閉じる


<<最初から読む

6 / 29ページ

首相公選論の誤り

       首相公選論の誤り

 

 かつて、政治家や知識人、あるいは学者の間で、首相公選論なるものが盛んに論じられたことがあった。首相公選論者の主張は、内閣総理大臣を直接選挙によって選ぶべきだと言うことであった。
 ただし、一口に首相公選論者と言っても、首相公選制を導入すべきだと言う理由には様々なものがあった。内閣総理大臣を直接選挙で選ぶことによって国民の政治に対する責任感や政治意識が強まると主張する者が居た一方で、首相公選制の導入によって、日本に実質的な大統領制が成立すると主張する者も居たのである。
 実質的な大統領制の成立を主張する首相公選論者によると、国民が直接内閣総理大臣を選べば、国民は自らの意志で自分たちが希望する者を内閣総理大臣に選ぶことになる。そして、国民が自らの意志で内閣総理大臣を選ぶと、内閣総理大臣に強い正統性を与えることになり、それによって内閣総理大臣に強力なカリスマや指導力が与えられると言うのであった。
 実質的な大統領制の成立を主張する首相公選論者が手本にしていたのが、アメリカの大統領選挙制度である。ただし、アメリカ大統領選挙における一般投票は、国民が大統領選挙人を選ぶ選挙であり、アメリカ大統領を直接選ぶのは大統領選挙人である。つまり、アメリカ大統領選挙は、形式的には国民に選ばれた大統領選挙人が大統領を選ぶ間接選挙なのである。ただし、実際に一般投票で国民が投票するのは大統領候補者の名前である。また、大統領選挙人になる者は、あらかじめ自分がどの大統領候補者を支持するのかを約束している。そして、アメリカのほとんどの州では、最も多くの票を集めた大統領候補者が、各州に割り当てられた数の全ての大統領選挙人に、自分を支持すると約束している者を選ぶという仕組みになっている。そして、大統領選挙人による投票において、29の州と首都ワシントンでは、大統領選挙人は自分が所属する政党以外の候補者に投票することが法律等で禁じられている。しかし、支持すると約束した大統領候補者に投票する法的な義務が無い州でも、大統領選挙人が、支持すると約束した候補者とは別の候補者に投票することはほとんど無い。そのため、事実上、国民による一般投票の結果が、そのまま大統領選挙の結果になっている。従って、アメリカ大統領選挙は、形式的には間接選挙であっても、実質的には直接選挙と言えるのである。
 実質的な大統領制の成立を主張する首相公選論者は、内閣総理大臣を直接選挙によって選べば、内閣総理大臣がアメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導者になると信じていたのである。しかし、考えてみれば、たとえば日本の都道府県知事は、有権者による直接選挙によって選ばれているのに、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持っているわけではない。また、イギリスは日本と同じく議院内閣制であり、イギリスの首相は日本の内閣総理大臣と同じく国会議員によって選ばれているにもかかわらず、アメリカ大統領と同様の力を持つ国家の最高指導者である。つまり、最高指導者のカリスマの力が強いか否かは、その選び方によって決まるわけではないのである。要するに、大統領選挙とアメリカ大統領の強力なカリスマとの間には何の関係も無いのである。従って、日本の内閣総理大臣を直接選挙で選んでも、イギリスの首相のような実質的な大統領になれるわけではないのである。
 実質的な大統領制の成立を主張する首相公選論の前提になっていたのが、民主主義国家の指導者の正統性は、国民から支持され、選挙で選ばれることによって確立されるという考えである。確かに、一般的な民主主義国家の理念では、指導者の正統性は、選挙で選ばれることによって確立されるということになっているが、これはあくまで理念の上でのことであって、現実とは違うのである。多くの民主主義国家では、正統な法的手続きに従って最高指導者の役職に就任したことが最高指導者の正統性の根拠になっているのである。この点に関しては、アメリカ大統領も例外ではない。つまり、アメリカ合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任したことが、正統なアメリカ大統領であることの根拠なのである。
 アメリカ大統領の正統性が、国民の支持ではなく、法的な手続きによって確立されていることを示す例を挙げてみよう。
 アメリカの大統領制は、大統領が在職中、死亡、又は何らかの理由によって職務が遂行できなくなり辞職した場合、副大統領が大統領に昇格する制度になっている。ほとんどの副大統領は、大統領と共に大統領選挙を戦い勝利しているため、大統領と共に国民の支持を得たことになる。ところが、1974年8月9日にニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任を取って辞任した後、副大統領から大統領へ昇格したジェラルド・フォードは、ニクソン大統領と共に大統領選挙を戦ってはいなかったのである。ニクソン大統領と共に大統領選挙を戦い勝利したのは、前副大統領のスピーロ・アグニューである。そのスピーロ・アグニューが州知事時代の収賄罪が確定したことを受けて副大統領を辞任した後、ジェラルド・フォードは合衆国憲法の規定により、ニクソン大統領の指名と議会の上下両院の過半数による承認によって副大統領に就任したのである。つまり、ジェラルド・フォードは、国民の支持によって副大統領や大統領に就任したのではなかったのである。従って、もし、国民の支持が大統領の正統性の根拠だとすれば、ジェラルド・フォードは正統な大統領ではなかったことになってしまう。
 また、2000年の大統領選挙では、フロリダ州におけるブッシュ候補とゴア候補の得票数がほぼ同数で、他の州の集計結果が確定した後も、なかなか集計結果が確定せず、しかも、このフロリダ州の勝者が大統領選挙の当選者になるという状況だったため、なかなか当選者が決まらなかった。最後は、ブッシュ候補が僅差でフロリダ州を制し、大統領選挙の当選者となった。もし、国民の支持によってアメリカ大統領の正統性が確立されるとすれば、2000年の大統領選挙で当選したブッシュ大統領のように、僅差で当選した大統領の正統性は極めて怪しいことになってしまう。しかも、2000年の大統領選挙では、総得票数ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、アメリカ独特の大統領選挙制度のためにブッシュ候補が当選者となった。つまり、国民の支持ではゴア候補がブッシュ候補に勝っていたにもかかわらず、法律上はブッシュ候補が大統領選挙に勝ったということである。更に、2016年の大統領選挙でも2000年の大統領選挙と同様に、総得票数ではクリントン候補がトランプ候補に勝っていたが、法律上はトランプ候補が勝利した。従って、アメリカ大統領の正統性は、国民の支持ではなく、法的な手続きによって確立されていると言えるのである。
 このようにアメリカ大統領の正統性の根拠は、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任したという点にあるのである。大統領選挙にしろ、副大統領からの昇格にしろ、合衆国憲法によって定められた大統領に就任するための法的手続きの一つなのである。大統領選挙を全く戦わず大統領に就任したジェラルド・フォードも、合衆国憲法の定める正統な法的手続きに従って大統領に就任した以上は、正統な大統領なのである。そして、大統領選挙に大差で当選しようが僅差で当選しようが、大統領選挙で勝利するという合衆国憲法の定める法的な手続きを経たことには変わりが無いのである。ただし、法的手続きに従って決定された大統領も、民主主義国家の理念の上では、国民に支持されたことによって正統性を与えられていることになっているのである。
 アメリカ大統領の強力なカリスマの力は、大統領選挙とは何の関係も無いのである。それでは、一体どのようにして、アメリカ大統領は、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを得ているのだろうか。
 カリスマの力も法的権限と同様に国家を運営する上で必要不可欠な国家権力である。従って、法的権限を継承しただけでは国家の最高指導者は務まらないのである。ところが、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマの持ち主など、滅多に登場することが無いのが現実である。なぜなら、国家・国民を指導できるような強力なカリスマを得るためには、その源となる「神話」が必要だからである。アメリカの初代大統領であるジョージ・ワシントンは「独立戦争の英雄」であり「建国の父」である。これが彼の獲得した強力なカリスマの源となる「神話」である。ところが、ワシントンのような、強力なカリスマを得るための「神話」を持つ機会に恵まれた指導者など滅多に存在しないのが現実である。しかし、それでは国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマの持ち主が登場することは滅多に無いことになってしまう。一体どうすれば、強力なカリスマを得るための「神話」を持つ機会が無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを得ることができるのだろうか。これを理解してもらうためには、カリスマというものについて、更に詳しい説明をしなければならない。
 カリスマを持つのは、アメリカ大統領、歴史上の英雄、そして有名人といった特別な人間だけではない。実は、一般庶民を含めた全ての人間がカリスマを持っているのである。ただし、一般庶民の持っているカリスマは、英雄や有名人の持つ強力なカリスマと比べると遙かに弱いのである。
 強力なカリスマを持った者が意志表明をすると、多くの人間が無意識のうちに、その意志を自分の意志として受け入れてしまう。人間を指導するということは、多くの人間を指導者の意志に従わせることである。そのため、アメリカ大統領に限らず、多くの人間を指導する立場にある者には、一般庶民が持っているような弱いカリスマではなく、多くの人間を従わせることができる強力なカリスマが必要である。そのため、指導的な立場にある者は、何らかの方法で強力なカリスマを得る必要がある。
 強力なカリスマを得る方法としては、仕事などで功績を挙げたり、偉業を達成したりすることによって自らのカリスマの力を強めるという方法があるが、これに加えて、他者から強力なカリスマを継承するという方法もあるのである。
 カリスマを持つのは個人だけではない。家族や大学や企業のような人間集団がカリスマを持つ場合もある。そして人間が集団に所属すると、その集団からカリスマが与えられることになる。
 たとえば、名家とか名門とか呼ばれる家族は、権力や財力や名誉ある地位などと共に、強力なカリスマを持った家族のことである。家族の中に強力なカリスマを持つ者が登場すると、その家族全体のカリスマも強まるのである。すると、その家族に生まれた人間も、生まれると同時に家族が持つ強力なカリスマが与えられることになる。これが俗に言う「親の七光り」である。この「親の七光り」によって先代から受け継いだカリスマの力を、同じく先代から受け継いだ権力や財力や名誉ある地位などによって補強し続けることにより、一つの家系が何代にもわたって強力なカリスマを継承して維持するのが名家とか名門とか呼ばれる家族なのである。
 一流大学や一流企業とは、強力なカリスマを持った大学や企業のことである。学生が一流大学に入学すると、その一流大学が持つ強力なカリスマが与えられる。一流大学の卒業生が優秀な人間と見なされる理由は、学校の成績が優秀だったからと言うよりも、むしろ一流大学から与えられた強力なカリスマの力のためである。また、有名な一流企業に就職して社員になると、企業から強力なカリスマを与えられるため、一流企業に勤めているだけで、その人間は、世間から立派な人間のように思われてしまうのである。これらは、言わば、「大学の七光り」「企業の七光り」である。
 また、カリスマには、負のカリスマと言うべきものもある。たとえば、親が犯罪行為をすると、子供までが社会から犯罪者の如く扱われてしまう。企業が犯罪行為をすると、犯罪行為に直接かかわっていない社員までが企業と同罪だと社会から見なされてしまう。これは、親や企業から負のカリスマを受け継いだ結果である。
 更に、カリスマを持つのは人間や人間集団だけではない。大統領や首相のような国家の役職や、社長や専務のような企業の役職などがカリスマを持つ場合もある。前任者から強力なカリスマを持った役職を継承すると、同時に、その役職が持っている強力なカリスマも前任者から継承することになる。こうすることによって、本来なら強力なカリスマを持つような資質や機会に恵まれない人間でも強力なカリスマを持つことが可能になるのである。
 これまで述べたことからすると、強力なカリスマを得るには、次の二つの方法があることになる。
 第一の方法は、ワシントンやチンギス・ハーンやナポレオンと言った英雄のように、偉大な功績を挙げることによって「神話」を作り、その「神話」によって自らのカリスマの力を強めるという方法である。
 そして第二の方法は、強力なカリスマを持った人物や人間集団から、その強力なカリスマを継承するという方法である。
 いかなる国家も、せっかく国民を指導するに足る強力なカリスマを持った最高指導者が登場しても、その人物が死んだり最高指導者を辞めたりしてしまったら、強力なカリスマを持った最高指導者が国家に存在しなくなってしてしまうことがある。そうなると、国民を指導して一致団結させることができなくなり、国家の非常事態に対処できなくなってしまう。国家には国民を指導するに足る強力なカリスマを持つ最高指導者が常に必要である。そこで古今東西、多くの国家では、最高指導者の強力なカリスマを後継の最高指導者に継承する体制を確立しているのである。
