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目次

<目次>

 

 (1)はからずも磯の香りの記憶が

 

 (2)物言わぬ橋

 

 (3)いざ、シャングリアに!

 

 (4)硝子窓の中から

 


(1)はからずも磯の香りの記憶が

 

 近くの神社に、無事に春を迎えることができたお礼をしに、お参りをしてきました。

 

 正月以来の訪問になります。

 とりたてて大きな理由があるわけではないのですが、季節の変わり目には、お参りするようにしているのです。

 

 大きな樫の木の枝が境内を覆って、その隙間から雲ひとつない春の青空が見えます。

 誰一人いない境内の真ん中に立って、一つ大きく深呼吸をしますと、不思議なことに、鼻腔の奥底に、あの懐かしい潮の香りを感じたのです。

 

 過去の出来事が、思いもかけない光景の中でふと甦ってきたのです。

 

 子どもの頃、私は夏休みになるとすぐ、父の爺さんたちが暮らして居たと言う九十九里浜のある田舎に行っていました。

 父の一族は、もう、九十九里を引き払い、皆、東京に出てきていました。

 父は、九十九里の人たちが東京に出てくると、自宅に泊めたり世話を焼いたり、何やかやと面倒を見ていたのです。時には、次男坊や三男坊が田舎で暮らすことができなくなり、そのため、東京で暮らせるよう就職の斡旋などもしていたのです。

 

 私が九十九里の田舎という家は、地引網の船を持つ大きな家で、取ったイワシを煮て、それを天日で干して煮干しを作ることを生業にしていた家でした。

 煮干のほか、小さなイワシを起用に指先でさいて、海苔一畳の四分の三帖ほどの大きさに並べて、それにみりんに浸した味醂干しも作っていました。

 畑もやっていて、マクワウリやスイカ、トウモロコシなど食べきれないほどの作物を作っていたのです。

 食べ終わったトウモロコシの芯やスイカの皮は、豚小屋に放り投げます。豚の餌にするためです。

 その家を継ぐのは長男で、次男以下は外に出なくてはいけなかったのです。

 次男は父の紹介でガス会社に、三男は一旦は東京に出たのですが、どうも合わなかったようで、田舎に戻り、長男の手伝いで船に乗るようになりました。

 四男は大阪に出てクレーンの技師に、五男は千葉の製鉄所にそれぞれ入り、家を出ていったのです。

 

 そんな父の世話に感謝して、田舎の家では夏休みが始まるとすぐに子供の私を田舎で過ごしてもらうよう迎えにくるのです。

 田舎で、勉強をさせ、海で遊ばせようというのです。

 そして、お盆になると父が墓参りにやってきます。帰るときは、両手に持てないほどの土産物をくれます。

 田舎の人たちは、それを恩返しとしていたのだと思います。

 

 もちろん、私も迎えに来られるのを嫌と思ったことはなく、喜んで九十九里に行ったのです。

 煮干しを干す仕事も手伝いました。

 時たま、小さなタコなども混じっていて、それをつまみ食いするのです。浜のそばに建てられた納屋の前の煮干し干し場で、朝から一家総出で大仕事です。

 

 その際、海風で運ばれてくる海の匂い、そして、たくさんのイワシが大釜で煮られるその匂い、それらがつくばの街の神社の境内の真ん中で深呼吸した私の鼻の奥で蘇ったのです。

 

 はからずも磯の香りの記憶が蘇ってきたのはなんでだろう、と私不思議に思いました。

 

 父も母も亡くなり、田舎でも世話になった方々がいなくなり、新しい世代が家を継ぐようになってから、随分と疎遠になった九十九里の家のことを急に思い出すなんて。

 

 私は、境内を出て、少し遠回りをして帰宅することにしました。筑波山がその日は春の幾分強い風で霞も取り除かれはっきりと目に見えます。

 車の多く通る道を避けて、農家の人が農作業をするために作った畔を歩くのです。

 畔はまがりくねり、名もなき雑草が小さな紫色の花を満開に咲かせています。

 畔は、神社の裏手に私を導きます。それでもさらに、私は畔の道を進みます。

 

