閉じる


<<最初から読む

8 / 29ページ

国民の団結力

        国民の団結力

 

 国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させ、非常事態に対処することであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強制しなければ非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時に国民が団結できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
 その典型的な例が、古代の共和政時代のローマである。共和政時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカ大統領のような強力な最高指導者が存在せず、非常時における国家の団結はローマ市民の団結力のみに頼っていた。ローマにはディクタトルという非常独裁官制度があったが、これは国家の非常時における意志決定を迅速に行うための制度であって、指導者に強力なカリスマを与える制度ではない。つまり、元老院を中心としたローマの共和政は、ローマ市民の団結力だけで非常時における国家の団結が成り立つことを前提としたものなのである。
 紀元前272年にイタリア半島を統一したローマは、紀元前264年から紀元前146年にかけてカルタゴを相手に第一次から第三次に及ぶ三度のポエニ戦争を行い勝利した。ローマがポエニ戦争に勝利できた理由の一つが、ローマ市民の強固な団結力である。この三度にわたるポエニ戦争の中でも、とりわけローマ市民の団結力が発揮されたのが紀元前218年から紀元前201年にかけて行われた第二次ポエニ戦争である。
 そもそもローマという国家は、首都ローマを中心にして、ローマ市民による植民都市、ローマ市民権を与えられた都市、ローマ市民権を持たない同盟都市など、様々な形態の諸都市との連合によって成り立っていた。第二次ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮したハンニバルの戦略は、武力でローマ軍を打ち破ることによってローマ市民の団結力を失わせ、ローマと諸都市との連合を解体に追いやることだった。第二次ポエニ戦争の初期には、ハンニバルの天才的な軍事能力のために、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。しかし、ローマがカンネーの戦いに大敗した後、一部の都市がローマとの連合から離反したものの、ローマと諸都市との連合が完全に解体することは遂に無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によって何度ローマ軍を打ち破っても、結局、ローマ市民の団結力を完全に失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦におけるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、まさにハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いだったと言える。そしてローマ市民の団結力が最後にハンニバルを打ち破ったのである。
 ローマはポエニ戦争に勝利した後、征服戦争を繰り返した結果、地中海周辺を支配する広大な国家になった。しかし、この頃になると、ローマの政治や軍事の問題が表面化するようになった。長年にわたってローマの政治を主導して来た元老院の統治能力が低下し、同盟都市の反乱や剣奴の反乱であるパルタクスの乱などの内乱が発生した。また、ローマ軍は徴兵されたローマ市民によって成り立っていたが、ローマの領土が広大になったため、戦場へ移動する時間が長くなった結果、兵士の従軍期間が長期化するようになり、徴兵された兵士の職業と兵役の両立が困難になってしまった。その結果、兵士の士気が低下してローマ軍の力が弱体化してしまったのである。そこで、執政官となったマリウスが徴兵制を廃止して募兵制を導入した。ところが、その結果、軍の司令官と兵士の間に主従関係が成立し、兵士が軍の司令官の実質的な私兵となっていった。そしてマリウスやスラなどの軍人が、私兵化した兵士を率いて武力によって権力を争うようになったため、ローマの政治は混乱に陥ってしまった。また、ローマは、領土の拡大によって多くの民族を征服した結果、ガリア人やゲルマン人などのローマ市民という意識の低い被支配民族を領内に数多く抱え込むことになったため、もはやローマ市民の団結力だけでは非常時における国家の団結が維持できなくなってしまった。これらの問題のため、強力な最高指導者が存在しない、元老院を中心とした共和政ではローマを統治することが困難になってしまったのである。
 政治の混乱を終わらせ、多様な国家になってしまったローマを一致団結させるためには、強力なカリスマを持った最高指導者が必要であるということに気がついたのがユリウス・カエサルである。カエサルは、ガリア地方を平定した後、政敵となったポンペイウスを武力によって打倒して強力なカリスマを確立し、終身独裁官に就任した。しかしカエサルは、ブルータスらによって暗殺されてしまう。その後、カエサルの後継者となったアウグストゥスが初代ローマ皇帝となり、強力なカリスマを持った最高指導者が統治する国家体制が確立された。アウグストゥスによって確立された帝政はローマの政治に安定をもたらしたが、その一方で元老院は政治の主導権を失ったため、共和政は形骸化してしまった。
 同じ国の国民としての仲間意識や連帯感といったものも非常時に国民を一致団結させる手段である。しかし、古代のローマのように征服戦争を繰り返すことによって多くの異民族を支配下に置いたり、近代のアメリカのように積極的に移民を受け入れたりすることによって、民族、人種、宗教、言語、習慣などが異なる多様な人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦や対立が、国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。そうなると、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感だけでは非常時に国民を一致団結させることが困難になってしまう。そこで、国民が多様化すればするほど、国民を団結させる手段として、ローマ皇帝やアメリカ大統領のような強力な最高指導者の力が必要になるのである。
 共和政時代のローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時における国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
 イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用している。かつてイスラエルの議会政治は、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられて来た。そのため、イスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的な駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカ大統領のような強力なカリスマや指導力があれば、政治の停滞も無くなるだろうと考え、実質的な大統領制に移行しようとして、1992年3月に首相公選制を導入した。ところが、イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力なカリスマや指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席数を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
 このようにイスラエルの首相は、アメリカ大統領やイギリスの首相のような強力なカリスマを持っているわけではない。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国のために戦って来たのである。イスラエルは、国民の強固な団結力と国防意識の高さのため、四度にわたる中東戦争など、多くの戦争を戦い抜くことができたのである。
 イスラエル国民が、このように団結力が強く国防意識が高い理由の一つには、過去二千年にわたる流浪と迫害の歴史から、強固な国民の団結と国防の必要性を理解せざるを得ないということがある。これに加えて、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているという理由もある。
 非常時に国民を一致団結させるためには、イスラエルのように、宗教によって国民を団結させるという方法もある。しかし、この方法には問題もある。
 第一の問題は、宗教によって国民を団結させるということは、国民全体が共に同じ宗教を信じる仲間として異教徒や異なった宗派の国に対して団結するということである。従って、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国が異教徒や異なった宗派の国でなければならないのである。すなわち、ユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタン、イスラム教シーア派のイランとイスラム教スンニ派のアラブ諸国といったようにである。
 第二の問題は、国内に異なった宗教や宗派が存在することである。イスラエル国内にはイスラム教徒のアラブ人が存在し、インド国内にはイスラム教徒やシーク教徒などが存在する。そしてイスラエルの中心であるユダヤ教徒も、インドの多数派であるヒンズー教徒も、イスラム教徒などとの間で紛争が絶えない。つまり、国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう可能性もあるということである。
 これらの理由から、宗教によって国民を団結させることができる国は、特殊な例であると言える。
 共和政時代のローマ市民やイスラエル国民のように強固な団結力があれば、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなくても非常時における国民の団結を維持できる場合もある。しかし、共和政時代のローマやイスラエルのような国家は特殊な存在である。世界の大多数の国家では、強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなければ、非常時に国民を団結させることができないのが現実である。


日本に大統領制が成立するのか

    日本に大統領制が成立するのか

 

