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序(5)

「雨が降っています」Lệ Hằngは窓の外を眺めながら、言った。私は、彼の日本語を修正しようと思った。まだ、雨は降っていません。あるいは、雨がこれから降ります。mừa rồi 彼の傍らに接近して、すれすれの距離の中で、mừa rơi chưa 窓の外の向こうの遠くに明らかに雨が降っているのが見え、Mừa sẽ rơiそれが一気にあらゆる空間を飲み込んで接近し、Mừa rồi雨の轟音はしずかに立てられた怒号のように、群れて、窓の外を飲み込んで仕舞うのだった。窓ガラスをさえ雨は叩きつけ、流れ落ち、私はLệ Hằngの体が立てる甘く醗酵させたような香気を、気づかれないようにひそかに鼻腔に嗅ぐが、未だ消え去らない微光の中に、すべての植物が雨に打たれ、浮き上がらせられた色彩をすら喪失させられないままに、これは、日本語で何ですか?Lệ Hằngが指さした先のテーブルの上に置かれたマンゴーを、私の「マンゴー」と言う言葉に声を立てて笑う君に、「日本語ではありませんが」私も笑い乍ら答え、あの日、

 

 

 

 

 

 

 

 

 Cảnhの結婚式の後で、初めて彼女を抱いた後、うちつけ続ける雨音の中に、私はマットレスの上に疲れ果てて横たわったが、眠りはまだ訪れない。行為が果てたすぐ後の、肌もまだ汗ばんだまま、彼女は身を丸め、私にしがみつくようにして横たわるが、私はThànhが座り込んだまま寝たふりをしていたのを知っている。多くの人間が立てる寝息の音声があって、誰かも他に目覚めているのかも知れないし、すべて、寝込みきったままなのかも知れない。私は目を閉じたまま、私がまだ笑いやまない前にLệ Hằngは不意に振り向きみて、上目越しに私を見つめたまま、私は彼の唇が、私の唇に押し当てられるにまかす。目を閉じるきっかけをさえ失った見開いたままの視界に、彼の、私を見つめる茶色がかった黒目が、瞳孔をさえ開かない凝視の気配の中に、雨がすべてを飲み込んで、のたうつように降りしきっているのを私は、そして知っている。空間のすべてがその音響に満たされて、微光の中に、やがて、身を起こし、素足の、音も立てない猫のようなしなやかさで近づいたThànhが彼の姉にまたがるようにかがみこみ、その頭を撫ぜてやると、姉はまだ子どもながら何かを教え諭そうとするように一度指先を立てようとしたが、私の口に差し込まれたLệ Hằngの舌が、ゆっくりとお互いの唾液をさえ混ぜ合わせていく。唇に濡れた触感があり、確かに、唾液で濡れているには違いない。彼の腕が私の背中を撫ぜるが、その胸部が押し当てられている私の腹部に、奇妙な違和感がはなれない。Thànhは、当然のように、慣れた手つきで、姉を引き剥がすように抱きしめると腕に抱き、ほとんどふくらみのない彼女の胸を片手にまさぐり乍らむさぼるように口付け、私は身を起こし、目を開ける。一瞥をくれたThànhは、しかし、すぐさま自分の行為に没頭した。姉は、一応の気のない抵抗を試みようとしてはすぐに飽き、身を任せ、目を閉じたまま、唇を離したLệ Hằngは、違和感の去らないままの私を見つめた。ややあって、不意に短く何回かうなづいた後、ためらいもなく衣服を脱ぎ捨て始めた時、彼の胸のふくらみを固いスポーツブラが押し固めているのを見たとしても、私はもはや驚きさえしなかった。隠しているわけではありません、ただ、と、彼は言った、「動くにくいですから」さらしのように固めたスポーツブラをはずすと、むしろ意外なほどに豊かな胸の曲線のその美しさに息を飲み、Thànhの慣れた愛撫の手つきが、二人にとってそれが最早当たり前の行為だったことを明示してやまない。少女は目を閉じたまま、私から顔を背け、やがて無造作に短パンだけずらしたThànhのそれが彼女のそこに差し込まれた瞬間に、長い詰まった息を吐きながら弟の背中に手を廻されるが、彼女は目を閉じつづけていた。私の右手をとって、自らの胸に触れさせ乍らLệ Hằngは言った。驚きましたか?彼に抱きしめられたさっきに感じていた腹部の触感で、すでにわかっていたとも言えて、それが今まで未知だったのか、既に知られたものであったのか、思いあぐねる。私がLệ Hằngの胸をなぞるように指先を這わしていくのを、彼は何も言わないままに見つめながら、その指先が彼女の灼けたように黒く、尖り立った乳首にやわらかく当たった瞬間に、飽き足らないように自らの手のひらでそれを包んだ。包んだ手のひら越しに、自分で愛撫するかのように揉みしだかせて、十四歳になったばかりのThànhに自らの上で腰を振り続けさせながら、弟は、そして少女はあらく息遣い、その聞き取れないほどにかすかな音響が私の耳の中を占領する。姉の足は苦しげに彼の腰に組み付いて離れない。私がそれを見つめ、息を殺して息遣い続けるあいだに、胸焼けするほど甘い醒めた高揚は私の神経の中に氷のように冷たくとぐろをまいて、目の前で起こっていることを理解しようと努めた。理解しきれないまま意識が散乱して行くのだが、私の両手が彼の胸を手のひらにもてあそび続けていることには私だって気づいていた。不意に一瞬無表情になって、しかし視線の中に私を捉えたまま、私はどうしようもない不安のうちに彼の視線の向こうを追い、Lệ Hằngは微笑みながら、彼の華奢な生地のパンツを脱ぎすてたとき、現れた、彼の美しいあの顔や、やさしく、微かに巻きのかかった長い髪の毛や、上半身の曲線の、意識を昏ませてしまうような美しさを破壊するためだけに存在しているかのような、濃い剛毛に埋め尽くされた強靭な下半身に息を飲み、私は彼の前にひざまづく。その下着を押し上げて、上部から少しだけはみ出してさえいる、勃起しきった彼のそれに、一度、私は瞬いた後で指を触れる。向こうの柔道家のような体躯の男が一度目をさまし、姉弟の行為を見留めるが、それは彼の興味をは引くことさえなく、彼は背を向けてすぐに眠り始めた。無為のまま、弟の背中から落ちた腕の指先が私の腕に触れたとき、不意によみがえった記憶に一瞬指を硬直させた後、彼女は私の腕を確認するように撫ぜ、探し当てられた私の人差し指と中指とは握り締められるが、なぜ?彼女は目を閉じたまま、私に下着を脱がせられるにまかせ、Lệ Hằngはいつか、私の頭を子どもにするように撫ぜていた。彼の下半身のそれをためらいとともに指先に触れようとするが、むしろイヌ科のそれ思わせる、包み込んだ皮から尖出した赤黒く、長いその亀頭に、彼は私の顔を強制するでもなく押し当てて、私はそれを頬にうずめる。けだものじみた荒々しい温度に頬を占領させながら、彼女の握り締めた手のひらが、隠しようもなくこの少女が今まさに私だけを愛していることを伝える。私には、何かが、何も、理解できてはいないまま、故郷のĐà Lạt、あの高山の上の空中都市から遠く離れたビンジュンで、いずれにしてもこの姉弟が二人だけで、こうやって生きてきていたことには間違いない。ついさっきまで私の腕の中で私の体を抱いていた、あの、大人になりきれない痛ましいほどに幼い肢体が、まるで子どもの肢体に馬乗りになられて、交尾され続け、欲望のままに自らの腰を振る彼らの行為を、捨てられた子猫同士の愛撫のようにさえ錯覚しながら、私は彼女に手のひらを指に握り締められたまま、向こうの手で彼女が弟の、彼女の唇をむさぼってやまないThànhの頭をきつく指先につかんだときに、射精したThànhの肢体がくず折れるように彼女の体を押しつぶす。慣性の中でまだ腰を動かしやめずに交尾し続けるThànhの、その唇に押しつぶされた下で、彼女が目を閉じ続けているのを、私は、彼のそれに唇を当て、知っている。唇を開き、私の舌が彼のそれに触れて、その触感とかたちを確認しながら這わされたときに、あなたはどちらを望みますか?Lệ Hằngは言った、吐息を吐くように、私の手のひらが、彼の毛むくじゃらの鹿のような太ももを撫ぜ上げ、男性のそれですか?彼は、そして、愛撫する指先は急激な流線型の果てに、あまりに女性的な、ゆたかな、ふくよかな臀部にたどり着くが、女性のそれですか?彼は言った。彼の睾丸をまさぐって、指先に触れたときに、不意に小指が触れた、そのすぐ近くの、肛門とは別の明らかに女性のそれの存在の湿り気に気付いていた私は、彼の言うことをすぐに理解したが、私は選択する自由を持ちえない。ただ、彼を見上げて視線の中に捉えるしかない。彼の腰の動きが眠りつくように止まってしまうのにあわせて、少女の手のひらと瞳はゆっくりと開き、彼女はふたたび開かれた視線の中に、私を捉える。開かれきった手のひらに放たれた指先が、彼女の手のひらと、その指先を撫ぜ、冷めやれない弟に未だに口付けられ続けながら何も言わないまま彼女は私を見つめた。その行為は、彼らにとって必要なものなのに違いなかった。姉にとってなのか、弟にとってなのか、お互いにとってなのか、ややあって、まるで自分の部屋のように私をベッドルームに誘って、選択できないでいる私の戸惑いによく気付いていたLệ Hằngは、仰向けに寝かせた私の上にまたがって、彼女の女性のほうに、私のそれを誘う。彼女の中に、めり込むようにして入った瞬間に、土砂降りの雨が立てる騒音を私は一気に耳の中に思い出す。雨がすべてのものを打って、叩き、濡らす、雨期の、そして彼女は私をその視線に捉え続けたままに、私が床の上の服を取って立ち上がるのを見る。弟が未だにやめられないでいる猫が鼠をもてあそぶような愛撫をその全身に受け入れたまま、ほとんど彼が何かをする暇さえもなく、とめどない戸惑いと感情の混濁の中で、彼の彼女の中に射精してしまった私をLệ Hằngは咎めることなく、硬直の解けないでいる私のそれを指先でもてあそんでみたあと、言った。あなたも私を受け入れればいい。私を見つめ続けるその眼差しが私を誘惑し、Lệ Hằngの男性のそれが私のそこに差し込まれた瞬間に、彼の下腹部に臀部はやわらかく押しつぶされながら、私は惨めな声をさえ上げ、彼の、長い、執拗な行為に蹂躙されるに任せるほかはない。夥しい快感と、吐き気さえする高揚の中で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雨が降っています」君は言った。君に蹂躙されて、疲れ果て、ぼろくずのようにベッドの上に捨てられたまま、その視界の向こうで、Lệ Hằngは美しい。私に背を向けたままLệ Hằngは、窓の向こうの雨に包まれた白ずんだ色彩を見ているのには違いない。その、華奢ながらにあまりにも豊かな上半身と臀部の曲線と、そこから生起する獣じみた足のたくましい太さとのあざやかな対比に、私は呼吸さえ忘れて、君がわたしの体内に残したその、Lệ Hằngの若い精液が、やがて私の肛門からしずかに垂れていったのを私は知っている。降り止まない雨期の、熱帯の雨の中で、私は、未だに帰って来ない姉弟の部屋の中のベッドに身をうずめながら、晴れ上がった午後の強烈な光がドアの向こうを照らし、光の直射の中では、あらゆる皮膚は灼かれ、あざやからブラウンの色彩を染み付かせて仕舞うに違いない。熱帯の光を遮断した部屋の中の薄暗さの中に、その、ドアの向こうのそれはあざやか過ぎる色彩として、もはや色そのものを喪失してしまい、唯の光点でしかない。いつ?「笹村さんは、死にました」君は言った。思い出したように、どうしてですか?彼のすれすれに近付けられた唇が私の唇にやがて触れるのを無意識の内に期待しながら、それでも、何があったんですか?そのすれすれの触感の予感が私の唇を満たす。「わたしが殺しましたよ。」微かな笑みの吐息が私の唇にかかったが、ホテルの窓の外は降りつける雨の水滴の中に、ただ、かすんでいく白さとして、その過剰なまでの白色の氾濫に窒息さえしている。君は何でもするだろう、Lệ Hằng、美しい君は、君の望むことを、常に、君が君の望むことをしないなどなど「どうして?」ありえよう、美しい君に「私には愛せなかったからです」君は笑ってそう言い、たとえ世界は君に蹂躙されきったとしても、私は知っている、「私は彼が好きではありません」世界は君ほど美しくなどあり得ない。君が望むなら、「そのためだけに?」世界は滅びてしまえばいいのだと、「そう、私は望まない、」なぜなら、君の美しさは、それを、それ自体として、「私の」そう「愛し得ないものが存在しうることを。」確信させる。「私は愚劣な人間です」月の涙、Lệ Hằng、月が流した涙よりも美しい、「生きる資格さえない。」Lệ Hằng、吐き捨てるようにそう言い、初めて彼が私を抱いたとき、そして彼は振り向いて、未だベッドの上で身を起こしさえできないでいる虚脱した私に微笑みかけながら、テーブルの上から奪うようにして手に取ったマンゴーの皮を器用に剥き、何気なく捨てられた黄色い皮は床のタイルの上に、撥ねる。音もなく。目を閉じて、私は雨の音だけを聞こうとしたものだった、その時に、不意に押し付けられた唇が、私の口の中にマンゴーの純粋に唯甘い果肉を流し込み、嗅ぎ出された果物と彼の体臭の交じり合った匂いの中で「おいしいですか?」君は言い、私は彼を羽交い絞めするように抱きしめ、再び求め始めたものの、Cảnhの家の小さな内庭に出る。あの日の夜、夜の空が見上げればあまりに隔たった距離としてそこにあって、あの姉弟はまだあの部屋で身を寄せあっているの違いなかった。Lệ Hằngを探すが彼の姿はどこにも、気配すらない。Cảnhの犬が目を覚まして、眠った姿勢のまま私を目で追っているのは知っている。わずかな樹木がしずかに茂り、今、どこに行くのも自由だが、どこにも行くべきところはなく、私は立ち尽くすでもなく、唯、立っている私を、戯れるようにThànhは後ろから抱きしめた。雨が上がったばかりの日差しの強烈な存在を肌に感じながら、そのとき、私はホテルの前でタクシーを待っていた。空港に荷物の手配の確認に行かなければ為らないが、スタッフが既にやっているので、私に取り立てて仕事があるわけではない。ホテルの警備員が手配したタクシーはなかなか来ないし、警備員は赤いプラスティックの椅子に腰掛けたまま、私に手を広げて笑う。どうしようもないよ、来ないんだから。私はThànhの頭を撫ぜてやり、この少年は小さい拒否の声を上げながら身を離す。彼の微笑みに崩れた表情に光が直射するが、真っ白い彼の肌は白く反射光をその肌に這わせ、むしろ、私のほうが日に灼けてさえいた。姉は、まだホテルの部屋の中にいるに違いない。彼女が毎日渡す少しばかりの金銭のために、掃除係も、警備員も、何も文句を言うわけでもない。

