない。
 2011年12月14日にオバマ大統領がイラク戦争の終結を宣言し、12月18日にはイラクに駐留するアメリカ軍の撤収が完了した。その後のイラクが一体どうなったか。クルド人の自治区は実質的に独立し、スンニ派のイスラム教徒が住んでいる地域は、一時、「イスラム国」と名乗る武装集団の支配下に入った。その結果、一時は、イラク政府が統治している地域が、シーア派のイスラム教徒が住んでいる地域だけになってしまった。つまり、アメリカ軍が撤収した後のイラクは、民主主義国家になるどころか、政府が統治能力を失い、分裂国家になってしまったのである。イラク政府が「イスラム国」に支配された地域を奪還できたのは、アメリカやイランなどの協力によるものであり、イラク政府の力だけでは不可能だった。つまり、現在のイラクの体制は、独力で国家の秩序を維持することができない欠陥体制であり、民主主義国家である以前に、国家と呼べるような代物ではないのである。従って、イラク戦争がアメリカやイギリスの言うような、イラクに民主主義国家を樹立するための戦争だとすれば、完全な失敗だったことになる。
 法治国家の場合は、国家の非常事態に対処するために一時的に独裁権力を行使する必要があるのに対して、中国やイラクのような法の支配が確立されていない国の場合は、法・秩序や治安を維持するため、日常的に独裁権力を行使し続ける必要があるのである。
 アメリカの大統領制のように、選挙で最高指導者を選ぶためには、法に定められた手続きに従って権力の継承をする制度が確立されていなければならない。ところが中国のような法の支配が確立されていない国では、法に定められた手続きに従った権力の継承ができないのである。そのため文化大革命の時の中国では、毛沢東と劉少奇の二人が同時に国家の最高指導者となり、政治が混乱に陥ってしまった。従って、法の支配が確立されていない中国でアメリカのように大統領選挙をしても、前大統領と新大統領が同時に最高指導者となり政治が混乱するようなことが起きる恐れがある。また、鄧小平の時代には、法律上の最高指導者は江沢民なのに、実質的な最高指導者は鄧小平という事態が起きてしまった。これでは選挙に当選して法律上の最高指導者になっても、実質的な最高指導者になれるという保証は無いことになってしまう。つまり、選挙によって大統領を選んでも、選挙で当選した法律上の大統領に政治の実権が無く、鄧小平が政治の実権を握っていた頃の中国のように、法的には国家の最高指導者ではない人物が、実質的な最高指導者として国家に君臨するような事態も起き得るのである。従って、中国のような法の支配が確立されていない国では、選挙によって国家の指導者を選ぶことは困難なのである。
 これらの理由のため、中国、アラブ諸国、ロシアといった国々のような、法の支配が確立されていない国が民主主義国家になることは不可能なのである。
 私の考えに対して、次のように反論する人もいるだろう。同じ中国人の国なのに台湾では民主化に成功したではないか。同じことがどうして大陸の中国人にできないと言えるのか。
