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序(3)

「歩けば、道ができますか?」ええ、とLệ Hằngは言い、「少しだけお金も要るけどね」笑う。社屋の門の外で待機していた彼の6人ばかりの取り巻きの一人のバイクの後ろに乗るように指示された私は、その後ろで、滑走する風景の中、先導するLệ Hằngを目で追った。雨のために一気に成長した竹林を両方に抱いた土の道を走り、山影などあるはずもなく、どこまでも広がる広大な大陸の平野を、時にギザついた樹木の陰を並べた地平線を遠くに見せて風景は視界の中に滑走し、立ち止まった犬が横目で通り過ぎるバイクを見やったまま、その騒音に片耳を立てた。人間のために切り開かれた平野に、唐突に、無防備なほどに荒れた森林地帯が出現し、時にそれらを切り裂くように向こうまで見渡す限りの田園風景が広がる。日差しが濡れた土の上を直射するが、その香りさえ嗅がせないままに、私たちは通り過ぎていく。一般的な日本人にとっては、コンクリート作りの廃屋のようにしか見えないクオリティの平屋家屋が立ち並んだ細い道を曲がりくねって、土ぼこりが立ち、その家はあったが、レース地の派手な装飾布が張り巡らされたその家は、すぐにそこが彼の目的地であることを知らせた。車道の半分にまではみ出した装飾の中で、結婚式の式礼は既に始まっていて、両家の親族たちが中央に立っている新郎と新婦に金の指輪と封筒に入れた金銭を手渡していたが、Lệ Hằng が、Cảnhカン、と新郎にその名を呼びかけるまでもなく、白いスーツを着込んだ彼はLệ Hằngを振り向き見て手を差し伸べた。一人の老人がCảnhに金銭を渡しそこねていた。Lệ Hằngは人々の密集に割って入るようにCảnhの手をとり、おそらくは自分より年上のCảnhがまるで年少者のように諂った笑顔を作って、両手でその手を握るのに任せたが、Lệ Hằngの乱暴な登場に、文句を言う人間は誰もいなかった。ベトナム流儀で、ông, bà 要するに翁たちは翁らしく前面に席を埋め、con要するに子たちは子たちらしくその後ろの席に固まってかしこまっていた。入り口近くの空席を占領し、自分の隣に私を誘って、Lệ Hằngは、彼は私の友人です、私に耳打ちし、その友人の発音は、yêu điên愚かな聞こえたが愛、もう一度発音を試みた後、Lệ Hằng は諦めてHiểu không ? わかるでしょう?言って…khó、「難しいね」彼は笑った。一応の式礼が終わるとテーブルの上に料理が出てきて、お決まりのビールが出されるのだが、奥から出てきたあの少女が給仕に追われるのを私は目で追った。彼女は忙しいですね、Lệ Hằngが私にビールを注ぎなら耳元に言い、そのとき彼がその気もなく私に嗅がせた彼の体臭の柔らかな檜のそれに動物的な色気を加えたような香気は、私の鼻腔を占領する。あなたの友人yêu điênは、今、とても忙しい。彼女はcon gái、少女だから、仕方がない。厨房を仕切っているらしい年長の太った女性が出てきて彼女に早口に指図するのだが、無理よ、と言ったらしく、彼女はすねたように小さく叫んで、周囲の翁ôngたちは声を立てて笑った。私の友人yêu điênは今、忙しい。Cảnhとその妻のThiếnティエンが席を回って、私たちの前にたどり着き、Lệ Hằngの取り巻きの一人が新婦のグラスにビールを注ぐ。私たちは乾杯し、夫のうしろにはにかんだように隠れさえする妻の前で、新郎はもう一度固くLệ Hằngの手をとり、膨大な感謝の言葉を彼に投げかける。Lệ Hằng は時々首を振り乍らkhông, ......いいえ否定句をさしはさむだけで、微笑みながら彼の言葉を聞いていた。取り巻きのTrangチャン、このボディビルダーのような体躯の、30過ぎの刺青だらけの男が、再び新郎のグラスにビールを注ぐので、新婦は笑いながら文句を言い、いずれにせよ彼らは今日、幸せなのには違いない。乾杯の前に、em,..em ơi, Lệ Hằng エムオイ不意に口を開くと、私たちは彼の言葉に耳を澄ませ、ややあって、chúc may măn、彼は言った。幸多かれ。彼らはまるで、それが重要な箴言でもあるかのように、ばらばらな流儀でLệ Hằngを讃えてみせながらグラスを合わせる。私たちが人目を引く奇妙な集団だったのには違いなかった。小柄な、誰かに夢見られたかのように美しいLệ Hằngを取り巻いて、数人の、筋肉以外に興味はないかのような体躯の男たちが場違いなTシャツ姿で、そして日本人が一人、ひょろ長く足を組んで座っていて、トランスジェンダーらしい小柄の短髪の女性がきっちりと男性用のスーツを着てかしこまる。韓国のシンガーを小柄にして痩せさせたような金髪の10代の少年が、女性的な気配の内にどこか不遜な顔つきで警戒を解かないままの猫のように、Lệ Hằng の影で周囲の酒宴を見張っていた。無言のまま少年は猫背になって、この世界に笑いかけるべきものなど存在しないとでも言うように息を潜めていたが、不意に私のグラスに手を伸ばし、ビールを飲みほした。まだ10代前半の子どもには違いないが、明らかに飲み慣れている風だったので、取り立てて違和感があるわけでもない。そして、痛ましいほどに幼い。彼の中性的でさえある雰囲気は、おもにその年齢によるのかも知れない。「あなたの友人も忙しいですね。」私は各席を回って乾杯する新郎を指差し、言ったが、自分の何気なく指差したこの行為が、ここでは文化的に妥当なのかどうか、指は、ややあって戸惑う。ええ、忙しい。とっても。私の友人yêu điênも忙しい、とLệ Hằngは言い、何度繰り返してもうまくいかない日本語のjingの発音に、彼は思わず笑った。向こうで、囃し立てられるままCảnhの頬にThiếnが口付けて見せた瞬間に、大きな歓声が立つ。「私の日本語の発音はおかしいです。ですが、これは日本人が悪いですよ。あなたたちほど自分たちの言葉について知らない人たちはいません。」簡単ですよ、と私は言った、あ、い、う、え、Lệ Hằngは一瞬大きく声を立てて笑って「日本人はみなさん、そう言います。あ、い、う、え、お、ですが、たとえば、《愛します》の《あ》と、《不安です》の《あ》は同じですか?」Thiếnは夫に寄りかかりながら「《本》の《ん》と《本を読む》の《ん》と《本物》の《ん》は同じんですか?」Thiếnはいつも妊婦のように歩く「アルファベットだったら」よく肥えて、重い重心が「別の書き方をします。ひらがなほど」地面にへばりついているようにさえ「読みにくい字はありません。同じ字ですが、」見える。「読み方がいくつも違いますから。」ベトナム語のほうが難しいですよ。いくつも母音があるでしょう?a, á, à, â, ă,…「あなたは練習しないからです。簡単です。」私はLệ Hằngの「書いてあるとおりを読みます。」音声を、「それだけです。」彼の音声は、日本語を話すときには擦れるようにややピッチが低くなり、ベトナム語を話すときには音としてくっきりと鳴らされる。それは甲高くはないが高めのアルトに近く、私は彼に頬を寄せるようにして彼の話を聞く。彼はいつでも、誰にでも、内緒の打ち明け話をするような話し方を、よく通る声で、する。彼は、秘密めかしながら、誰に対しても一度も、秘密など作ったことなどないに違いない。彼にとって他人とは、自分に諂う卑怯者か目を背けて彼を見なかったことにする卑怯者か、その二種類でしかないのかも知れない。彼の眼差しほどに他人への慈愛に満ちた眼差しは見たこともなかったが、その眼差しから何らかの他者への尊敬が伺われることもまた、一度もなかった。金髪の少年の頭を撫ぜてやる手をとめて、Lệ Hằng Cảnhを指差し、ふと、もっと若いころ、と、「彼は私の恋人でした」言った。私は無数の白い、名前さえわからない花々の装飾を見やりながら、Lệ Hằngは、

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたは、…」私はLệ Hằngに何か言おうとして口ごもり、急ごしらえの祭壇の花々は荒々しいほど無造作に飾り立てられていて、白く、暴力的なまでにただ、白い。「私は日本語で言う、バイセクシャルですが、」Lệ Hằngは言い、その花の純白の真ん中に金色の花弁が静かに立っていて、「それは誰でも知っていますし、」私は、「今までに」細かな粒子が零れ落ちそうなほどにただ、形作った金の集合の「私たちは、今までに、確かに、」その周囲にわずかの小さな虫たちを、「誰かを、」奉仕させながら花々は「隠された意味もなく、誰かを」純白のままに「愛したことが」陽光の中で、「事実として」唯ひたすらな白さそのものとして「あるのでしょうか?」もはや無慈悲なまでに「隠しようもない」その「事実として」白さだけを示す。あなたは、「ありますか?」Lệ Hằngはその微笑を一切崩すことなく、私は、あるともないとも答えあぐね、「私にとっては、他人は、愛する、愛さないかの対象です。性別は、他人の属性に過ぎません。わかりますか?事実として、誰もが知っています。」私は、彼のグラスにビールを注ぎ「じゃあ、私も愛しますか?あなたは?」ええ、彼は言った。あなたがそれを望むなら。望まなかったら?君はどうするのだろう?ためらいの中で私は沈黙し、彼はすでに知っていたに違いない。私が彼を愛していたことをは。彼はそっと、身を寄せて、一瞬、その唇を私の唇に合わせた。私は目を閉じる隙すらなく、視界のすぐ近くに接近した彼の顔は、その近さと瞬間の短さの中で、焦点のあわない残像となって形を崩し、あわてて私は眼差しのうちに彼の存在を追いかけるが、そのときにはすでに、唇は離れていて、私のすぐ横に彼はいて、そして私に微笑んでいて、もはや急速に記憶になっていく触感の崩壊に唇はあがなうが、それがむしろ、その記憶に化して行く速度を加速させた。もはや完全に失われた触覚の現実は、今、この瞬間に、取り戻され想起された失われた現在でしかなかった。あなたは、と私は、あなたを見ています、と、「あなたの友人yêu điênが。」言ったLệ Hằng の指先は無数の白い百合の花のオブジェを指さし、あの褐色の少女は花の横で立ったまま、私を見つめていた。「彼女の仕事は今、すべて終わりました。ですから、彼女はもう忙しいのではありません。彼女は、あなたを待っています。」Lệ Hằng、そして彼女は私の横顔をその視界の中に撫ぜて、「行きなさい。」Lệ Hằngは言った。立ち上がった私を追う彼女の眼差しが、私の彼女に近づくほどにしずかに開かれていくその瞳孔の中で、その少女は不意に背を向けて先導するように奥に引き込み、私は彼女を追って歩きながら、ただっ広い炊事場の女たちの集団の群れを通り抜ける。彼女たちがあげた歓声なのか、怒声なのか、何なのか、その連なりを背後にした裏口の草地の、向こうの広大な森林の手前で、放し飼われた牛の中の一匹が彼女を目で追った。生き物の臭気と、草の濡れた臭気と、やや遠くで森林に降りやんだばかりの雨が際立たせた森の香気が、混濁し得ない層になって周囲を包む。森林の手前で彼女は立ち止まり、身を隠すわけでもなく、すれすれに近づいた私の頬を抱いて、私を胸に抱いた。ひざまづいた私は、窒息させてしまおうとするかのように押し付けられたその体躯の中で、彼女の匂いをいっぱいに吸い込み、彼女も、そして私の手がその背中を撫ぜるに任せた。時間は経過し、経過した時間は時間の経過さえ感じさせずに音もなく崩壊していく。その、崩れ去っていく感覚だけを私は実感しながら、少女の視線は私でそのすべてを埋め尽くす。目を開けることさえできない、か細い力で押し付けられた遠さの消失した近さの中に、私は彼女の胸元の乾いた干草のような体臭を嗅ぐ。ややあって唐突に、遠く、背後で立てられた少女を呼ぶ声のいくつかの群れに少女ははっきりとした舌打ちし、走り去っていく彼女を私は目で追うのだが、遅れて炊事場の女たちの喚声と雑多な表情の入り混じった好色な視線を超えて、Lệ Hằngの隣に帰ったとき、Lệ Hằngは、私もそうしますから、今日は、あなたはここに泊まればいい、と言った。私は事実、そうしたのだったし、私は彼に言われるままに、そうしようとする。私は思い出す。ベトナム語を解さない私に、彼女は多くの時間を割いて、私に数少ないベトナム語を教えたものだった。その少女は、そして、それらが必要だったのかどうか私には最早わからない。彼女のまぶたに手を伸ばした。いつかの、まだ夜の浅い薄明かりの中で、朝まではいくらでも時間があることを、彼女も私も知っていた。仰向けに横たわったホテルのベッドの上で、私の裸の体の上に覆いかぶさるように馬乗りになった彼女の皮膚からは、あの、灼かれる干草のような匂いがする。彼女が服を脱ぎ捨てるのに時間はかからない。息を吸い込んで、自分の顔の皮膚に触れそうなほどに近付けられた私の指先の匂いをかいで、これは「これは、」何?「ベトナム語で、」これは、「何?」私の音声を聞く。「mi mắt.」彼女は答え、私の、…Mỹ mạt 小さく息を吐いて、呼吸だけで笑いながら、彼女は沈黙のままに、そうではありません、と、私はその笑い声の意味を知っている、彼女のかすかな身体表現を、…mì mạc 私のすれすれに伸ばされた指が、言語そのものよりも能弁に、触れる寸前の空間の中に滞留し、…mí mât いいえ。違います。…mị mảt 雨期の雨の音は窓の外でやまないまま、…mi mắt 地表を、それは蒸らしているに違いない。水はけの悪い路面に水溜りを作りながら、それらは撥ねて、…mi mắt彼女も「mi mắt」言った。私は「まぶた」いつ帰ってくる?父は言った。潤一と言う名の。「これは?」彼女の瞳の、何?これは「何?」私を捉え続けるままに、私は彼女を視界に捕らえ続け、「lông mày」その至近距離の混濁した形態と、色彩と、空間の…lóng mai暗さと明るさの共存、…lonh mày音の残像をなぞって、あてずっぽうに、いたずらに繰り返されるささやきの音声が、彼女の耳を占領しているに違いない。…lôn mãi 寸前の記憶とそれらは重なり合いながら、息を吸い込んで、…lỏn mãi私の指先は彼女の顔の輪郭を空中になぞって見せるが、この近さの中で…lông mày帰ってくるのか?父は言った、潤一と言う名の、「…dạ, giỏi.」小柄で、...いいわ。若い頃の空手のおかげでいまだに腕は太いままだ。…lông màylông mày」どこへ?「まゆ」眉。帰るって、瞬く。どこへ?「これは?」かすかに「mồm,không… môi 」ひらかれた唇の中で、彼女がそうしているように、私は自分の音声に耳を澄まし、時に、私は彼女を殴りさえしたものだった。…mơi すべてを聞き取ろうと、すぐさま消え去っていく音声の、にもかかわらず…mọi その残像だけでも掴もうとするが、ささいな言葉を介さないささやきのもつれた果てに、少女の体は息づき…mươi 私は、既に知っていた、彼女の体温に触れ続けていた。言葉が通じないからではない、ただ、純粋な苛立ちの中で私は時に彼女を殴りさえし、知っていた、今、目の前に彼女が存在していることを…mo ý 耳を済まし、この残像の連なりに、それを聞き取ろうとすることしか、私には最早できなかった。褐色の少女は時に、涙さえしながら私を見上げることしかできなかった。私の暴力に屈したわけではなく、ただ、受け入れて。…muôn y瞬間に、音声は迷いのない鮮やかさで消滅し…moi 二度と戻りはしないそれらを、…môi môi」どこで?「くちびる」唇。ここで。「一回、」今。「全部、粛清するから」笹村が言った。私が彼女に加えた暴力も、あるいは、繊細な口付けも、唾棄すべきものにすぎなかった。笹村はお冠だったし、何をしても君を傷付けて仕舞うなら。代わり映えしないデータの何かが彼の逆燐に触れたのは事実らしかった。私は知っていた、彼女もおそらくは。それらが何をも報いることなく、何ものにも報われもしないことを。「そうでしょう?水沢さん。どう思う?」事実そうだった。笹村はいつも、しゃくりあげるように話す。なのに、なぜ?「もう二日になる。あなたもね。こっちに来てから。見えてきたでしょう?何か、いろいろとね。忌憚のないところを。」外国人にとっては理解不能だが、ネイティブにとってはどうと言うこともない日本語の群れを聞きながら、こんな日本語を留保なく使う彼が、現地の従業員とコミュニケーションを取れていることが不思議だった「いつでもお前が帰って来れるように、」父は言った。潤一と言う名の。私は、特に意見もなく、ただうなづいたが、本社で、大東亜共栄圏の生き残りと揶揄されもする笹村は、にもかかわらず、成績優秀な管理者ではあった「お母さんだって、お前の部屋を」差別主義者で、他人への敬意を根本的に欠き、不愉快で、強引な、と同時に媚び諂いの多い人物。「いつでもお前が使えるように、な、」な。笹村が国内においてはそれほどの地位を築けなかったことの意味は、すぐに理解できた「掃除も何も、ちゃんとしてあるんだから」笹村と共同作業するのは、彼と不自由なく言語コミュニケーションが取れる人間にとっては困難だった。「ありがとう。」って、そう「言っといて」私は知っていた。「お母さんにも、」私は言った。最初に中国に工場を作ったときに、いわば補佐役としてついて来ただけだった笹村は「ありがとうって」驚くほどの実績を上げ、いつの間にか主任になり、いつか、反日の暴動が起こったときですら、笹村の支配下にある工場だけは粛々と業務をこなしていた。インド、タイランド、彼はどこへ行っても、差別主義者の「悪い日本人」とその各国語でののしられながら、無力な羊たちの群れの専制君主だった。二十年近くも、彼は海の向こうで、実績を上げ続けたことになる。本社にとって重要な人物であるには違いなかった。日本に帰って来さえしなければ、彼は優秀な人材なのだ。不愉快なことは何もない。たまに合わせた顔の不愉快ささえ我慢すればいい。そして、それは立派な彼の地位だった。「ところで、あなた、遊んだ?ベトナムで。」振り向いて、唐突な笹村の言葉に返答しあぐねた私に、「まだ?」彼はかまわず「まだでしょう?」まるでそれが新入社員歓迎のしきたりだとでも言いたげに「今晩どう?ちょっと、遠いけど。ホーチミン。行こうよ。」建国の父と呼ばれる人物の名をいただいた都市、現地名thành phố Hồ Chí Mình、英語名Ho chi minh  city 、ベトナム人たちはサイゴンと呼び、そして日本人はすべからく、ホーチミンと呼ぶ。その都市をホーチミンと人名で読んでいる外国人がいたら、日本人に決まっている。Hiếuヒューが恭しく、そして私に、「大変ですね、シャチョウさんと遊びにいきますか?」と同情の耳打ちをして笑いながら用意したタクシーの運転手に、オン・ゼア・ターン・トゥー・レフト・オン・ネクスト・コーナー・エンド・ゴー・ストレート、と笹村自身にしか理解できない英語らしきもので盛んに道順を指示し乍ら、「外人なんてのは、日本人乗っけたら必ず遠回りするからね、やつらはね。白いのも、黒いのもみんなそうだよ。」時に運転手は綺麗な英語で彼に道順の正当性を説明しようとはするのだが、やがてはうんざりして、いずれにしてもサイゴンの中心部にたどり着く。小ぶりなビルが立ち並んだ狭い路地の入り口に止めて、カードで支払っている間も監視のため自ら運転手の肩越しに顔を突っ込んで指示し、「こっち」笹村が言うその路地には、日本語名のネオンが地味に立ち並んでいる。「ここね、レタントン。カラオケ屋さんいっぱいあるから。」明らかに水商売の店の、その店の中に入ると、社長、と彼が呼んだ日本人の若い男に案内されて個室に入り、アオヤイ[Áo dài]姿のベトナム人女性たちは彼を取り囲む。笹村は明らかに上機嫌で彼の日本焼酎のボトルを瓶のソーダで割った。「この子、エッチなの。いいよ。水沢君、どう?」その、花の刺繍された白地のアウターの、赤いパンツのアオヤイを着た女の頬に唇を寄せて、やがて、わざとらしい嬌声を立てる彼女は、私を振り向く。慣れた扇情的な眼差しをくれた。「チュッてしたら、それだけで燃え上がっちゃうの、ね?」私を指さし、「デップチャイ、デップチャイ、ね、イケメンでしょ、イケメン。」隣の女性が差し出した同じようなソーダ割を口にするが、私の口にはどうしても合わない。サッポロにしますか?アサヒにしますか?彼女は驚くほどなまりのない日本語で言って、私に微笑みかけた。

