閉じる


<<最初から読む

7 / 29ページ

民主主義が独裁者に取って代わられる理由

  民主主義が独裁者に取って代わられる理由

 

 既に述べたように、一般的に、民主主義国家と独裁者については、おおよそ次のような理論によって説明されている。
 「民主主義とは、主権者たる国民が政治に参加して自由に政策や国家のあり方を決めることができる国家体制であり、国民の自由や権利を守るための国家体制である。そして、国民の主権、自由、権利といったものを守るためには、国家の最高指導者が独裁者になることを防ぐ仕組みが必要である。独裁とは、強力なカリスマを持った最高指導者が、その強力カリスマの力によって国民の意識を変えて自由な思考をできなくしたり、憲法や法律に違反する権力を行使したり、憲法や法律によって定められた議会の承認による手続きが必要な権力の行使を議会の承認無しで行ったりすることによって、主権者たる国民の自由や権利を制限することである。このような独裁権力の行使から国民の自由と権利を守る仕組みが三権分立と議会政治である。まず、国家の最高指導者には、国民の意識を変えるような強力なカリスマは持たせない。そして、法的権限を法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、司法権を行使する裁判所に、それぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐのである。また、最高指導者が権力の行使や法律の制定をする場合も、法律によって定められた議会の承認などの民主的な手続きに従わせなくてはならない。更に、国民には、言論の自由や思想の自由、そして知る権利などを与え、議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。このようにして、国家の最高指導者が独裁者になることを防ぎ、国民の自由と権利を守るのである。」
 この理論を「民主主義国家の理論」と呼ぶことにする。
 この「民主主義国家の理論」には矛盾がある。
 国家の非常事態においては早急な意志決定と行動が必要な場合があり、議会の承認による民主的な手続きをしている時間的な余裕が無い場合もある。また、国家の非常事態おいて重大な決定を巡って国論が分列して収拾がつかなくなる場合もある。このような場合に国民を一つに団結させて非常事態に対処するため、最高指導者には強力なカリスマや指導力が必要不可欠である。しかし、これでは、最高指導者は突出した力を持つことになり、三権分立が破綻して独裁者になってしまう恐れがある。しかし、そもそも国家が存在する最大の理由は、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである。そのため、国家の最高指導者には、非常事態に対処できるような強大な権力が必要である。国民の生命や財産を守った上で、国民の自由や権利を守れるのならば、なおさらよいと言うことである。国家とはこういうものである。従って、国家と「民主主義国家の理論」は矛盾することになってしまうのである。
 また、そもそも、実際に「民主主義国家の理論」の通りに民主主義体制が機能するのなら、一旦民主主義体制が成立した国に独裁者が登場することは無いはずである。ところが現実は、民主主義体制が独裁者に取って代わられた例は数多く存在するのである。フランスの第一共和政はナポレオンの独裁体制に取って代わられ、ドイツのワイマール共和国と呼ばれる共和政はヒトラーの独裁体制に取って代わられているのである。これらの事実は、「民主主義国家の理論」のどこかに誤りがある可能性を示しているのである。
 まず、ナポレオンやヒトラーの独裁体制が、いかにして成立したかを見てみよう。
 フランスでは1789年7月に始まったフランス革命をきっかけにブルボン王朝が廃止され、第一共和政が成立した。しかし、フランス革命が自国へ波及することを恐れるヨーロッパ諸国が1793年3月にイギリスを中心に第一次対仏大同盟を結成して攻勢に出たため、第一共和政は滅亡の危機に立たされることになった。この時、フランスでは一軍人のナポレオンが台頭し、武力によって敵国軍を次々に打ち破り、1797年10月にオーストリアとの間でカンポ・フォルミオの和約を締結して第一次対仏大同盟を解体させた。しかし、イギリスを中心とする反フランスのヨーロッパ諸国は、1799年3月に第二次対仏大同盟を結成した。ナポレオンは、1799年11月にクーデターによって政治の実権を握り、第二次対仏大同盟に属するオーストリアの軍を撃破した。そして1802年3月にイギリスとの間にアミアンの和約を締結して第二次対仏大同盟を解体させた。こうしてナポレオンは、フランスを軍事的な危機から救い、国民的英雄となった。そして1804年5月、ナポレオンは国民投票の結果、圧倒的な国民の支持によって皇帝に即位し、独裁体制を確立したのである。
 1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年11月に起きたドイツ革命によって終了した。この革命によってドイツはホーエンツォレルン王家の帝政を廃止して共和政となった。ドイツの共和政は、1919年にドイツ共和国憲法を制定するための議会がワイマールで開かれたことから、ワイマール共和国と呼ばれることになった。ところが、1929年10月にアメリカに始まった世界大恐慌によってドイツは経済危機に陥り、失業率が40%近くにまで達してしまった。しかし、ワイマール体制下の議会政治家には、この経済危機に対処することができなかったため、国民の不満が増大していった。そのためドイツ国民は、この悲惨な状況から国民を救済してくれる強力な指導者の登場を望んだ。こうした状況の下で、1933年1月にヒトラーは首相に任命された。そして3月には、政府に立法権を与える全権委任法を成立させて議会を形骸化させた。ヒトラーは大規模な公共事業や軍備拡大によって失業問題を解決した。また、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に反して再軍備宣言を行ったり、ヴェルサイユ条約とロカルノ条約によって非武装地帯になっていたラインラントへ軍隊を進駐させたりすることによって、ドイツ国民が不満を抱いていたヴェルサイユ体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序を破綻させた。これらの行為によってヒトラーは国民の絶大な支持を得て強大なカリスマを持つことになり、独裁権力を確立したのである。
 フランスやドイツに限らず、国家が、国民の生命や財産をおびやかすような非常事態に陥ると、国民は、非常事態から国家や国民を救済してくれる強力な指導者の登場を求めることになり、それに答える形で「英雄」や「天才的指導者」と呼ばれるような強大なカリスマと指導力を持った指導者が登場することがある。ところが、場合によっては、「英雄」や「天才的指導者」が、その強大なカリスマと指導力を背景にして議会政治や言論の自由を停止させ、本格的な独裁政権を確立してしまうことがある。ナポレオンやヒトラーのような独裁者に対しては、三権分立や議会政治など全く無力なのである。なぜなら、ナポレオンやヒトラーのような独裁者は、国家の非常事態から国民の生命や財産を守るため、国民に求められて登場するものだからである。つまり、独裁者の登場を阻止することは、国民が求めていることを否定することなのである。そのため、独裁者の登場を阻止しようとする者は、国民を敵に回すことになるのである。それゆえ、三権分立だろうが議会政治だろうが、いかなる手段も独裁者の登場を阻止する手段としては使えないのである。これが、民主主義国家が国家の非常時において独裁者の登場を阻止できない理由である。
 国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守るためには、独裁者になり得るような強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要不可欠である。そのため、全ての民主主義国家は、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられてしまう可能性があることになる。ところが、アメリカや、立憲君主制が確立された後のイギリスは、フランスやドイツと同様に何度も国家の非常事態が起きているにもかかわらず、ナポレオンやヒトラーのような独裁者が登場したことは無い。一体、それはなぜなのか。
 ただし、「民主主義国家の理論」からすれば、現在のアメリカも、一種の独裁国家ということになってしまう。なぜなら、現実にアメリカ大統領には独裁的なところがあるからである。
 アメリカには、国家の非常事態を大統領の独裁的な権力の行使によって乗り切って来た歴史がある。その一例がリンカーン大統領である。
 1861年に始まった南北戦争の最中、リンカーン大統領は何度も独裁的な権力を行使している。たとえば、アメリカ合衆国憲法の第一条第八項には「陸軍を募集し、維持すること」と「海軍を創設し、維持すること」は、連邦議会の権限であると記されているが、リンカーン大統領は、連邦議会を差し置いて大統領権限で志願兵の募集や陸海軍正規兵の増員をしたのである。また、リンカーン大統領は、合衆国政府軍の軍事行動への妨害行為に対処するため、大統領権限によって人身保護令の特権を停止した。人身保護令の特権とは、個人が権力よって身体を拘束されても、裁判所がそれを法的に不当な行為であると判断すれば、権力は、すみやかに拘束された者を釈放しなければならない制度である。そして憲法の第一条第九項には、「人身保護令の特権は、反乱または侵略に際し公共の安全上必要とされる場合のほか、これを停止してはならない。」とあるが、リンカーン大統領が人身保護令の特権を停止した時点では、多くの者が、人身保護令の特権を停止する権限は連邦議会のみにあるという憲法解釈をしていたのである。従って、リンカーン大統領が人身保護令の特権を停止したのは憲法違反と言うことになるのである。そもそも人身保護令の特権は、権力が個人の身体を不当に拘束する行為から個人の自由や権利を守るための制度である。つまり、リンカーン大統領は、個人の自由や権利を守ることよりも、南北戦争に勝利して「人民の人民による人民のための政治」を守ることを優先したのである。
 このような独裁的な権力を行使した大統領はリンカーンだけではない。憲法の第一条第八項には宣戦布告の権限は連邦議会にあることが定められているが、実際は大統領が連邦議会を差し置いて戦争を始めた例が数多くある。たとえば、レーガン大統領が行ったグレナダ侵攻や、父親の方のブッシュ大統領が行ったパナマ侵攻は、連邦議会による宣戦布告無しで始められた戦争行為であり、客観的に見れば明らかに憲法違反であり独裁的な権力の行使である。ところが、グレナダ侵攻やパナマ侵攻の時、レーガン大統領やブッシュ大統領に対して憲法違反、あるいは民主的な手続きを経ていないと言ったような非難の声は起きなかったのである。つまり、アメリカでは、国家の非常事態における大統領による独裁的な権力の行使が繰り返された結果、非常事態に限って大統領が独裁権力を行使する慣習が定着したのである。古代ローマにディクタトルという制度化された非常独裁官制があったのに対して、アメリカの場合は国家の非常事態における独裁権力の行使を制度化せず、慣習として定着させることによって非常事態に対処しているのである。
 「民主主義国家の理論」では、法の執行、立法、司法の三権が分立し、互いに力の均衡を取りながら監視し合い、それぞれが独走をしないように牽制し合うということになっているが、第二次世界大戦以降のアメリカでは、大統領の権力が強大化し、他を圧倒する力を持ってしまっている。特に国家の非常事態や戦争における大統領の権限は、議会の力が及ばないくらい強大なものになってしまっている。
 第二次世界大戦以降のアメリカでは、大統領が戦争の開始のような重大な決意を表明すると、これを議会も世論もジャーナリズムも無条件で支持するようになってしまったのである。言い換えれば、一度、大統領の強大なカリスマの力が行使されると、議会政治家やジャーナリストといえども一人のアメリカ国民として大統領の指導に従わざるを得なくなってしまうのである。従って、湾岸戦争の時のように、大統領が戦争の開始を決断し、大統領の強大なカリスマの力が行使されると、三権分立も議会政治も言論の自由も事実上停止し、大統領が始めた戦争に反対できない空気がアメリカの社会に蔓延してしまうのである。そのため、国家の非常事態や戦争などの時、議会政治家やジャーナリズムに大統領の権力に抵抗することはできないのである。第二次世界大戦以降のアメリカ大統領は、国家の非常事態や戦争における権限に限って言えば、まさに独裁者なのである。ただし、大統領の決定といえども、ベトナム戦争やイラク戦争のように、後に失敗であることが明らかになれば、国民の支持を失い大統領の指導力が低下し、議会や世論が反対するようになることもある。しかし、そのベトナム戦争やイラク戦争さえ、開戦当初は議会や国民から全面的に支持されていたのが現実である。つまり、三権分立や民主的な手続きといった「民主主義国家の理論」が通用するのは、あくまで平時の場合であって、非常事態に陥ったり戦争が始まったりして大統領の強大な権力が行使されると、全く通用しなくなってしまうのである。しかし、あまりにも強大な大統領の権力は、民主主義を形骸化させかねない。そこでアメリカでは、大統領が、その強大な権力を行使するのは、国家の非常事態や戦争のような、強力な指導力が必要な場合に限定するという慣習を確立し、これを守ることによって民主主義を守っているのである。このようにアメリカの民主主義は、慣習上の非常独裁制の上に成り立っているのである。つまり、第二次世界大戦以降のアメリカ大統領は、非常独裁権を持っているのである。湾岸戦争の時、ブッシュ大統領が開戦を決断した結果、アメリカ国民の意識が変わったのは、ブッシュ大統領が非常独裁権を行使したからなのである。
 また、この慣習上の非常独裁制は、イギリスにも存在する。2003年にブレア首相がアメリカと共にイギリスをイラク戦争に参戦させようとしたのに対して、当時のイギリス国民の90%がイラク戦争への参戦に反対し、しかもブレア首相の与党である労働党の下院議員やブレア政権の閣僚にもイラク戦争への参戦に反対する者が居るという状況だった。それにもかかわらずブレア首相がイラク戦争への参戦を決断したのは、まさに非常独裁権の行使である。ブレア首相がイラク戦争への参戦を決断した結果、ブレア政権の閣僚も議会もブレア首相の決断に従った。そして、イギリスがアメリカと共にイラク戦争を始めた結果、イラク戦争への参戦に反対していたイギリス国民も、60%近くがイラク戦争の支持へと意識が変わってしまった。イギリスのイラク戦争への参戦は、形の上では閣僚や議会の承認を得ているが、ブレア首相が参戦を決断した時点で、事実上参戦は決まってしまったのである。つまり、閣僚も議会も国民も、ブレア首相が行使した非常独裁権に従ったに過ぎないのである。要するに、イギリスがイラク戦争へ参戦した時、「民主主義国家の理論」では主権者ということになっているイギリス国民の意志は完全に否定されていたのである。このように、非常独裁制が確立している国家では、戦時のような国家の非常時に、国民の主権は存在しないのである。
 ただし、非常独裁権は、発動しようと思えば、いつでも発動できるものではない。時と場合によっては非常独裁制が機能しなくなることもある。アメリカのオバマ大統領が、内戦が続いているシリアでアサド政権が化学兵器を使用した可能性が高いとの見解を示し、2013年8月26日にシリアに対して武力制裁を行う方針を表明したことに対して、アメリカの同盟国であるイギリスのキャメロン首相も、アメリカと共にシリアに対する武力制裁を行おうとした。ところが、イラク戦争の失敗に懲りて厭戦気分が蔓延しているイギリスでは、8月29日に議会の下院がイギリス軍のシリアへの武力行使を拒否する決定をした。これに対して、キャメロン首相は非常独裁権を行使することができず、シリアへの武力制裁には参加しないことを決定せざるを得なくなったのである。つまり、厭戦気分が蔓延したイギリス国民に、非常独裁権は通用しなかったのである。
 この非常独裁制の存在は、アメリカの議会やジャーナリズムがベトナム戦争やイラク戦争が始まることを止められなかった理由でもある。つまり、国家の非常事態に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合があり、その結果として、議会政治や言論の自由が一時的に停止してしまうからである。また、戦争は国民の一致団結した支持があって初めて可能になることである。従って、戦争が始まった時点では、既に戦争に対する国民の一致団結した支持が得られている場合が多いのである。更に、イラク戦争が始まった時のイギリスのように、国民世論の反対を押し切って始められた戦争であっても、一旦始まってしまえば国民の支持を得る場合もあるのである。そもそも、戦争に限らず、何事であろうと、国民が一致団結して支持している行為に反対する者が国民を敵に回すことになるのは当然のことである。従って、国民の支持によって成り立っている議会や、国民から新聞なり書物なりを買ってもらうことによって成り立っているジャーナリズムが、国民が支持している戦争に反対できないのは当然のことである。だから、議会やジャーナリズムには、戦争が始まることを止めるのは困難なのである。明治体制下の日本の議会やジャーナリズムが、満州事変や支那事変(日中戦争)、そして太平洋戦争が始まることを止められなかった原因として、軍国主義だのファシズムだのと言っている人たちが居るが、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止める力が無いのは、現代のアメリカだけではなく、明治体制下の日本を含めた世界の多くの国家に共通のことであり、軍国主義もファシズムも関係無いのである。
 ただし、非常独裁制が確立できても、人権侵害や権力の暴走と言った独裁権力の行使に伴う弊害が完全に防げるわけではない。たとえば、第二次世界大戦中のアメリカでは、フランクリン・ルーズベルト政権の下で日系アメリカ市民に対する強制収容問題が起きている。これは、後にアメリカ政府が過ちであると認めて謝罪した人権侵害である。また、息子の方のブッシュ政権が行ったイラク戦争は、サダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保有していると言う全く事実に反する理由によって始められた戦争であり、あからさまな権力の暴走である。それでも、独裁権力の行使が国家の非常事態に限定されれば、独裁権力が行使される機会が少なくなり、その分、ナポレオン政権やヒトラー政権のような制限の無い独裁政権と比べれば、独裁権力の行使に伴う弊害が起きる可能性は低下するのである。
 アメリカやイギリスのような非常独裁制を確立することは、欧米諸国のような民主主義国家にとって極めて困難なことであり、長い歴史が必要である。
 アメリカ大統領が今日のような強大な権力を確立したのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代である。アメリカの場合は、フランクリン・ルーズベルトという強大な力を持った最高指導者が出現したのが、建国から百数十年という長い民主主義の歴史の中で、最高指導者の独裁的な権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立された後であったため、本格的な独裁国家になるようなことは無かったのである。これに対して、ナポレオンが登場した頃のフランスの第一共和政や、ヒトラーが登場した頃のドイツのワイマール体制は、民主主義の歴史が浅かったため、アメリカやイギリスのような、最高指導者の独裁的な権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立されてはいなかった。そして、ナポレオンやヒトラー自身も、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定しようとはしなかったため、本格的な独裁者になってしまったのである。ナポレオンやヒトラーのような強大な力を持った指導者から民主主義を守るためには、アメリカやイギリスのように独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習を定着させ、非常独裁制を確立するしかないのである。
 ただし、たとえ独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立されていても、それだけでは非常独裁制は成立しない。なぜなら、国家の非常事態に対処して国民の生命・財産を守ることができるような強力なカリスマや指導力を持った指導者が登場することなど滅多に無いからである。強力なカリスマや指導力を持った指導者が存在しなければ、国家の非常事態において非常独裁権を行使しようとしても、かならずしも国民が一致団結して国家の指導者に従うとは限らないのである。従って、非常独裁制を完全なものにするためには、アメリカの大統領制のように、「権力の継承」をする体制を確立することによって、強力なカリスマや指導力を持った最高指導者を常に存在させておかなければならないのである。つまり、「『権力の継承』をする体制」と「独裁権力の行使を非常事態に限定する慣習」がそろって確立されて、初めて非常独裁制は機能するのである。
 また、非常独裁制は、慣習や伝統の上に成り立つ制度であり、法律の上に成り立つ制度ではない。
 たとえば、ワイマール体制下のドイツのドイツ共和国憲法(ワイマール憲法)には、次のような条文が存在した。