 それは中国と台湾とでは歴史が違うからである。台湾はかつて日本の植民地となり、約五十年間日本によって統治されていた。その結果、日本によって法の支配の伝統が台湾に植え付けられて定着したのである。そのため、台湾は法治国家になることができたのである。これは、インドやシンガポールがイギリスの植民地政策の結果として法治国家になったのと同じである。法治国家になることができた結果、台湾やインドには、形の上では民主主義国家が成立することが可能になったのである。ただし、台湾やインドにアメリカやイギリスのような「成熟した民主主義」が成立しているのか否かは、今の所、不明である。
 学者や言論人の中には、議会制度の設立や選挙の実行といった、欧米諸国の言う民主化をすることによって法治国家になると言っている者が存在する。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクでは、アメリカの軍事介入以降、議会制度が設立され、大統領選挙や議会選挙が何度も行われているが、一向に法治国家になる様子が無いのが現実である。アフガニスタンやイラクが欧米諸国の言う民主化によって法治国家になっていれば、アフガニスタンではタリバンのゲリラの多くが自主的にゲリラ活動を停止し、イラクでは「イスラム国」のような武装集団が勢力を拡大することは無かったはずである。要するに、民主化によって法治国家になるのではなく、法治国家になった結果として民主化が可能になるのである。
 中国に民主主義が成立しないのは、法治国家の伝統が無いというだけではなく、中国の歴史の問題でもある。中国の伝統的な国家体制の基礎を作ったのは、秦の始皇帝である。中国では、始皇帝が法治主義や官僚制度による統治を始めたということになっているが、始皇帝が作り上げた法治主義や官僚制度は、近代欧米の法治国家や官僚制度のような、国民が自らの意志で法・秩序に従うことを前提にしたものではない。更に、権力者自身が法によって縛られるという考えも無い。始皇帝の法治主義や官僚制度とは、権力者が、武力と強力なカリスマの力を背景にして、力ずくで民衆を法・秩序や官僚制度に従わせるものである。この始皇帝流の統治が、秦が滅んだ後も、漢王朝を始めとした歴代の王朝によって受け継がれていった。その結果、中国では約二千年にわたって始皇帝流の統治が続き、これが中国の伝統となり社会に定着してしまった。そのため中国は、法の支配を始めとした民主主義体制の基礎が作られることが無いまま今日に至っているのである。その結果、二十世紀になって国民党政権や共産党政権が成立しても、蒋介石や毛沢東を始めとした指導者たちは、始皇帝流の統治をするしか無かったのである。孫文が指導した辛亥革命は、皇帝と称する権力者が中国に君臨することは否定したが、歴代の皇帝によって行われて来た始皇帝流の統治の伝統までは否定できなかったのである。
 国家体制や政治のあり方は、国家や民族固有の歴史や伝統・文化の産物である。天安門事件以来、欧米諸国は、中国に対して民主化や人権問題の改善を要求し続けているが、始皇帝流の統治の伝統が定着してしまっている中国に、そのようなことをいくら要求しても無駄なことである。法の支配の伝統が確立されておらず、しかも始皇帝流の統治の伝統が社会に定着してしまっている中国に、法の支配の伝統を前提に成立する欧米流の民主主義国家が成立するわけがない。中国は、たとえ共産党政権が崩壊して新しい体制が成立しても、結局は始皇帝流の統治をするしか無いのである。欧米諸国は、中国人を含めた世界の全ての人間が、自分たち欧米人と同じ伝統・文化を持っていると錯覚しているのである。


