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序(7)

ドアを開け、ベッドルームの、その上には笹村の、ややあって、振り向くと、彼女は壁にも垂れて座っていたが、そのとき、私は彼女の気配の存在のあったことに気付く。最初から。ずっと。死にました、と言った。Lanは、笹村さんは死にました、と、私は彼女を見つめるが、その、表情を喪失したまま未だに戻させない彼女の、その目は私を見つめ返すことさえなく、私は知っている、彼女は店に戻るだろう。事実、そうだった、彼女は、そして、「もう、お金がもらえません」彼女が言った、その彼女はまた、今までのように、他の客に抱かれもし、「日本にも行けません」彼女は言い、彼女は笹村を愛していた。純粋に。何のためでもなく。彼がそこにいて、「私はお金がほしいのに」彼女に焦がれてさえいれば、「欲しくて仕方ないのに」それでよかったには違いない。彼女は結婚し、台湾で暮らす。やがて、必ずしも豊かではない台湾人と。私は知っている、彼女は涙さえ流し得ず、私にかける言葉を見つける隙さえ与えることなく、私は部屋を出るが、Lệ Hằngはすでに立ち去った後だった。悪魔のような君は。部屋の中で、一人であのソファーに座り続けたままま、少女はしずかに泣いていて、どうしたの?私の音声に、彼女は振り向き見るが、彼は既に、立ち去った。「どうしたの?」私は言い、どうしてこんなにも涙で赤らんだ目で、涙は彼女は、穢らしいのだろう?見つめられるままに例え、それがđò sĩ ta nò… 微かに愛するものの震えを持った唇がそれだったとしてもその音声を発し、私は聞く、Thànhは、あのとき、不意に父親の行為を模倣してしまったに過ぎない。彼女の身体に対して、その、美しい褐色の、このかぼそい身体は朝の光にゆっくりと照らし出されて、私は、彼女の、đõ ì tà nó …その、 Thành は独りで彼の男性の目覚めるままに、病んだ惨めな生き物たち。発情した性欲にまかせて抱いたのだった、彼女を、胸焼けするような性欲の波に飲まれ、彼は知っていた、đo sí tà nõ …私は聞く、彼女の音声は、そしてThành は目の前で毎晩のように繰り返された、泥酔したわけではないが、軽く酒の匂いさえさせることもある父の長い行為への嫌悪感に対する代替として。その存在を自分の匂いで消去しようとする犬のように。彼はđò sĩ ta nhỏ…知っていた、私は、父と同じ行為をすることによって、彼女の音声を聞きながら、Thànhは自分には与えられなかったこの美しい女性的な身体に対する、ではなくて、それを当然のものとして所有している彼女自身への嫉妬と、このような形の身体への果たされえない自己所有欲の代替として、彼女を抱いたのだった、彼は知っていた、自分に永遠に与えられることのないこの形態こそが、私は、彼の本当のものなのだと彼は意識して、聞く。その意識の中で、彼女の息遣いを、彼が少年であったことなど一度もなかった。あらゆる少女たちが憧憬と幼い発情のままに見つめ、見つめ返せばいよいよ開かれる瞳孔か、わざと逸らされるその視線で、どうにかして彼を絡娶ろうとする知ってる?無言のままのねぇ、息遣いが、あなたは、彼は美しい。あらゆる少女たちに愛されていることを知っていた。彼は美しい。美しいものが情欲にまみれた発情した視線で汚されない瞬間はなく、そして、それらの視線はついに何ものにも触れえずに、彼を汚し得はしなかった。何ものによっても傷付けられえない彼は、私は知っている、彼女たちは、そして、私が朝、目を覚ましたときThànhは私を、彼は窓際に立ったまま私を見つめていて、姉がLệ Hằngの取り巻きの誰かの家の命日のパーティの手伝いに行って仕舞ったのを私は知っていた。彼女は忙しい。あなたの友人は、今、忙しい。今日は、そして、彼はややあって、不意に私の傍らに腰掛けると、一切手を触れないままに、私の頬に口付ければ、最早留めようもなく、彼は私の唇を、むさぼるように、私は同じように、彼の、そして、私は彼を愛してさえいるのを知っていた。彼は知っていた、自分の身体と性別が必ずしも一致してはいないことは知っていて、彼の身体は彼が本来愛するべき身体をとめどなく形成していっていた。すでに。今、彼は掠娶らなければならない。本来自分が愛するべき身体を?少なくとも、彼の愛する姉から、その恋人を。本来、彼は、彼の恋人であらねばならないから。彼が彼を愛している限りにおいて。彼にはついに、自分が何を望んでいるのか識別できない。私も。私たちは、彼が私を愛していることだけを知っている。すべての認識は、結局のところ、愚劣なこじつけか逃避にすぎなかった。私の指先が彼の少年くささの抜けようもない身体を撫ぜるのを、彼の身体は気付く。目を閉じることさえなく、彼はその身体にしがみつくように、そして、彼は多くのものを奪った。あの高山の町から、そのふもとに広がる平地の先の南部の町にたどり着くまでに、彼は多くの細かい金銭を奪い、何度も掠め盗り、彼らは彼らを拘束する住み慣れた家族の家から逃走した。あの日、祖母の命日のパーティの準備のために明日朝早く起きることを命じて、姉がそれを拒否したときに、母親が姉をひっぱたいた仕返しに、姉が母を殴りつけたときに、彼はここにいることはできなくなったと知った。危うく成り立った全ての調和を彼女は壊して仕舞った。あの後で姉は泣きじゃくって、彼は追い出されるように家から逃走した、姉を連れて。次の日の朝、夜の暗さが急激に崩壊していく夜明けの五時半に。姉は何をも理解してはいなかった、彼女はその逃走を拒否しようとしたのだから。彼は彼女を奪い去るように、あの朝、高山の霧に包まれた白ずんだ、濃く白濁した淡い朝の色彩の中で、細やかな驟雨の中に、姉はLệ Hằngに言ったものだった、あんな人たちとは一緒には生きていけないから逃げ出したのだと、サイゴンのはずれの雑貨屋で、弟が拘束されかかったのを彼に見留められたときに。何度かの成功のあとでついに失敗した盗難。少女は知っていた、Lệ Hằng、この美しい男は自分たちを保護するには違いない。羽交い絞めにされて、店の男に殴打される弟に投げかけられた、この美しい男の眼差し。そして、彼らは、あきらかにさまざまな彼ら以外のものの被害者だった。父親による、母親による、父親に、それをやらしめたさまざまなものによる、母親にそうさせたさまざまな、姉にそうさせたさまざまな、彼は被害者に違いなかった。それをThànhは知っていた。彼は彼自身に他ならないが、彼は彼自身についに触れることさえできない。とてつもない隔たりの中で。べったりと一致する。彼は目の前の日本から来た男を愛していたが、彼と言葉を交わすことさえできない。見つめあい、言葉が崩壊した中で魂に触れる。私は彼を愛していたことを、すでに、私は知っていた。彼と同じように。いかなる相等性も与えられないまま、彼は、同じカテゴリーのの身体が、私は、にもかかわらずどうしようもなくぎこちない交配を重ねた先に、彼自身が体内へ射精されたのを知覚し、私が、引き抜かれた肛門からそれが垂れ流れるのを感じたときに、Thànhは、彼が初めての男だったことに気付いた。私が。姉の身体は、絡みつくように彼の身体を抱きしめたものだった、彼女が父にそうしていたのと同じように。まるでひとつに溶け合って仕舞おうとするかのような。修正不能なまでにもつれきって仕舞おうとするかのような。むさぼるように、父の唇に舌を合わせて、あの息遣いを、Thànhは思い出すこともなく彼を今、見つめ乍ら、自分は幸せにはなれないだろうと思った、決して、充足した幸福感の中で、姉の、母親に対する触れたら指を切り裂いてしまいそうな憎悪と、敵意のその眼差しと、すれ違えば砕け散ってしまいそうな、彼女は父を憎んでいた。そして、より多く母を。あの女こそが、あの男にそれらをさせた張本人に過ぎなかった。少なくとも、彼女の認識においては。どうしようもなく。私が私であったことなど一度もなかった、生まれさせられる前から既に。私は私を経験した。笹村が私を待っているはずだった。