 普通の国家は、非常事態に対処する力を持った最高指導者が存在しなければ成り立たない。ところが、戦後体制下の日本の内閣総理大臣には最高指導者と言えるような力が無いため、戦後体制は、超大国であるアメリカの保護の下でしか成り立たない。しかし、アメリカといえども永久に超大国でいられる保証はどこにも無い。従って、いずれは日本にも最高指導者が必要な時が必ずやってくる。しかし、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になれるのだろうか。そして、そもそも日本に大統領制が成立するのだろうか。
 大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
 まず、第一段階では、「大統領」や「首相」と言った、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作る。
 そして、第二段階では、「建国の父」「救国の英雄」と呼ばれるような、偉大な政治的功績を挙げた指導者が、その功績を「神話」として強力なカリスマを得て、更に選挙などの法の手続きに従って「大統領」や「首相」などの法的に正統な最高指導者の役職に就任して強力な最高指導者となる。または、政治家が法的に正統な最高指導者に就任した後で、偉大な功績を挙げ、強力なカリスマを持った最高指導者になる。
 更に、第三段階では、強力な最高指導者のカリスマが、最高指導者の役職と共に法の手続きに従って後継者に継承され、更に、この仕組みが慣習となり定着し、安定したカリスマを継承する体制が確立される。
 日本に大統領制を成立させるためにも、第一段階として、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作らなければならない。ところが日本では、古代より天皇のみが法的に正統な最高指導者の役職であり、皇族のみが天皇の地位に就くことができるという体制が確立されて定着している。そして、天皇以外の法的に正統な最高指導者の役職が存在した前例が無い。そのため、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家が存在しても、皇族以外の者が正統な国家の最高指導者に就任することは不可能だった。また、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家であっても、法的な正当性の無い、実質的な最高指導者になることは困難だった。
 たとえば、平安時代に摂関政治によって強力な権力を振るった藤原道長などの藤原摂関家の人たちが実質的な最高指導者だったという意見があるが、これは明らかに誤りである。藤原摂関家の人たちは、自分の娘を天皇の后とし、自分の娘である后と天皇との間に生まれた子を天皇に即位させることによって天皇の外戚となり、摂政や関白に就任して権力を振るった。これが摂関政治である。この藤原摂関家が就任した摂政や関白は、国家の最高指導者の役職ではない。摂政は最高指導者たる天皇の臨時代行であり、関白は最高指導者たる天皇の補佐役に過ぎない。摂関政治は、藤原摂関家が天皇のカリスマや権力を利用することによって成立したものであり、藤原摂関家自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権力があったわけではない。更に、藤原摂関家が権力を振るうためには、藤原摂関家が天皇の外戚であることに加えて、時の天皇が、強力な指導力を持たず、藤原摂関家の言いなりになるような人物であることも必要だった。そのため、藤原摂関家を外戚としない、強力な指導力を持った後三条天皇が登場すると、藤原摂関家の政治力は低下してしまったのである。そして、更に藤原摂関家の政治力の低下に拍車をかけたのが院政である。後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、息子の堀河天皇に天皇の位を譲り、上皇となって院政を開始した結果、強大な権力を振るうことが可能になった。天皇が政治にかかわる場合、昔からの様々な伝統や慣習に縛られることになる。このことが、結果として天皇が強大な権力を振るうことに対する歯止めになっている。これに対して上皇は、昔からの伝統や慣習に縛られることは無いため、強大な権力を振るうことに対する歯止めが一切無いのである。そのため白河上皇は、強大な権力を振るうことが可能になったのである。白河上皇が院政によって強大な権力を振るうようになった結果、藤原摂関家の政治力は更に低下することになってしまった。このように平安時代の政治状況を見てみると、藤原摂関家の人たちが国家の最高指導者だったとは考えられないのである。
 そして、武家政治の征夷大将軍も、正統な最高指導者でも実質的な最高指導者でもなかった。そのことを示すよい例が、江戸幕府の幕末の動乱である。
 江戸幕府の征夷大将軍は、初代徳川家康以来、二百五十年の長期にわたる政治の安定を実現した。ところが、1853年(嘉永6年)に起きた黒船事件をきっかけに幕末の動乱が始まった。アメリカ艦隊を率いるペリー提督は、圧倒的な武力を背景に、幕府に対して開国を迫った。これに対してアメリカの武力に対抗する力の無い幕府は、日米和親条約を結ぶ羽目になった。この結果、鎖国政策は終わったが、アメリカの武力に対して戦うこともできず屈服してしまった幕府の権威は低下した。
 幕末の動乱の根本的な原因は、当時の日本の最高指導者が誰なのか不明確だったことにある。軍事・外交政策を決定する権限は、国家の最高指導者の権限である。黒船事件以前、天皇は政治の実権を失っていたため、軍事・外交政策は、実質的には幕府が行っていた。ところが、征夷大将軍が天皇から正式に軍事・外交政策を決定する法的な権限を委任されていたわけではなかったため、軍事・外交政策を決定する法的な権限は、形式的には天皇にあったのである。そのため、軍事・外交政策を決定する権限が誰にあるのか曖昧な状態にあったのである。つまり、誰が日本の最高指導者なのか不明確だったということである。こういう状況の下で黒船事件が起きてしまったのである。
 国家の最高指導者の最も重要な役割は、国家の非常事態に対処することである。幕府が、アメリカのペリー提督が率いる艦隊の武力に屈して開国を決定したことは、江戸幕府の征夷大将軍には国家の非常事態に対処する能力が無いことを露見させる結果になってしまった。つまり、黒船事件の結果、江戸幕府の征夷大将軍には、国家の最高指導者と言えるような実力が無いことが明らかになったのである。また、江戸幕府がアメリカの圧力に屈して日米修好通商条約を締結しようとした時、天皇から開国の勅許を得ようとしたことによって、軍事・外交政策を決定する法的な権限は天皇にあり、征夷大将軍には無いことが明らかになった。しかも、孝明天皇が開国に反対の立場を明確にしたため、幕府は開国の勅許を得ることに失敗してしまった。その後、大老の井伊直弼が勅許無しで日米修好通商条約の締結を強行したため、井伊直弼は尊王攘夷派によって暗殺された。これによって、江戸幕府の権威が更に低下したため、政治の混乱に拍車をかけることになってしまった。つまり、黒船事件と、その後に起きた出来事によって、江戸幕府の征夷大将軍は、国家の最高指導者と言えるような実力が無い上に、法的に正当な国家の最高指導者でもないことが明らかになってしまったのである。国家の防衛のためには、国全体が最高指導者の下、一致団結しなければならない。従って、幕末の日本のように、誰が国家の最高指導者なのか不明確な状態では、国家の防衛のために国全体が一致団結することは不可能である。従って、国家の最高指導者が誰なのか不明確な状態を解消して日本を防衛が可能な国家に作り直すため、法的に正統な最高指導者である天皇に政権を戻す討幕運動が活発になったのである。こうして、幕末の動乱が始まったのである。
 徳川将軍家の初代徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、長期にわたる安定政権の基礎を作ったが、これほどの功績を挙げても、日本では国家の最高指導者には、なれないのである。
 武家政治の時代の日本では、本来は正統な最高指導者である天皇の権威やカリスマの力が低下していたため、事実上正統な最高指導者が存在しない状態が続いていた。そのため、国家の防衛は、実質的に日本を統治していた武家政治の役割となった。しかし、武家政治は本来、国家の防衛には不向きな国家体制だった。
 武家政治が国家の防衛に不向きだった理由は二つある。
 第一の理由は、武家政治はもともと日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には国家の防衛や外交を行うための法的権限が無かったことである。これが、江戸幕府の幕末の動乱を引き起こした。
 第二の理由は、武士が戦闘をした場合、功績のあった者に対して恩賞として領地を与えなければならなかったことである。恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収することによって、恩賞として与えるための領地を獲得しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえない防衛戦争をすることは、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
 ただし、現実には、鎌倉幕府が当時の世界帝国であるモンゴル帝国の襲来を撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、モンゴル帝国との戦いの時は、江戸幕府の幕末のように朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗することが無かったからである。鎌倉幕府には軍事・外交を行う法的権限が無かったが、朝廷には軍事・外交を行う法的権限はあっても能力が無かった。そのため朝廷は、幕府の軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。江戸幕府の幕末に朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしか無かったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、諸大名も幕府の政策には反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱することは無かったのである。ただし、モンゴル帝国との戦いは防衛戦争であったため、敗れたモンゴルから領地を獲得できず、武士に対して恩賞として与えるための領地が確保できなかったため、功績のあった武士に対して十分な恩賞を与えることができなかった。そのため、鎌倉幕府に対する武士たちの信用が低下し、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。つまり鎌倉幕府は、モンゴル帝国を撃退したにもかかわらず、結果として滅びてしまったのである。これは、幕府にとって本来は不向きな防衛戦争を行った結果である。国家の防衛は、国家の最も重要な役割である。それが不向きな幕府という国家体制は、不完全な国家体制としか言いようが無いのである。
 日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者といえども、関白、太政大臣、征夷大将軍といった官職を天皇から与えられることによって、始めて自らの権力を正当化することができたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者といえども、正統な最高指導者である天皇の力を借りなければ、権力を正当化して権力基盤を固めることができなかったのである。そして江戸幕府は、天皇の力を借りた勢力によって打倒される羽目になってしまったのである。
 江戸幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との交渉の結果、江戸城の無血開城を実現して明治政府を打ち立てたのである。日本以外の国なら、西郷隆盛のような偉大な功績を挙げた人物は、国家の最高指導者になっても不思議ではない。なぜなら、世界の歴史を見ればわかるように、国家が独立したり、革命などによって新しい国家体制が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者が、そのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いからである。アメリカの独立戦争の指導者だったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。ロシア革命の指導者だったレーニンはソビエトの最高指導者となった。蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となった。そして、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ところが日本の明治政府の最高指導者は、明治維新最大の功労者の西郷隆盛ではなく明治天皇だった。西郷隆盛は、明治政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する武士階級の反発を抑えるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治政府の正統な最高指導者は、あくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の臣下に過ぎなかったからである。つまり、明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
 このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって正統な最高指導者に就任することは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに日本には、偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマを確立した政治家が、正統な最高指導者に就任するという伝統も文化も無いのである。これでは大統領制など成立しようがない。
 日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、伝統的な日本の最高指導者のあり方が、世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
 国家の最高指導者とされている者には、次の二つ役割がある。
 第一の役割が、国家・国民を代表して軍事・外交政策などの「国家の重大な意志決定」を行い、強力なカリスマの力によって国民が「国家の重大な意志決定」に従うように指導することである。
 そして第二の役割が、行政機関の責任者として、法的権限や慣習などに従って役人や官僚と呼ばれる人たちを指導する「行政の責任者」としての役割である。
 世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても、国家の最高指導者は、「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を兼ねているのが普通である。これに対して、日本の場合は、古代から「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を別々の人物が分担する国家体制が存在していたのである。日本では、「国家の重大な意志決定」を行うのは天皇の役割であり、天皇は「行政の責任者」の役割は行わない。「行政の責任者」の役割を行うのは、「行政の責任者」に就任した実力者である。「行政の責任者」に就任した実力者は、蘇我氏、藤原摂関家、鎌倉幕府執権の北条家、足利将軍家、徳川将軍家といった人たちである。更に、聖徳太子や中大兄皇子、そして院政における上皇のように、皇族が「行政の責任者」に就任することもあった。ただし、後醍醐天皇のように直接政治を指導し、自ら「行政の責任者」となった天皇も存在したが、こういう天皇は例外的な存在であった。
 国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導することこそ、最高指導者の真の役割である。従って、「国家の重大な意志決定」を行う天皇が日本の最高指導者なのである。天皇は古代から何度も最高指導者としての実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。その結果、天皇のみが正統な国家の最高指導者であり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという国家体制が日本の社会に定着することになったのである。これが天皇制の伝統である。
 天皇制の伝統が社会に定着した結果、日本は、武家政治の時代や戦後体制下のように、天皇が最高指導者としての力を失ってしまうと、法的に正統な国家の最高指導者の役職が事実上存在しなくなってしまうのである。そして、皇族以外の人間の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、「行政の責任者」になるのが限界なのである。日本の歴史上の人物には、天皇に取って代わって最高指導者になろうとした、あるいは、天皇と同等の最高指導者の地位に就こうとしたと言われている者が何人か存在するが、成功した例は無いのである。
 明治体制下の日本で内閣制度が制定された以降は、国家の最高指導者と「行政の責任者」の役割が、天皇と内閣総理大臣によって分担されていた。天皇は国家の最高指導者として軍事・外交政策などの国家の重大な意志決定はするが、決定したことを実行することや、その結果に対して責任を負うことは無い。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、天皇の決定した軍事・外交政策を実行することと、行政機関の責任者として行政機関を法的権限によって指導して内政上の政策を実行したり、問題を解決したりすることであり、更に、天皇が決定した軍事・外交政策を含めた、あらゆる政策について、問題が生じたり失敗したりした場合は責任を負うことである。
