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 柿ノ倉にとっては、それからの数日間は地獄のようなものだった。せっかくの静寂が、連日警察とマスコミ関係者によって蹂躙されたからだ。とてもこの家に住んでいる状態ではなかった。その様子を見て、空穂坂がすぐに助け舟を出した。自分の家に開いた部屋があるから、しばらくそこで暮らしたらいいと。柿ノ倉はその船に乗った。
 さて、稲山田があれからどうなったかと言えば、一命は取り留めたものの、自由の身にはなれなかった。過去の犯罪がすっかり暴露され、稲山田自身も観念して自供したからだ。
 高台が落ち着いた頃、柿ノ倉は家に戻ったが、やはり家も庭も荒らされていた。
まずキッチンの床を何とかしなければならないが、幸いなことに空穂坂と船頭がリフォームを手伝うと言ってくれた。費用も要らないと。
 そんな中、稲山田の不動産屋が、社長の指示でこの家を購入金額に色を添えて買い取ると言って来たが、柿ノ倉は断った。あの社長も少しは心が変わったようだ。しかし柿ノ倉は、この不吉な家が妙に気に入っていた。それは、単に眺めがいいというだけではない。自分の子供のような若者たちが、この家で他界したことが、定年退職をした柿ノ倉の孤独を癒す慰めとなっていたからだ。
 しばらく経って、空穂坂が来た。蜂の巣箱の点検に来たのかと思ったら、柿ノ倉にこう言った。「この度、大変勝手ではありますが、養蜂家組合を解散することになりました。その理由はと申しますと、一つの目的が達成し、またわたくしの体もここにきてガタが来たようですから。──ええ、まあ、あの船頭さんが代わりにできないわけではないですが、あれ以来ショックで、その気力もないようです。やはり昔の漁師に戻りたいようですから、こちらも強いて頼むこともできません。幸いなことに日本蜜蜂は年々増えていまして、もうわたくしが世話をしなくても大丈夫なようです。農家の人たちには、すでに説明をして、巣箱を引き取ると言いましたが、自分たちで今後世話をするからそのままにしていてほしいと言うことで、こちらも助かりました。で、ご主人様の方ですが、いかがでしょうか、わたくしがあの巣箱を引き取りましょうか、それとも──」
「いや、私が面倒を見るよ」と柿ノ倉は、即座に答えた。「まだハチミツも食べていないし、全然邪魔にならないから」
 空穂坂は笑顔で、「さようでございますか、こちらとしましてもありがたいことです。それとハチミツの方は、今日採取することにいたしましょう」
「そうかね、頼むよ。やり方を見ておく必要があるからね」
 すぐに空穂坂は引き返し、空き瓶とヘラの入った袋を提げて戻って来た。
 柿ノ倉は庭に出て空穂坂のやることを観察した。蜜蜂は巣箱の周りにたくさんいたが、空穂坂は仕事がしやすいようにと例のやり方で、蜜蜂を集合させて、近くの立ち木にとまらせた。そうして、柿ノ倉に説明をしながらハチミツを採取した。

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 ガラス瓶に琥珀色のハチミツがたまると、それを柿ノ倉に手渡して、「蓮華草のハチミツですから、格別な味がいたしますよ」と言った。
 柿ノ倉は、礼を言ってそれを受け取ると、「どうかね、コーヒーでも一緒に飲んでいかないかね。ハチミツを入れたコーヒーがどんなものか試してみようと思っているんだよ」
「それはもちろん美味しゅうございます。しかし、わたくしは他にもまだ行くところがございますので、この辺で失礼をさせていただきます。ではご機嫌よう」そう言うと空穂坂は去っていった。
 柿ノ倉は、淋しいような嬉しいような複雑な気持ちで、それを見送った。空穂坂と今後めったに会うことはないだろうというのは淋しいことで、手に持っているハチミツが今後ずっと定期的に手に入るというのは、嬉しいことだったのだ。
 柿ノ倉はキッチンで湯を沸かし、リビングでコーヒーを作った。そして、採れたてのハチミツをスプーンですくってコーヒーに入れた。独特の香りが漂った。
 ひょいと窓の外を見ると蜜蜂がのんきに飛び回っていた。柿ノ倉は、先ほどの空穂坂がやってみせた蜜の採取方法を頭でなぞった。今後、自分でそれを行う必要があるのだ。しかし、ふと気になることを思い出した。それは頭に被るネットである。どこで売っているのだろうか。ホームセンターで売っているのだろうか。空穂坂は特殊な人間だから、ネット無しでも問題なかったが、柿ノ倉は普通の人間だから、ネット無しではとても怖くて巣箱を触ることさえできないのだ。
 今度ホームセンターへいって探してみよう。無ければ、あのブルーベリーの青年のところへいって聞いてみよう。というのも、青年も今後、自分で蜜の採取をすることになるのだし、農業関係者だから、きっと何か教えてくれるに違いない。たとえ、どこにも売っていなければ自分で作ってもいい。麦わら帽子に網戸のネットを被せればいいだろう。革の手袋をして厚目のカッパを着れば問題ないはずだ。
 一安心して柿ノ倉は、コーヒーカップを口に近づけた。まずは香りをかぎ、それから一口、口に含むと、思わず目をつぶり、そして、ゆっくりと飲み込んだ。

                               了

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この本の内容は以上です。


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