私が私であったことなど、一度も、彼が彼であったことなど、なかった、一度も、彼女が彼女であったことなど、なかった、一度も、生まれさせられたときから、なかった、一度も、すでに、営業戦略会議だ、と笹村は言ったが、現地のスタッフを、彼らには聞き取れない早口な日本語でどやしつけるだけの余戯にすぎないことは誰もがすでに気付いている。まだ、朝は浅い。私は身を起こして、Thànhは私から目を逸らして、一瞬、彼自身の存在そのものを恥じているような媚を見せたが、何日か前、初めて彼の姉を抱いた日の朝に、Cảnhの家のはす向かいでコーヒーを飲んでいた私に後ろから近寄って、彼は私に手を触れ、こぼれるように微笑んだが、姉はどこかの家の家事の手伝いに追われて、こんなところに来る暇はない。当然のように消失して仕舞った、夜の獣じみた少年の、欲望にまみれたたたずまいの影を探そうにも、最早どこにも存在しないことだけを、私は目の前に確認しながら、Cảnhとその友人が話しかける言葉には一切答えようともしない不埒さのままで、座り込んだ彼はスマホをいじって遊び続ける。虎と言うよりは猿に近い顔立ちのベトナム現産の猫の雑種が、床の上に走り、立ち止まって、向こうに耳を澄ます。振り向き見るが、猫がこちらを見ていないことはすぐに知れる。私の背後の遠い向こう事象を、耳の中に、猫は見つめ、猫は知覚する。笹村は言った。ホテルの彼の部屋の中で、彼はサイゴンと言う名前のビールの缶を開け、私に勧めた後で、「どう?ベトナムは。慣れた?」まだ、ここに来て一週間と少ししか経っていなかった。ええ、いくらかは。私は答え、笹村はLanの頭をあやすように撫ぜるが、ソファーの彼の傍らに座ったLanは笹村の所有権を主張するようにしなだれかかり、私を媚びた眼差しの中に捉え続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本に、帰りたい?」笹村の質問に答えあぐねて、笹村さんはどうですか?「そうだよね」私の質問には答えず相槌を打ち、「やっぱり、帰りたいよね。日本が一番いいもんね。寂しいでしょう?」テーブルの上には韓国のスナック菓子が広げられていて、「ランちゃんはベトナムがいいって言うの。日本には行きたくないって」彼の口は、ベトナムの食べ物は一切受け付けない。同じように、Lanは加熱食材のスシさえも受け付けない。「不思議だよね」不意に、私は、笹村さんは、何か、宗教があるんですか?Lanはややあって、思い出したように私を見たが、一瞬、笑い声を立てそうになるのを押し殺して、例えば、キリスト教とか、私が言うのを聞く。Lanは、一切自分にかかわりのない会話を聞くように聞いた。それが、偽った表情なのか、素直な表情なのかは私にはわからなかった。「ないよ。ないけど、」とたんに、彼がカラオケ屋でするような下卑た表情を作って、「どう思う?まじめな話だよ。不思議じゃない?例えば、キリスト教徒だったとするじゃない、あなたが。で、人間に殺されちゃった神様の子どもの世界の中で生きてるんだよ。どういうことなの?神様は自分の子どもを殺しちゃったんだよ。何のために?人間を救うために?でも、この世界は人間の世界じゃないんだよ。神様の、神様のための世界なんだよ。一神教って、そういうことでしょ。神様が人間なんかのために自分の子どもを殺しちゃうのは、何かの間違いなんだよ。とんでもないことだよ。神様がそのために自分を殺さなきゃいけないほど人間って言うのが重要なのなら、その神様は神様なんかじゃないんだよ。そのとき、絶対的な価値は人間のほうにあるんだから。むしろ、その瞬間に、神様自身が神格を放棄して、人間のほうに与えちゃったってことだよ。その瞬間に神様は神様をやめちゃったってことなんだよ。例えば、すっごく大好きな女の子を抱きしめたとするじゃない。たまたま、頚動脈を押さえちゃって、その子、死んじゃったとするよね。君の腕の中で。なんか、そんな感じ。なんか、そんな感じの過ちだとしか思えない。むごい」あなたは、私は言った「何か、そういう過ちをしたことがあるんですか?」笹村は嘲笑うような表情のまま、「キリスト教に興味はない。キリスト教を信じることに興味がある。キリスト教を信じないわけじゃない。キリスト教が信じられていること自体が信じられない。」彼は、そのまま、一瞬黙り込んだが、そうじゃなくて、「何か、」私は、そういう「あなたは過ちをおかしたことがあるんですか?そういう」過ちを?ついに、問いただすように、私は言った。「罪を犯したことがありますか?」笹村はビールを煽るわけでもなく、酔いつぶれたように息を吐く。匂いさえ感じられる気がするほどに。「ないよ。」笹村は当然のように言った。なぜ叱られているのか理解できなで不貞腐れた子どものように、「中国にいたとき、カノジョがいたの。チャンさんっていう子。チャンちゃんって呼んでたの。かわいいでしょ。チャンちゃん、ね。大してかわいくないけど、やっぱり、かわいい子でさ。彼女、私と付き合う条件があるって言うの。何だと思う?煙草、吸わないこと。僕、ヘビースモーカーじゃん。私より先に死んでほしくないから、絶対、煙草すっちゃ駄目って。僕、彼女、好きだから、言ったの。いいよって。約束ねって。でもさあ、ねぇ。ずっと、もう、秘密ね。ずっと。チャンちゃんの前じゃ吸わない。悲しむから。ヒミツ。絶対。彼女の誕生日の前日。ホテルの部屋にいたの。そこ、バルコニー広くて。チャンちゃん、バルコニーにいたの。僕たち、そこから外、見るの、好きだったから。彼女が、そこから外、見るのが好きだったんじゃないの。僕が、好きなの。だから、チャンちゃん、僕の真似、してるの。どう?わかる?彼女、かわいかったから、後ろから抱きしめようと思ったの。ギュって。一瞬、僕、ポケットから煙草出したの。いつもの癖で。火、つけたの、ライターで。音、するじゃん。ジュって。」ジュッと、その、ジュッと彼の口が発音した瞬間に、笹村はすべてを思い出したように小さくのけぞって、瞬いた。「彼女、振り向いたの。僕、煙草吸って、僕、フーって。わかる?チャンちゃん、びっくりしすぎて、無表情。どうしたと思う?チャンちゃん、飛び降りちゃった。あっという間に。手すり飛び越えて、飛び降りたの。飛び降りた後で、悲鳴、たった。そりゃあさ、たったよ。あー!。あー!。下のほうで。見えなくなってから。音、したの。すぐ。どん、って。」笹村は言い、サイゴンと言う名の現地の煙草に火をつけ、ややあって、私を見た。しずかに、私の心の中まで見透かしたような、穏やかな目で。「で、どうなったんですか?」私の質問に、「もちろん、死にましたよ。十階でしたからね。彼女も、この子と同じような職種の子だったから。特に警察も来なかったよ。どこの部屋の女かもわからないんだから。」彼の煙草の煙は空中に白く舞い、「どうしました?あなたは。」彼は不意に、「泣きましたよ。悲しくて。今でも」笹村は言葉を切った。沈黙した。ややあって、不意に、笹村は泣き崩れた。どうしようもなく嗚咽を漏らして、指に挟まれたままの彼の煙草の煙が空間の中に、照明に照らされて白く細かくきらめくのを見るが、それはゆっくりと拡散しながら消滅し、Lanは何も言わずに笹村の背中を撫ぜ、介抱する。今、彼が死んで仕舞うかのようなしずかな切迫感で。目を逸らしながら私は、やがて、泣き止んだ笹村が言った。鼻をすすって、「わかりますか?」私は、「わかりますよ」たぶん、サイゴンに雪がふったら、わかると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…いいね。」笹村の顔が「そのセリフ。いいね。」笑みに崩れ、彼は声を立てて笑い乍ら、「今度、俺も使うよ。従業員に。サイゴンに雪が降ったら給料上げてやるって。」物音で目を覚ますと、ドアの向こうで物音が立っていて、それは少女が私のかばんを広げて、私のわずかしかない衣類を整理していたのだが、寝起きの私はまどろんだままホテルの、ベッドルームの、カーテン越しの朝の陽光に目をやり、「俺にはね、」笹村は言った、「キリスト教が、じゃないの。それを、信仰するっていうこと。それが、わかんないの。」私はもう一度寝ようとして目を閉じるが、「イスラム教なんか、わかりやすいよ。ふつうの。普通の宗教。宗教としては、わかりやすい。じゃない?