 既に述べたように、明治体制下の日本における天皇の最高指導者としての意思決定は、御前会議において行われる。そして、御前会議で天皇が国家の重大な意志決定を行うと、アメリカ大統領やイギリスの首相と同様に非常独裁権が発動されることになる。つまり、御前会議の決定に基づいて非常独裁権を発動することが、明治体制下の日本における天皇の最大の役割なのである。戦後体制下の日本が事実上独立国家になれずアメリカに従属せざるを得ないのは、天皇が本来持っている非常独裁権が、アメリカの超大国としての政治力によって封じ込められているからである。
 戦後体制下の日本でも、内閣総理大臣が「行政の責任者」であることは明治体制と変わりがない。ところが、明治体制下の日本で国家の最高指導者だった天皇は、太平洋戦争の敗戦後に最高指導者としての力を失った結果、「国家の象徴」となり、あらゆる政治的権限を失ってしまった。しかし、内閣総理大臣が天皇に代わって国家の最高指導者になったわけではない。つまり、明治体制下の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後体制下の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の最高指導者としての天皇の権限を引き継ぐ役職が戦後体制下の日本には存在しないのである。
 ただし、一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。そして、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、戦後体制下の内閣総理大臣は、日本の最高指導者ということになる。しかし、私に言わせれば、国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導して一致団結させることこそ、最高指導者の真の役割である。ところが、内閣総理大臣には、そのような力は無いため、戦後体制下の内閣総理大臣は、国家の最高指導者の役職とは言えないのである。私に言わせれば、日本の内閣総理大臣とは、「法的に正統な行政の責任者」の役職なのである。
 このように、戦後体制下の日本には最高指導者の役職が存在しないのである。そのため、たとえ国家の最高指導者が勤まる能力を持った有能な政治家が登場しても、最高指導者には就任できないのである。
 現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は数多くある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は共同統治者であって、明治体制下の日本の天皇と内閣総理大臣のように最高指導者と「行政の責任者」が分担されているわけではない。つまり、最高指導者も首相も共に「行政の責任者」としての連帯責任があるのである。従って、もし、首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者である大統領や国王も「行政の責任者」として連帯責任を取らされる可能性があるのである。最高指導者と「行政の責任者」が別というのは日本独特の国家体制なのである。
 ところで、国家体制に限らず、特定の制度が社会に定着すると、たとえどのような手段によっても、その制度を変更することができなくなってしまうことがある。
 たとえばヨーロッパの貴族制度は、イギリスやスペインのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、政変や革命をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところがヨーロッパの貴族制度は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、市民の尊敬を受けているのである。
 また、インドの伝統的な身分制度であるカースト制度は、数千年の年月をかけてインドの社会に定着した。現在のインドでは、このカースト制度による差別は、憲法上は否定されているが、現実には、カースト制度もカースト制度による差別も依然として無くなってはおらず、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。
 このように、特定の制度が社会に定着してしまうと、政変や革命が何回起きようと、憲法を含めた法・制度をどう変えようと、無くなることは無いのである。
 これに対して、江戸時代の日本には武士を支配階級とし、百姓や町民を被支配階級とした身分制度が存在したが、これは、身分制度と言う点ではヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と似ているようにも見えるが、根本的に異なるものである。貴族制度やカースト制度が長い時間をかけて社会に定着して、いかなる手段によっても変更できないものになってしまったのに対して、江戸時代の日本の身分制度は、最初から最後まで人為的に作られた制度に過ぎなかったのである。人為的に作られた制度は人為的に変更することが可能である。だから明治維新の時、明治政府が「四民平等」と言った結果、武士を支配階級とした身分制度は消滅してしまったのである。
 また、特定の国家体制が、貴族制度やカースト制度と同様に社会に定着した結果、無くならなくなってしまった例がある。それが、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた結果、イギリスの社会に定着した。イギリスの議会制度も日本の天皇制も、長い歴史の中で何度も政変や革命や内乱といった事態に遭遇したが、結局、存在し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と同様に社会に定着して、どのような手段によっても変更することができなくなっているのである。これが、天皇制が千数百年続いた理由の一つである。
 大統領制とは、選挙などの法の手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。これに対して、天皇制が定着している日本では、正統な国家の最高指導者の役職は天皇のみであり、皇族のみが天皇になることができる。そして、皇族以外の者は、どれほど実力があろうと、どれほど功績を挙げようと、内閣総理大臣のような「行政の責任者」にしかなれないのである。そして、この天皇制は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように日本の社会に定着して、いかなる手段によっても変更できなくなっているのである。そのため日本では、憲法などの法・制度を改正して大統領制や首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法の手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本にはアメリカのような大統領制も、イギリスの首相のような実質的な大統領制も成立しないのである。
 もし、日本に大統領制が成立するのなら、明治維新の時に西郷隆盛が実質的な大統領に就任することによって実質的な大統領制が成立していたはずである。しかし、天皇制の伝統が、それを許さなかったのである。
 また、もし日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領となり、日本に「イギリス型大統領制」が成立するのなら、明治体制下の日本で内閣総理大臣が実質的な大統領になる可能性があったことになる。なぜなら、明治体制下の日本の内閣総理大臣にも、イギリスの大宰相たちに匹敵するような功績を挙げた人物が存在したからである。たとえば、伊藤博文は、明治維新の立て役者の一人であり、近代的な改革に功績があり、更に、日清戦争の時の内閣総理大臣として日清戦争を日本の勝利に導いた。また、桂太郎総理大臣は、イギリスとの間に日英同盟を締結し、帝国主義の強国であるロシア帝国と戦った日露戦争を日本の勝利に導いた。しかし、それにもかかわらず、明治体制下の内閣総理大臣は最後まで国家の最高指導者になることは無かった。日清戦争や日露戦争の勝利は、天皇の最高指導者としてのカリスマや権威を強めただけであり、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になることは遂に無かったのである。
 首相公選制の導入によって日本に実質的な大統領制を成立させるべきだと主張していた人たちは、国家というものは法律や法律に基づいて作られた制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり、世界中どこの国であろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国家体制ができあがると思い込んでいたのである。彼らの考えは、明らかに現実に反している。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や伝統の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。アメリカの大統領制は、アメリカ独特の歴史と伝統から生まれた制度であり、アメリカとは全く異なる歴史と伝統を持つ日本に成立するわけが無いのである。
 また、既に述べたように、民主主義国家を完成させるためには非常独裁制を確立しなければならない。そして、非常独裁権は、国家の最高指導者の権限である。更に、民主主義国家における最高指導者は、アメリカ大統領やイギリスの首相のように国民から民主的な手続きによって選ばれた指導者である。従って、民主主義国家で非常独裁権を持つは、アメリカ大統領のような大統領やイギリスの首相のような実質的な大統領である。つまり、民主主義国家を完成させるためには大統領制や実質的な大統領制の成立が必要不可欠なのである。これに対して、日本において非常独裁権のような最高指導者としての権限を持つことができるのは天皇のみである。つまり、天皇制の伝統のために大統領制も実質的な大統領制も成立しない日本では、民主主義国家を完成させることは不可能なのである。国家体制は、歴史と伝統の産物なのである。
 明治体制下の日本では、最高指導者として君臨する天皇と「行政の責任者」である内閣総理大臣が二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。そして、天皇が最高指導者であっても「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことが、いかなる結果を招いても、責任を取るのはあくまで「行政の責任者」であり、天皇が責任を問われることは無いということである。この、最高指導者と「行政の責任者」が分担されている日本の国家体制が、いかに諸外国の国家体制と比べて特異なものであるかが示されたのが、太平洋戦争後に日本の戦争責任者の追及が行われた時である。
 太平洋戦争の開戦は、御前会議によって決定されたことである。明治体制下の日本では、内閣総理大臣を始めとした大臣は、法的には天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は最高指導者たる天皇のみにある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は昭和天皇によって決定されたということになる。ただし、昭和天皇自身にとって、日米開戦は本意ではなかったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人たちも存在する。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら、昭和天皇と同様の立場にあった者は、間違いなくは戦争責任を取らされていた。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニを首相に任命して独裁的な権力を行使することを容認してイタリアを敗戦国にした責任を取らされて退位させられ、王政そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。大日本帝国の最高指導者であり帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者であるにもかかわらず、占領政策の責任者のマッカーサー元帥やGHQ(連合国最高司令官総司令部)から戦争責任が問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対していたことである。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などをすれば、どのような政治的混乱が起きるかわからなかったのである。天皇制の伝統では、敗戦のような政治的失敗の責任を取るのは「行政の責任者」の役割であって、最高指導者たる天皇の役割ではない。これが、日本国民が昭和天皇の断罪に反対した理由である。このことは、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の伝統が日本の社会に定着していることを明確に示しているのである。もし、日本が太平洋戦争に敗れたと同時に天皇制の伝統も消滅していたら、天皇制はイタリアの王政と同様に廃止されていたはずである。つまり、「国家の象徴」となり政治の実権を失ったとは言え、戦後体制下の日本でも天皇制が存続していることが、天皇制の伝統が消滅してはいない証拠なのである。
 一方、マッカーサーとGHQにとっては、占領政策を成功させるためには、昭和天皇の協力がどうしても必要だった。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領する側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでマッカーサーとGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇だったのである。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そこでマッカーサーとGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。そのため、マッカーサーとGHQは、天皇制の存続を容認したのである。つまり、結果として、占領政策の責任者であるマッカーサーもGHQも、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官だった昭和天皇の罪が一切問われないというのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国、ソビエト、オーストラリアといった国々の不満や不安が収まらない。そこでマッカーサーは、戦争の放棄と象徴天皇制を定めた日本国憲法を制定したのである。
 言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いと言っている人たちがいるが、名実共に最高指導者だった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制と言っても様々な形態があるが、その中でイギリス型の立憲君主制は、形の上では君主制であっても実態は議会政治という国家体制である。近代の議会政治では、国民から選挙によって選ばれた議会政治家のみが国家・国民の指導者というのが原則である。従って、イギリス型の立憲君主制の下で首相に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣だった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本がイギリス型の立憲君主制とは全く異なる国家体制だった証拠である。
 天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統それ自体も、天皇制が千数百年続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は日本の天皇とは違い、最高指導者と「行政の責任者」を兼ねている。そのため、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、君主が「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交替や革命が起きてしまう場合がある。ところが日本の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされて交替させられるのは専ら「行政の責任者」であり、最高指導者の天皇自身に責任の追及が及ぶことは、ほとんど無いのである。だから日本では、王朝の交替や天皇制を否定する革命など起きようが無いのである。
 ただし、天皇や皇族といえども、何らかの形で自らの決定に対する責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起きた承久の乱の場合である。1221年(承久3年)、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、鎌倉幕府執権の北条義時に対する追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流に処し、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、太平洋戦争の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが、政治の実権は失った。これも或る意味では責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交替や天皇制の廃止にまでは至っていない。