 そうだ、きっと、あの空の青が私の脳を何十年も前の九十九里の海を思い起こさせたに違いないと思ったのです。

 でも待てよ。

 あの時の海のイメージを私は思い起こします。

 

 九十九里というからに、白い浜は左右に限りなく伸び広がっています。目の前には、大きな波が押し寄せ、波が砕けては散らしています。

 足元の砂は、細かくサラサラとしています。

 そして、空は、たいていは薄く雲がかかり、遠くに入道雲があるのです。

 

 つくばの空の青が、これら九十九里の海を想起させるには無理があるぞ、と私は首を振るのです。

 

 思いは、常に偶然のありようで、ふと心をよぎるものなのだと納得させようとするのですが、あの潮の香りがまだ消えることなく鼻腔の奥底に残っているのです。

 

 病院での定期診察を終えて、一階のロビーの奥にあるコーヒーショップで一杯のコーヒーを注文します。

 家に帰って、飲めばいいものを、診察が終わり、支払いも済ませた開放感が、あのコーヒーの香りを想起させるのです。

 奥にあるコーヒーショップから支払いをする会計のところまで、あの香りが漂ってくるはずはないのに、私はその香りを鼻腔の奥に感じるのです。

 つまり、私の意識が香りを想起させていると言うことです。

 

 とすると、神社の境内で大きく深呼吸したとき、私の鼻腔をかすめたあの磯の香りは、私の心の奥底にあった深層の意識が浮かび上がってきたに違いないのだ。

 

 人間には、心のひだに幾多の経験の、カスみたいなものが滞っているのです。

 それがふとしたことで、珊瑚が卵を生むように、浮かび上がり、時に鼻腔に、時に耳の奥底で、あるいは、口の端にメロディーを浮かび上がらせてくるんだ、とそう思ったのです。

 

 きっと、境内で感じた磯の香りもそうに違いないのです。

 だったら、そっとそれを心に戻し、しまいこむのがいいのです。

 人は生きてきただけの経験をその心のひだにしまいこんでいるのですから、それを戻すのに何ら問題はありません。

 

 そうと結論づけると、私は一気に足を早めたのでした。

 


(2)物言わぬ橋

 

 橋には不思議な魅力があります。

 

 鴨川に架かる「条」の名のつくいくつもの大橋は、私にとっては単にこっちから向こうへと通じる通行路以上に、ある種の感傷を伴わずにはいられない場所としてあるのです。

 そこには義経と弁慶が今でもいますし、新選組の面々が刀の柄に手を置いてすり足で一列に走り抜けて行くのです。

 都人がこれまで見たことのないような軍勢の中に意気揚々とした信長の姿も見えます。

 時代を変えんと血眼になってかけ回る龍馬の面影も、それらの橋の上に見てしまうからなのです。

 

 あの橋も、私には忘れられないもんです。

 しかし、そこに橋があったかどうかは記憶が定かではありません。

 

 1978年の夏の暑い日のことでした。

 私は香港から羅湖まで鉄道で移動し、歩いて、そこにあった国境を渡ったのです。

 香港はまだイギリスの統治下にあり、羅湖駅は向こうの深圳との国境であったのです。

 

 羅湖には、半ズボンを履いて、手のひらをこちらに見せて敬礼をするイギリス兵が、歩いた先には、人民解放軍の兵士が、赤い星のついた毛沢東帽子を被り、胴をきつく絞ったベルトをして、マンドリンというソ連製の機銃を抱え、直立不動でそこにいたのです。

 そこに鉄路があり、注意深く歩いて行った記憶があるのですが、それさえももはや時の経過で定かではなりません。

 

 私にはまだ行ったことのない橋があります。

 その橋の名前は『盧溝橋』と言います。

 