 

 第四十八条
 第一項
 ある憲法または法律によって課せられた義務を履行しないときは、大統領は、武装兵力を用いてこの義務を履行させることができる。
 第二項
 ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復するために必要な措置をとることができる。この目的のために大統領は一時的に第百十四条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第百十八条(意見表明の自由)、第百二十三条(集会の自由)、第百二十四条(結社の自由)および第百五十三条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。

 

 この条文に定められた権限は「国家緊急権」とも呼ばれているが、要するに法制化された非常独裁権である。しかし、ワイマール体制下のドイツでは、アメリカの大統領制のような「『権力の継承』をする体制」も「独裁権力の行使を非常事態に限定すること」も、慣習や伝統として確立されていなかったため、非常独裁権は機能しなかった。非常独裁権は、国家の非常時において国民を一致団結させるため、最高指導者のカリスマの力によって国民の意識を変える権限である。しかし、憲法を含めた法律は、人間の行動を律するものであって、人間の意識まで律するものではない。つまり、非常独裁権は、超法規的な権限なのである。従って、非常独裁権は、憲法を含めた法律によって与えることができるような権限ではないのである。そのため、ワイマール体制下のドイツが世界大恐慌による経済危機に対処するためには、ヒトラーのような、強力な指導力と政治手腕を持つ指導者が登場するのを待っているしか無かったのである。ところが、ワイマール体制下のドイツでは、「独裁権力の行使を非常事態に限定する慣習」が確立されていなかったため、ヒトラーは本格的な独裁者になってしまったのである。
 国家には、非常事態に対処するため、国民の意識を変えるような強力なカリスマ持った最高指導者が必要である。しかし「民主主義国家の理論」では、そのような力を持った最高指導者は、まさに独裁者である。つまり、本来、国家と民主主義は、互いに相反する矛盾した関係にあるのである。しかし、この矛盾を克服しないことには民主主義国家は成立しないのである。そして、国家と民主主義の矛盾を克服する唯一の方法が非常独裁制の確立なのである。
 そもそも国家が存在する最大の理由は、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである。そのため、いかなる国家体制も、国家が非常事態に陥った時、国民の生命や財産を守れないことが明らかになれば、国民から否定されて見捨てられる可能性があることになる。そして、非常独裁制が確立されていない民主主義国家には、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守る能力が無いのである。そのため、非常独裁制が確立されていない民主主義国家が国家の非常事態に直面すると、国民から否定されて見捨てられてしまう場合が多いのである。その結果として、第一共和政下のフランス国民も、ワイマール体制下のドイツ国民も、国家の非常事態から国家や国民を守るため、ナポレオンやヒトラーの独裁政権を選択したのである。つまり、独裁者が登場した時点では、民主主義体制が国民から見捨てられた結果として、既に三権分立や議会政治といった民主主義国家の機能が完全に失われている場合もあることになる。