 

 

「この子、妬いてんだよ、水沢君」笹村が、隣の青いアオヤイの女の頭をなぜながら言った。「前来た時、ほかの子お持ち帰りしちゃったから」と反対側の白地のアオヤイの女を指して、その女の頭を撫ぜようとした笹村の手をこれ見よがしに青の女ははたいた。笹村に軽く平手打ちをする。青の女がその手を払って、笹村の頭を撫ぜる。今度は、白地の、いずれにしても、台本でもあるかのように慣れた彼女たちの媚態は、まるで日本のこの種の女たちの容赦ないカリカチュアのようだった。日本語以外の言語は聞かれない。あんなに難しい言語を習得したのだから、少なくとも、彼女たちの言語能力は驚くほど高いに違いない。シンデップ、と笹村は青の女に言い、その女は「xin đẹp nhé」彼の発音を修正し、彼は何度もその言葉を繰り返すが、彼女はなかなか彼の発音を許さない。世界に冠たる、礼儀と精神文化の国、世界の人々から尊敬されているサムライと禅と先端技術の大国だと自称される日本の、90%以上の、西鶴さえ読めずサムライにも坊さんにももともと縁もゆかりもない一般的な日本人の一人が、今、その、日本人以外なら誰でもすでに知っている唾棄すべき実体を晒しながらお楽しみなのには違いなく、どこの国の日本人街に行っても、こんなものであるには違いない。時間は浪費されるにまかされ、ややあって、酔いを醒ますからと言って外に出た私は、あの、白地のアオヤイの女が路面の隅に身をかがめて吐いているのを見つけた。確かに、彼女は席を立ったまま、帰ってこないままだったことを思い出したが、水のような吐寫物は街路樹を汚し、間歇的に彼女の上半身だけを痙攣させていた。そんなに飲んではいけません、と言った私に彼女は、いいえ、と言ったが、不意に、言いあぐねて、明らかに頭の中で日本語の教科書を手繰りながら、ややあって、楽しいですから、と言ったが、やがて私はその彼女の言葉が必ずしも嘘ではなかったことを知るにはしても、むしろ彼女がその不自由な外国語会話の狭間に消し去ったはずの彼女の本当の声を聞きだそうとして、言いあぐね、かつて、母の存在は、私にとって暴力以外の何ものでもなかった。春絵と言う名の。うずくまった彼女はつばを吐いて口に残った吐寫物を排除しきろうとするが、父と母との間に発生した関係上の亀裂がそのまま暴力的なほどの愛情となって、一人息子の私の上に注がれたのだ、と私は解釈していた。彼女が上目越しに微かに荒く息遣うのを私は見ているが、必ずしも彼女が私を見ているわけではないことも察しつつ、彼女は知らなかった。母は、私を窒息しそうになるほど抱きしめてしまうか、文字通り身体的な暴力で私を平手打ち、折檻するか、それ以外をは。私は嘔吐し続ける彼女の背中を軽く叩きながら、「無理はしないほうがいいです」と、そう言うものの、物心ついてから十八歳まで親元にいる間ずっと継続した絶え間ない暴力と、性交と、愛情の、さまざまな感情の共存の中で私は生息し、息を潜め、彼女は確かに、私にとって、最早母と呼ばれるべき存在ではなかった。暴力としての突き刺さった亀裂以外ではなかったが、私は彼女を愛した。彼女を時に折檻する父を、むしろより多く憎んだ限りにおいて。私は見ていた。父と母があげる怒号と、振り下ろされる拳、たたきつけられる皿、突っかかって行く豊満な母の身体、興奮状態で搾り出される涙と上気した頭部の赤らみ、白目の充血と体温、彼女のアオヤイの下の体が薄く汗ばんでいるのは知っている。そのあからさまに女性性をたたえた息づく身体が。彼女は一度喉を鳴らし、もう一度つばを吐き、にも拘らず、今、あの二人は美しい老夫婦にすぎない。父の建築会社の倒産が、綺麗に二人の関係のすべてを清算して仕舞った。今、貧しい生活の中で二人は寄り添って生活し、時間は、他人が気まずいほどにやさしく流れ、父が脳梗塞で半身不随になって以降は、老いた親密な、《つがい》の小鳥のおだやかな気配の中にすべてが進行する。まるで、あらゆる事象が、その時間を彼らに与えるためだけに流れてきたものであったかのように。それはひとつの長い物語の終着点だった、と私は解釈していた。私の存在もひとつの構成要素に過ぎないのであって、むしろ、始めから私は彼らの傍らにはいなかった。なぜ、彼女が私を抱いたのか、その理由さえもがいまや捉えられない。愛していたからだと言うしかなく、彼女にそれが必要だったに他ならず、私にとっても、そうでなければならなかったのかもしれない。私は私に聞いてみるしかないが、問い尋ねられるべき私は既にここにはいない。誰かにためになど生きられない。自分のためにしか生きられない。例え誰かのために命を捧げたときでさえも。「もう大丈夫です。」ありがとうございます、と彼女は言い、ありがとごじゃいます見上げられた視線の中に、私を捉えたまま微笑むが、かつて、世界が誰のためのものでもなかったことを、君は知っているか?少女は一度長く息を吐いて見せ、長い間、アジアでもどこでも多くの人間がそれを繰り返し言ってきた、にも拘らず、これは何?彼女は一度まばたいて、世界がかつて誰かのためのものであったことなど一度もない。これは?君は私の頭を子どもにするようにして撫ぜ、それは、あまりにも残酷すぎるから、私たちは言うのだ、私の首筋の匂いを嗅ぐ動物的なしぐさを、むしろ、美しいと。これは、何?私の指先がすれすれの距離でみずからの頬のラインをなぞって見せるにまかせ、彼女は、そして、Cái má という彼女の答えを耳にし乍ら、…Cái ma 微光の中に彼女の体を見つめようとするが、ただ、…Cái mả むしろその体温とかすかに触れるわずかな部分の触感だけが明らかに知覚されるばかりで、…Cái Mà 私は知っている…Cái mâ 彼女は今私の体の上で生きていて、体はくの字に曲がったまま彼女が…Cái Mậ 私を見つめている。耳を澄まして…Cái mạ 私の声を聞き乍ら…Cái máCái má」頬。まだ老いさらばえてはいなかった若い父が酒の酔いにまかせてしばしば加え続けた母に対する暴力は、これは?ともあれ、戯れのように、何?私の手が彼女の額にのばされて触れそうになる寸前に静止するのを、子どもが駄々をこねるようなそれ。彼女は感じたが、苦し紛れに振り払われた手のようなそれ。彼自身にも制御できずに。にもかかわらずまとわりつく様なそれ。…Cái Trán それを暴力と呼び得るのかどうかさえわからない。すこしだけ身を起こした私は彼女の唇のすれすれに自分の唇を近付けるのだが、いずれにしても…Cái trang 過去が暴力でありうることはあり得ない。彼女は首を振って耳を澄ます、私は知っている…Cái Thanh 今、彼女は私を見つめていた。過去に対してそれが暴力であったと規定することは…Cái Thành それ自体過去に対する暴力に過ぎない。少女の呼吸を私の顔の下半分の皮膚が感じているが、暴力は…Cái trăng 常に現在に於いてしか存在しないために…Cái chang 記録することさえできなかった。記憶することも、私は …Cái tràng 知っている、私は …Cái Trán Cái Trán」ひたい。過去に傷ついた私は泣き叫ぶとき過去を暴力として正に破壊した。彼女の息が私の唇にかかるのを、熱帯の日差しの中で日差しを避けるように、開け放たれた路面沿いの住居の土間に寝転んで、若くはない女が髪を砥いでいる。アスファルト舗装された幹線道路を小道に逸れて、土の細いわけではない道路の脇の住居が作った影の下を歩くと、さらに細い土の道が現れて、微かに隆起している土地の形そのままにそれは緩やかな斜面を作って、私はあの褐色の少女の家に行く。


序(4)

小さな個室の連なった平屋のアパートメント。Lệ Hằngの取り巻きのSEが支払っている姉弟のための住居。このとき、笹村はすでにLệ Hằngによって殺されて仕舞った直後だったし、私にはやるべきことが多くあった。とても多くのことが。私は日本に報告しなければならないし、警察が私を呼んでいることもスタッフがLineで教えてくれていた。処理すべき多くの残務に押しつぶされそうになっていたわけではない。まだ手をつけてさえいなかった。逃げ出したかったわけでもない。ただ、いたたまれなかっただけだ。逃避という意識すらないままに、正午近くの日差しが照りつけ、私は知っている。私の体は汗ばんでいる。私は知っている、路地の角手前の細い小路を曲がった小路に並んだ住居の群れの中の平屋のアパートメントの向かって右の棟の突き当たりから2番目の部屋に彼女は住んでいる。Lệ Hằngが教えてくれた。私は知っている、そのとなりに彼女の友人の女性の叔父夫婦が住んでいる。彼女の両親はダラット[Đà Lạt]にまだ住んでいる。私は知っている、そして、その部屋に彼女はいなかった。在宅のすべての住戸のドアが開け放たれているため、身を潜めることもできないままに、一斉に人々の視線は注がれたが、彼女の部屋には、あの韓国風の金髪の少年がいて、私は知っていた、彼は彼女の弟だった。Lệ Hằngはそう言った。少女がSisterと、何の血のつながりもない友達を私に紹介したこともあったので、日本語で言う弟なのかどうか私は判断しかねたが、チャオchào、と言った私にThành タン という名のこの少年は一度顔を上げたまま、少しだけ驚いたような顔つきはすぐに消え去った。微かな憎しみと、微かな軽蔑、微かな、それらいくつかの感情の束も混交させた表情が鮮やかに、ただ、私を見つめることしかできない。Thành は知っている、この男はベトナム語が、私は知っている、話せない。この少年は、話せない、Thành は、英語も日本語も、知っている、お互いに。会話することはほぼ不可能にすぎない。知っていた。できるのは、希薄な親密さをこめた、希薄な微笑で無意味な目配せをしあうか、或いは完全に無視するかどちらかに過ぎないが、いま、私たちにはそのどちらをもすることができなかった。私は微笑を作って、彼を見つめる。薄暗く、狭い室内だった。十畳たらずのロフトの部屋で、壁にはくすんだパステルカラーの緑のペンキが塗られていた。キングサイズのベッドが部屋のほとんどを占領し、ロフトの上は衣類や荷物が可能な限りぶち込んであって、その下は壁の向こうにシャワールームとトイレとキッチンを兼ねる、三畳少しの空間があるが、ドアのようなものはない。入り口の上の小さな通風孔の列から日差しが入り、ドア越しの逆光の中に私をしばらく見つめるが、ややあって、Thành は視線を逸らし、私は壁にもたれかる。