天安門事件の背景

第二章 なぜ中国は民主化ができないのか 

 

 

       天安門事件の背景

 

 欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることがある。人治国家とは法の支配が確立されていない国のことであり、法によって定められた手続きではなく、政治家や官僚などによる恣意的な決定や判断によって統治されている国のことを言う。そして、それは人権抑圧や腐敗政治の温床になると見なされ、否定的に見られている。更に、法治国家と法の支配が確立されていない国とでは、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。
 法の支配とは、政策の決定や権力の行使が、法によって定められた手続きに従って行われることである。法の支配が確立された国では、一般国民のみならず、官僚や政治家、そして国家の最高指導者も法によって縛られることになる。
 そして、法の支配が確立されるために絶対に必要なことは、権力によって強制されなくても自ら進んで法・秩序に従う慣習が、国家の指導者や官僚のみならず、一般国民にも定着していなければならないということである。なぜなら、国家の指導者や官僚が、法の手続きに従って国民を統治しようとしても、国民が自ら法・秩序に従おうとしないなら、国家の指導者は国民に対して警察や軍などを使って力ずくで法・秩序に従うことを強制するしかなくなってしまうからである。これでは法の支配ではなく、暴力の支配になってしまう。つまり、権力者に強制されなくても、政治家や官僚や一般国民などの大多数の人間が、自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国とは言えないのである。法の支配が確立された国では、警察などによる力の行使は、法を守らない、ごく一部の人間を取り締まるためにのみ必要なのである。
 法の支配が確立されていない国の人間は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における政治家や官僚による汚職の蔓延の原因も、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していないため、違法な行為に対する罪悪感が希薄なことにある。
 中国が法の支配が確立されていない国であることが明確に分かるのが、2005年、2010年、2012年に起きた大規模な反日デモである。反日デモが起きる度に、デモ隊によって法・秩序に反する行為が行われた。そして更に問題なのが、デモ隊による法・秩序に反する行為に対する中国政府の対応である。
 たとえば、2005年に中国で起きた反日デモの例を見てみよう。
 2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島の領有権といった問題に対して不満を訴える市民が、北京で一万人規模のデモを行った。これをきっかけに中国各地に反日デモが広がっていった。ところが、やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為をするに至った。これに対して中国政府は、自分たちが批判の対象になることを恐れてデモ隊による法・秩序に反する行為を止めさせようとはしなかった。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある。」と述べ、中国政府を非難した。4月15日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが4月16日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至った。日本に対する不満を訴えるだけなら法・秩序に反する行為ではない。しかし投石、破壊行為、暴力行為は、明らかに法・秩序に反する行為である。中国人のデモ隊が叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。つまり、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」だと言うのである。要するに、自分たちが正しいと考える目的のためなら法・秩序に反する行為も許されるということである。これが意味することは、中国人には自ら進んで法・秩序に従うという考えも、法・秩序に反する行為に対する罪悪感も無いということである。そして、デモ発生の当初、自分たちが批判の対象になることを恐れて法・秩序に反する行為を止めさせようとしなかった中国政府には、法治という考えが欠如しているのである。これらの出来事は、中国が法治国家ではないことを明確に示しているのである。そして、2010年と2012年に起きた反日デモの時も、デモ隊によって日本系の商店や日本料理店などが破壊される事件が起きている。
 もっとも、民衆による集団的な法・秩序に反する行為は、法治国家とされている国でも起きている。2005年の10月末にフランスの首都パリの郊外で移民系の住民による暴動が起き、車や建物が放火された。そして、この暴動がフランス全土に拡大して11月の中旬まで続いた。また、2011年8月にはイギリスの首都ロンドンで移民系の住民が始めた暴動がイギリス各地の都市に拡大して放火や略奪が行われ、五名の死者が出た。そして、一部の移民系ではない若者たちまでがこれに加わった。更にフランスでは、2018年11月17日からマクロン政権による燃料税の引き上げなどの政策に抗議して全国的規模のデモが起きた。そして、デモ隊の一部が暴徒化し、商店の破壊や略奪を行った。この暴動によって数名が死亡、数千人が負傷、そして数千人が拘束された。これらの出来事は、法の支配を危機に陥れる行為である。もし、今後もこのようなことが頻発するようなら、イギリスやフランスといえども、法治国家とも文明国とも言えない国になってしまうだろう。
 中国のような法の支配が確立されていない国の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していない。このような国で法・秩序を維持するためには、警察や軍などを使い、力ずくで国民が法・秩序に従うことを強制するしかないのである。つまり、法の支配が確立されていない国の法・秩序は、暴力の支配によって成り立っているのである。このような統治の方法は、武断政治や強権統治などと呼ばれている。武断政治による法・秩序の維持は、中国のみならず、アジアやアフリカ諸国に見られる独裁政権も同様である。
 法治国家の国民が、自ら進んで法・秩序に従うのとは違い、法の支配が確立されていない国の国民は、警察や軍などによる武力の行使が恐ろしいから法・秩序に従うのである。そのため、法の支配が確立されていない国の権力者が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者が常に国民から恐れられていなければならないのである。言い換えれば、法の支配が確立されていない国は、国民が権力者を恐れなくなったら、国民を法・秩序に従わせることが困難になり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合、権力者は、国民に対して武力を行使してでも権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって、統治能力を回復させなければならないこともある。その典型的な例が、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件なのである。
 1989年4月15日、中国共産党の前総書記の胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と北京の天安門前広場に集まり、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政治家や官僚の腐敗を糾弾して中国の民主化を求める集会に変わっていった。
 やがて学生や市民は、共産党や政府の指導者を名指しで非難し始めた。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始めた。
 4月21日には十万人を超す学生や市民が天安門前広場に集まり、民主化を求めるデモを行った。
 5月13日には一部の学生がハンガーストライキを始めた。
 5月17日には天安門前広場に集まった学生や市民の数が百万人近くになった。そして李鵬首相や最高指導者の鄧小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始めた。
 5月19日には趙紫陽総書記がハンガーストライキをしている学生を訪れ、ハンガーストライキをやめるように説得した。
 法治国家ならば、学生や市民がデモをしたくらいのことで国家体制が動揺することは無い。なぜなら法の支配に服従している者が、法の枠を越えた行動を起こすことは滅多に無いからである。法治国家の国民は、デモにしろ反政府活動にしろ、法・秩序の枠の中で行うのである。しかし、法の支配が確立されていない国の国民は違う。自ら進んで法・秩序に服従する慣習の無い人間が集まって徒党を組んだら、何を始めるかわからないし、どんな混乱が起きるのかもわからない。一度、法・秩序が混乱し始めたら、燎原の火の如く混乱が拡大する恐れもある。従って、法の支配が確立されていない国の国民を治めるためには、権力者は武力によって国民を恐れさせ、服従させなければならないのである。ところが天安門前広場に集まった学生や市民は、権力者を恐れる様子も無く、民主化を求め、共産党や政府の首脳に非難の言葉を浴びせたり辞任を要求したりしている。法の支配が確立されていない国にとって、権力者を恐れない国民が出現することは、権力者が統治能力を失ったことを意味するのである。つまり、この時の共産党政権は、絶体絶命の危機に直面していたのである。
 法の支配が確立されていない中国にとって、このような危機に対処する手段は、もはや武力弾圧しかない。武力行使によって事態を収拾すると同時に、国家権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって共産党政権の統治能力を回復させるのである。そこで鄧小平を始めとした中国の指導者たちは、学生や市民に対する武力弾圧を決意し、5月20日に戒厳令を敷いた。そして6月4日、天安門前広場は中国軍によって制圧された。
 こうして天安門事件の時の出来事を見ていると、一見すると強力に見える中国共産党の一党独裁体制が、実は、学生や市民が集まってデモをしたくらいのことで動揺してしまうような軟弱な体制であることがわかるのである。これと比べれば、日本の戦後体制の方がよほど強力だと言わざるを得ない。60年安保騒動を見ればわかるように、学生や市民のデモくらいでは日本の国家体制が潰れる可能性など無いからである。もし、その可能性があったならば、当時の岸政権は自衛隊に治安出動をさせていたはずである。安保騒動の混乱の責任を取って岸政権が退陣したと言っても、国家体制が消滅したわけでも与党の自由民主党が政権を失ったわけでもない。これが法の支配が確立されていない国と法治国家の違いなのである。つまり、法の支配が確立されていない国の権威は非常に弱体なものであり、武断政治には弱体な権威を武力によって補うという側面もあるのである。そのため、法の支配が確立されていない国と武断政治は切っても切れない関係にあるのである。法の支配が確立されていない国の政治が一見して安定しているように見えても、それは国民が権力者の力を強いと思い込んで恐れている間の一時的な状態に過ぎないのである。逆に、法の支配が確立されていない国の国民が権力者の力を弱いと思い恐れなくなったら、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからないのである。従って、法の支配が確立されていない国に、真の政治の安定はあり得ないのである。
 中国と同様に武断政治の軟弱さをさらけ出したのが、2011年に起きた「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政変である。アラブ諸国も中国と同様に法の支配が確立されていない国であるため、武断政治が行われている。そして、2010年12月にチュニジアで26歳の男性が警察官の不正に抗議して焼身自殺した事件をきっかけに大規模な反政府デモが起き、2011年1月14日にベンアリ大統領が国外へ脱出したため、ベンアリ政権は崩壊した。権力者による武断政治を恐れて従っていたアラブ諸国の民衆は、このチュニジアの政変によって武断政治の軟弱さを知り、長期にわたり武断政治を行っている指導者を打倒するための行動を一斉に起こした。エジプトでは2011年1月25日からムバラク大統領の辞任を求める暴動が始まった。そして2月11日にムバラク大統領の辞任が発表され、30年間続いたムバラク政権は崩壊した。リビアでは、2011年2月15日に東部のベンガジでカダフィ大佐の辞任を求める大規模な反政府デモが起きた。これをきっかけに反カダフィ勢力が武装蜂起したため、リビアは内戦状態になった。そして8月23日に反カダフィ勢力が首都トリポリを制圧したため、カダフィ政権は崩壊した。イエメンでは、サレハ大統領の退陣を要求する大規模な反政府デモが発生し、治安部隊や政府軍がデモ隊を攻撃して多くの死傷者を出した。そして、2011年12月23日にサレハ大統領はハディ副大統領に大統領権限を委譲したため、政治の実権を失い、事実上退陣した。そしてシリアでは、アサド政権の打倒を目指す勢力が武装蜂起し、内戦状態になった。
 法の支配が確立されていない国の国家体制を守るために最終的に頼るのが軍である。従って、法の支配が確立されていない国は、軍が国家の命運を握っていると言っても過言では無い。これがよくわかるのが中国の辛亥革命である。
 二十世紀に入ると、中国では、既に衰えていた清朝の権威が、政治の実権を握っていた西太后の死によって更に低下した。そして1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が始まった。革命は中国各地に広がり、十四の省が清朝から独立してしまった。これに対して清朝は、軍閥の実力者の袁世凱を内閣総理大臣に任命して政治と軍事の実権を与え、革命勢力の武力制圧を命じた。
 一方、革命勢力は、1912年1月1日に中華民国臨時政府を成立させ、孫文が臨時大総統に就任した。しかし、袁世凱が率いる軍の力に革命勢力は勝てないと考えた孫文は、1月22日、宣統帝溥儀の退位を条件に、臨時大総統の職を袁世凱に譲る意志を表明した。これを受けて袁世凱は清朝を裏切り、清朝に圧力をかけて宣統帝溥儀の退位を迫った。その結果、2月12日、遂に宣統帝溥儀は退位し、清朝は滅亡した。これを受けて2月13日、孫文は臨時大総統を辞任した。そして3月10日、袁世凱が中華民国の臨時大総統に就任した。こうして清朝は、袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのである。
 法の支配が確立されていない国で、このような事態が起きることを防ぐためには、強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が君臨して政治と軍事をしっかりと掌握していなければならないのである。結局、法の支配が確立されていない国は、武力を握る者だけが国家を統治することができるのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。清朝が袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのは、清朝の皇帝が軍を制する力を失ってしまったからである。
 中国のような法の支配が確立されていない国にとって、軍が存在する第一の目的は、暴力革命や国家の分裂のような事態から権力者や国家体制を守ることであり、法治国家のように国民の生命や財産を外国の脅威から守ることは二の次なのである。天安門事件は、このことを世界に知らしめてしまったのである。