 

 

Anh đi đầu ?と、Thànhは言い、私にこぼれるような笑顔を見せた。少年は気が向いたときに私の部屋に転がり込み、飽きればどこかに行ってしまう。今、彼はここにいたいからここにいる。私はそれを知っている。Đi ở đầu ? 彼が私に聞き取らせるためにゆっくりと言った発音は、もちろん、私には唯の音声にすぎない。少し鼻にかかった、むしろ姉よりも甲高い彼の音声が、この少年が男として彼女を愛しているのだとはどうしても思えない。この美しい少年のそばには、いくらでも女が息をころしながら、彼に幼い、露骨な流し目を送っていた。姉のように自由にはならなくとも、或いは、彼ならもっとた易く彼女たちを言いなりにしてしまうはずだった。素手で美しさに直面したとき、既存倫理などついには無力だ。思わせぶりな、切れ長の目で、どこか貴族的な気配を漂わせた、まともな教育も、或いは最低限の倫理観すら持たないかも知れない、動物的な、と言えばむしろ動物たちの知性に対して失礼にあたるこの美しい存在は、手を伸ばしさえすれば、無数の果実を手にすることができ、かじりつき、舌の上に転がし、吐き捨てることさえも自由だったはずだった。彼は彼の不確定な論理と、直感的な倫理と、忘却のうちにすぐに消滅してしまう知性が見出した絶対的な正解にしたがって、そして、私たちは慣性に任せるように歩き出し、やや離れた薄汚いカフェに入った。目の前に座ってスマホをいじる彼に視線を投げるが、サイゴン風の、シェイカーで振った甘いコーヒーは私の唇を濡らし、その香りが口の中を少し濡らした程度に過ぎないながら、のどの奥にまで甘さに満たされて仕舞う。いつか、彼と中心からやや離れたホーチミン市の路地で道に迷ったとき、Thànhはややあって立ち止まり、地面を指差して、ここにいろというジェスチャーを繰り返す。何度も念を押し、近くの雑貨屋の中に姿を消した彼は、そしてその奥から、一瞬、短く暴力的な、硬い、やわらかい、にぶい、複数の衝突音の一塊がたったあとで、傷ひとつなく戻ってきた彼はタクシーを止める。息を切らしさえせず、そのくせ、わずかばかり胸元をだけ上気させて。顎をしゃくって私を乗せ、乗り込んだ彼は、その奪ったばかりの釣り札の束から十万ドン紙幣を適当に何枚か引き出して、運転手に渡し、早口に彼に指示を出す。僕に任せればいい、心配するな、と彼の目が言う。明確な、誤解不能な言語として。まるで保護者のような彼の視線の中で、私は一瞬声を立てて笑い、彼は私を守り、私の行きたいところまで私を連れて行くに違いない。私の笑い声に彼が戸惑ったのを私は気付いていた。ホテルのベッドの上で、やがて目を覚ました私はすぐ隣の彼らの息遣いに気付いていたが、目を開けるまでもない。彼女との行為が終わったあとに浅く眠り込んだ私の傍らに、帰ってきたThànhが彼女に求め始めたには違いなかった。いつものように、彼女は拒絶するわけでもなく、弟のなぶるような愛撫を受け入れた。まだ浅い夜の、開け放たれたカーテンの向こうの光に照らし出されて、姉のあざやかなブラウンの肌の上に、Thànhの白い肢体が動く。私が彼女の肩を突き飛ばしたときに、彼女は何の非議を訴えるでもなく、ただ、私を見つめたものだった。そのとき、Thànhはただ、嘆くような眼差しを私に向けていた。私は彼らのその息遣いと、こすれあう肌の音を聞きながら、混濁した汗の匂いと、そして目を開けて、ベトナム風の、高い天井の縁を飾った緑色の木材の装飾を眺める。私は知っていた、私の問いかけに答えなくなるときに、彼女はいつも耐えられないほどの悲しさか、痛みか、怒りのような感情に貫かれていたに違いない。言葉の問題ではない。多くの場合、言葉などなくとも彼女は何を言おうとしているのか、すでに知っている。私がそうであるように。Thànhは姉の上で飢えたように腰を振り、彼女は弟のそれを受け入れた体内に広がっていくその感覚に身を任し、埋没しながら、体を離れたときの彼らの、淡々とした希薄な距離感を思い出すとき、彼らが求め合っているとは思えない。愛しているものへの感情的な性欲に飢えているなら、あの距離感は成立しないはずだったが、今、二人は明らかにセックスの中に埋没していて、とはいえ、始めて仕舞えば、目の前の体に飢え、求めない限り、それは成立しない。それをする限り、彼らはそのとき、飢え、求めている。私と彼女がそうであるように。強制ではなく、当然の条件にすぎない、そのどうしようもない希薄な当たり前の性欲の氾濫の中で、姉は時に喉から声を立てて、彼は、彼女の唇に彼の唇を押し当てる。彼女の目はいつでも閉じている。私のときと同じように。彼女の饒舌なしぐさの不意の沈黙が、私をどうしようもなく暴力的にし、私の暴力がときに彼女をふたたび沈黙させる。私は、愛している、彼女を、愛している、私を、彼女は。私は知っている。射精した後の、慣性の中でゆっくりと動きを失っていくThànhの肢体を、姉はきつく抱きしめさえするが、やがて疲れ果てた彼女から身を離したThànhは私の体の上に身を投げ出して、いつの間にか眠ってしまう。私が彼女を突き飛ばしたとき、紙のようによろめいた彼女の身体がテーブルを殴打し、叩き割れた花瓶が立てた音の向こうで、私は、自分がわめき散らしているのを知っている。私は、そして見つめた彼女は、ややあって私を見上げ、涙すらない泣き顔で見つめた。唇をかすかに切って、血をにじませながら。私を。Thànhが、そもそも女を愛しているとも思えない。Thànhの行為は自分勝手な強姦のように見える。あるいは彼女の行為も。私の行為も?私たちは強姦しあっている。誰を?私はThànhの頭を撫ぜてやり、息遣い、笹村の部屋にLanが通いこんでいるのは知っていた。結局のところ、彼女がやっているのは、売春以外の何ものでもない。彼女はバイクで乗りつけ、警備員にいくらかのベトナム・ドン紙幣を手渡し、部屋を訪ねると、笹村に抱かれ、いくらかの金銭を手にする。時には外貨両替されないままの日本円や米ドルで。とはいえ、そもそも彼女の日本語にかかったはずの教育費を考えると、彼女の現状がそこまで金銭に困窮しているとは思えない。体を売らなければならないほどに困窮している人間がた易く支払えるほど教育費は安いわけでもなく、独学でできるほど日本語は簡単なわけでもない。そして、彼女は笹村の部屋に通い、彼に抱かれた後、時に、ロビーの外の木立のなかで、身を丸めて嘔吐する。精神的な障害なのか、身体的な疾患なのかは知らない。姉弟の寝息を背後に聞きながら、ベランダで外気に触れているとき、人影がホテルの庭を這うように走っていって、あの常緑樹の木立の中にうずくまる。それがLanだということはすぐにわかる。彼女は身を丸めて、あのレタントンの店の前でしていたように、派手に喉を鳴らしながら吐く。胃そのものさえ口から吐き出してしまいそうなほどの、生理的な苦痛をさえ聞く者にあたえる、悲鳴をあげる身体に、私は耳を閉ざしてしまいたいほどに思いながら、部屋を出て、非常灯以外の照明のすべて消されてしまった廊下をおり、彼女のそばに歩み寄ると、もたげた顔の晒した惨めにすがるような一瞥のあと、しかし、すぐに彼女はふたたび吐き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口から何かが出るわけでもない。何もかも吐寫されきった後なのかも知れない。私にできることは何もなく、傍らで彼女のうずくまった背中を撫ぜてやったとき、彼女の背中に私の手のひらが触れたその一瞬、Lanは四肢を一度痙攣させた。鳥肌が立ち、彼女の皮膚の表面は極端に冷たく、汗ばんでいる。あきらかに病んだ身体が、振るえ、痙攣し、どうして、こんなことをしているんですか?彼女に言い、一瞬聞き取れなかった彼女は、発作の終わった後の胃液に濡れていた唇を、乾いた後まで何度も手の甲で拭いながら、私は繰り返す、どうしてこんなことをしているんですか?一瞬、沈黙し、あの、女たちが一様に私に見せる、瞳孔の開ききった目で、絡娶るようにみつめ、長い沈黙になりかかった瞬間に声を立てて笑い、微笑み、愛してるの。笹村さんを。言う。さじゃむらじゃんのその日本語のあいしていますから意味はあきらかだったが、彼女が語彙を間違えている可能性もあれば、彼女が単に嘘をついている可能性もあって、目の前に転がっている言葉は、無数の可能性を明示させてやまないままに、結局のところ、私の指先にさえ触れ得ずにこぼれ去っていく。私は、無根拠に自分の認識を信じるしかなかった。彼女は、やがて、息を深く吸い込み、不意にこぼれるような笑みを見せて、恥らいを潜めた媚態の中に、あなたは、とてもいい匂いがしますね。みゆさわさんわにおういいです私から目を離さないままに言い、日本語、変ですか?

間違っていません。

いいですよ、私は答えたが、蠅が私たちの足元を揺らめくように旋回し続けていて、肌に時に触れながらも、すれすれの距離感の中に、それは空間を泳ぐ。私は目を伏せ、彼女の肩を撫ぜた後立ち上がり、部屋に帰ると目を覚ましたThànhがシャワーを浴びている水音が微かに立っている。照明の付けられないままの暗がりの中に、彼女もベッドの上に身を起こしていて、未だ衣服をまとわないままに私を見つめた。Đi ở đầu ?私のすれすれに身を寄せたとき、彼女の汗ばんだ体臭が、鼻腔にながれ込む。体を洗い流す気さえなく、そのままに、少女はあの、開ききった瞳孔に中に私を絡娶ろうとし、私はその吐き出される息の、私の首筋にかかるのにまかせる。しずかに、やがて急激に振り出した雨の轟音が室内を満たし、この雨の中に、Lanは打たれているのだろうか?あるいは、逃げ去り得たのだろうか?土砂降りの雨が再び彼女の発作を誘発したかも知れず、雨の中にうずくまって止まない嘔吐に身をよじるのかも知れない。雨のなかに、そして彼女は何も言わないまま、私を見つめ、たしかに、共通言語のない私と少女は、言葉もないままに、意味を探り続け、探り当て続け、触れ合い続ける。微かな瞬きと、黒目の振るえさえもが強烈で、鮮明で、明確な意味そのものとなって反響し、乱反射の中で、ついに、その意味を明示しきることなく、何かが隠されていて、或いは、そもそも意味などあったのかさえわからないそれらの無際限な意味の束が、私たちを突き刺しては、消滅していくのを、彼女もそれを知っていた。さまざまな、あきらかに、指先に触れることさえなく目覚め続ける鮮明な断片に刺し貫かれながら、それらの当然の、すぐさまの喪失が、彼女のまぶたを震わせ、私の黒目に微かな振動を与えて止まない。シャワーを浴びた弟は、部屋を出て行く。こんな夜更けにも、誰かが彼を待っている。姉は声すらかけない。振り向きざまに見せたやわらかい微笑が、その残像だけを私に残して、下のほうでバイクの音がする。私は瞬く。彼女の唇が何か言おうとして開きかけ、くずれ、微笑みに落ちていく。私との行為が終わったあとの汗ばんだままの彼女の体に、弟は、そして、私の目の前に隠されることさえなく曝されている彼女の、弟の行為を受け入れ終わったばかりの汗ばんだ身体は、その体温をさえ残したまま息遣い、私が彼女の鼻のかたちをなぞろうとする指先に、軽く目を閉じて、笹村は、Lanがいつも執拗なほどに体を洗うのだ、と言った。行為が終わった後で、時にまだ彼女の上に覆いかぶさっている彼の体を押しのけて浴室に駆け込み、半開きのドアの向こうから彼女の嘔吐する音が聞こえる。或いはその行為の最中にさえも。笹村はただ、それを聞きながら、その発作がおさまるのを待つ。私は、そして仕事の後で、彼らと食事をしたときに、笹村は彼女の頭を撫ぜた後、言った、日本に連れて行って、病気を治してやりたいんだけどね。「何か、疾患が?」問いかけに、すぐには答えず、思いあぐねた後、知らない。どうなの?彼女に問いかけるが、Lanは何も答えられずに、微笑み乍ら首を振るしかない。会社の中の専制君主は今、声を潜めながら、彼女への惨めな執着を語外に語る。ぼくのことが嫌いなんじゃないの。そうじゃないよね?Lanは私に、色づいた流し目を送った後、笹村に視線を逃してうなづくが、スタッフたちが見たら、どう思うだろう?彼女、ぼくのこと、すっごく好きなの。笑うだろうか?彼らの、言葉さえ通じない理不尽な鋼鉄の専制君主。いつも笹村はベッドの上に身をもたげ、彼女の嘔吐音に聞き耳を立てながら、なすすべもなく、Lanがベッドに帰って来るのを待つ。手洗いに立ったLanの不在の椅子を指先で指しながら、どう思う?笹村は言った。彼女、本当に僕のこと、好きだと思う?笹村は照明の消された夜の室内の中で、彼女を待ちながら、その音にだけ耳を澄まし、やがて聞こえてくるシャワーの水が彼女の身体を殴打する音が耳を打つ。どう思う?嫌いじゃないんだよ、絶対、だって、彼女は体中を掻き毟るように洗っている。いつも、いつもの嘔吐と入浴の後には、まるで笹村がつけたかのように、体中に引っ掻いた赤い爪あとを曝して、彼に覆いかぶさっては、彼に口付ける。まるで、まだ、今日何の行為もされはしなかったかのように、彼女は彼の体中を愛撫し、唇を当て、匂いをさえ嗅いで、腕に抱き、微笑む彼女の手を握って、笹村は言った、どう思う?Lanは瞳孔の開ききった目で、誘惑についに陥落したかのような扇情的な目で、私を見つめて放さない。Seriは言った、反原発の歌作ったのね。彼女が今、私を、欲しがっているのを知っている。性欲の問題ではない。Lanは今、私が欲しい。セックスしてしまえば思いが遂げられるというわけではなく、かつ、あくまでも性欲に支えられているにすぎない、つまりは、それ自体解消不可能な欲望が、彼女の瞳孔を見開かせ、私は彼女が笹村を単純に愛してさえいるのを知っている。彼が一文無しに今なったとしても、彼女は気にも留めないに違いない。好きなんです、わたし、笹村さんのこと。彼女は口の中で呟くように言った。すきじぇしから。私をさじゃむらさんが見つめてはなさないまま、微笑み、まるで私を誘惑し陥落させようとするかのように、「結婚したいんです」あきらかに、彼女の、心まですべて含めた身体そのものが、胸焼けするほどに私を求め乍ら、「日本に、奥さんがいます」彼女はただ、笹村だけを愛している「悲しいけど。」


