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開花し始めた川沿いの桜並木が、眼下に拡がる窓際に、大きな鳥籠が吊下げられ、一羽のセキセイインコが、止まり木の上を忙しく動き回っています。

 

「―――じゃ、玲ちゃんには、新幹線の回送列車で保護されたそれ以前の記憶は、全くないのね?」

JR山科駅から南西向きに歩いて5分程、国道と小川が交叉する角に、穴見愁子のマンションがあります。

1階に店舗が入る6階建ての最上階、ゆったりとした1LDKは、子供を持たぬディンクスカップルをターゲットとした、専用の間取りなのかもしれません。

寝室とLDKの間仕切りには、金属蒸着されたガラスブロックのアール壁を設え、頭上から爽やかなトップライトの陽光が注ぎ・・・・。

女医のストイックな性格を反映して、暖色系のカーテン、パステルカラーの家具、キャラクターのぬいぐるみ、といった女性的なそれとは縁遠い、金属系の禁欲なインテリアで統一されています。

笑子の趣味で、何処ぞやのテーマパークのような、蚕の社のカップルの部屋とは大違いです。

 

「―――いえ、厳密に云うと新幹線で保護された時のことも、殆ど覚えていませんわ、明瞭な記憶があるのは、東京の養護施設に入所して暫らくたってからです。」玲子が答えます。

「東京駅で調べてみた?その時のこと・・・。」

「勿論ですよ、一週間休暇を取って二人で徹底的に調べました!」

テーブルに置かれた果物てんこ盛りの小鉢から、りんごの一切れを頬張りながら笑子が答えます。

「―――それで?」

「先輩は、8号車の後方3列並びの窓際の席で、毛布に包まってるのを車内確認に巡回してきた車掌によって発見されたようです。既に退職していましたが、当時の車掌さんと会って話を訊くことが出来ました。毛布に血が滲んでいたから酷く吃驚されたそうで、その日のことよく覚えてらっしゃいました・・・。」

「―――怪我してたの?玲ちゃん。」

「頭部に裂傷があったようです、今でもこうやって頭を触ると・・・。」

「そうそう思い出した、マイクロドローンの事件で診せて貰ったけど、かなり深い傷だったわね、治癒した痕の頭蓋に一部変形が残ってたわ。その時の傷だとすると、記憶喪失の原因もきっとそれに違いないわね―――。」

「兎も角、尾道、新大阪、東京と記録を遡り、人に会って話を訊いたんですけど、断片的でどうにも繋がらないんです、もう34年も昔の出来事ですから・・・。」

「気長に構えて、少しづつ思い出すことね。―――それと、玲ちゃんは命の恩人なんだから、あんたちゃんと協力するのよ!」

そう云いながら、笑子の方を振り返ります。

「そんなこと、分かっています・・・。でも先生は私たちのこと、どれぐらい解っているんですかぁ?」

ドヤ顔であごを突き出します。

「あんたのことなら、あんたよりずっと解っているわよ・・・この前の穿刺術のDNAデータ全て手元に在るから、やろうと思えば、あんたの体完全に再現出来るわよぉ!」

負けずにあごを突き出します。

「大体、先生は大学で何の研究されているんですかぁ?死体解剖するのが専門で、専ら―――。」

テーブルの先の本棚に並んだ、解剖学の専門書の背表紙を、舐めまわす様に眺めた白い視線を、そのまま女医に投げかけます。

「―――失礼ね!私だって偶には生きてる患者診るわよ。」

「外科と婦人科が一応専門だから、如何しようもなくなった女学生が、最後に私を頼ってやって来るの。親にも友達にも云えない事情を抱えて、大事なところをパンパンに腫らしてねぇ。」

「そんなやんちゃな小娘達には、治療した後、けつの穴に指突っ込んでお仕置きしてあげるのよ、もう二度と来ないようにね!何ならあんたのも、穿りまわしてお仕置きしてあげようかぁ?」

「それには及びません!もう二度と来ません!」

首の筋を曳き摺らせながら、それ以上ない程あごを突き出します。

鳥籠のインコが、甲高い声を挙げます、「ケツノアナ!ケツノアナ!」

赤面した3女子がお互いの顔を見て吹き出します。

「二人とも、いい加減にして下さい!笑ちゃん、ほら、首の筋痛めたんでしょ?」

顔を顰めながら、小麦色のうなじを摩る笑子を窘めます。

「―――それで、本当はどんな研究しているんですか?」

襟を正して玲子が訊き直します。

インフルエンザウイルスの研究よ・・・。」

 