 最高指導者の強力なカリスマを後継の最高指導者に継承する体制の一つが君主制である。君主制が強力なカリスマを継承する仕組みは、名家とか名門とか呼ばれる家族が強力なカリスマを継承する仕組みと同じである。つまり君主制とは、「親の七光り」によって先代の最高指導者から受け継いだカリスマの力を、同じく先代から受け継いだ最高指導者としての権力や名誉によって補強し続けることにより、一つの家系に属する人たちが何代にもわたって強力なカリスマを継承し、最高指導者として国家に君臨し続ける体制である。
 そして、アメリカなどの国で採用されている大統領制も、最高指導者の強力なカリスマを後継の最高指導者に継承する体制の一つである。大統領や首相と言った最高指導者の役職がカリスマを持つ場合もある。大統領の役職が持つカリスマは、偉大な功績を挙げて強力なカリスマを確立した大統領個人が持っていたカリスマが、大統領の役職が持つカリスマとなったものである。そして、強力なカリスマを持った大統領の役職を、法の手続きに従って後継者に継承する体制が大統領制なのである。アメリカ大統領の役職が持つ強力なカリスマは、初代大統領ワシントン個人が持っていたカリスマが、アメリカ大統領の役職が持つカリスマとなったものである。つまり、アメリカの歴代大統領のカリスマは、ワシントンが持っていたカリスマが、法の手続きによって大統領の役職と共に歴代大統領に継承されたものなのである。
 このように、強力なカリスマを得る機会の無かった者が、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持つためには、前任者が持つ強力なカリスマを継承するという方法しか無いのが現実である。
 現在のアメリカ大統領は、国民の意識を一変させるような強力なカリスマを持っているが、初代ワシントンの頃から、このような力を持っていたわけではない。アメリカ大統領のカリスマの力は、大統領の指導力によって国家の危機を乗り切ったり戦争に勝利したりする度に強大化していったのである。中でも、とりわけカリスマの力の強大化に貢献したのが、第十六代大統領エイブラハム・リンカーンと第三十二代大統領フランクリン・ルーズベルトである。この二人の偉大な大統領の登場によって、アメリカは大きく変質しているのである。
 南北戦争が終結した1865年以前のアメリカ合衆国は、国家と言うよりも国家の連合体と言った方がよい。日本人が「州」と呼ぶ、テキサス、カリフォルニア、フロリダ、ヴァージニアなどといった地方自治体は、本来は一つの独立国家である。つまり、本来のアメリカ合衆国とは、北米大陸版のEU(ヨーロッパ連合)とでも言うべきものであった。南北戦争の時、南部十一州が合衆国から独立してしまったが、南部十一州にしてみれば、国家の連合体からの離脱に過ぎなかったのである。イギリスがEUから離脱するのと同じことである。つまり、南北戦争以前のアメリカ大統領は、国家を統合する力が極めて弱かったため、合衆国の分裂を阻止できなかったのである。これが意味することは、南北戦争以前のアメリカ合衆国は、依然として国家の成立の途上にあったということである。
 ところがリンカーン大統領の指導によって南北戦争が北部の勝利に終わり合衆国が再統一された後は、合衆国から分離独立した州は、現在に至るまで一つも存在しなかった。これは、リンカーン大統領の指導力によって北部が勝利して合衆国が再統一されたことにより大統領のカリスマの力が強大化した結果、アメリカ大統領に国家を統合する力が確立されたからである。これによってアメリカ合衆国は国家が完成し、本当の意味での統一国家になったのである。言い換えれば、リンカーン大統領こそ、本当の意味でのアメリカ合衆国の建国者であると言っても過言ではないのである。
 次はフランクリン・ルーズベルト大統領の場合である。
 第二次世界大戦後のアメリカは、世界の至る所で戦争をしてきたが、第二次世界大戦以前は、そうはいかなかった。アメリカは、第一次世界大戦に参戦してみた結果、悲惨な戦争を目の当たりにしてアメリカ国内に厭戦気分が広がってしまった。しかも、伝統的なモンロー主義の影響も根強いものがあった。そのため、第一次世界大戦後のアメリカの世論や議会は、国際紛争への介入には極めて消極的だった。そのため当時のアメリカは、日本が中国へ攻め込もうが、ナチスドイツがポーランドやフランスへ攻め込もうが、軍事介入など不可能だった。当時のアメリカは、日本に対して経済制裁を行ったり、日本やドイツに敵対する国に兵器や軍事物資の支援を行ったりするのが精一杯だった。やがて日本軍の真珠湾攻撃をきっかけにアメリカは第二次世界大戦に参戦し、日本やドイツに勝利して世界の覇者となる。するとアメリカは、一転して大統領の指導の下に世界中で積極的に軍事介入をするようになる。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争といった具合である。これはルーズベルト大統領の指導力によってアメリカが第二次世界大戦に勝利したことにより、大統領のカリスマの力が更に強大化した結果、世論や議会が大統領の軍事・外交政策に対して容易に反対できなくなったためである。このルーズベルト大統領よって確立された大統領の強力なカリスマの力が、現在の大統領にまで継承されているのである。
 こうしてアメリカ大統領の役職には、強力なカリスマと、それを継承する体制が確立されたのである。その結果、アメリカ大統領は、アメリカの最高指導者の役職になったのである。
 もし、実質的な大統領制の導入を主張する首相公選論者の言うように、アメリカ大統領の強力なカリスマの力が大統領選挙によって与えられているとすれば、アメリカの歴史は全く別のものになっていたことになる。たとえば、南北戦争が勃発した理由は、当時のアメリカ大統領はカリスマの力が弱かったため、国家を統合する力が欠如していたからである。もし、アメリカ大統領のカリスマの力が大統領選挙によって与えられているとすれば、南北戦争以前からアメリカ大統領は現在の大統領と同等の強力なカリスマを持っていたことになり、国家を統合する力があったことになる。従って、南北戦争など最初から起きなかったはずである。また、アメリカ大統領が第二次世界大戦以前から現在の大統領と同等の強力なカリスマを持っていたなら、ルーズベルト政権は真珠湾攻撃を待つことは無く第二次世界大戦に参戦できたはずである。もし、そうなっていたら、第二次世界大戦は初期の段階で終わっていた可能性がある。従って、アメリカ大統領の強力なカリスマの力が大統領選挙によって与えられているとすれば、アメリカの歴史も世界の歴史も全く別のものになっていたことになるのである。
 アメリカの大統領制は、国民が大統領にしたい人物を選ぶ大統領選挙制度と、強力なカリスマを大統領の役職と共に前任者から後任者へと継承する体制の上に成り立っているのである。そのため、大統領の役職を引き継いだ人物に、最高指導者が務まるようなカリスマや指導力が欠けていても、大統領の役職に備わっている強力なカリスマの力を使いこなすことによって、最高指導者としての役割が、ある程度は務まるのである。もし、このような、カリスマを継承する体制が確立されていない国家で、カリスマや指導力が欠如した人物が最高指導者の役職に就いてしまったら、最高指導者が不在の欠陥国家となり、国家の非常事態に対処できなくなり、国家・国民の安全を守ることができなくなってしまうのである。
 カリスマの継承が必要なのは、無能な政治家が最高指導者になった場合のためだけではない。偉大な大統領と言われているリンカーンやフランクリン・ルーズベルトは、大統領の在職中に偉大な功績を挙げた結果、後世の人々から偉大な大統領と言われるようになったのである。つまり、偉大な大統領になる素質を持った政治家といえども、大統領に就任したばかりの時は普通の指導者だったのである。従って、リンカーンやフランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領になる素質を持った政治家といえども、やはり前任者から強力なカリスマを継承しなければ最高指導者は務まらないのである。
 ところで、私が言う大統領制には、アメリカの大統領のように最高指導者が大統領を称している場合に限らず、イギリスの首相のような実質的な大統領制も含まれている。イギリスの首相が実質的な大統領となった過程は、アメリカ大統領とは異なるが、カリスマの継承の仕組みや権力の行使の仕方は同じである。従って、イギリスの首相も大統領制の一種と言えるのである。言わば「イギリス型大統領制」である。
 イギリス最初の首相と言われているのが、十八世紀前半のイギリス国王ジョージ一世の下で首相を務めたウォルポールである。しかし、ウォルポール首相の時代の首相は、国王の臨時代行や補佐役と言った存在であり、実質的な大統領と言えるようなものではなかった。その後、偉大な功績を挙げた大宰相たちによってイギリスの首相の力は強大化していったのである。ナポレオンと戦ったピット首相、クリミア戦争でロシア帝国を破りアロー戦争で清帝国を破ったパーマストン首相、スエズ運河を買収したりインドの植民地体制を確立したりするなどして帝国主義政策を推し進めたディズレーリ首相、と言った人たちである。そして、二十世紀の前半には、イギリスの首相は国王に代わってイギリスの最高指導者となった。
 ただし、これまで述べてきた最高指導者のカリスマを継承する体制は、あくまで国家の最高指導者にとって最低限度必要なものであって、これさえあれば国家の最高指導者としての役割が完全に務まるというわけではない。言うまでも無く、国家の指導者には判断力や政治手腕といったものも必要である。国家の最高指導者がいくら強力なカリスマを持っていても、政治的な判断を誤ったり政治手腕が欠如したりしていれば、戦争に敗れたり外交政策に失敗したりしてしまうこともある。
 また、現在のアメリカ大統領は、国際秩序の維持や同盟国の防衛といった超大国としての役割も果たさなければならない。そのためアメリカ大統領には、国際秩序を維持するための軍事・外交政策を成功させ、同盟国を守るための戦争を勝利に導くことができる高度な政治手腕や判断力が必要である。ところが、高度な政治手腕や判断力があるか否かということは、結局、政治家個人の能力の問題である。最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていても、超大国の最高指導者が務まるような高度な政治手腕や判断力まで継承するわけではない。従って、アメリカ大統領がいくら強力なカリスマを前任者から継承しても、ベトナム戦争当時のジョンソン大統領のような政治能力が欠如した人物が大統領となり、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争のような失敗を繰り返すようでは、国際秩序の維持や同盟国の防衛が困難になり、超大国としての役割が果たせなくなってしまう可能性もあるのである。
 カリスマを継承する体制が確立されていなければ、最高指導者が不在の欠陥国家となり、政治が不安定になったり、場合によっては国家が崩壊したりしてしまうようなことさえ起きかねない。その典型的な例が、ユーゴスラビアである。
 ユーゴスラビアは、いくつもの民族による六つの共和国によって成り立つ連邦国家であった。そしてユーゴスラビアは、1980年に建国者であるチトー大統領が死去したことをきっかけに、民族間の対立が表面化し始める。そして1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアといった各共和国がユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、ボスニア・ヘルツェゴビナも独立に向かって動き出す。これに対してセルビア人を中心としたユーゴスラビア連邦政府が独立を認めなかったことから、1992年になると遂に内戦が勃発してしまう。そしてボスニア・ヘルツェゴビナでは「民族浄化」、更にコソボ自治州ではアルバニア系住民が難民となって国外に流出するなどの悲劇が起きてしまった。
 そもそもユーゴスラビアの六つの共和国を一つにまとめていたのは、チトー大統領が持つ強力なカリスマの力だった。そのチトー大統領の死去と共にチトー大統領のカリスマの力が失われてしまったことがユーゴスラビア崩壊の原因である。チトー大統領は第二次世界大戦中、パルチザンを率いてナチスドイツと戦いユーゴスラビアを解放し、戦後は共産主義国家でありながらソビエトの衛星国とはならず自主外交を貫いた。このようにチトー大統領は強力な指導者ではあったが、カリスマを継承する体制を確立するという国家にとって最も肝心なことをしなかったため、彼の死後、国家の最高指導者が務まるような強力なカリスマを持った指導者が存在しなくなり、そのために国家が崩壊するという最悪の事態を招いてしまったのである。ユーゴスラビアの内戦に伴って生じた様々な悲劇に対して、セルビア人やユーゴスラビア政府の指導者が国際社会から非難を浴びたが、真に非難されなければならないのは、カリスマを継承する体制を確立せず、国家の分裂の原因を作ってしまったチトー大統領なのである。
 アメリカの大統領制のように、前任者から強力なカリスマを継承することによって、指導力やカリスマに欠ける人物でも国家の最高指導者が務まるような体制が確立されていなければ、最高指導者が不在の欠陥国家となり、国家の非常事態に対処できなくなってしまうのである。ところが戦後体制下の日本には、アメリカの大統領制のような強力なカリスマを継承する体制は確立されていないのである。これが、戦後体制下の日本が最高指導者の存在しない欠陥国家になってしまった理由の一つである。
 国家の最高指導者とは、選ばれるものではなく、作られるものなのである。国家の最高指導者の大多数は、本来なら最高指導者など務まらない凡庸な政治家である。その凡庸な政治家に法的な権限や正統性を与え、強力なカリスマを前任者から継承させることによって最高指導者に作り上げるのである。これが「権力の継承」である。勿論、国家の最高指導者には、判断力や政治手腕といった能力も必要である。従って、「権力の継承」をしただけでは、無能な最高指導者が出現してしまう場合もある。しかし、ユーゴスラビアのように、最高指導者が存在しなくなったことが原因で国家が崩壊するようなことが起きるのが世界の現実である。従って、たとえ「権力の継承」によって無能な最高指導者が出現してしまったとしても、最高指導者が存在しない欠陥国家になってしまうよりは、ましなのである。