序(6)

…奥さんはね、もう、名目だけだから。私に弁解するように笹村は言い、眼差しには嘘のない同情があった。けど、なかなか別れられなくてね、熱にうかされたように彼がLanの手を取って、自分のひざの上にのせてさえも、彼女は私から目を離さない。ランランに、すごい、さびしい思いさせてるの。それは、事実、と、笹村は言った。反原発の歌作ったら、お父さんってさ、すっごい悲しげなの。何も言わないけど。Seriは言い、一度息をついてみせ、けど、正しいことだと思うのね。瞳孔の開いたままの目に私を捉え続けたまま、少女は私のすれすれに伸ばされた指先が、彼女の鼻の形になぞるのを受け入れる。指が曲線を描いて、彼女の息を掛けられながら、その体温を感じ、唇のかたちをなぞっていくが、行為を受け入れたばかりの、疲れ果ててさえいる身体が、いつものように息づき続け、夜の深い、やわらかい光の中で、褐色の肌はむしろ、ただ黒い影になって、光の反射を這わせた。何をも描き出さない。目を凝らされた影と影の境界線の中に、呼吸が、そして、そこに私を見つめている彼女の身体の存在を、私は知っている。半開きにされた唇から、舌を微かに出して、私に指先で触れようとする、その至近距離の体温を、私は何にも触れないままに感じる。私は思い出す。想起された記憶がその記憶のすでに存在し続けていたことを主張してやまず、やがて私は記憶に飲み込まれながら、私は記憶していて、私は思い出す。なにかんがえてるの Seri は言った。何、考えてるの?芹沢薫と言う名の、その女は、渋谷のカフェで、そして彼女はシンガーだった。歌を歌っていた。「お父さん、原発推進派だからさ、地元の」シンガーソングライターで、さまざまな小さなライブハウスで歌い、「でも福島とか、何ていうの?未来の子どもたちっていうか」私は知っている、彼女は、そしてこのまだ私が日本にいたときに、「大事じゃん?イノチ、守るの。」松涛と原宿の狭間の、どちらでもあればどちらでもないどっちつかずの希薄な雰囲気だけが満たしている道路の両脇は、「じゃない?」何かに落ち込んでしまったように人通りも少なく、何、考えてるの?彼女は言った。日本語ネイティブは、常に、極端な早口で、長い文をぶった切り乍らしゃべる。機関銃のようにシラブルをたたみかけ、話されるのは長い長いうねるような音程を持ったフレーズだ。私も含めて。彼女は私をわざと覗き込み、ねえ、今、暇なの?「何で?」暇そう「知らないよ。どうして?」笑いながら私は、てか、なんか、彼女は不意に髪をかき上げるしぐさを見せて、グラスの中の氷をストローでかき回すが、半分以上飲み残されたままのミルクコーヒーは、かろうじてそのブラウンの色彩を保持しているにすぎない。なんか、ひまそう。彼女は、そういうの、なんか、やなんだけど。「なにが?」もっとさあ、なんか、飢えてほしかったりしないこともないなっておもったりもする。彼女が《ファン》に刺されて重傷を負ったことを「何に?」きまってんじゃん。わたし。私はベトナムで知った。「どうして?」がるうって。Yahoo Japanのエンタメ欄で。がるうってさ、してくんない?なんか、ひまそうなんだもん、いま、じゅんくん。ずうっと。声を立てて笑う私に彼女は一瞥をくれるが、てかさ、なんか、わたしのことかんがえながらじぶんでしたりする?「じぶんで?」やーんって。なんかいろんなさぁ、やらしいことかんがえちゃったりして、どうしようもなくなったりしてさぁ、あえないひとかに、ひとりでやったりする?「しないよ」しなよ。てか、しようよ。

「もう、別かれたじゃん」

「いいじゃん。別に」

すき?「すきだよ」ほしい?「ほしいよ」うそ。て、いうか、いま、めっちゃやらしいことかんがえていい?「どんな?」すっごいの。ぎったんぎったんで、ぐっじゅんぐっじゅんなかんじで、いろいろ、そうぞうしちゃっていい?「すればいいじゃん」そっか。じゃぁさ、じゃあじゃあ、するね。いい?彼女はひじを付いて、あからさまに私を見つめた後、目を閉じ、彼女は考え、想像する。やわらかく私を見つめ返し、開かれた瞳孔の中に私を絡娶りながら、半開きにされた唇が媚態を作り、意識された、そして無意識のままのそれらは、自分勝手に自分をだけ発情させた彼女が、蜘蛛の巣のように張り巡らした誘惑の糸を私の周囲に散乱させたまま、ややあって、目を閉じ、再び開いたとき、すっごいの、そうぞうしちゃった。「どんなの?」やばいよ。もう。じゅんくって、やばいね。すっごかった。さんかいくらいいっちゃいそうになった。えーぶいみたいに。やーんって。「どんなの?いえよ」ひみつ。声を立てて彼女は笑い、「てか、発情しちゃった?」したよ。三回くらい射精しちゃった。「嘘」きみのコウノトリ、という名前の曲があった。彼女の歌だった。彼女の地元の、駿河の歌で、中学生じみたラブソングだった。コウノトリは綺麗な川でしか生きられない。澄んだ、綺麗な川でしか。そして命を運んでくるの。僕と君のところにも。駿河は、コウノトリの生息地として有名なのだと彼女は言った。駿河、福井県、いくつもの巨大な原発施設でのみささえられた、原子力都市。駿河の地方局の地方番組でタイアップが取れたの、すごくない?彼女は言ったすっごいきれえなとこだよ。「その歌で?」

「うーん。違う歌。」きてみればいーのに。「だからさ、原発ソング、ネットにもあげられなかったりする」声を立てて笑い、その時がくれば、近寄ることさえできず、「ばれたら、ちょっとやばいよね」人類固体の生命期間をはるかに超えた不可視の炎を燃え盛らせるもの。かわのみずとか、すっごくきれいで。彗星がブラックホールに手を伸ばそうとするようなものだ。その指先に触れようとして。ほんとに、くうきもめっちゃおいしいの。目の前のそれは、単なる鉱物に過ぎず、その可能性のひとつを実現さしめたとき、やっぱさ、過去世の学びって言うか、生まれてくる子どもたちに残したげたいじゃん、綺麗な自然とか、日本文化とか。それって、大事じゃん?それは、そして、私は彼女の髪の毛に顔を近付け、その匂いを吸い込みながら、雨期の雨が轟音を立て続けたまま、少女の幼い身体は疲れきっている。終わったばかりの、弟との行為に汗ばんだまま、私は彼女の体の匂いを感じ、にもかかわらず、私はこの少女をもう一度抱くだろう、と思った。我慢できずに、耐えられずに、絶えることなく、私は、失われた言葉をいくつも頭の中に想起し、彼女を見つめ、結局のところ、私は最初からなにも言うべき言葉も、言いうる言葉も、私は彼女を抱くだろう、私は知っている。彼女は疲れ果て、未だ、ゆっくりと、深い呼吸でその肺を満たしながら、感情は明確な行為をとって、感情自体に明確な形姿を与えてもらわなければならない。やがて、私は彼女を押し倒すはずだった。深く疲れ果てた、ついさっきまで、そして弟が彼女の上に覆いかぶさって、腰を振り、弟はわざと私から視線を逸らすように姉の唇をむさぼって、彼が射精したあと、ゆっくりと静まっていく腰の動きを不意に拒絶するかのように、彼女は両手のひらに彼の尻を抱いたまま、下から腰を動かして、姉は目を閉じたままだった。彼は彼女の唇を相変わらずむさぼりながら、姉は執拗に、足を絡めたまま、腰を動かし、彼女はそれを望んでいる。弟はやがて、再び、そして、もう一度、あの執拗な行為が続く。姉は尻から、背中まで、彼を抱きしめて離すことなく、射精してしまえば、弟は力尽きてもたれかかるが、私は知っている。姉はもう一度、下から腰をくねらせ、愛の対義語は憎しみではない。動かしながら、もはや応答もないままに、やがて彼女も力尽きてしまった。その語はいかなる対義語さえ持ちえてはいなかった。私は勃起さえしないままに、私が彼女を今、求めているのに気付くが、私は彼女を抱くだろう、自分自身さえもが疲れ果てていることにすら何の関知もなく、私は、目の前に彼女の身体が合って、その温度と、感じさせる潤いが私にそれを抱くことを命じているかのように、強姦するように。強姦されたように。彼女は何でも知っている。この十五歳の少女は、そして、その弟も、この世界にかかわるあらゆることを知っている。仮に、知識の量があまりに貧しかったとしても。私は思い出す、水も分子構造も世界地図の形さえも知らなかったとしても、十代前半の時期、確実に、私もすべてを知っていた。私はすべてを知っていたし、彼女はすべてを知っている。この世界の美しさも悲惨さも絶望的なまでの強度で、あらゆることを知り尽くしながら、私たちは知っていた。「笹村さんは私が殺して仕舞いました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「笹村さんは私が殺して仕舞いました。」Lệ Hằngは言った。にもかかわらず私たちは何も知らない。「彼の恋人には、かわいそうなことをしました。」自分が知り得たこと以外をは。「けれど、仕方がありません。私がそれを望みましたから。」感情的な動揺も、いかなる高揚もなく、淡々と、遺族に気を使うような悲しげな目で私を捉え続けたまま、何をもってしても、君を止めることなどできなかったろう、私がその場にいてさえも。「あなたは、それを望みますか?望みませんか?それだけが気がかりです。」彼は言い、触れた瞬間に壊れてしまいそうな繊細な笑みを私に投げるが、不意に、「もし、望みません、と言ったら、あなたはどうしますか?」と言う私に、その笑みを壊すことなく、「もう、して仕舞ったのに、望みません、と、今、言ったら。」Lệ Hằngは私の手を一度握って、「しません。決して、私は、しないでしょう。」少女は傍らで、私と彼の、彼女が一切理解できない音声を聞きながら、背筋を伸ばしたまま、やがて立ち上がって、窓のカーテンを引き開けるが、雨の中の白んだ風景の光が、ただ、やさしく差し込み、人を一人殺してきたばかりには違いないこの美しい人間の横半分に光を与え、半分にあざやかな青い影を与える。夜明け前に部屋に来た彼が、仕事を終えた人のように、シャワールームで汗を流している最中に、空の夜明けは夕暮れのような色彩に満たされた後、白み始め、夜の暗さの断末魔の赤らみが、ただ、内側から発生させた白さに消滅していくのを、私は窓の向こうに感じ、起き上がって服を着た彼女は、不安げに私の顔を覗き込むが、どうしたの?、と。彼女の眼差しは言っていたのだった。どうしたの? シャワールームから出てきたLệ Hằngは、彼の身体的特徴を、最早隠そうともしない。彼の体を包んだ、上半身のシャツの下から、彼の胸のふくらみは、少女のそれとは比較にならないほど豊かに曲線を描き、パンツに描かれる、腰のくびれから臀部のあざやかなふくらみ、そして、筋肉質な鹿のような両足、これらの身体が、私の目の前で、衣擦れ以外の音も立てずにしなやかに動かされ、彼に、彼が笹村にしたことを話して聞かされる間中、半ば、彼の美しさにいつものように見とれさえしながら、驚きもなければ、悲しみもない。不思議なほどに、彼がそうしたのならそうしたに違いなく、彼がそうするならそうするに違いない。あらゆる感情が、一時、それらの存在を破綻してしまったかのように、私は、唯、自分の中身が、静まり返っているのを知っている。中身が、中が?内側が、どこが?あらゆるところが。雨の轟音以外には。一度もつけられたことのない古いPanasonicのブラウン管テレビの向こうの窓越しの空は、ただ、白く、少女は、まるで、私が彼女の夫であることを主張するように私の横に座り、彼女は背筋を伸ばす。ソファーの上に胡坐をかいたまま、彼女の右手の指先が、左手の指先のつめをなぜる。穏やかな窓越しの光は、褐色の肌に、褐色のままに輝きをあたえ、濃い影を与えた。「彼女はあなたを愛していますね。」Lệ Hằngは言った。「あなたも、彼女を愛しています。」彼女の弟も、と私が口の中で言うのを、笑んだまま諌めるような眼差しを送り、「そうじゃないでしょう?そうじゃないことは、あなただって知ってる。」昼間に、ホテルの掃除係が部屋に入ってくるまで、笹村が死んだことは誰にも知られないままだろう。「Thànhはまだ、眠っている。たぶん。Phư フーの家で」Lanは、何もできないまま、笹村のそばにいるだけだろう。唐突な悲劇が、今、彼女を襲っているのだった。「知っていますか?」Lệ Hằngは言った。あまりにも女性的な上半身の上の、あきらかに女性のそれとは違う、女性的なほどに美しい男性の顔を私に向けて、彼の体は向かいのソファーの上で、深く、くつろがされたまま、「彼女はĐà Lạtで、彼女の父親に強姦されていました。」私は彼の眼差しに捉えられ続けたまま、「彼女の実家はそこにあります。山脈の上の、頂上に作られた都市です。」彼の指先は上を、指差していた。「いつからかは知りません。彼女が身体的にそれができるようになってからでしょうか。できないことは、できませんから。」彼は一度、声を立てて笑い、「彼女の母親だってそれを知っていたはずですが、何も言わなかったようですね。他の女に取られるくらいなら、自分の娘で代替されたほうがよかったのかも知れません。あるいは、自分がするのがいやだったのか、何だったのか。」彼の指先が、ゆっくりとくず折れてその人差し指が親指に触れるのを、私は見る。「人形のように。身じろぎもせずに父親に抱かれていたらしいですね。Thànhが言っていました。丸めた毛布のようだった、と。」反対向きに開かれた手のひらが、空中に、静止して、動きを失ったまま「父親が出て行って、二人だけになると、彼は彼女を慰めに抱くのですが、」叫び声すら上げることなく、彼女は叫んでいたに違いない。何を?私にはわかりません。死んだ人形のようだったと、Thànhさんは言いました。窓越しの陽光の中の、その華奢な手に、「父親がそうしたように、Thànhさんもそうすると、彼女はゆっくりと人間に戻っていくと、Thànhさんは言っていました。」いつ?私は目を細め乍ら、さあ、と彼は「彼女の極端なくらいの、異性に対する潔癖症は、そのせいもあるかも知れませんね。」あなたは、殺してしまったんですか?不意に、私が彼の言葉を切ったとき、Lệ Hằngは、一瞬の沈黙の後、ややあって、声を立てて笑う。彼女の両親ですか?「いいえ。会ったことさえありませんから。」少女も、その声に反応して微笑んではみるが、「もし、会ったら?」