 老舎という作家がいます。中国の作家では、教科書にも取り上げられている魯迅が有名ですが、老舎もまた引けを取らないほど著名な作家です。

 清王朝の、日本で言えば江戸幕府の御家人に相当する「八旗」に属する家柄の出で、ロンドンに留学をしています。その後は教師になり、古き良き北京の言葉で作品をものした作家で、擬古文で作品を書いた魯迅とはそこが大いに違うところです。

 

 ここまで書くと、似ているなと気づかれる方もいるかと思います。

 

 そう、漱石先生と非常によく似ているのです。

 漱石先生も、ロンドンに留学し、江戸の下町言葉で作品をものしました。

 おそらく、老舎同様、ロンドンの下町言葉で作品を書いたディケンズの影響を少なからず受けているのだろうと思います。

 そして、漱石先生も教師になり、その後、小説家となるのです。

 

 しかし、その最期は大いに異なります。

 老舎は、あの文化大革命の折、あどけない表情の紅衛兵たちに糾弾され、太平湖で死体となって見つかるのです。

 自ら命を絶ったのか、それとも殺されたのかはいまだに定かではないのです。

 

 その老舎の長編小説に『四世同堂』というものがあります。

 その中に、「日本人は盧溝橋の獅子の像が欲しいに決まっている」というようなおどけた表現があります。

 このユーモア感覚も漱石先生に通じる彼一流の表現なのです。

 まさか、これが紅衛兵の癪に触ったことでもないでしょうが、おおらかに異国の支配下に陥った自国の哀れさとそこから決起する勇気も描いている作品です。

 

 当時、北京は<北平>と呼ばれていました。

 その<北平>の南西15キロ、永定河、当時は盧溝河と呼ばれていた川に架かる石造りのアーチ橋、かつて、マルコポーロが世界で最も美しい橋と、『東方見聞録』に書いた橋がこの盧溝橋です。

 

 1937年(昭和12年)7月7日の夜のことです。

 

 この日、華北駐屯日本軍が対岸に陣営する中国国民革命軍第二十九軍に通知の上、夜間演習を実施していました。演習ですからもちろん実弾はこめていません。

 日本軍の軽機関銃の空砲音に混じって、実弾らしき重たい音を発して数十発の銃弾が日本軍に浴びせられたと言います。

 午後10時40分になろうとする時です。

 堤防に見え隠れする中国兵が演習中の日本軍に対して実弾を発射、その前後には懐中電灯で合図をしあっている様子が記録されています。

 

 翌8日午前4時過ぎ、再び日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃で攻撃がなされました。

 駐屯日本軍は自衛のためこれに応戦、中国軍のこもる龍王廟を占拠し、蘆溝橋の第二十九軍に対し武装解除を要求しました。

 この戦闘において、日本軍は死傷者10数名、第二十九軍は死者20数名、負傷者は60名以上を出したのです。

 

 これがいわゆる盧溝橋事件であり、中国が言うところの「七七事変」、英語では「Marco Polo Bridge Incident」です。

 

 その橋のたもとに、「中国人民抗日戦争紀念館」があることはよく知られています。

 1987年7月に開館されたと言いますから、あれから50年後に作られたということになります。 

 

 それより5年前のこと、日中間に一つの問題が突然に発生します。

 当時の文部省が、教科書検定で歴史教科書において中国華北地域への「侵略」を「進出」、韓国の「三・一運動」を「三・一暴動」などと書き換えさせたとする報道がなされたのです。

 昭和57年(1982年)6月26日のことです。

 

 大手新聞各紙およびテレビ報道が一斉にこのことを伝えたのです。

 後日、国会審議等でこれが誤報であることがわかります。

 しかし、一旦火が放たれれば、野火のごとく広がるのがこの手の情報です。

 

 この誤報が健全なる隣国関係を阻害したとなれば由々しき事態です。

 

 そう言えば、かつて毛沢東は、ある日本の政治家が過去の中国侵略を謝罪した時に、「何も申し訳なく思うことはありません」と、いつものように右手を小刻みに振りながら、ほのかに笑みを浮かべて語ったと言います。

 「日本軍がいなければ、私たちは権力を奪取することはできなかったのですから。」と。

 

 もしかしたら、あの日の射撃、日本軍も、国民党軍でもなく、毛沢東の指示でなされたものなのかと、ふと思うのです。

 歴史のしじまのさらに向こうの闇の中に覆い隠された事実を彼一流の言葉で披瀝したものではないかと空想は膨らむのです。

  

 しかし、物言わぬ「橋」だけは、いくつもの歴史の本当の姿を見てきているはずなのです。

 だから、橋には魅力があるのだと私は思うのです。

 


(3)いざ、シャングリアに!