ここに、いたの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

不意に、まるで庭先の鶏の首をちょっとひねったようなた易さで、笹村を殺してしまったLệ Hằngを、少し、滑稽にすら思う。軽蔑感や、侮蔑の一切ない、単純な滑稽さ。よくも、簡単に、あんなことができたものだった。何の屈託もなく。Lệ Hằngのすることはいつも、どこか、滑稽だった。例えば、彼のためらいのない刃が自分に向けられたときですら、私は彼のそれを滑稽に思うのだろうか?瞬き、Thànhは小さな韓国製の小さな携帯電話でメールを打ちつづけていた。会話するより早く返信され、昨日、笹村も思ったのだろうか?話すよりも早く返答され、笹村も、滑稽だと。キーのデジタル音だけが細かくリズムを刻む。自分に向けられたLệ Hằngの刃の向こうで。私は息をつき、私には理解できないベトナム語の音声を含めたあらゆる生活音の微かな音響が、壁の向こうの空間を満たし続けていたことに気付きながら、私が少年のとなりに腰掛けたとき、忌否するように少年は立ち上がった。一瞬だけ私に一瞥をくれた後、NIKEのジャンパーを床から拾い上げながら駆け出す。ふたたび逃げ去る彼を、とめることはできない。日差し避けに彼がいつも着る冬のような厚着は、しかし、彼らの多くの肌はあからさまに日に灼かれ、見事な褐色に染まりこんでいる。小柄な、韓国人のシンガーのような金髪の、Thànhの肌は白い。まるで一度も直射日光を浴びたことさえないかのように。私は不安になる。彼が、この熱帯の正午近くの日差しの下で生きていけるということが最早信じられない。彼は溶けてしまうに違いない。彼の姉の、見事なまでの灼けた小麦色とは違って、彼の肌は悲しいほどに白い。純白の、あるスタッフが言ったものだった、笹村に罵声を浴びたばかりの彼女の肩を叩いて、「気にするなよ」大丈夫?言った瞬間に、Linh リン というその二十代の女は、上目遣いに泣きはらした目のまま、「いつ日本に帰りますか?」どうして?「あなたがいないと」みじゅさわさんはいないと「みんながさびしいです。」みんなはさびいしいですから。そうだね、と私は、そして、Thànhたちの部屋に取り残されたまま、そのとき、私は言った、サイゴンに雪が降ったらね。彼女を待つのだろうか?ここで。あの少女を、このまま、あるいはThànhか、何事もなかったように二人が、いずれにせよ誰かが帰ってくるのを?ここに。Linhはいぶかしげに、ここで。「サイゴンに雪は降りません」知ってるよ、と私は言い、あるいは、いつまで?When pigs will fly. 意味を察したLinhはややあって声を立てて笑った。サイゴンには雪は降りませんよ。開けっ放しのドアの向こうから、六十歳近くの女が顔をのぞかせて早口に何かを言った。咎めるように。豊かではないベトナム人しか生活していない彼らのアパートメントの中に私がいることは、彼らにとって、考えられないことだった。声を立てて笑い、私は手を振った。気にするなよ。放っておいてくれ。お願いだから。鍵を持っていない私は、ここを立ち去ることもできない。レタントンの青いアオヤイの女はLanランという名前だった。いつかの朝、私たちが契約している工場近くのホテルのロビーですれ違ったとき、彼女は清楚なスーツ姿で、私に一度日本風の会釈をして微笑んだが、声をかけていいものかどうか憚る私に、「お元気ですか?」言った。元気です、あなたは?私も元気です。「ありがとう」ホテルの真っ白い壁の高い天井近くを、白に近い黄土色のつがいらしい蜥蜴が付かず離れず、戯れるように距離を測りながら這っていく。笹村の惨殺死体の発見を彼女はどんな思いで知ったのか、このときの私には知る由もなかったが、カラオケ屋での彼女の痴態が嘘のように、笹村さんに会いに来たんですか?Lanは不意に沈黙し、私の顔を唯、黙って見つめた。背の低い、華奢な彼女は作り物めいた綺麗さを持っているものの、どこか、単純に美しい女とは言いがたかった。メイクのせいかもしれないし、単に、彼女が疲れきっていただけかも知れない。ホテルの警備員が遠くで煙草を吸いながら私たちに一瞥をくれるが、つまらなそうに、ややあって、煙草を投げ捨てただけだった。Lanが何か言いかけたとき、駆け込むような足音とともに階段を駆け下りてきた笹村は「ああ、上がって、上がって」Lanに性急な手招きをくれた。「水沢さん、今日、私、午前中、遅れる。ね、今日、暇だから、水沢さんも、ゆっくりして」現地のスタッフが話すような片言の日本語を私に投げると、あと、壊れてるみたい、エレベーター、今日。Lanの所有権を主張するように腰を抱いてエレベーターの中に消えていく。悪びれもせずに彼女は一度私を振り向いて会釈をし、私はベッドの上に寝転がる。姉と弟の体臭が微かに染み付いていて、私の知っているそれらと、私の良くは知らない何かの混濁した匂いの低い滞留の中に、少女はもうここには帰って来ないのかも知れない。弟も。少女はホテルで私を待っているに違いない。不意に出て行った私を。なら、どうすればいいのだろう、ドアの向こうに、覗き込んでいた女の顔はもういない。あの不安げな微笑は。彼女が連れていた子どもも。南部の子どもの外見は例外なく愛くるしい。奇跡的なほどに。薄暗い陽光の中、奥の水場からの微かに澱んだ匂いがする。間違っても環境のよい住居とはいえない。もっとも、一般的な賃貸住居であるには違いない。工場の一人暮らしのスタッフの住居もたいてい、こんなものだった。ベトナムの法律で、外国人が現地の女性を婚姻以前の段階で部屋に連れ込んだり連れ込まれたりした場合、強制的に国外退去させられるというのを知ったのは、もっと後のことだった。初めて少女がホテルに泊まりに来たとき、警備員にいくらかのベトナム紙幣を握らせているのを見て、その正確な意味を解せないまま、にも拘らず、その行為の意味を聞きただす共通言語を持たない私と彼女は、だから、私は微かな疑問を沈黙と希薄な微笑みの中にそれら握りつぶすしかない。あたりさわりのない孤独感さえ感じながら。あの日、Cảnhの結婚式のパーティが夜の浅い時間に終わった後で、Lệ Hằngに誘われるままに彼とその取り巻きたちとの二次会に遅くまで付き合う。Lệ HằngCảnhの家族たちと盛んに会話しながら私を3階の奥の半分を占めた仏間に案内して、今日はここに寝るといいです、私に言ったが、疲れ果てたあの少女は先に寝ていた。同じ年頃のもう一人の少女と、背中合わせにマットレスの上に横たわりながら、そして取り巻きの何人かと、Thànhはなだれ込むように部屋に入り込んで、勝手にマットレスを床に敷き、雑魚寝に眠り始めるが、Thànhは相変わらず私とは一切口を利かないまま、視線すら合わさない。「私は忙しいので、夜中に、帰ってきます」耳のすれすれに発されたLệ Hằngの声を背後で聞き、私は耳と首筋に彼の息のかかるにまかせたまま、薄暗がりの中で、Thànhがまだ眠ってはいないことをは知っていた。誰もが、美しい無法者のLệ Hằngには従うしかない。しずかな、6,7人の人間の寝息が立ち、Lệ Hằngはまだ帰ってこない。今日は帰ってこないのかも知れない。少女の寝息が私の傍らで低く聞こえ続けていたが、私はまだ眠くはない。昼間から長時間にわたって飲みすぎたには違いなく、過剰なアルコールが体の中で執拗に眠りを阻害してやまないまま、不意に、少女の手のひらが私の胸にふれ、顔を向けると、彼女は微笑むでもなく、ただ、私を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

暗がりの中で、その表情の細かい部分の一切を、濃い影が塗りつぶして仕舞いながら、巨大な仏壇のクリスマスツリーのようなライトアップが微かに壁という壁、天井という天井に細かな色彩の光と色づいた影を明滅させる。いつかの雨の日、沈黙のまま、私の問いかけに応じない彼女に向けて、私はホテルの花瓶を叩き付けたものだった。使い物にならない、ただの声帯の震えに過ぎない英語。今、彼女は横寝に向かい合って、私と見つめ合い続けながら、彼女の黒目は震えるように細かく動いてやまないことを私は知っていた。私もそうなのかも知れない。あの時、彼女は私の次の暴力に身を構えて見せながら、花瓶の水で体を濡らし、逃げようともせずに、ただ、私を振り向き見ていた。立ち尽くしたまま、なぜ、君は不可解な沈黙を時に、くれるのか?彼女との会話など不可能なことは、しかし、私は何か話しかけようとして、話すべき言葉など日本語でさえ見つからないことにはもう気付いていた。発されるべき言葉など、話されるべき何かなど何もないにもかかわらず、私たちは、何かを話し合うべきだった。愛と呼んだ感情に触れるために。《人間》になるために。彼女に話しかけたかった。それは純粋に、性急なまでの欲望だったが、出口などどこにもない欲望が、燃え盛る端からくず折れ続け、むしろ彼女を今ここで裸にして、彼女の肢体そのものにうずもれたいというすでに燃え盛っていた欲望そのものよりもはるかに、痛みすら伴って私をなぶり続けるが、最早それらに差異はない。屈辱にまみれる。寝静まった人々の息が聞こえる。見つめあう彼女の息遣いも、Sao anh khóc vậy ?彼女のその声は、あのやわらかいアルトで、確かに、私は泣いていた。私の乱れた息遣いを、君は聞いていた。それを私は知っていたし、驚きもせずに、彼女は私のまぶたを指先で拭ってみせ、Thànhがまだ眠ってはいないことを私は知っていた。彼女もそうかも知れない。むしろ、私以外のことなど気にも留めていないのかもしれない。ほかにも、何人かの取り巻きたちも目覚めているには違いなく、どうですか?

いま、あなたはどう感じていますか?そんなことを話したいのではない。君は、と思う、私を饒舌にさせる。なにも話すべきことがないにも拘らず、強制された沈黙のなかで、空っぽの饒舌をかきたてては焼き尽くしてしまう。なぜ?タイサオ?聞き取れない彼女にたいさお?私はささやきを繰り返す。Tày sào共通言語があったとして、Thay xau何が違うのだろう? Tai Xấu ...Tai sao ?」彼女は呟き、私はうなづく。なぜですか?彼女が微笑むのを私は見て、私は微笑んだ。なぜですか?Tai sao ?」そう言った少女の身体が目の前で息遣い、熱帯の夜の大気の中で汗ばんでいるのを私は知っている。微かに開いた唇から呼吸が吸い込まれ、一度滞留した後、

―Tai sao ? ゆっくりと吐かれたとき、どうして、泣いているの?彼女は あなたは、ふたたび いま。何かを言おうとしたには違いない。私が彼女の鼻先に指を近付けて、その呼吸を指先で感じるのを彼女は見つめ、立ち上がった彼女は仏壇の花瓶に手を伸ばす。…Mệt quá, 言い訳するように彼女は呟き、私を振り向き見、….Khạc quá, ささやき、引き抜いた白百合を床に無造作に投げ捨てるが、花は音さえ立てない。花瓶を口に当て、その水で喉を潤すのを私は見つめる。雨が降っているのは知っていた。不意に振り出した夜の雨がトタンの屋根を叩いて、静かな騒音で大気を満たしていた。足元に衣服を脱ぎ捨てた彼女の四肢を、夜の暗さの中に存在するあらゆる光源が、やわらかくうつしだし、接近した彼女の鼻先が、私の体の匂いを嗅ぐ。目を覚ましていたThànhが身を起こし、壁にもたれかかって、うなだれるように視線を外したまま、私は彼女の髪の毛の匂いをかいだ。Thànhは目線を合わせない。乳臭い、醗酵したその匂いの向こうに、彼女の体は相変わらず微かに、うすく、汗ばみ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女は未だ帰って来ない。Thànhさえも。彼らのみすぼらしい部屋の中で、時間すら経過するのをやめてしまったように。ただ、ドアの外で遠くにさまざまな生活音が耳をつく。ベッドの上に投げ捨てられたままの姉弟の寝巻きらしい薄手のTシャツや短パンに触れてみる。日本人はみんな「におんじんわみんな」クリスチャンなの?「くぃすちゃんじぇすか」とLanに不意に尋ねられて、いいえ、と私は言ったが、殺される二日前の、ホテルのロビーで外出の準備をしている笹村を待ちながら、石造りのベンチにもたれかかるように腰掛けて、Budhist です、言いかけるが、必ずしもそうとは言えないことくらいは、私だって知っている。少なくとも、仏教国のタイやベトナムのような、仏教国ではない。なぜ、そんなことを聞きますか?Lanは上目越しに私を見つめ続けたまま、笹村さんは Christian ですか?問いかえす私に、何も言うわけでもなく、ただ、瞳孔を開かせた黒目がちの、ほら穴のような目で見つめたまま、あなたは、ハンサムですね。思い出したように言うが、声を立てて笑い、「笹村さんはいつも十字を切ります」さじゃむらさんいちゅもひざまづいて、Amen

 

ね?彼女の腹部のすれすれに顔を近付けて、その皮膚の匂いを嗅いでみる私に、少女は何の抵抗もしないまま、その視線はついに、壁にもたれかかったままのThànhの姿を捉えたかも知れない。少女の褐色の肌は、灼けたような匂いがする。腹部の、呼吸するたびに微かに波打つその息遣いを、私の接近しすぎた視界はついに何も捉えきれないまま目を凝らす。「彼は言います」さじゃむらさんわいーます私は彼女の音声に耳を澄ます。何を?発情した雄犬のような眼差しを私に向けたまま、Lanは、何を?唇を開きかけて、笹村はまだ降りてこない。「どうして信じられますか?」どしてしんぢらりますか私の体の上に、身を丸めた猫のようにまたがったまま、彼女は私の性器に指先をのばして、茂った陰毛をもてあそぶようにその微か上に左右させながら、小さく声を立てて笑いさえするのだが、そのしぐさの持つ滑稽さに、私も微笑んだまま、体温を移して私にもたれかかった彼女のその髪の毛の先に指先を触れる。少女が息遣うたびにちいさく私の皮膚のさまざまな部位に吐きかけられた彼女の呼吸に、私は目を閉じる。「自分で殺したのになぜ信じられますか」じふんで、Kill, Kill, …しましたがじょして彼女の唇の動きに、そして私はその音声に唯、耳を澄まし、開かれた聴覚の中を静寂の中に立つ波紋で満たしながら、少女は口付けようとして唇を接近させたまま、口付けないままの至近距離で止まって、私を見つめるのだった。「ですが、信じています、どうしてですか?笹村さんは言います。」じょしてと、さじゃむらさんはいーます体温の存在。彼女の皮膚の温度を私は私の皮膚に感じ続けながら、何か言葉を探しながら、探し得ないことなど知り尽くしてしまっていたにもかかわらず、振り向くと、Thànhは私を、何の感情も感じさせない清んだ視線の中に捉えてはなさい。あるいは、彼の姉を。「笹村さんは、時々、クリスチャンのように見えます」彼女は私から視線を離さないまま、私は彼女の息の音を聞き、雨が降り止まない。これらの騒音が、空間を満たし続け、窓の外のあらゆる風景は水浸しになっているに違いない。なぜ?笹村を殺してしまったLệ Hằngに、私は言ったものだった、あの、明け方の薄暗いホテルの私の部屋の中で、どうして、彼を?「一目見たとき、私は彼を愛しませんでした。私は、あなたもそうだということを知りました。」彼は微笑みながら、「ですから、彼は生きられないんです。わかりますか?」土砂降りの雨の中で、Lệ Hằngは言ったのだった、「私にできることは何もない」あとに残され、傷ついたLanは、数日後、Lệ Hằngがよく行っていたカフェで、彼にすがるように寄り添いながら、彼女はLệ Hằngを見上げていた。美しい彼に、女たちがよくする、瞳孔を開ききらせて、思考の中に発熱したヴィルスをばらまいたような眼差しの中に、タクシーの中からの通りすがりにその雨の中の彼らを見留めて私は、今、Lanが彼に癒され、救われさえしていることに気付いた。今、この時に、傷つき果てた彼女は、Lệ Hằngなしでは生きてさえいけない。周囲の多くの男たちがLệ Hằngを、彼を射すくめて放さないような視線の中で捉えていた。なしうることは、傷ついたものを癒そうとすることだけだ。時に息さえ潜め、彼の呼吸と、気配を確認し、その意向を伺いながら、何も傷つき得はしなかったのだから。今、Lanは、彼の身体をさえ求めて、彼女は耐えられないその欲求に耐えているに違いなく、残されたものが、ただ、立ち去ったものを失っただけだ。彼女は、彼を必要としていた。Lệ Hằngもそうだったとは思えない。私の嫉妬がそう思わせたかもしれない。土砂降りの雨の中で、「雨が降っています」窓の外を眺めながら、彼に蹂躙されるような彼とのセックスの後で、疲れ果てたようにベッドの上にうち捨てられたままの私に、私の存在などむしろ気にも留めてはいないように、初めて会った日に彼は言った、あのカフェで、これからどうしますか?私はLệ Hằngを見つめ返し、会社に帰らなければなりません。Namはこぼれるような笑顔をLệ Hằngに投げかけ、私たちの足元をこの店の家猫が一切音を立てないままに横切ろうとして、不意に立ち止まる。私たちには聞こえないどこかの音響に耳を澄ませて。そうですか、忙しいですね、と君はいい、私に微笑み返すが、今、この瞬間にこの足元の猫を蹴っ飛ばそうとしても、この猫は身軽に避けてしまうに違いない。その自由な警戒心のなさで、猫ずわりに座ったまま足で顔を撫ぜて見せ、ですが、今日はもう疲れましたから、会社には帰りません、その私の言葉にNamLệ Hằngは声を立てて笑った。私はすでに失脚した人間だった。会社に居場所はなく、笹村の話し相手になるのは、初日の十五分ですでに飽きて仕舞った。ここに来てまだ二週間にしかならない私は、この国に受け入れられてもいないし、受け入れてもいない。知るべき多くのことがあり、知ったところで意味もない。私は肩をすくめ、これからどうしましょうか?私には午後の予定はありません。何かを思いついたLệ Hằng は、Khạc sản anh ấy ở đầu ?と、Namを見やってLệ Hằngは言い、彼の答えを足を組んだまま頷きながら聞いた後で、じゃあ、ホテルまで私が送りましょう。取り巻きの一人のYAMAHAのバイクの後ろに私を乗せた彼が、Namに笑って言ったChào, Tam biết の声を聞いて、私は、チャオと言う言葉が別れ際にも使われることを初めて知った。行きましょう、また雨が降り始める前に。彼は言うが、それを日本語の間違いとして聞いたものだった。そのとき、雨上がりの空は晴れ上がって、濡れぼそった地上から目を逸らし、見上げれば雨期の気配さえない真っ青な輝く空だけが広がっていたのだから。ホテルについて、部屋に入り、私がエアコンをつけた瞬間に、Lệ Hằngはレース地のカーテンを開け放って、部屋中に光線をなげいれるが、あれから十分も経っていない空は急速に白みを増し、光を失って、窓の外の植物の葉々がまだ光を失いきれない曇り空の下で、いまだ鮮やかなままに、鮮度をうしなった暗示された色彩として、しずかに、その残された気配だけを際立たせる。まるで高山の上や、台風が吹き荒れた直後の一瞬に差すようなこのおだやかな光線は、すぐに土砂降りの雨が来ることを明示してやまない。


序(5)

「雨が降っています」Lệ Hằngは窓の外を眺めながら、言った。私は、彼の日本語を修正しようと思った。まだ、雨は降っていません。あるいは、雨がこれから降ります。mừa rồi 彼の傍らに接近して、すれすれの距離の中で、mừa rơi chưa 窓の外の向こうの遠くに明らかに雨が降っているのが見え、Mừa sẽ rơiそれが一気にあらゆる空間を飲み込んで接近し、Mừa rồi雨の轟音はしずかに立てられた怒号のように、群れて、窓の外を飲み込んで仕舞うのだった。窓ガラスをさえ雨は叩きつけ、流れ落ち、私はLệ Hằngの体が立てる甘く醗酵させたような香気を、気づかれないようにひそかに鼻腔に嗅ぐが、未だ消え去らない微光の中に、すべての植物が雨に打たれ、浮き上がらせられた色彩をすら喪失させられないままに、これは、日本語で何ですか?Lệ Hằngが指さした先のテーブルの上に置かれたマンゴーを、私の「マンゴー」と言う言葉に声を立てて笑う君に、「日本語ではありませんが」私も笑い乍ら答え、あの日、

 

 

 

 

 

 

 

 