 また、たとえ民主主義体制が国民から支持されていても、ナポレオンやヒトラーのような本格的な独裁者に対して三権分立や議会政治は、独裁者の登場を阻止する手段としては全く役に立たないのである。既に述べたように、そもそもナポレオンやヒトラーのような強力な指導力を持った権力者は、国家の非常事態から国家・国民を救済して欲しいという国民の要求に応えて登場するのである。仮に、三権分立や議会政治によって独裁者の登場を阻止できるとしても、ナポレオンやヒトラーのような強力な指導者の登場を阻止してしまったのでは、国家の非常事態に対処できなくなってしまう。つまり、たとえ独裁者の登場を阻止する手段があっても、独裁者の登場を阻止するするわけにはいかないのである。これらの理由によって、三権分立も議会政治も、独裁者の登場を阻止する手段としては機能しないのである。だから、非常独裁制が確立されておらず、「民主主義国家の理論」のみに従って作られた民主主義体制には、ナポレオンやヒトラーのような本格的な独裁者の登場を阻止することはできないのである。
 また、アメリカやイギリスのように非常独裁制が確立されている民主主義国家では、三権分立や議会政治が機能するのは非常独裁権が行使されていない平時である。
 つまり、非常独裁制が確立されているか否かにかかわらず、国家が重大な非常事態に陥ると、三権分立や議会政治は機能しなくなる可能性が高いのである。つまり、民主主義国家において三権分立や議会政治が機能する可能性が高いのは平時の場合なのである。しかし、独裁権力が行使されるのは国家が非常事態に陥った時であり、独裁者が登場するのもこの時である。従って、平時に三権分立や議会政治が機能しても、本格的な独裁者の登場を阻止する手段としては全く意味が無いのである。平時における三権分立や議会政治にできることは、独裁者になる程の力の無い平凡な権力者による権力の乱用や不正行為を阻止するといった程度のことである。従って、三権分立と議会政治によって独裁者の登場を阻止できるという「民主主義国家の理論」は虚構に過ぎないのである。
 要するに、憲法、選挙制度、議会政治といったものに加えて、非常独裁制が確立されることによって民主主義国家は完成するのである。つまり、フランスの第一共和政やドイツのワイマール体制がナポレオンやヒトラーの独裁政権に取って代わられたのは、非常独裁制が確立されていなかったため、民主主義国家が未完成だったことが原因なのである。
 つまり、アメリカやイギリスと言った、「成熟」した民主主義国家は、独裁権力の行使を否定してはいないのである。ところが、アメリカ人やイギリス人を始めとした欧米諸国の人間は、アメリカやイギリスにおける非常独裁制の存在を認識していないのである。なぜなら、非常独裁制は、アメリカ人やイギリス人の無意識の中に存在する制度だからである。
 人間が物事を考え、発言し、行動する場合、自ら意識して行っている場合がある一方で、当の本人が全く自覚していない無意識に従って、考え、発言し、行動している場合もある。つまり、時と場合によっては、本人が全く自覚していない無意識に基づく行動や発言が、あらわになることもあるのである。それは、人間の行動や考え方を最終的に決定するのは無意識だからである。一説には、人間の行動の97%が無意識によるものだと言われている。そして、意識の上で考えていることと無意識の内で考えていることが矛盾した場合、人間は、無意識の方に従ってしまうのである。そのため、意識の上で考えていることと実際に行われていることが異なるようなことが起きる場合もあるのである。アメリカ人やイギリス人の意識の上では、自分たちの国は「民主主義国家の理論」に基づいて成り立っていると考えているが、無意識の中には非常独裁制が確立されているのである。そのため、アメリカやイギリスが国家の非常事態に直面するとアメリカ人やイギリス人は、無意識の内に大統領や首相の非常独裁権に従って行動してしまうのである。このように非常独裁制は、アメリカ人やイギリス人の無意識の中に存在する制度であるため、アメリカ人やイギリス人は、非常独裁制の存在を認識できないのである。つまり、アメリカ人やイギリス人は、意識の上では民主主義の名の下に独裁者を否定しながら、無意識の内では非常独裁制の下で独裁者を認めているのである。
 国家の最高指導者は、国家の防衛体制において非常に重要な役割を担っている。ところが、欧米諸国の人間が意識の上で理解している「民主主義国家の理論」では、法治、憲法、選挙、議会、三権分立といった制度だけで国家が成り立つことになっていて、最高指導者を中心とした国家の非常事態に対処する体制という考えが完全に欠落しているのである。そのため、欧米諸国の人間の言う通りに民主主義体制を作った国は、非常事態への対処や国家の防衛ができない欠陥国家になってしまうのである。その結果、アメリカに国家の防衛を肩代わりしてもらうしかなくなってしまうのである。太平洋戦争後の日本がアメリカの軍事的保護下に入らざるを得なくなったのも、ベトナム戦争の時、アメリカ軍が南ベトナムから撤退した後、南ベトナムが崩壊してしまったのも、アメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作ってしまった結果、非常事態への対処や国家の防衛ができなくなってしまったからである。また、イラク戦争の後、アメリカ政府の指導によって作られたイラクの民主主義体制も、非常事態への対処や国家の防衛ができない欠陥体制になってしまったため、「イスラム国」と称する武装集団によって国土が蹂躙される事態になってしまったのである。国家の非常事態に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合がある以上、独裁権力を完全に否定するような国家の理論は虚構に過ぎないのである。
 アメリカやイギリスのように非常独裁制を確立して民主主義国家を完成させるには長い年月がかかるが、長い年月をかけさえすれば民主主義国家が完成するわけではない。そのよい例が、アメリカやイギリスと同様に長い民主主義の歴史を持つフランスである。
 フランスでは、第二次世界大戦後の1946年に第四共和政が成立した。ところが、1954年の11月にフランス領のアルジェリアでフランスに対する独立戦争が始まると、フランスの世論は、アルジェリアの独立を認めるか否かを巡って分裂し、混乱状態に陥ってしまった。そして、アルジェリアに住むコロンと呼ばれるヨーロッパ系の入植者たちの間では、フランス政府の独立戦争に対する対応を弱腰と見なし、不満が高まった。そこで1958年5月13日にコロンたちはアルジェリアに駐留するフランス軍と結託して、現地アルジェリア政庁を占拠してフランス本国に対してクーデターを起こした。そして、クーデターを起こした勢力が5月24日にコルシカ島に侵攻し、更にフランス本土にまで侵攻する恐れが出始めると、第四共和政の指導者たちは対処できなくなり、第四共和政は事実上崩壊してしまった。そこで、第二次世界大戦中にナチスドイツに対する抵抗運動を指導して英雄となったシャルル・ド・ゴールが6月1日に首相に就任し、10月5日には第五共和政を成立させる。そして、1959年1月にド・ゴールは大統領に就任する。政治の主導権を握ったド・ゴール大統領は、アルジェリアの独立を承認する決断を下し、1962年3月にアルジェリアの独立を認める協定を締結した。こうしてド・ゴール大統領は、アルジェリアの独立戦争を巡る政治の混乱を終息させたのである。
 このフランスにおけるアルジェリアの独立戦争を巡る政治の混乱や、第四共和政の崩壊といった事態が意味するのは、第四共和政は国家の非常事態に対処できない欠陥体制だったということである。つまり、第四共和政の下のフランスは、1789年に始まったフランス革命から一世紀半以上という長い年月を経ても、依然として非常独裁制のような国家の非常事態に対処できる体制が成立しておらず、民主主義国家が未完成だったということである。第五共和政が成立する前のフランスは、国家の指導者が独裁者になることを恐れて、強力な権限を与えようとはしなかった。それが結果としてアルジェリアの独立戦争の時に起きたような政治の混乱や第四共和政の崩壊といった事態を招くことになったのである。これに対してド・ゴールの主導によって成立した第五共和政は、大統領に強力な権限を与え、その権限によって国家の非常事態に対処することになっている。しかし、ド・ゴール大統領が政権から去った後のフランスは、アルジェリアの独立戦争のような国家を揺るがす非常事態には直面していないため、ド・ゴール後の第五共和政の大統領にも国家の非常事態に対処する力があるのか否か、今のところは判断できないのである。
 もし、独裁者と呼ばれる権力者が、一般的に言われているような、国家・国民に危害を加えるだけの存在ならば、排除すべき者ということになる。確かに、独裁者が国家・国民に多大な災厄をもたらしかねない危険な存在であることは事実である。しかし同時に、国家の非常事態から国家・国民を救済するために必要不可欠な存在でもあるため、排除できないのである。国家・国民にとって独裁者は、まさに諸刃の剣なのである。
 要するに、独裁者とは、国家の非常事態に対処できる力を持った最高指導者の別名なのである。従って、独裁者を否定するのは、国家が非常事態に対処することを否定することとも言えるのである。そして、国家が存在する最大の理由が、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである以上、独裁者の否定は、国家の否定とも言えるのである。そして、民主主義国家といえども国家の一種である以上、独裁者の否定は民主主義国家の否定でもある。つまり、民主主義国家にも独裁者は必要なのである。しかし、独裁権力の行使を無制限に認めるわけにはいかない。そこで、アメリカ大統領やイギリスの首相のような、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定した独裁者が必要なのである。ところが、フランスの例でわかるように、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定した独裁体制を確立することは、極めて困難なことなのである。そのため、世界には民主主義国家を称する国が数多くあるが、その大多数が、日本のような国家の非常事態に対処できない欠陥国家か、フランスのような非常事態に対処できる体制が成立しているのか否か不明な国である。非常独裁制が確立していない未成熟な民主主義国家が、独裁者の力が求められるような非常事態に直面すると、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられてしまう可能性が高いのである。結局、こういう事態を防ぐためには、非常独裁制が確立されていない民主主義国家が、独裁者の力が求められるような非常事態に直面しないように、超大国たるアメリカが政治力や武力を使って保護するしか無いのである。つまり、民主主義国家を称する国の大多数は、実質的にはアメリカの保護国なのである。従って、もし将来、アメリカが超大国としての政治力を失い、世界の民主主義国家を保護する役割を放棄するような事態になったら、民主主義を称する国家体制の多くが、フランスの第一共和政やドイツのワイマール体制のように破綻して、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられる可能性が高まることになるのである。
 「民主主義国家の理論」は、国家が、独裁者の力を借りなければ対処できないような非常事態に陥ることを全く想定していないのである。ところが、実際は、国家が、独裁者の力を借りなければ対処できないような非常事態に陥る事態は何度も起きているのである。国家が非常事態に陥ると、国民は、非常事態から国民を救済してくれることを国家に求めることになるが、それは、国家の非常事態から国民を救済する力を持った指導者、すなわち独裁者の登場を求めることである。それは、「民主主義国家の理論」が、国民自身によって否定されてしまうということである。従って、「民主主義国家の理論」は、完全な虚構であると言えるのである。
 結局、「民主主義国家の理論」とは、国家の否定なのである。しかし、国民には、非常事態から生命や財産を守るため、国家が必要である。そのため、国家が非常事態に陥ると、国民は、「民主主義国家の理論」を否定するしか無くなってしまうのである。
 アメリカは、世界中の国に対して民主主義国家になることを要求し、多くの国を「民主主義国家の理論」に基づいて民主化している。しかし、「民主主義国家の理論」に基づいて造られた民主主義国家は、戦後体制下の日本と同様に、国家の非常事態に対処できない欠陥国家である。つまり、アメリカは、民主化の名の下に、世界中で欠陥国家を造りまくっているのである。そして、これらの欠陥国家の防衛は、結局、アメリカが肩代わりするしか無いのである。つまり、世界でアメリカによって民主化された国が増えれば増えるほど、アメリカが軍事的な負担をしなければならない国がどんどん増えることになるのである。しかし、世界最大の武力や経済力を持つアメリカといえども、このような負担にいつまで耐えられるのか大いに疑問がある。アメリカが世界の民主主義国家を防衛する負担に耐えられなくなった時、民主主義の時代は終わるのである。
 このように、民主主義国家を完成させることや維持することは、極めて困難なのである。



国民の団結力

        国民の団結力

 