 

 1942年4月18日のことです。

 

 大胆不敵にも、アメリカ海軍機動部隊の空母ホーネットからアメリカ陸軍の爆撃機B25、16機が飛び立ち、東京、川崎、横須賀、それに、名古屋と神戸に爆弾を落としました。

 太平洋戦争緒戦において連戦連敗のアメリカ軍が放った日本顔負けの特攻作戦でした。

 

 これがアメリカ国民から喝采を浴びたドォーリットル爆撃隊のまさに偉業なるものです。

 

 ハワイ真珠湾攻撃で大勝利を得て、インド洋に転戦し、そこでも勝利した南雲機動部隊は、その時、台湾沖を北上、母港への帰途にありました。

 

 旗艦「赤城」艦上では、真珠湾攻撃の総隊長であった淵田美津雄が、この知らせを聞いて、首を傾げていました。

 B25といえば、アメリカ陸軍の長距離爆撃機である。

 あの大きな爆撃機は、一体、どこから飛び立ったのかと。

 

 まさか、海軍と陸軍が協力して、陸軍機を空母に搭載して飛ばしたなど、陸海軍の連携が疎遠な日本軍にあっては想像もつかないことであったからです。

 

 そんな時、「赤城」のラジオがルーズベルトの発言を傍受しましました。

 <日本空襲を実行した部隊は、シャングリアから発進した>と。

 

 淵田は、早速、海図室に入り、そのシャングリアなる地名を探したのです。

 

 それは、たいていのアメリカ人なら誰でも知っている地名でした。

 Shangri-La、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』に出て来る理想郷です。

 つまり、ルーズベルトが放った地名は、架空のそれであったのです。

 

 空母ホーネットは、陸軍機を搭載し、日本近海から発進させ、今、太平洋上を東に向かっているなどといえば、日本軍の反撃を受けることは確実です。

 だから、大統領は冗談めかして、彼らはシャングリラから発進したと言ったのです。

 

 そんなことなど知らない淵田は、大統領の言葉を真に受けて、シャングリアなるものを探したと言うわけなのです。 

 

 『失われた地平線』が発表されたのが1933年のことです。

 

 シャングリアは、ヒマラヤの西、崑崙に向かう先のKarakalという標高八千を超える山の麓にあります。

 主人公コンウエイは、革命騒ぎで混乱するアフガニスタンから白人居住者を避難させる任務を負っていました。任務をおおむね果たし、とうとう、最後の3人とともに小型飛行機に乗りペシャワールに向かう途中でした。

 ところが、不測の事態が発生し、彼らはチベットのとある場所に不時着をしてしまうのです。

 不時着した先で、彼らは中国人の一行に出会い、シャングリアに連れていかれるのです。

 そこは、食料が豊富にあり、金鉱もあり、そこから産出される金で経済は潤い、そこに暮らす人々は平和で、ストレスを抱えることもなく、とても長寿であったというのです。

 

 ここまで読むと、私は陶淵明の『桃花源記』を思い起こすのです。

 

 <晋の太元中、武陵の人、魚を捕らふるを業と為す。渓に縁りて行き、路の遠近を忘る>という言葉で始まるあの作品です。

 

 なんでも、両岸には桃の木が整然と植えられ、そのほかの樹は一切なかったといいます。霊力のある桃の木がただならぬ境に、この漁師を導いていったことをうかがわせます。

 