「さぁ」私と彼とを交互に不安そうに見やった。「そのとき、判断できます。倫理的に。」ね?「彼女たちには、サイゴンで出会いました。二人が実家から逃げ出してきていたのを。長い距離がありますから、いろいろと悪いことをして、このあたりまで来たようですね。」Lệ Hằngは笑った。彼が身をかがめ、その髪の毛が垂れ下がって、一瞬その顔を影でうずめるが、私は不意に、どうしようもない悲しみに襲われる。喉を中心に、神経系の中を冷たいやすりで研ぐような、さまざまな明確な意味を束ならせた解析不能な悲しみが、無言のままに私だけを襲い、「どうしましたか?」少女のため、ではなかった。たぶん、笹村のためなのだろうか。私たち以外の、誰か他人のために。なすすべもなく、無防備な悲しみが体中に点在して、つらなり、反響し、くず折れさせ、かたまったまま少女は私を胸に抱こうとするが、湿度を持ったむせかえるような彼女の体臭の中に、Lệ Hằngは普段着のままに、いつものように警備員に手を振った後、夜、深い時間、或いは、まだ、朝にならない早い時間に、ホテルの廊下は暗く、非常灯以外の照明は消されている。赤、緑、さまざまな光の色彩が、彼の身体を照らしたに違いない。ノックすると、ややあって、Lanが出てくるが、彼と彼女は今まで会ったことはないはずだった。妹よ Em ngữ đi 寝ていなさい、彼は優しく彼女の肩をたたき、当然のように部屋の中に入るのを、Lanはただ、不可解に思いながら眺めると、ベッドルームの中に消えていった彼は、ベッドの上に上がり、まだ眠ったままの、裸の笹村の上に覆いかぶさる。Lanはドアの近くに立ったままそれを見ているが、何が起こっていて、何が起こり得るのか、彼女の認知し得る範囲を超えているそれは、彼は長くはないナイフを出して笹村の首筋に当てた。動脈から声帯をまで一気に傷つけたそれは、彼の目覚めるより早く大量の血を一気に噴出さしめるが、意識のないまま目だけを覚ました笹村の、何をも見てはいない見開かれた目に見つめられるまま振り向くと、壁のすれすれの距離に、Lanは背筋を伸ばして立ち尽くしていた。表情という表情がすべて剥ぎ取られた純粋な無表情を晒して、Lanは、笹村が既に死んでいるのは知っていた。仮に生命機能は未だに保持されていたにしても、既に致命的に破綻したそれらは、文字通り破綻した四肢のもがきの中でのたうつ。空気の漏れたような低い音声の無造作なつらなりとともに。Lanは既に知っている、既に、なすすべもなくそれは破綻した。Lệ Hằngは身を起こしながら女に近づいたが、自分の至近距離の接近にも、その瞬間、何の反応も示しはしない、その女から身をかわして、部屋を出て行くLệ Hằngを、Lanは彼がいなくなって随分経った後で、それを認識したが、そのとき、Lanは床に座りこみ、意識が、取り戻された意識を意識することを、必死に取り戻そうとする距離感の中に、あまりにも近すぎる至近距離の中で見つめあったあと、少女は、腕に抱きしめ合いもしないままに、私は彼女が自分から服を脱ぎ捨てるのを見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が上がったばかりの、白ずんだ空が窓の向こうに、混濁した光の束になって、彼女の伸ばした指先が私の唇のかたちをなぞろうとするが、不意に、声を立てて笑う彼女に、どうしたの?私は言った。Anh nói gì ? 彼女は、くぐもったようなあのやわらかいアルトで sao anh nói vậy ? 言い、その音声を私は耳に聞き、「どうしたの?」私は言った。声を立てて小さく笑って、少女は、上目越しに、その目で Đó ý ta nó… 言う。私のまぶたの どういたぁのぅ形態を追いかけながら、Đó ỹ tá nó … 彼女は言う。耳を澄ましながら、Đò sĩ ta nò… 私は彼女の唇の動きを見る。思い惑いながら、決して確信されて開かれることのない、あいまいな唇と、あいまいな動きと、そして、自分が裸になったことさえ忘れてしまったように、それ以上の何かを求めるわけでもなく、私の上に覆いかぶさったまま、Đo ý tá nò… 笑みに、顔を崩し、私をのぞきこむみように、「なに、かんがえてる?」その音声を耳に繰り返して、gì ạ, …khó 彼女は笑い、Nà Nhĩ cảnh… 八つものシラブルを、è thể rũ nò … 舌の上に模倣して笑い、Nà Nhĩ cảnh gà è thể rũ nò … 父親が彼女の体の上から離れた後で、ベッドの上に一人残されているのに気付くが、nà nhĩ cang gà é thề rũ núo…硬直したようになって、そこに仰向けに横たわっていた彼女に弟は近づいてその頭を撫ぜてやったとき、そこに弟がいたことに彼女は気付いた。なにを考えてるの?今、なにを

Anh nói gì vậy ? 言ってるの?昏いあらゆる感情が渦になって溶解しあうことなく、とはいえ、しずかに喉の奥にあって目覚め続けているそれは、彼女は自分の頭を弟が撫ぜ続けて居るのを知っている。その、華奢で、女性的な、まるで妹のような弟は、 Anh noai gì vậy… 私は言い、毛づくろいをする猿同士のような愛撫が、あの時、不意に弟は父を模倣するように、彼女に、 ăn nói ghì vây … 彼女は知っている、性欲の結果とはいえないその行為が始まって仕舞えば性欲の渦をまかせ、飲み込ませてしまうには違いなく、結果として同じことにすぎないそれは、ằn noai gì vậy… むしろ、彼女は弟を自分から受け入れさえしながら、感覚し続けるのは、自分の身体の硬直がとけていくのを、弟は唇を、彼の父がそうしていたように押し付け続け、知っている。anh noai gì vậy … 彼女が朝、不意に視線のどこかであの新しい父の姿を探してしまったが、高山の冷たい外気に触れたときに、いつも気付かされるのは、自分が特殊な存在であることだった。確かに彼女は特殊であるには違いないと、なぜなら、anh nói gì vậy anh nói gì vậy」こんなことは、誰もしていないことを知っているからだ。少なくとも彼女の半径1キロメートルの中に。「なに、いった?」Na nĩ ỳ tà…  彼女の視界に、朝早いカフェの中年の女が見せの前を掃き掃除しているのを見留めるが、Nà nhĩ tà…  一瞬、息を潜めながら、彼女の特殊性が解消されえることなどあるのだろうか?彼女は、Nang nhĩ ta… 知っている、既に、そして彼女は、この高山の上の天空都市の空はあまりに雲が近く、曇り空からそそぐ光が、あらゆるものの色彩の過剰を喪失させながら、あざやかな na nì ỳ ta… それ自体の色彩を描き出す。あの、あそこで掃除している痩せた、中年の女のありふれた、すさまじいほどの特殊性に、彼女はその目を疑う。かつて、Nàng nhĩ ta… 彼女のような存在など、存在し得たことなどなかった。「Khó quá」困難すぎます。むずかしすぎるわ彼女の存在は、痛さそのものだ、彼女の視界の中で、có ưa その、目に映るものすべてが痛い。có ủ àなぜ、そうなのか問うすべすらなくkhò ưa… ただ単に痛いものに対して kho qua… なしうることなど何もない khó quá… 彼女は、「khó quá」今、ここで、私が死んだらどうしますか?Lệ Hằngは言った。彼女自身が痛みそのものでしかなかったことさえも彼女は、「今、ここで、私が死んだら、どうなりますか?」微笑みながら、私を見つめ、「例えば、あのナイフで、」Lệ Hằngは自分の首先に指を当て、それを暗示し、かつて、私は彼を見つめ、与えられたことなどなかった、奪われたことさえも、何ものも、かつて、何もかも、何ものにも、「死?そう、死さえも、」彼は言い、何ものも、奪われたことも、何ものをも、与えられたことさえも、何によっても、「私たちには無力です。」なかった、何ものによっても、かつて、「私は、誰も殺しはしなかった。」私はLệ Hằngの脇を通り過ぎ、笹村の部屋に、足をしのばせながら、ドアに鍵はかかっていない。


序(7)