君主制が復活する

       君主制が復活する

 

 カリスマも国家にとって重要な権力であり、法的権限だけが権力ではない。国家の指導者には、新しい国家体制を作ったり、偉大な業績を成し遂げたり、国家の危機を克服したりするなどして「建国の父」「偉大な指導者」「救国の英雄」などと言われ、多くの国民から尊敬され、強力なカリスマを持っている者も存在する。国家体制の成立と安定のために絶対に必要なのが、このような強力な最高指導者のカリスマの力を法的権限などの権力と共に後継者に継承する体制を確立することである。これがうまくいかなければ、最高指導者が不在の欠陥国家になってしまう可能性が高いのである。カリスマを後継者に継承することに失敗し、最高指導者が不在となってしまった国家では、国家の最大の役割である国家の防衛や非常事態に対処することができなくなってしまうどころか、最悪の場合は国家が崩壊してしまうこともある。その典型的な例が、アレクサンドロス大王亡き後のアレクサンドロス帝国、始皇帝亡き後の秦帝国、そしてチトー大統領亡き後のユーゴスラビアなどである。国家体制と国家の機能を維持するためには、法的権限と共に最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立することが絶対に必要なのである。
 最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制として、主なものが君主制と大統領制である。君主制は、家族や血族の間で最高指導者のカリスマが継承される体制である。そして、大統領制と、実質的な大統領制である議院内閣制の首相は、法の手続きに従って最高指導者の役職とともにカリスマが後継者に継承される体制である。
 君主制や大統領制以外で、最高指導者のカリスマを後継者に継承する体制を確立した例としては、チベットのダライ・ラマ制がある。前任のダライ・ラマが輪廻転生した人物を見つけ出してダライ・ラマの後継者とするのである。言わば「輪廻転生制」である。ただし、ダライ・ラマ制に類するような体制はチベット以外には存在しないため、ダライ・ラマ制は極めて特殊で例外的な体制と考えざるを得ない。
 ただし、国によっては、君主制も大統領制も成立しないため、古代中国の禅譲のように、前任の最高指導者の指名によってカリスマや法的権限の継承者を決定する方法が試みられたこともある。旧ソビエトや共産党政権下の中国が、その例と言える。旧ソビエトや共産党政権下の中国では君主制は否定されている。しかも、法治国家ではないため大統領制は成立しない。旧ソビエトでスターリンが粛清と呼ばれる大量殺戮を行ったのも、中国で文化大革命のような政治の混乱が起きたのも、法治国家ではないため、法の手続きによってカリスマや法的権限を継承することができないことが原因の一つである。そこで旧ソビエトや中国では、前任者が後継者を指名することによって、カリスマや法的権限といった権力を継承する方法が試みられたのである。
 ところが、前任者が後継者を指名することによって権力を継承する方法は、非常に不安定な方法であり、失敗した例が多のである。失敗した理由の一つが権力闘争である。前任者によって後継者に指名された人物が権力闘争に敗れた結果、権力の継承に失敗してしまうのである。ソビエトのスターリンが後継者に指名したマレンコフは、フルシチョフとの権力闘争に敗れて失脚してしまった。また、中国の毛沢東が後継者に指名した華国鋒も、鄧小平との権力闘争に敗れて失脚してしまった。
 前任者の指名によって決定された最高指導者は、前任者によって後継者に指名されたことを根拠に自らの最高指導者の地位を正当化できる。これに対して、前任者によって後継者に指名されていない者は、自らの最高指導者の地位を正当化することに苦慮する羽目になってしまう。たとえば、ソビエトでレーニンの後継者となったスターリンにしろ、スターリンと権力の座を争ったトロツキーにしろ、レーニンから後継者に指名されてはいなかったのである。そこで、この二人は、自分がレーニンの後継者であることを正当化するため「一国社会主義論」や「世界革命論」を唱えて理論闘争をして、自分こそレーニン思想の正統な継承者であり、レーニンの後継者としてふさわしいと主張したのである。やがてスターリンは権力闘争に勝利して政治の実権を握ったものの、それでも自らの最高指導者の地位に不安があったため、多くの政敵を粛清によって葬り去ることになったのである。こうしてスターリンは、どうにか最高指導者としての地位を固めることができたのである。