 そのうち、川の流れも尽き、大きな山が行く手を遮ります。しかし、その山には人一人通れるほどの洞穴が口を開けていました。漁師は、その洞穴に入ります。

 やがて、光が見えて、漁師の目には、陽がさんさんと降り注ぎ、いかにも豊かな土地と点在する小綺麗な住居の数々が映ったのです。

 

 手入れされた田畑、池には魚が、蚕を養う桑も建物を建てるに足る竹林もあります。

 鶏や犬の声も遠くに聞こえます。平和な生活が営まれているようです。

 人々は楽しそうで、きちんとした服装で、頭髪も整えられています。ただ、着ている衣服は、ちょっと古めかしく、漁師が普段見るようなものではありませんでした。

 

 漁師がそこにいることを見つけた村人は最初は驚きますが、そのうち、ごちそうを作り、この漁師を我先にと迎え入れてくれたのです。

 

 村人は屈託なく自分たちの話を漁師にします。

 曰く、自分たちは秦の政治の横暴に耐えかねて家族や近隣のものとここに移り住み、以来、外部との接触を絶って来た。ところで、今は誰が国を支配しているのか、と。

 

 この人たちは、秦の後の漢のことも、その後の魏晋の時代のことも知らないのだと漁師は思ったのです。

 

 数日して、礼を述べ、漁師はこの村を去ります。

 村人の一人が、あなたの国の人たちに私たちのところにくる道筋を述べてはいけませんよと言います。

 漁師は、それでも、川筋に印をつけて、川を下って行ったのです。

 

 後日、印をたよりに再訪をしようとしますが、ついに、行くことはできなかったという話です。

 

 ヒルトンの小説では、一旦シャングリアを出てしまった主人公のコンウエイが、バンコクからシャングリアに向かうところで小説は終わっています。

 

 人間が想像で作り上げる理想郷には、一旦はたどり着けても、そこから出てしまうと二度と行き着くことができないというのが、どうも通り相場のようです。

 同時に、そうした理想郷が圧政や混乱を契機にして生まれているようにも読み取れます。

 

 そんなことを考えると、四川の山奥にも、アリゾナの砂漠の果てにも、そして、シベリアの人跡未踏の地にも、圧政を逃れて来た人々がいるのではないかとまことしやかに思ってしまうのです。

 

 木曽の山中にも、いるかも知れないって?

 

 誰か探しに行って見ませんか。

 二十一世紀のシャングリアに。

 桃の木の植えられている道を通って、ストレスのない、平和で、穏やかな土地があるというシャングリアに。

 


(4)硝子窓の中から

 

 先日の強風を伴う春の雨が、書斎の大窓に設置されたガラスを綺麗に洗ってくれました。

 おかげで、道向こうの研究所の赤松の林が朝日を浴びてキラキラと輝いて見えます。うっすらと朝もやがかかっているのもまた春らしくていいものです。

 

 書斎の大窓に設置されたガラスは、出窓になっていて、左右に風を入れる小窓はあるのですが、そこから腕を伸ばして掃除することもできません。

 ですから、年に何回か我が家を襲う南からの強風と雨に、私は感謝をしているのです。

  

 <硝子戸の中から外を見渡すと、霜除をした芭蕉だの、赤い実の結った梅もどきの枝だの、無遠慮に直立した電信柱だのがすぐ眼に着くが、その他にこれと云って数え立てるほどのものはほとんど視線に入って来

ない。書斎にいる私の眼界は極めて単調でそうしてまた極めて狭いのである。>

 

 とは、漱石先生の『硝子戸の中』の冒頭部分です。

 

 おこがましいようですが、漱石先生と同じように、私はつくばの自宅から硝子窓を通して向こうの景色を見ていることに幾分の感動を覚えるのです。

 

 ガラスを「硝子」と漱石先生は書いています。

 

 「倫敦塔」「護謨(ゴム)」「天麩羅(天ぷら)」「手布(ハンケチ)」「洋燈(ランプ)」など、漱石先生は漢字を多用し、そのものを表現しています。

 「襯衣」に至っては、それをシャツと読むにはよほどの勉強が必要です。

 

 それでも、カタカナで表現した例が一つあります。

 