 国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させ、非常事態に対処することであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強制しなければ非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時に国民が団結できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
 その典型的な例が、古代の共和政時代のローマである。共和政時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカ大統領のような強力な最高指導者が存在せず、非常時における国家の団結はローマ市民の団結力のみに頼っていた。ローマにはディクタトルという非常独裁官制度があったが、これは国家の非常時における意志決定を迅速に行うための制度であって、指導者に強力なカリスマを与える制度ではない。つまり、元老院を中心としたローマの共和政は、ローマ市民の団結力だけで非常時における国家の団結が成り立つことを前提としたものなのである。
 紀元前272年にイタリア半島を統一したローマは、紀元前264年から紀元前146年にかけてカルタゴを相手に第一次から第三次に及ぶ三度のポエニ戦争を行い勝利した。ローマがポエニ戦争に勝利できた理由の一つが、ローマ市民の強固な団結力である。この三度にわたるポエニ戦争の中でも、とりわけローマ市民の団結力が発揮されたのが紀元前218年から紀元前201年にかけて行われた第二次ポエニ戦争である。
 そもそもローマという国家は、首都ローマを中心にして、ローマ市民による植民都市、ローマ市民権を与えられた都市、ローマ市民権を持たない同盟都市など、様々な形態の諸都市との連合によって成り立っていた。第二次ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮したハンニバルの戦略は、武力でローマ軍を打ち破ることによってローマ市民の団結力を失わせ、ローマと諸都市との連合を解体に追いやることだった。第二次ポエニ戦争の初期には、ハンニバルの天才的な軍事能力のために、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。しかし、ローマがカンネーの戦いに大敗した後、一部の都市がローマとの連合から離反したものの、ローマと諸都市との連合が完全に解体することは遂に無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によって何度ローマ軍を打ち破っても、結局、ローマ市民の団結力を完全に失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦におけるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、まさにハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いだったと言える。そしてローマ市民の団結力が最後にハンニバルを打ち破ったのである。
 ローマはポエニ戦争に勝利した後、征服戦争を繰り返した結果、地中海周辺を支配する広大な国家になった。しかし、この頃になると、ローマの政治や軍事の問題が表面化するようになった。長年にわたってローマの政治を主導して来た元老院の統治能力が低下し、同盟都市の反乱や剣奴の反乱であるパルタクスの乱などの内乱が発生した。また、ローマ軍は徴兵されたローマ市民によって成り立っていたが、ローマの領土が広大になったため、戦場へ移動する時間が長くなった結果、兵士の従軍期間が長期化するようになり、徴兵された兵士の職業と兵役の両立が困難になってしまった。その結果、兵士の士気が低下してローマ軍の力が弱体化してしまったのである。そこで、執政官となったマリウスが徴兵制を廃止して募兵制を導入した。ところが、その結果、軍の司令官と兵士の間に主従関係が成立し、兵士が軍の司令官の実質的な私兵となっていった。そしてマリウスやスラなどの軍人が、私兵化した兵士を率いて武力によって権力を争うようになったため、ローマの政治は混乱に陥ってしまった。また、ローマは、領土の拡大によって多くの民族を征服した結果、ガリア人やゲルマン人などのローマ市民という意識の低い被支配民族を領内に数多く抱え込むことになったため、もはやローマ市民の団結力だけでは非常時における国家の団結が維持できなくなってしまった。これらの問題のため、強力な最高指導者が存在しない、元老院を中心とした共和政ではローマを統治することが困難になってしまったのである。
 政治の混乱を終わらせ、多様な国家になってしまったローマを一致団結させるためには、強力なカリスマを持った最高指導者が必要であるということに気がついたのがユリウス・カエサルである。カエサルは、ガリア地方を平定した後、政敵となったポンペイウスを武力によって打倒して強力なカリスマを確立し、終身独裁官に就任した。しかしカエサルは、ブルータスらによって暗殺されてしまう。その後、カエサルの後継者となったアウグストゥスが初代ローマ皇帝となり、強力なカリスマを持った最高指導者が統治する国家体制が確立された。アウグストゥスによって確立された帝政はローマの政治に安定をもたらしたが、その一方で元老院は政治の主導権を失ったため、共和政は形骸化してしまった。
 同じ国の国民としての仲間意識や連帯感といったものも非常時に国民を一致団結させる手段である。しかし、古代のローマのように征服戦争を繰り返すことによって多くの異民族を支配下に置いたり、近代のアメリカのように積極的に移民を受け入れたりすることによって、民族、人種、宗教、言語、習慣などが異なる多様な人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦や対立が、国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。そうなると、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感だけでは非常時に国民を一致団結させることが困難になってしまう。そこで、国民が多様化すればするほど、国民を団結させる手段として、ローマ皇帝やアメリカ大統領のような強力な最高指導者の力が必要になるのである。
 共和政時代のローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時における国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
 イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用している。かつてイスラエルの議会政治は、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられて来た。そのため、イスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的な駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカ大統領のような強力なカリスマや指導力があれば、政治の停滞も無くなるだろうと考え、実質的な大統領制に移行しようとして、1992年3月に首相公選制を導入した。ところが、イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力なカリスマや指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席数を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
 このようにイスラエルの首相は、アメリカ大統領やイギリスの首相のような強力なカリスマを持っているわけではない。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国のために戦って来たのである。イスラエルは、国民の強固な団結力と国防意識の高さのため、四度にわたる中東戦争など、多くの戦争を戦い抜くことができたのである。
 イスラエル国民が、このように団結力が強く国防意識が高い理由の一つには、過去二千年にわたる流浪と迫害の歴史から、強固な国民の団結と国防の必要性を理解せざるを得ないということがある。これに加えて、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているという理由もある。
 非常時に国民を一致団結させるためには、イスラエルのように、宗教によって国民を団結させるという方法もある。しかし、この方法には問題もある。
 第一の問題は、宗教によって国民を団結させるということは、国民全体が共に同じ宗教を信じる仲間として異教徒や異なった宗派の国に対して団結するということである。従って、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国が異教徒や異なった宗派の国でなければならないのである。すなわち、ユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタン、イスラム教シーア派のイランとイスラム教スンニ派のアラブ諸国といったようにである。
 第二の問題は、国内に異なった宗教や宗派が存在することである。イスラエル国内にはイスラム教徒のアラブ人が存在し、インド国内にはイスラム教徒やシーク教徒などが存在する。そしてイスラエルの中心であるユダヤ教徒も、インドの多数派であるヒンズー教徒も、イスラム教徒などとの間で紛争が絶えない。つまり、国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう可能性もあるということである。
 これらの理由から、宗教によって国民を団結させることができる国は、特殊な例であると言える。
 ただし、宗教は、あくまで国民の団結力を補強するものであり、宗教の力だけでは国家の非常時に国民を団結させることはできない。たとえばイスラム教シーア派の宗教国家であるイランは、最高指導者のホメイニ師の指導力やカリスマの力あったからこそ、イラン・イラク戦争を戦い抜くことができたのである。従って、宗教国家と言われる国にも最高指導者は必要なのである。
 共和政時代のローマ市民やイスラエル国民のように強固な団結力があれば、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなくても非常時における国民の団結を維持できる場合もある。しかし、共和政時代のローマやイスラエルのような国家は特殊な存在である。世界の大多数の国家では、強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなければ、非常時に国民を団結させることができないのが現実である。


日本に大統領制が成立するのか

    日本に大統領制が成立するのか

 