「A型インフルエンザウイルスのH亜型というんだけど、ちょっと特殊なのよね・・・。」

「―――どう特殊なんですか?」

リンゴを頬張った上に、更にイチゴを詰め込みながら、笑子が尋ねます。

「人のSRY遺伝子発現に関与するんじゃないかと思うの・・・。」

「何ですか?SRY遺伝子・・・?」

「哺乳類特有の性決定遺伝子よ、一般にオスのY染色体上に存在するわ。」

「―――確か、性染色体でXXがメス、XYがオスでしたわね。」

イチゴを摘まみながら、玲子が確認します。

「基本的にはね―――。でも、このSRY遺伝子の転座、或いは不発現によって、XXオス、XYメスって事例もあるわ。」

「有性生殖生物の原初的な性はメスなの、このSRY遺伝子が発現(活性化)して初めてメスからオスが発生するのよ、もし発現しなかったら、性染色体がたとえXYでもメスになるわ。スワイヤー症候群ていうんだけど、このウイルスに感染させた実験用のマウスが、高い頻度でスワイヤー症候群を発症しているの。」

「スワイヤ~!」 窓際のインコが、タイミングよく声を挙げます。

一瞬振り返った穴見が目を丸くしながら、「健全なオスの子孫が産まれてこなくなるの。本来オスのXY染色体を持って産まれた胎児が、生殖腺の分化が不十分でオスになりきれないでメスのまま産まれてくるのよ。」

「このウイルス亜型が、どういったメカニズムでスワイヤー症候群を発症させるのか、まだよく解ってない・・・ウイルスのRNAが何らかの形で宿主のSRYDNAに影響を与えるんだと思うけど・・・ひょっとすると、レトロウイルスのような逆転写酵素を持ってるのかも知れない・・・。」

「そのインフルエンザ、人にも感染するんですか?」

笑子が小鉢の最後のイチゴを摘まみあげながら尋ねます。

「感染するのは、インフルエンザじゃなくてウイルスよ―――。今のところ、人に感染した事例は報告されてないわ、でも鶏と豚に事例があるから、その内、人の感染例も必ず出てくるわ。」

くちいっぱいにイチゴをかみ砕きながらきょとんとした顔の笑子を、信じられないといった表情で覗き込みながら、「―――この子、ちゃんと食べさせてるの玲ちゃん?すごい食欲じゃない。あんた、イチゴ食べるの初めて?」

呆れ返って、小鉢の果物を追加しに立った女医に向かって、「もう結構です!充分頂きました―――。」

ぷいっと口を尖らせて、そっぽを向いてしまいます。丁度眼が合ったインコが、「ハラヘッタ!ハラヘッタ!」

 

空調を要しない貴重なこの季節、窓を開けると清々しい外気に心の芯まで満たされます。 

「じゃ、人に感染したら、男は皆インフルエンザで死んじゃうんですか?」

インコを睨みつけながら笑子が続けます。

低病原性の亜型ウイルスだから、人が死ぬことは無いと思う、恐らく殆どの人は、感染にも気が付かないでしょうね。逆にだから怖いの・・・。」

「どういうことですか?」

「人が感染に気付かない新型インフルエンザは、ワクチン抗ウイルス薬の対応が疎かになるから、パンデミック(感染爆発)になりやすいの。マウスでスワイヤー症候群が発症したってことは、生殖器や胚に感染したってことよ。人間で同じかどうか解らないけど、知らないうちに男児の出生に障害が出てくる可能性はあるわ。」

「SRY遺伝子にウイルスが関与するメカニズムが説明できないし、まだ人への感染の報告も無いから、誰も取り合ってくれない。この件で警鐘鳴らしているのは、日本で私だけなのよ!」

 「大変じゃないですか先生!この世に男がいなくなったら・・・。」

「いなくなったら?」

「きっとそれは・・・。」

「何も変わらないわよね、きっと!」

「―――そうですねぇ、少なくとも私たちには関係ないことですよねぇ!」

「オトコ!オトコ!」とインコの声。

 

「でも、そうなったらどうやって子供を増やすんですか?」

「玲ちゃんの精子の方法があるじゃない!産まれる子供は女の子ばかりになると思うけど、遺伝子工学で何とかなる部分よ。」

「好きな相手をベッドに押し倒して、大事なところに自分の精子注入するんですか?」

「―――ワイルドねあんた!相手に注入して貰ってもいいのよ、同じことだから。」

3女子の猥談が続きます。 

 


「でもどうして、女と男がいるんでしょうねぇ?女だけなら、世の中平和でいいのに・・・。」

窓際のインコに、鳥籠の隙間から指を差し込みながら、笑子が呟きます。

「気を付けてね、気性が荒いから突っつかれるわよ。―――あんたはどうして世の中に女と男がいると思うの?」

「人は、有性生殖ですからねぇ・・・小学校で習いますよぅ。」

「なぜ、人は有性生殖なのか分かる?」

「環境の変化に適応する為じゃないですか?女と男がSEXすることで、遺伝子が交配して、色んな個性を持った赤ちゃんが産まれる、そこで環境変化に適応した遺伝子だけが生き残って・・・それが進化じゃないんですか?」