中国の権力闘争

       中国の権力闘争

 

 法治国家の最高指導者は、法に従って最高指導者の役職に就任し、同時に前任者から全ての権力を継承する。そして最後は法に従って最高指導者の役職を解任され、同時に全ての権力が後継者に継承される。いかに強大な力を持った権力者といえども、法の手続きに従い解任されたら、何の権力も持たない、ただの人になってしまう。これが法治国家の権力の継承である。法治国家では、このようなことは当たり前である。ところが法の支配が確立されていない国では、法治国家のような権力の継承は不可能である。法の支配が確立されていない国では、たとえ法の手続きに従って最高指導者の役職に就任したとしても、その者に政治の実権があるとは限らないのである。
 たとえば鄧小平が健在だった時の中国のことを考えて見ればよい。1993年以降、中国における法律上の最高指導者の役職は国家主席であり、2003年まで江沢民がその役職にあった。ところが鄧小平が健在だった時は、事実上の最高指導者は鄧小平であり、江沢民国家主席も李鵬首相も、実態は鄧小平の家来の如き存在だった。重要な決定はすべて鄧小平が行い、江沢民国家主席も李鵬首相も鄧小平の決定に従うだけだった。鄧小平は十数年間、事実上の中国の最高指導者でありながら、法律上の最高指導者の役職に就任したことは一度も無かったのである。
 また、清朝末期に実質的な最高指導者として中国に君臨した西太后も同じである。実の息子の同治帝や甥の光緒帝を形だけの皇帝に立て、政治の実権は西太后自身が握っていたのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、しばしばこういうことが起きる。その理由は、法の支配が確立されていない国では、最高指導者と、その配下の官僚や軍人との関係が、法治国家とは全く異なるからである。
 法治国家の場合、最高指導者と官僚や軍人との関係は、法によって定められた上司と部下という関係で成り立っている。一部の側近を除けば、ほとんどの官僚や軍人は、大統領や首相の法律上の部下である。そして大統領や首相に就任した人物が、官僚や軍人たちにとって、いかに気に入らない人物であろうと、いかに無能な人物であろうと、正統な法の手続きに従って最高指導者に就任し、正統な法の手続きに従って行政上の命令が下される限りは絶対服従しなければならない。つまり法治国家の官僚や軍人は、大統領や首相といった法律上の制度に仕えているのであって、最高指導者個人に仕えているのではない。たとえば、アメリカの官僚や軍人は、大統領の法律上の部下であっても、ドナルド・トランプの個人的な家来ではない。これに対して、法の支配が確立されていない国の最高指導者と官僚や軍人との関係は、主人と家来、または親分と子分といった個人的な主従関係で成り立っているのである。鄧小平が健在だった時の中国の官僚や軍人は、鄧小平個人の家来か子分であっても、国家主席や首相の部下ではなかった。それどころか江沢民国家主席や李鵬首相自身が鄧小平の実質的な家来になってしまっていたのである。
 主人と家来、或いは親分と子分といった関係は、個人的な主従関係である。そして、その関係は、自分の好みや都合で決めることである。家来や子分にとって、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かにかかわらず、自分自身がその人物の家来や子分であり続けようとする限り、主従関係は続くのである。つまり、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かは、主従関係には全く影響が無いのである。従って、鄧小平が法的に正統な最高指導者でなくても、鄧小平を自分の親分、或いは国家の最高指導者としてふさわしい人物だと思っている官僚や軍人や国民にとっては、法的な正統性とは関係無く鄧小平が最高指導者なのである。そして、法の支配が確立されていない国において最高指導者としてふさわしい人物とは、毛沢東や鄧小平のように強力なカリスマと指導力を持った人物である。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、強力なカリスマと指導力を持った人物ならば、法の手続きや正統性とは関係無く、実質的な最高指導者になることができるのである。逆に、たとえ法の手続きに従って法的に正統な国家の最高指導者に就任しても、江沢民のようなカリスマにも指導力にも欠ける人物では、実質的な最高指導者にはなれない場合もあるのである。つまり、法治国家では、大統領や首相といった法的な制度が国家・国民を指導するのに対して、中国のような法の支配が確立されていない国では、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマと指導力を持った個人が国家・国民を指導するのである。従って、法治国家では、大統領や首相のような法的に正統な最高指導者の役職に就任しなければ最高指導者になれないのに対して、法の支配が確立されていない国では、最高指導者にふさわしい実力さえあれば、法的に正統な最高指導者の役職に就任しなくても実質的な最高指導者になることが可能なのである。これが、法的に正統な最高指導者の役職に就任していない西太后や鄧小平が実質的な最高指導者になることができた理由の一つである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、官僚や軍人が、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマを持った個人に仕えるという考えはあっても、法治国家のように大統領や首相といった法律上の制度に仕えるという考えは無いのである。これが意味することは、中国のような法の支配が確立されていない国では、皇帝、国家主席、首相と言った役職は、法律上の制度ではなく、単なる肩書きに過ぎないということである。アメリカなどの法治国家で採用されている大統領制は、大統領や首相といったカリスマを持った役職が前任者から後継者に継承される制度である。しかし、役職がカリスマを持つのは、法治国家の大統領や首相のように、役職が法律上の制度である場合のことである。つまり、法の支配が確立されていない中国のように、最高指導者の役職が単なる肩書きに過ぎない国の場合は、毛沢東や鄧小平といった個人がカリスマを持つことはあっても、国家主席や首相といった役職がカリスマを持つことは無いのである。そのため、法の支配が確立されていない国では、法治国家のように国家主席や首相といった役職と一緒に、カリスマを後継者に継承させることができないのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、法治国家のような大統領制は成立しないのである。
 また、中国のような法の支配が確立されていない国で実質的な最高指導者になるために必要不可欠なことが、軍や警察のような、力を行使する組織を支配することである。法の支配が確立されていない国では、武断政治ができなければ国家を統治することができない。武断政治とは、武力を背景にして力と恐怖によって政治家、官僚、そして国民を法・秩序に従わせることである。従って、武断政治をするためには、力の根源と言うべき軍を支配することが絶対に必要なのである。そして、法の支配が確立されていない国において軍を支配する方法とは、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持つ指導者が、その力を使って軍人たちを「子分」あるいは「家来」にすることによって軍を掌握することなのである。法の支配が確立されていない国では、軍を支配する者が実質的な国家の最高指導者なのである。このように、軍を実質的に支配していたことが、鄧小平が中国の実質的な最高指導者であったもう一つの理由なのである。中国のような法の支配が確立されていない国は、軍を制する者が国家を制する国なのである。
 鄧小平時代の中国と同じことが、ロシアでも起きている。プーチン大統領は、ロシア憲法に定められた三選禁止条項のために2008年の大統領選挙に出られないため、身代わりとして「家来」のメドヴェージェフを大統領候補者として擁立することにした。そして2008年3月2日に大統領選挙が行われ、メドヴェージェフは大統領に当選した。そしてプーチンは、メドヴェージェフ大統領の下で首相に就任した。ところが、この時のプーチンは、首相と言っても実質的にはロシアの最高指導者であり、法的に正統な最高指導者であるはずのメドヴェージェフ大統領は、鄧小平にとっての江沢民と同じく、プーチンの傀儡に過ぎなかったのである。つまり、メドヴェージェフ大統領は、法的にはプーチン首相の上司であっても、実態は、プーチンという「主人」に仕える「家来」だったのである。その後、2012年の大統領選挙では、再びプーチンが大統領に当選した。ロシアで中国と同様に、実質的な最高指導者と法的に正統な最高指導者が別人と言う事態が起きたことは、ロシアも中国と同じく、法の支配が確立されていない国であり、大統領制が成立してはおらず、大統領の役職は単なる肩書きに過ぎないことを示しているのである。つまり、プーチンが大統領だと言っても、それは、プーチンという権力者が大統領と言う肩書きを身にまとっているに過ぎないのである。ロシアは、軍と秘密警察を制する者が国家を制する国と言える。従って、現在のロシアでは、軍と秘密警察を制する力を持つプーチン以外の者には最高指導者は務まらないのである。
 更に、武家政治の時代の日本も、法の支配が確立されていない国の権力がいかなるものかを示すよい例である。たとえば徳川家康は、征夷大将軍の役職を就任から二年二ヶ月で息子の秀忠に譲ってしまう。ところが征夷大将軍を辞職したはずの家康は、大御所様と呼ばれ、隠居城である駿府城から二代将軍秀忠の頭越しに様々な指令を出し、事実上の最高権力者として天下に君臨するのである。そして大坂冬の陣や大坂夏の陣も、家康は自ら陣頭指揮をしているのである。つまり、この時期の二代将軍秀忠は、家康の傀儡に過ぎなかったのである。家康を主君と仰ぐ徳川家の家臣たちにとって、征夷大将軍であるか否かにかかわらず家康だけが自分たちの主君だった。そのため家臣のほとんどが、家康が死ぬまで家康個人を自分たちの主君と仰ぎ続けたのである。二代将軍秀忠が名実共に征夷大将軍として天下に号令できるようになったのは家康の死後のことである。その二代将軍秀忠も家康と同様、存命中に息子の家光に征夷大将軍の役職を譲り、大御所様と呼ばれ、事実上の最高権力者として君臨するのである。後に名将軍と称えられた三代将軍の家光も、秀忠の存命中は、その傀儡の地位に甘んじていたのである。つまり、日本の武家政治における征夷大将軍の役職も、中国の皇帝や国家主席、そしてロシアの大統領と同じく、単なる肩書きに過ぎなかったのである。また、幕末には徳川慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷に返上し、大政奉還が実現したが、大政奉還の後も依然として徳川慶喜は事実上の武家の棟梁であり、江戸幕府は実質的に存続していたのである。つまり徳川慶喜が肩書きに過ぎない征夷大将軍の役職を失ったところで、江戸幕府が消滅したわけではなかったのである。そのため、薩摩や長州と言った倒幕勢力が日本に本格的な変革を起こすためには、武力によって徳川慶喜を打倒するしか無かったのである。
 中国、ロシア、江戸幕府の例で分かるように、法の支配が確立されていない国では、最高権力者が政治力を保ったままで生きている間は、事実上権力の継承ができないことがある。このことが、時と場合によっては、国家や国民に悲劇をもたらすことがある。なぜなら、権力者が政治力を保ったままで生きている間に権力の継承をしようとすれば、権力者を失脚させて政治力を失わせるか、さもなければ権力者を殺してしまうしかない場合があるからである。また、逆に権力者も、自分に取って代わりそうな人物が現れたら、その者に、いつ権力や命を奪われるかわからないのである。そのため、法の支配が確立されていない国に権力闘争が起きると、身の毛もよだつような血みどろの闘争に発展することがあるのである。