 前任者から後継者に指名されなくても、スターリンや鄧小平のように、もともと強力なカリスマや指導力を持っている人物なら、自らの力で最高指導者としての地位を確立できる場合もある。しかし、スターリンの後継者の地位を権力闘争によって勝ち取ったフルシチョフのような、カリスマにも指導力にも欠ける人物の場合は、最高指導者としての地位を確立するのは極めて困難である。しかもフルシチョフは、1956年2月に行ったスターリン批判によってスターリンのカリスマを否定してしまった。フルシチョフがスターリンのカリスマを否定することは、スターリンから継承したはずの自分自身のカリスマを否定することでもある。そして、カリスマも国家にとって必要不可欠な権力である以上、カリスマの否定は国家権力の否定である。フルシチョフのスターリン批判は、ソビエトの同盟諸国を動揺させることになり、ハンガリー動乱のような混乱を招く結果になってしまった。つまり、フルシチョフは、スターリンからのカリスマの継承に失敗した結果、最高指導者としての権力を確立することができなかったのである。
 スターリンからのカリスマの継承に失敗し、強力な最高指導者を失ったフルシチョフ政権以降のソビエトは、有力者たちの合議によって国家の意志決定をする集団指導制に移行していった。ところが、集団指導制による意志決定には大きな問題がある。集団指導制による意志決定では、決定にかかわる有力者たちの反感を買ったり意見が対立したりすると、合意を得るのが難しくなり、意志決定が困難になってしまう。そのため、有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な意志決定ができなくなってしまうのである。つまり集団指導制は、集団的無責任を生じる危険性が高いのである。その集団的無責任のため、ゴルバチョフが指摘したように、ブレジネフ政権時代のソビエトは腐敗と停滞の時代になってしまった。ブレジネフ政権以降のソビエトは、経済が悪化して危機的な状況であるにもかかわらず、集団的無責任のために何もできなかったのである。有力者たちの利権を否定するような政治改革や重大な意志決定は、最高指導者の強力な指導力と決断によってのみ可能である。そこでゴルバチョフは、大統領制の導入によって自らの指導力を強化してソビエトを改革しようとしたが、1991年にソビエトが崩壊したことによって失敗に終わってしまった。ソビエトは、集団指導制のために滅んだと言っても過言ではない。
 これまで述べたことからすると、最高指導者のカリスマの継承を安定したものにしようとすれば、君主制か大統領制のどちらか一方を採用するしかないと言えるのである。
 ただし、君主制と言うと、現代の世界では、何やら時代錯誤の遅れた国家体制のように思っている人が多い。しかし、数は減ったとは言え、世界には依然として君主制国家は存在している。
 人類史上最も古い、最高指導者のカリスマの安定した継承ができる体制が君主制である。この君主制の成立によって、人類は安定した強力なカリスマを持った最高指導者の下で、国家という大規模な人間集団を形成することが可能になったのである。そして、この君主制国家の下で文明が発展していったのである。特に農耕文明は、灌漑や治水といった大規模な公共工事をしなければならず、そのためにも強力なカリスマを持った最高指導者が必要だった。従って、君主制国家の成立は、農耕文明の成立と発展には必要不可欠だったと言えるのである。
 ただし、君主制には多くの欠点があることも事実である。君主制は、最高指導者の地位に就ける者が君主の一族に限られる場合が多いため、しばしば人材不足が起き、無能な人物が君主になってしまうことが多く、これが原因で政治が停滞したり混乱したりすることがある。また、最高指導者の地位が特定の一族によって独占される場合が多いため、国家権力が私物化されやすく、君主や君主の一族の都合や利益のために権力が乱用されることがある。更に、君主の地位は終身制である場合が多いため、長期政権となり、政治腐敗の蔓延や権力者の堕落といった事態を招きやすい。
 このような多くの欠点を抱えた体制であるにもかかわらず、古代から近代に至るまで、世界の大多数の国が君主制国家だった。その理由は、近代になって大統領制や議院内閣制が成立する以前は、君主制は国家の最高指導者のカリスマを継承できる、ほとんど唯一の体制だったからである。最高指導者のカリスマの力は、国家権力が成立するためには必要不可欠である。従って、最高指導者のカリスマの継承に失敗することは、国家権力の消滅を意味するのである。そして、国家権力の消滅は最悪の場合、政治を混乱させ、国家を滅亡の危機に追いやってしまうことさえある。従って、最高指導者のカリスマの継承には国家の存亡がかかっていると言っても過言ではないのである。つまり、最高指導者の人材不足が起きようと、国家権力が私物化されようと、政治が腐敗堕落しようと、カリスマの継承に失敗して国家権力が消滅してしまうよりはましだということである。