ドアを開け、ベッドルームの、その上には笹村の、ややあって、振り向くと、彼女は壁にも垂れて座っていたが、そのとき、私は彼女の気配の存在のあったことに気付く。最初から。ずっと。死にました、と言った。Lanは、笹村さんは死にました、と、私は彼女を見つめるが、その、表情を喪失したまま未だに戻させない彼女の、その目は私を見つめ返すことさえなく、私は知っている、彼女は店に戻るだろう。事実、そうだった、彼女は、そして、「もう、お金がもらえません」彼女が言った、その彼女はまた、今までのように、他の客に抱かれもし、「日本にも行けません」彼女は言い、彼女は笹村を愛していた。純粋に。何のためでもなく。彼がそこにいて、「私はお金がほしいのに」彼女に焦がれてさえいれば、「欲しくて仕方ないのに」それでよかったには違いない。彼女は結婚し、台湾で暮らす。やがて、必ずしも豊かではない台湾人と。私は知っている、彼女は涙さえ流し得ず、私にかける言葉を見つける隙さえ与えることなく、私は部屋を出るが、Lệ Hằngはすでに立ち去った後だった。悪魔のような君は。部屋の中で、一人であのソファーに座り続けたままま、少女はしずかに泣いていて、どうしたの?私の音声に、彼女は振り向き見るが、彼は既に、立ち去った。「どうしたの?」私は言い、どうしてこんなにも涙で赤らんだ目で、涙は彼女は、穢らしいのだろう?見つめられるままに例え、それがđò sĩ ta nò… 微かに愛するものの震えを持った唇がそれだったとしてもその音声を発し、私は聞く、Thànhは、あのとき、不意に父親の行為を模倣してしまったに過ぎない。彼女の身体に対して、その、美しい褐色の、このかぼそい身体は朝の光にゆっくりと照らし出されて、私は、彼女の、đõ ì tà nó …その、 Thành は独りで彼の男性の目覚めるままに、病んだ惨めな生き物たち。発情した性欲にまかせて抱いたのだった、彼女を、胸焼けするような性欲の波に飲まれ、彼は知っていた、đo sí tà nõ …私は聞く、彼女の音声は、そしてThành は目の前で毎晩のように繰り返された、泥酔したわけではないが、軽く酒の匂いさえさせることもある父の長い行為への嫌悪感に対する代替として。その存在を自分の匂いで消去しようとする犬のように。彼はđò sĩ ta nhỏ…知っていた、私は、父と同じ行為をすることによって、彼女の音声を聞きながら、Thànhは自分には与えられなかったこの美しい女性的な身体に対する、ではなくて、それを当然のものとして所有している彼女自身への嫉妬と、このような形の身体への果たされえない自己所有欲の代替として、彼女を抱いたのだった、彼は知っていた、自分に永遠に与えられることのないこの形態こそが、私は、彼の本当のものなのだと彼は意識して、聞く。その意識の中で、彼女の息遣いを、彼が少年であったことなど一度もなかった。あらゆる少女たちが憧憬と幼い発情のままに見つめ、見つめ返せばいよいよ開かれる瞳孔か、わざと逸らされるその視線で、どうにかして彼を絡娶ろうとする知ってる?無言のままのねぇ、息遣いが、あなたは、彼は美しい。あらゆる少女たちに愛されていることを知っていた。彼は美しい。美しいものが情欲にまみれた発情した視線で汚されない瞬間はなく、そして、それらの視線はついに何ものにも触れえずに、彼を汚し得はしなかった。何ものによっても傷付けられえない彼は、私は知っている、彼女たちは、そして、私が朝、目を覚ましたときThànhは私を、彼は窓際に立ったまま私を見つめていて、姉がLệ Hằngの取り巻きの誰かの家の命日のパーティの手伝いに行って仕舞ったのを私は知っていた。彼女は忙しい。あなたの友人は、今、忙しい。今日は、そして、彼はややあって、不意に私の傍らに腰掛けると、一切手を触れないままに、私の頬に口付ければ、最早留めようもなく、彼は私の唇を、むさぼるように、私は同じように、彼の、そして、私は彼を愛してさえいるのを知っていた。彼は知っていた、自分の身体と性別が必ずしも一致してはいないことは知っていて、彼の身体は彼が本来愛するべき身体をとめどなく形成していっていた。すでに。今、彼は掠娶らなければならない。本来自分が愛するべき身体を?少なくとも、彼の愛する姉から、その恋人を。本来、彼は、彼の恋人であらねばならないから。彼が彼を愛している限りにおいて。彼にはついに、自分が何を望んでいるのか識別できない。私も。私たちは、彼が私を愛していることだけを知っている。すべての認識は、結局のところ、愚劣なこじつけか逃避にすぎなかった。私の指先が彼の少年くささの抜けようもない身体を撫ぜるのを、彼の身体は気付く。目を閉じることさえなく、彼はその身体にしがみつくように、そして、彼は多くのものを奪った。あの高山の町から、そのふもとに広がる平地の先の南部の町にたどり着くまでに、彼は多くの細かい金銭を奪い、何度も掠め盗り、彼らは彼らを拘束する住み慣れた家族の家から逃走した。あの日、祖母の命日のパーティの準備のために明日朝早く起きることを命じて、姉がそれを拒否したときに、母親が姉をひっぱたいた仕返しに、姉が母を殴りつけたときに、彼はここにいることはできなくなったと知った。危うく成り立った全ての調和を彼女は壊して仕舞った。あの後で姉は泣きじゃくって、彼は追い出されるように家から逃走した、姉を連れて。次の日の朝、夜の暗さが急激に崩壊していく夜明けの五時半に。姉は何をも理解してはいなかった、彼女はその逃走を拒否しようとしたのだから。彼は彼女を奪い去るように、あの朝、高山の霧に包まれた白ずんだ、濃く白濁した淡い朝の色彩の中で、細やかな驟雨の中に、姉はLệ Hằngに言ったものだった、あんな人たちとは一緒には生きていけないから逃げ出したのだと、サイゴンのはずれの雑貨屋で、弟が拘束されかかったのを彼に見留められたときに。何度かの成功のあとでついに失敗した盗難。少女は知っていた、Lệ Hằng、この美しい男は自分たちを保護するには違いない。羽交い絞めにされて、店の男に殴打される弟に投げかけられた、この美しい男の眼差し。そして、彼らは、あきらかにさまざまな彼ら以外のものの被害者だった。父親による、母親による、父親に、それをやらしめたさまざまなものによる、母親にそうさせたさまざまな、姉にそうさせたさまざまな、彼は被害者に違いなかった。それをThànhは知っていた。彼は彼自身に他ならないが、彼は彼自身についに触れることさえできない。とてつもない隔たりの中で。べったりと一致する。彼は目の前の日本から来た男を愛していたが、彼と言葉を交わすことさえできない。見つめあい、言葉が崩壊した中で魂に触れる。私は彼を愛していたことを、すでに、私は知っていた。彼と同じように。いかなる相等性も与えられないまま、彼は、同じカテゴリーのの身体が、私は、にもかかわらずどうしようもなくぎこちない交配を重ねた先に、彼自身が体内へ射精されたのを知覚し、私が、引き抜かれた肛門からそれが垂れ流れるのを感じたときに、Thànhは、彼が初めての男だったことに気付いた。私が。姉の身体は、絡みつくように彼の身体を抱きしめたものだった、彼女が父にそうしていたのと同じように。まるでひとつに溶け合って仕舞おうとするかのような。修正不能なまでにもつれきって仕舞おうとするかのような。むさぼるように、父の唇に舌を合わせて、あの息遣いを、Thànhは思い出すこともなく彼を今、見つめ乍ら、自分は幸せにはなれないだろうと思った、決して、充足した幸福感の中で、姉の、母親に対する触れたら指を切り裂いてしまいそうな憎悪と、敵意のその眼差しと、すれ違えば砕け散ってしまいそうな、彼女は父を憎んでいた。そして、より多く母を。あの女こそが、あの男にそれらをさせた張本人に過ぎなかった。少なくとも、彼女の認識においては。どうしようもなく。私が私であったことなど一度もなかった、生まれさせられる前から既に。私は私を経験した。笹村が私を待っているはずだった。私が私であったことなど、一度も、彼が彼であったことなど、なかった、一度も、彼女が彼女であったことなど、なかった、一度も、生まれさせられたときから、なかった、一度も、すでに、営業戦略会議だ、と笹村は言ったが、現地のスタッフを、彼らには聞き取れない早口な日本語でどやしつけるだけの余戯にすぎないことは誰もがすでに気付いている。まだ、朝は浅い。私は身を起こして、Thànhは私から目を逸らして、一瞬、彼自身の存在そのものを恥じているような媚を見せたが、何日か前、初めて彼の姉を抱いた日の朝に、Cảnhの家のはす向かいでコーヒーを飲んでいた私に後ろから近寄って、彼は私に手を触れ、こぼれるように微笑んだが、姉はどこかの家の家事の手伝いに追われて、こんなところに来る暇はない。当然のように消失して仕舞った、夜の獣じみた少年の、欲望にまみれたたたずまいの影を探そうにも、最早どこにも存在しないことだけを、私は目の前に確認しながら、Cảnhとその友人が話しかける言葉には一切答えようともしない不埒さのままで、座り込んだ彼はスマホをいじって遊び続ける。虎と言うよりは猿に近い顔立ちのベトナム現産の猫の雑種が、床の上に走り、立ち止まって、向こうに耳を澄ます。振り向き見るが、猫がこちらを見ていないことはすぐに知れる。私の背後の遠い向こう事象を、耳の中に、猫は見つめ、猫は知覚する。笹村は言った。ホテルの彼の部屋の中で、彼はサイゴンと言う名前のビールの缶を開け、私に勧めた後で、「どう?ベトナムは。慣れた?」まだ、ここに来て一週間と少ししか経っていなかった。ええ、いくらかは。私は答え、笹村はLanの頭をあやすように撫ぜるが、ソファーの彼の傍らに座ったLanは笹村の所有権を主張するようにしなだれかかり、私を媚びた眼差しの中に捉え続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本に、帰りたい?」笹村の質問に答えあぐねて、笹村さんはどうですか?「そうだよね」私の質問には答えず相槌を打ち、「やっぱり、帰りたいよね。日本が一番いいもんね。寂しいでしょう?」テーブルの上には韓国のスナック菓子が広げられていて、「ランちゃんはベトナムがいいって言うの。日本には行きたくないって」彼の口は、ベトナムの食べ物は一切受け付けない。同じように、Lanは加熱食材のスシさえも受け付けない。「不思議だよね」不意に、私は、笹村さんは、何か、宗教があるんですか?Lanはややあって、思い出したように私を見たが、一瞬、笑い声を立てそうになるのを押し殺して、例えば、キリスト教とか、私が言うのを聞く。Lanは、一切自分にかかわりのない会話を聞くように聞いた。それが、偽った表情なのか、素直な表情なのかは私にはわからなかった。「ないよ。ないけど、」とたんに、彼がカラオケ屋でするような下卑た表情を作って、「どう思う?まじめな話だよ。不思議じゃない?例えば、キリスト教徒だったとするじゃない、あなたが。で、人間に殺されちゃった神様の子どもの世界の中で生きてるんだよ。どういうことなの?神様は自分の子どもを殺しちゃったんだよ。何のために?人間を救うために?でも、この世界は人間の世界じゃないんだよ。神様の、神様のための世界なんだよ。一神教って、そういうことでしょ。神様が人間なんかのために自分の子どもを殺しちゃうのは、何かの間違いなんだよ。とんでもないことだよ。神様がそのために自分を殺さなきゃいけないほど人間って言うのが重要なのなら、その神様は神様なんかじゃないんだよ。そのとき、絶対的な価値は人間のほうにあるんだから。むしろ、その瞬間に、神様自身が神格を放棄して、人間のほうに与えちゃったってことだよ。その瞬間に神様は神様をやめちゃったってことなんだよ。例えば、すっごく大好きな女の子を抱きしめたとするじゃない。たまたま、頚動脈を押さえちゃって、その子、死んじゃったとするよね。君の腕の中で。なんか、そんな感じ。なんか、そんな感じの過ちだとしか思えない。むごい」あなたは、私は言った「何か、そういう過ちをしたことがあるんですか?」笹村は嘲笑うような表情のまま、「キリスト教に興味はない。キリスト教を信じることに興味がある。キリスト教を信じないわけじゃない。キリスト教が信じられていること自体が信じられない。」彼は、そのまま、一瞬黙り込んだが、そうじゃなくて、「何か、」私は、そういう「あなたは過ちをおかしたことがあるんですか?そういう」過ちを?ついに、問いただすように、私は言った。「罪を犯したことがありますか?」笹村はビールを煽るわけでもなく、酔いつぶれたように息を吐く。匂いさえ感じられる気がするほどに。「ないよ。」笹村は当然のように言った。なぜ叱られているのか理解できなで不貞腐れた子どものように、「中国にいたとき、カノジョがいたの。チャンさんっていう子。チャンちゃんって呼んでたの。かわいいでしょ。チャンちゃん、ね。大してかわいくないけど、やっぱり、かわいい子でさ。彼女、私と付き合う条件があるって言うの。何だと思う?煙草、吸わないこと。僕、ヘビースモーカーじゃん。私より先に死んでほしくないから、絶対、煙草すっちゃ駄目って。僕、彼女、好きだから、言ったの。いいよって。約束ねって。でもさあ、ねぇ。ずっと、もう、秘密ね。ずっと。チャンちゃんの前じゃ吸わない。悲しむから。ヒミツ。絶対。彼女の誕生日の前日。ホテルの部屋にいたの。そこ、バルコニー広くて。チャンちゃん、バルコニーにいたの。僕たち、そこから外、見るの、好きだったから。彼女が、そこから外、見るのが好きだったんじゃないの。僕が、好きなの。だから、チャンちゃん、僕の真似、してるの。どう?わかる?彼女、かわいかったから、後ろから抱きしめようと思ったの。ギュって。一瞬、僕、ポケットから煙草出したの。いつもの癖で。火、つけたの、ライターで。音、するじゃん。ジュって。」ジュッと、その、ジュッと彼の口が発音した瞬間に、笹村はすべてを思い出したように小さくのけぞって、瞬いた。「彼女、振り向いたの。僕、煙草吸って、僕、フーって。わかる?チャンちゃん、びっくりしすぎて、無表情。どうしたと思う?チャンちゃん、飛び降りちゃった。あっという間に。手すり飛び越えて、飛び降りたの。飛び降りた後で、悲鳴、たった。そりゃあさ、たったよ。あー!。あー!。下のほうで。見えなくなってから。音、したの。すぐ。どん、って。」笹村は言い、サイゴンと言う名の現地の煙草に火をつけ、ややあって、私を見た。しずかに、私の心の中まで見透かしたような、穏やかな目で。「で、どうなったんですか?」私の質問に、「もちろん、死にましたよ。十階でしたからね。彼女も、この子と同じような職種の子だったから。特に警察も来なかったよ。どこの部屋の女かもわからないんだから。」彼の煙草の煙は空中に白く舞い、「どうしました?あなたは。」彼は不意に、「泣きましたよ。悲しくて。今でも」笹村は言葉を切った。沈黙した。ややあって、不意に、笹村は泣き崩れた。どうしようもなく嗚咽を漏らして、指に挟まれたままの彼の煙草の煙が空間の中に、照明に照らされて白く細かくきらめくのを見るが、それはゆっくりと拡散しながら消滅し、Lanは何も言わずに笹村の背中を撫ぜ、介抱する。今、彼が死んで仕舞うかのようなしずかな切迫感で。目を逸らしながら私は、やがて、泣き止んだ笹村が言った。鼻をすすって、「わかりますか?」私は、「わかりますよ」たぶん、サイゴンに雪がふったら、わかると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…いいね。」笹村の顔が「そのセリフ。いいね。」笑みに崩れ、彼は声を立てて笑い乍ら、「今度、俺も使うよ。従業員に。サイゴンに雪が降ったら給料上げてやるって。」物音で目を覚ますと、ドアの向こうで物音が立っていて、それは少女が私のかばんを広げて、私のわずかしかない衣類を整理していたのだが、寝起きの私はまどろんだままホテルの、ベッドルームの、カーテン越しの朝の陽光に目をやり、「俺にはね、」笹村は言った、「キリスト教が、じゃないの。それを、信仰するっていうこと。それが、わかんないの。」私はもう一度寝ようとして目を閉じるが、「イスラム教なんか、わかりやすいよ。ふつうの。普通の宗教。宗教としては、わかりやすい。じゃない?神様えらい、それだけ。」私は笹村の、酔いつぶれたような顔を見て、それは振りをしているだけだ。起きあがるには早すぎるが、もう一度寝るには時間が深すぎるには違いなく、時間はもうほとんど残されてはいない。「信じるって何?けど、俺たちも、無茶なことを普通に信じてるよね、例えば、」諦めて向こうの狭いリビングに行くと、「潔癖症患者が手を触れることができない日常的なものに日常的に適当に触れてるでしょ。バクテリアや細菌が跋扈してる、さ。でも、」少女は私のかばんをひっくり返して、私の衣類をたたみ、厭きもせず「そっちの、病気な奴らのほうが論理的なわけでしょ。合理的。すっごく、」小物類はテーブルの上に綺麗に整理されていたが、その、それらがどのような意図で分類されたのか私には一切理解不能な整理法の、「それって、俺たちのほうが信じてるってことでしょ。それじゃなきゃ、頭おかしいんだよ。じゃない?」それとこれとは、話が別なんじゃないですか?話を割る私を、笹村は不意につまらなそうな顔をして、Lanは私から目を逸らした。それが私の途方もない過失であるかのように、笹村は前のめりになって、私に言った。耳もとに近付けられた口で、「違う。全然別のもの。違うんだよ。」私は、しゃくりあげながら泣いている少女の前にひざまづいて、「どうしても、俺には理解できないわけ。キリスト教、信じてるってことが。キリスト教、信じるってことだけは。おれ自身、とんでもない迷信、信じてる病気じゃない奴らのほうなのに。俺、理解できないの。」少女が、なぜ泣いているのかは知っていた。あなたは、キリスト教徒なんですね、という私に、ソファーの身をうずめるようにもたれて、Thànhのせいのはずがない。「やっと気付いた?今頃?」笹村が私以外のすべてのものを見下すような笑い声を立てるのを、「誰にも信じろと言われたわけでもないのに、ね?」その、私に対してだけ向けられた、「頭、おかしいでしょ?僕。」敵意を含んだ親密な眼差しを、Thànhは朝早くに出て行ったの違いない。まだ暗いうちに。あるいは、朝と呼ばれ得る時間の前に。彼は彼女を泣かせることなどできない。今まで、一度たりとも、彼は彼女を泣かし得たことなどないのだった。私は彼女に言葉をかけようとし、触れれば、泣き崩れてしまうかも知れない予感が、私の、彼女にさし伸ばした指先を、私と彼女の間を隔てた空間の中に静止させるが、私が泣き崩れてしまうのか、彼女が泣き崩れてしまうのか、私にはわからない。私は知っていた、彼女は昨日から時に目を覚ましながら泣き続けていたに違いなかった。間歇的に。静止した指先の、静止したその理由を私がまだ知らないことに気付く。時に泣き止んだときに眠りに落ちながら。彼女は。朝の光は指先を、その向こうの至近距離に、彼女の褐色の首筋から上をやわらかく照らし出すが、ショートパンツとTシャツの下で、身体は彼女が手を動かすたびに、鮮やかな褐色の皮膚の下の筋肉と骨格の動きを、鮮明に私の視界に与えて、やわらかい影と光の交歓が、その皮膚の上を這う。彼女が私のシャツを引っ掛けて破いてしまった瞬間に、私は声を立てながら彼女を殴打したのだった。なぜ?、短い怒号がたって、どうして、何の怒りさえも感じていないのに?わたしをその首筋が抱きしめたの?しゃくりあげるたびに痙攣的にひきつって、そしてふたたび、影と光を何度も一瞬だけ乱し、記憶に窓の外で、強姦される。庭の誰かの甲高い話し声と、いつもふたたび、その向こうの大通りの何度目かに。バイクの連なる低い騒音が、どうして?私が母親を殺して仕舞ったとき、その後で、私は帰ってきた父に、私は父を手招きした。私は十四歳だった。十二時をまわる寸前に、父が玄関のドアを開けて、返って来たのは音で知れた。私は私の部屋の中にいた。夜は遅かったが、私は寝られず、私は眠れなかった。いつも、こんな早い時間に寝たことなどなかったことに、私は気付いた。ドアを開け、台所に下りて、私は水を飲んでいる父を手招きした。何と言うべきかわからないまま、言葉さえかけずに。私は何も言うべきを言葉を見つけられないまま、やがて父は導かれた私のその部屋の中で彼の妻の死んでしまって数時間経った身体を見つけるが、そのとき、彼は一瞬の沈黙の後、不意に、息を吐いて、ひざまづくように崩れ落ち、しゃくりあげるようにして泣き始めるのが私には、どうしたんだ、と帰って来た父は言った。私は彼から目を逸らし、何も答えないままに部屋に帰って行く。彼が私に従って来るのは知っている、背後の気配で、それを、私が閉められてはいないドアを押すと、当たり前にドアは開いて、私は息を飲む。母親の死体を眼にしたときに。私は知っていた。彼女の身体は、その行為のさなかの、身包み剥ぎ取った裸体のままベッドの上に横たわっていて、閉められた首の赤らみさえ既に消えうせている。何時間か前の、あの身体の極端な緊張は最早ない。私が殺して仕舞った彼女のそれを見つけたときに、私は息を飲み、立ち尽くすが、彼は私を押しのけるように、部屋に侵入した彼は、一瞬沈黙し、ややあって、くず折れるようにひざまづいていた。私は彼がしゃくりあげながら泣き始めるのを見る、その背中の側を、やがて泣きやんだ彼は、振り向きもせずに、お前が?と言うのだったが、涙を拭いながら、彼は泣きやまない。ずっと、このまま朝になるまで泣き続けさえしそうな気がする。朝までには長い。気が遠くなりそうなほどに長い。彼は、今、彼がすべてをなくしてしまったことを知った。すべて。誰の?なんの?どんな?すべてを。彼女の身体に、何の嫌悪感もなかった。おそらくは。私は。当然のように、彼女はそうしたのだから。私を手放すことさえできず、赤ん坊を腕に抱き続けるそのままに、彼女は私を抱いて眠り続け、抱きしめ続けていたのだから。小さな頃からずっと。私はそれに対して何を言うこともできない。むしろ彼女が私を手放したら、私は泣き叫んだかも知れない。傷付いて。ぼろぼろに。私は彼女を愛していた。彼女は私に殺された。私は、私が特殊であることは知っていた。あらゆるすべてが、あまりにも特殊で、最早何ものにも還元できないことをは、すでに君は知っていた。あの褐色の少女は。君は君でしかあり得ず、絶望的なまでに、君は君であったことさえない、無慈悲なほどに、私は特殊でさえあり得ない。それは君が生まれた瞬間に超えられて仕舞っていた。特異であることが個体性そのものの存在条件にすぎないとき、当然の特異性に特異性など存在しはしない。あなたにはわかるか?泣きやんだ父に、わかりますか?私は言おうとした、わかる?なぜ、俺がこんなことをしたのか、あなたには、お前か?彼はすでに知っているはずの質問を私に投げかけたが、「お前が?」俺にはわからない。俺には、そして私はそれには何も答えないまま、いつかこうなるとは思っていたと父は思っているはずだった。いつか、何かが破綻すると。誰のせいで?「いつか」私のせいで?「こんな風になるって」あなたのせいで?「思ってたよ。母さんとも」私たちは知っていた。「時々話していた。」私の上でそれをする彼女を抱きしめた私の腕の、「このままじゃいけないって」その指先が、彼女の首筋に触れたときに、私は彼女を愛していたわけでもなければ、「ごめんな」そこに何の欲望があったわけでもない。「何もできなかったな、」憎しみさえも。「お父さん、何も」覆いかぶさった身体は、どうして?下に敷いた身体を抱きしめるようになっている。秘密にされたものはそれが秘密にされている限りすべてを秘密にして仕舞う。それに腕を廻しさえすれば、それは、それを抱きしめたことを意味する。誰ににも隠された暴力は暴力の事実を隠し通し、逃げ場はみずから消滅させられる。汗ばんだその身体の首筋に触れたとき、私はその首の形態を、なだらかな曲線をなぞるように、絞め付けられた指先の、その手のひらの下で彼女が窒息を起こしているのは知っていた。大人にならなければならない。手のひらの、指先の力が緩められない限り、それが何を意味し、どうなるのかも知っていた。大人になって、と。もう少し、と私は思い、もう少し絞め続けていても彼女は死なないですむのか、もう少しで彼女を死なしめ得るのか。それは、いずれにせよ、もう少しだった。大人になって、あなたを奪ってやらなければならない。