自然環境の変化に適応するだけなら、無性生殖の方が遥かに合理的なの。突然変異やその他の方法で遺伝子変異も存在するし、種を保存する為に雌雄2個体を要する有性生殖と違って、1個体しか必要ないものね。精子の提供以外、種の保存に殆ど関与しないオスを産み育てる負荷も存在するし、とにかく有性生殖は効率が悪いのよ。事実、高緯度や高標高、高温乾燥地域といった、より過酷な自然環境下では、無性生殖生物の方が優勢だわ。」

「有性生殖の存在理由として、現代の多くの学者が唱えているのは、他の生物との生存競争、特に寄生生物との競争の為だって説なの。つまり、自然環境じゃなくて社会環境への適応ってこと。」

「―――社会環境?」

小鉢に再び盛られたバナナとぶどうを摘まみながら、玲子が声を挙げます。

笑子の眼は小鉢が見えない様に、窓の外を向いています。

それに気付いた女医が、「―――遠慮しないでいいのよあんた、幾らでもあるからね。」

インコがまた甲高い声を挙げます、「ハラヘッタ!ハラヘッタ!」

「自然環境の良好な場所では、多くの生物がお互い競争して生きている。つまり、生物と生物の間の社会環境が存在するわけよね。寄生してくる相手には、こちらから駆逐していかなければ生き残れない。だから、駆逐するシステムだけを遺伝子上に外部から導入する。無性生殖のように遺伝子自体の突然変異を待ってる暇はない、そうやって多様性のスピード競争に打ち勝ってきたのが、有性生殖生物だって考え方―――。」

「導入した駆逐システムの典型が、免疫システムってことですか・・・。」

「免疫も、無数の個体のどれかの遺伝子に組み込まれた防衛システムのひとつだったと思う、それが男女の交配によって種全体に拡がったとする説よ。」

笑子が窓の外を向いたまま、後ろ向きに右手を小鉢に伸ばします。

「ただね、攻めてくるヤクザに対して、免疫という名のヤクザを用心棒に雇ったようなもので、種の保存に責任を持つメスとしては、痛し痒しなのよ。」

一粒のぶどうをそっと引き寄せ、口に運ぶ笑子に向かってインコが、「ドロボー!」慌てて小鉢にぶどうを返します。

3女子ひとしきりの大笑いが収まって、静かになったリビングに、笑子がぼそりと呟きます。

「遺伝子の交配さえできれば、有性生殖は成立するんでしょ。だったら、やっぱり男は必要ないじゃないですか。性犯罪や殺人事件の被疑者の大半は男なんですよ、戦争ばかりして人を殺すのは、種の保存に逆行しているでしょ。女と女がSEXして子供を増やせば、人類はそれで問題ないんじゃないですか?」

「生殖の話をいきなり人間社会に持ち上げてきたわね・・・でも、あんたの云う通りよ、このインフルエンザウイルスの研究を、誰にも伝えないでそっとしておけば・・・。」

「―――きっとそうすべきですよ、穴見先生。人類の未来の為に。」

「でも、それは・・・。」生真面目な玲子が窘めます。

「物質的な豊かさの面では、人の社会の格差は解消されつつあるわ、路上に屯していたホームレスも先進国ではいなくなって来てるし、餓死が頻発していた最貧国も今は少なくなってる。個人の自己生産を支える知識と、資材とエネルギーの価値が限りなく微細になって、全人類に普遍的に無償で支障なく供給されるようになりつつある。だから、生きるために他人や他の集団を駆逐する必要が無くなった。だから、それを担っていた男の存在理由も縮小しつつあるわけよね。でもね、この研究を公表しなかったところで、あんたの云うような、女だけの世界にはならないわ。」

「どうしてですか?」


「今生きている男性が、全員インフルエンザで死ぬわけじゃないからね。それに、有性生殖には環境に適応し辛い方の対立遺伝子を、劣性遺伝として保存していく機能もあるし・・・。」

「―――男性って劣性遺伝なんですか?」

「SRY遺伝子そのものは対立遺伝子じゃないから、男性という性自体が劣性遺伝というわけじゃないんけど、性に伴う新生児の表現型質的形質量的形質も、分布の重心が女性の方向に移動するでしょうね。」