神様えらい、それだけ。」私は笹村の、酔いつぶれたような顔を見て、それは振りをしているだけだ。起きあがるには早すぎるが、もう一度寝るには時間が深すぎるには違いなく、時間はもうほとんど残されてはいない。「信じるって何?けど、俺たちも、無茶なことを普通に信じてるよね、例えば、」諦めて向こうの狭いリビングに行くと、「潔癖症患者が手を触れることができない日常的なものに日常的に適当に触れてるでしょ。バクテリアや細菌が跋扈してる、さ。でも、」少女は私のかばんをひっくり返して、私の衣類をたたみ、厭きもせず「そっちの、病気な奴らのほうが論理的なわけでしょ。合理的。すっごく、」小物類はテーブルの上に綺麗に整理されていたが、その、それらがどのような意図で分類されたのか私には一切理解不能な整理法の、「それって、俺たちのほうが信じてるってことでしょ。それじゃなきゃ、頭おかしいんだよ。じゃない?」それとこれとは、話が別なんじゃないですか?話を割る私を、笹村は不意につまらなそうな顔をして、Lanは私から目を逸らした。それが私の途方もない過失であるかのように、笹村は前のめりになって、私に言った。耳もとに近付けられた口で、「違う。全然別のもの。違うんだよ。」私は、しゃくりあげながら泣いている少女の前にひざまづいて、「どうしても、俺には理解できないわけ。キリスト教、信じてるってことが。キリスト教、信じるってことだけは。おれ自身、とんでもない迷信、信じてる病気じゃない奴らのほうなのに。俺、理解できないの。」少女が、なぜ泣いているのかは知っていた。あなたは、キリスト教徒なんですね、という私に、ソファーの身をうずめるようにもたれて、Thànhのせいのはずがない。「やっと気付いた?今頃?」笹村が私以外のすべてのものを見下すような笑い声を立てるのを、「誰にも信じろと言われたわけでもないのに、ね?」その、私に対してだけ向けられた、「頭、おかしいでしょ?僕。」敵意を含んだ親密な眼差しを、Thànhは朝早くに出て行ったの違いない。まだ暗いうちに。あるいは、朝と呼ばれ得る時間の前に。彼は彼女を泣かせることなどできない。今まで、一度たりとも、彼は彼女を泣かし得たことなどないのだった。私は彼女に言葉をかけようとし、触れれば、泣き崩れてしまうかも知れない予感が、私の、彼女にさし伸ばした指先を、私と彼女の間を隔てた空間の中に静止させるが、私が泣き崩れてしまうのか、彼女が泣き崩れてしまうのか、私にはわからない。私は知っていた、彼女は昨日から時に目を覚ましながら泣き続けていたに違いなかった。間歇的に。静止した指先の、静止したその理由を私がまだ知らないことに気付く。時に泣き止んだときに眠りに落ちながら。彼女は。朝の光は指先を、その向こうの至近距離に、彼女の褐色の首筋から上をやわらかく照らし出すが、ショートパンツとTシャツの下で、身体は彼女が手を動かすたびに、鮮やかな褐色の皮膚の下の筋肉と骨格の動きを、鮮明に私の視界に与えて、やわらかい影と光の交歓が、その皮膚の上を這う。彼女が私のシャツを引っ掛けて破いてしまった瞬間に、私は声を立てながら彼女を殴打したのだった。なぜ?、短い怒号がたって、どうして、何の怒りさえも感じていないのに?わたしをその首筋が抱きしめたの?しゃくりあげるたびに痙攣的にひきつって、そしてふたたび、影と光を何度も一瞬だけ乱し、記憶に窓の外で、強姦される。庭の誰かの甲高い話し声と、いつもふたたび、その向こうの大通りの何度目かに。バイクの連なる低い騒音が、どうして?私が母親を殺して仕舞ったとき、その後で、私は帰ってきた父に、私は父を手招きした。私は十四歳だった。十二時をまわる寸前に、父が玄関のドアを開けて、返って来たのは音で知れた。私は私の部屋の中にいた。夜は遅かったが、私は寝られず、私は眠れなかった。いつも、こんな早い時間に寝たことなどなかったことに、私は気付いた。ドアを開け、台所に下りて、私は水を飲んでいる父を手招きした。何と言うべきかわからないまま、言葉さえかけずに。私は何も言うべきを言葉を見つけられないまま、やがて父は導かれた私のその部屋の中で彼の妻の死んでしまって数時間経った身体を見つけるが、そのとき、彼は一瞬の沈黙の後、不意に、息を吐いて、ひざまづくように崩れ落ち、しゃくりあげるようにして泣き始めるのが私には、どうしたんだ、と帰って来た父は言った。私は彼から目を逸らし、何も答えないままに部屋に帰って行く。彼が私に従って来るのは知っている、背後の気配で、それを、私が閉められてはいないドアを押すと、当たり前にドアは開いて、私は息を飲む。母親の死体を眼にしたときに。私は知っていた。彼女の身体は、その行為のさなかの、身包み剥ぎ取った裸体のままベッドの上に横たわっていて、閉められた首の赤らみさえ既に消えうせている。何時間か前の、あの身体の極端な緊張は最早ない。私が殺して仕舞った彼女のそれを見つけたときに、私は息を飲み、立ち尽くすが、彼は私を押しのけるように、部屋に侵入した彼は、一瞬沈黙し、ややあって、くず折れるようにひざまづいていた。私は彼がしゃくりあげながら泣き始めるのを見る、その背中の側を、やがて泣きやんだ彼は、振り向きもせずに、お前が?と言うのだったが、涙を拭いながら、彼は泣きやまない。ずっと、このまま朝になるまで泣き続けさえしそうな気がする。朝までには長い。気が遠くなりそうなほどに長い。彼は、今、彼がすべてをなくしてしまったことを知った。すべて。誰の?なんの?どんな?すべてを。彼女の身体に、何の嫌悪感もなかった。おそらくは。私は。当然のように、彼女はそうしたのだから。私を手放すことさえできず、赤ん坊を腕に抱き続けるそのままに、彼女は私を抱いて眠り続け、抱きしめ続けていたのだから。小さな頃からずっと。私はそれに対して何を言うこともできない。むしろ彼女が私を手放したら、私は泣き叫んだかも知れない。傷付いて。ぼろぼろに。私は彼女を愛していた。彼女は私に殺された。私は、私が特殊であることは知っていた。あらゆるすべてが、あまりにも特殊で、最早何ものにも還元できないことをは、すでに君は知っていた。あの褐色の少女は。君は君でしかあり得ず、絶望的なまでに、君は君であったことさえない、無慈悲なほどに、私は特殊でさえあり得ない。それは君が生まれた瞬間に超えられて仕舞っていた。特異であることが個体性そのものの存在条件にすぎないとき、当然の特異性に特異性など存在しはしない。あなたにはわかるか?泣きやんだ父に、わかりますか?私は言おうとした、わかる?なぜ、俺がこんなことをしたのか、あなたには、お前か?彼はすでに知っているはずの質問を私に投げかけたが、「お前が?」俺にはわからない。俺には、そして私はそれには何も答えないまま、いつかこうなるとは思っていたと父は思っているはずだった。いつか、何かが破綻すると。誰のせいで?「いつか」私のせいで?「こんな風になるって」あなたのせいで?「思ってたよ。母さんとも」私たちは知っていた。「時々話していた。」私の上でそれをする彼女を抱きしめた私の腕の、「このままじゃいけないって」その指先が、彼女の首筋に触れたときに、私は彼女を愛していたわけでもなければ、「ごめんな」そこに何の欲望があったわけでもない。「何もできなかったな、」憎しみさえも。「お父さん、何も」覆いかぶさった身体は、どうして?下に敷いた身体を抱きしめるようになっている。秘密にされたものはそれが秘密にされている限りすべてを秘密にして仕舞う。それに腕を廻しさえすれば、それは、それを抱きしめたことを意味する。誰ににも隠された暴力は暴力の事実を隠し通し、逃げ場はみずから消滅させられる。汗ばんだその身体の首筋に触れたとき、私はその首の形態を、なだらかな曲線をなぞるように、絞め付けられた指先の、その手のひらの下で彼女が窒息を起こしているのは知っていた。大人にならなければならない。手のひらの、指先の力が緩められない限り、それが何を意味し、どうなるのかも知っていた。大人になって、と。もう少し、と私は思い、もう少し絞め続けていても彼女は死なないですむのか、もう少しで彼女を死なしめ得るのか。それは、いずれにせよ、もう少しだった。大人になって、あなたを奪ってやらなければならない。