 Cảnhの結婚式の後で、初めて彼女を抱いた後、うちつけ続ける雨音の中に、私はマットレスの上に疲れ果てて横たわったが、眠りはまだ訪れない。行為が果てたすぐ後の、肌もまだ汗ばんだまま、彼女は身を丸め、私にしがみつくようにして横たわるが、私はThànhが座り込んだまま寝たふりをしていたのを知っている。多くの人間が立てる寝息の音声があって、誰かも他に目覚めているのかも知れないし、すべて、寝込みきったままなのかも知れない。私は目を閉じたまま、私がまだ笑いやまない前にLệ Hằngは不意に振り向きみて、上目越しに私を見つめたまま、私は彼の唇が、私の唇に押し当てられるにまかす。目を閉じるきっかけをさえ失った見開いたままの視界に、彼の、私を見つめる茶色がかった黒目が、瞳孔をさえ開かない凝視の気配の中に、雨がすべてを飲み込んで、のたうつように降りしきっているのを私は、そして知っている。空間のすべてがその音響に満たされて、微光の中に、やがて、身を起こし、素足の、音も立てない猫のようなしなやかさで近づいたThànhが彼の姉にまたがるようにかがみこみ、その頭を撫ぜてやると、姉はまだ子どもながら何かを教え諭そうとするように一度指先を立てようとしたが、私の口に差し込まれたLệ Hằngの舌が、ゆっくりとお互いの唾液をさえ混ぜ合わせていく。唇に濡れた触感があり、確かに、唾液で濡れているには違いない。彼の腕が私の背中を撫ぜるが、その胸部が押し当てられている私の腹部に、奇妙な違和感がはなれない。Thànhは、当然のように、慣れた手つきで、姉を引き剥がすように抱きしめると腕に抱き、ほとんどふくらみのない彼女の胸を片手にまさぐり乍らむさぼるように口付け、私は身を起こし、目を開ける。一瞥をくれたThànhは、しかし、すぐさま自分の行為に没頭した。姉は、一応の気のない抵抗を試みようとしてはすぐに飽き、身を任せ、目を閉じたまま、唇を離したLệ Hằngは、違和感の去らないままの私を見つめた。ややあって、不意に短く何回かうなづいた後、ためらいもなく衣服を脱ぎ捨て始めた時、彼の胸のふくらみを固いスポーツブラが押し固めているのを見たとしても、私はもはや驚きさえしなかった。隠しているわけではありません、ただ、と、彼は言った、「動くにくいですから」さらしのように固めたスポーツブラをはずすと、むしろ意外なほどに豊かな胸の曲線のその美しさに息を飲み、Thànhの慣れた愛撫の手つきが、二人にとってそれが最早当たり前の行為だったことを明示してやまない。少女は目を閉じたまま、私から顔を背け、やがて無造作に短パンだけずらしたThànhのそれが彼女のそこに差し込まれた瞬間に、長い詰まった息を吐きながら弟の背中に手を廻されるが、彼女は目を閉じつづけていた。私の右手をとって、自らの胸に触れさせ乍らLệ Hằngは言った。驚きましたか?彼に抱きしめられたさっきに感じていた腹部の触感で、すでにわかっていたとも言えて、それが今まで未知だったのか、既に知られたものであったのか、思いあぐねる。私がLệ Hằngの胸をなぞるように指先を這わしていくのを、彼は何も言わないままに見つめながら、その指先が彼女の灼けたように黒く、尖り立った乳首にやわらかく当たった瞬間に、飽き足らないように自らの手のひらでそれを包んだ。包んだ手のひら越しに、自分で愛撫するかのように揉みしだかせて、十四歳になったばかりのThànhに自らの上で腰を振り続けさせながら、弟は、そして少女はあらく息遣い、その聞き取れないほどにかすかな音響が私の耳の中を占領する。姉の足は苦しげに彼の腰に組み付いて離れない。私がそれを見つめ、息を殺して息遣い続けるあいだに、胸焼けするほど甘い醒めた高揚は私の神経の中に氷のように冷たくとぐろをまいて、目の前で起こっていることを理解しようと努めた。理解しきれないまま意識が散乱して行くのだが、私の両手が彼の胸を手のひらにもてあそび続けていることには私だって気づいていた。不意に一瞬無表情になって、しかし視線の中に私を捉えたまま、私はどうしようもない不安のうちに彼の視線の向こうを追い、Lệ Hằngは微笑みながら、彼の華奢な生地のパンツを脱ぎすてたとき、現れた、彼の美しいあの顔や、やさしく、微かに巻きのかかった長い髪の毛や、上半身の曲線の、意識を昏ませてしまうような美しさを破壊するためだけに存在しているかのような、濃い剛毛に埋め尽くされた強靭な下半身に息を飲み、私は彼の前にひざまづく。その下着を押し上げて、上部から少しだけはみ出してさえいる、勃起しきった彼のそれに、一度、私は瞬いた後で指を触れる。向こうの柔道家のような体躯の男が一度目をさまし、姉弟の行為を見留めるが、それは彼の興味をは引くことさえなく、彼は背を向けてすぐに眠り始めた。無為のまま、弟の背中から落ちた腕の指先が私の腕に触れたとき、不意によみがえった記憶に一瞬指を硬直させた後、彼女は私の腕を確認するように撫ぜ、探し当てられた私の人差し指と中指とは握り締められるが、なぜ?彼女は目を閉じたまま、私に下着を脱がせられるにまかせ、Lệ Hằngはいつか、私の頭を子どもにするように撫ぜていた。彼の下半身のそれをためらいとともに指先に触れようとするが、むしろイヌ科のそれ思わせる、包み込んだ皮から尖出した赤黒く、長いその亀頭に、彼は私の顔を強制するでもなく押し当てて、私はそれを頬にうずめる。けだものじみた荒々しい温度に頬を占領させながら、彼女の握り締めた手のひらが、隠しようもなくこの少女が今まさに私だけを愛していることを伝える。私には、何かが、何も、理解できてはいないまま、故郷のĐà Lạt、あの高山の上の空中都市から遠く離れたビンジュンで、いずれにしてもこの姉弟が二人だけで、こうやって生きてきていたことには間違いない。ついさっきまで私の腕の中で私の体を抱いていた、あの、大人になりきれない痛ましいほどに幼い肢体が、まるで子どもの肢体に馬乗りになられて、交尾され続け、欲望のままに自らの腰を振る彼らの行為を、捨てられた子猫同士の愛撫のようにさえ錯覚しながら、私は彼女に手のひらを指に握り締められたまま、向こうの手で彼女が弟の、彼女の唇をむさぼってやまないThànhの頭をきつく指先につかんだときに、射精したThànhの肢体がくず折れるように彼女の体を押しつぶす。慣性の中でまだ腰を動かしやめずに交尾し続けるThànhの、その唇に押しつぶされた下で、彼女が目を閉じ続けているのを、私は、彼のそれに唇を当て、知っている。唇を開き、私の舌が彼のそれに触れて、その触感とかたちを確認しながら這わされたときに、あなたはどちらを望みますか?Lệ Hằngは言った、吐息を吐くように、私の手のひらが、彼の毛むくじゃらの鹿のような太ももを撫ぜ上げ、男性のそれですか?彼は、そして、愛撫する指先は急激な流線型の果てに、あまりに女性的な、ゆたかな、ふくよかな臀部にたどり着くが、女性のそれですか?彼は言った。彼の睾丸をまさぐって、指先に触れたときに、不意に小指が触れた、そのすぐ近くの、肛門とは別の明らかに女性のそれの存在の湿り気に気付いていた私は、彼の言うことをすぐに理解したが、私は選択する自由を持ちえない。ただ、彼を見上げて視線の中に捉えるしかない。彼の腰の動きが眠りつくように止まってしまうのにあわせて、少女の手のひらと瞳はゆっくりと開き、彼女はふたたび開かれた視線の中に、私を捉える。開かれきった手のひらに放たれた指先が、彼女の手のひらと、その指先を撫ぜ、冷めやれない弟に未だに口付けられ続けながら何も言わないまま彼女は私を見つめた。その行為は、彼らにとって必要なものなのに違いなかった。姉にとってなのか、弟にとってなのか、お互いにとってなのか、ややあって、まるで自分の部屋のように私をベッドルームに誘って、選択できないでいる私の戸惑いによく気付いていたLệ Hằngは、仰向けに寝かせた私の上にまたがって、彼女の女性のほうに、私のそれを誘う。彼女の中に、めり込むようにして入った瞬間に、土砂降りの雨が立てる騒音を私は一気に耳の中に思い出す。雨がすべてのものを打って、叩き、濡らす、雨期の、そして彼女は私をその視線に捉え続けたままに、私が床の上の服を取って立ち上がるのを見る。弟が未だにやめられないでいる猫が鼠をもてあそぶような愛撫をその全身に受け入れたまま、ほとんど彼が何かをする暇さえもなく、とめどない戸惑いと感情の混濁の中で、彼の彼女の中に射精してしまった私をLệ Hằngは咎めることなく、硬直の解けないでいる私のそれを指先でもてあそんでみたあと、言った。あなたも私を受け入れればいい。私を見つめ続けるその眼差しが私を誘惑し、Lệ Hằngの男性のそれが私のそこに差し込まれた瞬間に、彼の下腹部に臀部はやわらかく押しつぶされながら、私は惨めな声をさえ上げ、彼の、長い、執拗な行為に蹂躙されるに任せるほかはない。夥しい快感と、吐き気さえする高揚の中で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「雨が降っています」君は言った。君に蹂躙されて、疲れ果て、ぼろくずのようにベッドの上に捨てられたまま、その視界の向こうで、Lệ Hằngは美しい。私に背を向けたままLệ Hằngは、窓の向こうの雨に包まれた白ずんだ色彩を見ているのには違いない。その、華奢ながらにあまりにも豊かな上半身と臀部の曲線と、そこから生起する獣じみた足のたくましい太さとのあざやかな対比に、私は呼吸さえ忘れて、君がわたしの体内に残したその、Lệ Hằngの若い精液が、やがて私の肛門からしずかに垂れていったのを私は知っている。降り止まない雨期の、熱帯の雨の中で、私は、未だに帰って来ない姉弟の部屋の中のベッドに身をうずめながら、晴れ上がった午後の強烈な光がドアの向こうを照らし、光の直射の中では、あらゆる皮膚は灼かれ、あざやからブラウンの色彩を染み付かせて仕舞うに違いない。熱帯の光を遮断した部屋の中の薄暗さの中に、その、ドアの向こうのそれはあざやか過ぎる色彩として、もはや色そのものを喪失してしまい、唯の光点でしかない。いつ?「笹村さんは、死にました」君は言った。思い出したように、どうしてですか?彼のすれすれに近付けられた唇が私の唇にやがて触れるのを無意識の内に期待しながら、それでも、何があったんですか?そのすれすれの触感の予感が私の唇を満たす。「わたしが殺しましたよ。」微かな笑みの吐息が私の唇にかかったが、ホテルの窓の外は降りつける雨の水滴の中に、ただ、かすんでいく白さとして、その過剰なまでの白色の氾濫に窒息さえしている。君は何でもするだろう、Lệ Hằng、美しい君は、君の望むことを、常に、君が君の望むことをしないなどなど「どうして?」ありえよう、美しい君に「私には愛せなかったからです」君は笑ってそう言い、たとえ世界は君に蹂躙されきったとしても、私は知っている、「私は彼が好きではありません」世界は君ほど美しくなどあり得ない。君が望むなら、「そのためだけに?」世界は滅びてしまえばいいのだと、「そう、私は望まない、」なぜなら、君の美しさは、それを、それ自体として、「私の」そう「愛し得ないものが存在しうることを。」確信させる。「私は愚劣な人間です」月の涙、Lệ Hằng、月が流した涙よりも美しい、「生きる資格さえない。」Lệ Hằng、吐き捨てるようにそう言い、初めて彼が私を抱いたとき、そして彼は振り向いて、未だベッドの上で身を起こしさえできないでいる虚脱した私に微笑みかけながら、テーブルの上から奪うようにして手に取ったマンゴーの皮を器用に剥き、何気なく捨てられた黄色い皮は床のタイルの上に、撥ねる。音もなく。目を閉じて、私は雨の音だけを聞こうとしたものだった、その時に、不意に押し付けられた唇が、私の口の中にマンゴーの純粋に唯甘い果肉を流し込み、嗅ぎ出された果物と彼の体臭の交じり合った匂いの中で「おいしいですか?」君は言い、私は彼を羽交い絞めするように抱きしめ、再び求め始めたものの、Cảnhの家の小さな内庭に出る。あの日の夜、夜の空が見上げればあまりに隔たった距離としてそこにあって、あの姉弟はまだあの部屋で身を寄せあっているの違いなかった。Lệ Hằngを探すが彼の姿はどこにも、気配すらない。Cảnhの犬が目を覚まして、眠った姿勢のまま私を目で追っているのは知っている。わずかな樹木がしずかに茂り、今、どこに行くのも自由だが、どこにも行くべきところはなく、私は立ち尽くすでもなく、唯、立っている私を、戯れるようにThànhは後ろから抱きしめた。雨が上がったばかりの日差しの強烈な存在を肌に感じながら、そのとき、私はホテルの前でタクシーを待っていた。空港に荷物の手配の確認に行かなければ為らないが、スタッフが既にやっているので、私に取り立てて仕事があるわけではない。ホテルの警備員が手配したタクシーはなかなか来ないし、警備員は赤いプラスティックの椅子に腰掛けたまま、私に手を広げて笑う。どうしようもないよ、来ないんだから。私はThànhの頭を撫ぜてやり、この少年は小さい拒否の声を上げながら身を離す。彼の微笑みに崩れた表情に光が直射するが、真っ白い彼の肌は白く反射光をその肌に這わせ、むしろ、私のほうが日に灼けてさえいた。姉は、まだホテルの部屋の中にいるに違いない。彼女が毎日渡す少しばかりの金銭のために、掃除係も、警備員も、何も文句を言うわけでもない。

 

 

Anh đi đầu ?と、Thànhは言い、私にこぼれるような笑顔を見せた。少年は気が向いたときに私の部屋に転がり込み、飽きればどこかに行ってしまう。今、彼はここにいたいからここにいる。私はそれを知っている。Đi ở đầu ? 彼が私に聞き取らせるためにゆっくりと言った発音は、もちろん、私には唯の音声にすぎない。少し鼻にかかった、むしろ姉よりも甲高い彼の音声が、この少年が男として彼女を愛しているのだとはどうしても思えない。この美しい少年のそばには、いくらでも女が息をころしながら、彼に幼い、露骨な流し目を送っていた。姉のように自由にはならなくとも、或いは、彼ならもっとた易く彼女たちを言いなりにしてしまうはずだった。素手で美しさに直面したとき、既存倫理などついには無力だ。思わせぶりな、切れ長の目で、どこか貴族的な気配を漂わせた、まともな教育も、或いは最低限の倫理観すら持たないかも知れない、動物的な、と言えばむしろ動物たちの知性に対して失礼にあたるこの美しい存在は、手を伸ばしさえすれば、無数の果実を手にすることができ、かじりつき、舌の上に転がし、吐き捨てることさえも自由だったはずだった。彼は彼の不確定な論理と、直感的な倫理と、忘却のうちにすぐに消滅してしまう知性が見出した絶対的な正解にしたがって、そして、私たちは慣性に任せるように歩き出し、やや離れた薄汚いカフェに入った。目の前に座ってスマホをいじる彼に視線を投げるが、サイゴン風の、シェイカーで振った甘いコーヒーは私の唇を濡らし、その香りが口の中を少し濡らした程度に過ぎないながら、のどの奥にまで甘さに満たされて仕舞う。いつか、彼と中心からやや離れたホーチミン市の路地で道に迷ったとき、Thànhはややあって立ち止まり、地面を指差して、ここにいろというジェスチャーを繰り返す。何度も念を押し、近くの雑貨屋の中に姿を消した彼は、そしてその奥から、一瞬、短く暴力的な、硬い、やわらかい、にぶい、複数の衝突音の一塊がたったあとで、傷ひとつなく戻ってきた彼はタクシーを止める。息を切らしさえせず、そのくせ、わずかばかり胸元をだけ上気させて。顎をしゃくって私を乗せ、乗り込んだ彼は、その奪ったばかりの釣り札の束から十万ドン紙幣を適当に何枚か引き出して、運転手に渡し、早口に彼に指示を出す。僕に任せればいい、心配するな、と彼の目が言う。明確な、誤解不能な言語として。まるで保護者のような彼の視線の中で、私は一瞬声を立てて笑い、彼は私を守り、私の行きたいところまで私を連れて行くに違いない。私の笑い声に彼が戸惑ったのを私は気付いていた。ホテルのベッドの上で、やがて目を覚ました私はすぐ隣の彼らの息遣いに気付いていたが、目を開けるまでもない。彼女との行為が終わったあとに浅く眠り込んだ私の傍らに、帰ってきたThànhが彼女に求め始めたには違いなかった。いつものように、彼女は拒絶するわけでもなく、弟のなぶるような愛撫を受け入れた。まだ浅い夜の、開け放たれたカーテンの向こうの光に照らし出されて、姉のあざやかなブラウンの肌の上に、Thànhの白い肢体が動く。私が彼女の肩を突き飛ばしたときに、彼女は何の非議を訴えるでもなく、ただ、私を見つめたものだった。そのとき、Thànhはただ、嘆くような眼差しを私に向けていた。私は彼らのその息遣いと、こすれあう肌の音を聞きながら、混濁した汗の匂いと、そして目を開けて、ベトナム風の、高い天井の縁を飾った緑色の木材の装飾を眺める。私は知っていた、私の問いかけに答えなくなるときに、彼女はいつも耐えられないほどの悲しさか、痛みか、怒りのような感情に貫かれていたに違いない。言葉の問題ではない。多くの場合、言葉などなくとも彼女は何を言おうとしているのか、すでに知っている。私がそうであるように。Thànhは姉の上で飢えたように腰を振り、彼女は弟のそれを受け入れた体内に広がっていくその感覚に身を任し、埋没しながら、体を離れたときの彼らの、淡々とした希薄な距離感を思い出すとき、彼らが求め合っているとは思えない。愛しているものへの感情的な性欲に飢えているなら、あの距離感は成立しないはずだったが、今、二人は明らかにセックスの中に埋没していて、とはいえ、始めて仕舞えば、目の前の体に飢え、求めない限り、それは成立しない。それをする限り、彼らはそのとき、飢え、求めている。私と彼女がそうであるように。強制ではなく、当然の条件にすぎない、そのどうしようもない希薄な当たり前の性欲の氾濫の中で、姉は時に喉から声を立てて、彼は、彼女の唇に彼の唇を押し当てる。彼女の目はいつでも閉じている。私のときと同じように。彼女の饒舌なしぐさの不意の沈黙が、私をどうしようもなく暴力的にし、私の暴力がときに彼女をふたたび沈黙させる。私は、愛している、彼女を、愛している、私を、彼女は。私は知っている。射精した後の、慣性の中でゆっくりと動きを失っていくThànhの肢体を、姉はきつく抱きしめさえするが、やがて疲れ果てた彼女から身を離したThànhは私の体の上に身を投げ出して、いつの間にか眠ってしまう。私が彼女を突き飛ばしたとき、紙のようによろめいた彼女の身体がテーブルを殴打し、叩き割れた花瓶が立てた音の向こうで、私は、自分がわめき散らしているのを知っている。私は、そして見つめた彼女は、ややあって私を見上げ、涙すらない泣き顔で見つめた。唇をかすかに切って、血をにじませながら。私を。Thànhが、そもそも女を愛しているとも思えない。Thànhの行為は自分勝手な強姦のように見える。あるいは彼女の行為も。私の行為も?私たちは強姦しあっている。誰を?私はThànhの頭を撫ぜてやり、息遣い、笹村の部屋にLanが通いこんでいるのは知っていた。結局のところ、彼女がやっているのは、売春以外の何ものでもない。彼女はバイクで乗りつけ、警備員にいくらかのベトナム・ドン紙幣を手渡し、部屋を訪ねると、笹村に抱かれ、いくらかの金銭を手にする。時には外貨両替されないままの日本円や米ドルで。とはいえ、そもそも彼女の日本語にかかったはずの教育費を考えると、彼女の現状がそこまで金銭に困窮しているとは思えない。体を売らなければならないほどに困窮している人間がた易く支払えるほど教育費は安いわけでもなく、独学でできるほど日本語は簡単なわけでもない。そして、彼女は笹村の部屋に通い、彼に抱かれた後、時に、ロビーの外の木立のなかで、身を丸めて嘔吐する。精神的な障害なのか、身体的な疾患なのかは知らない。姉弟の寝息を背後に聞きながら、ベランダで外気に触れているとき、人影がホテルの庭を這うように走っていって、あの常緑樹の木立の中にうずくまる。それがLanだということはすぐにわかる。彼女は身を丸めて、あのレタントンの店の前でしていたように、派手に喉を鳴らしながら吐く。胃そのものさえ口から吐き出してしまいそうなほどの、生理的な苦痛をさえ聞く者にあたえる、悲鳴をあげる身体に、私は耳を閉ざしてしまいたいほどに思いながら、部屋を出て、非常灯以外の照明のすべて消されてしまった廊下をおり、彼女のそばに歩み寄ると、もたげた顔の晒した惨めにすがるような一瞥のあと、しかし、すぐに彼女はふたたび吐き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