 やがて、十八世紀から十九世紀にかけて欧米諸国で大統領制や議院内閣制という新しい体制が成立した。大統領制や、実質的な大統領と言える議院内閣制の首相は、出自に関係なく幅広く人材を集めることが可能なため、人材不足が起きにくいと思われている。また、指導者を選挙で選んだり、議会制度を設けたりすることによって、権力の私物化や政治の腐敗堕落を防ぐことができると思われている。そのため、大統領制や議院内閣制は、非常に合理的な体制と見なされ、世界中に普及していったのである。ただし、言うまでも無く、選挙制度や議会制度を採用している国でも、指導者の人材不足、権力の私物化、政治の腐敗堕落といったことは起きている。従って、選挙制度や議会制度が君主制の欠点を克服する制度とは言えないのである。
 また、大統領制や議院内閣制には、法の支配が確立された国でなければ成立しないという難点がある。かつて君主国だった国の多くが、欧米諸国の大統領制などの真似をして君主制ではない体制を作った。ところが、法の支配が確立されていない国で君主制ではない体制を作ろうとすると、カリスマの継承に失敗するなどして様々な問題が起きるのである。中国では、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が出現して政治が混乱した。そして、多くのアジアやアフリカ諸国では、クーデターや内戦などによって政情不安が続いている例が多い。これらの国の多くは、法の支配が確立されていないため、法の手続きによる最高指導者のカリスマの継承ができない国である。そのため世界には、形式的には大統領制や議院内閣制のような君主制ではない体制を採用しているのに、実際は権力の世襲が行われ、実質的な君主国になってしまった国がいくつも存在するのである。
 その実質的な君主国の典型的な例が北朝鮮である。北朝鮮では、1974年2月に金日成の長男の金正日が金日成の後継者に決まった。そして、1994年7月に金日成が死去した後、金正日は北朝鮮の最高指導者になった。更に、2010年9月には金正日の三男の金正恩が金正日の後継者に決まった。そして、2011年12月17日に金正日が死去したため、金正恩が北朝鮮の最高指導者になった。
 なぜ北朝鮮では、権力の世襲が行われるのか。そもそも北朝鮮以外の共産主義国家では、権力の継承にともなうカリスマの継承に成功した例が無い。カリスマの継承をする体制は、事実上、大統領制と君主制の二種類しかないが、ソビエトや中国では大統領制も君主制も成立しないためカリスマの継承ができない。一方、北朝鮮は、アメリカや韓国との間で常に軍事的な緊張が続いている。しかも北朝鮮は、深刻な経済危機からなかなか脱することができず、国民の不満が充満している。つまり北朝鮮は、軍事的な緊張や経済的な危機が日常化しているのである。国家の危機に対処するためには、国民を一致団結させることが可能な強力なカリスマを持った最高指導者が常に存在していなければならない。従って、国家の危機が日常化している北朝鮮にとって、強力なカリスマを持った最高指導者の不在によって国家の危機に対処できなくなるという事態は、直ちに国家体制を破滅させかねない。従って、北朝鮮の国家体制を存続させるためには、何としてもカリスマの継承を成功させ、強力なカリスマを持った最高指導者が不在という事態を阻止しなければならないのである。しかし、ソビエトや中国と同様に法治国家ではない北朝鮮に大統領制は成立しない。そのため、北朝鮮がカリスマの継承を成功させるためには、実質的な君主制を導入するしか無いのである。これが、北朝鮮で権力が世襲されている理由である。
 また、タイ王国は、形式的にはイギリスと同様の立憲君主制ということになっているが、実態は専制君主制である。イギリスの君主は政治の実権の無い形式的な存在であり、首相が実質的な最高指導者である。ところが、タイの国王は名実共に最高指導者であり、首相は国王の臣下に過ぎないのである。そのため、首相の力では国民を指導することも団結させることもできず、政治の混乱が起きて収拾できなくなることがある。このような場合は、軍や国王が政治に介入して政治の安定を図るしかないこともある。これが、タイで何度も軍事クーデターが起きている理由である。しかし、軍事クーデターのような違法な行為が何度も起きる国が法治国家であるわけが無い。タイにイギリスのような立憲君主制が成立しないのは、タイに法の支配が確立されていないからである。
 大統領制や立憲君主制が成立しない国があるのは、法の支配が確立されていないという理由だけではない。日本のように法の支配が確立されているにもかかわらず、大統領制や立憲君主制が成立しない例もある。日本では天皇制の伝統が国家に定着した結果、天皇のみが法的に正統な国家の最高指導者の役職になってしまったため、大統領制や立憲君主制が成立しないのである。
 このように欧米諸国以外の国々では、大統領制が成立しない例が多いのである。しかし、君主制や大統領制以外に、安定した最高指導者のカリスマの継承ができる体制は今のところは成立していない。従って、大統領制が成立しない国々では、国家の機能を維持して政治を安定させるために、君主制を復活させたり、権力を世襲することによって実質的な君主国になったりする例が増えると私は考えているのである。