「スワイヤー何たらで、胎児が男になりきれないって云ってたじゃないですか。それで、男がいなくなるんじゃないんですか!」

ヒステリックに笑子が問い質します。

それを遮るように、「スワイヤー症候群の男児は、どう治療されるんですか?」

玲子が現実的な質問を投げかけます。

「前言を少し訂正するけど、スワイヤー症候群の男児というのは存在しないわ、SRY遺伝子が発現しないY染色体を持つ性腺未発達の女児のことよ。卵巣以外の内性器や、外性器は正常な女性と変わらないから、思春期になるまで解らない。判明して女性ホルモン療法を受ければ、正常な女性と同様の生活ができるわ。」

「―――何だか、男は女の特殊形のひとつような気がしてきました。」

真面目な顔で、玲子が呟きます。

「仰る通り!メスとオスの境界というのが、生物学的、脳科学的、生理学的に曖昧になりつつあるの、というかメスがオスを包括しているとも云える。唯一はっきりしているのが、SRY遺伝子が発現すればオスになって、発現しなければ全てメスになるってこと。―――ところで貴女たちにひとつ訊きたいんだけど、綺麗でポッチャリとした若い女の子見ると、ベッドに連れて行って全裸にして、抱いてみたいと思うことない?」

「―――私ありますよ。乳首と股間がムズムズしてきて、云うこときかなければ、こうやってロープで縛りあげて無理やりにって、思うことあります。」

笑子が動作を交えながら説明します。

「それは、極端に男性的な性欲ね・・・。」

「私は、この人以外は何だか気持ち悪くって・・・。」

「それは、正常な女性的性欲。私たちLGBTの性行為で、一番の障壁になるのが生理的嫌悪感なの。女性同士の場合、お互いの接触感が粘膜的で汚らしいって思うのね。その障壁を乗り越えて、この人みたいに全員が屁とも思わなくなるまでは、女性だけの世界はあり得ないわ。」

「当面は、普通の女性、あんたみたいな女性、極めて女性的な男性の3者で、社会が構成されるんでしょうね。だから女としては、物事の責任を尽く男のせいにしないことね。人類の未来の為に・・・。」

「何だ!男がいなくなりゃ、化粧もダイエットもしなくていいと思ったのに・・・。」

「化粧やダイエットは男の為にすることじゃないでしょ、人間社会の中での極めて主観的な行為よ。特にダイエットに関しては、異性の体形の好みに関して女性に大いなる誤解があるわ。」

「というと?」

「あんた、肥満であぶらギトギトの男大嫌いでしょ、同様に痩身で肌がカサカサの女は男から嫌われるわ。異性には同性とは違う表現型を求めるの。」

「人間の表現型が、女性の方向に偏れば、人の生殖はどうなるんでしょ?」

「だから、こんなのが産まれてくるんじゃない・・。」

そう云いながら、いきなり笑子の背後に廻って脇の下から両胸を鷲掴みにします、悲鳴を挙げて嫌がる娘にお構いなしに、「筋肉の塊のような弾力満点のオッパイ、浅黒い肌はきめ細やかな上に乾いて粉っぽくてスルスル、がっしりした骨格に強靭な腱、外部からステンレスの針を何本差し込まれても、びくともしない頑丈な体・・・。」

「おう!やるかやぶ医者!後ろ手に縛りあげて、けつの穴に―――。」

女医の両手を振り払いながら、髪を振り乱した笑子が穴見に掴み掛ります。

直ぐ上から見ていたインコが、「ケツノアナ!ケツノアナ!」

暫らく揉み合って汗びっしょりの二人を、玲子が呆れて眺めています。

ハアハア云いながら女医が、「ああ、いい汗かいた。久しぶりにストレス吹っ飛んだ!スッキリした!

「こんなんでよければ、レスリング相手に、毎週末派遣しますよ先生。」

そう云う玲子の顔を、笑子の白い眼が睨みつけます。

 

春の盛りの穏やかな風に、日暮れの冷気が 加わって、そろそろカップルの帰る時間です。

「今日は楽しかったわ、きっとまた来てね!」

「―――もう、二度と来ません!」と笑子、奥でインコが、「モウクルナ!モウクルナ!」

「今度会ったら、あいつ焼き鳥にして・・・。」

「ヤキトリクイタイ!ヤキトリクイタイ!」

 

帰りの車の中です。

「今度は、蚕の社にお呼びしていいわね?穴見先生。」

「―――嫌です!玲子さん今晩はお仕置きです、けつの穴に指突っ込んで穿りまわして・・・覚悟なさい!」

「そんなこと・・・嬉しい。」

―――おわり。

 

物語の内容は全てフィックションであり、実在する個人・団体等と一切の関係がありません。悪しからずご承諾ください。 


奥付



穴見性教育


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著者 : 南海部 覚悟
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