あなたの悲しみを癒し、

あなたにすべてをささげるために。

あなたが、あるいは望んだとおりに。行為のさなかに、人間の身体の上で窒息していく身体が、ああまでも、屠殺された醜悪さで、崩壊していくことを初めて知った。あなたに、すべてをあげよう。人体の破綻に、今、愛することが、まみれている気がしたし、無条件に捧げ尽くす以外に  事実、その表現形式を持ち得ないから。そうだった。彼女が既に死んだのに気付いたとき、それは彼女が死んだ瞬間だった。やり過ごして仕舞いそうな一瞬に、彼女の身体は死んで仕舞っていて、さようなら。それは目の醒めるような瞬間だったが、わたしは、すでに、わたしに、なる。過ぎ去って仕舞っていた。彼が、刑事処理をしないことは気付いていた。彼が、そして、事後処理をする彼にすべてを任せたまま、立ち尽くす。居場所はなく、私に存在価値などない。彼女の死体は彼らの部屋のベッドに移されていた。彼女は、私が仕事から帰ったときには、ベッドの上で、独りで死んでいたんです。彼は、自分自身の体液で汚れた彼女の身体を洗浄してやらなければならなかった。彼の母と、彼の離婚して帰ってきた妹と、その二人の子どもたちが寝ている間に。虚脱した身体を肩に無理やり担いだ彼は、やがて部屋を出て行くが、誰もが知っている。そのとき、告白されない秘密は私はベッドの上の気付かれなかったに等しい。あと始末をわたしは、しなければならない。口を閉ざした限り、名前は?何も気付かなかった。私は言った、What’s your name ?...私は、失礼ですが、お名前は?彼女の、em ten gi ?...そしてえむてんじー彼女は耳を澄まし、その耳から入ってくる音声に、わたしは耐えられないように、時にそのやわらかな、褐色の肌に指先をのばし、教えて。触れようとするのだが、anh nói gì ? …きみのすべてを。彼女は私の上に、捧げて。四つんばいでまたがったまま、きみのすべてを。私を見つめながら、隠し通した記憶のすべてをさえ、微笑みの中で、含めて。その髪の毛が首筋から胸に垂れ落ちて、私はくすぐられるにまかせる。微笑みの中で、Eng tên gĩ ? …あのとき、彼女たちの粗末な部屋の中で彼女を待ちながら、私が眠ってしまったのを、anh sao nói gì vậy ?私を探し回っていたに違いない彼女は、何してるの?息を荒く切らせながら私をゆすって起こし、微笑さえして、ねぇ、今、こんなところで  em tenh gì ?... 既に、夜の浅い時間の暗さの中に、通風孔からの外部の光だけが薄く壁に当たって、そこ以外には、確かに光の入ってくる余地もない。anh nói gì ?... ベッドの上に身を横たえまま、その肌に伸ばされる私の指は、em tên gí ?... 欲望に飢えるわけでもなく、求めるということは、sao anh nói gì vậy ? 何なのか?何?ねぇ、何?何かを求めているわけでもないのに?どうしたの?何をも、em ten gí …anh nói gì ? 求め得もしないのに?彼女は覗き込むようにして、私の顔にみずから唇を近づけさえしながらeng tẽn gì ?...私はその指先が彼女の頬に触れる直前の一瞬に、 anh sao nói gì vây ? いつ、終わるのだろう、と私は不意に思いさえする。どうしたの?これらのことが、あらゆるすべてが、いつ、それを、ねぇ、すべての、em tên gì ?...こんなこと、