 国家は、非常事態に対処する力を持った最高指導者が存在しなければ成り立たない。ところが、戦後体制下の日本の内閣総理大臣には最高指導者と言えるような力が無いため、戦後体制は、超大国であるアメリカの保護の下でしか成り立たない。しかし、アメリカといえども永久に超大国でいられる保証はどこにも無い。従って、いずれは日本にも最高指導者が必要な時が必ずやってくる。しかし、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になれるのだろうか。そして、そもそも日本に大統領制が成立するのだろうか。
 大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
 まず、第一段階では、「大統領」や「首相」と言った、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作る。
 そして、第二段階では、「建国の父」「救国の英雄」と呼ばれるような、偉大な政治的功績を挙げた指導者が、その功績を「神話」として強力なカリスマを得て、更に選挙などの法の手続きに従って「大統領」や「首相」などの法的に正統な最高指導者の役職に就任して強力な最高指導者となる。または、政治家が法的に正統な最高指導者に就任した後で、偉大な功績を挙げ、強力なカリスマを持った最高指導者になる。
 更に、第三段階では、強力な最高指導者のカリスマが、最高指導者の役職と共に法の手続きに従って後継者に継承され、更に、この仕組みが慣習となり定着し、安定したカリスマを継承する体制が確立される。
 日本に大統領制を成立させるためにも、第一段階として、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作らなければならない。ところが日本では、古代より天皇のみが法的に正統な最高指導者の役職であり、皇族のみが天皇の地位に就くことができるという体制が確立されて定着している。そして、天皇以外の法的に正統な最高指導者の役職が存在した前例が無い。そのため、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家が存在しても、皇族以外の者が正統な国家の最高指導者に就任することは不可能だった。また、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家であっても、法的な正当性の無い、実質的な最高指導者になることは困難だった。
 たとえば、平安時代に摂関政治によって強力な権力を振るった藤原道長などの藤原摂関家の人たちが実質的な最高指導者だったという意見があるが、これは明らかに誤りである。藤原摂関家の人たちは、自分の娘を天皇の后とし、自分の娘である后と天皇との間に生まれた子を天皇に即位させることによって天皇の外戚となり、摂政や関白に就任して権力を振るった。これが摂関政治である。この藤原摂関家が就任した摂政や関白は、国家の最高指導者の役職ではない。摂政は最高指導者たる天皇の臨時代行であり、関白は最高指導者たる天皇の補佐役に過ぎない。摂関政治は、藤原摂関家が天皇のカリスマや権力を利用することによって成立したものであり、藤原摂関家自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権力があったわけではない。更に、藤原摂関家が権力を振るうためには、藤原摂関家が天皇の外戚であることに加えて、時の天皇が、強力な指導力を持たず、藤原摂関家の言いなりになるような人物であることも必要だった。そのため、藤原摂関家を外戚としない、強力な指導力を持った後三条天皇が登場すると、藤原摂関家の政治力は低下してしまったのである。そして、更に藤原摂関家の政治力の低下に拍車をかけたのが院政である。後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、息子の堀河天皇に天皇の位を譲り、上皇となって院政を開始した結果、強大な権力を振るうことが可能になった。天皇が政治にかかわる場合、昔からの様々な伝統や慣習に縛られることになる。このことが、結果として天皇が強大な権力を振るうことに対する歯止めになっている。これに対して上皇は、昔からの伝統や慣習に縛られることは無いため、強大な権力を振るうことに対する歯止めが一切無いのである。そのため白河上皇は、強大な権力を振るうことが可能になったのである。白河上皇が院政によって強大な権力を振るうようになった結果、藤原摂関家の政治力は更に低下することになってしまった。このように平安時代の政治状況を見てみると、藤原摂関家の人たちが国家の最高指導者だったとは考えられないのである。
 そして、武家政治の征夷大将軍も、正統な最高指導者でも実質的な最高指導者でもなかった。そのことを示すよい例が、江戸幕府の幕末の動乱である。
 江戸幕府の征夷大将軍は、初代徳川家康以来、二百五十年の長期にわたる政治の安定を実現した。ところが、1853年(嘉永6年)に起きた黒船事件をきっかけに幕末の動乱が始まった。アメリカ艦隊を率いるペリー提督は、圧倒的な武力を背景に、幕府に対して開国を迫った。これに対してアメリカの武力に対抗する力の無い幕府は、日米和親条約を結ぶ羽目になった。この結果、鎖国政策は終わったが、アメリカの武力に対して戦うこともできず屈服してしまった幕府の権威は低下した。
 幕末の動乱の根本的な原因は、当時の日本の最高指導者が誰なのか不明確だったことにある。軍事・外交政策を決定する権限は、国家の最高指導者の権限である。黒船事件以前、天皇は政治の実権を失っていたため、軍事・外交政策は、実質的には幕府が行っていた。ところが、征夷大将軍が天皇から正式に軍事・外交政策を決定する法的な権限を委任されていたわけではなかったため、軍事・外交政策を決定する法的な権限は、形式的には天皇にあったのである。そのため、軍事・外交政策を決定する権限が誰にあるのか曖昧な状態にあったのである。つまり、誰が日本の最高指導者なのか不明確だったということである。こういう状況の下で黒船事件が起きてしまったのである。
 国家の最高指導者の最も重要な役割は、国家の非常事態に対処することである。幕府が、アメリカのペリー提督が率いる艦隊の武力に屈して開国を決定したことは、江戸幕府の征夷大将軍には国家の非常事態に対処する能力が無いことを露見させる結果になってしまった。つまり、黒船事件の結果、江戸幕府の征夷大将軍には、国家の最高指導者と言えるような実力が無いことが明らかになったのである。また、江戸幕府がアメリカの圧力に屈して日米修好通商条約を締結しようとした時、天皇から開国の勅許を得ようとしたことによって、軍事・外交政策を決定する法的な権限は天皇にあり、征夷大将軍には無いことが明らかになった。しかも、孝明天皇が開国に反対の立場を明確にしたため、幕府は開国の勅許を得ることに失敗してしまった。その後、大老の井伊直弼が勅許無しで日米修好通商条約の締結を強行したため、井伊直弼は尊王攘夷派によって暗殺された。これによって、江戸幕府の権威が更に低下したため、政治の混乱に拍車をかけることになってしまった。つまり、黒船事件と、その後に起きた出来事によって、江戸幕府の征夷大将軍は、国家の最高指導者と言えるような実力が無い上に、法的に正当な国家の最高指導者でもないことが明らかになってしまったのである。国家の防衛のためには、国全体が最高指導者の下、一致団結しなければならない。従って、幕末の日本のように、誰が国家の最高指導者なのか不明確な状態では、国家の防衛のために国全体が一致団結することは不可能である。従って、国家の最高指導者が誰なのか不明確な状態を解消して日本を防衛が可能な国家に作り直すため、法的に正統な最高指導者である天皇に政権を戻す討幕運動が活発になったのである。こうして、幕末の動乱が始まったのである。
 徳川将軍家の初代徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、長期にわたる安定政権の基礎を作ったが、これほどの功績を挙げても、日本では国家の最高指導者には、なれないのである。
 武家政治の時代の日本では、本来は正統な最高指導者である天皇の権威やカリスマの力が低下していたため、事実上正統な最高指導者が存在しない状態が続いていた。そのため、国家の防衛は、実質的に日本を統治していた武家政治の役割となった。しかし、武家政治は本来、国家の防衛には不向きな国家体制だった。
 武家政治が国家の防衛に不向きだった理由は二つある。
 第一の理由は、武家政治はもともと日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には国家の防衛や外交を行うための法的権限が無かったことである。これが、江戸幕府の幕末の動乱を引き起こした。
 第二の理由は、武士が戦闘をした場合、功績のあった者に対して恩賞として領地を与えなければならなかったことである。恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収することによって、恩賞として与えるための領地を獲得しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえない防衛戦争をすることは、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
 ただし、現実には、鎌倉幕府が当時の世界帝国であるモンゴル帝国の襲来を撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、モンゴル帝国との戦いの時は、江戸幕府の幕末のように朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗することが無かったからである。鎌倉幕府には軍事・外交を行う法的権限が無かったが、朝廷には軍事・外交を行う法的権限はあっても能力が無かった。そのため朝廷は、幕府の軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。江戸幕府の幕末に朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしか無かったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、諸大名も幕府の政策には反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱することは無かったのである。ただし、モンゴル帝国との戦いは防衛戦争であったため、敗れたモンゴルから領地を獲得できず、武士に対して恩賞として与えるための領地が確保できなかったため、功績のあった武士に対して十分な恩賞を与えることができなかった。そのため、鎌倉幕府に対する武士たちの信用が低下し、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。つまり鎌倉幕府は、モンゴル帝国を撃退したにもかかわらず、結果として滅びてしまったのである。これは、幕府にとって本来は不向きな防衛戦争を行った結果である。国家の防衛は、国家の最も重要な役割である。それが不向きな幕府という国家体制は、不完全な国家体制としか言いようが無いのである。
 日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者といえども、関白、太政大臣、征夷大将軍といった官職を天皇から与えられることによって、始めて自らの権力を正当化することができたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者といえども、正統な最高指導者である天皇の力を借りなければ、権力を正当化して権力基盤を固めることができなかったのである。そして江戸幕府は、天皇の力を借りた勢力によって打倒される羽目になってしまったのである。
 江戸幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との交渉の結果、江戸城の無血開城を実現して明治政府を打ち立てたのである。日本以外の国なら、西郷隆盛のような偉大な功績を挙げた人物は、国家の最高指導者になっても不思議ではない。なぜなら、世界の歴史を見ればわかるように、国家が独立したり、革命などによって新しい国家体制が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者が、そのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いからである。アメリカの独立戦争の指導者だったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。ロシア革命の指導者だったレーニンはソビエトの最高指導者となった。蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となった。そして、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ところが日本の明治政府の最高指導者は、明治維新最大の功労者の西郷隆盛ではなく明治天皇だった。西郷隆盛は、明治政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する武士階級の反発を抑えるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治政府の正統な最高指導者は、あくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の臣下に過ぎなかったからである。つまり、明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
 このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって正統な最高指導者に就任することは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに日本には、偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマを確立した政治家が、正統な最高指導者に就任するという伝統も文化も無いのである。これでは大統領制など成立しようがない。
 日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、伝統的な日本の最高指導者のあり方が、世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
 国家の最高指導者とされている者には、次の二つ役割がある。
 第一の役割が、国家・国民を代表して軍事・外交政策などの「国家の重大な意志決定」を行い、強力なカリスマの力によって国民が「国家の重大な意志決定」に従うように指導することである。
 そして第二の役割が、行政機関の責任者として、法的権限や慣習などに従って役人や官僚と呼ばれる人たちを指導する「行政の責任者」としての役割である。
 世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても、国家の最高指導者は、「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を兼ねているのが普通である。これに対して、日本の場合は、古代から「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を別々の人物が分担する国家体制が存在していたのである。日本では、「国家の重大な意志決定」を行うのは天皇の役割であり、天皇は「行政の責任者」の役割は行わない。「行政の責任者」の役割を行うのは、「行政の責任者」に就任した実力者である。「行政の責任者」に就任した実力者は、蘇我氏、藤原摂関家、鎌倉幕府執権の北条家、足利将軍家、徳川将軍家といった人たちである。更に、聖徳太子や中大兄皇子、そして院政における上皇のように、皇族が「行政の責任者」に就任することもあった。ただし、後醍醐天皇のように直接政治を指導し、自ら「行政の責任者」となった天皇も存在したが、こういう天皇は例外的な存在であった。
 国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導することこそ、最高指導者の真の役割である。従って、「国家の重大な意志決定」を行う天皇が日本の最高指導者なのである。天皇は古代から何度も最高指導者としての実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。その結果、天皇のみが正統な国家の最高指導者であり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという国家体制が日本の社会に定着することになったのである。これが天皇制の伝統である。
 天皇制の伝統が社会に定着した結果、日本は、武家政治の時代や戦後体制下のように、天皇が最高指導者としての力を失ってしまうと、法的に正統な国家の最高指導者の役職が事実上存在しなくなってしまうのである。そして、皇族以外の人間の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、「行政の責任者」になるのが限界なのである。日本の歴史上の人物には、天皇に取って代わって最高指導者になろうとした、あるいは、天皇と同等の最高指導者の地位に就こうとしたと言われている者が何人か存在するが、成功した例は無いのである。
 明治体制下の日本で内閣制度が制定された以降は、国家の最高指導者と「行政の責任者」の役割が、天皇と内閣総理大臣によって分担されていた。天皇は国家の最高指導者として軍事・外交政策などの国家の重大な意志決定はするが、決定したことを実行することや、その結果に対して責任を負うことは無い。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、天皇の決定した軍事・外交政策を実行することと、行政機関の責任者として行政機関を法的権限によって指導して内政上の政策を実行したり、問題を解決したりすることであり、更に、天皇が決定した軍事・外交政策を含めた、あらゆる政策について、問題が生じたり失敗したりした場合は責任を負うことである。