あなたの悲しみを癒し、

あなたにすべてをささげるために。

あなたが、あるいは望んだとおりに。行為のさなかに、人間の身体の上で窒息していく身体が、ああまでも、屠殺された醜悪さで、崩壊していくことを初めて知った。あなたに、すべてをあげよう。人体の破綻に、今、愛することが、まみれている気がしたし、無条件に捧げ尽くす以外に  事実、その表現形式を持ち得ないから。そうだった。彼女が既に死んだのに気付いたとき、それは彼女が死んだ瞬間だった。やり過ごして仕舞いそうな一瞬に、彼女の身体は死んで仕舞っていて、さようなら。それは目の醒めるような瞬間だったが、わたしは、すでに、わたしに、なる。過ぎ去って仕舞っていた。彼が、刑事処理をしないことは気付いていた。彼が、そして、事後処理をする彼にすべてを任せたまま、立ち尽くす。居場所はなく、私に存在価値などない。彼女の死体は彼らの部屋のベッドに移されていた。彼女は、私が仕事から帰ったときには、ベッドの上で、独りで死んでいたんです。彼は、自分自身の体液で汚れた彼女の身体を洗浄してやらなければならなかった。彼の母と、彼の離婚して帰ってきた妹と、その二人の子どもたちが寝ている間に。虚脱した身体を肩に無理やり担いだ彼は、やがて部屋を出て行くが、誰もが知っている。そのとき、告白されない秘密は私はベッドの上の気付かれなかったに等しい。あと始末をわたしは、しなければならない。口を閉ざした限り、名前は?何も気付かなかった。私は言った、What’s your name ?...私は、失礼ですが、お名前は?彼女の、em ten gi ?...そしてえむてんじー彼女は耳を澄まし、その耳から入ってくる音声に、わたしは耐えられないように、時にそのやわらかな、褐色の肌に指先をのばし、教えて。触れようとするのだが、anh nói gì ? …きみのすべてを。彼女は私の上に、捧げて。四つんばいでまたがったまま、きみのすべてを。私を見つめながら、隠し通した記憶のすべてをさえ、微笑みの中で、含めて。その髪の毛が首筋から胸に垂れ落ちて、私はくすぐられるにまかせる。微笑みの中で、Eng tên gĩ ? …あのとき、彼女たちの粗末な部屋の中で彼女を待ちながら、私が眠ってしまったのを、anh sao nói gì vậy ?私を探し回っていたに違いない彼女は、何してるの?息を荒く切らせながら私をゆすって起こし、微笑さえして、ねぇ、今、こんなところで  em tenh gì ?... 既に、夜の浅い時間の暗さの中に、通風孔からの外部の光だけが薄く壁に当たって、そこ以外には、確かに光の入ってくる余地もない。anh nói gì ?... ベッドの上に身を横たえまま、その肌に伸ばされる私の指は、em tên gí ?... 欲望に飢えるわけでもなく、求めるということは、sao anh nói gì vậy ? 何なのか?何?ねぇ、何?何かを求めているわけでもないのに?どうしたの?何をも、em ten gí …anh nói gì ? 求め得もしないのに?彼女は覗き込むようにして、私の顔にみずから唇を近づけさえしながらeng tẽn gì ?...私はその指先が彼女の頬に触れる直前の一瞬に、 anh sao nói gì vây ? いつ、終わるのだろう、と私は不意に思いさえする。どうしたの?これらのことが、あらゆるすべてが、いつ、それを、ねぇ、すべての、em tên gì ?...こんなこと、