口から何かが出るわけでもない。何もかも吐寫されきった後なのかも知れない。私にできることは何もなく、傍らで彼女のうずくまった背中を撫ぜてやったとき、彼女の背中に私の手のひらが触れたその一瞬、Lanは四肢を一度痙攣させた。鳥肌が立ち、彼女の皮膚の表面は極端に冷たく、汗ばんでいる。あきらかに病んだ身体が、振るえ、痙攣し、どうして、こんなことをしているんですか?彼女に言い、一瞬聞き取れなかった彼女は、発作の終わった後の胃液に濡れていた唇を、乾いた後まで何度も手の甲で拭いながら、私は繰り返す、どうしてこんなことをしているんですか?一瞬、沈黙し、あの、女たちが一様に私に見せる、瞳孔の開ききった目で、絡娶るようにみつめ、長い沈黙になりかかった瞬間に声を立てて笑い、微笑み、愛してるの。笹村さんを。言う。さじゃむらじゃんのその日本語のあいしていますから意味はあきらかだったが、彼女が語彙を間違えている可能性もあれば、彼女が単に嘘をついている可能性もあって、目の前に転がっている言葉は、無数の可能性を明示させてやまないままに、結局のところ、私の指先にさえ触れ得ずにこぼれ去っていく。私は、無根拠に自分の認識を信じるしかなかった。彼女は、やがて、息を深く吸い込み、不意にこぼれるような笑みを見せて、恥らいを潜めた媚態の中に、あなたは、とてもいい匂いがしますね。みゆさわさんわにおういいです私から目を離さないままに言い、日本語、変ですか?

間違っていません。

いいですよ、私は答えたが、蠅が私たちの足元を揺らめくように旋回し続けていて、肌に時に触れながらも、すれすれの距離感の中に、それは空間を泳ぐ。私は目を伏せ、彼女の肩を撫ぜた後立ち上がり、部屋に帰ると目を覚ましたThànhがシャワーを浴びている水音が微かに立っている。照明の付けられないままの暗がりの中に、彼女もベッドの上に身を起こしていて、未だ衣服をまとわないままに私を見つめた。Đi ở đầu ?私のすれすれに身を寄せたとき、彼女の汗ばんだ体臭が、鼻腔にながれ込む。体を洗い流す気さえなく、そのままに、少女はあの、開ききった瞳孔に中に私を絡娶ろうとし、私はその吐き出される息の、私の首筋にかかるのにまかせる。しずかに、やがて急激に振り出した雨の轟音が室内を満たし、この雨の中に、Lanは打たれているのだろうか?あるいは、逃げ去り得たのだろうか?土砂降りの雨が再び彼女の発作を誘発したかも知れず、雨の中にうずくまって止まない嘔吐に身をよじるのかも知れない。雨のなかに、そして彼女は何も言わないまま、私を見つめ、たしかに、共通言語のない私と少女は、言葉もないままに、意味を探り続け、探り当て続け、触れ合い続ける。微かな瞬きと、黒目の振るえさえもが強烈で、鮮明で、明確な意味そのものとなって反響し、乱反射の中で、ついに、その意味を明示しきることなく、何かが隠されていて、或いは、そもそも意味などあったのかさえわからないそれらの無際限な意味の束が、私たちを突き刺しては、消滅していくのを、彼女もそれを知っていた。さまざまな、あきらかに、指先に触れることさえなく目覚め続ける鮮明な断片に刺し貫かれながら、それらの当然の、すぐさまの喪失が、彼女のまぶたを震わせ、私の黒目に微かな振動を与えて止まない。シャワーを浴びた弟は、部屋を出て行く。こんな夜更けにも、誰かが彼を待っている。姉は声すらかけない。振り向きざまに見せたやわらかい微笑が、その残像だけを私に残して、下のほうでバイクの音がする。私は瞬く。彼女の唇が何か言おうとして開きかけ、くずれ、微笑みに落ちていく。私との行為が終わったあとの汗ばんだままの彼女の体に、弟は、そして、私の目の前に隠されることさえなく曝されている彼女の、弟の行為を受け入れ終わったばかりの汗ばんだ身体は、その体温をさえ残したまま息遣い、私が彼女の鼻のかたちをなぞろうとする指先に、軽く目を閉じて、笹村は、Lanがいつも執拗なほどに体を洗うのだ、と言った。行為が終わった後で、時にまだ彼女の上に覆いかぶさっている彼の体を押しのけて浴室に駆け込み、半開きのドアの向こうから彼女の嘔吐する音が聞こえる。或いはその行為の最中にさえも。笹村はただ、それを聞きながら、その発作がおさまるのを待つ。私は、そして仕事の後で、彼らと食事をしたときに、笹村は彼女の頭を撫ぜた後、言った、日本に連れて行って、病気を治してやりたいんだけどね。「何か、疾患が?」問いかけに、すぐには答えず、思いあぐねた後、知らない。どうなの?彼女に問いかけるが、Lanは何も答えられずに、微笑み乍ら首を振るしかない。会社の中の専制君主は今、声を潜めながら、彼女への惨めな執着を語外に語る。ぼくのことが嫌いなんじゃないの。そうじゃないよね?Lanは私に、色づいた流し目を送った後、笹村に視線を逃してうなづくが、スタッフたちが見たら、どう思うだろう?彼女、ぼくのこと、すっごく好きなの。笑うだろうか?彼らの、言葉さえ通じない理不尽な鋼鉄の専制君主。いつも笹村はベッドの上に身をもたげ、彼女の嘔吐音に聞き耳を立てながら、なすすべもなく、Lanがベッドに帰って来るのを待つ。手洗いに立ったLanの不在の椅子を指先で指しながら、どう思う?笹村は言った。彼女、本当に僕のこと、好きだと思う?笹村は照明の消された夜の室内の中で、彼女を待ちながら、その音にだけ耳を澄まし、やがて聞こえてくるシャワーの水が彼女の身体を殴打する音が耳を打つ。どう思う?嫌いじゃないんだよ、絶対、だって、彼女は体中を掻き毟るように洗っている。いつも、いつもの嘔吐と入浴の後には、まるで笹村がつけたかのように、体中に引っ掻いた赤い爪あとを曝して、彼に覆いかぶさっては、彼に口付ける。まるで、まだ、今日何の行為もされはしなかったかのように、彼女は彼の体中を愛撫し、唇を当て、匂いをさえ嗅いで、腕に抱き、微笑む彼女の手を握って、笹村は言った、どう思う?Lanは瞳孔の開ききった目で、誘惑についに陥落したかのような扇情的な目で、私を見つめて放さない。Seriは言った、反原発の歌作ったのね。彼女が今、私を、欲しがっているのを知っている。性欲の問題ではない。Lanは今、私が欲しい。セックスしてしまえば思いが遂げられるというわけではなく、かつ、あくまでも性欲に支えられているにすぎない、つまりは、それ自体解消不可能な欲望が、彼女の瞳孔を見開かせ、私は彼女が笹村を単純に愛してさえいるのを知っている。彼が一文無しに今なったとしても、彼女は気にも留めないに違いない。好きなんです、わたし、笹村さんのこと。彼女は口の中で呟くように言った。すきじぇしから。私をさじゃむらさんが見つめてはなさないまま、微笑み、まるで私を誘惑し陥落させようとするかのように、「結婚したいんです」あきらかに、彼女の、心まですべて含めた身体そのものが、胸焼けするほどに私を求め乍ら、「日本に、奥さんがいます」彼女はただ、笹村だけを愛している「悲しいけど。」


序(6)

…奥さんはね、もう、名目だけだから。私に弁解するように笹村は言い、眼差しには嘘のない同情があった。けど、なかなか別れられなくてね、熱にうかされたように彼がLanの手を取って、自分のひざの上にのせてさえも、彼女は私から目を離さない。ランランに、すごい、さびしい思いさせてるの。それは、事実、と、笹村は言った。反原発の歌作ったら、お父さんってさ、すっごい悲しげなの。何も言わないけど。Seriは言い、一度息をついてみせ、けど、正しいことだと思うのね。瞳孔の開いたままの目に私を捉え続けたまま、少女は私のすれすれに伸ばされた指先が、彼女の鼻の形になぞるのを受け入れる。指が曲線を描いて、彼女の息を掛けられながら、その体温を感じ、唇のかたちをなぞっていくが、行為を受け入れたばかりの、疲れ果ててさえいる身体が、いつものように息づき続け、夜の深い、やわらかい光の中で、褐色の肌はむしろ、ただ黒い影になって、光の反射を這わせた。何をも描き出さない。目を凝らされた影と影の境界線の中に、呼吸が、そして、そこに私を見つめている彼女の身体の存在を、私は知っている。半開きにされた唇から、舌を微かに出して、私に指先で触れようとする、その至近距離の体温を、私は何にも触れないままに感じる。私は思い出す。想起された記憶がその記憶のすでに存在し続けていたことを主張してやまず、やがて私は記憶に飲み込まれながら、私は記憶していて、私は思い出す。なにかんがえてるの Seri は言った。何、考えてるの?芹沢薫と言う名の、その女は、渋谷のカフェで、そして彼女はシンガーだった。歌を歌っていた。「お父さん、原発推進派だからさ、地元の」シンガーソングライターで、さまざまな小さなライブハウスで歌い、「でも福島とか、何ていうの?未来の子どもたちっていうか」私は知っている、彼女は、そしてこのまだ私が日本にいたときに、「大事じゃん?イノチ、守るの。」松涛と原宿の狭間の、どちらでもあればどちらでもないどっちつかずの希薄な雰囲気だけが満たしている道路の両脇は、「じゃない?」何かに落ち込んでしまったように人通りも少なく、何、考えてるの?彼女は言った。日本語ネイティブは、常に、極端な早口で、長い文をぶった切り乍らしゃべる。機関銃のようにシラブルをたたみかけ、話されるのは長い長いうねるような音程を持ったフレーズだ。私も含めて。彼女は私をわざと覗き込み、ねえ、今、暇なの?「何で?」暇そう「知らないよ。どうして?」笑いながら私は、てか、なんか、彼女は不意に髪をかき上げるしぐさを見せて、グラスの中の氷をストローでかき回すが、半分以上飲み残されたままのミルクコーヒーは、かろうじてそのブラウンの色彩を保持しているにすぎない。なんか、ひまそう。彼女は、そういうの、なんか、やなんだけど。「なにが?」もっとさあ、なんか、飢えてほしかったりしないこともないなっておもったりもする。彼女が《ファン》に刺されて重傷を負ったことを「何に?」きまってんじゃん。わたし。私はベトナムで知った。「どうして?」がるうって。Yahoo Japanのエンタメ欄で。がるうってさ、してくんない?なんか、ひまそうなんだもん、いま、じゅんくん。ずうっと。声を立てて笑う私に彼女は一瞥をくれるが、てかさ、なんか、わたしのことかんがえながらじぶんでしたりする?「じぶんで?」やーんって。なんかいろんなさぁ、やらしいことかんがえちゃったりして、どうしようもなくなったりしてさぁ、あえないひとかに、ひとりでやったりする?「しないよ」しなよ。てか、しようよ。

「もう、別かれたじゃん」

「いいじゃん。別に」

すき?「すきだよ」ほしい?「ほしいよ」うそ。て、いうか、いま、めっちゃやらしいことかんがえていい?「どんな?」すっごいの。ぎったんぎったんで、ぐっじゅんぐっじゅんなかんじで、いろいろ、そうぞうしちゃっていい?「すればいいじゃん」そっか。じゃぁさ、じゃあじゃあ、するね。いい?彼女はひじを付いて、あからさまに私を見つめた後、目を閉じ、彼女は考え、想像する。やわらかく私を見つめ返し、開かれた瞳孔の中に私を絡娶りながら、半開きにされた唇が媚態を作り、意識された、そして無意識のままのそれらは、自分勝手に自分をだけ発情させた彼女が、蜘蛛の巣のように張り巡らした誘惑の糸を私の周囲に散乱させたまま、ややあって、目を閉じ、再び開いたとき、すっごいの、そうぞうしちゃった。「どんなの?」やばいよ。もう。じゅんくって、やばいね。すっごかった。さんかいくらいいっちゃいそうになった。えーぶいみたいに。やーんって。「どんなの?いえよ」ひみつ。声を立てて彼女は笑い、「てか、発情しちゃった?」したよ。三回くらい射精しちゃった。「嘘」きみのコウノトリ、という名前の曲があった。彼女の歌だった。彼女の地元の、駿河の歌で、中学生じみたラブソングだった。コウノトリは綺麗な川でしか生きられない。澄んだ、綺麗な川でしか。そして命を運んでくるの。僕と君のところにも。駿河は、コウノトリの生息地として有名なのだと彼女は言った。駿河、福井県、いくつもの巨大な原発施設でのみささえられた、原子力都市。駿河の地方局の地方番組でタイアップが取れたの、すごくない?彼女は言ったすっごいきれえなとこだよ。「その歌で?」