民主主義が独裁者に取って代わられる理由

  民主主義が独裁者に取って代わられる理由

 

 既に述べたように、一般的に、民主主義国家と独裁者については、おおよそ次のような理論によって説明されている。
 「民主主義とは、主権者たる国民が政治に参加して自由に政策や国家のあり方を決めることができる国家体制であり、国民の自由や権利を守るための国家体制である。そして、国民の主権、自由、権利といったものを守るためには、国家の最高指導者が独裁者になることを防ぐ仕組みが必要である。独裁とは、強力なカリスマを持った最高指導者が、その強力カリスマの力によって国民の意識を変えて自由な思考をできなくしたり、憲法や法律に違反する権力を行使したり、憲法や法律によって定められた議会の承認による手続きが必要な権力の行使を議会の承認無しで行ったりすることによって、主権者たる国民の自由や権利を制限することである。このような独裁権力の行使から国民の自由と権利を守る仕組みが三権分立と議会政治である。まず、国家の最高指導者には、国民の意識を変えるような強力なカリスマは持たせない。そして、法的権限を法の執行権、立法権、司法権の三つに分割し、最高指導者には法の執行権のみを与える。更に、法を執行する最高指導者、立法府である議会、司法権を行使する裁判所に、それぞれ対等の力を与えて互いに監視させ、三者の中の一つが独走することを防ぐのである。また、最高指導者が権力の行使や法律の制定をする場合も、法律によって定められた議会の承認などの民主的な手続きに従わせなくてはならない。更に、国民には、言論の自由や思想の自由、そして知る権利などを与え、議会やジャーナリズムと共に最高指導者を監視するのである。このようにして、国家の最高指導者が独裁者になることを防ぎ、国民の自由と権利を守るのである。」
 この理論を「民主主義国家の理論」と呼ぶことにする。
 この「民主主義国家の理論」には矛盾がある。
 国家の非常事態においては早急な意志決定と行動が必要な場合があり、議会の承認による民主的な手続きをしている時間的な余裕が無い場合もある。また、国家の非常事態おいて重大な決定を巡って国論が分列して収拾がつかなくなる場合もある。このような場合に国民を一つに団結させて非常事態に対処するため、最高指導者には強力なカリスマや指導力が必要不可欠である。しかし、これでは、最高指導者は突出した力を持つことになり、三権分立が破綻して独裁者になってしまう恐れがある。しかし、そもそも国家が存在する最大の理由は、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである。そのため、国家の最高指導者には、非常事態に対処できるような強大な権力が必要である。国民の生命や財産を守った上で、国民の自由や権利を守れるのならば、なおさらよいと言うことである。国家とはこういうものである。従って、国家と「民主主義国家の理論」は矛盾することになってしまうのである。
 また、そもそも、実際に「民主主義国家の理論」の通りに民主主義体制が機能するのなら、一旦民主主義体制が成立した国に独裁者が登場することは無いはずである。ところが現実は、民主主義体制が独裁者に取って代わられた例は数多く存在するのである。フランスの第一共和政はナポレオンの独裁体制に取って代わられ、ドイツのワイマール共和国と呼ばれる共和政はヒトラーの独裁体制に取って代わられているのである。これらの事実は、「民主主義国家の理論」のどこかに誤りがある可能性を示しているのである。
 まず、ナポレオンやヒトラーの独裁体制が、いかにして成立したかを見てみよう。
 フランスでは1789年7月に始まったフランス革命をきっかけにブルボン王朝が廃止され、第一共和政が成立した。しかし、フランス革命が自国へ波及することを恐れるヨーロッパ諸国が1793年3月にイギリスを中心に第一次対仏大同盟を結成して攻勢に出たため、第一共和政は滅亡の危機に立たされることになった。この時、フランスでは一軍人のナポレオンが台頭し、武力によって敵国軍を次々に打ち破り、1797年10月にオーストリアとの間でカンポ・フォルミオの和約を締結して第一次対仏大同盟を解体させた。しかし、イギリスを中心とする反フランスのヨーロッパ諸国は、1799年3月に第二次対仏大同盟を結成した。ナポレオンは、1799年11月にクーデターによって政治の実権を握り、第二次対仏大同盟に属するオーストリアの軍を撃破した。そして1802年3月にイギリスとの間にアミアンの和約を締結して第二次対仏大同盟を解体させた。こうしてナポレオンは、フランスを軍事的な危機から救い、国民的英雄となった。そして1804年5月、ナポレオンは国民投票の結果、圧倒的な国民の支持によって皇帝に即位し、独裁体制を確立したのである。
 1914年に勃発した第一次世界大戦は、1918年11月に起きたドイツ革命によって終了した。この革命によってドイツはホーエンツォレルン王家の帝政を廃止して共和政となった。ドイツの共和政は、1919年にドイツ共和国憲法を制定するための議会がワイマールで開かれたことから、ワイマール共和国と呼ばれることになった。ところが、1929年10月にアメリカに始まった世界大恐慌によってドイツは経済危機に陥り、失業率が40%近くにまで達してしまった。しかし、ワイマール体制下の議会政治家には、この経済危機に対処することができなかったため、国民の不満が増大していった。そのためドイツ国民は、この悲惨な状況から国民を救済してくれる強力な指導者の登場を望んだ。こうした状況の下で、1933年1月にヒトラーは首相に任命された。そして3月には、政府に立法権を与える全権委任法を成立させて議会を形骸化させた。ヒトラーは大規模な公共事業や軍備拡大によって失業問題を解決した。また、ヒトラーは、ヴェルサイユ条約に反して再軍備宣言を行ったり、ヴェルサイユ条約とロカルノ条約によって非武装地帯になっていたラインラントへ軍隊を進駐させたりすることによって、ドイツ国民が不満を抱いていたヴェルサイユ体制と呼ばれるヨーロッパの国際秩序を破綻させた。これらの行為によってヒトラーは国民の絶大な支持を得て強大なカリスマを持つことになり、独裁権力を確立したのである。
 フランスやドイツに限らず、国家が、国民の生命や財産を脅かすような非常事態に陥ると、国民は、非常事態から国家や国民を救済してくれる強力な指導者の登場を求めることになり、それに応える形で「英雄」や「天才的指導者」と呼ばれるような強大なカリスマと指導力を持った指導者が登場することがある。ところが、場合によっては、「英雄」や「天才的指導者」が、その強大なカリスマと指導力を背景にして議会政治や言論の自由を停止させ、本格的な独裁政権を確立してしまうことがある。ナポレオンやヒトラーのような独裁者に対しては、三権分立や議会政治など全く無力なのである。なぜなら、ナポレオンやヒトラーのような独裁者は、国家の非常事態から国民の生命や財産を守るため、国民に求められて登場するものだからである。つまり、独裁者の登場を阻止することは、国民が求めていることを否定することなのである。そのため、独裁者の登場を阻止しようとする者は、国民を敵に回すことになるのである。それゆえ、三権分立だろうが議会政治だろうが、いかなる手段も独裁者の登場を阻止する手段としては使えないのである。これが、民主主義国家が国家の非常時において独裁者の登場を阻止できない理由である。
 国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守るためには、独裁者になり得るような強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が必要不可欠である。そのため、全ての民主主義国家は、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられてしまう可能性があることになる。ところが、アメリカや、立憲君主制が確立された後のイギリスは、フランスやドイツと同様に何度も国家の非常事態が起きているにもかかわらず、ナポレオンやヒトラーのような独裁者が登場したことは無い。一体、それはなぜなのか。
 ただし、「民主主義国家の理論」からすれば、現在のアメリカも、一種の独裁国家ということになってしまう。なぜなら、現実にアメリカ大統領には独裁的なところがあるからである。
 アメリカには、国家の非常事態を大統領の独裁的な権力の行使によって乗り切って来た歴史がある。その一例がリンカーン大統領である。
 1861年に始まった南北戦争の最中、リンカーン大統領は何度も独裁的な権力を行使している。たとえば、アメリカ合衆国憲法の第一条第八項には「陸軍を募集し、維持すること」と「海軍を創設し、維持すること」は、連邦議会の権限であると記されているが、リンカーン大統領は、連邦議会を差し置いて大統領権限で志願兵の募集や陸海軍正規兵の増員をしたのである。また、リンカーン大統領は、合衆国政府軍の軍事行動への妨害行為に対処するため、大統領権限によって人身保護令の特権を停止した。人身保護令の特権とは、個人が権力よって身体を拘束されても、裁判所がそれを法的に不当な行為であると判断すれば、権力は、すみやかに拘束された者を釈放しなければならない制度である。そして憲法の第一条第九項には、「人身保護令の特権は、反乱または侵略に際し公共の安全上必要とされる場合のほか、これを停止してはならない。」とあるが、リンカーン大統領が人身保護令の特権を停止した時点では、多くの者が、人身保護令の特権を停止する権限は連邦議会のみにあるという憲法解釈をしていたのである。従って、リンカーン大統領が人身保護令の特権を停止したのは憲法違反と言うことになるのである。そもそも人身保護令の特権は、権力が個人の身体を不当に拘束する行為から個人の自由や権利を守るための制度である。つまり、リンカーン大統領は、個人の自由や権利を守ることよりも、南北戦争に勝利して「人民の人民による人民のための政治」を守ることを優先したのである。
 このような独裁的な権力を行使した大統領はリンカーンだけではない。憲法の第一条第八項には宣戦布告の権限は連邦議会にあることが定められているが、実際は大統領が連邦議会を差し置いて戦争を始めた例が数多くある。たとえば、レーガン大統領が行ったグレナダ侵攻や、父親の方のブッシュ大統領が行ったパナマ侵攻は、連邦議会による宣戦布告無しで始められた戦争行為であり、客観的に見れば明らかに憲法違反であり独裁的な権力の行使である。ところが、グレナダ侵攻やパナマ侵攻の時、レーガン大統領やブッシュ大統領に対して憲法違反、あるいは民主的な手続きを経ていないと言ったような非難の声は起きなかったのである。つまり、アメリカでは、国家の非常事態において大統領による独裁的な権力の行使が繰り返された結果、非常事態に限って大統領が独裁権力を行使する慣習が定着したのである。古代ローマにディクタトルという制度化された非常独裁官制があったのに対して、アメリカの場合は国家の非常事態における独裁権力の行使を制度化せず、慣習として定着させることによって非常事態に対処しているのである。
 「民主主義国家の理論」では、法の執行、立法、司法の三権が分立し、互いに力の均衡を取りながら監視し合い、それぞれが独走をしないように牽制し合うということになっているが、第二次世界大戦以降のアメリカでは、大統領の権力が強大化し、他を圧倒する力を持ってしまっている。特に国家の非常事態や戦争における大統領の権限は、議会の力が及ばないくらい強大なものになってしまっている。
 第二次世界大戦以降のアメリカでは、大統領が戦争の開始のような重大な決意を表明すると、これを議会も世論もジャーナリズムも無条件で支持するようになってしまったのである。言い換えれば、一度、大統領の強大なカリスマの力が行使されると、議会政治家やジャーナリストといえども一人のアメリカ国民として大統領の指導に従わざるを得なくなってしまうのである。従って、湾岸戦争の時のように、大統領が戦争の開始を決断し、大統領の強大なカリスマの力が行使されると、三権分立も議会政治も言論の自由も事実上停止し、大統領が始めた戦争に反対できない空気がアメリカの社会に蔓延してしまうのである。そのため、国家の非常事態や戦争などの時、議会政治家やジャーナリズムに大統領の権力に抵抗することはできないのである。第二次世界大戦以降のアメリカ大統領は、国家の非常事態や戦争における権限に限って言えば、まさに独裁者なのである。ただし、大統領の決定といえども、ベトナム戦争やイラク戦争のように、後に失敗であることが明らかになれば、国民の支持を失い大統領の指導力が低下し、議会や世論が反対するようになることもある。しかし、そのベトナム戦争やイラク戦争さえ、開戦当初は議会や国民から全面的に支持されていたのが現実である。つまり、三権分立や民主的な手続きといった「民主主義国家の理論」が通用するのは、あくまで平時の場合であって、非常事態に陥ったり戦争が始まったりして大統領の強大な権力が行使されると、全く通用しなくなってしまうのである。しかし、あまりにも強大な大統領の権力は、民主主義を形骸化させかねない。そこでアメリカでは、大統領が、その強大な権力を行使するのは、国家の非常事態や戦争のような、強力な指導力が必要な場合に限定するという慣習を確立し、これを守ることによって民主主義を守っているのである。このようにアメリカの民主主義は、慣習上の非常独裁制の上に成り立っているのである。つまり、第二次世界大戦以降のアメリカ大統領は、非常独裁権を持っているのである。湾岸戦争の時、ブッシュ大統領が開戦を決断した結果、アメリカ国民の意識が変わったのは、ブッシュ大統領が非常独裁権を行使したからなのである。
 また、この慣習上の非常独裁制は、イギリスにも存在する。2003年にブレア首相がアメリカと共にイギリスをイラク戦争に参戦させようとしたのに対して、当時のイギリス国民の90%がイラク戦争への参戦に反対し、しかもブレア首相の与党である労働党の下院議員やブレア政権の閣僚にもイラク戦争への参戦に反対する者が居るという状況だった。それにもかかわらずブレア首相がイラク戦争への参戦を決断したのは、まさに非常独裁権の行使である。ブレア首相がイラク戦争への参戦を決断した結果、ブレア政権の閣僚も議会もブレア首相の決断に従った。そして、イギリスがアメリカと共にイラク戦争を始めた結果、イラク戦争への参戦に反対していたイギリス国民も、60%近くがイラク戦争の支持へと意識が変わってしまった。イギリスのイラク戦争への参戦は、形の上では閣僚や議会の承認を得ているが、ブレア首相が参戦を決断した時点で、事実上参戦は決まってしまったのである。つまり、閣僚も議会も国民も、ブレア首相が行使した非常独裁権に従ったに過ぎないのである。要するに、イギリスがイラク戦争へ参戦した時、「民主主義国家の理論」では主権者ということになっているイギリス国民の意志は完全に否定されていたのである。このように、非常独裁制が確立している国家では、戦時のような国家の非常時に、国民の主権は存在しないのである。
 ただし、非常独裁権は、発動しようと思えば、いつでも発動できるものではない。時と場合によっては非常独裁制が機能しなくなることもある。アメリカのオバマ大統領が、内戦が続いているシリアでアサド政権が化学兵器を使用した可能性が高いとの見解を示し、2013年8月26日にシリアに対して武力制裁を行う方針を表明したことに対して、アメリカの同盟国であるイギリスのキャメロン首相も、アメリカと共にシリアに対する武力制裁を行おうとした。ところが、イラク戦争の失敗に懲りて厭戦気分が蔓延しているイギリスでは、8月29日に議会の下院がイギリス軍のシリアへの武力行使を拒否する決定をした。これに対して、キャメロン首相は非常独裁権を行使することができず、シリアへの武力制裁には参加しないことを決定せざるを得なくなったのである。つまり、厭戦気分が蔓延したイギリス国民に、非常独裁権は通用しなかったのである。
 この非常独裁制の存在は、アメリカの議会やジャーナリズムがベトナム戦争やイラク戦争が始まることを止められなかった理由でもある。つまり、国家の非常事態に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合があり、その結果として、議会政治や言論の自由が一時的に停止してしまうからである。また、戦争は国民の一致団結した支持があって初めて可能になることである。従って、戦争が始まった時点では、既に戦争に対する国民の一致団結した支持が得られている場合が多いのである。更に、イラク戦争が始まった時のイギリスのように、国民世論の反対を押し切って始められた戦争であっても、一旦始まってしまえば国民の支持を得る場合もあるのである。そもそも、戦争に限らず、何事であろうと、国民が一致団結して支持している行為に反対する者が国民を敵に回すことになるのは当然のことである。従って、国民の支持によって成り立っている議会や、国民から新聞なり書物なりを買ってもらうことによって成り立っているジャーナリズムが、国民が支持している戦争に反対できないのは当然のことである。だから、議会やジャーナリズムには、戦争が始まることを止めるのは困難なのである。明治体制下の日本の議会やジャーナリズムが、満州事変や支那事変(日中戦争)、そして太平洋戦争が始まることを止められなかった原因として、軍国主義だのファシズムだのと言っている人たちが居るが、議会やジャーナリズムに戦争が始まることを止める力が無いのは、現代のアメリカだけではなく、明治体制下の日本を含めた世界の多くの国家に共通のことであり、軍国主義もファシズムも関係無いのである。
 ただし、非常独裁制が確立できても、人権侵害や権力の暴走と言った独裁権力の行使に伴う弊害が完全に防げるわけではない。たとえば、第二次世界大戦中のアメリカでは、フランクリン・ルーズベルト政権の下で日系アメリカ市民に対する強制収容問題が起きている。これは、後にアメリカ政府が過ちであると認めて謝罪した人権侵害である。また、息子の方のブッシュ政権が行ったイラク戦争は、サダム・フセイン政権が大量破壊兵器を保有していると言う全く事実に反する理由によって始められた戦争であり、あからさまな権力の暴走である。それでも、独裁権力の行使が国家の非常事態に限定されれば、独裁権力が行使される機会が少なくなり、その分、ナポレオン政権やヒトラー政権のような制限の無い独裁政権と比べれば、独裁権力の行使に伴う弊害が起きる可能性は低下するのである。
 アメリカやイギリスのような非常独裁制を確立することは、欧米諸国のような民主主義国家にとって極めて困難なことであり、長い歴史が必要である。
 アメリカ大統領が今日のような強大な権力を確立したのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の時代である。アメリカの場合は、フランクリン・ルーズベルトという強大な力を持った最高指導者が出現したのが、建国から百数十年という長い民主主義の歴史の中で、最高指導者の独裁的な権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立された後であったため、本格的な独裁国家になるようなことは無かったのである。これに対して、ナポレオンが登場した頃のフランスの第一共和政や、ヒトラーが登場した頃のドイツのワイマール体制は、民主主義の歴史が浅かったため、アメリカやイギリスのような、最高指導者の独裁的な権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立されてはいなかった。そして、ナポレオンやヒトラー自身も、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定しようとはしなかったため、本格的な独裁者になってしまったのである。ナポレオンやヒトラーのような強大な力を持った指導者から民主主義を守るためには、アメリカやイギリスのように独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習を定着させ、非常独裁制を確立するしかないのである。
 ただし、たとえ独裁権力の行使を国家の非常事態に限定する慣習が確立されていても、それだけでは非常独裁制は成立しない。なぜなら、国家の非常事態に対処して国民の生命・財産を守ることができるような強力なカリスマや指導力を持った指導者が登場することなど滅多に無いからである。強力なカリスマや指導力を持った指導者が存在しなければ、国家の非常事態において非常独裁権を行使しようとしても、かならずしも国民が一致団結して国家の指導者に従うとは限らないのである。従って、非常独裁制を完全なものにするためには、アメリカの大統領制のように、「権力の継承」をする体制を確立することによって、強力なカリスマや指導力を持った最高指導者を常に存在させておかなければならないのである。つまり、「『権力の継承』をする体制」と「独裁権力の行使を非常事態に限定する慣習」がそろって確立されて、初めて非常独裁制は機能するのである。
 また、非常独裁制は、慣習や伝統の上に成り立つ制度であり、法律の上に成り立つ制度ではない。
 たとえば、ワイマール体制下のドイツのドイツ共和国憲法(ワイマール憲法)には、次のような条文が存在した。