 『坊ちゃん』での、あのヒロイン、「マドンナ」です。

 きっと、漢字で「聖母」とか、「聖淑女」とするより、西欧の音をそのままカタカナで書いたほうが、<モダン>であり、登場人物だけではなく、読者にとっても憧れの対象になると判断したのだと勝手に思っています。

 

 さて、この「硝子」、化学で習ったかどうかはすっかり忘れてしまいましたが、字面からすると何か化学物質を示すような気がします。

 

 そう思う私の脳裏には、きっと「硝石」のイメージがあるのだと思います。

 

 でも、調べて見ますと、実際の「硝子」は、それとはまったく関係ない代物だったのです。

 つまり、「硝子」とは、硝酸カリウムと呼ばれる「硝石」ではなく、「ケイ素酸塩ガラス」のことで、ケイ砂、炭酸ソーダ、炭酸石灰を混ぜて高温で溶かして作るものだというのです。

 

 これらの物質を混ぜて、透明で、しかも、硬い物質を人間が作ったのは、なんと紀元前四千年ごろのメソポタミアであるというのですから驚きます。

 そのころのガラスは、「硝子」ではなく、「玻璃」とか「瑠璃」と表記されているのも面白いことです。

 

 正倉院には、「白瑠璃碗」というガラス製のお椀が保存されています。

 

 透明のガラス製品で、カットグラスのお碗です。

 分析によると、アルカリ石灰ガラス製で、円形の切子による装飾が亀甲繋ぎの文様として外面を覆っていて、そこには高度な製造技術が示されています。

 ササン朝ペルシアで製作されたものといわれています。

 

 我が家にも、似たような食器があり、夏には冷奴が入って出てきたり、冷蔵庫で冷やされたきゅうりのサラダがのって出てきたりしますが、はて、今や宝物になった「白瑠璃碗」は一体何に使われたのでしょうか。

 

 実は、このガラス、個体なのか、それとも液体なのかと、その手の専門家たちにとっては大いに議論されている物質なのです。

 

 単純な私などは、ガラスが液体であるわけではないと口をとんがらせて言うと思いますが、そうでもないと言うから面白いことです。

 

 ある大学の先生が、コンピューター上でシミュレーションをした結果、固体とガラスでは振動の伝道が異なったというのです。

 つまり、固体で見られる規則的な物理法則がガラスでは見られない。

 よって、ガラスは固体ではないと言うのです。

 また、ガラスは酸素とケイ素でできた正四面体の分子でできており、その並び方がバラバラであることから、それは液体の配列と同じであり、よって、ガラスは液体であるとも説明づけるのです。

 

 人は見かけによらないとよく言います。

 ちょっと悪そうな人間が実はいい人だったり、反対に、人の良さそうなおっちゃんが悪いやつだったりします。

 人だって、見かけではその実体がよくわからないのです。

 私たちの身近の物質だって、同じなのです。

 ガラスが液体であるならば、へそ曲がりの私は、だったらそれは溶けても良さそうだと口を尖らせていうのです。

 私の書斎の大窓が夏の日差しを浴びて溶けて行くのです。

 溶けたガラスは元の物質に戻り、垂れ下がるのです。

 そんなことゆめゆめあるまいにと、これまた口を尖らせて偉そうに言います。

 

 すると、くだんの大学の先生、そうですよ、ガラスは溶けるんですよと書いているではないですか。

 しかし、そうなるには数万年かかると言います。

 

 つまり、私の書斎のガラスも、四千年前の玻璃製品も、まだまだ溶けるには時間が必要だということです。でも、数万年たって、その時、どうなっているのでしょうか。

 家々の窓という窓は溶けて、そうそう、教会のステンドグラスなども溶けて色が混じって汚くなるなんてことを思うのです。

 

 随分と話が飛躍してしまいました。

 これこそ本当に「杞憂」というやつです。

 そんなことより、冬のモノトーンの色調から、春のいろいろな色の輝きを硝子窓の中から眺めて行くこととしましょう。

 



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