― em tên gì ?...名前、教えて。あなたを愛しています。望みさえしていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― Ly, …li ly. 彼女はあなただけを。言った。リリー。私はもはや、永遠に。彼女が、リリーという名前だということを知った。Lily、ゆりの花。褐色の、白百合。 tên anh là gì ?彼女は私の唇のすれすれで、あなたの名前は?彼女はそう言った。潤。私の答えを、その同じ距離の中で彼女は、そして彼女は私の答えを聞いた。Dương …そう。じゆん彼女の唇はつぶやき、私は知っていた、そう彼女は私の名前を知った。褐色の白百合。Li Ly、そう、私は、そっか、その名前を呟き、その唇が、Lily、そう動くのを彼女は見つめるが、かすかに持ち上げられた私の指先が、その、私の指先が彼女の頬から遠ざかるのを拒否するように顔を寄せ、私の指先の、私は指差した。私は彼女が彼らの部屋の隅に作っていた、小さな仏壇の小さな観音像の傍らの、百合の花を指差し、私は言った、Lily、華奢な、白い花瓶の中の、そのLilyを、リリーは首を微かに振って、指先に頬を触れさせようとしながら、không, 指先は彼女の髪がもたれかかるのにまかされて、không phải là hoa huệ 彼女の伸ばした指先は水周りの先に視線を投げさせながら、違うわよ、小さく声を立てて笑う彼女の名前がベトナム語で、その、水周りのあたりの何かを意味することだけ、私は理解した。Li Ly にとって、その名前は絶対にLilyをは意味しない。それは彼女の知りもしない言葉に過ぎず、それ以前に、li li であって、LilyLi-ではあり得ず、li ly lilyに等しいことなどあり得ない。なぜなら、微妙な発音の違いが、その言語では「あ」と「ん」の違いほどの違いを意味するから。ほとんどすべての、ベトナム人以外が想起するに違いない連想は、この褐色の白百合にとっては、あるいは、彼女の言語にとっては、不可能な連想以外の何ものでもない。その名前は、あるいはその名前の連想させずにはおかないその純白の花は、その持ち主に他ならない彼女に、むしろ永遠に触れられることのないままに、朽ちて行くのだろうか?雨の中でも、色あせさえしないその花の、土砂降りの雨がいつの間にか降り出していたのは知っていた。その騒音が空間を静かに満たし、私は雨の匂いさえ思い出す。心の中にだけ、あの、何ものにも例え得ないその匂いを、彼女は私を見つめ続け、微笑んだまま、Thànhはまだ帰ってこない。もう帰っては来ないに違いない。傷ついたThànhは。彼は、君が殺してしまったようなものだ、と私は思う、褐色の白百合、君自身が、リリー、と私は思い、彼女に言いかけるものの、言葉を頭の中になぜるが、手をのばされたまま何ものにも触れられ得ないそれは、私が伝えるべき言葉を、語彙の記憶のひとかけらすら、それらはもとから存在さえしていなかったことに気付く。私の中の、どこにさえも。君が、もう、殺してしまったのと変わりはしない、私は知っている。褐色の百合、君の、その弟は、そして私は、目を閉じたままに、Thànhはベッドの上に横たわらせた私の裸体を一瞥した後、彼は唇をむさぼりながら、彼の指先が私のそれに触れるのを感じる。彼はそれを指先になぞりながら、私はその触感を感じていた。彼はそれに顔を近づけ、唇を寄せて、接近した唇は、やがて唇がそれに触れる。かすかに。やがて、彼は私の体の上に座り込むようにして、時にその姉が自分の上でそうしたように、腰を動かす。彼は彼のそこで、彼の愛する彼のそれがくねっているのを知っている。彼が動くたびに、それは、彼の体内に鈍く動く。ベトナムに来る前に、実家に、三年ぶりで帰ったときに、久しぶりに見る母は、枯れてはいても、枯れつつありながら枯れきることはない、けなげでさえある不思議な瑞々しいさをしずかに湛えていた。それが、身体の大半を水分で満たした有機体の限界なのかも知れない。死体でさえ、崩壊し得ない潤いを湛えているものなのだから。それは父も同じことだった。半身不随で、不自由をしながら、彼の身体はあまりにも見事に、水分の活気に溢れていた。どうしようもなく。お前自身もそうには違いない、お前も、と、私は、あの、Lệ Hằngでさえも。すべての有機体が、今、父は時に思い出したように私を讃えてみせながら、私の渡越を祝福するのだが、それが祝福に値するものではないことは、父にも、母にもまだ言ってはいない。二人は、嘗ての、あの荒れた姿がすべて嘘であったかのように、平穏で、お互いのしずかな親密さの中に生息している。それは、もう、十年以上変わってはいない。母は私に微笑みかけながら、私の外国での生活を案じるが、女には気をつけろと、時に差別的な言葉すら使用する父をたしなめさえして、そこに、私が入り得る余地はない。彼らの関係は彼らだけのものだ。それを、私が求めることなどできない。私が大学を出る頃、父の会社が倒産して、文字通り何ものをも持たない人間になってから、彼らはやがて、そんな風にして生きてきたのだった。ほとんど実家をかえり見ない一人息子を、それでも、その、たまの帰省を待ち乍ら。気をつけて、母は言い、あんたも、はやく、お嫁くらいもらったらいい、そう言い、彼女の手のひらが私の頬に触れたその一瞬の接触が、未成年の私に彼女がしたことを思い出させないわけでもないが、それらはすべて過ぎ去っていた。私に殺されたあとも、彼女は私を抱き続け、父との関係の破綻は留めようもなく、東京の大学に行くまで、ずっと。どうしようもなく。為すすべもなく。Lì Ly は、その唇のすれすれの、Lilyそう彼女の名前を呼ぶ私に言う、em không  息がかかるままに、 phải là 私はリリーlily, em じゃありませんLì Lyです。Lì Ly 私は呟き、Liliy、褐色の白百合は微笑んだまま、いつ終わるのか?すべては。終わり得はしないままに、いつ終わったのか?いつ終わるとも知れないThànhのその行為に、やがて私が彼の中に射精したとき、ややあって、そのまま射精してしまった彼のそれが私の腹部を汚していた。小さな声をさえたてて。思い出したように、Li Lyは言った、初めて知った彼女の名前を何回か、唇に発音して、微笑みかける私に、彼女は微笑みながら、Bẹ bì彼女は何度か発音を試し、試されるまでもなく、私はすぐに、知っていた。彼女は妊娠を告げたに違いなかった。まだ、一週間と少ししかたってはいなかった。彼女を初めて見かけたときからしてさえも。彼女は、まるで、それが私たちのBabyであるかのように、微笑みながら、何度かささやき、触れなさい。呟き、私はわたしのすべてに。微笑むしかない。触れなさい。希薄な微笑の中で、あなたのすべてに。私は、結局はわたしは何も、すべてを求めない。受け入れていたに違いない、最早。彼女のすべてを、あなたを、射精したあと、愛したから。一度、腰を痙攣的にくねらせたが、大きく息をついて、Thànhは一気に血の気が引いた上半身の、希薄な軽いめまいの中に、人心地付いた彼は私を覗き込む。身をかがめて。彼の体臭が、その髪の毛の匂いとともに、遅れて、射精されたそれの匂いの存在に気付く。私の胸の皮膚の上の、彼の。Thànhは、姉が帰って来たのにも気付かない。ドアに背を持たれた彼女は、何を叫ぶわけでもなく、何を取り乱すわけでもなく、Thànhは私に軽く頬をたたかれて彼女を振り向き見るが、彼は、私にそうされる前にすでに気が付いていたに違いない。Lilyは、こうなる他ないということをすでに気付いていたように、私は既視感に戸惑う。Thànhは身を起こし、ベッドの脇に立ち上がる。弟はLyよりも少しだけ大きい。骨格も、身長も。弟は、彼女に歩み寄って、Lyに無言のまま手を触れようとした瞬間に、Lilyは彼をひっぱたいた。Đi ! 口の中だけで叫ばれた、出て行け!ささやくような叫び声に、Thànhは我に帰ったように、私を一瞥し、それは、切実な、あまりにも切実な思いを伝えた。引き裂かれてしまいそうな、私は知った。彼は、今、愛していたし、そうだった、ずっと前から。私を。姉を。彼は愛していた。それらが何を意味するのか、彼はわからない。理解する対象でさえないのかも知れない。Lilyは彼の盗難を許さない。彼が、彼の前で女であることはLilyに許されてはいない。彼は惨めに、わたしは、うなだれて、いつか、服を着ながら、自分自身を受け入れた。こんなに惨めな姿を、いつか、かつて、受け入れる。彼が誰にも見せたことは 色彩のないなかった。彼は雨に打たれて。ホテルの部屋をいつ、出て行く。受け入れたのだろう?私はそれを目で追う。Lyは 雨の中の、私を抱きしめ、降りしきるその、私が 轟音の中で。不意の暴力の被害者でもあるかのように、私の体をなぜ、拭き、介抱する。侘びの言葉らしい言葉をさえ、私にかけながら、いっぱいに涙ぐみ、その涙が耐えられずに零れ落ちた瞬間に、


破(phá)

 