 

 第四十八条
 第一項
 ある憲法または法律によって課せられた義務を履行しないときは、大統領は、武装兵力を用いてこの義務を履行させることができる。
 第二項
 ドイツ国内において、公共の安全および秩序に著しい障害が生じ、またはそのおそれがあるときは、大統領は、公共の安全および秩序を回復するために必要な措置をとることができる。この目的のために大統領は一時的に第百十四条(信書・郵便・電信電話の秘密)、第百十八条(意見表明の自由)、第百二十三条(集会の自由)、第百二十四条(結社の自由)および第百五十三条(所有権の保障)に定められている基本権の全部または一部を停止することができる。

 

 この条文に定められた権限は「国家緊急権」とも呼ばれているが、要するに法制化された非常独裁権である。しかし、ワイマール体制下のドイツでは、アメリカの大統領制のような「『権力の継承』をする体制」も「独裁権力の行使を非常事態に限定する」ことも、慣習や伝統として確立されていなかったため、非常独裁権は機能しなかった。非常独裁権は、国家の非常時において国民を一致団結させるため、最高指導者のカリスマの力によって国民の意識を変える権限である。しかし、憲法を含めた法律は、人間の行動を律するものであって、人間の意識まで律するものではない。つまり、非常独裁権は、超法規的な権限なのである。従って、非常独裁権は、憲法を含めた法律によって与えることができるような権限ではないのである。そのため、ワイマール体制下のドイツが世界大恐慌による経済危機に対処するためには、ヒトラーのような、強力な指導力と政治手腕を持つ指導者が登場するのを待っているしか無かったのである。ところが、ワイマール体制下のドイツでは、「独裁権力の行使を非常事態に限定する慣習」が確立されていなかったため、ヒトラーは本格的な独裁者になってしまったのである。
 国家には、非常事態に対処するため、国民の意識を変えるような強力なカリスマ持った最高指導者が必要である。しかし「民主主義国家の理論」では、そのような力を持った最高指導者は、まさに独裁者である。つまり、本来、国家と民主主義は、互いに相反する矛盾した関係にあるのである。しかし、この矛盾を克服しないことには民主主義国家は成立しないのである。そして、国家と民主主義の矛盾を克服する唯一の方法が非常独裁制の確立なのである。
 そもそも国家が存在する最大の理由は、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである。そのため、いかなる国家体制も、国家が非常事態に陥った時、国民の生命や財産を守れないことが明らかになれば、国民から否定されて見捨てられる可能性があることになる。そして、非常独裁制が確立されていない民主主義国家には、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守る能力が無いのである。そのため、非常独裁制が確立されていない民主主義国家が国家の非常事態に直面すると、国民から否定されて見捨てられてしまう場合が多いのである。その結果として、第一共和政下のフランス国民も、ワイマール体制下のドイツ国民も、国家の非常事態から国家や国民を守るため、ナポレオンやヒトラーの独裁政権を選択したのである。つまり、独裁者が登場した時点では、民主主義体制が国民から見捨てられた結果として、既に三権分立や議会政治といった民主主義国家の機能が完全に失われている場合もあることになる。
 また、たとえ民主主義体制が国民から支持されていても、ナポレオンやヒトラーのような本格的な独裁者に対して三権分立や議会政治は、独裁者の登場を阻止する手段としては全く役に立たないのである。既に述べたように、そもそもナポレオンやヒトラーのような強力な指導力を持った権力者は、国家の非常事態から国家・国民を救済して欲しいという国民の要求に応えて登場するのである。仮に、三権分立や議会政治によって独裁者の登場を阻止できるとしても、ナポレオンやヒトラーのような強力な指導者の登場を阻止してしまったのでは、国家の非常事態に対処できなくなってしまう。つまり、たとえ独裁者の登場を阻止する手段があっても、独裁者の登場を阻止するするわけにはいかないのである。これらの理由によって、三権分立も議会政治も、独裁者の登場を阻止する手段としては使えないのである。だから、非常独裁制が確立されておらず、「民主主義国家の理論」のみに従って作られた民主主義体制には、ナポレオンやヒトラーのような本格的な独裁者の登場を阻止することはできないのである。
 また、アメリカやイギリスのように非常独裁制が確立されている民主主義国家では、三権分立や議会政治が機能するのは非常独裁権が行使されていない平時である。
 つまり、非常独裁制が確立されているか否かにかかわらず、国家が重大な非常事態に陥ると、三権分立や議会政治は機能しなくなる可能性が高いのである。つまり、民主主義国家において三権分立や議会政治が機能する可能性が高いのは平時の場合なのである。しかし、独裁権力が行使されるのは国家が非常事態に陥った時であり、独裁者が登場するのもこの時である。従って、平時に三権分立や議会政治が機能しても、本格的な独裁者の登場を阻止する手段としては全く意味が無いのである。平時における三権分立や議会政治にできることは、独裁者になる程の力の無い平凡な権力者による権力の乱用や不正行為を阻止するといった程度のことである。従って、三権分立と議会政治によって独裁者の登場を阻止できるという「民主主義国家の理論」は虚構に過ぎないのである。
 要するに、憲法、選挙制度、議会政治といったものに加えて、非常独裁制が確立されることによって民主主義国家は完成するのである。つまり、フランスの第一共和政やドイツのワイマール体制がナポレオンやヒトラーの独裁政権に取って代わられたのは、非常独裁制が確立されていなかったため、民主主義国家が未完成だったことが原因なのである。
 つまり、アメリカやイギリスと言った、「成熟」した民主主義国家は、独裁権力の行使を否定してはいないのである。ところが、アメリカ人やイギリス人を始めとした欧米諸国の人間は、アメリカやイギリスにおける非常独裁制の存在を認識していないのである。なぜなら、非常独裁制は、アメリカ人やイギリス人の無意識の中に存在する制度だからである。
 人間が物事を考え、発言し、行動する場合、自ら意識して行っている場合がある一方で、当の本人が全く自覚していない無意識に従って、考え、発言し、行動している場合もある。つまり、時と場合によっては、本人が全く自覚していない無意識に基づく行動や発言が、あらわになることもあるのである。それは、人間の行動や考え方を最終的に決定するのは無意識だからである。一説には、人間の行動の97%が無意識によるものだと言われている。そして、意識の上で考えていることと無意識の内で考えていることが矛盾した場合、人間は、無意識の方に従ってしまうのである。そのため、意識の上で考えていることと実際に行われていることが異なるようなことが起きる場合もあるのである。アメリカ人やイギリス人の意識の上では、自分たちの国は「民主主義国家の理論」に基づいて成り立っていると考えているが、無意識の中には非常独裁制が確立されているのである。そのため、アメリカやイギリスが国家の非常事態に直面するとアメリカ人やイギリス人は、無意識の内に大統領や首相の非常独裁権に従って行動してしまうのである。このように非常独裁制は、アメリカ人やイギリス人の無意識の中に存在する制度であるため、アメリカ人やイギリス人は、非常独裁制の存在を認識できないのである。つまり、アメリカ人やイギリス人は、意識の上では民主主義の名の下に独裁者を否定しながら、無意識の内では非常独裁制の下で独裁者を認めているのである。
 国家の最高指導者は、国家の防衛体制において非常に重要な役割を担っている。ところが、欧米諸国の人間が意識の上で理解している「民主主義国家の理論」では、法治、憲法、選挙、議会、三権分立といった制度だけで国家が成り立つことになっていて、最高指導者を中心とした国家の非常事態に対処する体制という考えが完全に欠落しているのである。そのため、欧米諸国の人間の言う通りに民主主義体制を作った国は、非常事態への対処や国家の防衛ができない欠陥国家になってしまうのである。その結果、アメリカに国家の防衛を肩代わりしてもらうしかなくなってしまうのである。太平洋戦争後の日本がアメリカの軍事的保護下に入らざるを得なくなったのも、ベトナム戦争の時、アメリカ軍が南ベトナムから撤退した後、南ベトナムが崩壊してしまったのも、アメリカ政府の指導に従って民主主義体制を作ってしまった結果、非常事態への対処や国家の防衛ができなくなってしまったからである。また、イラク戦争の後、アメリカ政府の指導によって作られたイラクの民主主義体制も、非常事態への対処や国家の防衛ができない欠陥体制になってしまったため、「イスラム国」と称する武装集団によって国土が蹂躙される事態になってしまったのである。国家の非常事態に対処するためには独裁権力の行使が必要な場合がある以上、独裁権力を完全に否定するような国家の理論は虚構に過ぎないのである。
 アメリカやイギリスのように非常独裁制を確立して民主主義国家を完成させるには長い年月がかかるが、長い年月をかけさえすれば民主主義国家が完成するわけではない。そのよい例が、アメリカやイギリスと同様に長い民主主義の歴史を持つフランスである。
 フランスでは、第二次世界大戦後の1946年に第四共和政が成立した。ところが、1954年の11月にフランス領のアルジェリアでフランスに対する独立戦争が始まると、フランスの世論は、アルジェリアの独立を認めるか否かを巡って分裂し、混乱状態に陥ってしまった。そして、アルジェリアに住むコロンと呼ばれるヨーロッパ系の入植者たちの間では、フランス政府の独立戦争に対する対応を弱腰と見なし、不満が高まった。そこで1958年5月13日にコロンたちはアルジェリアに駐留するフランス軍と結託して、現地アルジェリア政庁を占拠してフランス本国に対してクーデターを起こした。そして、クーデターを起こした勢力が5月24日にコルシカ島に侵攻し、更にフランス本土にまで侵攻する恐れが出始めると、第四共和政の指導者たちは対処できなくなり、第四共和政は事実上崩壊してしまった。そこで、第二次世界大戦中にナチスドイツに対する抵抗運動を指導して英雄となったシャルル・ド・ゴールが6月1日に首相に就任し、10月5日には第五共和政を成立させる。そして、1959年1月にド・ゴールは大統領に就任する。政治の主導権を握ったド・ゴール大統領は、アルジェリアの独立を承認する決断を下し、1962年3月にアルジェリアの独立を認める協定を締結した。こうしてド・ゴール大統領は、アルジェリアの独立戦争を巡る政治の混乱を終息させたのである。
 このフランスにおけるアルジェリアの独立戦争を巡る政治の混乱や、第四共和政の崩壊といった事態が意味するのは、第四共和政は国家の非常事態に対処できない欠陥体制だったということである。つまり、第四共和政の下のフランスは、1789年に始まったフランス革命から一世紀半以上という長い年月を経ても、依然として非常独裁制のような国家の非常事態に対処できる体制が成立しておらず、民主主義国家が未完成だったということである。第五共和政が成立する前のフランスは、国家の指導者が独裁者になることを恐れて、強力な権限を与えようとはしなかった。それが結果としてアルジェリアの独立戦争の時に起きたような政治の混乱や第四共和政の崩壊といった事態を招くことになったのである。これに対してド・ゴールの主導によって成立した第五共和政は、大統領に強力な権限を与え、その権限によって国家の非常事態に対処することになっている。しかし、ド・ゴール大統領が政権から去った後のフランスは、アルジェリアの独立戦争のような国家を揺るがす非常事態には直面していないため、ド・ゴール後の第五共和政の大統領にも国家の非常事態に対処する力があるのか否か、今のところは判断できないのである。
 もし、独裁者と呼ばれる権力者が、一般的に言われているような、国家・国民に危害を加えるだけの存在ならば、排除すべき者ということになる。確かに、独裁者が国家・国民に多大な災厄をもたらしかねない危険な存在であることは事実である。しかし同時に、国家の非常事態から国家・国民を救済するために必要不可欠な存在でもあるため、排除できないのである。国家・国民にとって独裁者は、まさに諸刃の剣なのである。
 要するに、独裁者とは、国家の非常事態に対処できる力を持った最高指導者の別名なのである。従って、独裁者を否定するのは、国家が非常事態に対処することを否定することとも言えるのである。そして、国家が存在する最大の理由が、国家の非常事態に対処して国民の生命や財産を守ることである以上、独裁者の否定は、国家の否定とも言えるのである。そして、民主主義国家といえども国家の一種である以上、独裁者の否定は民主主義国家の否定でもある。つまり、民主主義国家にも独裁者は必要なのである。しかし、独裁権力の行使を無制限に認めるわけにはいかない。そこで、アメリカ大統領やイギリスの首相のような、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定した独裁者が必要なのである。ところが、フランスの例でわかるように、独裁権力の行使を国家の非常事態に限定した独裁体制を確立することは、極めて困難なことなのである。そのため、世界には民主主義国家を称する国が数多くあるが、その大多数が、日本のような国家の非常事態に対処できない欠陥国家か、フランスのような非常事態に対処できる体制が成立しているのか否か不明な国である。非常独裁制が確立していない未成熟な民主主義国家が、独裁者の力を必要とするような非常事態に直面すると、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられてしまう可能性が高いのである。結局、こういう事態を防ぐためには、非常独裁制が確立されていない民主主義国家が、独裁者の力を必要とするような非常事態に直面しないように、超大国たるアメリカが政治力や武力を使って保護するしか無いのである。つまり、民主主義国家を称する国の大多数は、実質的なアメリカの保護国なのである。従って、もし将来、アメリカが超大国としての政治力を失い、世界の民主主義国家を保護する役割を放棄するような事態になったら、民主主義を称する国家体制の多くが、フランスの第一共和政やドイツのワイマール体制のように破綻して、ナポレオンやヒトラーのような独裁者に取って代わられる可能性が高まることになるのである。
 「民主主義国家の理論」は、国家が、独裁者の力を借りなければ対処できないような非常事態に陥ることを全く想定していないのである。ところが、実際は、国家が、独裁者の力を借りなければ対処できないような非常事態に陥る事態は何度も起きているのである。国家が非常事態に陥ると、国民は、非常事態から国民を救済してくれることを国家に求めることになるが、それは、国家の非常事態から国民を救済する力を持った指導者、すなわち独裁者の登場を求めることである。それは、「民主主義国家の理論」が、国民自身によって否定されてしまうということである。従って、「民主主義国家の理論」は、完全な虚構であると言えるのである。
 結局、「民主主義国家の理論」とは、国家の否定なのである。しかし、国民には、非常事態から生命や財産を守るため、国家が必要である。そのため、国家が非常事態に陥ると、国民は、「民主主義国家の理論」を否定するしか無くなってしまうのである。
 アメリカは、世界中の国に対して民主主義国家になることを要求し、多くの国を「民主主義国家の理論」に基づいて民主化している。しかし、「民主主義国家の理論」に基づいて造られた民主主義国家は、戦後体制下の日本と同様に、国家の非常事態に対処できない欠陥国家である。つまり、アメリカは、民主化の名の下に、世界中で日本のような欠陥国家を造りまくっているのである。そして、これらの欠陥国家の防衛は、結局、アメリカが肩代わりするしか無いのである。つまり、世界でアメリカによって民主化された国が増えれば増えるほど、アメリカが軍事的な負担をしなければならない国がどんどん増えることになるのである。しかし、世界最大の武力や経済力を持つアメリカといえども、このような負担にいつまで耐えられるのか大いに疑問がある。アメリカが世界の民主主義国家を防衛する負担に耐えられなくなった時、民主主義の時代は終わるのである。
 このように、民主主義国家を完成させることや維持することは、極めて困難なのである。「民主主義には普遍性がある。」などと言っている者は、民主主義の虚構に踊らされているのである。