 既に述べたように、明治体制下の日本における天皇の最高指導者としての意思決定は、御前会議において行われる。そして、御前会議で天皇が国家の重大な意志決定を行うと、アメリカ大統領やイギリスの首相と同様に非常独裁権が発動されることになる。つまり、御前会議の決定に基づいて非常独裁権を発動することが、明治体制下の日本における天皇の最大の役割なのである。戦後体制下の日本が事実上独立国家になれずアメリカに従属せざるを得ないのは、天皇が本来持っている非常独裁権が、アメリカの超大国としての政治力によって封じ込められているからである。
 戦後体制下の日本でも、内閣総理大臣が「行政の責任者」であることは明治体制と変わりがない。ところが、明治体制下の日本で国家の最高指導者だった天皇は、太平洋戦争の敗戦後に最高指導者としての力を失った結果、「国家の象徴」となり、あらゆる政治的権限を失ってしまった。しかし、内閣総理大臣が天皇に代わって国家の最高指導者になったわけではない。つまり、明治体制下の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後体制下の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の最高指導者としての天皇の権限を引き継ぐ役職が戦後体制下の日本には存在しないのである。
 ただし、一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。そして、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、戦後体制下の内閣総理大臣は、日本の最高指導者ということになる。しかし、私に言わせれば、国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導して一致団結させることこそ、最高指導者の真の役割である。ところが、内閣総理大臣には、そのような力は無いため、戦後体制下の内閣総理大臣は、国家の最高指導者の役職とは言えないのである。私に言わせれば、日本の内閣総理大臣とは、「法的に正統な行政の責任者」の役職なのである。
 このように、戦後体制下の日本には最高指導者の役職が存在しないのである。そのため、たとえ国家の最高指導者が勤まる能力を持った有能な政治家が登場しても、最高指導者には就任できないのである。
 現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は数多くある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は共同統治者であって、明治体制下の日本の天皇と内閣総理大臣のように最高指導者と「行政の責任者」が分担されているわけではない。つまり、最高指導者も首相も共に「行政の責任者」としての連帯責任があるのである。従って、もし、首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者である大統領や国王も「行政の責任者」として連帯責任を取らされる可能性があるのである。最高指導者と「行政の責任者」が別というのは日本独特の国家体制なのである。
 ところで、国家体制に限らず、特定の制度が社会に定着すると、たとえどのような手段によっても、その制度を変更することができなくなってしまうことがある。
 たとえばヨーロッパの貴族制度は、イギリスやスペインのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、政変や革命をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところがヨーロッパの貴族制度は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、市民の尊敬を受けているのである。
 また、インドの伝統的な身分制度であるカースト制度は、数千年の年月をかけてインドの社会に定着した。現在のインドでは、このカースト制度による差別は、憲法上は否定されているが、現実には、カースト制度もカースト制度による差別も依然として無くなってはおらず、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。
 このように、特定の制度が社会に定着してしまうと、政変や革命が何回起きようと、憲法を含めた法・制度をどう変えようと、無くなることは無いのである。
 これに対して、江戸時代の日本には武士を支配階級とし、百姓や町民を被支配階級とした身分制度が存在したが、これは、身分制度と言う点ではヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と似ているようにも見えるが、根本的に異なるものである。貴族制度やカースト制度が長い時間をかけて社会に定着して、いかなる手段によっても変更できないものになってしまったのに対して、江戸時代の日本の身分制度は、最初から最後まで人為的に作られた制度に過ぎなかったのである。人為的に作られた制度は人為的に変更することが可能である。だから明治維新の時、明治政府が「四民平等」と言った結果、武士を支配階級とした身分制度は消滅してしまったのである。
 また、特定の国家体制が、貴族制度やカースト制度と同様に社会に定着した結果、無くならなくなってしまった例がある。それが、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた結果、イギリスの社会に定着した。イギリスの議会制度も日本の天皇制も、長い歴史の中で何度も政変や革命や内乱といった事態に遭遇したが、結局、存在し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と同様に社会に定着して、どのような手段によっても変更することができなくなっているのである。これが、天皇制が千数百年続いた理由の一つである。
 大統領制とは、選挙などの法の手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。これに対して、天皇制が定着している日本では、正統な国家の最高指導者の役職は天皇のみであり、皇族のみが天皇になることができる。そして、皇族以外の者は、どれほど実力があろうと、どれほど功績を挙げようと、内閣総理大臣のような「行政の責任者」にしかなれないのである。そして、この天皇制は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように日本の社会に定着して、いかなる手段によっても変更できなくなっているのである。そのため日本では、憲法などの法・制度を改正して大統領制や首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法の手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本にはアメリカのような大統領制も、イギリスの首相のような実質的な大統領制も成立しないのである。
 もし、日本に大統領制が成立するのなら、明治維新の時に西郷隆盛が実質的な大統領に就任することによって実質的な大統領制が成立していたはずである。しかし、天皇制の伝統が、それを許さなかったのである。
 また、もし日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領となり、日本に「イギリス型大統領制」が成立するのなら、明治体制下の日本で内閣総理大臣が実質的な大統領になる可能性があったことになる。なぜなら、明治体制下の日本の内閣総理大臣にも、イギリスの大宰相たちに匹敵するような功績を挙げた人物が存在したからである。たとえば、伊藤博文は、明治維新の立て役者の一人であり、近代的な改革に功績があり、更に、日清戦争の時の内閣総理大臣として日清戦争を日本の勝利に導いた。また、桂太郎総理大臣は、イギリスとの間に日英同盟を締結し、帝国主義の強国であるロシア帝国と戦った日露戦争を日本の勝利に導いた。しかし、それにもかかわらず、明治体制下の内閣総理大臣は最後まで国家の最高指導者になることは無かった。日清戦争や日露戦争の勝利は、天皇の最高指導者としてのカリスマや権威を強めただけであり、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になることは遂に無かったのである。
 首相公選制の導入によって日本に実質的な大統領制を成立させるべきだと主張していた人たちは、国家というものは法律や法律に基づいて作られた制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり、世界中どこの国であろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国家体制ができあがると思い込んでいたのである。彼らの考えは、明らかに現実に反している。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や伝統の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。アメリカの大統領制は、アメリカ独特の歴史と伝統から生まれた制度であり、アメリカとは全く異なる歴史と伝統を持つ日本に成立するわけが無いのである。
 また、既に述べたように、民主主義国家を完成させるためには非常独裁制を確立しなければならない。そして、非常独裁権は、国家の最高指導者の権限である。更に、民主主義国家における最高指導者は、アメリカ大統領やイギリスの首相のように国民から民主的な手続きによって選ばれた指導者である。従って、民主主義国家で非常独裁権を持つは、アメリカ大統領のような大統領やイギリスの首相のような実質的な大統領である。つまり、民主主義国家を完成させるためには大統領制や実質的な大統領制の成立が必要不可欠なのである。これに対して、日本において非常独裁権のような最高指導者としての権限を持つことができるのは天皇のみである。つまり、天皇制の伝統のために大統領制も実質的な大統領制も成立しない日本では、民主主義国家を完成させることは不可能なのである。国家体制は、歴史と伝統の産物なのである。
 明治体制下の日本では、最高指導者として君臨する天皇と「行政の責任者」である内閣総理大臣が二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。そして、天皇が最高指導者であっても「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことが、いかなる結果を招いても、責任を取るのはあくまで「行政の責任者」であり、天皇が責任を問われることは無いということである。この、最高指導者と「行政の責任者」が分担されている日本の国家体制が、いかに諸外国の国家体制と比べて特異なものであるかが示されたのが、太平洋戦争後に日本の戦争責任者の追及が行われた時である。
 太平洋戦争の開戦は、御前会議によって決定されたことである。明治体制下の日本では、内閣総理大臣を始めとした大臣は、法的には天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は最高指導者たる天皇のみにある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は昭和天皇によって決定されたということになる。ただし、昭和天皇自身にとって、日米開戦は本意ではなかったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人たちも存在する。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら、昭和天皇と同様の立場にあった者は、間違いなくは戦争責任を取らされていた。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニを首相に任命して独裁的な権力を行使することを容認してイタリアを敗戦国にした責任を取らされて退位させられ、王政そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。大日本帝国の最高指導者であり帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者であるにもかかわらず、占領政策の責任者のマッカーサー元帥やGHQ(連合国最高司令官総司令部)から戦争責任が問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対していたことである。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などをすれば、どのような政治的混乱が起きるかわからなかったのである。天皇制の伝統では、敗戦のような政治的失敗の責任を取るのは「行政の責任者」の役割であって、最高指導者たる天皇の役割ではない。これが、日本国民が昭和天皇の断罪に反対した理由である。このことは、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の伝統が日本の社会に定着していることを明確に示しているのである。もし、日本が太平洋戦争に敗れたと同時に天皇制の伝統も消滅していたら、天皇制はイタリアの王政と同様に廃止されていたはずである。つまり、「国家の象徴」となり政治の実権を失ったとは言え、戦後体制下の日本でも天皇制が存続していることが、天皇制の伝統が消滅してはいない証拠なのである。
 一方、マッカーサーとGHQにとっては、占領政策を成功させるためには、昭和天皇の協力がどうしても必要だった。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領する側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでマッカーサーとGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇だったのである。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そこでマッカーサーとGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。そのため、マッカーサーとGHQは、天皇制の存続を容認したのである。つまり、結果として、占領政策の責任者であるマッカーサーもGHQも、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官だった昭和天皇の罪が一切問われないというのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国、ソビエト、オーストラリアといった国々の不満や不安が収まらない。そこでマッカーサーは、戦争の放棄と象徴天皇制を定めた日本国憲法を制定したのである。
 言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いと言っている人たちがいるが、名実共に最高指導者だった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制と言っても様々な形態があるが、その中でイギリス型の立憲君主制は、形の上では君主制であっても実態は議会政治という国家体制である。近代の議会政治では、国民から選挙によって選ばれた議会政治家のみが国家・国民の指導者というのが原則である。従って、イギリス型の立憲君主制の下で首相に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣だった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本がイギリス型の立憲君主制とは全く異なる国家体制だった証拠である。
 天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統それ自体も、天皇制が千数百年続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は日本の天皇とは違い、最高指導者と「行政の責任者」を兼ねている。そのため、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、君主が「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交替や革命が起きてしまう場合がある。ところが日本の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされて交替させられるのは専ら「行政の責任者」であり、最高指導者の天皇自身に責任の追及が及ぶことは、ほとんど無いのである。だから日本では、王朝の交替や天皇制を否定する革命など起きようが無いのである。
 ただし、天皇や皇族といえども、何らかの形で自らの決定に対する責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起きた承久の乱の場合である。1221年(承久3年)、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、鎌倉幕府執権の北条義時に対する追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流に処し、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、太平洋戦争の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが、政治の実権は失った。これも或る意味では責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交替や天皇制の廃止にまでは至っていない。