「うーん。違う歌。」きてみればいーのに。「だからさ、原発ソング、ネットにもあげられなかったりする」声を立てて笑い、その時がくれば、近寄ることさえできず、「ばれたら、ちょっとやばいよね」人類固体の生命期間をはるかに超えた不可視の炎を燃え盛らせるもの。かわのみずとか、すっごくきれいで。彗星がブラックホールに手を伸ばそうとするようなものだ。その指先に触れようとして。ほんとに、くうきもめっちゃおいしいの。目の前のそれは、単なる鉱物に過ぎず、その可能性のひとつを実現さしめたとき、やっぱさ、過去世の学びって言うか、生まれてくる子どもたちに残したげたいじゃん、綺麗な自然とか、日本文化とか。それって、大事じゃん?それは、そして、私は彼女の髪の毛に顔を近付け、その匂いを吸い込みながら、雨期の雨が轟音を立て続けたまま、少女の幼い身体は疲れきっている。終わったばかりの、弟との行為に汗ばんだまま、私は彼女の体の匂いを感じ、にもかかわらず、私はこの少女をもう一度抱くだろう、と思った。我慢できずに、耐えられずに、絶えることなく、私は、失われた言葉をいくつも頭の中に想起し、彼女を見つめ、結局のところ、私は最初からなにも言うべき言葉も、言いうる言葉も、私は彼女を抱くだろう、私は知っている。彼女は疲れ果て、未だ、ゆっくりと、深い呼吸でその肺を満たしながら、感情は明確な行為をとって、感情自体に明確な形姿を与えてもらわなければならない。やがて、私は彼女を押し倒すはずだった。深く疲れ果てた、ついさっきまで、そして弟が彼女の上に覆いかぶさって、腰を振り、弟はわざと私から視線を逸らすように姉の唇をむさぼって、彼が射精したあと、ゆっくりと静まっていく腰の動きを不意に拒絶するかのように、彼女は両手のひらに彼の尻を抱いたまま、下から腰を動かして、姉は目を閉じたままだった。彼は彼女の唇を相変わらずむさぼりながら、姉は執拗に、足を絡めたまま、腰を動かし、彼女はそれを望んでいる。弟はやがて、再び、そして、もう一度、あの執拗な行為が続く。姉は尻から、背中まで、彼を抱きしめて離すことなく、射精してしまえば、弟は力尽きてもたれかかるが、私は知っている。姉はもう一度、下から腰をくねらせ、愛の対義語は憎しみではない。動かしながら、もはや応答もないままに、やがて彼女も力尽きてしまった。その語はいかなる対義語さえ持ちえてはいなかった。私は勃起さえしないままに、私が彼女を今、求めているのに気付くが、私は彼女を抱くだろう、自分自身さえもが疲れ果てていることにすら何の関知もなく、私は、目の前に彼女の身体が合って、その温度と、感じさせる潤いが私にそれを抱くことを命じているかのように、強姦するように。強姦されたように。彼女は何でも知っている。この十五歳の少女は、そして、その弟も、この世界にかかわるあらゆることを知っている。仮に、知識の量があまりに貧しかったとしても。私は思い出す、水も分子構造も世界地図の形さえも知らなかったとしても、十代前半の時期、確実に、私もすべてを知っていた。私はすべてを知っていたし、彼女はすべてを知っている。この世界の美しさも悲惨さも絶望的なまでの強度で、あらゆることを知り尽くしながら、私たちは知っていた。「笹村さんは私が殺して仕舞いました。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「笹村さんは私が殺して仕舞いました。」Lệ Hằngは言った。にもかかわらず私たちは何も知らない。「彼の恋人には、かわいそうなことをしました。」自分が知り得たこと以外をは。「けれど、仕方がありません。私がそれを望みましたから。」感情的な動揺も、いかなる高揚もなく、淡々と、遺族に気を使うような悲しげな目で私を捉え続けたまま、何をもってしても、君を止めることなどできなかったろう、私がその場にいてさえも。「あなたは、それを望みますか?望みませんか?それだけが気がかりです。」彼は言い、触れた瞬間に壊れてしまいそうな繊細な笑みを私に投げるが、不意に、「もし、望みません、と言ったら、あなたはどうしますか?」と言う私に、その笑みを壊すことなく、「もう、して仕舞ったのに、望みません、と、今、言ったら。」Lệ Hằngは私の手を一度握って、「しません。決して、私は、しないでしょう。」少女は傍らで、私と彼の、彼女が一切理解できない音声を聞きながら、背筋を伸ばしたまま、やがて立ち上がって、窓のカーテンを引き開けるが、雨の中の白んだ風景の光が、ただ、やさしく差し込み、人を一人殺してきたばかりには違いないこの美しい人間の横半分に光を与え、半分にあざやかな青い影を与える。夜明け前に部屋に来た彼が、仕事を終えた人のように、シャワールームで汗を流している最中に、空の夜明けは夕暮れのような色彩に満たされた後、白み始め、夜の暗さの断末魔の赤らみが、ただ、内側から発生させた白さに消滅していくのを、私は窓の向こうに感じ、起き上がって服を着た彼女は、不安げに私の顔を覗き込むが、どうしたの?、と。彼女の眼差しは言っていたのだった。どうしたの? シャワールームから出てきたLệ Hằngは、彼の身体的特徴を、最早隠そうともしない。彼の体を包んだ、上半身のシャツの下から、彼の胸のふくらみは、少女のそれとは比較にならないほど豊かに曲線を描き、パンツに描かれる、腰のくびれから臀部のあざやかなふくらみ、そして、筋肉質な鹿のような両足、これらの身体が、私の目の前で、衣擦れ以外の音も立てずにしなやかに動かされ、彼に、彼が笹村にしたことを話して聞かされる間中、半ば、彼の美しさにいつものように見とれさえしながら、驚きもなければ、悲しみもない。不思議なほどに、彼がそうしたのならそうしたに違いなく、彼がそうするならそうするに違いない。あらゆる感情が、一時、それらの存在を破綻してしまったかのように、私は、唯、自分の中身が、静まり返っているのを知っている。中身が、中が?内側が、どこが?あらゆるところが。雨の轟音以外には。一度もつけられたことのない古いPanasonicのブラウン管テレビの向こうの窓越しの空は、ただ、白く、少女は、まるで、私が彼女の夫であることを主張するように私の横に座り、彼女は背筋を伸ばす。ソファーの上に胡坐をかいたまま、彼女の右手の指先が、左手の指先のつめをなぜる。穏やかな窓越しの光は、褐色の肌に、褐色のままに輝きをあたえ、濃い影を与えた。「彼女はあなたを愛していますね。」Lệ Hằngは言った。「あなたも、彼女を愛しています。」彼女の弟も、と私が口の中で言うのを、笑んだまま諌めるような眼差しを送り、「そうじゃないでしょう?そうじゃないことは、あなただって知ってる。」昼間に、ホテルの掃除係が部屋に入ってくるまで、笹村が死んだことは誰にも知られないままだろう。「Thànhはまだ、眠っている。たぶん。Phư フーの家で」Lanは、何もできないまま、笹村のそばにいるだけだろう。唐突な悲劇が、今、彼女を襲っているのだった。「知っていますか?」Lệ Hằngは言った。あまりにも女性的な上半身の上の、あきらかに女性のそれとは違う、女性的なほどに美しい男性の顔を私に向けて、彼の体は向かいのソファーの上で、深く、くつろがされたまま、「彼女はĐà Lạtで、彼女の父親に強姦されていました。」私は彼の眼差しに捉えられ続けたまま、「彼女の実家はそこにあります。山脈の上の、頂上に作られた都市です。」彼の指先は上を、指差していた。「いつからかは知りません。彼女が身体的にそれができるようになってからでしょうか。できないことは、できませんから。」彼は一度、声を立てて笑い、「彼女の母親だってそれを知っていたはずですが、何も言わなかったようですね。他の女に取られるくらいなら、自分の娘で代替されたほうがよかったのかも知れません。あるいは、自分がするのがいやだったのか、何だったのか。」彼の指先が、ゆっくりとくず折れてその人差し指が親指に触れるのを、私は見る。「人形のように。身じろぎもせずに父親に抱かれていたらしいですね。Thànhが言っていました。丸めた毛布のようだった、と。」反対向きに開かれた手のひらが、空中に、静止して、動きを失ったまま「父親が出て行って、二人だけになると、彼は彼女を慰めに抱くのですが、」叫び声すら上げることなく、彼女は叫んでいたに違いない。何を?私にはわかりません。死んだ人形のようだったと、Thànhさんは言いました。窓越しの陽光の中の、その華奢な手に、「父親がそうしたように、Thànhさんもそうすると、彼女はゆっくりと人間に戻っていくと、Thànhさんは言っていました。」いつ?私は目を細め乍ら、さあ、と彼は「彼女の極端なくらいの、異性に対する潔癖症は、そのせいもあるかも知れませんね。」あなたは、殺してしまったんですか?不意に、私が彼の言葉を切ったとき、Lệ Hằngは、一瞬の沈黙の後、ややあって、声を立てて笑う。彼女の両親ですか?「いいえ。会ったことさえありませんから。」少女も、その声に反応して微笑んではみるが、「もし、会ったら?」

「さぁ」私と彼とを交互に不安そうに見やった。「そのとき、判断できます。倫理的に。」ね?「彼女たちには、サイゴンで出会いました。二人が実家から逃げ出してきていたのを。長い距離がありますから、いろいろと悪いことをして、このあたりまで来たようですね。」Lệ Hằngは笑った。彼が身をかがめ、その髪の毛が垂れ下がって、一瞬その顔を影でうずめるが、私は不意に、どうしようもない悲しみに襲われる。喉を中心に、神経系の中を冷たいやすりで研ぐような、さまざまな明確な意味を束ならせた解析不能な悲しみが、無言のままに私だけを襲い、「どうしましたか?」少女のため、ではなかった。たぶん、笹村のためなのだろうか。私たち以外の、誰か他人のために。なすすべもなく、無防備な悲しみが体中に点在して、つらなり、反響し、くず折れさせ、かたまったまま少女は私を胸に抱こうとするが、湿度を持ったむせかえるような彼女の体臭の中に、Lệ Hằngは普段着のままに、いつものように警備員に手を振った後、夜、深い時間、或いは、まだ、朝にならない早い時間に、ホテルの廊下は暗く、非常灯以外の照明は消されている。赤、緑、さまざまな光の色彩が、彼の身体を照らしたに違いない。ノックすると、ややあって、Lanが出てくるが、彼と彼女は今まで会ったことはないはずだった。妹よ Em ngữ đi 寝ていなさい、彼は優しく彼女の肩をたたき、当然のように部屋の中に入るのを、Lanはただ、不可解に思いながら眺めると、ベッドルームの中に消えていった彼は、ベッドの上に上がり、まだ眠ったままの、裸の笹村の上に覆いかぶさる。Lanはドアの近くに立ったままそれを見ているが、何が起こっていて、何が起こり得るのか、彼女の認知し得る範囲を超えているそれは、彼は長くはないナイフを出して笹村の首筋に当てた。動脈から声帯をまで一気に傷つけたそれは、彼の目覚めるより早く大量の血を一気に噴出さしめるが、意識のないまま目だけを覚ました笹村の、何をも見てはいない見開かれた目に見つめられるまま振り向くと、壁のすれすれの距離に、Lanは背筋を伸ばして立ち尽くしていた。表情という表情がすべて剥ぎ取られた純粋な無表情を晒して、Lanは、笹村が既に死んでいるのは知っていた。仮に生命機能は未だに保持されていたにしても、既に致命的に破綻したそれらは、文字通り破綻した四肢のもがきの中でのたうつ。空気の漏れたような低い音声の無造作なつらなりとともに。Lanは既に知っている、既に、なすすべもなくそれは破綻した。Lệ Hằngは身を起こしながら女に近づいたが、自分の至近距離の接近にも、その瞬間、何の反応も示しはしない、その女から身をかわして、部屋を出て行くLệ Hằngを、Lanは彼がいなくなって随分経った後で、それを認識したが、そのとき、Lanは床に座りこみ、意識が、取り戻された意識を意識することを、必死に取り戻そうとする距離感の中に、あまりにも近すぎる至近距離の中で見つめあったあと、少女は、腕に抱きしめ合いもしないままに、私は彼女が自分から服を脱ぎ捨てるのを見る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨が上がったばかりの、白ずんだ空が窓の向こうに、混濁した光の束になって、彼女の伸ばした指先が私の唇のかたちをなぞろうとするが、不意に、声を立てて笑う彼女に、どうしたの?私は言った。Anh nói gì ? 彼女は、くぐもったようなあのやわらかいアルトで sao anh nói vậy ? 言い、その音声を私は耳に聞き、「どうしたの?」私は言った。声を立てて小さく笑って、少女は、上目越しに、その目で Đó ý ta nó… 言う。私のまぶたの どういたぁのぅ形態を追いかけながら、Đó ỹ tá nó … 彼女は言う。耳を澄ましながら、Đò sĩ ta nò… 私は彼女の唇の動きを見る。思い惑いながら、決して確信されて開かれることのない、あいまいな唇と、あいまいな動きと、そして、自分が裸になったことさえ忘れてしまったように、それ以上の何かを求めるわけでもなく、私の上に覆いかぶさったまま、Đo ý tá nò… 笑みに、顔を崩し、私をのぞきこむみように、「なに、かんがえてる?」その音声を耳に繰り返して、gì ạ, …khó 彼女は笑い、Nà Nhĩ cảnh… 八つものシラブルを、è thể rũ nò … 舌の上に模倣して笑い、Nà Nhĩ cảnh gà è thể rũ nò … 父親が彼女の体の上から離れた後で、ベッドの上に一人残されているのに気付くが、nà nhĩ cang gà é thề rũ núo…硬直したようになって、そこに仰向けに横たわっていた彼女に弟は近づいてその頭を撫ぜてやったとき、そこに弟がいたことに彼女は気付いた。なにを考えてるの?今、なにを

Anh nói gì vậy ? 言ってるの?昏いあらゆる感情が渦になって溶解しあうことなく、とはいえ、しずかに喉の奥にあって目覚め続けているそれは、彼女は自分の頭を弟が撫ぜ続けて居るのを知っている。その、華奢で、女性的な、まるで妹のような弟は、 Anh noai gì vậy… 私は言い、毛づくろいをする猿同士のような愛撫が、あの時、不意に弟は父を模倣するように、彼女に、 ăn nói ghì vây … 彼女は知っている、性欲の結果とはいえないその行為が始まって仕舞えば性欲の渦をまかせ、飲み込ませてしまうには違いなく、結果として同じことにすぎないそれは、ằn noai gì vậy… むしろ、彼女は弟を自分から受け入れさえしながら、感覚し続けるのは、自分の身体の硬直がとけていくのを、弟は唇を、彼の父がそうしていたように押し付け続け、知っている。anh noai gì vậy … 彼女が朝、不意に視線のどこかであの新しい父の姿を探してしまったが、高山の冷たい外気に触れたときに、いつも気付かされるのは、自分が特殊な存在であることだった。確かに彼女は特殊であるには違いないと、なぜなら、anh nói gì vậy anh nói gì vậy」こんなことは、誰もしていないことを知っているからだ。少なくとも彼女の半径1キロメートルの中に。「なに、いった?」Na nĩ ỳ tà…  彼女の視界に、朝早いカフェの中年の女が見せの前を掃き掃除しているのを見留めるが、Nà nhĩ tà…  一瞬、息を潜めながら、彼女の特殊性が解消されえることなどあるのだろうか?彼女は、Nang nhĩ ta… 知っている、既に、そして彼女は、この高山の上の天空都市の空はあまりに雲が近く、曇り空からそそぐ光が、あらゆるものの色彩の過剰を喪失させながら、あざやかな na nì ỳ ta… それ自体の色彩を描き出す。あの、あそこで掃除している痩せた、中年の女のありふれた、すさまじいほどの特殊性に、彼女はその目を疑う。かつて、Nàng nhĩ ta… 彼女のような存在など、存在し得たことなどなかった。「Khó quá」困難すぎます。むずかしすぎるわ彼女の存在は、痛さそのものだ、彼女の視界の中で、có ưa その、目に映るものすべてが痛い。có ủ àなぜ、そうなのか問うすべすらなくkhò ưa… ただ単に痛いものに対して kho qua… なしうることなど何もない khó quá… 彼女は、「khó quá」今、ここで、私が死んだらどうしますか?Lệ Hằngは言った。彼女自身が痛みそのものでしかなかったことさえも彼女は、「今、ここで、私が死んだら、どうなりますか?」微笑みながら、私を見つめ、「例えば、あのナイフで、」Lệ Hằngは自分の首先に指を当て、それを暗示し、かつて、私は彼を見つめ、与えられたことなどなかった、奪われたことさえも、何ものも、かつて、何もかも、何ものにも、「死?そう、死さえも、」彼は言い、何ものも、奪われたことも、何ものをも、与えられたことさえも、何によっても、「私たちには無力です。」なかった、何ものによっても、かつて、「私は、誰も殺しはしなかった。」私はLệ Hằngの脇を通り過ぎ、笹村の部屋に、足をしのばせながら、ドアに鍵はかかっていない。


序(7)