国民の団結力

        国民の団結力

 

 国家の最高指導者の役割は、国家の非常時に国民を団結させ、非常事態に対処することであるが、これは言い換えれば、国家に最高指導者が必要なのは、最高指導者の力によって強制しなければ非常時に国民を団結させることができないからだということになる。従って、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時に国民が団結できるのであれば、最高指導者が存在しなくても国家が成り立つ場合もあるのである。
 その典型的な例が、古代の共和政時代のローマである。共和政時代のローマは、元老院を中心とした議会政治によって治められていた。そして、アメリカ大統領のような強力な最高指導者が存在せず、非常時における国家の団結はローマ市民の団結力のみに頼っていた。ローマにはディクタトルという非常独裁官制度があったが、これは国家の非常時における意志決定を迅速に行うための制度であって、指導者に強力なカリスマを与える制度ではない。つまり、元老院を中心としたローマの共和政は、ローマ市民の団結力だけで非常時における国家の団結が成り立つことを前提としたものなのである。
 紀元前272年にイタリア半島を統一したローマは、紀元前264年から紀元前146年にかけてカルタゴを相手に第一次から第三次に及ぶ三度のポエニ戦争を行い勝利した。ローマがポエニ戦争に勝利できた理由の一つが、ローマ市民の強固な団結力である。この三度にわたるポエニ戦争の中でも、とりわけローマ市民の団結力が発揮されたのが紀元前218年から紀元前201年にかけて行われた第二次ポエニ戦争である。
 そもそもローマという国家は、首都ローマを中心にして、ローマ市民による植民都市、ローマ市民権を与えられた都市、ローマ市民権を持たない同盟都市など、様々な形態の諸都市との連合によって成り立っていた。第二次ポエニ戦争でカルタゴ軍を指揮したハンニバルの戦略は、武力でローマ軍を打ち破ることによってローマ市民の団結力を失わせ、ローマと諸都市との連合を解体に追いやることだった。第二次ポエニ戦争の初期には、ハンニバルの天才的な軍事能力のために、ローマ軍は紀元前216年のカンネーの戦いなど、多くの合戦に敗れてしまった。しかし、ローマがカンネーの戦いに大敗した後、一部の都市がローマとの連合から離反したものの、ローマと諸都市との連合が完全に解体することは遂に無かったのである。つまり、ハンニバルの天才的な軍事能力によって何度ローマ軍を打ち破っても、結局、ローマ市民の団結力を完全に失わせることはできなかったのである。これが紀元前202年のザマの決戦におけるローマの逆転勝利につながったのである。第二次ポエニ戦争とは、まさにハンニバルの天才的な軍事能力とローマ市民の団結力の戦いだったと言える。そしてローマ市民の団結力が最後にハンニバルを打ち破ったのである。
 ローマはポエニ戦争に勝利した後、征服戦争を繰り返した結果、地中海周辺を支配する広大な国家になった。しかし、この頃になると、ローマの政治や軍事の問題が表面化するようになった。長年にわたってローマの政治を主導して来た元老院の統治能力が低下し、同盟都市の反乱や剣奴の反乱であるパルタクスの乱などの内乱が発生した。また、ローマ軍は徴兵されたローマ市民によって成り立っていたが、ローマの領土が広大になったため、戦場へ移動する時間が長くなった結果、兵士の従軍期間が長期化するようになり、徴兵された兵士の職業と兵役の両立が困難になってしまった。その結果、兵士の士気が低下してローマ軍の力が弱体化してしまったのである。そこで、執政官となったマリウスが徴兵制を廃止して募兵制を導入した。ところが、その結果、軍の司令官と兵士の間に主従関係が成立し、兵士が軍の司令官の実質的な私兵となっていった。そしてマリウスやスラなどの軍人が、私兵化した兵士を率いて武力によって権力を争うようになったため、ローマの政治は混乱に陥ってしまった。また、ローマは、領土の拡大によって多くの民族を征服した結果、ガリア人やゲルマン人などのローマ市民という意識の低い被支配民族を領内に数多く抱え込むことになったため、もはやローマ市民の団結力だけでは非常時における国家の団結が維持できなくなってしまった。これらの問題のため、強力な最高指導者が存在しない、元老院を中心とした共和政ではローマを統治することが困難になってしまったのである。
 政治の混乱を終わらせ、多様な国家になってしまったローマを一致団結させるためには、強力なカリスマを持った最高指導者が必要であるということに気がついたのがユリウス・カエサルである。カエサルは、ガリア地方を平定した後、政敵となったポンペイウスを武力によって打倒して強力なカリスマを確立し、終身独裁官に就任した。しかしカエサルは、ブルータスらによって暗殺されてしまう。その後、カエサルの後継者となったアウグストゥスが初代ローマ皇帝となり、強力なカリスマを持った最高指導者が統治する国家体制が確立された。アウグストゥスによって確立された帝政はローマの政治に安定をもたらしたが、その一方で元老院は政治の主導権を失ったため、共和政は形骸化してしまった。
 同じ国の国民としての仲間意識や連帯感といったものも非常時に国民を一致団結させる手段である。しかし、古代のローマのように征服戦争を繰り返すことによって多くの異民族を支配下に置いたり、近代のアメリカのように積極的に移民を受け入れたりすることによって、民族、人種、宗教、言語、習慣などが異なる多様な人間が国内に増え、それらの違いから生じる摩擦や対立が、国民としての仲間意識や連帯感の形成の妨げになることもある。そうなると、同じ国の国民としての仲間意識や連帯感だけでは非常時に国民を一致団結させることが困難になってしまう。そこで、国民が多様化すればするほど、国民を団結させる手段として、ローマ皇帝やアメリカ大統領のような強力な最高指導者の力が必要になるのである。
 共和政時代のローマ人と同様に、もともと国民の団結力が強く、最高指導者の力によって強制しなくても非常時における国民の団結が維持できる国が現在にも存在する。それがイスラエルである。
 イスラエルは、日本やイギリスと同様の議院内閣制を採用している。かつてイスラエルの議会政治は、リクード党と労働党が二大政党として国政を主導していた時代があったが、いずれも単独で議会の過半数を制したことが無かったため、歴代内閣は少数政党との連立を強いられて来た。そのため、イスラエルの首相の中には、少数政党との連立を維持するための政治的な駆け引きに忙殺される者もあり、政治が停滞することがしばしばあった。そこでイスラエルは、首相にアメリカ大統領のような強力なカリスマや指導力があれば、政治の停滞も無くなるだろうと考え、実質的な大統領制に移行しようとして、1992年3月に首相公選制を導入した。ところが、イスラエルは首相公選制を導入したものの、首相に強力なカリスマや指導力を与えることができなかったどころか、リクード党と労働党の二大政党が議席数を減らしてしまったこともあって、ますます政治を停滞させる結果になってしまった。結局、イスラエルは、2001年3月に首相公選制を廃止してしまった。
 このようにイスラエルの首相は、アメリカ大統領やイギリスの首相のような強力なカリスマを持っているわけではない。つまり、イスラエルには、国家の最高指導者が存在しないのである。ところが、それにもかかわらず、いざ戦争となればイスラエル国民は一致団結して国のために戦って来たのである。イスラエルは、国民の強固な団結力と国防意識の高さのため、四度にわたる中東戦争など、多くの戦争を戦い抜くことができたのである。イスラエル国民が、このように団結力が強く国防意識が高い背景には、過去二千年にわたって迫害されたり流浪をせざるを得なくなったりした歴史から、強固な国民の団結と国防の必要性を理解せざるを得ないと言う理由がある。
 更に、イスラエル国民の強固な団結力の背景には、ユダヤ教の力もある。つまり、イスラエル国民の多数はユダヤ教徒であるため、同じユダヤ教徒として異教徒であるイスラム教徒のアラブ人に対して団結しているのである。
 世界には、イスラエルと同様に、宗教によって国民を団結させている国がいくつもあるが、これには問題もある。
 第一の問題は、宗教によって国民を団結させるということは、国民全体が共に同じ宗教を信じる仲間として異教徒や異なった宗派の国に対して団結するということである。従って、宗教によって国民を団結させるためには、敵対している国が異教徒や異なった宗派の国でなければならないのである。すなわち、ユダヤ教のイスラエルとイスラム教のアラブ諸国、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタン、イスラム教シーア派のイランとイスラム教スンニ派のアラブ諸国といったようにである。
 第二の問題は、国内に異なった宗教や宗派が存在することである。イスラエル国内にはイスラム教徒のアラブ人が存在し、インド国内にはイスラム教徒やシーク教徒などが存在する。そしてイスラエルの中心であるユダヤ教徒も、インドの多数派であるヒンズー教徒も、イスラム教徒などとの間で紛争が絶えない。つまり、国内に複数の宗教や宗派が混在していたら、かえって国民の分裂を招くことになってしまう可能性もあるということである。
 これらの理由から、宗教によって国民を団結させることができる国は、特殊な例であると言える。
 ただし、宗教は、あくまで国民の団結力を補強するものであり、宗教の力だけでは国家の非常時に国民を団結させることはできない。たとえばイスラム教シーア派の宗教国家であるイランは、最高指導者のホメイニ師の指導力やカリスマの力あったからこそ、イラン・イラク戦争を戦い抜くことができたのである。従って、イスラエルのような特別に団結力の強い国を例外とすれば、宗教国家と言われる国にも最高指導者は必要なのである。
 共和政時代のローマ市民やイスラエル国民のように強固な団結力があれば、アメリカ大統領のような強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなくても非常時における国民の団結を維持できる場合もある。しかし、共和政時代のローマやイスラエルのような国家は特殊な存在である。世界の大多数の国家では、強力なカリスマを持った最高指導者が存在しなければ、非常時に国民を団結させることができないのが現実である。


日本に大統領制が成立するのか

    日本に大統領制が成立するのか

 