 その一例が、旧ソビエトでスターリンが行った粛清と呼ばれる政治弾圧である。ソビエトの独裁者スターリンは、粛清によって数多くの人間を殺害したり強制収容所や刑務所に送り込んだりした。粛清の犠牲者は、幹部を含めた共産党員、軍人、そして文化人や一般市民にも及んだ。粛清によって殺された人間の数は、数百万人とも数千万人とも言われている。スターリンがこのような大量殺戮を行った理由は、自らの権力を守るために自分に敵対すると思われる勢力を抹殺することである。これに加えて、スターリン自身の猜疑心が強く残忍な性格や、ロシア独特のツァーリズムと呼ばれる武断政治の伝統も粛清の背景にあった。更に、ソビエトが法の支配が確立されていない国だったこともスターリンが粛清を行った理由である。
 ソビエトのような法の支配が確立されていない国は、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような主従関係で成り立っている。レーニンが死にスターリンが最高指導者になっても、かつてレーニンの「家来」だった者が政権内に数多く残っていた。法治国家ならば前任者の部下だった者も、法の手続きに従い後任の最高指導者が就任すれば、その部下にならざるを得ない。しかし、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような個人的な主従関係で成り立っているソビエトでは、主だった共産党幹部や軍人や官僚を最高指導者の「家来」に替えてしまわなければ最高指導者の地位を確立できないのである。そのためにスターリンは、前任者レーニンの「家来」を一掃し、自分の息のかかった「家来」と入れ替えなければならなかった。その過程でスターリンは多くの人間を抹殺してしまったのである。
 また、法の支配が確立されていない国では、法の手続きによる権力の継承の仕組みが確立されていないため、国家の最高指導者は、自分に取って代わりかねないと思われる人物が現れたら、その者に、いつ最高指導者の地位や命を奪われるかわからない。だから最高指導者にしてみれば、最高指導者の地位を奪う可能性のありそうな人物は、前もって始末しておかなければ安心できないのである。そこでスターリンは、自分に取って代わって最高指導者になりそうな人物や、その人物を支持する人たちを抹殺してしまったのである。
 更に、共産党政権下の中国の例を見てみよう。
 毛沢東が推進した「大躍進」と呼ばれる経済政策の失敗によって中国経済は混乱に陥った。そのため、1959年4月に開かれた全国人民代表大会で毛沢東は国家主席を辞任し、新たに劉少奇が国家主席に就任した。劉少奇国家主席は「大躍進」によって混乱した中国経済を立て直すため、鄧小平と共に市場経済を導入した経済政策を始めた。
 当時の国家主席は、中国における法律上の最高指導者の役職である。アメリカならば大統領に匹敵する地位である。法治国家ならば、法律上の最高指導者の職を辞してしまったら、どんなに偉大な指導者も、ただの人になってしまう。ところが法の支配が確立されていない中国では、そうはいかない。法の支配が確立されていない国では法的な地位に一切関係なく、多くの人間から最高指導者だと思われている人物が最高指導者である。毛沢東が国家主席の職を失っても、毛沢東を自分たちの最高指導者だと思っている共産党員、軍人、官僚、そして国民が多数存在していた。その人たちにとっての中国の最高指導者は依然として毛沢東であって、法律上の最高指導者である劉少奇国家主席ではないのである。また、毛沢東は、国家主席を辞任しても、もう一つの国家権力とも言うべき共産党主席の地位にはとどまっていた。
 一方、新しい国家主席の劉少奇が江沢民のような非力な人物だったら、毛沢東の傀儡と化している所である。しかし劉少奇は、政治家として、それなりに有能だったため、劉少奇を支持する勢力も少なからず存在していた。そのため、劉少奇もまた最高指導者となった。この結果、中国は、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が並び立つことになってしまったのである。
 ところが、毛沢東は、もう一度たった一人の最高指導者として中国に君臨することを望んでいたため、何としても劉少奇と、その支持勢力を葬り去りたかった。そこで毛沢東は、学生や市民を煽動して文化大革命と呼ばれる大衆運動を起こし、これを利用して劉少奇を始めとした政敵を攻撃して葬り去ろうとした。やがて毛沢東によって煽動された紅衛兵と称する学生たちは、劉少奇や鄧小平を大衆運動によって攻撃し始めた。また、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。そこで毛沢東は、軍の実力者の林彪を味方にして軍に対する影響力を強めようとした。やがて林彪は、1969年4月の第九回中国共産党大会で毛沢東の後継者に指名された。一方、劉少奇は毛沢東との権力闘争に敗れ、あらゆる役職から解任され、1969年11月に幽閉されていた建物の中で病死した。
 しかし、これで血生臭い抗争が終わったわけではない。今度は、毛沢東と、その後継者に指名された林彪との間で確執が始まったのである。
 1969年3月に中国とソビエトの国境の珍宝島で中国軍とソビエト軍の武力衝突が起きたことをきっかけに、毛沢東はソビエトの脅威を実感するようになり、ソビエトに対抗するため、かつて敵視していたアメリカに接近しようとした。これに対して林彪は、中国にとって最大の敵はあくまでアメリカであるという立場だった。この対外政策での立場の違いが、毛沢東と林彪の確執の始まりと言われている。
 1970年8月から9月にかけて開かれた第九期中央委員会第二回総会で、林彪と、その一派は、毛沢東を天才と持ち上げ、国家主席に就任するように求めた。これに対して毛沢東は、自分が国家主席に就任することを辞退すれば、林彪が国家主席に就任するつもりではないかと疑った。
 そもそも林彪にしてみれば、毛沢東の後継者に指名されたとは言え、毛沢東が健在である限り、自分が必ず権力者になれるという保証はどこにも無いのである。つまり、林彪が確実に権力を手にしようとするなら、毛沢東を打倒するしか無いのである。従って、毛沢東にしてみれば、林彪は自分の権力や命を脅かす危険な存在なのである。林彪を危険視する毛沢東は、林彪と、その側近の粛清に乗り出した。
 やがて、毛沢東が林彪を「極右」と批判したことをきっかけに、林彪と、その側近たちは、自分たちの身に危険が迫っていることを感じるようになったため、毛沢東を倒して権力を奪うクーデターを計画した。しかし、クーデター計画が事前に毛沢東に漏れたため、計画は失敗してしまった。林彪は飛行機でソビエトに亡命しようとするが、1971年9月13日、飛行機がモンゴルで墜落して死亡した。
 この事件の反省から、毛沢東が最終的に自分の後継者に指名したのが華国鋒である。華国鋒は毛沢東の言いなりになるしかない無能な人物である。毛沢東は、華国鋒のような無能な人物ならば自分に危害を加えることは無いと判断したのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者の数だけ最高指導者が出現し、国家が分列してしまう可能性がある。だから一旦権力を握った者は、自分以外にも最高指導者としてふさわしいと思われている者が存在する場合は、その者を抹殺してしまわなければ権力を安定させることができないのである。こうした中国の指導者たちの権力闘争は、まるで三国志の世界の出来事である。つまり、中国の権力のあり方は、三国志の時代と大して変わっていないのである。それは、中国に法の支配が確立されていないからである。法の支配が確立された国は、法律や制度が、一人の人間しか最高指導者になれないように作られ、それに従って最高指導者が決定されているため、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者が何人いようと、国家が分列するようなことは起きないのである。ただし、中国にも権力の継承の仕組みを定めた法律は存在するが、法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が別人であるようなことが起きる中国では、安定した権力の継承を保障するものではない。
 国家の最高指導者の地位を安定させるためには、最高指導者の法的な正統性を確立することが必要である。最高指導者の法的な正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという法的な根拠である。最高指導者の法的な正統性を確立するためには、アメリカの大統領制のように、あらかじめ最高指導者に就任するための正統な法的手続きを定めておき、それに従って最高指導者に就任しなければならない。しかし、これは法の手続きに従って意志決定が行われる法治国家にのみ可能なことであり、法の支配が確立されておらず、法の手続きとは無関係に意志決定が行われる国家では不可能である。従って、中国のような法の支配が確立されていない国は、最高指導者の法的な正統性を確立することができないのである。中国は、古代から王政や帝政といった君主制が続いて来たが、常に政治の実権が君主にあったとは限らない。有力な臣下や外戚、そして君主の母親や后などが政治の実権を握ることもあった。そして、彼らや彼らの一族が新しい王朝を作ることも希ではなかった。このようなことが起きる原因は、中国は法治国家になれなかったため、歴代の君主が法的な正統性を確立できなかったことである。強大な権力を持っていた秦の始皇帝以降の皇帝といえども、法的な正統性など無かったのである。だから中国では易姓革命や皇位の簒奪が絶えることが無かったのである。最高指導者としての法的な正統性が確立されていなければ、政治家も、官僚も、軍人も、そして国民も、一体誰の指導に従ってよいのかわからなくなり、政治や社会が混乱状態に陥ってしまうこともある。その典型的な例が、共産党政権下の中国で起きた文化大革命なのである。また、歴史上、世界の多くの国では、権力の継承を巡る争いが激化した結果、国家が分裂して内乱状態に陥ってしまった例がいくらでもある。国家の最高指導者に法的な正統性が確立されていないと、このような政治の混乱を招く危険性が高いのである。従って、最高指導者の地位を安定させるためには、法の支配を確立し、国家の最高指導者の法的な正統性をしっかりと確立しなければならないのである。
 近代の欧米諸国や明治維新以降の日本のような、法の支配が確立された国では、最高指導者としての法的な正統性が無ければ、名実共に最高指導者になることはできない。最高指導者としての法的な正統性が無い者が、実質的な最高指導者や、それに匹敵するような権力を持つのは、中国や明治維新以前の日本のような、法の支配が確立されていない国に起き得ることである。
 明治維新以前の日本は、七百年近くにわたって征夷大将軍を頂点とする武家政治の統治下にあった。日本に武家政治が成立した背景にあったのが、本来は法的に正統な最高指導者である天皇が国家を統治する力を失ったことと、法の支配が確立されていなかったことである。法の支配が確立されていなかった明治維新以前の日本では、天皇が国家を統治する力を失った結果、源氏と平氏の抗争、南北朝の争乱、戦国時代といった乱世になってしまった。この乱世を武力によって平定した者が天皇から征夷大将軍の称号を与えられ、日本を武断政治によって統治したのが武家政治である。
 一方、明治維新以降の日本は、法の支配が確立されているため、戦後体制下のように、天皇が国家を統治する力を失っても乱世になることは無い。そして、法の支配が確立されている国家では、法的に正統な最高指導者でなければ国家の最高指導者になることはできない。そのため、法の支配が確立された明治維新以降の日本では、幕府のような法的な正統性の無い体制は成立しないのである。更に、日本は、天皇制の伝統のため、天皇以外の法的に正当な最高指導者の役職が成立することが無い。従って、明治維新以降の日本は、天皇が国家を統治する力を失っても、武家政治が成立することも天皇以外の者が正統な国家の最高指導者になることもあり得ないのである。