ドアを開け、ベッドルームの、その上には笹村の、ややあって、振り向くと、彼女は壁にも垂れて座っていたが、そのとき、私は彼女の気配の存在のあったことに気付く。最初から。ずっと。死にました、と言った。Lanは、笹村さんは死にました、と、私は彼女を見つめるが、その、表情を喪失したまま未だに戻させない彼女の、その目は私を見つめ返すことさえなく、私は知っている、彼女は店に戻るだろう。事実、そうだった、彼女は、そして、「もう、お金がもらえません」彼女が言った、その彼女はまた、今までのように、他の客に抱かれもし、「日本にも行けません」彼女は言い、彼女は笹村を愛していた。純粋に。何のためでもなく。彼がそこにいて、「私はお金がほしいのに」彼女に焦がれてさえいれば、「欲しくて仕方ないのに」それでよかったには違いない。彼女は結婚し、台湾で暮らす。やがて、必ずしも豊かではない台湾人と。私は知っている、彼女は涙さえ流し得ず、私にかける言葉を見つける隙さえ与えることなく、私は部屋を出るが、Lệ Hằngはすでに立ち去った後だった。悪魔のような君は。部屋の中で、一人であのソファーに座り続けたままま、少女はしずかに泣いていて、どうしたの?私の音声に、彼女は振り向き見るが、彼は既に、立ち去った。「どうしたの?」私は言い、どうしてこんなにも涙で赤らんだ目で、涙は彼女は、穢らしいのだろう?見つめられるままに例え、それがđò sĩ ta nò… 微かに愛するものの震えを持った唇がそれだったとしてもその音声を発し、私は聞く、Thànhは、あのとき、不意に父親の行為を模倣してしまったに過ぎない。彼女の身体に対して、その、美しい褐色の、このかぼそい身体は朝の光にゆっくりと照らし出されて、私は、彼女の、đõ ì tà nó …その、 Thành は独りで彼の男性の目覚めるままに、病んだ惨めな生き物たち。発情した性欲にまかせて抱いたのだった、彼女を、胸焼けするような性欲の波に飲まれ、彼は知っていた、đo sí tà nõ …私は聞く、彼女の音声は、そしてThành は目の前で毎晩のように繰り返された、泥酔したわけではないが、軽く酒の匂いさえさせることもある父の長い行為への嫌悪感に対する代替として。その存在を自分の匂いで消去しようとする犬のように。彼はđò sĩ ta nhỏ…知っていた、私は、父と同じ行為をすることによって、彼女の音声を聞きながら、Thànhは自分には与えられなかったこの美しい女性的な身体に対する、ではなくて、それを当然のものとして所有している彼女自身への嫉妬と、このような形の身体への果たされえない自己所有欲の代替として、彼女を抱いたのだった、彼は知っていた、自分に永遠に与えられることのないこの形態こそが、私は、彼の本当のものなのだと彼は意識して、聞く。その意識の中で、彼女の息遣いを、彼が少年であったことなど一度もなかった。あらゆる少女たちが憧憬と幼い発情のままに見つめ、見つめ返せばいよいよ開かれる瞳孔か、わざと逸らされるその視線で、どうにかして彼を絡娶ろうとする知ってる?無言のままのねぇ、息遣いが、あなたは、彼は美しい。あらゆる少女たちに愛されていることを知っていた。彼は美しい。美しいものが情欲にまみれた発情した視線で汚されない瞬間はなく、そして、それらの視線はついに何ものにも触れえずに、彼を汚し得はしなかった。何ものによっても傷付けられえない彼は、私は知っている、彼女たちは、そして、私が朝、目を覚ましたときThànhは私を、彼は窓際に立ったまま私を見つめていて、姉がLệ Hằngの取り巻きの誰かの家の命日のパーティの手伝いに行って仕舞ったのを私は知っていた。彼女は忙しい。あなたの友人は、今、忙しい。今日は、そして、彼はややあって、不意に私の傍らに腰掛けると、一切手を触れないままに、私の頬に口付ければ、最早留めようもなく、彼は私の唇を、むさぼるように、私は同じように、彼の、そして、私は彼を愛してさえいるのを知っていた。彼は知っていた、自分の身体と性別が必ずしも一致してはいないことは知っていて、彼の身体は彼が本来愛するべき身体をとめどなく形成していっていた。すでに。今、彼は掠娶らなければならない。本来自分が愛するべき身体を?少なくとも、彼の愛する姉から、その恋人を。本来、彼は、彼の恋人であらねばならないから。彼が彼を愛している限りにおいて。彼にはついに、自分が何を望んでいるのか識別できない。私も。私たちは、彼が私を愛していることだけを知っている。すべての認識は、結局のところ、愚劣なこじつけか逃避にすぎなかった。私の指先が彼の少年くささの抜けようもない身体を撫ぜるのを、彼の身体は気付く。目を閉じることさえなく、彼はその身体にしがみつくように、そして、彼は多くのものを奪った。あの高山の町から、そのふもとに広がる平地の先の南部の町にたどり着くまでに、彼は多くの細かい金銭を奪い、何度も掠め盗り、彼らは彼らを拘束する住み慣れた家族の家から逃走した。あの日、祖母の命日のパーティの準備のために明日朝早く起きることを命じて、姉がそれを拒否したときに、母親が姉をひっぱたいた仕返しに、姉が母を殴りつけたときに、彼はここにいることはできなくなったと知った。危うく成り立った全ての調和を彼女は壊して仕舞った。あの後で姉は泣きじゃくって、彼は追い出されるように家から逃走した、姉を連れて。次の日の朝、夜の暗さが急激に崩壊していく夜明けの五時半に。姉は何をも理解してはいなかった、彼女はその逃走を拒否しようとしたのだから。彼は彼女を奪い去るように、あの朝、高山の霧に包まれた白ずんだ、濃く白濁した淡い朝の色彩の中で、細やかな驟雨の中に、姉はLệ Hằngに言ったものだった、あんな人たちとは一緒には生きていけないから逃げ出したのだと、サイゴンのはずれの雑貨屋で、弟が拘束されかかったのを彼に見留められたときに。何度かの成功のあとでついに失敗した盗難。少女は知っていた、Lệ Hằng、この美しい男は自分たちを保護するには違いない。羽交い絞めにされて、店の男に殴打される弟に投げかけられた、この美しい男の眼差し。そして、彼らは、あきらかにさまざまな彼ら以外のものの被害者だった。父親による、母親による、父親に、それをやらしめたさまざまなものによる、母親にそうさせたさまざまな、姉にそうさせたさまざまな、彼は被害者に違いなかった。それをThànhは知っていた。彼は彼自身に他ならないが、彼は彼自身についに触れることさえできない。とてつもない隔たりの中で。べったりと一致する。彼は目の前の日本から来た男を愛していたが、彼と言葉を交わすことさえできない。見つめあい、言葉が崩壊した中で魂に触れる。私は彼を愛していたことを、すでに、私は知っていた。彼と同じように。いかなる相等性も与えられないまま、彼は、同じカテゴリーのの身体が、私は、にもかかわらずどうしようもなくぎこちない交配を重ねた先に、彼自身が体内へ射精されたのを知覚し、私が、引き抜かれた肛門からそれが垂れ流れるのを感じたときに、Thànhは、彼が初めての男だったことに気付いた。私が。姉の身体は、絡みつくように彼の身体を抱きしめたものだった、彼女が父にそうしていたのと同じように。まるでひとつに溶け合って仕舞おうとするかのような。修正不能なまでにもつれきって仕舞おうとするかのような。むさぼるように、父の唇に舌を合わせて、あの息遣いを、Thànhは思い出すこともなく彼を今、見つめ乍ら、自分は幸せにはなれないだろうと思った、決して、充足した幸福感の中で、姉の、母親に対する触れたら指を切り裂いてしまいそうな憎悪と、敵意のその眼差しと、すれ違えば砕け散ってしまいそうな、彼女は父を憎んでいた。そして、より多く母を。あの女こそが、あの男にそれらをさせた張本人に過ぎなかった。少なくとも、彼女の認識においては。どうしようもなく。私が私であったことなど一度もなかった、生まれさせられる前から既に。私は私を経験した。笹村が私を待っているはずだった。私が私であったことなど、一度も、彼が彼であったことなど、なかった、一度も、彼女が彼女であったことなど、なかった、一度も、生まれさせられたときから、なかった、一度も、すでに、営業戦略会議だ、と笹村は言ったが、現地のスタッフを、彼らには聞き取れない早口な日本語でどやしつけるだけの余戯にすぎないことは誰もがすでに気付いている。まだ、朝は浅い。私は身を起こして、Thànhは私から目を逸らして、一瞬、彼自身の存在そのものを恥じているような媚を見せたが、何日か前、初めて彼の姉を抱いた日の朝に、Cảnhの家のはす向かいでコーヒーを飲んでいた私に後ろから近寄って、彼は私に手を触れ、こぼれるように微笑んだが、姉はどこかの家の家事の手伝いに追われて、こんなところに来る暇はない。当然のように消失して仕舞った、夜の獣じみた少年の、欲望にまみれたたたずまいの影を探そうにも、最早どこにも存在しないことだけを、私は目の前に確認しながら、Cảnhとその友人が話しかける言葉には一切答えようともしない不埒さのままで、座り込んだ彼はスマホをいじって遊び続ける。虎と言うよりは猿に近い顔立ちのベトナム現産の猫の雑種が、床の上に走り、立ち止まって、向こうに耳を澄ます。振り向き見るが、猫がこちらを見ていないことはすぐに知れる。私の背後の遠い向こう事象を、耳の中に、猫は見つめ、猫は知覚する。笹村は言った。ホテルの彼の部屋の中で、彼はサイゴンと言う名前のビールの缶を開け、私に勧めた後で、「どう?ベトナムは。慣れた?」まだ、ここに来て一週間と少ししか経っていなかった。ええ、いくらかは。私は答え、笹村はLanの頭をあやすように撫ぜるが、ソファーの彼の傍らに座ったLanは笹村の所有権を主張するようにしなだれかかり、私を媚びた眼差しの中に捉え続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「日本に、帰りたい?」笹村の質問に答えあぐねて、笹村さんはどうですか?「そうだよね」私の質問には答えず相槌を打ち、「やっぱり、帰りたいよね。日本が一番いいもんね。寂しいでしょう?」テーブルの上には韓国のスナック菓子が広げられていて、「ランちゃんはベトナムがいいって言うの。日本には行きたくないって」彼の口は、ベトナムの食べ物は一切受け付けない。同じように、Lanは加熱食材のスシさえも受け付けない。「不思議だよね」不意に、私は、笹村さんは、何か、宗教があるんですか?Lanはややあって、思い出したように私を見たが、一瞬、笑い声を立てそうになるのを押し殺して、例えば、キリスト教とか、私が言うのを聞く。Lanは、一切自分にかかわりのない会話を聞くように聞いた。それが、偽った表情なのか、素直な表情なのかは私にはわからなかった。「ないよ。ないけど、」とたんに、彼がカラオケ屋でするような下卑た表情を作って、「どう思う?まじめな話だよ。不思議じゃない?例えば、キリスト教徒だったとするじゃない、あなたが。で、人間に殺されちゃった神様の子どもの世界の中で生きてるんだよ。どういうことなの?神様は自分の子どもを殺しちゃったんだよ。何のために?人間を救うために?でも、この世界は人間の世界じゃないんだよ。神様の、神様のための世界なんだよ。一神教って、そういうことでしょ。神様が人間なんかのために自分の子どもを殺しちゃうのは、何かの間違いなんだよ。とんでもないことだよ。神様がそのために自分を殺さなきゃいけないほど人間って言うのが重要なのなら、その神様は神様なんかじゃないんだよ。そのとき、絶対的な価値は人間のほうにあるんだから。むしろ、その瞬間に、神様自身が神格を放棄して、人間のほうに与えちゃったってことだよ。その瞬間に神様は神様をやめちゃったってことなんだよ。例えば、すっごく大好きな女の子を抱きしめたとするじゃない。たまたま、頚動脈を押さえちゃって、その子、死んじゃったとするよね。君の腕の中で。なんか、そんな感じ。なんか、そんな感じの過ちだとしか思えない。むごい」あなたは、私は言った「何か、そういう過ちをしたことがあるんですか?」笹村は嘲笑うような表情のまま、「キリスト教に興味はない。キリスト教を信じることに興味がある。キリスト教を信じないわけじゃない。キリスト教が信じられていること自体が信じられない。」彼は、そのまま、一瞬黙り込んだが、そうじゃなくて、「何か、」私は、そういう「あなたは過ちをおかしたことがあるんですか?そういう」過ちを?ついに、問いただすように、私は言った。「罪を犯したことがありますか?」笹村はビールを煽るわけでもなく、酔いつぶれたように息を吐く。匂いさえ感じられる気がするほどに。「ないよ。」笹村は当然のように言った。なぜ叱られているのか理解できなで不貞腐れた子どものように、「中国にいたとき、カノジョがいたの。チャンさんっていう子。チャンちゃんって呼んでたの。かわいいでしょ。チャンちゃん、ね。大してかわいくないけど、やっぱり、かわいい子でさ。彼女、私と付き合う条件があるって言うの。何だと思う?煙草、吸わないこと。僕、ヘビースモーカーじゃん。私より先に死んでほしくないから、絶対、煙草すっちゃ駄目って。僕、彼女、好きだから、言ったの。いいよって。約束ねって。でもさあ、ねぇ。ずっと、もう、秘密ね。ずっと。チャンちゃんの前じゃ吸わない。悲しむから。ヒミツ。絶対。彼女の誕生日の前日。ホテルの部屋にいたの。そこ、バルコニー広くて。チャンちゃん、バルコニーにいたの。僕たち、そこから外、見るの、好きだったから。彼女が、そこから外、見るのが好きだったんじゃないの。僕が、好きなの。だから、チャンちゃん、僕の真似、してるの。どう?わかる?彼女、かわいかったから、後ろから抱きしめようと思ったの。ギュって。一瞬、僕、ポケットから煙草出したの。いつもの癖で。火、つけたの、ライターで。音、するじゃん。ジュって。」ジュッと、その、ジュッと彼の口が発音した瞬間に、笹村はすべてを思い出したように小さくのけぞって、瞬いた。「彼女、振り向いたの。僕、煙草吸って、僕、フーって。わかる?チャンちゃん、びっくりしすぎて、無表情。どうしたと思う?チャンちゃん、飛び降りちゃった。あっという間に。手すり飛び越えて、飛び降りたの。飛び降りた後で、悲鳴、たった。そりゃあさ、たったよ。あー!。あー!。下のほうで。見えなくなってから。音、したの。すぐ。どん、って。」笹村は言い、サイゴンと言う名の現地の煙草に火をつけ、ややあって、私を見た。しずかに、私の心の中まで見透かしたような、穏やかな目で。「で、どうなったんですか?」私の質問に、「もちろん、死にましたよ。十階でしたからね。彼女も、この子と同じような職種の子だったから。特に警察も来なかったよ。どこの部屋の女かもわからないんだから。」彼の煙草の煙は空中に白く舞い、「どうしました?あなたは。」彼は不意に、「泣きましたよ。悲しくて。今でも」笹村は言葉を切った。沈黙した。ややあって、不意に、笹村は泣き崩れた。どうしようもなく嗚咽を漏らして、指に挟まれたままの彼の煙草の煙が空間の中に、照明に照らされて白く細かくきらめくのを見るが、それはゆっくりと拡散しながら消滅し、Lanは何も言わずに笹村の背中を撫ぜ、介抱する。今、彼が死んで仕舞うかのようなしずかな切迫感で。目を逸らしながら私は、やがて、泣き止んだ笹村が言った。鼻をすすって、「わかりますか?」私は、「わかりますよ」たぶん、サイゴンに雪がふったら、わかると思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「…いいね。」笹村の顔が「そのセリフ。いいね。」笑みに崩れ、彼は声を立てて笑い乍ら、「今度、俺も使うよ。従業員に。サイゴンに雪が降ったら給料上げてやるって。」物音で目を覚ますと、ドアの向こうで物音が立っていて、それは少女が私のかばんを広げて、私のわずかしかない衣類を整理していたのだが、寝起きの私はまどろんだままホテルの、ベッドルームの、カーテン越しの朝の陽光に目をやり、「俺にはね、」笹村は言った、「キリスト教が、じゃないの。それを、信仰するっていうこと。それが、わかんないの。」私はもう一度寝ようとして目を閉じるが、「イスラム教なんか、わかりやすいよ。ふつうの。普通の宗教。宗教としては、わかりやすい。じゃない?神様えらい、それだけ。」私は笹村の、酔いつぶれたような顔を見て、それは振りをしているだけだ。起きあがるには早すぎるが、もう一度寝るには時間が深すぎるには違いなく、時間はもうほとんど残されてはいない。「信じるって何?けど、俺たちも、無茶なことを普通に信じてるよね、例えば、」諦めて向こうの狭いリビングに行くと、「潔癖症患者が手を触れることができない日常的なものに日常的に適当に触れてるでしょ。バクテリアや細菌が跋扈してる、さ。でも、」少女は私のかばんをひっくり返して、私の衣類をたたみ、厭きもせず「そっちの、病気な奴らのほうが論理的なわけでしょ。合理的。すっごく、」小物類はテーブルの上に綺麗に整理されていたが、その、それらがどのような意図で分類されたのか私には一切理解不能な整理法の、「それって、俺たちのほうが信じてるってことでしょ。それじゃなきゃ、頭おかしいんだよ。じゃない?」それとこれとは、話が別なんじゃないですか?話を割る私を、笹村は不意につまらなそうな顔をして、Lanは私から目を逸らした。それが私の途方もない過失であるかのように、笹村は前のめりになって、私に言った。耳もとに近付けられた口で、「違う。全然別のもの。違うんだよ。」私は、しゃくりあげながら泣いている少女の前にひざまづいて、「どうしても、俺には理解できないわけ。キリスト教、信じてるってことが。キリスト教、信じるってことだけは。おれ自身、とんでもない迷信、信じてる病気じゃない奴らのほうなのに。俺、理解できないの。」少女が、なぜ泣いているのかは知っていた。あなたは、キリスト教徒なんですね、という私に、ソファーの身をうずめるようにもたれて、Thànhのせいのはずがない。「やっと気付いた?今頃?」笹村が私以外のすべてのものを見下すような笑い声を立てるのを、「誰にも信じろと言われたわけでもないのに、ね?」その、私に対してだけ向けられた、「頭、おかしいでしょ?僕。」敵意を含んだ親密な眼差しを、Thànhは朝早くに出て行ったの違いない。まだ暗いうちに。あるいは、朝と呼ばれ得る時間の前に。彼は彼女を泣かせることなどできない。今まで、一度たりとも、彼は彼女を泣かし得たことなどないのだった。私は彼女に言葉をかけようとし、触れれば、泣き崩れてしまうかも知れない予感が、私の、彼女にさし伸ばした指先を、私と彼女の間を隔てた空間の中に静止させるが、私が泣き崩れてしまうのか、彼女が泣き崩れてしまうのか、私にはわからない。私は知っていた、彼女は昨日から時に目を覚ましながら泣き続けていたに違いなかった。間歇的に。静止した指先の、静止したその理由を私がまだ知らないことに気付く。時に泣き止んだときに眠りに落ちながら。彼女は。朝の光は指先を、その向こうの至近距離に、彼女の褐色の首筋から上をやわらかく照らし出すが、ショートパンツとTシャツの下で、身体は彼女が手を動かすたびに、鮮やかな褐色の皮膚の下の筋肉と骨格の動きを、鮮明に私の視界に与えて、やわらかい影と光の交歓が、その皮膚の上を這う。彼女が私のシャツを引っ掛けて破いてしまった瞬間に、私は声を立てながら彼女を殴打したのだった。なぜ?、短い怒号がたって、どうして、何の怒りさえも感じていないのに?わたしをその首筋が抱きしめたの?しゃくりあげるたびに痙攣的にひきつって、そしてふたたび、影と光を何度も一瞬だけ乱し、記憶に窓の外で、強姦される。庭の誰かの甲高い話し声と、いつもふたたび、その向こうの大通りの何度目かに。バイクの連なる低い騒音が、どうして?私が母親を殺して仕舞ったとき、その後で、私は帰ってきた父に、私は父を手招きした。私は十四歳だった。十二時をまわる寸前に、父が玄関のドアを開けて、返って来たのは音で知れた。私は私の部屋の中にいた。夜は遅かったが、私は寝られず、私は眠れなかった。いつも、こんな早い時間に寝たことなどなかったことに、私は気付いた。ドアを開け、台所に下りて、私は水を飲んでいる父を手招きした。何と言うべきかわからないまま、言葉さえかけずに。私は何も言うべきを言葉を見つけられないまま、やがて父は導かれた私のその部屋の中で彼の妻の死んでしまって数時間経った身体を見つけるが、そのとき、彼は一瞬の沈黙の後、不意に、息を吐いて、ひざまづくように崩れ落ち、しゃくりあげるようにして泣き始めるのが私には、どうしたんだ、と帰って来た父は言った。私は彼から目を逸らし、何も答えないままに部屋に帰って行く。彼が私に従って来るのは知っている、背後の気配で、それを、私が閉められてはいないドアを押すと、当たり前にドアは開いて、私は息を飲む。母親の死体を眼にしたときに。私は知っていた。彼女の身体は、その行為のさなかの、身包み剥ぎ取った裸体のままベッドの上に横たわっていて、閉められた首の赤らみさえ既に消えうせている。何時間か前の、あの身体の極端な緊張は最早ない。私が殺して仕舞った彼女のそれを見つけたときに、私は息を飲み、立ち尽くすが、彼は私を押しのけるように、部屋に侵入した彼は、一瞬沈黙し、ややあって、くず折れるようにひざまづいていた。私は彼がしゃくりあげながら泣き始めるのを見る、その背中の側を、やがて泣きやんだ彼は、振り向きもせずに、お前が?と言うのだったが、涙を拭いながら、彼は泣きやまない。ずっと、このまま朝になるまで泣き続けさえしそうな気がする。朝までには長い。気が遠くなりそうなほどに長い。彼は、今、彼がすべてをなくしてしまったことを知った。すべて。誰の?なんの?どんな?すべてを。彼女の身体に、何の嫌悪感もなかった。おそらくは。私は。当然のように、彼女はそうしたのだから。私を手放すことさえできず、赤ん坊を腕に抱き続けるそのままに、彼女は私を抱いて眠り続け、抱きしめ続けていたのだから。小さな頃からずっと。私はそれに対して何を言うこともできない。むしろ彼女が私を手放したら、私は泣き叫んだかも知れない。傷付いて。ぼろぼろに。私は彼女を愛していた。彼女は私に殺された。私は、私が特殊であることは知っていた。あらゆるすべてが、あまりにも特殊で、最早何ものにも還元できないことをは、すでに君は知っていた。あの褐色の少女は。君は君でしかあり得ず、絶望的なまでに、君は君であったことさえない、無慈悲なほどに、私は特殊でさえあり得ない。それは君が生まれた瞬間に超えられて仕舞っていた。特異であることが個体性そのものの存在条件にすぎないとき、当然の特異性に特異性など存在しはしない。あなたにはわかるか?泣きやんだ父に、わかりますか?私は言おうとした、わかる?なぜ、俺がこんなことをしたのか、あなたには、お前か?彼はすでに知っているはずの質問を私に投げかけたが、「お前が?」俺にはわからない。俺には、そして私はそれには何も答えないまま、いつかこうなるとは思っていたと父は思っているはずだった。いつか、何かが破綻すると。誰のせいで?「いつか」私のせいで?「こんな風になるって」あなたのせいで?「思ってたよ。母さんとも」私たちは知っていた。「時々話していた。」私の上でそれをする彼女を抱きしめた私の腕の、「このままじゃいけないって」その指先が、彼女の首筋に触れたときに、私は彼女を愛していたわけでもなければ、「ごめんな」そこに何の欲望があったわけでもない。「何もできなかったな、」憎しみさえも。「お父さん、何も」覆いかぶさった身体は、どうして?下に敷いた身体を抱きしめるようになっている。秘密にされたものはそれが秘密にされている限りすべてを秘密にして仕舞う。それに腕を廻しさえすれば、それは、それを抱きしめたことを意味する。誰ににも隠された暴力は暴力の事実を隠し通し、逃げ場はみずから消滅させられる。汗ばんだその身体の首筋に触れたとき、私はその首の形態を、なだらかな曲線をなぞるように、絞め付けられた指先の、その手のひらの下で彼女が窒息を起こしているのは知っていた。大人にならなければならない。手のひらの、指先の力が緩められない限り、それが何を意味し、どうなるのかも知っていた。大人になって、と。もう少し、と私は思い、もう少し絞め続けていても彼女は死なないですむのか、もう少しで彼女を死なしめ得るのか。それは、いずれにせよ、もう少しだった。大人になって、あなたを奪ってやらなければならない。