 普通の国家は、非常事態に対処する力を持った最高指導者が存在しなければ成り立たない。ところが、戦後体制下の日本の内閣総理大臣には最高指導者と言えるような力が無いため、戦後体制は、超大国であるアメリカの保護の下でしか成り立たない。しかし、アメリカといえども永久に超大国でいられる保証はどこにも無い。従って、いずれは日本にも最高指導者が必要な時が必ずやってくる。しかし、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になれるのだろうか。そして、そもそも日本に大統領制が成立するのだろうか。
 大統領制は、次のような段階を経て成立するものである。
 まず、第一段階では、「大統領」や「首相」と言った、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作る。
 そして、第二段階では、「建国の父」「救国の英雄」と呼ばれるような、偉大な政治的功績を挙げた指導者が、その功績を「神話」として強力なカリスマを得て、更に選挙などの法の手続きに従って「大統領」や「首相」などの法的に正統な最高指導者の役職に就任して強力な最高指導者となる。または、政治家が法的に正統な最高指導者に就任した後で、偉大な功績を挙げ、強力なカリスマを持った最高指導者になる。
 更に、第三段階では、強力な最高指導者のカリスマが、最高指導者の役職と共に法の手続きに従って後継者に継承され、更に、この仕組みが慣習となり定着し、安定したカリスマを継承する体制が確立される。
 そして、最終段階では、最高指導者の指導力の下、長い時間をかけ、国家の危機や戦争などの多くの非常事態を乗り越えることによって最高指導者の指導力が強大化し、国家の非常事態に対処できる強力なカリスマを持った最高指導者の役職が成立する。また、民主主義国家の場合は、非常独裁権が確立される。
 大統領制は、このようにして成立するのである。従って、日本に大統領制を成立させるためにも、第一段階として、法の手続きに従えば誰でも就任できる、法的に正統な最高指導者の役職を作らなければならない。ところが日本では、古代より天皇のみが法的に正統な最高指導者の役職であり、皇族のみが天皇の地位に就くことができるという体制が確立されて定着している。そして、天皇以外の法的に正統な最高指導者の役職が存在した前例が無い。そのため、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家が存在しても、皇族以外の者が正統な国家の最高指導者に就任することは不可能だった。また、たとえ国家の最高指導者が務まるような実力を持った政治家であっても、法的な正当性の無い、実質的な最高指導者になることは困難だった。
 たとえば、平安時代に摂関政治によって強力な権力を振るった藤原道長などの藤原摂関家の人たちが実質的な最高指導者だったという意見があるが、これは明らかに誤りである。藤原摂関家の人たちは、自分の娘を天皇の后とし、自分の娘である后と天皇との間に生まれた子を天皇に即位させることによって天皇の外戚となり、摂政や関白に就任して権力を振るった。これが摂関政治である。この藤原摂関家が就任した摂政や関白は、国家の最高指導者の役職ではない。摂政は最高指導者たる天皇の臨時代行であり、関白は最高指導者たる天皇の補佐役に過ぎない。摂関政治は、藤原摂関家が天皇のカリスマや権力を利用することによって成立したものであり、藤原摂関家自体に天皇に匹敵するようなカリスマや権力があったわけではない。更に、藤原摂関家が権力を振るうためには、藤原摂関家が天皇の外戚であることに加えて、時の天皇が、強力な指導力を持たず、藤原摂関家の言いなりになるような人物であることも必要だった。そのため、藤原摂関家を外戚としない、強力な指導力を持った後三条天皇が登場すると、藤原摂関家の政治力は低下してしまったのである。そして、更に藤原摂関家の政治力の低下に拍車をかけたのが院政である。後三条天皇の後を継いだ白河天皇は、息子の堀河天皇に天皇の位を譲り、上皇となって院政を開始した結果、強大な権力を振るうことが可能になった。天皇が政治にかかわる場合、昔からの様々な伝統や慣習に縛られることになる。このことが、結果として天皇が強大な権力を振るうことに対する歯止めになっている。これに対して上皇は、昔からの伝統や慣習に縛られることは無いため、強大な権力を振るうことに対する歯止めが一切無いのである。そのため白河上皇は、強大な権力を振るうことが可能になったのである。白河上皇が院政によって強大な権力を振るうようになった結果、藤原摂関家の政治力は更に低下することになってしまった。このように平安時代の政治状況を見てみると、藤原摂関家の人たちが国家の最高指導者だったとは考えられないのである。
 そして、武家政治の征夷大将軍も、正統な最高指導者でも実質的な最高指導者でもなかった。そのことを示すよい例が、江戸幕府の幕末の動乱である。
 江戸幕府の征夷大将軍は、初代徳川家康以来、二百五十年の長期にわたる政治の安定を実現した。ところが、1853年(嘉永6年)に起きた黒船事件をきっかけに幕末の動乱が始まった。アメリカ艦隊を率いるペリー提督は、圧倒的な武力を背景に、幕府に対して開国を迫った。これに対してアメリカの武力に対抗する力の無い幕府は、日米和親条約を結ぶ羽目になった。この結果、鎖国政策は終わったが、アメリカの武力に対して戦うこともできず屈服してしまった幕府の権威は低下した。
 幕末の動乱の根本的な原因は、当時の日本の最高指導者が誰なのか不明確だったことにある。軍事・外交政策を決定する権限は、国家の最高指導者の権限である。黒船事件以前、天皇は政治の実権を失っていたため、軍事・外交政策は、実質的には幕府が行っていた。ところが、征夷大将軍が天皇から正式に軍事・外交政策を決定する法的な権限を委任されていたわけではなかったため、軍事・外交政策を決定する法的な権限は、形式的には天皇にあったのである。そのため、軍事・外交政策を決定する権限が誰にあるのか曖昧な状態にあったのである。つまり、誰が日本の最高指導者なのか不明確だったということである。こういう状況の下で黒船事件が起きてしまったのである。
 国家の最高指導者の最も重要な役割は、国家の非常事態に対処することである。幕府が、アメリカのペリー提督が率いる艦隊の武力に屈して開国を決定したことは、江戸幕府の征夷大将軍には国家の非常事態に対処する能力が無いことを露見させる結果になってしまった。つまり、黒船事件の結果、江戸幕府の征夷大将軍には、国家の最高指導者と言えるような実力が無いことが明らかになったのである。また、江戸幕府がアメリカの圧力に屈して日米修好通商条約を締結しようとした時、天皇から開国の勅許を得ようとしたことによって、軍事・外交政策を決定する法的な権限は天皇にあり、征夷大将軍には無いことが明らかになった。しかも、孝明天皇が開国に反対の立場を明確にしたため、幕府は開国の勅許を得ることに失敗してしまった。その後、大老の井伊直弼が勅許無しで日米修好通商条約の締結を強行したため、井伊直弼は尊王攘夷派によって暗殺された。これによって、江戸幕府の権威が更に低下したため、政治の混乱に拍車をかけることになってしまった。つまり、黒船事件と、その後に起きた出来事によって、江戸幕府の征夷大将軍は、国家の最高指導者と言えるような実力が無い上に、法的に正当な国家の最高指導者でもないことが明らかになってしまったのである。国家の防衛のためには、国全体が最高指導者の下、一致団結しなければならない。従って、幕末の日本のように、誰が国家の最高指導者なのか不明確な状態では、国家の防衛のために国全体が一致団結することは不可能である。従って、国家の最高指導者が誰なのか不明確な状態を解消して日本を防衛が可能な国家に作り直すため、法的に正統な最高指導者である天皇に政権を戻す討幕運動が活発になったのである。こうして、幕末の動乱が始まったのである。
 徳川将軍家の初代徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利し、長期にわたる安定政権の基礎を作ったが、これほどの功績を挙げても、日本では国家の最高指導者には、なれないのである。
 武家政治の時代の日本では、本来は正統な最高指導者である天皇の権威やカリスマの力が低下していたため、事実上正統な最高指導者が存在しない状態が続いていた。そのため、国家の防衛は、実質的に日本を統治していた武家政治の役割となった。しかし、武家政治は本来、国家の防衛には不向きな国家体制だった。
 武家政治が国家の防衛に不向きだった理由は二つある。
 第一の理由は、武家政治はもともと日本の正統な国家体制ではなかったため、武家政治の指導者には国家の防衛や外交を行うための法的権限が無かったことである。これが、江戸幕府の幕末の動乱を引き起こした。
 第二の理由は、武士が戦闘をした場合、功績のあった者に対して恩賞として領地を与えなければならなかったことである。恩賞として領地を与えるためには、戦闘に敗れた相手から領地を没収することによって、恩賞として与えるための領地を獲得しなければならない。ところが、外敵に対する防衛戦争の場合は、たとえ戦闘に勝利したとしても、恩賞として与えるための領地を獲得することが極めて困難である。従って、恩賞としての領地がもらえない防衛戦争をすることは、武士にとっては極めて困難なのである。つまり、武士にできる戦争は、同じ日本の武士同士の領地争奪戦に限られるのである。
 ただし、現実には、鎌倉幕府が当時の世界帝国であるモンゴル帝国の襲来を撃退することに成功している。鎌倉幕府がモンゴル帝国と戦うことができたのは、モンゴル帝国との戦いの時は、江戸幕府の幕末のように朝廷や大名が鎌倉幕府の軍事・外交政策に対して抵抗することが無かったからである。鎌倉幕府には軍事・外交を行う法的権限が無かったが、朝廷には軍事・外交を行う法的権限はあっても能力が無かった。そのため朝廷は、幕府の軍事・外交政策に反対しようが無かったのである。江戸幕府の幕末に朝廷が幕府の外交政策に反対したのは、あくまで尊皇攘夷派の策謀によるものであって、普段は政治の実権を握っている幕府に軍事・外交政策を任せるしか無かったのである。また、モンゴル帝国の襲来の頃は、鎌倉幕府の最盛期であり、その権力は絶頂に達していたため、諸大名も幕府の政策には反対できなかった。その結果、鎌倉幕府のモンゴル帝国に対する軍事・外交政策が混乱することは無かったのである。ただし、モンゴル帝国との戦いは防衛戦争であったため、敗れたモンゴルから領地を獲得できず、武士に対して恩賞として与えるための領地が確保できなかったため、功績のあった武士に対して十分な恩賞を与えることができなかった。そのため、鎌倉幕府に対する武士たちの信用が低下し、鎌倉幕府は弱体化して滅亡してしまったのである。つまり鎌倉幕府は、モンゴル帝国を撃退したにもかかわらず、結果として滅びてしまったのである。これは、幕府にとって本来は不向きな防衛戦争を行った結果である。国家の防衛は、国家の最も重要な役割である。それが不向きな幕府という国家体制は、不完全な国家体制としか言いようが無いのである。
 日本を再統一した豊臣秀吉や、関ヶ原の合戦に勝利して天下の実権を握った徳川家康のように、天下を実質的に統治している実力者といえども、関白、太政大臣、征夷大将軍といった官職を天皇から与えられることによって、始めて自らの権力を正当化することができたのである。つまり、天下を実質的に統治している実力者といえども、正統な最高指導者である天皇の力を借りなければ、権力を正当化して権力基盤を固めることができなかったのである。そして江戸幕府は、天皇の力を借りた勢力によって打倒される羽目になってしまったのである。
 江戸幕府打倒の最大の功労者は、何と言っても西郷隆盛であろう。薩摩や長州といった倒幕勢力を結集し、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍を打ち破り、勝海舟との交渉の結果、江戸城の無血開城を実現して明治政府を打ち立てたのである。日本以外の国なら、西郷隆盛のような偉大な功績を挙げた人物は、国家の最高指導者になっても不思議ではない。なぜなら、世界の歴史を見ればわかるように、国家が独立したり、革命などによって新しい国家体制が成立したりした場合、独立運動や革命の指導者が、そのまま新しい国家の最高指導者になる場合が多いからである。アメリカの独立戦争の指導者だったワシントンは、アメリカの初代大統領に就任している。ロシア革命の指導者だったレーニンはソビエトの最高指導者となった。蒋介石政権を打倒して中国に共産主義政権を樹立した毛沢東も、中国の最高指導者となった。そして、ガンジーと共にインドの独立運動を指導したネルーも、インドの初代首相に就任している。ところが日本の明治政府の最高指導者は、明治維新最大の功労者の西郷隆盛ではなく明治天皇だった。西郷隆盛は、明治政府の成立後、廃藩置県などの政治改革に対する武士階級の反発を抑えるため、一時的に国家の最高指導者の役割を代行したことはあったが、正統な最高指導者になることは無かったのである。なぜなら、明治政府の正統な最高指導者は、あくまで明治天皇であり、西郷隆盛は明治天皇の臣下に過ぎなかったからである。つまり、明治維新の最大の功労者であり、強力な指導力とカリスマを持った偉大な政治家である西郷隆盛といえども、天皇制を否定することはできなかったのである。
 このように、日本では、政治家が功績を挙げることによって正統な最高指導者に就任することは不可能であり、歴史的な事実として、そのようなことは前例が無いのである。要するに日本には、偉大な功績を挙げることによって強力なカリスマを確立した政治家が、正統な最高指導者に就任するという伝統も文化も無いのである。これでは大統領制など成立しようがない。
 日本の政治家がいかなる功績を挙げても国家の最高指導者になれないのは、伝統的な日本の最高指導者のあり方が、世界の国々と比べて極めて特異なものだからである。
 国家の最高指導者とされている者には、次の二つ役割がある。
 第一の役割が、国家・国民を代表して軍事・外交政策などの「国家の重大な意志決定」を行い、強力なカリスマの力によって国民が「国家の重大な意志決定」に従うように指導することである。
 そして第二の役割が、行政機関の責任者として、法的権限や慣習などに従って役人や官僚と呼ばれる人たちを指導する「行政の責任者」としての役割である。
 世界のほとんどの国では、どのような国家体制であっても、国家の最高指導者は、「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を兼ねているのが普通である。これに対して、日本の場合は、古代から「国家の重大な意志決定」を行う役割と「行政の責任者」の役割を別々の人物が分担する国家体制が存在していたのである。日本では、「国家の重大な意志決定」を行うのは天皇の役割であり、天皇は「行政の責任者」の役割は行わない。「行政の責任者」の役割を行うのは、「行政の責任者」に就任した実力者である。「行政の責任者」に就任した実力者は、蘇我氏、藤原摂関家、鎌倉幕府執権の北条家、足利将軍家、徳川将軍家といった人たちである。更に、聖徳太子や中大兄皇子、そして院政における上皇のように、皇族が「行政の責任者」に就任することもあった。ただし、後醍醐天皇のように直接政治を指導し、自ら「行政の責任者」となった天皇も存在したが、こういう天皇は例外的な存在であった。
 国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導することこそ、最高指導者の真の役割である。従って、「国家の重大な意志決定」を行う天皇が日本の最高指導者なのである。天皇は古代から何度も最高指導者としての実権を失ったり復権したりを繰り返して来たが、常に最高指導者としての正統性が失われることは無かったのである。その結果、天皇のみが正統な国家の最高指導者であり、時の実力者が「行政の責任者」に就任するという国家体制が日本の社会に定着することになったのである。これが天皇制の伝統である。
 天皇制の伝統が社会に定着した結果、日本は、武家政治の時代や戦後体制下のように、天皇が最高指導者としての力を失ってしまうと、法的に正統な国家の最高指導者の役職が事実上存在しなくなってしまうのである。そして、皇族以外の人間の場合は、徳川家康や西郷隆盛のような傑出した指導者でも、「行政の責任者」になるのが限界である。日本の歴史上の人物には、天皇に取って代わって最高指導者になろうとした、あるいは、天皇と同等の最高指導者の地位に就こうとしたと言われている者が何人か存在するが、成功した例は無いのである。
 明治体制下の日本で内閣制度が制定された以降は、国家の最高指導者と「行政の責任者」の役割が、天皇と内閣総理大臣によって分担されていた。天皇は国家の最高指導者として軍事・外交政策などの国家の重大な意志決定はするが、決定したことを実行することや、その結果に対して責任を負うことは無い。そして「行政の責任者」としての内閣総理大臣の役割は、天皇の決定した軍事・外交政策を実行することと、行政機関の責任者として行政機関を法的権限によって指導して内政上の政策を実行したり、問題を解決したりすることであり、更に、天皇が決定した軍事・外交政策を含めた、あらゆる政策について、問題が生じたり失敗したりした場合は責任を負うことである。