中国の伝統が民主化を否定する

     中国の伝統が民主化を否定する

 

 中国の政治には、様々な形で、中国固有の伝統が影響を与えている。
 中国の政治において、指導者が最も警戒しなければならないことが国民の失業問題である。なぜなら、中国にとって失業問題は、古代から国家を揺るがす重大な問題だったからである。
 中国のほとんどの王朝では、末期になると大規模な農民反乱が起きている。秦の始皇帝の死後に起きた陳勝・呉広の乱を始めとして、黄巾の乱、李自成の乱、太平天国の乱といった大規模な農民反乱によって、歴代中国の王朝は国力を衰退させられて滅亡していった。中国の王朝の末期には、圧政による貧困や天災による不作、あるいは人口増加による食糧不足などによって飯が食べられなくなり失業した農民が増大する。更に、失業した農民たちの中には、流民と呼ばれる小規模な徒党を組み、村々を襲い、食料を奪い、荒らし回る者も現れる。やがて国中の失業した農民や流民たちが、張角や李自成や洪秀全といった強力な指導者の下に集まり大規模な反乱を起こすのである。
 ただし、王朝を滅亡させるほどの農民反乱が歴史上何度も繰り返し起きる国は、中国以外には存在しない。中国に繰り返し農民反乱が起きる理由の一つには、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないということもあるが、それだけでは説明にならない。なぜなら、世界には、国民に、自ら進んで法・秩序に従う慣習が確立されていないにもかかわらず、失業して飯が食べられなくなった者が多数出たとしても、国が滅亡するほどの反乱など滅多に起きない国が数多くあるからである。中国に繰り返し農民反乱が起きる根本的な原因は、失業した農民による反乱が中国の伝統になっているからだと考えざるを得ないのである。つまり、国民に飯を食べさせることができないような無能な指導者は、武力を行使してでも打倒して、国民に飯を食べさせることができる有能な指導者と取り替えなければならないという考えが中国人の伝統になってしまっているということである。そのため、中国の指導者と国家体制を守るためには、指導者が国民に飯を食べさせることができないような無能な人物だと思われることは、何としても避けなければならないのである。従って、中国の指導者にとって、大量の失業者を出すことは自殺行為なのである。
 歴代王朝と同様に、現在の中国にとっても失業問題は国家の重大問題である。経済の失速による失業者の増加は、国家体制を危機に陥れかねない。1989年の天安門事件の後、一時、多くの外国資本が国外へ引き上げてしまったこともあり、中国の経済成長は鈍化してしまった。この事態に対して最高指導者の鄧小平は、1992年の1月から2月にかけて広東省などの中国南部を視察し、経済成長の加速の必要性を説いて回った。これが、「南巡講話」である。これをきっかけにして中国経済は再び成長し始める。その結果、中国は失業者の増大による経済や国家体制の危機を免れることができたのである。しかし、これは鄧小平のような強力なカリスマを持つ指導者だからこそできたことであって、誰にでもできることではない。現在の中国には鄧小平のような強力なカリスマを持つ指導者は存在しない。従って、今後、もし中国の経済成長が失速し、大量の失業者が出るような事態になれば、対処できなくなる可能性もある。そのようなことになったら、共産党政権の存続が危うくなってしまう。
 近年の中国は、「世界の工場」などと言われ、日本の製造業を脅かすような経済発展を遂げている。しかし、経済発展の恩恵にあずかっている人たちがいる一方で、中国の人口の約六割を占める農民の中には依然として貧しい生活を強いられている人たちも数多く存在する。そして、あまりの貧しさのために農村で生活ができなくなった農民の多くは、仕事のある都市などへ出稼ぎに行って生計を立て、農民工と呼ばれている。この農民工と呼ばれる出稼ぎ農民の数は、二億人近いと言われている。もし、中国の経済成長が行き詰まるようなことになれば、農民工を始めとした多くの中国人が職を失うことになる。その時、出稼ぎ先での生活に行き詰まり、農村へ帰っても生活ができない農民たちが一体どのような行動に走るのか全く予想ができない。最悪の場合は、過去の失業した農民のように、徒党を組んで暴動や反乱を起こす可能性も無いとは言えない。従って、共産党政権の将来は楽観視できないのである。
 また、中国の民主化問題にも中国の伝統が影響を与えている。
 結論から言ってしまえば、中国の民主化は不可能である。なぜなら民主主義国家は、法の支配を前提に成り立つものだからである。法の支配が確立されていない中国は、国民に自由を与えることも民主主義国家になることも不可能である。
 国家が国民に自由を与えることは、国家権力による強制が無くても国民が自ら法・秩序に従う慣習が確立された国でなければできないことである。中国のような法の支配が確立されていない国の国民は、軍や警察といった力を背景にした権力者が恐ろしいから法・秩序に従うのである。これが武断政治であり、力と恐怖による支配とも言える。そのため、中国のような法の支配が確立されていない国では、国民が権力者を恐れなくなったら、法・秩序の維持どころか国家体制の維持さえできなくなる恐れがある。たとえば、言論の自由を与えるということは、権力者を自由に批判する権利を保障することである。つまり、国民がいくら権力者を批判しても、報復されたり罰せられたりすることは無いということである。中国のような法の支配が確立されていない国で、このようなことを認めたら、国民は権力者を恐れなくなり、その結果、武断政治ができなくなり、統治能力を失ってしまうのである。だから、中国のような法の支配が確立されていない国は、国民に言論の自由を与えるわけにはいかないのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国で、国民に政治活動の自由や政党・結社を作る自由を与えたら、国家体制が崩壊するきっかけになる可能性がある。中国では、小さな勢力が、やがて強大化し、圧倒的に強大な武力を持つ者を倒してしまうこともある。そのよい例が、中国における共産党政権の成立である。中国共産党は1921年7月1日に上海で結成されたが、この時の中国共産党は、わずか数十名の共産主義者の集まりに過ぎなかった。その後、中国共産党は、毛沢東の指導の下で国民党の軍と戦いながら次第に力をつけていく。やがて毛沢東の率いる中国共産党の軍は、圧倒的に強大な兵力を持つ国民党を台湾へ追い払い、共産党政権を成立させたのである。中国で国民に政治活動の自由や政党・結社を作る自由を与えたら、今度は、共産党政権が国民党政権の二の舞になる恐れがある。そこまで行かなくても、治安を乱したり社会を混乱させたりする恐れもある。
 また、反政府活動や反政府暴動のようなことが起きるきっかけになるような情報が国民に届かないようにするためには、情報統制をしなければならない。
 これらの理由のため、中国政府は国民に、言論、政治活動、報道といったものの自由を与えることができないのである。中国のような法の支配が確立されていない国は、武力による革命や国家の分裂と言った事態が起きる危険性が常に存在するのである。そういった危険性から権力者や国家体制を守るためには、力と恐怖の支配とも言える武断政治が必要であり、そのために民主化ができないのである。
 法の支配が確立されていないために民主主義国家になれないのは中国に限ったことではない。世界には、中国と同様に、法の支配が確立されていないために民主主義国家になれない国が数多く存在する。その一例が、イラク戦争後のイラクである。
 アメリカがイラク戦争を正当化する理由の一つに、イラクに民主主義国家を樹立することがあった。しかし、法の支配が確立されていないイラクに民主主義国家が成立するとは考えられない。つまり、イラクのように、法の支配が確立されていない国は、中国と同様に力と恐怖による支配、すなわち武断政治をするしかないのである。