中国の崩壊

        中国の崩壊

 

 中国では辛亥革命以来、君主制は否定されている。そして中国は、法の手続きによる最高指導者のカリスマの継承ができないため、大統領制が成立しているとも言えないのである。つまり、現在の中国には、最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていないのである。
 1993年以降、中国の形式的な最高指導者の地位は、国家の最高指導者である国家主席、中国共産党の最高指導者である総書記、そして中国軍を統括する中国共産党中央軍事委員会主席の三つの役職で成り立っている。そのため、1993年以降の中国では、国家主席、中国共産党総書記、中国共産党中央軍事委員会主席という三つの役職と法的権限を継承することが権力の継承ということになっている。この三つの役職は、江沢民から胡錦濤へ、更に習近平へと継承された。
 しかし、最高指導者の役職と法的権限を継承しても、それだけでは権力が継承されたとは言えないのである。国家の非常事態において国民を団結させることが可能な強力なカリスマが無ければ、国家の最高指導者は務まらないのである。従って、役職や法的権限と共に、国民を団結させることが可能な強力なカリスマも継承しなければ、本当の意味での権力の継承とは言えないのである。毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持っていなければ、国家の非常事態に遭遇しても、中国国民を一つに団結させて非常事態に対処するのは困難である。従って、中国の指導者が党則や法の手続きに従って中国共産党総書記や国家主席に就任しても、それだけで中国共産党や国家の最高指導者になったとは言えないのである。
 更に、中国軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、それだけで中国軍を掌握したとは言えないのである。法治国家ではない中国では、法律上の指導者になっても、それだけでは実質的な指導者になったとは言えないが、このことは、軍に関しても同様である。かつて毛沢東や鄧小平は、その強力なカリスマと指導力によって軍人たちを「子分」と為すことによって軍を掌握していた。従って、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持っていなければ中国軍を掌握できないのである。中国は、軍を制する者が国家を制する国である。従って、軍を掌握できなければ中国の真の最高指導者になったとは言えないのである。かつて鄧小平は、実質的な中国の最高指導者ではあったが、法律上の最高指導者である首相や国家主席に就任したことは一度も無かった。その鄧小平が実質的な中国の最高指導者であった理由の一つが、軍の実権を握る実質的な最高指導者として中国に君臨していたことである。つまり、軍の実権を握ることは、中国の最高指導者になるための必要条件なのである。従って、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマや指導力を持たない指導者に、軍の実権を握ることができるのか大いに疑問がある。
 中国では、2018年3月に第十三期全国人民代表大会第一回会議が開かれ、3月11日に憲法改正案が可決された結果、二期十年と定められていた国家主席の再選限度が撤廃されることになった。国家主席の任期を二期十年と定めた憲法の規定は、最高権力者が強大な権力を握って暴走することを防ぐための制度であり、毛沢東が強大な権力を背景に文化大革命を起こして政治を混乱させ多くの人命を犠牲にしたことの反省から作られたものとされている。ジャーナリズムは、国家主席の再選限度が撤廃されたことによって習近平国家主席の任期が二期十年を超えて長期化する可能性が生じたため、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を持つ可能性があるような報道をしている。しかし、この報道については疑問がある。なぜなら、毛沢東が強大な権力を持つに至った理由は、毛沢東が長く政権にとどまっていたということだけではないからである。毛沢東の強大な権力の背景には、中華人民共和国を建国した功績によって強大なカリスマを確立したということがある。つまり、中華人民共和国を建国したことが、毛沢東の強力なカリスマの源となった「神話」なのである。これに対して習近平は、強力なカリスマの源となる「神話」と言えるような政治的な功績を挙げたわけではない。従って、今の所、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を握る可能性は低いのである。
 法・秩序に自ら従う慣習が確立されていない中国の民衆は、いつ何をきっかけに、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからない。そこで秦の始皇帝以来、中国では、最高指導者たる皇帝の強力なカリスマの力と武力で民衆を押さえつけ、力ずくで法・秩序に従わせることによって政治や社会の安定を維持して来たのである。しかし、このような統治の方法には、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持った実質的な皇帝と言えるような最高指導者の存在が必要不可欠である。ところが現在の中国には、実質的な皇帝と言えるような指導者が存在しないため、始皇帝流の統治は困難になってしまった。鄧小平亡き後の中国の指導者が共産党体制を守るためには、経済成長を維持することによって、中国国民の不満が爆発しないように手なずけるしかないのが現実である。しかし、経済成長が永久に続くことなどあり得ない。実際、今の中国は、アメリカとの間の経済摩擦によって経済が減速している。もし、中国の経済が行き詰まって大量の失業者が出るような事態になったら、共産党体制は破綻する可能性が高いのである。従って、経済成長によって共産党体制を維持するのは至難の業と言わざるを得ないのである。
 1989年の天安門事件の危機や、その後の経済の停滞は、実質的な皇帝と言える鄧小平の力によって、どうにか乗り切ることができたのである。現在の中国は、経済の順調な発展によって一時的に政治や社会が安定しているに過ぎないのである。もし今後、中国に実質的な皇帝と言えるような最高指導者が存在しない状況の下で政治や経済の危機が起き、国家や社会が混乱するような事態になったら、民衆を法・秩序に従わせることが困難になり、その結果、中国の共産党体制は、ソビエトと同様に崩壊する可能性が高いのである。結局、中国は、始皇帝流の統治をして生き残るのか、それとも、始皇帝流の統治ができなくなった結果として滅びるのかのどちらかなのである。


近代国家とは何なのか

 第三章 日本の民主主義は虚構だ!