 既に述べたように、明治体制下の日本における天皇の最高指導者としての意思決定は、御前会議において行われる。そして、御前会議で天皇が国家の重大な意志決定を行うと、アメリカ大統領やイギリスの首相と同様に非常独裁権が発動されることになる。つまり、御前会議の決定に基づいて非常独裁権を発動することが、明治体制下の日本における天皇の最大の役割なのである。戦後体制下の日本が事実上独立国家になれず、アメリカに従属せざるを得ないのは、天皇が本来持っている非常独裁権が、アメリカの超大国としての政治力によって封じ込められているからである。
 戦後体制下の日本でも、内閣総理大臣が「行政の責任者」であることは明治体制と変わりがない。ところが、明治体制下の日本で国家の最高指導者だった天皇は、太平洋戦争の敗戦後に最高指導者としての力を失った結果、「国家の象徴」となり、あらゆる政治的権限を失ってしまった。しかし、内閣総理大臣が天皇に代わって国家の最高指導者になったわけではない。つまり、明治体制下の内閣総理大臣の「行政の責任者」としての権限は、戦後体制下の内閣総理大臣にそのまま引き継がれているが、国家の最高指導者としての天皇の権限を引き継ぐ役職が戦後体制下の日本には存在しないのである。
 ただし、一般的な常識では、「行政の責任者」のことを国家の最高指導者と言う場合が多い。そして、日本国憲法には「行政権は、内閣に属する。」と記され、内閣総理大臣の法的権限として「行政各部を指揮監督する。」と記されている。日本国憲法に記された内閣総理大臣は、まさに「行政の責任者」である。従って、一般的な常識からすれば、戦後体制下の内閣総理大臣は、日本の最高指導者ということになる。しかし、私に言わせれば、国家の非常時に強力なカリスマの力によって国家・国民を指導して一致団結させることこそ、最高指導者の真の役割である。ところが、内閣総理大臣には、そのような力は無いため、戦後体制下の内閣総理大臣は、国家の最高指導者の役職とは言えないのである。私に言わせれば、日本の内閣総理大臣とは、「法的に正統な行政の責任者」の役職なのである。
 このように、戦後体制下の日本には最高指導者の役職が存在しないのである。そのため、たとえ国家の最高指導者が勤まる能力を持った有能な政治家が登場しても、最高指導者には就任できないのである。
 現代の世界には、最高指導者と首相が共に政治的権限を持っている国は数多くある。フランスの大統領と首相、ロシアの大統領と首相、タイの国王と首相などである。これらの国々の最高指導者と首相の関係は共同統治者であって、明治体制下の日本の天皇と内閣総理大臣のように最高指導者と「行政の責任者」が分担されているわけではない。つまり、最高指導者も首相も共に「行政の責任者」としての連帯責任があるのである。従って、もし、首相が何らかの政治上の過ちを犯したら、最高指導者である大統領や国王も「行政の責任者」として連帯責任を取らされる可能性があるのである。最高指導者と「行政の責任者」が別というのは日本独特の国家体制なのである。
 ところで、国家体制に限らず、特定の制度が社会に定着すると、たとえどのような手段によっても、その制度を変更することができなくなってしまうことがある。
 たとえばヨーロッパの貴族制度は、イギリスやスペインのように法的に認められている国がある一方で、フランスやイタリアやドイツのように、政変や革命をきっかけにして法的には存在しなくなった国もある。ところがヨーロッパの貴族制度は、法的には存在しないことになっている国でも実態としては存在し、市民の尊敬を受けているのである。
 また、インドの伝統的な身分制度であるカースト制度は、数千年の年月をかけてインドの社会に定着した。現在のインドでは、このカースト制度による差別は、憲法上は否定されているが、現実には、カースト制度もカースト制度による差別も依然として無くなってはおらず、しばしばインドの社会問題として取り上げられることがある。
 このように、特定の制度が社会に定着してしまうと、政変や革命が何回起きようと、憲法を含めた法・制度をどう変えようと、無くなることは無いのである。
 これに対して、江戸時代の日本には武士を支配階級とし、百姓や町民を被支配階級とした身分制度が存在したが、これは、身分制度と言う点ではヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と似ているようにも見えるが、根本的に異なるものである。貴族制度やカースト制度が長い時間をかけて社会に定着して、いかなる手段によっても変更できないものになってしまったのに対して、江戸時代の日本の身分制度は、最初から最後まで人為的に作られた制度に過ぎなかったのである。人為的に作られた制度は人為的に変更することが可能である。だから明治維新の時、明治政府が「四民平等」と言った結果、武士を支配階級とした身分制度は消滅してしまったのである。
 また、特定の国家体制が、貴族制度やカースト制度と同様に社会に定着した結果、無くならなくなってしまった例がある。それが、イギリスの議会制度と日本の天皇制である。イギリスの議会制度は十三世紀に成立して以来、七百年以上続いた結果、イギリスの社会に定着した。イギリスの議会制度も日本の天皇制も、長い歴史の中で何度も政変や革命や内乱といった事態に遭遇したが、結局、存在し続けたのである。つまり、イギリスの議会制度も日本の天皇制も、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度と同様に社会に定着して、どのような手段によっても変更することができなくなっているのである。これが、天皇制が千数百年続いた理由の一つである。
 大統領制とは、選挙などの法の手続きに従えば、誰もが正統な国家の最高指導者に就任できる制度である。これに対して、天皇制が定着している日本では、正統な国家の最高指導者の役職は天皇のみであり、皇族のみが天皇になることができる。そして、皇族以外の者は、どれほど実力があろうと、どれほど功績を挙げようと、内閣総理大臣のような「行政の責任者」にしかなれないのである。そして、この天皇制は、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように日本の社会に定着して、いかなる手段によっても変更できなくなっているのである。そのため日本では、憲法などの法・制度を改正して大統領制や首相公選制を導入したところで、結局、「行政の責任者」に就任するための法の手続きが変わるだけの結果になってしまうのである。従って、日本にはアメリカのような大統領制も、イギリスの首相のような実質的な大統領制も成立しないのである。
 もし、日本に大統領制が成立するのなら、明治維新の時に西郷隆盛が実質的な大統領に就任することによって実質的な大統領制が成立していたはずである。しかし、天皇制の伝統が、それを許さなかったのである。
 また、もし日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領となり、日本に「イギリス型大統領制」が成立するのなら、明治体制下の日本で内閣総理大臣が実質的な大統領になる可能性があったことになる。なぜなら、明治体制下の日本の内閣総理大臣にも、イギリスの大宰相たちに匹敵するような功績を挙げた人物が存在したからである。たとえば、伊藤博文は、明治維新の立て役者の一人であり、近代的な改革に功績があり、更に、日清戦争の時の内閣総理大臣として日清戦争を日本の勝利に導いた。また、桂太郎総理大臣は、イギリスとの間に日英同盟を締結し、帝国主義の強国であるロシア帝国と戦った日露戦争を日本の勝利に導いた。しかし、それにもかかわらず、明治体制下の内閣総理大臣は最後まで国家の最高指導者になることは無かった。日清戦争や日露戦争の勝利は、天皇の最高指導者としてのカリスマや権威を強めただけであり、日本の内閣総理大臣がイギリスの首相のような実質的な大統領になることは遂に無かったのである。
 首相公選制の導入によって日本に実質的な大統領制を成立させるべきだと主張していた人たちは、国家というものは法律や法律に基づいて作られた制度の上にのみ成り立っていると考えていたのである。つまり、世界中どこの国であろうと、アメリカと同じ法律や制度を作れば、アメリカと同じ国家体制ができあがると思い込んでいたのである。彼らの考えは、明らかに現実に反している。国家や最高指導者のあり方は、その国固有の歴史や伝統の産物であり、法律や制度は枝葉末節の問題に過ぎないのである。アメリカの大統領制は、アメリカ独特の歴史と伝統から生まれた制度であり、アメリカとは全く異なる歴史と伝統を持つ日本に成立するわけが無いのである。
 また、既に述べたように、民主主義国家を完成させるためには非常独裁制を確立しなければならない。そして、非常独裁権は、国家の最高指導者の権限である。更に、民主主義国家における最高指導者は、アメリカ大統領やイギリスの首相のように国民から民主的な手続きによって選ばれた指導者である。従って、民主主義国家で非常独裁権を持つは、アメリカ大統領のような大統領やイギリスの首相のような実質的な大統領である。つまり、民主主義国家を完成させるためには大統領制や実質的な大統領制の成立が必要不可欠なのである。これに対して、日本において非常独裁権のような最高指導者としての権限を持つことができるのは天皇のみである。つまり、天皇制の伝統のために大統領制も実質的な大統領制も成立しない日本では、民主主義国家を完成させることは不可能なのである。国家体制は、歴史と伝統の産物なのである。
 明治体制下の日本では、最高指導者として君臨する天皇と「行政の責任者」である内閣総理大臣が二つで一つとなって国家権力を形成していたのである。そして、天皇が最高指導者であっても「行政の責任者」ではないということは、すなわち、天皇によって決定されたことが、いかなる結果を招いても、責任を取るのはあくまで「行政の責任者」であり、天皇が責任を問われることは無いということである。この、最高指導者と「行政の責任者」が分担されている日本の国家体制が、いかに諸外国の国家体制と比べて特異なものであるかが示されたのが、太平洋戦争後に日本の戦争責任者の追及が行われた時である。
 太平洋戦争の開戦は、御前会議によって決定されたことである。明治体制下の日本では、内閣総理大臣を始めとした大臣は、法的には天皇の補佐役に過ぎず、開戦の決定のような国家の重大事を決定する権限は最高指導者たる天皇のみにある。従って、太平洋戦争の開戦が御前会議によって決定されたということは、太平洋戦争の開戦は昭和天皇によって決定されたということになる。ただし、昭和天皇自身にとって、日米開戦は本意ではなかったとして、それを理由に昭和天皇には開戦の責任は無いと主張する人たちも存在する。しかし、日米開戦が昭和天皇の本意であろうとなかろうと、開戦のような国家の重大事は最高指導者たる天皇のみに決定権がある以上、普通の国の常識から考えれば、昭和天皇こそ最大の戦争責任者ということになってしまう。日本以外の国なら、昭和天皇と同様の立場にあった者は、間違いなくは戦争責任を取らされていた。日本と同じく第二次世界大戦の敗戦国となったイタリアでは、国王のビットリオ・エマヌエーレ三世が、ムッソリーニを首相に任命して独裁的な権力を行使することを容認してイタリアを敗戦国にした責任を取らされて退位させられ、王政そのものも廃止されてしまった。ところが日本では、天皇制の廃止も昭和天皇の退位も無かったのである。大日本帝国の最高指導者であり帝国陸海軍の最高司令官であった昭和天皇は、常識的に考えれば最大の戦争責任者であるにもかかわらず、占領政策の責任者のマッカーサー元帥やGHQ(連合国最高司令官総司令部)から戦争責任が問われなかった最大の理由は、大多数の日本国民が昭和天皇の断罪に反対していたことである。この日本国民の意志に反して天皇の処罰などをすれば、どのような政治的混乱が起きるかわからなかったのである。天皇制の伝統では、敗戦のような政治的失敗の責任を取るのは「行政の責任者」の役割であって、最高指導者たる天皇の役割ではない。これが、日本国民が昭和天皇の断罪に反対した理由である。このことは、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという古代からの天皇制の伝統が日本の社会に定着していることを明確に示しているのである。もし、日本が太平洋戦争に敗れたと同時に天皇制の伝統も消滅していたら、天皇制はイタリアの王政と同様に廃止されていたはずである。つまり、「国家の象徴」となり政治の実権を失ったとは言え、戦後体制下の日本でも天皇制が存続していることが、天皇制の伝統が消滅してはいない証拠なのである。
 一方、マッカーサーとGHQにとっては、占領政策を成功させるためには、昭和天皇の協力がどうしても必要だった。占領政策を成功させるために必要なのが協力者である。協力者は、占領する側に協力的で、しかも被占領国民の支持が得られる人物でなければならない。そこでマッカーサーとGHQが白羽の矢を立てたのが昭和天皇だったのである。敗戦という事態にもかかわらず、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統によって、国民から戦争責任が問われることが無かったため、国民の天皇に対する尊敬の念と天皇のカリスマが完全に失われることは無かったのである。そこでマッカーサーとGHQは、アメリカの占領政策の協力者にふさわしい人物として昭和天皇を選んだのである。そのため、マッカーサーとGHQは、天皇制の存続を容認したのである。つまり、結果として、占領政策の責任者であるマッカーサーもGHQも、天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統を尊重せざるを得なかったのである。ただし、大日本帝国の最高指導者にして帝国陸海軍の最高司令官だった昭和天皇の罪が一切問われないというのでは、日本の戦争行為を批判し、再び天皇の名による戦争が行われることを恐れている中国、ソビエト、オーストラリアといった国々の不満や不安が収まらない。そこでマッカーサーは、戦争の放棄と象徴天皇制を定めた日本国憲法を制定したのである。
 言論人や政治学者の中には、天皇はイギリスの国王と同様の立憲君主なのだから戦争責任は無いと言っている人たちがいるが、名実共に最高指導者だった天皇と、政治的権限の全く無いイギリスの国王を同列に論ずるのは明らかに間違いである。そもそも立憲君主制と言っても様々な形態があるが、その中でイギリス型の立憲君主制は、形の上では君主制であっても実態は議会政治という国家体制である。近代の議会政治では、国民から選挙によって選ばれた政治家のみが国家・国民の指導者というのが原則である。従って、イギリス型の立憲君主制の下で首相に任命されるのは、議会内の多数党の代表者でなければならない。ところが、太平洋戦争の開戦当時の内閣総理大臣だった東条英機は、議会内の多数党の代表者ではないどころか議会政治家ですらない現役の軍人である。このような人物が内閣総理大臣に任命されたこと自体が、当時の日本がイギリス型の立憲君主制とは全く異なる国家体制だった証拠である。
 天皇は最高指導者であっても「行政の責任者」ではないという天皇制の伝統それ自体も、天皇制が千数百年続いて来た理由の一つである。諸外国の王朝の君主は日本の天皇とは違い、最高指導者と「行政の責任者」を兼ねている。そのため、失政や敗戦などによって王朝の権威が低下すると、君主が「行政の責任者」としての責任を取らされる形で王朝の交替や革命が起きてしまう場合がある。ところが日本の場合は、天皇の意志決定がどういう結果を招こうと、政治責任を取らされて交替させられるのは専ら「行政の責任者」であり、最高指導者の天皇自身に責任の追及が及ぶことは、ほとんど無いのである。だから日本では、王朝の交替や天皇制を否定する革命など起きようが無いのである。
 ただし、天皇や皇族といえども、何らかの形で自らの決定に対する責任を取らされたことはある。その一例が、鎌倉時代初期に起きた承久の乱の場合である。1221年(承久3年)、鎌倉幕府から朝廷に政治の実権を取り戻そうとした後鳥羽上皇は、鎌倉幕府執権の北条義時に対する追討令を発し、鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。これに対して鎌倉幕府は、北条泰時らの率いる軍勢を京に差し向け、朝廷側の軍勢を打ち破る。そして鎌倉幕府は、後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流に処し、仲恭天皇を廃位にしたのである。また、太平洋戦争の敗戦の結果、昭和天皇は天皇の地位を失うことは無かったが、政治の実権は失った。これも或る意味では責任を取らされたものと言える。しかし、いずれの場合も王朝の交替や天皇制の廃止にまでは至っていない。