 アメリカとイギリスは、2003年3月20日にイラクに対して開戦を宣言し、イラク戦争を開始した。そして4月9日にはイラクの首都バグダッドが陥落し、サダム・フセイン政権は崩壊した。ところが、サダム・フセイン政権が崩壊した直後から、バグダッド市民による略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が始まった。個人の家や商店どころか、病院や博物館までが略奪の対象となり、医療器具や貴重な文化財までが略奪されてしまった。それまでイラク国民は、サダム・フセイン政権の力と恐怖を背景にした武断政治によって法・秩序を守ることを強制されていた。ところがサダム・フセイン政権が崩壊した結果、法・秩序を守ることを強制する力が失われてしまった。そのため、略奪や強盗などの法・秩序に反する行為が横行する結果になったのである。これが法の支配が確立されていない国の国民なのである。イラク国民のような法の支配が確立されていない国の国民に自由を与えたら、法・秩序が混乱してしまうだけである。イラクのような法の支配が確立されていない国で法・秩序を維持するためには、権力者がサダム・フセインのように国民から恐れられていなければならないため、力と恐怖による支配、すなわち武断政治が必要不可欠なのである。従って、イラク国民に自由を与えることなど到底不可能である。このような国に民主主義が成立するわけがない。
 2011年12月14日にオバマ大統領がイラク戦争の終結を宣言し、12月18日にはイラクに駐留するアメリカ軍の撤収が完了した。その後のイラクが一体どうなったか。クルド人の自治区は実質的に独立し、スンニ派のイスラム教徒が住んでいる地域は、一時、「イスラム国」と名乗る武装集団の支配下に入った。その結果、一時は、イラク政府が統治している地域が、シーア派のイスラム教徒が住んでいる地域だけになってしまった。つまり、アメリカ軍が撤収した後のイラクは、民主主義国家になるどころか、政府が統治能力を失い、分裂国家になってしまったのである。イラク政府が「イスラム国」に支配された地域を奪還できたのは、アメリカやイランなどの協力によるものであり、イラク政府の力だけでは不可能だった。つまり、現在のイラクの体制は、独力で国家の秩序を維持することができない欠陥体制であり、民主主義国家である以前に、国家と呼べるような代物ではないのである。従って、イラク戦争がアメリカやイギリスの言うような、イラクに民主主義国家を樹立するための戦争だとすれば、完全な失敗だったことになる。
 法治国家の場合は、国家の非常事態に対処するために一時的に独裁権力を行使する必要があるのに対して、中国やイラクのような法の支配が確立されていない国の場合は、法・秩序や治安を維持するため、日常的に独裁権力を行使し続ける必要があるのである。
 アメリカの大統領制のように、選挙で最高指導者を選ぶためには、法に定められた手続きに従って権力の継承をする制度が確立されていなければならない。ところが中国のような法の支配が確立されていない国では、法に定められた手続きに従った権力の継承ができないのである。そのため文化大革命の時の中国では、毛沢東と劉少奇の二人が同時に国家の最高指導者となり、政治が混乱に陥ってしまった。従って、法の支配が確立されていない中国でアメリカのように大統領選挙をしても、前大統領と新大統領が同時に最高指導者となり政治が混乱するようなことが起きる恐れがある。また、鄧小平の時代には、法律上の最高指導者は江沢民なのに、実質的な最高指導者は鄧小平という事態が起きてしまった。これでは選挙に当選して法律上の最高指導者になっても、実質的な最高指導者になれるという保証は無いことになってしまう。つまり、選挙によって大統領を選んでも、選挙で当選した法律上の大統領に政治の実権が無く、鄧小平が政治の実権を握っていた頃の中国のように、法的には国家の最高指導者ではない人物が、実質的な最高指導者として国家に君臨するような事態も起き得るのである。従って、中国のような法の支配が確立されていない国では、選挙によって国家の指導者を選ぶことは困難なのである。
 これらの理由のため、中国、アラブ諸国、ロシアといった国々のような、法の支配が確立されていない国が民主主義国家になることは不可能なのである。
 私の考えに対して、次のように反論する人もいるだろう。同じ中国人の国なのに台湾では民主化に成功したではないか。同じことがどうして大陸の中国人にできないと言えるのか。
 それは中国と台湾とでは歴史が違うからである。台湾はかつて日本の植民地となり、約五十年間日本によって統治されていた。その結果、日本によって法の支配の伝統が台湾に植え付けられて定着したのである。そのため、台湾は法治国家になることができたのである。これは、インドやシンガポールがイギリスの植民地政策の結果として法治国家になったのと同じである。法治国家になることができた結果、台湾やインドには、形の上では民主主義国家が成立することが可能になったのである。ただし、台湾やインドにアメリカやイギリスのような「成熟した民主主義」が成立しているのか否かは、今の所、不明である。
 学者や言論人の中には、議会制度の設立や選挙の実行といった、欧米諸国の言う民主化をすることによって法治国家になると言っている者が存在する。しかし、たとえばアフガニスタンやイラクでは、アメリカの軍事介入以降、議会制度が設立され、大統領選挙や議会選挙が何度も行われているが、一向に法治国家になる様子が無いのが現実である。アフガニスタンやイラクが欧米諸国の言う民主化によって法治国家になっていれば、アフガニスタンではタリバンのゲリラの多くが自主的にゲリラ活動を停止し、イラクでは「イスラム国」のような武装集団が勢力を拡大することは無かったはずである。要するに、民主化によって法治国家になるのではなく、法治国家になった結果として民主化が可能になるのである。
 中国に民主主義が成立しないのは、法治国家の伝統が無いというだけではなく、中国の歴史の問題でもある。中国の伝統的な国家体制の基礎を作ったのは、秦の始皇帝である。中国では、始皇帝が法治主義や官僚制度による統治を始めたということになっているが、始皇帝が作り上げた法治主義や官僚制度は、近代欧米の法治国家や官僚制度のような、国民が自らの意志で法・秩序に従うことを前提にしたものではない。更に、権力者自身が法によって縛られるという考えも無い。始皇帝の法治主義や官僚制度とは、権力者が、武力と強力なカリスマの力を背景にして、力ずくで民衆を法・秩序や官僚制度に従わせるものである。この始皇帝流の統治が、秦が滅んだ後も、漢王朝を始めとした歴代の王朝によって受け継がれていった。その結果、中国では約二千年にわたって始皇帝流の統治が続き、これが中国の伝統となり社会に定着してしまった。そのため中国は、法の支配を始めとした民主主義体制の基礎が作られることが無いまま今日に至っているのである。その結果、二十世紀になって国民党政権や共産党政権が成立しても、蒋介石や毛沢東を始めとした指導者たちは、始皇帝流の統治をするしか無かったのである。孫文が指導した辛亥革命は、皇帝と称する権力者が中国に君臨することは否定したが、歴代の皇帝によって行われて来た始皇帝流の統治の伝統までは否定できなかったのである。
 国家体制や政治のあり方は、国家や民族固有の歴史や伝統・文化の産物である。天安門事件以来、欧米諸国は、中国に対して民主化や人権問題の改善を要求し続けているが、始皇帝流の統治の伝統が定着してしまっている中国に、そのようなことをいくら要求しても無駄なことである。法の支配の伝統が確立されておらず、しかも始皇帝流の統治の伝統が社会に定着してしまっている中国に、法の支配の伝統を前提に成立する欧米流の民主主義国家が成立するわけがない。中国は、たとえ共産党政権が崩壊して新しい体制が成立しても、結局は始皇帝流の統治をするしか無いのである。欧米諸国は、中国人を含めた世界の全ての人間が、自分たち欧米人と同じ伝統・文化を持っていると錯覚しているのである。



読者登録

mk3224さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について