天安門事件の背景

第二章 なぜ中国は民主化ができないのか 

 

 

       天安門事件の背景

 

 欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることがある。人治国家とは法の支配が確立されていない国のことであり、法によって定められた手続きではなく、政治家や官僚などによる恣意的な決定や判断によって統治されている国のことを言う。そして、それは人権抑圧や腐敗政治の温床になると見なされ、否定的に見られている。更に、法治国家と法の支配が確立されていない国とでは、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。
 法の支配とは、政策の決定や権力の行使が、法によって定められた手続きに従って行われることである。法の支配が確立された国では、一般国民のみならず、官僚や政治家、そして国家の最高指導者も法によって縛られることになる。
 そして、法の支配が確立されるために絶対に必要なことは、権力によって強制されなくても自ら進んで法・秩序に従う慣習が、国家の指導者や官僚のみならず、一般国民にも定着していなければならないということである。なぜなら、国家の指導者や官僚が、法の手続きに従って国民を統治しようとしても、国民が自ら法・秩序に従おうとしないなら、国家の指導者は国民に対して警察や軍などを使って力ずくで法・秩序に従うことを強制するしかなくなってしまうからである。これでは法の支配ではなく、暴力の支配になってしまう。つまり、権力者に強制されなくても、政治家や官僚や一般国民などの大多数の人間が、自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国とは言えないのである。法の支配が確立された国では、警察などによる力の行使は、法を守らない、ごく一部の人間を取り締まるためにのみ必要なのである。
 法の支配が確立されていない国の人間は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における政治家や官僚による汚職の蔓延の原因も、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していないため、違法な行為に対する罪悪感が希薄なことにある。
 中国が法の支配が確立されていない国であることが明確に分かるのが、2005年、2010年、2012年に起きた大規模な反日デモである。反日デモが起きる度に、デモ隊によって法・秩序に反する行為が行われた。そして更に問題なのが、デモ隊による法・秩序に反する行為に対する中国政府の対応である。
 たとえば、2005年に中国で起きた反日デモの例を見てみよう。
 2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島の領有権といった問題に対して不満を訴える市民が、北京で一万人規模のデモを行った。これをきっかけに中国各地に反日デモが広がっていった。ところが、やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為をするに至った。これに対して中国政府は、自分たちが批判の対象になることを恐れてデモ隊による法・秩序に反する行為を止めさせようとはしなかった。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある。」と述べ、中国政府を非難した。4月15日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが4月16日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至った。日本に対する不満を訴えるだけなら法・秩序に反する行為ではない。しかし投石、破壊行為、暴力行為は、明らかに法・秩序に反する行為である。中国人のデモ隊が叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。つまり、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」だと言うのである。要するに、自分たちが正しいと考える目的のためなら法・秩序に反する行為も許されるということである。これが意味することは、中国人には自ら進んで法・秩序に従うという考えも、法・秩序に反する行為に対する罪悪感も無いということである。そして、デモ発生の当初、自分たちが批判の対象になることを恐れて法・秩序に反する行為を止めさせようとしなかった中国政府には、法治という考えが欠如しているのである。これらの出来事は、中国が法治国家ではないことを明確に示しているのである。そして、2010年と2012年に起きた反日デモの時も、デモ隊によって日本系の商店や日本料理店などが破壊される事件が起きている。
 もっとも、民衆による集団的な法・秩序に反する行為は、法治国家とされている国でも起きている。2005年の10月末にフランスの首都パリの郊外で移民系の住民による暴動が起き、車や建物が放火された。そして、この暴動がフランス全土に拡大して11月の中旬まで続いた。また、2011年8月にはイギリスの首都ロンドンで移民系の住民が始めた暴動がイギリス各地の都市に拡大して放火や略奪が行われ、五名の死者が出た。そして、一部の移民系ではない若者たちまでがこれに加わった。更にフランスでは、2018年11月17日からマクロン政権による燃料税の引き上げなどの政策に抗議して全国的規模のデモが起きた。そして、デモ隊の一部が暴徒化し、商店の破壊や略奪を行った。この暴動によって数名が死亡、数千人が負傷、そして数千人が拘束された。これらの出来事は、法の支配を危機に陥れる行為である。もし、今後もこのようなことが頻発するようなら、イギリスやフランスといえども、法治国家とも文明国とも言えない国になってしまうだろう。
 中国のような法の支配が確立されていない国の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していない。このような国で法・秩序を維持するためには、警察や軍などを使い、力ずくで国民が法・秩序に従うことを強制するしかないのである。つまり、法の支配が確立されていない国の法・秩序は、暴力の支配によって成り立っているのである。このような統治の方法は、武断政治や強権統治などと呼ばれている。武断政治による法・秩序の維持は、中国のみならず、アジアやアフリカ諸国に見られる独裁政権も同様である。
 法治国家の国民が、自ら進んで法・秩序に従うのとは違い、法の支配が確立されていない国の国民は、警察や軍などによる武力の行使が恐ろしいから法・秩序に従うのである。そのため、法の支配が確立されていない国の権力者が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者が常に国民から恐れられていなければならないのである。言い換えれば、法の支配が確立されていない国は、国民が権力者を恐れなくなったら、国民を法・秩序に従わせることが困難になり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合、権力者は、国民に対して武力を行使してでも権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって、統治能力を回復させなければならないこともある。その典型的な例が、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件なのである。
 1989年4月15日、中国共産党の前総書記の胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と北京の天安門前広場に集まり、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政治家や官僚の腐敗を糾弾して中国の民主化を求める集会に変わっていった。
 やがて学生や市民は、共産党や政府の指導者を名指しで非難し始めた。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始めた。
 4月21日には十万人を超す学生や市民が天安門前広場に集まり、民主化を求めるデモを行った。
 5月13日には一部の学生がハンガーストライキを始めた。
 5月17日には天安門前広場に集まった学生や市民の数が百万人近くになった。そして李鵬首相や最高指導者の鄧小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始めた。
 5月19日には趙紫陽総書記がハンガーストライキをしている学生を訪れ、ハンガーストライキをやめるように説得した。
 法治国家ならば、学生や市民がデモをしたくらいのことで国家体制が動揺することは無い。なぜなら法の支配に服従している者が、法の枠を越えた行動を起こすことは滅多に無いからである。法治国家の国民は、デモにしろ反政府活動にしろ、法・秩序の枠の中で行うのである。しかし、法の支配が確立されていない国の国民は違う。自ら進んで法・秩序に服従する慣習の無い人間が集まって徒党を組んだら、何を始めるかわからないし、どんな混乱が起きるのかもわからない。一度、法・秩序が混乱し始めたら、燎原の火の如く混乱が拡大する恐れもある。従って、法の支配が確立されていない国の国民を治めるためには、権力者は武力によって国民を恐れさせ、服従させなければならないのである。ところが天安門前広場に集まった学生や市民は、権力者を恐れる様子も無く、民主化を求め、共産党や政府の首脳に非難の言葉を浴びせたり辞任を要求したりしている。法の支配が確立されていない国にとって、権力者を恐れない国民が出現することは、権力者が統治能力を失ったことを意味するのである。つまり、この時の共産党政権は、絶体絶命の危機に直面していたのである。
 法の支配が確立されていない中国にとって、このような危機に対処する手段は、もはや武力弾圧しかない。武力行使によって事態を収拾すると同時に、国家権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって共産党政権の統治能力を回復させるのである。そこで鄧小平を始めとした中国の指導者たちは、学生や市民に対する武力弾圧を決意し、5月20日に戒厳令を敷いた。そして6月4日、天安門前広場は中国軍によって制圧された。
 こうして天安門事件の時の出来事を見ていると、一見すると強力に見える中国共産党の一党独裁体制が、実は、学生や市民が集まってデモをしたくらいのことで動揺してしまうような軟弱な体制であることがわかるのである。これと比べれば、日本の戦後体制の方がよほど強力だと言わざるを得ない。60年安保騒動を見ればわかるように、学生や市民のデモくらいでは日本の国家体制が潰れる可能性など無いからである。もし、その可能性があったならば、当時の岸政権は自衛隊に治安出動をさせていたはずである。安保騒動の混乱の責任を取って岸政権が退陣したと言っても、国家体制が消滅したわけでも与党の自由民主党が政権を失ったわけでもない。これが法の支配が確立されていない国と法治国家の違いなのである。つまり、法の支配が確立されていない国の権威は非常に弱体なものであり、武断政治には弱体な権威を武力によって補うという側面もあるのである。そのため、法の支配が確立されていない国と武断政治は切っても切れない関係にあるのである。法の支配が確立されていない国の政治が一見して安定しているように見えても、それは国民が権力者の力を強いと思い込んで恐れている間の一時的な状態に過ぎないのである。逆に、法の支配が確立されていない国の国民が権力者の力を弱いと思い恐れなくなったら、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからないのである。従って、法の支配が確立されていない国に、真の政治の安定はあり得ないのである。
 中国と同様に武断政治の軟弱さをさらけ出したのが、2011年に起きた「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政変である。アラブ諸国も中国と同様に法の支配が確立されていない国であるため、武断政治が行われている。そして、2010年12月にチュニジアで26歳の男性が警察官の不正に抗議して焼身自殺した事件をきっかけに大規模な反政府デモが起き、2011年1月14日にベンアリ大統領が国外へ脱出したため、ベンアリ政権は崩壊した。権力者による武断政治を恐れて従っていたアラブ諸国の民衆は、このチュニジアの政変によって武断政治の軟弱さを知り、長期にわたり武断政治を行っている指導者を打倒するための行動を一斉に起こした。エジプトでは2011年1月25日からムバラク大統領の辞任を求める暴動が始まった。そして2月11日にムバラク大統領の辞任が発表され、30年間続いたムバラク政権は崩壊した。リビアでは、2011年2月15日に東部のベンガジでカダフィ大佐の辞任を求める大規模な反政府デモが起きた。これをきっかけに反カダフィ勢力が武装蜂起したため、リビアは内戦状態になった。そして8月23日に反カダフィ勢力が首都トリポリを制圧したため、カダフィ政権は崩壊した。イエメンでは、サレハ大統領の退陣を要求する大規模な反政府デモが発生し、治安部隊や政府軍がデモ隊を攻撃して多くの死傷者を出した。そして、2011年12月23日にサレハ大統領はハディ副大統領に大統領権限を委譲したため、政治の実権を失い、事実上退陣した。そしてシリアでは、アサド政権の打倒を目指す勢力が武装蜂起し、内戦状態になった。
 法の支配が確立されていない国の国家体制を守るために最終的に頼るのが軍である。従って、法の支配が確立されていない国は、軍が国家の命運を握っていると言っても過言では無い。これがよくわかるのが辛亥革命である。
 二十世紀に入ると、中国では、既に衰えていた清朝の権威が、政治の実権を握っていた西太后の死によって更に低下した。そして1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が始まった。革命は中国各地に広がり、十四の省が清朝から独立してしまった。これに対して清朝は、軍閥の実力者の袁世凱を内閣総理大臣に任命して政治と軍事の実権を与え、革命勢力の武力制圧を命じた。
 一方、革命勢力は、1912年1月1日に中華民国臨時政府を成立させ、孫文が臨時大総統に就任した。しかし、袁世凱が率いる軍の力に革命勢力は勝てないと考えた孫文は、1月22日、宣統帝溥儀の退位を条件に、臨時大総統の職を袁世凱に譲る意志を表明した。これを受けて袁世凱は清朝を裏切り、清朝に圧力をかけて宣統帝溥儀の退位を迫った。その結果、2月12日、遂に宣統帝溥儀は退位し、清朝は滅亡した。これを受けて2月13日、孫文は臨時大総統を辞任した。そして3月10日、袁世凱が中華民国の臨時大総統に就任した。こうして清朝は、袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのである。
 法の支配が確立されていない国で、このような事態が起きることを防ぐためには、強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が君臨して政治と軍事をしっかりと掌握していなければならないのである。結局、法の支配が確立されていない国は、武力を握る者だけが国家を統治することができるのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。清朝が袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのは、清朝の皇帝が軍を制する力を失ってしまったからである。
 中国のような法の支配が確立されていない国にとって、軍が存在する第一の目的は、暴力革命や国家の分裂のような事態から権力者や国家体制を守ることであり、法治国家のように国民の生命・財産を外国の脅威から守ることは二の次なのである。天安門事件は、このことを世界に知らしめてしまったのである。