 

 

           近代国家とは何なのか

 

 私は、日本は民主主義国家でも近代国家でもないと考えている。その理由は、憲法改正ができないからである。
 日本の憲法改正を巡る政治状況は、明らかに異常である。
 日本国憲法が施行されて以来、今日に至るまで、一度も憲法改正が行われたことが無かった。それは一体なぜなのか。
 また、日本には、護憲論者と呼ばれる人たちが存在する。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊するなどと言って憲法改正に反対している。しかし、憲法を一字一句変えただけで崩壊するような民主主義があるわけがない。もし、そのような民主主義があるとすれば、明らかに近代国家の民主主義とは異質なものである。
 まず、近代国家とは何なのか。
 一般的に、近代国家が成立する条件とされているのは、法の支配の確立、政教分離、国民の自由や基本的人権の保障、個人主義の尊重などといったものである。このように近代国家が成立する条件とされているものはいくつもあるが、最も重要なのが十七世紀から十八世紀頃のヨーロッパに出現した社会契約説や啓蒙主義と呼ばれる思想である。
 社会契約説とは、おおよそ次のような思想である。国家、社会、法律、制度といったものは、本来、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものであるから、既存の国家、社会、法律、制度が人間の自由や権利を侵すような、人間にとって不利益なものなら、これを人間の自由な意志に基づく社会契約をやり直すことによって変更することができる。
 そして啓蒙主義とは、人間の理性を絶対的に信用し、人間の理性に基づき、伝統や習慣や迷信と言ったものにとらわれず、合理的に国家や人間社会などを見直そうという思想である。
 近代国家が成立する以前のヨーロッパの社会では、合理的な社会や国家の改革は不可能だった。その最大の理由が宗教の存在である。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、次のような思想の上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、国家、社会、慣習、伝統といったものも神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、人間が、これらを神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは神を冒涜する行為である。そして一神教では、神の意志は預言者を通じて語られることになっている。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える役割を神から託された人間である。旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、あるいはイスラム教の創始者のムハンマドと言った人たちが預言者である。ただしイスラム教では、ムハンマドは最後の預言者ということになっているため、神がムハンマドを通じて語った言葉は神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということになる。その、神の言葉を記した聖典がコーランである。従って、イスラム教徒は、永久にコーランに記された教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような法律や制度を制定することは困難なのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国の多くは、近代的な改革が停滞しているのである。言い換えれば、イスラム教の神は、近代的な改革を拒否しているである。こういったことは、近代以前の中世ヨーロッパの社会も同様だった。
 中世ヨーロッパの社会には、ローマ・カトリック教会が君臨していた。中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会にとっての神も、イスラム教の神と同様に近代的な改革を拒否する神である。そして、ローマ・カトリック教会の長であるローマ法王は、地上における神の代理人を称し、ヨーロッパの社会や政治に対して絶大な影響力を及ぼしていた。そのため中世のヨーロッパ諸国は、近代的な改革など不可能だったのである。
 ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の影響力は低下し始める。ルターは、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。このルターの主張を支持する人たちは、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックを信仰する勢力との間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を引き起こす結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会の権威と影響力は低下していった。
 これらの宗教改革を発端として起きた一連の出来事の結果として、宗教がかかわるのは人間の内面に限るという考えが確立され、プロテスタントやローマ・カトリックに浸透していった。これを信仰の内面化と言う。この信仰の内面化をきっかけに、信仰の自由、内面の自由、思想の自由、そして個人主義といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かっていったのである。
 そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーなどの思想家が登場し、社会契約説や啓蒙主義が成立する。こうしてヨーロッパ人は、宗教や伝統的思考とは関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、法律、制度、習慣といったものを改革できると考えられるようになったのである。これが近代国家と呼ばれる国家の理念である。やがて社会契約説や啓蒙主義は、アメリカの独立革命やフランス革命などの市民革命を推進する理論となる。
 更に、社会契約説や啓蒙主義から主権在民という理念が生まれた。主権とは国家を統治する権限のことである。そして国家を統治する権限を持つ者を主権者と言う。主権在民とは、国家を統治する権限が国民にあるため、国家体制や政府の政策は、主権者である国民の自由な意志によって決定されなければならないという理念である。そして、主権在民は、民主主義国家の基本理念ということになっている。
 ただし、社会契約説や啓蒙主義の成立によって国家や法律などが国民の自由な意志によって改革できると考えられるようになったと言っても、これはあくまで理念の上のことであって、必ずしも現実とは言えない。ヨーロッパの貴族制度のように、社会に定着した結果、いかなる手段によっても変更できなくなった制度もある。従って、近代国家が成立しても、国家、社会、法律、制度、習慣といったものの全てが人間の思い通りになるわけではない。
 また、主権在民も、あくまで理念の上のものである。国家を統治する権限が国民にあると言っても、実際に国家を統治しているのは政治家や国家官僚である。そして、国家を統治する都合によっては、増税のような、主権者ということになっている国民の反発を買うようなことを決定せざるを得ないこともある。更に、イラク戦争を始めた時のイギリスのように、主権者ということになっている国民の猛反発を無視して戦争を始めた例もある。