― em tên gì ?...名前、教えて。あなたを愛しています。望みさえしていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― Ly, …li ly. 彼女はあなただけを。言った。リリー。私はもはや、永遠に。彼女が、リリーという名前だということを知った。Lily、ゆりの花。褐色の、白百合。 tên anh là gì ?彼女は私の唇のすれすれで、あなたの名前は?彼女はそう言った。潤。私の答えを、その同じ距離の中で彼女は、そして彼女は私の答えを聞いた。Dương …そう。じゆん彼女の唇はつぶやき、私は知っていた、そう彼女は私の名前を知った。褐色の白百合。Li Ly、そう、私は、そっか、その名前を呟き、その唇が、Lily、そう動くのを彼女は見つめるが、かすかに持ち上げられた私の指先が、その、私の指先が彼女の頬から遠ざかるのを拒否するように顔を寄せ、私の指先の、私は指差した。私は彼女が彼らの部屋の隅に作っていた、小さな仏壇の小さな観音像の傍らの、百合の花を指差し、私は言った、Lily、華奢な、白い花瓶の中の、そのLilyを、リリーは首を微かに振って、指先に頬を触れさせようとしながら、không, 指先は彼女の髪がもたれかかるのにまかされて、không phải là hoa huệ 彼女の伸ばした指先は水周りの先に視線を投げさせながら、違うわよ、小さく声を立てて笑う彼女の名前がベトナム語で、その、水周りのあたりの何かを意味することだけ、私は理解した。Li Ly にとって、その名前は絶対にLilyをは意味しない。それは彼女の知りもしない言葉に過ぎず、それ以前に、li li であって、LilyLi-ではあり得ず、li ly lilyに等しいことなどあり得ない。なぜなら、微妙な発音の違いが、その言語では「あ」と「ん」の違いほどの違いを意味するから。ほとんどすべての、ベトナム人以外が想起するに違いない連想は、この褐色の白百合にとっては、あるいは、彼女の言語にとっては、不可能な連想以外の何ものでもない。その名前は、あるいはその名前の連想させずにはおかないその純白の花は、その持ち主に他ならない彼女に、むしろ永遠に触れられることのないままに、朽ちて行くのだろうか?雨の中でも、色あせさえしないその花の、土砂降りの雨がいつの間にか降り出していたのは知っていた。その騒音が空間を静かに満たし、私は雨の匂いさえ思い出す。心の中にだけ、あの、何ものにも例え得ないその匂いを、彼女は私を見つめ続け、微笑んだまま、Thànhはまだ帰ってこない。もう帰っては来ないに違いない。傷ついたThànhは。彼は、君が殺してしまったようなものだ、と私は思う、褐色の白百合、君自身が、リリー、と私は思い、彼女に言いかけるものの、言葉を頭の中になぜるが、手をのばされたまま何ものにも触れられ得ないそれは、私が伝えるべき言葉を、語彙の記憶のひとかけらすら、それらはもとから存在さえしていなかったことに気付く。私の中の、どこにさえも。君が、もう、殺してしまったのと変わりはしない、私は知っている。褐色の百合、君の、その弟は、そして私は、目を閉じたままに、Thànhはベッドの上に横たわらせた私の裸体を一瞥した後、彼は唇をむさぼりながら、彼の指先が私のそれに触れるのを感じる。彼はそれを指先になぞりながら、私はその触感を感じていた。彼はそれに顔を近づけ、唇を寄せて、接近した唇は、やがて唇がそれに触れる。かすかに。やがて、彼は私の体の上に座り込むようにして、時にその姉が自分の上でそうしたように、腰を動かす。彼は彼のそこで、彼の愛する彼のそれがくねっているのを知っている。彼が動くたびに、それは、彼の体内に鈍く動く。ベトナムに来る前に、実家に、三年ぶりで帰ったときに、久しぶりに見る母は、枯れてはいても、枯れつつありながら枯れきることはない、けなげでさえある不思議な瑞々しいさをしずかに湛えていた。それが、身体の大半を水分で満たした有機体の限界なのかも知れない。死体でさえ、崩壊し得ない潤いを湛えているものなのだから。それは父も同じことだった。半身不随で、不自由をしながら、彼の身体はあまりにも見事に、水分の活気に溢れていた。どうしようもなく。お前自身もそうには違いない、お前も、と、私は、あの、Lệ Hằngでさえも。すべての有機体が、今、父は時に思い出したように私を讃えてみせながら、私の渡越を祝福するのだが、それが祝福に値するものではないことは、父にも、母にもまだ言ってはいない。二人は、嘗ての、あの荒れた姿がすべて嘘であったかのように、平穏で、お互いのしずかな親密さの中に生息している。それは、もう、十年以上変わってはいない。母は私に微笑みかけながら、私の外国での生活を案じるが、女には気をつけろと、時に差別的な言葉すら使用する父をたしなめさえして、そこに、私が入り得る余地はない。彼らの関係は彼らだけのものだ。それを、私が求めることなどできない。私が大学を出る頃、父の会社が倒産して、文字通り何ものをも持たない人間になってから、彼らはやがて、そんな風にして生きてきたのだった。ほとんど実家をかえり見ない一人息子を、それでも、その、たまの帰省を待ち乍ら。気をつけて、母は言い、あんたも、はやく、お嫁くらいもらったらいい、そう言い、彼女の手のひらが私の頬に触れたその一瞬の接触が、未成年の私に彼女がしたことを思い出させないわけでもないが、それらはすべて過ぎ去っていた。私に殺されたあとも、彼女は私を抱き続け、父との関係の破綻は留めようもなく、東京の大学に行くまで、ずっと。どうしようもなく。為すすべもなく。Lì Ly は、その唇のすれすれの、Lilyそう彼女の名前を呼ぶ私に言う、em không  息がかかるままに、 phải là 私はリリーlily, em じゃありませんLì Lyです。Lì Ly 私は呟き、Liliy、褐色の白百合は微笑んだまま、いつ終わるのか?すべては。終わり得はしないままに、いつ終わったのか?いつ終わるとも知れないThànhのその行為に、やがて私が彼の中に射精したとき、ややあって、そのまま射精してしまった彼のそれが私の腹部を汚していた。小さな声をさえたてて。思い出したように、Li Lyは言った、初めて知った彼女の名前を何回か、唇に発音して、微笑みかける私に、彼女は微笑みながら、Bẹ bì彼女は何度か発音を試し、試されるまでもなく、私はすぐに、知っていた。彼女は妊娠を告げたに違いなかった。まだ、一週間と少ししかたってはいなかった。彼女を初めて見かけたときからしてさえも。彼女は、まるで、それが私たちのBabyであるかのように、微笑みながら、何度かささやき、触れなさい。呟き、私はわたしのすべてに。微笑むしかない。触れなさい。希薄な微笑の中で、あなたのすべてに。私は、結局はわたしは何も、すべてを求めない。受け入れていたに違いない、最早。彼女のすべてを、あなたを、射精したあと、愛したから。一度、腰を痙攣的にくねらせたが、大きく息をついて、Thànhは一気に血の気が引いた上半身の、希薄な軽いめまいの中に、人心地付いた彼は私を覗き込む。身をかがめて。彼の体臭が、その髪の毛の匂いとともに、遅れて、射精されたそれの匂いの存在に気付く。私の胸の皮膚の上の、彼の。Thànhは、姉が帰って来たのにも気付かない。ドアに背を持たれた彼女は、何を叫ぶわけでもなく、何を取り乱すわけでもなく、Thànhは私に軽く頬をたたかれて彼女を振り向き見るが、彼は、私にそうされる前にすでに気が付いていたに違いない。Lilyは、こうなる他ないということをすでに気付いていたように、私は既視感に戸惑う。Thànhは身を起こし、ベッドの脇に立ち上がる。弟はLyよりも少しだけ大きい。骨格も、身長も。弟は、彼女に歩み寄って、Lyに無言のまま手を触れようとした瞬間に、Lilyは彼をひっぱたいた。Đi ! 口の中だけで叫ばれた、出て行け!ささやくような叫び声に、Thànhは我に帰ったように、私を一瞥し、それは、切実な、あまりにも切実な思いを伝えた。引き裂かれてしまいそうな、私は知った。彼は、今、愛していたし、そうだった、ずっと前から。私を。姉を。彼は愛していた。それらが何を意味するのか、彼はわからない。理解する対象でさえないのかも知れない。Lilyは彼の盗難を許さない。彼が、彼の前で女であることはLilyに許されてはいない。彼は惨めに、わたしは、うなだれて、いつか、服を着ながら、自分自身を受け入れた。こんなに惨めな姿を、いつか、かつて、受け入れる。彼が誰にも見せたことは 色彩のないなかった。彼は雨に打たれて。ホテルの部屋をいつ、出て行く。受け入れたのだろう?私はそれを目で追う。Lyは 雨の中の、私を抱きしめ、降りしきるその、私が 轟音の中で。不意の暴力の被害者でもあるかのように、私の体をなぜ、拭き、介抱する。侘びの言葉らしい言葉をさえ、私にかけながら、いっぱいに涙ぐみ、その涙が耐えられずに零れ落ちた瞬間に、


破(phá)

 

破(phá

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が降る寸前の白さが純粋に支配した空があって、見上げれば極端な近さで雲がすぐそこにあるが、それが高山の都市固有の、地球上において特殊な風景だということを、Thànhはまだ知らない。路面のコンクリートの上をあざやかな蛇がうねりながら這っていくのを一瞥し、学校に行かなければならないが、行く気にはなれない。そこで、彼は少女たちのさまざまな目線を浴びなければならない。彼は美しい。それを、彼自身だってよく知っているし、誰もがそれを知っている。同じ意図を持った、さまざまな固有のたたずまいと、さまざまなそれ自身の必然性を持った視線に絡娶られるのを、最早、彼は好むことができない。朝の早い時間に、多くの子どもたちが親のバイクの後ろに乗って学校に連れて行かれるのだが、そのまばらな人の群れを目にしながら、この話し声とバイクの無数の騒音の中に、人間種の繁殖力の強さをはっきりと意識する。自分たちの。君は彼らとは違って、自分で、自転車をこいで学校まで行くのだが、すぐに道を逸れて、松の木の茂った道に入って、低い丘の上に行ってみる。針葉樹の葉の群れが緑色に煙る。その辺りに行けば誰も来なくなる。君は知っている。この美しい町にはもういられない。姉はいつか彼らのどちらかか、どちらをもかを殺してしまうかも知れない。姉がそうしないなら、姉がそうされるに違いない、どちらかか、どちらもかに、張り詰めた糸がずっと震えながら張り詰めていて、はじかれるたびに音を立てるが、その音は空間を共鳴させ続け、この響きもろとも、崩れ落ちてしまうに違いない。姉は、あまりにも衝動的で、暴力的にすぎた。半分しか血のつながらない姉は。君は思う、私は逃げ出さなければならないと、君はそれを知っている、私は、もう忘れてしまえ、という父から目を背けながら、あの十四歳のとき、父は言った。次の日の朝、潤一と言う名の、彼は、忘れたほうがいい。君のためにならない。とはいえ、私は知っていた。私の手は血で汚れている。誰の?母の、そして、父の。もちろん、彼女は一切血を体外にもらすことなく死んでしまったのだから、私は彼女の血など一切浴びもしないどころか、触れさえもしなかった。彼女の体内から生れ落ちたとき以外には。それは、信じられないことのように思えた。肌に触れる実感として。彼女を殺して仕舞ったのに、私はその血に触れることさえなかった。あれほど、放出されるその体液に触れたというのに。かつて、その体内の中でも、血どころか、つながってすべてを共有してさえいたと言うのに?あくまでも別々の生命体でありながら。崩れ落ちる前に、と君は思う、逃げ出さなければならない、何のために、守るために、何を?高山の霧雨がいつものように、誰を?いつの間にか、どうして?降っていて、霧なのか雨なのか判断さえ付かないままに、母は彼に同調して言った、彼女の夫に、その通りだと、潤一という名のその男は、お前は、ちょっと、悩んでいただけだから、何も気にすることはないと。いつも、彼女はしずかに支配者のように笑う。久恵という名の、その、溢れかえるほどの、無私の愛だと彼女本人に自覚された感情をこれ見よがしに表情としぐさに表現して。私はそれに目を背けさえし乍ら、君の目の前で、周囲の全体で、まだそれが高山固有の特殊なものなのだということに君に気付かれないままの、あの、すべの色彩の鮮やかさが喪失されてしまった、やわらかい色彩の鮮やかなやさしい氾濫が、それらは繊細な沈黙のうちに存在していたのだが、姉を連れて、高山を降りた降りた地上の遠い太陽の下の、強烈過ぎる光線のもとの色彩が、すべてのものを光にくらませながらむせ返っているのを、すさまじく暴力的な色彩だと思う。あまりにも輝きすぎる反射光は、その色彩を焼き尽くしてしまい乍ら、輝かせ、君を先導する姉に従い、彼女が時に色仕掛けで捕まえるバイクの後ろに乗って、少しづつ、すこしづつ西南に向かう。私が媚を売れば、と、Lyは知っている、かたっぱしから男たちは無防備に、私に従わざるを得ない。私が、と、私は美しい。彼女は知っている。少し頭が悪そうな媚をさえ作れば、誰もが。サイゴンに。そこに行けば何とかなるはずだった。何が与えられ、何が報いられ、何が得られるわけではないが、そこにさえ行けば。君は雑貨屋に入って、老婆に拳を一つ二つくれて、金銭さえ奪いながら、西南に向かう。呼吸が止まりそうな詰められた息を吐きだして立ちくらみを起こしながら倒れるその老婆の髪の毛は染められて異常に黒かった。つやさえなく。美しい姉を何とかしようと、緩慢な進行しかしないバイクに、長距離移動は望めない。無駄口を叩くばかりで、バイクの前に乗った男たちは、結局はつれない姉に、最後には、呆れたような、なじるような顔をして、無害なまま立ち去ってしまうのだが、あの男だけは自分の一人暮らしのアパートメントの前に止めて、姉を連れ込んだものだった。君は姉がどうなるのかは知っているし、騒ぎ立てるべきなのか、どうなのか判断する前に、ややあって、姉は待っていろとしぐさをくれる。強制的なその命令に、とりあえずは従うしかない。不貞腐れた顔をした姉が男をやや先導しながら彼のアパートメントに入って行くとき、もちろん彼女は立ち並んだ同じドアのどれが彼の部屋の中か知らないのだから、一度通り過ぎかけて男に笑ってたしなめられるのを、君は不意に、声を立てて笑って仕舞う。思ったよりも短い時間で、部屋から出てきた姉は、男をそこに残したまま君の手を引くそぶりを見せながら歩き始めるが、角を曲がったとたんにくず折れるように身をまげて泣きじゃくり始めた姉を、君は唯立って見つめていた。君は彼女を、いつものように抱いてやるべきだったかも知れない。あの男の背は高く、刈り上げられた髪の下に中東の人のような堀りの深い顔を持っていた。右腕に刺青を入れて、色のない仏教由来のそのヒップホップ調の図柄は、確かに美しかった。土の路面は乾ききっていて、時にバイクが通り過ぎる。向こうに見事な竹林が茂る。ここで、彼女は抱かれることはないだろう、君に。ベッドに寝転がり、仰向けのまま、これ見よがしに裸体をさらした男に吐き気がするほどの怒りを含んだ一瞥のあと立ち去って、汗ばんだまま、体を洗い流しさえしなかった姉の体に直射日光が刺して、Lilyの身体がさらに汗ばんでいくのを、君は知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