中国の権力闘争

       中国の権力闘争

 

 法治国家の最高指導者は、法に従って最高指導者の役職に就任し、同時に前任者から全ての権力を継承する。そして最後は法に従って最高指導者の役職を解任され、同時に全ての権力が後継者に継承される。いかに強大な力を持った権力者といえども、法の手続きに従い解任されたら、何の権力も持たない、ただの人になってしまう。これが法治国家の権力の継承である。法治国家では、このようなことは当たり前である。ところが法の支配が確立されていない国では、法治国家のような権力の継承は不可能である。法の支配が確立されていない国では、たとえ法の手続きに従って最高指導者の役職に就任したとしても、その者に政治の実権があるとは限らないのである。
 たとえば鄧小平が健在だった時の中国のことを考えて見ればよい。1993年以降、中国における法律上の最高指導者の役職は国家主席であり、2003年まで江沢民がその役職にあった。ところが鄧小平が健在だった時は、事実上の最高指導者は鄧小平であり、江沢民国家主席も李鵬首相も、実態は鄧小平の家来の如き存在だった。重要な決定はすべて鄧小平が行い、江沢民国家主席も李鵬首相も鄧小平の決定に従うだけだった。鄧小平は十数年間、事実上の中国の最高指導者でありながら、法律上の最高指導者の役職に就任したことは一度も無かったのである。
 また、清朝末期に実質的な最高指導者として中国に君臨した西太后も同じである。実の息子の同治帝や甥の光緒帝を形だけの皇帝に立て、政治の実権は西太后自身が握っていたのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、しばしばこういうことが起きる。その理由は、法の支配が確立されていない国では、最高指導者と、その配下の官僚や軍人との関係が、法治国家とは全く異なるからである。
 法治国家の場合、最高指導者と官僚や軍人との関係は、法によって定められた上司と部下という関係で成り立っている。一部の側近を除けば、ほとんどの官僚や軍人は、大統領や首相の法律上の部下である。そして大統領や首相に就任した人物が、官僚や軍人たちにとって、いかに気に入らない人物であろうと、いかに無能な人物であろうと、正統な法の手続きに従って最高指導者に就任し、正統な法の手続きに従って行政上の命令が下される限りは絶対服従しなければならない。つまり法治国家の官僚や軍人は、大統領や首相といった法律上の制度に仕えているのであって、最高指導者個人に仕えているのではない。たとえば、アメリカの官僚や軍人は、大統領の法律上の部下であっても、ドナルド・トランプの個人的な家来ではない。これに対して、法の支配が確立されていない国の最高指導者と官僚や軍人との関係は、主人と家来、または親分と子分といった個人的な主従関係で成り立っているのである。鄧小平が健在だった時の中国の官僚や軍人は、鄧小平個人の家来か子分であっても、国家主席や首相の部下ではなかった。それどころか江沢民国家主席や李鵬首相自身が鄧小平の実質的な家来になってしまっていたのである。
 主人と家来、或いは親分と子分といった関係は、個人的な主従関係である。そして、その関係は、自分の好みや都合で決めることである。家来や子分にとって、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かにかかわらず、自分自身がその人物の家来や子分であり続けようとする限り、主従関係は続くのである。つまり、自分の主人や親分が法的に正統な指導者であるか否かは、主従関係には全く影響が無いのである。従って、鄧小平が法的に正統な最高指導者でなくても、鄧小平を自分の親分、或いは国家の最高指導者としてふさわしい人物だと思っている官僚や軍人や国民にとっては、法的な正統性とは関係無く鄧小平が最高指導者なのである。そして、法の支配が確立されていない国において最高指導者としてふさわしい人物とは、毛沢東や鄧小平のように強力なカリスマと指導力を持った人物である。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、強力なカリスマと指導力を持った人物ならば、法の手続きや正統性とは関係無く、実質的な最高指導者になることができるのである。逆に、たとえ法の手続きに従って法的に正統な国家の最高指導者に就任しても、江沢民のようなカリスマにも指導力にも欠ける人物では、実質的な最高指導者にはなれない場合もあるのである。つまり、法治国家では、大統領や首相といった法的な制度が国家・国民を指導するのに対して、中国のような法の支配が確立されていない国では、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマと指導力を持った個人が国家・国民を指導するのである。従って、法治国家では、大統領や首相のような法的に正統な最高指導者の役職に就任しなければ最高指導者になれないのに対して、法の支配が確立されていない国では、最高指導者にふさわしい実力さえあれば、法的に正統な最高指導者の役職に就任しなくても実質的な最高指導者になることが可能なのである。これが、法的に正統な最高指導者の役職に就任していない西太后や鄧小平が実質的な最高指導者になることができた理由の一つである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、官僚や軍人が、西太后、毛沢東、鄧小平といった強力なカリスマを持った個人に仕えるという考えはあっても、法治国家のように大統領や首相といった法律上の制度に仕えるという考えは無いのである。これが意味することは、中国のような法の支配が確立されていない国では、皇帝、国家主席、首相と言った役職は、法律上の制度ではなく、単なる肩書きに過ぎないということである。アメリカなどの法治国家で採用されている大統領制は、大統領や首相といったカリスマを持った役職が前任者から後継者に継承される制度である。しかし、役職がカリスマを持つのは、法治国家の大統領や首相のように、役職が法律上の制度である場合のことである。つまり、法の支配が確立されていない中国のように、最高指導者の役職が単なる肩書きに過ぎない国の場合は、毛沢東や鄧小平といった個人がカリスマを持つことはあっても、国家主席や首相といった役職がカリスマを持つことは無いのである。そのため、法の支配が確立されていない国では、法治国家のように国家主席や首相といった役職と一緒に、カリスマを後継者に継承させることができないのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、法治国家のような大統領制は成立しないのである。
 また、中国のような法の支配が確立されていない国で実質的な最高指導者になるために必要不可欠なことが、軍や警察のような、力を行使する組織を支配することである。法の支配が確立されていない国では、武断政治ができなければ国家を統治することができない。武断政治とは、武力を背景にして力と恐怖によって政治家、官僚、そして国民を法・秩序に従わせることである。従って、武断政治をするためには、力の根源と言うべき軍を支配することが絶対に必要なのである。そして、法の支配が確立されていない国において軍を支配する方法とは、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持つ指導者が、その力を使って軍人たちを「子分」あるいは「家来」にすることによって軍を掌握することなのである。法の支配が確立されていない国では、軍を支配する者が実質的な国家の最高指導者なのである。このように、軍を実質的に支配していたことが、鄧小平が中国の実質的な最高指導者であったもう一つの理由なのである。中国のような法の支配が確立されていない国は、軍を制する者が国家を制する国なのである。
 鄧小平時代の中国と同じことが、ロシアでも起きている。プーチン大統領は、ロシア憲法に定められた三選禁止条項のために2008年の大統領選挙に出られないため、身代わりとして「家来」のメドヴェージェフを大統領候補者として擁立することにした。そして2008年3月2日に大統領選挙が行われ、メドヴェージェフは大統領に当選した。そしてプーチンは、メドヴェージェフ大統領の下で首相に就任した。ところが、この時のプーチンは、首相と言っても実質的にはロシアの最高指導者であり、法的に正統な最高指導者であるはずのメドヴェージェフ大統領は、鄧小平にとっての江沢民と同じく、プーチンの傀儡に過ぎなかったのである。つまり、メドヴェージェフ大統領は、法的にはプーチン首相の上司であっても、実態は、プーチンという「主人」に仕える「家来」だったのである。その後、2012年の大統領選挙では、再びプーチンが大統領に当選した。ロシアで中国と同様に、実質的な最高指導者と法的に正統な最高指導者が別人と言う事態が起きたことは、ロシアも中国と同じく、法の支配が確立されていない国であり、大統領制が成立してはおらず、大統領の役職は単なる肩書きに過ぎないことを示しているのである。つまり、プーチンが大統領だと言っても、それは、プーチンという権力者が大統領と言う肩書きを身にまとっているに過ぎないのである。ロシアは、軍と秘密警察を制する者が国家を制する国と言える。従って、現在のロシアでは、軍と秘密警察を制する力を持つプーチン以外の者には最高指導者は務まらないのである。
 更に、武家政治の時代の日本も、法の支配が確立されていない国の権力がいかなるものかを示すよい例である。たとえば徳川家康は、征夷大将軍の役職を就任から二年二ヶ月で息子の秀忠に譲ってしまう。ところが征夷大将軍を辞職したはずの家康は、大御所様と呼ばれ、隠居城である駿府城から二代将軍秀忠の頭越しに様々な指令を出し、事実上の最高権力者として天下に君臨するのである。そして大坂冬の陣や大坂夏の陣も、家康は自ら陣頭指揮をしているのである。つまり、この時期の二代将軍秀忠は、家康の傀儡に過ぎなかったのである。家康を主君と仰ぐ徳川家の家臣たちにとって、征夷大将軍であるか否かにかかわらず家康だけが自分たちの主君だった。そのため家臣のほとんどが、家康が死ぬまで家康個人を自分たちの主君と仰ぎ続けたのである。二代将軍秀忠が名実共に征夷大将軍として天下に号令できるようになったのは家康の死後のことである。その二代将軍秀忠も家康と同様、存命中に息子の家光に征夷大将軍の役職を譲り、大御所様と呼ばれ、事実上の最高権力者として君臨するのである。後に名将軍と称えられた三代将軍の家光も、秀忠の存命中は、その傀儡の地位に甘んじていたのである。つまり、日本の武家政治における征夷大将軍の役職も、中国の皇帝や国家主席、そしてロシアの大統領と同じく、単なる肩書きに過ぎなかったのである。また、幕末には徳川慶喜が征夷大将軍の役職を朝廷に返上し、大政奉還が実現したが、大政奉還の後も依然として徳川慶喜は事実上の武家の棟梁であり、江戸幕府は実質的に存続していたのである。つまり徳川慶喜が肩書きに過ぎない征夷大将軍の役職を失ったところで、江戸幕府が消滅したわけではなかったのである。そのため、薩摩や長州と言った倒幕勢力が日本に本格的な変革を起こすためには、武力によって徳川慶喜を打倒するしか無かったのである。
 中国、ロシア、江戸幕府の例で分かるように、法の支配が確立されていない国では、最高権力者が政治力を保ったままで生きている間は、事実上権力の継承ができないことがある。このことが、時と場合によっては、国家や国民に悲劇をもたらすことがある。なぜなら、権力者が政治力を保ったままで生きている間に権力の継承をしようとすれば、権力者を失脚させて政治力を失わせるか、さもなければ権力者を殺してしまうしかない場合があるからである。また、逆に権力者も、自分に取って代わりそうな人物が現れたら、その者に、いつ権力や命を奪われるかわからないのである。そのため、法の支配が確立されていない国に権力闘争が起きると、身の毛もよだつような血みどろの闘争に発展することがあるのである。
 その一例が、旧ソビエトでスターリンが行った粛清と呼ばれる政治弾圧である。ソビエトの独裁者スターリンは、粛清によって数多くの人間を殺害したり強制収容所や刑務所に送り込んだりした。粛清の犠牲者は、幹部を含めた共産党員、軍人、そして文化人や一般市民にも及んだ。粛清によって殺された人間の数は、数百万人とも数千万人とも言われている。スターリンがこのような大量殺戮を行った理由は、自らの権力を守るために自分に敵対すると思われる勢力を抹殺することである。これに加えて、スターリン自身の猜疑心が強く残忍な性格や、ロシア独特のツァーリズムと呼ばれる武断政治の伝統も粛清の背景にあった。更に、ソビエトが法の支配が確立されていない国だったこともスターリンが粛清を行った理由である。
 ソビエトのような法の支配が確立されていない国は、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような主従関係で成り立っている。レーニンが死にスターリンが最高指導者になっても、かつてレーニンの「家来」だった者が政権内に数多く残っていた。法治国家ならば前任者の部下だった者も、法の手続きに従い後任の最高指導者が就任すれば、その部下にならざるを得ない。しかし、最高指導者と部下の関係が「主人」と「家来」のような個人的な主従関係で成り立っているソビエトでは、主だった共産党幹部や軍人や官僚を最高指導者の「家来」に替えてしまわなければ最高指導者の地位を確立できないのである。そのためにスターリンは、前任者レーニンの「家来」を一掃し、自分の息のかかった「家来」と入れ替えなければならなかった。その過程でスターリンは多くの人間を抹殺してしまったのである。
 また、法の支配が確立されていない国では、法の手続きによる権力の継承の仕組みが確立されていないため、国家の最高指導者は、自分に取って代わりかねないと思われる人物が現れたら、その者に、いつ最高指導者の地位や命を奪われるかわからない。だから最高指導者にしてみれば、最高指導者の地位を奪う可能性のありそうな人物は、前もって始末しておかなければ安心できないのである。そこでスターリンは、自分に取って代わって最高指導者になりそうな人物や、その人物を支持する人たちを抹殺してしまったのである。
 更に、共産党政権下の中国の例を見てみよう。
 毛沢東が推進した「大躍進」と呼ばれる経済政策の失敗によって中国経済は混乱に陥った。そのため、1959年4月に開かれた全国人民代表大会で毛沢東は国家主席を辞任し、新たに劉少奇が国家主席に就任した。劉少奇国家主席は「大躍進」によって混乱した中国経済を立て直すため、鄧小平と共に市場経済を導入した経済政策を始めた。
 当時の国家主席は、中国における法律上の最高指導者の役職である。アメリカならば大統領に匹敵する地位である。法治国家ならば、法律上の最高指導者の職を辞してしまったら、どんなに偉大な指導者も、ただの人になってしまう。ところが法の支配が確立されていない中国では、そうはいかない。法の支配が確立されていない国では法的な地位に一切関係なく、多くの人間から最高指導者だと思われている人物が最高指導者である。毛沢東が国家主席の職を失っても、毛沢東を自分たちの最高指導者だと思っている共産党員、軍人、官僚、そして国民が多数存在していた。その人たちにとっての中国の最高指導者は依然として毛沢東であって、法律上の最高指導者である劉少奇国家主席ではないのである。また、毛沢東は、国家主席を辞任しても、もう一つの国家権力とも言うべき共産党主席の地位にはとどまっていた。
 一方、新しい国家主席の劉少奇が江沢民のような非力な人物だったら、毛沢東の傀儡と化している所である。しかし劉少奇は、政治家として、それなりに有能だったため、劉少奇を支持する勢力も少なからず存在していた。そのため、劉少奇もまた最高指導者となった。この結果、中国は、毛沢東と劉少奇という二人の最高指導者が並び立つことになってしまったのである。
 ところが、毛沢東は、もう一度たった一人の最高指導者として中国に君臨することを望んでいたため、何としても劉少奇と、その支持勢力を葬り去りたかった。そこで毛沢東は、学生や市民を煽動して文化大革命と呼ばれる大衆運動を起こし、これを利用して劉少奇を始めとした政敵を攻撃して葬り去ろうとした。やがて毛沢東によって煽動された紅衛兵と称する学生たちは、劉少奇や鄧小平を大衆運動によって攻撃し始めた。また、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。そこで毛沢東は、軍の実力者の林彪を味方にして軍に対する影響力を強めようとした。やがて林彪は、1969年4月の第九回中国共産党大会で毛沢東の後継者に指名された。一方、劉少奇は毛沢東との権力闘争に敗れ、あらゆる役職から解任され、1969年11月に幽閉されていた建物の中で病死した。
 しかし、これで血生臭い抗争が終わったわけではない。今度は、毛沢東と、その後継者に指名された林彪との間で確執が始まったのである。
 1969年3月に中国とソビエトの国境の珍宝島で中国軍とソビエト軍の武力衝突が起きたことをきっかけに、毛沢東はソビエトの脅威を実感するようになり、ソビエトに対抗するため、かつて敵視していたアメリカに接近しようとした。これに対して林彪は、中国にとって最大の敵はあくまでアメリカであるという立場だった。この対外政策での立場の違いが、毛沢東と林彪の確執の始まりと言われている。
 1970年8月から9月にかけて開かれた第九期中央委員会第二回総会で、林彪と、その一派は、毛沢東を天才と持ち上げ、国家主席に就任するように求めた。これに対して毛沢東は、自分が国家主席に就任することを辞退すれば、林彪が国家主席に就任するつもりではないかと疑った。
 そもそも林彪にしてみれば、毛沢東の後継者に指名されたとは言え、毛沢東が健在である限り、自分が必ず権力者になれるという保証はどこにも無いのである。つまり、林彪が確実に権力を手にしようとするなら、毛沢東を打倒するしか無いのである。従って、毛沢東にしてみれば、林彪は自分の権力や命を脅かす危険な存在なのである。林彪を危険視する毛沢東は、林彪と、その側近の粛清に乗り出した。
 やがて、毛沢東が林彪を「極右」と批判したことをきっかけに、林彪と、その側近たちは、自分たちの身に危険が迫っていることを感じるようになったため、毛沢東を倒して権力を奪うクーデターを計画した。しかし、クーデター計画が事前に毛沢東に漏れたため、計画は失敗してしまった。林彪は飛行機でソビエトに亡命しようとするが、1971年9月13日、飛行機がモンゴルで墜落して死亡した。
 この事件の反省から、毛沢東が最終的に自分の後継者に指名したのが華国鋒である。華国鋒は毛沢東の言いなりになるしかない無能な人物である。毛沢東は、華国鋒のような無能な人物ならば自分に危害を加えることは無いと判断したのである。
 中国のような法の支配が確立されていない国では、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者の数だけ最高指導者が出現し、国家が分列してしまう可能性がある。だから一旦権力を握った者は、自分以外にも最高指導者としてふさわしいと思われている者が存在する場合は、その者を抹殺してしまわなければ権力を安定させることができないのである。こうした中国の指導者たちの権力闘争は、まるで三国志の世界の出来事である。つまり、中国の権力のあり方は、三国志の時代と大して変わっていないのである。それは、中国に法の支配が確立されていないからである。法の支配が確立された国は、法律や制度が、一人の人間しか最高指導者になれないように作られ、それに従って最高指導者が決定されているため、国民から最高指導者にふさわしいと思われている指導者が何人いようと、国家が分列するようなことは起きないのである。ただし、中国にも権力の継承の仕組みを定めた法律は存在するが、法律上の最高指導者と実質的な最高指導者が別人であるようなことが起きる中国では、安定した権力の継承を保障するものではない。
 国家の最高指導者の地位を安定させるためには、最高指導者の法的な正統性を確立することが必要である。最高指導者の法的な正統性とは、なぜその人物が国家の最高指導者なのかという法的な根拠である。最高指導者の法的な正統性を確立するためには、アメリカの大統領制のように、あらかじめ最高指導者に就任するための正統な法的手続きを定めておき、それに従って最高指導者に就任しなければならない。しかし、これは法の手続きに従って意志決定が行われる法治国家にのみ可能なことであり、法の支配が確立されておらず、法の手続きとは無関係に意志決定が行われる国家では不可能である。従って、中国のような法の支配が確立されていない国は、最高指導者の法的な正統性を確立することができないのである。中国は、古代から王政や帝政といった君主制が続いて来たが、常に政治の実権が君主にあったとは限らない。有力な臣下や外戚、そして君主の母親や后などが政治の実権を握ることもあった。そして、彼らや彼らの一族が新しい王朝を作ることも希ではなかった。このようなことが起きる原因は、中国は法治国家になれなかったため、歴代の君主が法的な正統性を確立できなかったことである。強大な権力を持っていた秦の始皇帝以降の皇帝といえども、法的な正統性など無かったのである。だから中国では易姓革命や皇位の簒奪が絶えることが無かったのである。最高指導者としての法的な正統性が確立されていなければ、政治家も、官僚も、軍人も、そして国民も、一体誰の指導に従ってよいのかわからなくなり、政治や社会が混乱状態に陥ってしまうこともある。その典型的な例が、共産党政権下の中国で起きた文化大革命なのである。また、歴史上、世界の多くの国では、権力の継承を巡る争いが激化した結果、国家が分裂して内乱状態に陥ってしまった例がいくらでもある。国家の最高指導者に法的な正統性が確立されていないと、このような政治の混乱を招く危険性が高いのである。従って、最高指導者の地位を安定させるためには、法の支配を確立し、国家の最高指導者の法的な正統性をしっかりと確立しなければならないのである。
 近代の欧米諸国や明治維新以降の日本のような、法の支配が確立された国では、最高指導者としての法的な正統性が無ければ、名実共に最高指導者になることはできない。最高指導者としての法的な正統性が無い者が、実質的な最高指導者や、それに匹敵するような権力を持つのは、中国や明治維新以前の日本のような、法の支配が確立されていない国に起き得ることである。
 明治維新以前の日本は、七百年近くにわたって征夷大将軍を頂点とする武家政治の統治下にあった。日本に武家政治が成立した背景にあったのが、本来は法的に正統な最高指導者である天皇が国家を統治する力を失ったことと、法の支配が確立されていなかったことである。法の支配が確立されていなかった明治維新以前の日本では、天皇が国家を統治する力を失った結果、源氏と平氏の抗争、南北朝の争乱、戦国時代といった乱世になってしまった。この乱世を武力によって平定した者が天皇から征夷大将軍の称号を与えられ、日本を武断政治によって統治したのが武家政治である。
 一方、明治維新以降の日本は、法の支配が確立されているため、戦後体制下のように、天皇が国家を統治する力を失っても乱世になることは無い。そして、法の支配が確立されている国家では、法的に正統な最高指導者でなければ国家の最高指導者になることはできない。そのため、法の支配が確立された明治維新以降の日本では、幕府のような法的な正統性の無い体制は成立しないのである。更に、日本は、天皇制の伝統のため、天皇以外の法的に正当な最高指導者の役職が成立することが無い。従って、明治維新以降の日本は、天皇が国家を統治する力を失っても、武家政治が成立することも天皇以外の者が正統な国家の最高指導者になることもあり得ないのである。



読者登録

mk3224さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について