 更に、アメリカの独立革命やフランス革命のような市民革命によって民主主義体制が成立しても、それだけで民主主義国家が完成するわけではない。既に述べたように、アメリカやイギリスのように非常独裁制が成立しなければ、民主主義国家が完成したとは言えないのである。
 近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかといった判断は、宗教に委ねられていたが、それを政治や国家のあり方に関しては人間の自由な意志や理性に委ねるという理念が成立したのが近代の始まりである。
 もし、宗教が政治に介入するようになったら、中世ヨーロッパのように宗教が政治に大きな影響を与えるようになってしまう。そして、キリスト教やイスラム教のような一神教は、神の教えに反するという理由で、あらゆる変革を拒否したがる傾向がある。更に、一神教の考えでは、この世の全ては神の意志によって成り立っていることになっているが、この考えは、民主主義国家の基本理念である主権在民と矛盾する。そのため、中世ヨーロッパのように、一神教が政治に介入するようになったら、近代的な改革も民主化も困難になってしまう可能性が高いのである。従って、近代的な改革や民主化のためには、一神教の影響は政治から排除されなければならないのである。そこで、近代国家や民主主義国家を守るためには、政治と宗教が互いの領域に介入しないという原則が必要になる。これが政教分離である。
 政教分離の原則が存在せず、一神教が政治に介入する国家に何が起きるのか。その一例として、イランを見てみよう。
 イランでは1979年に、イスラム教シーア派のイスラム法学者であるホメイニ師の指導によってイスラム革命が起きた。イランは、この革命によって王政を廃止し、イスラム教シーア派のイスラム法学者が政治を主導する宗教国家となった。
 1997年5月、イランの大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するハタミ師が出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月に行われた国会の総選挙で、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化することに期待する意志を表明した。しかし、イランの民主化は容易なことではない。なぜなら、イランはイスラム法学者が政治を主導する宗教国家であり、欧米諸国とは違い、政治と宗教が分離されていないからである。
 民主主義国家は、社会契約説に由来する主権在民という理念に基づいて成り立っていることになっている。民主主義国家の理念では、国民に主権があり、政治家は主権者である国民から選挙で選ばれることによって、主権を代行する権限を国民から与えられたことになっている。つまり、理念の上では、民主主義国家の指導者は、主権者である国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっているのである。
 ところがイランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家体制が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この理論からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や政治のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて国家や国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者である神の意志を政治に反映させるためには、聖典であるコーランの解釈に基づいて作られたイスラム法に従って国家を統治しなければならないことになる。そして、イスラム法に従って国家を統治するということは、イスラム法の専門家であるイスラム法学者が国家を統治するということなのである。これがイスラム教の宗教国家であるイランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法学者なのである。つまり、イランのイスラム法学者たちは、イスラム法に基づいた政治をすることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。そして、ホメイニ師の死後、イランの最高指導者となったのが、イスラム法学者のハメネイ師である。このように、イランには、民主主義国家の基本理念である主権在民が存在しないのである。
 ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、イスラム法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハメネイ師を始めとしたイスラム法学者たちによって民主化や改革・開放政策が拒否されたら断念するしかないのである。国民から選挙で選ばれた政治家が国家・国民の指導者というのは、主権在民という理念が確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・開放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満を反映したものである。ハタミ大統領も改革派の国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではないのである。主権在民という理念の無い宗教国家では、国民に支持されて選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とはなり得ないのである。
 イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会はイランの国会を監督する機関であり、国会が可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限を持っている。国会が可決した法律が護憲評議会によって差し戻されたら法律は成立しない。そして、護憲評議会が大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派のイスラム法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派のイスラム法学者たちが意のままにイランの政治を動かす、保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙で改革派が国民の支持を得て圧勝した結果、イランの国会は改革派が主導することになった。ところが、護憲評議会の抵抗によって改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままだった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民を失望させることになり、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という理念が無いということであり、国会は単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに、近代的な改革や民主主義国家の成立などあり得ないのである。



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