君がLyに手を伸ばそうとする寸前に、姉は立ち上がって、歩き始めるが、Không sao đâu 誰にでもなく口走るno star, where? 彼女の声を聞く。だいじょうぶよ。熱帯の日差しが、影をさえ強烈に刺している。よく、燃え上がってしまわないものだ、と君は思う、すぐさま、すべてが一気に燃え上がって、燃え尽きてしまいそうなのに。君は思う、同じことの繰り返しに過ぎない、とLyは思う、君は、それが自分が望んだこととはいえ、逃走のなかで繰り返されるのは同じことのヴァリエーションにすぎない、Lilyはいらだつよりはむしろ呆然とさえし乍ら、君は君自身が今、嗚咽交じりの荒い息遣いをしているのを知っているが、もともとは自分が望んだことだった、と思った、Lyは、父親を受け入れた当初には、父親が彼女にしがみついてきて、最初はあやすようなしぐさに過ぎなかったにもかかわらず、やがてそれを受け入れた、或いは受け入れざるを得なかった、或いは受け入れてしまったときに、彼が傷ついていたのは知っていた。彼は彼女が未だ生んだことのない子どものように、君にしがみついてきたのをLyは知っている。君は、誰が彼をそうさせたのか?彼をそうさせるまでに、誰が追い詰めたのか?何ものが彼を傷つけ、彼の傷はいったい何なのか?君は自分をその中に設定したあと、母親を設定しなおす。あるいは同時に。君は、彼を追い詰めたのは母親だと思う。自分もその中に入らざるを得ないことを知っている。君の弟さえも。あらゆるすべて。思いつく限りの。傷はどこにある?なぜ、傷をなど探す必要がある?彼女が単に、美ししすぎただけかも知れない。犯罪的なほどに。私は美しい。毎朝、霧の中の野菜園に出掛けていって、すぐにカフェに繰り出し、やがて友人と飲み始めるには違いない彼のどこに、どんな?彼は傷ついている。傷ついた子どものように。彼は何かを失って仕舞ったようにしか、Lyには思えない。夜明け前に弟が、寝る前から行っていた逃走の計画を、君の許可もなく実行し始めたときに、君はその弟を信用しきれないままに、出掛け際、目を覚ましたあの新しい父がドアのところまで駆けてきて、とはいえ、何を言うわけでもなく、唯、立ちつくすようにそこで、表情を喪失した無表情で、二人を見つめていたときに、君は自分が彼を傷つけていたことに気付く。彼は彼女さえふたたび失ってしまう。彼はチキンだ。何もできはしなかった。君はここにはいられないことを知っている。彼は死んでしまうに違いない。わたしを抱いたあの男も、今、彼のアパートメントで、やがて死んでしまうに違いない。傷ついた彼らが生きていられるはずもない。私は、と、Lilyは思う、常に加害者だ。触るものすべてを傷つける。空は遠い。今も、嘗ても、常に、私は、高山の上の町にいたときにすら、そんなことはすでに知っていた。高山のてっぺんの町でも、いつでも空は遠い。近くに存在していてさえも。もっと近くへ。接近すれば接近するほど、接近の果てにはやがて、空の境界線をいつかは越えてしまう。暗い宇宙へ。君は彷徨い歩いているわけではない。明確な行き先を設定していないだけだ。君はサイゴン近くの南部の町を歩き、いずれにしても、たどりついたサイゴン近くの南部の町で、今、君は、私の行き先など、思う。ない。姉に出て行けと言われたままに、私は、そして、そのとき、彼を一瞥することさえもなかった。私は。右へ折れるか左に折れるか、それさえ自由なとき、その選択がどれほど困難なことか、君は知っているか?私は知った。今、そして、あの高山の町でも、私は知った。私は知っていた、学校へ行かずに、丘の上を歩き、私は知る、松の林に注ぐ光の美しさを、君は知っているか?君はその見慣れた光線を、しずかに、輝く色彩の鮮やかさそのものを奪われた上に、色彩それ自体のどうしようもない覚醒を充溢させた鮮やかな沈黙を、結局のところ、目にしている色彩に触れることなどできはしないという指先の、当然の絶望を、君はビンジュンの、どこまでも続く平野の道路を歩きながら、Lilyは知っている。褐色の白百合は、必ずしもすべてが報われるなどとは思ってはいない。彼も、いつかは日本へ帰って仕舞うには違いない。そのときに、どうなるのかはまだ知らない。私はすべてを失うに違いない。例えば、町を歩いて目にする、雑然とした家屋のベトナム人夫婦のようにはならないだろう。熱帯の光が彼の肌さえも灼いたとしても、彼がそれを望みさえしたとしても、彼は外国人にすぎなかった。最初から、決定的に破綻していて、破綻したものそれぞれが融合することさえなく寄せ集まっているに過ぎないなら、膨大な言葉が今、私の中に渦巻く。何も言い表しさえしないのに。こまやかな雨の中に、何をも語りかけることのないままに、松の葉の揺れるのを見ていたときに、Thànhは今、引き裂かれてしまった、彼から、私から、もともとのあの不均衡な身体が一致するはずもなかった。同じ形態でありながら。同じ形姿の染色体に支配されながら、いまやそれは鮮明な乖離になって、何から?距離だけを実の前に広げるが、Lyから。彼女が別の存在であることなど始めから知っていたことだ、体を触れ合うとき、触れ合った皮膚はそれらが別のものであることだけを自覚する。そして、君が君であったことなど一度もない。君の固有性に、君はついに触れることなどできない。固有性、それは単なる存在の条件に過ぎない。朝日が昇っていっているのを、Thànhは知っている。引き裂かれてしまった、それを君は知っている。既に、もう少し前から始まっていた日照は、君の視界の中にありながら君に見出されることさえなく、傷つけたことなど一度もなかった。君は、雪を知っているか?熱帯の朝日に照らし出されて、傷ついたことなど一度もなかった。雪を、目の前に積もった、すべてを白く染め、色彩を奪いきったそれに指を触れれば、体温ですぐさま解けてしまうそれを、君は、知っているか?触れた瞬間に、雪の結晶そのものに触れ得はしなかったことに気付きながら、君は、濡れた指先が触れていたのは水滴にすぎない、最早雪ではあり得なかったその、君は、何ものによっても傷付けられない。何ものも、君を傷つけ得なかった。Lì Lyは声を立てて笑った後、私を思いあぐねたように見つめ返し、褐色の白百合、雪のような白百合、褐色の、雪のような、白百合、私は百合[hoa huệ]ではありません、彼女は言った、lily は、私に、そして私はLi Lyの髪の毛に手をのばそうとし、そのまま、Lyと、その姉弟の部屋で目を覚ましたとき、うっとうしいほどの熱気の中に、熱帯の温度の中で私の汗ばんだ身体は彼女の気配を探すが、すれすれの距離にあったはずのLyの体温は、ややあって、シャワーの音で、不在の彼女の身体の所在地を知る。やるべきことは、とても多い。例えば、笹村の死の後始末をしなければならないだろう。スタッフたちも、本社の人間も、今頃私を探しているに違いない。あの、傷ついたThànhを、もう一度探し出してやらなければならない。彼がそれを望むかどうかは知らない。彼はあの日本人が殺されてしまったことさえまだ知らない。私たちが過ごしたのは別々の夜、そして朝だった。これまでもずっとそうだった。いつでも、そして通風孔の周辺だけを外光が照らし出し、それは強烈な逆光を形作るが、目をくらませることなどできない。それを知ったところで、彼は何の興味も示さないだろう。私は薄暗い、無機質な、色あせたペンキ塗りの壁の、はがれ落ちかけた色彩を、結局のところ、町の周辺をぐるぐるとさ迷い歩いたにすぎないThànhは、いつもは少しはなれたところでしかしない「狩り」を、すぐ近くのそこでしなければならない必要性があった。なぜなら彼は空腹だったからだ。一晩、とまったLệ Hằngの取り巻きの女のアパートメントから、彼女が未だ深く眠っているままに、地味な顔立ちの下に派手すぎる豊満な身体を剥き出しにしたまま彼女は未だベッドの上で、彼女の金銭の隠し場所がどこか見つけられなかった彼は、ややあって、外に出る。振り向くと、半開きのトタンのドアの向こうで、彼女はまくらのひとつを抱いたまま永遠に目覚めることなどないかのような、深い眠りの中に落ち込み続け、彼女は昨日の夜、彼に何もできなかった。寄り添うように体をくっつけて、あきらかに彼を求めている視線の中に何度も飽きもせず彼を絡娶りながらも、結局、彼に何もすることができなかった。これ見よがしに肌を曝してさえも。二十代半ばの、少なくとも彼にとっては若くはないその女の執拗な視線を不意に思い出しさえしながら、入った雑貨屋で、やさしく微笑んで、その中年女がThànhの扇情的なほどの美しさに、一瞬息を飲んだときに、殴り付けられて意思を喪失させた彼女が、それでも最後に、短い猫のような声を立てたが、奥から出てきた男と目が合う。彼女に覆いかぶさって、釣り札の束を掴んでいる美しい少年を男は見出したが、彼が事態を認識するのにかかった長い間延びした時間を、ついには一瞬、滑稽にさえ思い、飛び掛ってきた男から、Thànhは逃げなければならない。身をかわし、外に飛び出し、走るが、あの男がついてきているのは知っている。息を切らして。身体が熱気を帯び、汗ばみさえするのにすら、気付かない。背後の罵声を耳の中に聞く。角を曲がって幹線道路に出るが、不意にThànhは身をそらして、道に飛び出す。彼をかわそうとしたバイクが一台転倒したときに、まるで犬のように、さまざまな罵声と、怒号と、音響が、あの男は一瞬渡りかねて立ち尽くし、振り向いたまま立ち止まった君は、ひざの、短い痛みにそのとき、よろめきながら、まるで野良犬のように生まれ、走り出したThànhを、そのトラックは轢き飛ばす。野良犬のように死んでいく。意識が飛び散って消滅したのは、意識さえできない一瞬に過ぎない。朝近く、姉弟の部屋を出た私たちがその騒ぎのほうへ歩み寄ったとき、Lilyは遠巻きの人だかりの向こうに、倒れた死体の意味を感づいて、私の手を掴む。引き戻そうとする手を振り払うようにして、私はそれに近づくが、人だかりをかいくぐりながら、それが何であるのか、私はすでに気付いていた、目にしたそれは、紛れもなく、醜悪な、あの美しい少年の、血まみれの残骸だったが、半分近くだけ残った頭部に、私がそれに気付いたとき、ようやく、私は目にしている事態を理解し、失神しそうな意識の、明滅する白濁の中に、彼女のほうへ歩き出す。Lyは表情をなくして、私の白百合。私だけを見つめていた。涙すら流しはしない。今、この時に、どうやって?私はLyの背を押し、逃げ去るように立ち去る。彼らには、あれが、どこの誰かさえわかりはしない。身元不詳の、識別困難な肉体の残骸に過ぎない。あれは誰だ?不意に、立ち止まったLyは言った…người bị chết là ai ?, 私を見るでもなく、誰?その視線に私を、あれは誰なんだ?捉えながら、死んだのは、誰が?…người bị chết nào ?,ねぇ、私は知らない、誰なの?誰が?今、彼女は、どうして?言う。私が、…sao em không biết vậy ?なぜ?私が知らないなどと言うことが?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ようやく泣き止んだ彼女がホテルベッドの上に身を起こし、私は、何の意味を持たせるわけでもなくシャワーを浴びながら、体を洗っていることの意味を探す。その単なる惰性の、何が、崩壊して、何が残ったのか、私にはまだわからない。晴れきった空の窓越しの陽光のほうを向いて、逆光の中、彼女は振り向くが、私はシャワールームを出たまま、立ち尽くすように、彼女の表情を探すものの、光の中に、それは捉えられない。文字通りシルエットとして、向こう、平野の果てまで、青空が唯広がっているのがわかる。空気は乾きと湿気を共存させた気配の中に、彼女が身をずらしてベッドの上にあけた空間に座る私を視線に捉え乍ら、Lyは微笑み、その褐色の皮膚の曲線の上を、光の細かい反射がかたちをくず折れさせ続けながら這う。泣いている私にすがるように、私をひざに抱き乍ら、anh… anh… 彼女は、ただ、私を呼んだ。涙が止まらない。かたわらで彼女は、私は涙が止まらなかった。かたわらで、彼女は私に呼びかけ続け、なぜ?そして私はただ泣きじゃくるにまかせ、いつ、とLyが言った気がした。Anh… 幸せになれますか? Anh… いつ?わたしは anh… わたしたちは。私は理解している。彼女の《言葉》を。 Anh… あまりにも、彼女は言っている、残酷すぎる、と、彼女は言っていた。私は知っている。それらの繰り返されるただ一つの音節の反復が、anh… 目を開けると、そのひざの上で見上げられた視界の中に、彼女すら、再び、涙を流していたのに気付いた。「サイゴンに雪が降ったら。」私は言った。

 ― …Rồi, 彼女は微笑み、tuyết sẽ rơi ở Sài Gòn , 私の頭を撫ぜながら、あした、と彼女は …ngày mai , その髪の毛が垂れ落ちるにまかせ、言う、わたしはもう知っています、と、彼女は言った、視線に私を捉えたままに em đã biết. そして、振り向き見たLyの視界に、不意に、晴れ上がった空の青がきらめくのをLyは一瞥した。彼女は私に口付けた。明日、サイゴンに雪が降ります、と言って、tuyết

sẽ

rơi

Sài Gòn

rồi. 彼女は、その唇の触感の中に、彼女の息遣いとともに、私は目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 


サイゴンの雪

 

サイゴンの雪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

目を覚ます。朝が来たことには気付いていた。私は目を覚まし、まどろみ、まどろんだ意識の中で、それが明晰さを取り戻していくのにまかせ、朝、私は目をさましたが、Lì Lyがいない。ベッドの上の、からっぽの空間を撫ぜた後、かすかに体温の痕跡だけ残っている気がしたが、私はややあって身を起こし、シャワールームの中にも、どこにもいない彼女を、私は探さなければならない。どうやって?頭の中でだけ、彼女の名前を呼んでみても、うなだれてベッドにもう一度座り込むしかない私に、記憶を呼び覚まそうとしてやまない、白い、おだやかな光線が部屋の中を満たしているのに気付く。確実に、いつか、何度か経験したことのある、冷たく、ただひたすら白んだ光線が、記憶のあらゆる部分を覚醒させようとするが、何ものを思い出させるわけでもない。意識に、何かの小さな切片が触れようとした瞬間に、私は立ち上がる。カーテンを引きあける。確かに、雪が降っていた。窓の外の熱帯の平野を、向こうの果てにまで、降り積もった雪が埋め尽くし、いまだ降り止まないそれらは、空間のすべてを、光さえをも、冷たい白い色彩の中に埋め尽くす。すべての色彩は、既に失われた。すべては、ただ、白い。探さなければならない。私は、彼女を。この雪の中に、彼女が生まれてから一度も出会ったことのないこの雪の、純白の結晶の膨大な堆積の中に、彼女は凍えているに違いない。褐色の白百合は、つめたい雪の温度の中に、彼女が凍り付いてしまう前に。私は、着の身着のままに、飛び出すと、突き刺すような冷気と、反射光の微かな温度の共存した、醒めた大気が肺の中を撃つ。ふくらはぎ近くにまで積もった雪が足を、踏み出すたびに一瞬抱いたあとに、すぐさま雪は崩壊し、外は交通さえも途絶えて仕舞っていた。誰もが初めて見る雪に、ただ、戸惑うしかない。何をすればいいのかさえわからないままに。立ち尽くし、警備員は信じられない顔をして、除雪という仕事さえ思いつかずに、ただ、何かをののしるしかない。空間は静まり返り、私の息遣いと、果てまでも、白く染め、白く染まり、降り続ける雪は私の肩に触れ続け、その、雪の、抱きしめて離さない接触が、すぐに、とけて、失われてしまう。Lily、褐色だった白百合。立ち尽くすことさえできない。探してやらなければならない。彼女を。探し出して、抱きしめてやらなければ、雪のこの純白の中に、凍える、雪の、彼女の、その、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.8.13-.10.01.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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