あなたの悲しみを癒し、

あなたにすべてをささげるために。

あなたが、あるいは望んだとおりに。行為のさなかに、人間の身体の上で窒息していく身体が、ああまでも、屠殺された醜悪さで、崩壊していくことを初めて知った。あなたに、すべてをあげよう。人体の破綻に、今、愛することが、まみれている気がしたし、無条件に捧げ尽くす以外に  事実、その表現形式を持ち得ないから。そうだった。彼女が既に死んだのに気付いたとき、それは彼女が死んだ瞬間だった。やり過ごして仕舞いそうな一瞬に、彼女の身体は死んで仕舞っていて、さようなら。それは目の醒めるような瞬間だったが、わたしは、すでに、わたしに、なる。過ぎ去って仕舞っていた。彼が、刑事処理をしないことは気付いていた。彼が、そして、事後処理をする彼にすべてを任せたまま、立ち尽くす。居場所はなく、私に存在価値などない。彼女の死体は彼らの部屋のベッドに移されていた。彼女は、私が仕事から帰ったときには、ベッドの上で、独りで死んでいたんです。彼は、自分自身の体液で汚れた彼女の身体を洗浄してやらなければならなかった。彼の母と、彼の離婚して帰ってきた妹と、その二人の子どもたちが寝ている間に。虚脱した身体を肩に無理やり担いだ彼は、やがて部屋を出て行くが、誰もが知っている。そのとき、告白されない秘密は私はベッドの上の気付かれなかったに等しい。あと始末をわたしは、しなければならない。口を閉ざした限り、名前は?何も気付かなかった。私は言った、What’s your name ?...私は、失礼ですが、お名前は?彼女の、em ten gi ?...そしてえむてんじー彼女は耳を澄まし、その耳から入ってくる音声に、わたしは耐えられないように、時にそのやわらかな、褐色の肌に指先をのばし、教えて。触れようとするのだが、anh nói gì ? …きみのすべてを。彼女は私の上に、捧げて。四つんばいでまたがったまま、きみのすべてを。私を見つめながら、隠し通した記憶のすべてをさえ、微笑みの中で、含めて。その髪の毛が首筋から胸に垂れ落ちて、私はくすぐられるにまかせる。微笑みの中で、Eng tên gĩ ? …あのとき、彼女たちの粗末な部屋の中で彼女を待ちながら、私が眠ってしまったのを、anh sao nói gì vậy ?私を探し回っていたに違いない彼女は、何してるの?息を荒く切らせながら私をゆすって起こし、微笑さえして、ねぇ、今、こんなところで  em tenh gì ?... 既に、夜の浅い時間の暗さの中に、通風孔からの外部の光だけが薄く壁に当たって、そこ以外には、確かに光の入ってくる余地もない。anh nói gì ?... ベッドの上に身を横たえまま、その肌に伸ばされる私の指は、em tên gí ?... 欲望に飢えるわけでもなく、求めるということは、sao anh nói gì vậy ? 何なのか?何?ねぇ、何?何かを求めているわけでもないのに?どうしたの?何をも、em ten gí …anh nói gì ? 求め得もしないのに?彼女は覗き込むようにして、私の顔にみずから唇を近づけさえしながらeng tẽn gì ?...私はその指先が彼女の頬に触れる直前の一瞬に、 anh sao nói gì vây ? いつ、終わるのだろう、と私は不意に思いさえする。どうしたの?これらのことが、あらゆるすべてが、いつ、それを、ねぇ、すべての、em tên gì ?...こんなこと、

― em tên gì ?...名前、教えて。あなたを愛しています。望みさえしていないのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

― Ly, …li ly. 彼女はあなただけを。言った。リリー。私はもはや、永遠に。彼女が、リリーという名前だということを知った。Lily、ゆりの花。褐色の、白百合。 tên anh là gì ?彼女は私の唇のすれすれで、あなたの名前は?彼女はそう言った。潤。私の答えを、その同じ距離の中で彼女は、そして彼女は私の答えを聞いた。Dương …そう。じゆん彼女の唇はつぶやき、私は知っていた、そう彼女は私の名前を知った。褐色の白百合。Li Ly、そう、私は、そっか、その名前を呟き、その唇が、Lily、そう動くのを彼女は見つめるが、かすかに持ち上げられた私の指先が、その、私の指先が彼女の頬から遠ざかるのを拒否するように顔を寄せ、私の指先の、私は指差した。私は彼女が彼らの部屋の隅に作っていた、小さな仏壇の小さな観音像の傍らの、百合の花を指差し、私は言った、Lily、華奢な、白い花瓶の中の、そのLilyを、リリーは首を微かに振って、指先に頬を触れさせようとしながら、không, 指先は彼女の髪がもたれかかるのにまかされて、không phải là hoa huệ 彼女の伸ばした指先は水周りの先に視線を投げさせながら、違うわよ、小さく声を立てて笑う彼女の名前がベトナム語で、その、水周りのあたりの何かを意味することだけ、私は理解した。Li Ly にとって、その名前は絶対にLilyをは意味しない。それは彼女の知りもしない言葉に過ぎず、それ以前に、li li であって、LilyLi-ではあり得ず、li ly lilyに等しいことなどあり得ない。なぜなら、微妙な発音の違いが、その言語では「あ」と「ん」の違いほどの違いを意味するから。ほとんどすべての、ベトナム人以外が想起するに違いない連想は、この褐色の白百合にとっては、あるいは、彼女の言語にとっては、不可能な連想以外の何ものでもない。その名前は、あるいはその名前の連想させずにはおかないその純白の花は、その持ち主に他ならない彼女に、むしろ永遠に触れられることのないままに、朽ちて行くのだろうか?雨の中でも、色あせさえしないその花の、土砂降りの雨がいつの間にか降り出していたのは知っていた。その騒音が空間を静かに満たし、私は雨の匂いさえ思い出す。心の中にだけ、あの、何ものにも例え得ないその匂いを、彼女は私を見つめ続け、微笑んだまま、Thànhはまだ帰ってこない。もう帰っては来ないに違いない。傷ついたThànhは。彼は、君が殺してしまったようなものだ、と私は思う、褐色の白百合、君自身が、リリー、と私は思い、彼女に言いかけるものの、言葉を頭の中になぜるが、手をのばされたまま何ものにも触れられ得ないそれは、私が伝えるべき言葉を、語彙の記憶のひとかけらすら、それらはもとから存在さえしていなかったことに気付く。私の中の、どこにさえも。君が、もう、殺してしまったのと変わりはしない、私は知っている。褐色の百合、君の、その弟は、そして私は、目を閉じたままに、Thànhはベッドの上に横たわらせた私の裸体を一瞥した後、彼は唇をむさぼりながら、彼の指先が私のそれに触れるのを感じる。彼はそれを指先になぞりながら、私はその触感を感じていた。彼はそれに顔を近づけ、唇を寄せて、接近した唇は、やがて唇がそれに触れる。かすかに。やがて、彼は私の体の上に座り込むようにして、時にその姉が自分の上でそうしたように、腰を動かす。彼は彼のそこで、彼の愛する彼のそれがくねっているのを知っている。彼が動くたびに、それは、彼の体内に鈍く動く。ベトナムに来る前に、実家に、三年ぶりで帰ったときに、久しぶりに見る母は、枯れてはいても、枯れつつありながら枯れきることはない、けなげでさえある不思議な瑞々しいさをしずかに湛えていた。それが、身体の大半を水分で満たした有機体の限界なのかも知れない。死体でさえ、崩壊し得ない潤いを湛えているものなのだから。それは父も同じことだった。半身不随で、不自由をしながら、彼の身体はあまりにも見事に、水分の活気に溢れていた。どうしようもなく。お前自身もそうには違いない、お前も、と、私は、あの、Lệ Hằngでさえも。すべての有機体が、今、父は時に思い出したように私を讃えてみせながら、私の渡越を祝福するのだが、それが祝福に値するものではないことは、父にも、母にもまだ言ってはいない。二人は、嘗ての、あの荒れた姿がすべて嘘であったかのように、平穏で、お互いのしずかな親密さの中に生息している。それは、もう、十年以上変わってはいない。母は私に微笑みかけながら、私の外国での生活を案じるが、女には気をつけろと、時に差別的な言葉すら使用する父をたしなめさえして、そこに、私が入り得る余地はない。彼らの関係は彼らだけのものだ。それを、私が求めることなどできない。私が大学を出る頃、父の会社が倒産して、文字通り何ものをも持たない人間になってから、彼らはやがて、そんな風にして生きてきたのだった。ほとんど実家をかえり見ない一人息子を、それでも、その、たまの帰省を待ち乍ら。気をつけて、母は言い、あんたも、はやく、お嫁くらいもらったらいい、そう言い、彼女の手のひらが私の頬に触れたその一瞬の接触が、未成年の私に彼女がしたことを思い出させないわけでもないが、それらはすべて過ぎ去っていた。私に殺されたあとも、彼女は私を抱き続け、父との関係の破綻は留めようもなく、東京の大学に行くまで、ずっと。どうしようもなく。為すすべもなく。Lì Ly は、その唇のすれすれの、Lilyそう彼女の名前を呼ぶ私に言う、em không  息がかかるままに、 phải là 私はリリーlily, em じゃありませんLì Lyです。Lì Ly 私は呟き、Liliy、褐色の白百合は微笑んだまま、いつ終わるのか?すべては。終わり得はしないままに、いつ終わったのか?いつ終わるとも知れないThànhのその行為に、やがて私が彼の中に射精したとき、ややあって、そのまま射精してしまった彼のそれが私の腹部を汚していた。小さな声をさえたてて。思い出したように、Li Lyは言った、初めて知った彼女の名前を何回か、唇に発音して、微笑みかける私に、彼女は微笑みながら、Bẹ bì彼女は何度か発音を試し、試されるまでもなく、私はすぐに、知っていた。彼女は妊娠を告げたに違いなかった。まだ、一週間と少ししかたってはいなかった。彼女を初めて見かけたときからしてさえも。彼女は、まるで、それが私たちのBabyであるかのように、微笑みながら、何度かささやき、触れなさい。呟き、私はわたしのすべてに。微笑むしかない。触れなさい。希薄な微笑の中で、あなたのすべてに。私は、結局はわたしは何も、すべてを求めない。受け入れていたに違いない、最早。彼女のすべてを、あなたを、射精したあと、愛したから。一度、腰を痙攣的にくねらせたが、大きく息をついて、Thànhは一気に血の気が引いた上半身の、希薄な軽いめまいの中に、人心地付いた彼は私を覗き込む。身をかがめて。彼の体臭が、その髪の毛の匂いとともに、遅れて、射精されたそれの匂いの存在に気付く。私の胸の皮膚の上の、彼の。Thànhは、姉が帰って来たのにも気付かない。ドアに背を持たれた彼女は、何を叫ぶわけでもなく、何を取り乱すわけでもなく、Thànhは私に軽く頬をたたかれて彼女を振り向き見るが、彼は、私にそうされる前にすでに気が付いていたに違いない。Lilyは、こうなる他ないということをすでに気付いていたように、私は既視感に戸惑う。Thànhは身を起こし、ベッドの脇に立ち上がる。弟はLyよりも少しだけ大きい。骨格も、身長も。弟は、彼女に歩み寄って、Lyに無言のまま手を触れようとした瞬間に、Lilyは彼をひっぱたいた。Đi ! 口の中だけで叫ばれた、出て行け!ささやくような叫び声に、Thànhは我に帰ったように、私を一瞥し、それは、切実な、あまりにも切実な思いを伝えた。引き裂かれてしまいそうな、私は知った。彼は、今、愛していたし、そうだった、ずっと前から。私を。姉を。彼は愛していた。それらが何を意味するのか、彼はわからない。理解する対象でさえないのかも知れない。Lilyは彼の盗難を許さない。彼が、彼の前で女であることはLilyに許されてはいない。彼は惨めに、わたしは、うなだれて、いつか、服を着ながら、自分自身を受け入れた。こんなに惨めな姿を、いつか、かつて、受け入れる。彼が誰にも見せたことは 色彩のないなかった。彼は雨に打たれて。ホテルの部屋をいつ、出て行く。受け入れたのだろう?私はそれを目で追う。Lyは 雨の中の、私を抱きしめ、降りしきるその、私が 轟音の中で。不意の暴力の被害者でもあるかのように、私の体をなぜ、拭き、介抱する。侘びの言葉らしい言葉をさえ、私にかけながら、いっぱいに涙ぐみ、その涙が耐えられずに零れ落ちた瞬間に、



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