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 空穂坂は片手を高く伸ばしていたが、もう一方の手で柿ノ倉に自分の後方にいるように指示した。柿ノ倉が空穂坂の後ろに控えると同時に、稲山田の四人組がこの広場に現れた。手にロープを持っている者もいた。それで柿ノ倉を捕らえるつもりなのだろう。しかし、稲山田にとって、空穂坂がいたことは誤算だったかもしれない。あるいはそれも計算に入れていて、空穂坂も一緒に料理するつもりで来たとなれば、稲山田の決心も相当なものに違いない。そして、それが本当なのだろう。なぜなら、稲山田自身がやって来たというのは、切羽詰っていることを意味していたからだ。実際、自分の過去の犯罪が今日暴露されるかどうかという瀬戸際に、じっとしていられるわけがなかった。またそれだけではなく、日頃、空穂坂から受けている脅迫の、その報復も兼ねていたのだろう。
「稲山田さんよ」と空穂坂が先に言った。「あんたがここに来た理由はちゃんと分かっています。これ以上近づくと、命の保証はできませんよ」
「何を抜かすか、この小倅が」と稲山田が返した。問答無用といった感じで、「おい、やってしまえ!」と子分たちに命じた。稲山田はサングラスをしていたから、空穂坂の頭上に待機していた蜜蜂の大群に気づかなかったようだ。しかし、子分たちは、蜜蜂が黒雲のようになって日光を遮断しているのを目にしていた。それで躊躇したが、親分の命令に背くわけにもいかなかったので、仕方なく前に進む形となった。
 と、「それ行け!」と空穂坂は号令を発し、天に伸ばしていた腕を四人組に向けて振り下ろした。すると蜜蜂の大群は、まるで爆撃機のような轟音をさせて四人の方に飛んでいった。
 あっという間に四人は、顔中蜂だらけになった。手で払っても払っても蜜蜂が群がってきた。目を開けることができない状態になっていた。稲山田もやっとここにきて事情が飲み込めたようだ。サングラスをとって目に集まる蜜蜂を取り去ろうとするのだが、無駄な抵抗だった。蜜蜂が次々と目の周辺に集まるのだ。もちろん顔や手は蜜蜂に刺され放題で、すぐに赤く腫れてきた。そればかりか息をするのも困難な状態になっていた。口を開ければ蜂が入り、鼻の穴さえ入り込もうとするからだ。                       

「分かった分かった」と稲山田が、やがて、うずくまって声も絶え絶えに言った。何が分かったのか判然としないが、空穂坂は「戻れ!」と号令を発した。すると蜜蜂の群れは、また一斉に空穂坂の頭上に集まった。
 空穂坂としては、稲山田を殺すつもりはないのだ。妹ななみの復讐は、すでに終わっているからだ。もちろん稲山田の出方によっては、再び蜜蜂に攻撃させる考えはあったが、しかし、その必要はなかった。顔中蜜蜂に刺された稲山田が、とつぜん倒れたからだ。アレルギーを起こしたのだろう。顔を赤く張らした子分たちも、これにはあわてふためいた。とても柿ノ倉たちにかまっていられなくなった。で、三人は稲山田を担ぐと、またもと来た方向へ戻っていった。おそらく車が通る道まで運んで、そこから自分たちの車で病院に運ぶか、あるいは救急車でも呼ぶつもりなのだろう。