天安門事件の背景

第二章 なぜ中国は民主化ができないのか 

 

 

       天安門事件の背景

 

 欧米諸国や日本のように法治国家と呼ばれる国に対して、中国は俗に人治国家と呼ばれることがある。人治国家とは、法の支配が確立されていない国のことであり、法によって定められた手続きではなく、政治家や官僚などによる恣意的な決定や判断によって統治されている国のことを言う。そして、それは人権抑圧や腐敗政治の温床になると見なされ、否定的に見られている。更に、法治国家と法の支配が確立されていない国とでは、国民を統治する方法や最高指導者のあり方が全く違うのである。
 法の支配とは、政策の決定や権力の行使が、法によって定められた手続きに従って行われることである。法の支配が確立された国では、一般国民のみならず、官僚や政治家、そして国家の最高指導者も法によって縛られることになる。
 そして、法の支配が確立されるために絶対に必要なことは、権力によって強制されなくても自ら進んで法・秩序に従う慣習が、国家の指導者や官僚のみならず、一般国民にも定着していなければならないということである。なぜなら、国家の指導者や官僚が、法の手続きに従って国民を統治しようとしても、国民が自ら法・秩序に従おうとしないなら、国家の指導者は国民に対して警察や軍などを使って力ずくで法・秩序に従うことを強制するしかなくなってしまうからである。これでは法の支配ではなく、暴力の支配になってしまう。つまり、権力者に強制されなくても、政治家や官僚や一般国民などの大多数の人間が、自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していなければ、法の支配が確立された国とは言えないのである。法の支配が確立された国では、警察などによる力の行使は、法を守らない、ごく一部の人間を取り締まるためにのみ必要なのである。
 法の支配が確立されていない国の人間は、違法な行為に対する罪悪感が希薄である。たとえば、中国における政治家や官僚による汚職の蔓延の原因も、中国人には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していないため、違法な行為に対する罪悪感が希薄なことにある。
 中国が法の支配が確立されていない国であることが明確に分かるのが、2005年、2010年、2012年に起きた大規模な反日デモである。反日デモが起きる度に、デモ隊によって法・秩序に反する行為が行われた。そして更に問題なのが、デモ隊による法・秩序に反する行為に対する中国政府の対応である。
 たとえば、2005年に中国で起きた反日デモの例を見てみよう。
 2005年4月9日、アメリカ国内の反日団体の呼びかけに答える形で、日本の国連常任理事国入りや尖閣諸島の領有権といった問題に対して不満を訴える市民が、北京で一万人規模のデモを行った。これをきっかけに中国各地に反日デモが広がっていった。ところが、やがてデモ隊は暴徒化し、日本系のスーパーマーケットや日本料理店、そして日本大使館に対して投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為をするに至った。これに対して中国政府は、自分たちが批判の対象になることを恐れてデモ隊による法・秩序に反する行為を止めさせようとはしなかった。アメリカ政府は、「中国は北京の外国公館に対する暴力を防ぐ責任がある。」と述べ、中国政府を非難した。4月15日になってようやく北京市や上海市などの公安当局が無許可のデモや集会を禁止し、違反者を罰する意志を表明した。ところが4月16日には上海で数万人規模のデモが発生し、暴徒化したデモ隊が日本系のコンビニエンスストアーや日本料理店、そして日本総領事館に対して投石や破壊行為を行い、遂には日本人が殴られて怪我をする事態にまで至った。日本に対する不満を訴えるだけなら法・秩序に反する行為ではない。しかし投石、破壊行為、暴力行為は、明らかに法・秩序に反する行為である。中国人のデモ隊が叫んだスローガンの中に「愛国無罪」というものがあった。つまり、日本に対する不満を訴える行為も、投石や破壊行為などの法・秩序に反する行為も、共に「愛国」行為であって「無罪」だと言うのである。要するに、自分たちが正しいと考える目的のためなら法・秩序に反する行為も許されるということである。これが意味することは、中国人には自ら進んで法・秩序に従うという考えも、法・秩序に反する行為に対する罪悪感も無いということである。そして、デモ発生の当初、自分たちが批判の対象になることを恐れて法・秩序に反する行為を止めさせようとしなかった中国政府には、法治という考えが欠如しているのである。これらの出来事は、中国が法治国家ではないことを明確に示しているのである。そして、2010年と2012年に起きた反日デモの時も、デモ隊によって日本系の商店や日本料理店などが破壊される事件が起きている。
 もっとも、民衆による集団的な法・秩序に反する行為は、法治国家とされている国でも起きている。2005年の10月末にフランスの首都パリの郊外で移民系の住民による暴動が起き、車や建物が放火された。そして、この暴動がフランス全土に拡大して11月の中旬まで続いた。また、2011年8月にはイギリスの首都ロンドンで移民系の住民が始めた暴動がイギリス各地の都市に拡大して放火や略奪が行われ、五名の死者が出た。そして、一部の移民系ではない若者たちまでがこれに加わった。更にフランスでは、2018年11月17日からマクロン政権による燃料税の引き上げなどの政策に抗議して全国的規模のデモが起きた。そして、デモ隊の一部が暴徒化し、商店の破壊や略奪を行った。この暴動によって数名が死亡、数千人が負傷、そして数千人が拘束された。これらの出来事は、法の支配を危機に陥れる行為である。もし、今後もこのようなことが頻発するようなら、イギリスやフランスといえども、法治国家とも文明国とも言えない国になってしまうだろう。
 中国のような法の支配が確立されていない国の国民には自ら進んで法・秩序に従う慣習が定着していない。このような国で法・秩序を維持するためには、警察や軍などを使い、力ずくで国民が法・秩序に従うことを強制するしかないのである。つまり、法の支配が確立されていない国の法・秩序は、暴力の支配によって成り立っているのである。このような統治の方法は、武断政治や強権統治などと呼ばれている。武断政治による法・秩序の維持は、中国のみならず、アジア・アフリカ諸国などに存在する独裁国家でも行われている。
 法治国家の国民が、自ら進んで法・秩序に従うのとは違い、法の支配が確立されていない国の国民は、警察や軍などによる武力の行使が恐ろしいから法・秩序に従うのである。そのため、法の支配が確立されていない国の権力者が国民を法・秩序に従わせるためには、権力者が常に国民から恐れられていなければならないのである。言い換えれば、法の支配が確立されていない国は、国民が権力者を恐れなくなったら、国民を法・秩序に従わせることが困難になり、統治不能に陥ってしまうのである。このような事態に直面した場合、権力者は、国民に対して武力を行使してでも権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって、統治能力を回復させなければならないこともある。その典型的な例が、1989年6月4日に中国で起きた天安門事件なのである。
 1989年4月15日、中国共産党の前総書記の胡耀邦が死去した。すると、学生運動に理解があると見なされていた胡耀邦の死を悼む学生や市民が続々と北京の天安門前広場に集まり、追悼集会が開かれた。しかし、その集会は、次第に政治家や官僚の腐敗を糾弾して中国の民主化を求める集会に変わっていった。
 やがて学生や市民は、共産党や政府の指導者を名指しで非難し始めた。4月18日には「李鵬出て来い」と叫び始めた。
 4月21日には十万人を超す学生や市民が天安門前広場に集まり、民主化を求めるデモを行った。
 5月13日には一部の学生がハンガーストライキを始めた。
 5月17日には天安門前広場に集まった学生や市民の数が百万人近くになった。そして李鵬首相や最高指導者の鄧小平に対して辞任を要求するスローガンを叫び始めた。
 5月19日には趙紫陽総書記がハンガーストライキをしている学生を訪れ、ハンガーストライキをやめるように説得した。
 法治国家ならば、学生や市民がデモをしたくらいのことで国家体制が動揺することは無い。なぜなら法の支配に服従している者が、法の枠を越えた行動を起こすことは滅多に無いからである。法治国家の国民は、デモにしろ反政府活動にしろ、法・秩序の枠の中で行うのである。しかし、法の支配が確立されていない国の国民は違う。自ら進んで法・秩序に服従する慣習の無い人間が集まって徒党を組んだら、何を始めるかわからないし、どんな混乱が起きるのかもわからない。一度、法・秩序が混乱し始めたら、燎原の火の如く混乱が拡大する恐れもある。従って、法の支配が確立されていない国の国民を治めるためには、権力者は武力によって国民を恐れさせ、服従させなければならないのである。ところが天安門前広場に集まった学生や市民は、権力者を恐れる様子も無く、民主化を求め、共産党や政府の首脳に非難の言葉を浴びせたり辞任を要求したりしている。法の支配が確立されていない国にとって、権力者を恐れない国民が出現することは、権力者が統治能力を失ったことを意味するのである。つまり、この時の共産党政権は、絶体絶命の危機に直面していたのである。
 法の支配が確立されていない中国にとって、このような危機に対処する手段は、もはや武力弾圧しかない。武力行使によって事態を収拾すると同時に、国家権力の恐ろしさを国民に思い知らせることによって共産党政権の統治能力を回復させるのである。そこで鄧小平を始めとした中国の指導者たちは、学生や市民に対する武力弾圧を決意し、5月20日に戒厳令を敷いた。そして6月4日、天安門前広場は中国軍によって制圧された。
 こうして天安門事件の時の出来事を見ていると、一見すると強力に見える中国共産党の一党独裁体制が、実は、学生や市民が集まってデモをしたくらいのことで動揺してしまうような軟弱な体制であることがわかるのである。これと比べれば、私が欠陥国家と言っている日本の戦後体制の方が、よほど強力だと言わざるを得ない。60年安保騒動を見ればわかるように、学生や市民のデモくらいでは日本の国家体制が潰れる可能性など無いからである。もし、その可能性があったならば、当時の岸政権は自衛隊に治安出動をさせていたはずである。安保騒動の混乱の責任を取って岸政権が退陣したと言っても、国家体制が消滅したわけでも与党の自由民主党が政権を失ったわけでもない。これが法の支配が確立されていない国と法治国家の違いなのである。つまり、法の支配が確立されていない国の権威は非常に弱体なものであり、武断政治には弱体な権威を武力によって補うという側面もあるのである。そのため、法の支配が確立されていない国と武断政治は切っても切れない関係にあるのである。法の支配が確立されていない国の政治が一見して安定しているように見えても、それは国民が権力者の力を強いと思い込んで恐れている間の一時的な状態に過ぎないのである。逆に、法の支配が確立されていない国の国民が権力者の力を弱いと思い恐れなくなったら、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからないのである。従って、法の支配が確立されていない国に、真の政治の安定はあり得ないのである。
 中国と同様に武断政治の軟弱さをさらけ出したのが、2011年に起きた「アラブの春」と呼ばれるアラブ諸国の政変である。アラブ諸国も中国と同様に法の支配が確立されていない国であるため、武断政治が行われている。そして、2010年12月にチュニジアで26歳の男性が警察官の不正に抗議して焼身自殺した事件をきっかけに大規模な反政府デモが起き、2011年1月14日にベンアリ大統領が国外へ脱出したため、ベンアリ政権は崩壊した。権力者による武断政治を恐れて従っていたアラブ諸国の民衆は、このチュニジアの政変によって武断政治の軟弱さを知り、長期にわたり武断政治を行っている指導者を打倒するための行動を一斉に起こした。エジプトでは2011年1月25日からムバラク大統領の辞任を求める暴動が始まった。そして2月11日にムバラク大統領の辞任が発表され、30年間続いたムバラク政権は崩壊した。リビアでは、2011年2月15日に東部のベンガジでカダフィ大佐の辞任を求める大規模な反政府デモが起きた。これをきっかけに反カダフィ勢力が武装蜂起したため、リビアは内戦状態になった。そして8月23日に反カダフィ勢力が首都トリポリを制圧したため、カダフィ政権は崩壊した。イエメンでは、サレハ大統領の退陣を要求する大規模な反政府デモが発生し、治安部隊や政府軍がデモ隊を攻撃して多くの死傷者を出した。そして、2011年12月23日にサレハ大統領はハディ副大統領に大統領権限を委譲したため、政治の実権を失い、事実上退陣した。そしてシリアでは、アサド政権の打倒を目指す勢力が武装蜂起し、内戦状態になった。
 法の支配が確立されていない国の国家体制を守るために最終的に頼るのが軍である。従って、法の支配が確立されていない国は、軍が国家の命運を握っていると言っても過言では無い。これがよくわかるのが中国の辛亥革命である。
 二十世紀に入ると、中国では、既に衰えていた清朝の権威が、政治の実権を握っていた西太后の死によって更に低下した。そして1911年10月10日の武昌蜂起をきっかけに辛亥革命が始まった。革命は中国各地に広がり、十四の省が清朝から独立してしまった。これに対して清朝は、軍閥の実力者の袁世凱を内閣総理大臣に任命して政治と軍事の実権を与え、革命勢力の武力制圧を命じた。
 一方、革命勢力は、1912年1月1日に中華民国臨時政府を成立させ、孫文が臨時大総統に就任した。しかし、袁世凱が率いる軍の力に革命勢力は勝てないと考えた孫文は、1月22日、宣統帝溥儀の退位を条件に、臨時大総統の職を袁世凱に譲る意志を表明した。これを受けて袁世凱は清朝を裏切り、清朝に圧力をかけて宣統帝溥儀の退位を迫った。その結果、2月12日、遂に宣統帝溥儀は退位し、清朝は滅亡した。これを受けて2月13日、孫文は臨時大総統を辞任した。そして3月10日、袁世凱が中華民国の臨時大総統に就任した。こうして清朝は、袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのである。
 法の支配が確立されていない国で、このような事態が起きることを防ぐためには、強力なカリスマと指導力を持った最高指導者が君臨して政治と軍事をしっかりと掌握していなければならないのである。結局、法の支配が確立されていない国は、武力を握る者だけが国家を統治することができるのである。つまり、中国のような法の支配が確立されていない国では、軍を制する者が国家を制するのである。清朝が袁世凱の裏切りによって滅んでしまったのは、清朝の皇帝が軍を制する力を失ってしまったからである。
 中国のような法の支配が確立されていない国にとって、軍が存在する第一の目的は、暴力革命や国家の分裂のような事態から権力者や国家体制を守ることであり、法治国家のように国民の生命や財産を外国の脅威から守ることは二の次なのである。天安門事件は、このことを世界に知らしめてしまったのである。



読者登録

mk3224さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について