破(phá

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降る寸前の白さが純粋に支配した空があって、見上げれば極端な近さで雲がすぐそこにあるが、それが高山の都市固有の、地球上において特殊な風景だということを、Thànhはまだ知らない。路面のコンクリートの上をあざやかな蛇がうねりながら這っていくのを一瞥し、学校に行かなければならないが、行く気にはなれない。そこで、彼は少女たちのさまざまな目線を浴びなければならない。彼は美しい。それを、彼自身だってよく知っているし、誰もがそれを知っている。同じ意図を持った、さまざまな固有のたたずまいと、さまざまなそれ自身の必然性を持った視線に絡娶られるのを、最早、彼は好むことができない。朝の早い時間に、多くの子どもたちが親のバイクの後ろに乗って学校に連れて行かれるのだが、そのまばらな人の群れを目にしながら、この話し声とバイクの無数の騒音の中に、人間種の繁殖力の強さをはっきりと意識する。自分たちの。君は彼らとは違って、自分で、自転車をこいで学校まで行くのだが、すぐに道を逸れて、松の木の茂った道に入って、低い丘の上に行ってみる。針葉樹の葉の群れが緑色に煙る。その辺りに行けば誰も来なくなる。君は知っている。この美しい町にはもういられない。姉はいつか彼らのどちらかか、どちらをもかを殺してしまうかも知れない。姉がそうしないなら、姉がそうされるに違いない、どちらかか、どちらもかに、張り詰めた糸がずっと震えながら張り詰めていて、はじかれるたびに音を立てるが、その音は空間を共鳴させ続け、この響きもろとも、崩れ落ちてしまうに違いない。姉は、あまりにも衝動的で、暴力的にすぎた。半分しか血のつながらない姉は。君は思う、私は逃げ出さなければならないと、君はそれを知っている、私は、もう忘れてしまえ、という父から目を背けながら、あの十四歳のとき、父は言った。次の日の朝、潤一と言う名の、彼は、忘れたほうがいい。君のためにならない。とはいえ、私は知っていた。私の手は血で汚れている。誰の?母の、そして、父の。もちろん、彼女は一切血を体外にもらすことなく死んでしまったのだから、私は彼女の血など一切浴びもしないどころか、触れさえもしなかった。彼女の体内から生れ落ちたとき以外には。それは、信じられないことのように思えた。肌に触れる実感として。彼女を殺して仕舞ったのに、私はその血に触れることさえなかった。あれほど、放出されるその体液に触れたというのに。かつて、その体内の中でも、血どころか、つながってすべてを共有してさえいたと言うのに?あくまでも別々の生命体でありながら。崩れ落ちる前に、と君は思う、逃げ出さなければならない、何のために、守るために、何を?高山の霧雨がいつものように、誰を?いつの間にか、どうして?降っていて、霧なのか雨なのか判断さえ付かないままに、母は彼に同調して言った、彼女の夫に、その通りだと、潤一という名のその男は、お前は、ちょっと、悩んでいただけだから、何も気にすることはないと。いつも、彼女はしずかに支配者のように笑う。久恵という名の、その、溢れかえるほどの、無私の愛だと彼女本人に自覚された感情をこれ見よがしに表情としぐさに表現して。私はそれに目を背けさえし乍ら、君の目の前で、周囲の全体で、まだそれが高山固有の特殊なものなのだということに君に気付かれないままの、あの、すべの色彩の鮮やかさが喪失されてしまった、やわらかい色彩の鮮やかなやさしい氾濫が、それらは繊細な沈黙のうちに存在していたのだが、姉を連れて、高山を降りた降りた地上の遠い太陽の下の、強烈過ぎる光線のもとの色彩が、すべてのものを光にくらませながらむせ返っているのを、すさまじく暴力的な色彩だと思う。あまりにも輝きすぎる反射光は、その色彩を焼き尽くしてしまい乍ら、輝かせ、君を先導する姉に従い、彼女が時に色仕掛けで捕まえるバイクの後ろに乗って、少しづつ、すこしづつ西南に向かう。私が媚を売れば、と、Lyは知っている、かたっぱしから男たちは無防備に、私に従わざるを得ない。私が、と、私は美しい。彼女は知っている。少し頭が悪そうな媚をさえ作れば、誰もが。サイゴンに。そこに行けば何とかなるはずだった。何が与えられ、何が報いられ、何が得られるわけではないが、そこにさえ行けば。君は雑貨屋に入って、老婆に拳を一つ二つくれて、金銭さえ奪いながら、西南に向かう。呼吸が止まりそうな詰められた息を吐きだして立ちくらみを起こしながら倒れるその老婆の髪の毛は染められて異常に黒かった。つやさえなく。美しい姉を何とかしようと、緩慢な進行しかしないバイクに、長距離移動は望めない。無駄口を叩くばかりで、バイクの前に乗った男たちは、結局はつれない姉に、最後には、呆れたような、なじるような顔をして、無害なまま立ち去ってしまうのだが、あの男だけは自分の一人暮らしのアパートメントの前に止めて、姉を連れ込んだものだった。君は姉がどうなるのかは知っているし、騒ぎ立てるべきなのか、どうなのか判断する前に、ややあって、姉は待っていろとしぐさをくれる。強制的なその命令に、とりあえずは従うしかない。不貞腐れた顔をした姉が男をやや先導しながら彼のアパートメントに入って行くとき、もちろん彼女は立ち並んだ同じドアのどれが彼の部屋の中か知らないのだから、一度通り過ぎかけて男に笑ってたしなめられるのを、君は不意に、声を立てて笑って仕舞う。思ったよりも短い時間で、部屋から出てきた姉は、男をそこに残したまま君の手を引くそぶりを見せながら歩き始めるが、角を曲がったとたんにくず折れるように身をまげて泣きじゃくり始めた姉を、君は唯立って見つめていた。君は彼女を、いつものように抱いてやるべきだったかも知れない。あの男の背は高く、刈り上げられた髪の下に中東の人のような堀りの深い顔を持っていた。右腕に刺青を入れて、色のない仏教由来のそのヒップホップ調の図柄は、確かに美しかった。土の路面は乾ききっていて、時にバイクが通り過ぎる。向こうに見事な竹林が茂る。ここで、彼女は抱かれることはないだろう、君に。ベッドに寝転がり、仰向けのまま、これ見よがしに裸体をさらした男に吐き気がするほどの怒りを含んだ一瞥のあと立ち去って、汗ばんだまま、体を洗い流しさえしなかった姉の体に直射日光が刺して、Lilyの身体がさらに汗ばんでいくのを、君は知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君がLyに手を伸ばそうとする寸前に、姉は立ち上がって、歩き始めるが、Không sao đâu 誰にでもなく口走るno star, where? 彼女の声を聞く。だいじょうぶよ。熱帯の日差しが、影をさえ強烈に刺している。よく、燃え上がってしまわないものだ、と君は思う、すぐさま、すべてが一気に燃え上がって、燃え尽きてしまいそうなのに。君は思う、同じことの繰り返しに過ぎない、とLyは思う、君は、それが自分が望んだこととはいえ、逃走のなかで繰り返されるのは同じことのヴァリエーションにすぎない、Lilyはいらだつよりはむしろ呆然とさえし乍ら、君は君自身が今、嗚咽交じりの荒い息遣いをしているのを知っているが、もともとは自分が望んだことだった、と思った、Lyは、父親を受け入れた当初には、父親が彼女にしがみついてきて、最初はあやすようなしぐさに過ぎなかったにもかかわらず、やがてそれを受け入れた、或いは受け入れざるを得なかった、或いは受け入れてしまったときに、彼が傷ついていたのは知っていた。彼は彼女が未だ生んだことのない子どものように、君にしがみついてきたのをLyは知っている。君は、誰が彼をそうさせたのか?彼をそうさせるまでに、誰が追い詰めたのか?何ものが彼を傷つけ、彼の傷はいったい何なのか?君は自分をその中に設定したあと、母親を設定しなおす。あるいは同時に。君は、彼を追い詰めたのは母親だと思う。自分もその中に入らざるを得ないことを知っている。君の弟さえも。あらゆるすべて。思いつく限りの。傷はどこにある?なぜ、傷をなど探す必要がある?彼女が単に、美ししすぎただけかも知れない。犯罪的なほどに。私は美しい。毎朝、霧の中の野菜園に出掛けていって、すぐにカフェに繰り出し、やがて友人と飲み始めるには違いない彼のどこに、どんな?彼は傷ついている。傷ついた子どものように。彼は何かを失って仕舞ったようにしか、Lyには思えない。夜明け前に弟が、寝る前から行っていた逃走の計画を、君の許可もなく実行し始めたときに、君はその弟を信用しきれないままに、出掛け際、目を覚ましたあの新しい父がドアのところまで駆けてきて、とはいえ、何を言うわけでもなく、唯、立ちつくすようにそこで、表情を喪失した無表情で、二人を見つめていたときに、君は自分が彼を傷つけていたことに気付く。彼は彼女さえふたたび失ってしまう。彼はチキンだ。何もできはしなかった。君はここにはいられないことを知っている。彼は死んでしまうに違いない。わたしを抱いたあの男も、今、彼のアパートメントで、やがて死んでしまうに違いない。傷ついた彼らが生きていられるはずもない。私は、と、Lilyは思う、常に加害者だ。触るものすべてを傷つける。空は遠い。今も、嘗ても、常に、私は、高山の上の町にいたときにすら、そんなことはすでに知っていた。高山のてっぺんの町でも、いつでも空は遠い。近くに存在していてさえも。もっと近くへ。接近すれば接近するほど、接近の果てにはやがて、空の境界線をいつかは越えてしまう。暗い宇宙へ。君は彷徨い歩いているわけではない。明確な行き先を設定していないだけだ。