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 柿ノ倉は、ほっとした。と同時に空穂坂という、何の変哲もない小男に、畏敬の念を持った。空穂坂の頭上には、まだたくさんの蜜蜂が待機していたが、「解散!」と空穂坂が声をかけ手を左右に振ると、蜜蜂の群れは一斉にちらばった。遠くから来た蜜蜂は、また空高く飛んでいった。
 柿ノ倉は、稲山田という指揮官を失った子分たちが、自分に対して何かをするというのは、ちょっと考えられなかった。それで、自分も家に帰ることにした。
「そうですか」と空穂坂は言った。「昼前に船頭さんと一緒にそちらにお伺いしますから、それまでお気をつけて家にいてください。たぶん奴らもおとなしくしているでしょう。稲山田の命令で動く連中ですから、その稲山田が倒れた以上、手出しはしないはずです」
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 昼前、約束通り空穂坂が船頭の車に乗ってやって来た。車にはスコップだけではなく、床を切る道具なども積んでいた。工事現場で使う大きなライトも用意していた。
船頭は柿ノ倉に対して頭をさげて、「この度は妹の件で、ご迷惑をおかけすることになり、大変申し訳なく思っています」と言った。
「いやそれより、一刻も早く調べてもらいたい。はっきりしたことが分かれば、彼らも諦めて、何もしなくなるだろうから」と柿ノ倉は言った。
「長年の苦労が今日報われるかもしれません」と今度は空穂坂が言った。「その反面、わたくしたちの推測が間違っていてほしいという、複雑な心境です」
 船頭が続けて、
「どこかで生きていてくれたらとずっと願っていましたが、それも今は諦めて、ただ妹を早く見つけ出したいという思いが強いのです」と目に涙をためて言った。このとき柿ノ倉は気づいたのだが、船頭はこの前のサングラスを掛けていなかった。床下を調べるのに、サングラスは邪魔になるからだろう。
 早速、柿ノ倉は家の中を案内した。キッチンの床がリフォームされた形跡があり、ここを一番に調べてほしいと柿ノ倉は言った。
 そこで船頭たちは、電動カッターを使いキッチンの床材を切った。船頭は船の扱いだけではなく、こういった作業も手馴れていた。施設を手伝っているということは、便利屋のようなこともしているのだろう。この船頭がいつから知的障害者の施設で働いているのか分からないが、たぶんそれは妹の捜索を空穂坂に依頼してからではないだろうか。空穂坂と連絡を密に取る必要があったからだ。釣り船による稲山田に対する脅迫も、あるいは元漁師の発案だったのかもしれない。というのは、漁師の妹であるということを稲山田に悟らせる必要があったからだ。
 さて、捜索の結果は、柿ノ倉たちが推測したとおりであった。そのことをここに詳しく書くつもりはない。読者が適当に想像されたらいいと思う。たぶんその想像であっていると思うから。
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 柿ノ倉にとっては、それからの数日間は地獄のようなものだった。せっかくの静寂が、連日警察とマスコミ関係者によって蹂躙されたからだ。とてもこの家に住んでいる状態ではなかった。その様子を見て、空穂坂がすぐに助け舟を出した。自分の家に開いた部屋があるから、しばらくそこで暮らしたらいいと。柿ノ倉はその船に乗った。
 さて、稲山田があれからどうなったかと言えば、一命は取り留めたものの、自由の身にはなれなかった。過去の犯罪がすっかり暴露され、稲山田自身も観念して自供したからだ。
 高台が落ち着いた頃、柿ノ倉は家に戻ったが、やはり家も庭も荒らされていた。
まずキッチンの床を何とかしなければならないが、幸いなことに空穂坂と船頭がリフォームを手伝うと言ってくれた。費用も要らないと。
 そんな中、稲山田の不動産屋が、社長の指示でこの家を購入金額に色を添えて買い取ると言って来たが、柿ノ倉は断った。あの社長も少しは心が変わったようだ。しかし柿ノ倉は、この不吉な家が妙に気に入っていた。それは、単に眺めがいいというだけではない。自分の子供のような若者たちが、この家で他界したことが、定年退職をした柿ノ倉の孤独を癒す慰めとなっていたからだ。
 しばらく経って、空穂坂が来た。蜂の巣箱の点検に来たのかと思ったら、柿ノ倉にこう言った。「この度、大変勝手ではありますが、養蜂家組合を解散することになりました。その理由はと申しますと、一つの目的が達成し、またわたくしの体もここにきてガタが来たようですから。──ええ、まあ、あの船頭さんが代わりにできないわけではないですが、あれ以来ショックで、その気力もないようです。やはり昔の漁師に戻りたいようですから、こちらも強いて頼むこともできません。幸いなことに日本蜜蜂は年々増えていまして、もうわたくしが世話をしなくても大丈夫なようです。農家の人たちには、すでに説明をして、巣箱を引き取ると言いましたが、自分たちで今後世話をするからそのままにしていてほしいと言うことで、こちらも助かりました。で、ご主人様の方ですが、いかがでしょうか、わたくしがあの巣箱を引き取りましょうか、それとも──」
「いや、私が面倒を見るよ」と柿ノ倉は、即座に答えた。「まだハチミツも食べていないし、全然邪魔にならないから」
 空穂坂は笑顔で、「さようでございますか、こちらとしましてもありがたいことです。それとハチミツの方は、今日採取することにいたしましょう」
「そうかね、頼むよ。やり方を見ておく必要があるからね」
 すぐに空穂坂は引き返し、空き瓶とヘラの入った袋を提げて戻って来た。
 柿ノ倉は庭に出て空穂坂のやることを観察した。蜜蜂は巣箱の周りにたくさんいたが、空穂坂は仕事がしやすいようにと例のやり方で、蜜蜂を集合させて、近くの立ち木にとまらせた。そうして、柿ノ倉に説明をしながらハチミツを採取した。

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 ガラス瓶に琥珀色のハチミツがたまると、それを柿ノ倉に手渡して、「蓮華草のハチミツですから、格別な味がいたしますよ」と言った。
 柿ノ倉は、礼を言ってそれを受け取ると、「どうかね、コーヒーでも一緒に飲んでいかないかね。ハチミツを入れたコーヒーがどんなものか試してみようと思っているんだよ」
「それはもちろん美味しゅうございます。しかし、わたくしは他にもまだ行くところがございますので、この辺で失礼をさせていただきます。ではご機嫌よう」そう言うと空穂坂は去っていった。
 柿ノ倉は、淋しいような嬉しいような複雑な気持ちで、それを見送った。空穂坂と今後めったに会うことはないだろうというのは淋しいことで、手に持っているハチミツが今後ずっと定期的に手に入るというのは、嬉しいことだったのだ。
 柿ノ倉はキッチンで湯を沸かし、リビングでコーヒーを作った。そして、採れたてのハチミツをスプーンですくってコーヒーに入れた。独特の香りが漂った。
 ひょいと窓の外を見ると蜜蜂がのんきに飛び回っていた。柿ノ倉は、先ほどの空穂坂がやってみせた蜜の採取方法を頭でなぞった。今後、自分でそれを行う必要があるのだ。しかし、ふと気になることを思い出した。それは頭に被るネットである。どこで売っているのだろうか。ホームセンターで売っているのだろうか。空穂坂は特殊な人間だから、ネット無しでも問題なかったが、柿ノ倉は普通の人間だから、ネット無しではとても怖くて巣箱を触ることさえできないのだ。
 今度ホームセンターへいって探してみよう。無ければ、あのブルーベリーの青年のところへいって聞いてみよう。というのも、青年も今後、自分で蜜の採取をすることになるのだし、農業関係者だから、きっと何か教えてくれるに違いない。たとえ、どこにも売っていなければ自分で作ってもいい。麦わら帽子に網戸のネットを被せればいいだろう。革の手袋をして厚目のカッパを着れば問題ないはずだ。
 一安心して柿ノ倉は、コーヒーカップを口に近づけた。まずは香りをかぎ、それから一口、口に含むと、思わず目をつぶり、そして、ゆっくりと飲み込んだ。

                               了

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この本の内容は以上です。


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