君はサイゴン近くの南部の町を歩き、いずれにしても、たどりついたサイゴン近くの南部の町で、今、君は、私の行き先など、思う。ない。姉に出て行けと言われたままに、私は、そして、そのとき、彼を一瞥することさえもなかった。私は。右へ折れるか左に折れるか、それさえ自由なとき、その選択がどれほど困難なことか、君は知っているか?私は知った。今、そして、あの高山の町でも、私は知った。私は知っていた、学校へ行かずに、丘の上を歩き、私は知る、松の林に注ぐ光の美しさを、君は知っているか?君はその見慣れた光線を、しずかに、輝く色彩の鮮やかさそのものを奪われた上に、色彩それ自体のどうしようもない覚醒を充溢させた鮮やかな沈黙を、結局のところ、目にしている色彩に触れることなどできはしないという指先の、当然の絶望を、君はビンジュンの、どこまでも続く平野の道路を歩きながら、Lilyは知っている。褐色の白百合は、必ずしもすべてが報われるなどとは思ってはいない。彼も、いつかは日本へ帰って仕舞うには違いない。そのときに、どうなるのかはまだ知らない。私はすべてを失うに違いない。例えば、町を歩いて目にする、雑然とした家屋のベトナム人夫婦のようにはならないだろう。熱帯の光が彼の肌さえも灼いたとしても、彼がそれを望みさえしたとしても、彼は外国人にすぎなかった。最初から、決定的に破綻していて、破綻したものそれぞれが融合することさえなく寄せ集まっているに過ぎないなら、膨大な言葉が今、私の中に渦巻く。何も言い表しさえしないのに。こまやかな雨の中に、何をも語りかけることのないままに、松の葉の揺れるのを見ていたときに、Thànhは今、引き裂かれてしまった、彼から、私から、もともとのあの不均衡な身体が一致するはずもなかった。同じ形態でありながら。同じ形姿の染色体に支配されながら、いまやそれは鮮明な乖離になって、何から?距離だけを実の前に広げるが、Lyから。彼女が別の存在であることなど始めから知っていたことだ、体を触れ合うとき、触れ合った皮膚はそれらが別のものであることだけを自覚する。そして、君が君であったことなど一度もない。君の固有性に、君はついに触れることなどできない。固有性、それは単なる存在の条件に過ぎない。朝日が昇っていっているのを、Thànhは知っている。引き裂かれてしまった、それを君は知っている。既に、もう少し前から始まっていた日照は、君の視界の中にありながら君に見出されることさえなく、傷つけたことなど一度もなかった。君は、雪を知っているか?熱帯の朝日に照らし出されて、傷ついたことなど一度もなかった。雪を、目の前に積もった、すべてを白く染め、色彩を奪いきったそれに指を触れれば、体温ですぐさま解けてしまうそれを、君は、知っているか?触れた瞬間に、雪の結晶そのものに触れ得はしなかったことに気付きながら、君は、濡れた指先が触れていたのは水滴にすぎない、最早雪ではあり得なかったその、君は、何ものによっても傷付けられない。何ものも、君を傷つけ得なかった。Lì Lyは声を立てて笑った後、私を思いあぐねたように見つめ返し、褐色の白百合、雪のような白百合、褐色の、雪のような、白百合、私は百合[hoa huệ]ではありません、彼女は言った、lily は、私に、そして私はLi Lyの髪の毛に手をのばそうとし、そのまま、Lyと、その姉弟の部屋で目を覚ましたとき、うっとうしいほどの熱気の中に、熱帯の温度の中で私の汗ばんだ身体は彼女の気配を探すが、すれすれの距離にあったはずのLyの体温は、ややあって、シャワーの音で、不在の彼女の身体の所在地を知る。やるべきことは、とても多い。例えば、笹村の死の後始末をしなければならないだろう。スタッフたちも、本社の人間も、今頃私を探しているに違いない。あの、傷ついたThànhを、もう一度探し出してやらなければならない。彼がそれを望むかどうかは知らない。彼はあの日本人が殺されてしまったことさえまだ知らない。私たちが過ごしたのは別々の夜、そして朝だった。これまでもずっとそうだった。いつでも、そして通風孔の周辺だけを外光が照らし出し、それは強烈な逆光を形作るが、目をくらませることなどできない。それを知ったところで、彼は何の興味も示さないだろう。私は薄暗い、無機質な、色あせたペンキ塗りの壁の、はがれ落ちかけた色彩を、結局のところ、町の周辺をぐるぐるとさ迷い歩いたにすぎないThànhは、いつもは少しはなれたところでしかしない「狩り」を、すぐ近くのそこでしなければならない必要性があった。なぜなら彼は空腹だったからだ。一晩、とまったLệ Hằngの取り巻きの女のアパートメントから、彼女が未だ深く眠っているままに、地味な顔立ちの下に派手すぎる豊満な身体を剥き出しにしたまま彼女は未だベッドの上で、彼女の金銭の隠し場所がどこか見つけられなかった彼は、ややあって、外に出る。振り向くと、半開きのトタンのドアの向こうで、彼女はまくらのひとつを抱いたまま永遠に目覚めることなどないかのような、深い眠りの中に落ち込み続け、彼女は昨日の夜、彼に何もできなかった。寄り添うように体をくっつけて、あきらかに彼を求めている視線の中に何度も飽きもせず彼を絡娶りながらも、結局、彼に何もすることができなかった。これ見よがしに肌を曝してさえも。二十代半ばの、少なくとも彼にとっては若くはないその女の執拗な視線を不意に思い出しさえしながら、入った雑貨屋で、やさしく微笑んで、その中年女がThànhの扇情的なほどの美しさに、一瞬息を飲んだときに、殴り付けられて意思を喪失させた彼女が、それでも最後に、短い猫のような声を立てたが、奥から出てきた男と目が合う。彼女に覆いかぶさって、釣り札の束を掴んでいる美しい少年を男は見出したが、彼が事態を認識するのにかかった長い間延びした時間を、ついには一瞬、滑稽にさえ思い、飛び掛ってきた男から、Thànhは逃げなければならない。身をかわし、外に飛び出し、走るが、あの男がついてきているのは知っている。息を切らして。身体が熱気を帯び、汗ばみさえするのにすら、気付かない。背後の罵声を耳の中に聞く。角を曲がって幹線道路に出るが、不意にThànhは身をそらして、道に飛び出す。彼をかわそうとしたバイクが一台転倒したときに、まるで犬のように、さまざまな罵声と、怒号と、音響が、あの男は一瞬渡りかねて立ち尽くし、振り向いたまま立ち止まった君は、ひざの、短い痛みにそのとき、よろめきながら、まるで野良犬のように生まれ、走り出したThànhを、そのトラックは轢き飛ばす。野良犬のように死んでいく。意識が飛び散って消滅したのは、意識さえできない一瞬に過ぎない。朝近く、姉弟の部屋を出た私たちがその騒ぎのほうへ歩み寄ったとき、Lilyは遠巻きの人だかりの向こうに、倒れた死体の意味を感づいて、私の手を掴む。引き戻そうとする手を振り払うようにして、私はそれに近づくが、人だかりをかいくぐりながら、それが何であるのか、私はすでに気付いていた、目にしたそれは、紛れもなく、醜悪な、あの美しい少年の、血まみれの残骸だったが、半分近くだけ残った頭部に、私がそれに気付いたとき、ようやく、私は目にしている事態を理解し、失神しそうな意識の、明滅する白濁の中に、彼女のほうへ歩き出す。Lyは表情をなくして、私の白百合。私だけを見つめていた。涙すら流しはしない。今、この時に、どうやって?私はLyの背を押し、逃げ去るように立ち去る。彼らには、あれが、どこの誰かさえわかりはしない。身元不詳の、識別困難な肉体の残骸に過ぎない。あれは誰だ?不意に、立ち止まったLyは言った…người bị chết là ai ?, 私を見るでもなく、誰?その視線に私を、あれは誰なんだ?捉えながら、死んだのは、誰が?…người bị chết nào ?,ねぇ、私は知らない、誰なの?誰が?今、彼女は、どうして?言う。私が、…sao em không biết vậy ?なぜ?私が知らないなどと言うことが?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ようやく泣き止んだ彼女がホテルベッドの上に身を起こし、私は、何の意味を持たせるわけでもなくシャワーを浴びながら、体を洗っていることの意味を探す。その単なる惰性の、何が、崩壊して、何が残ったのか、私にはまだわからない。晴れきった空の窓越しの陽光のほうを向いて、逆光の中、彼女は振り向くが、私はシャワールームを出たまま、立ち尽くすように、彼女の表情を探すものの、光の中に、それは捉えられない。文字通りシルエットとして、向こう、平野の果てまで、青空が唯広がっているのがわかる。空気は乾きと湿気を共存させた気配の中に、彼女が身をずらしてベッドの上にあけた空間に座る私を視線に捉え乍ら、Lyは微笑み、その褐色の皮膚の曲線の上を、光の細かい反射がかたちをくず折れさせ続けながら這う。泣いている私にすがるように、私をひざに抱き乍ら、anh… anh… 彼女は、ただ、私を呼んだ。涙が止まらない。かたわらで彼女は、私は涙が止まらなかった。かたわらで、彼女は私に呼びかけ続け、なぜ?そして私はただ泣きじゃくるにまかせ、いつ、とLyが言った気がした。Anh… 幸せになれますか? Anh… いつ?わたしは anh… わたしたちは。私は理解している。彼女の《言葉》を。 Anh… あまりにも、彼女は言っている、残酷すぎる、と、彼女は言っていた。私は知っている。それらの繰り返されるただ一つの音節の反復が、anh… 目を開けると、そのひざの上で見上げられた視界の中に、彼女すら、再び、涙を流していたのに気付いた。「サイゴンに雪が降ったら。」私は言った。

 ― …Rồi, 彼女は微笑み、tuyết sẽ rơi ở Sài Gòn , 私の頭を撫ぜながら、あした、と彼女は …ngày mai , その髪の毛が垂れ落ちるにまかせ、言う、わたしはもう知っています、と、彼女は言った、視線に私を捉えたままに em đã biết. そして、振り向き見たLyの視界に、不意に、晴れ上がった空の青がきらめくのをLyは一瞥した。彼女は私に口付けた。明日、サイゴンに雪が降ります、と言って、tuyết

sẽ

rơi

Sài Gòn

rồi. 彼女は、その唇の触感の中に、彼女の息遣いとともに、私は目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 


サイゴンの雪

 

サイゴンの雪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ます。朝が来たことには気付いていた。私は目を覚まし、まどろみ、まどろんだ意識の中で、それが明晰さを取り戻していくのにまかせ、朝、私は目をさましたが、Lì Lyがいない。ベッドの上の、からっぽの空間を撫ぜた後、かすかに体温の痕跡だけ残っている気がしたが、私はややあって身を起こし、シャワールームの中にも、どこにもいない彼女を、私は探さなければならない。どうやって?頭の中でだけ、彼女の名前を呼んでみても、うなだれてベッドにもう一度座り込むしかない私に、記憶を呼び覚まそうとしてやまない、白い、おだやかな光線が部屋の中を満たしているのに気付く。確実に、いつか、何度か経験したことのある、冷たく、ただひたすら白んだ光線が、記憶のあらゆる部分を覚醒させようとするが、何ものを思い出させるわけでもない。意識に、何かの小さな切片が触れようとした瞬間に、私は立ち上がる。カーテンを引きあける。確かに、雪が降っていた。窓の外の熱帯の平野を、向こうの果てにまで、降り積もった雪が埋め尽くし、いまだ降り止まないそれらは、空間のすべてを、光さえをも、冷たい白い色彩の中に埋め尽くす。すべての色彩は、既に失われた。すべては、ただ、白い。探さなければならない。私は、彼女を。この雪の中に、彼女が生まれてから一度も出会ったことのないこの雪の、純白の結晶の膨大な堆積の中に、彼女は凍えているに違いない。褐色の白百合は、つめたい雪の温度の中に、彼女が凍り付いてしまう前に。私は、着の身着のままに、飛び出すと、突き刺すような冷気と、反射光の微かな温度の共存した、醒めた大気が肺の中を撃つ。ふくらはぎ近くにまで積もった雪が足を、踏み出すたびに一瞬抱いたあとに、すぐさま雪は崩壊し、外は交通さえも途絶えて仕舞っていた。誰もが初めて見る雪に、ただ、戸惑うしかない。何をすればいいのかさえわからないままに。立ち尽くし、警備員は信じられない顔をして、除雪という仕事さえ思いつかずに、ただ、何かをののしるしかない。空間は静まり返り、私の息遣いと、果てまでも、白く染め、白く染まり、降り続ける雪は私の肩に触れ続け、その、雪の、抱きしめて離さない接触が、すぐに、とけて、失われてしまう。Lily、褐色だった白百合。立ち尽くすことさえできない。探してやらなければならない。彼女を。探し出して、抱きしめてやらなければ、雪のこの純白の中に、凍える、雪の、彼女の、その、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.8.13-.10.01.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


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