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「で、それは?」
「ですから……あまり大きな声では言えないですが、船頭の妹ですよ」
「その遺体ということかね?」
「ええ……このことは絶対に他にいって言わないようにしてくださいよ。お客さんがあの家で暮らしているから特別に言っているだけで、極秘中の極秘なんですから。もしもこのことが稲山田に知られたら、私はただではすみません。私はあの長男をよく知っています。狡猾で陰険な男です。自分の見栄と欲望だけで生きているゲスな野郎です」
「しかし、気味の悪い話だね。あの家に遺体があるだなんて。そんなことを言われたら、私はたった一人で暮らしているのだから、夜怖くて寝られないじゃないか」と柿ノ倉は言いながら、頭の中では、あのキッチンの床を思い浮かべていた。
「これはどうも余計なことを言って、悪かったです」と主人は頭を下げた。
「いや、余計なことではない。むしろ感謝している。だが、マスターが言うのが本当なら、なんとかしないといけないね」
「ええ。で、そのなんとかとは?」
「決まっているじゃないか。家宅捜索だよ」
「警察に言うわけですか?」
「いや、自分でやってみる。どうもキッチンの床下が怪しい感じがするんでね」
「だったら船頭と空穂坂に頼みましょう。彼らもそれを願っているわけですから」
「なるほど、それが一番いいだろう。私もスコップはまだ買っていないし、楽しい作業ではないからな。彼らにやってもらいたい」
「じゃあ明日早速彼らに連絡を取ってみますよ」
「頼むよ。私もこのままでは安心して暮らせないからね。一日でも早く決着をつけたい」
「こちらも同じです。ひょっとするとお客さんは、私どもにとっては、福の神かもしれません。いやまあ、チャンスを与えてくれたということで。しかし、結果は残念なことになるかもしれません。複雑なところです。とりあえず明日か明後日、空穂坂がそちらの家に伺うと思いますので、そのときに話し合ってください」
 柿ノ倉は、この居酒屋に来て大正解だと思った。もしも来なければ、ずっと稲山田の犯罪を隠す一員となっていただろうから。もっとも、本当に船頭の妹が、我が家に秘匿されているかどうかまだ分からないのだが。
 やがて焼き鳥も食べ終わって、柿ノ倉は満足して居酒屋を出た。ところが、店の引き戸を開けた瞬間、誰かが慌てて走り去っていった。すぐに夜の闇に紛れたので、はっきりとは見ていないが、先ほど店にいたカップルの男性に似ていたように柿ノ倉は思った。まさか、自分たちの会話を店の外で盗み聞きをしていたのではないだろうか。二人だけの世界に浸っていたように見えたのだが、あのときも、ひょっとすると柿ノ倉たちの会話にこっそり耳を傾けていたのかもしれない。だとすれば、あのまま席に座っていれば良かったのだろうが、それだと店の主人は極秘の話を柿ノ倉にしなかっただろうから、それで店を出たのかもしれない。

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 もしそうだとすると、今後まずいことになりそうな予感が柿ノ倉はした。
 近くで車を急発進させる音が聞こえてきた。
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 家に戻る途中、車を運転しながら柿ノ倉は再び考えた。あの若者が稲山田に属する者で、柿ノ倉と店の主人の会話を盗み聞きしていたのなら、必ず稲山田に報告するだろう。なぜなら、稲山田とまったく関係ない人間が店の外で盗み聞きをする必要がなく、またそれは、柿ノ倉にとって命の危険を意味していた。というのもあの家は、稲山田が家の秘密を保持するために、独り身の柿ノ倉に売ったのであり、その柿ノ倉自身が家の秘密を暴こうとしているのを、黙って見ているはずがないからだ。必ず妨害をしてくるだろう。それも早急に。
 家に戻ってドアを開けるとき、柿ノ倉はふと、この家の鍵は大丈夫だろうかと考えた。不動産屋から引き継いだ鍵のままなのだ。鍵を新しくする必要があるだろう。年金生活者にとって、手痛い出費になるが、鍵という鍵は全部明日替えよう、と柿ノ倉は決心した。しかし、それよりも今夜が一番危険なように感じた。なぜなら、空穂坂は明日この家に来るかもしれないのだ。稲山田としては、それよりも早く手を打つ必要があるだろう。
 そこで柿ノ倉は、こう推理した。──稲山田が、自分たちの企みを阻止する方法は、空穂坂を自分に会わせないようにすることだ。そのためには自分を監禁するか連れ去るか、しないといけないが、しかしそれはその場しのぎであって、結局、自分を始末するしか方法はないのではないだろうか。
 居酒屋の主人が、この家は呪われた家で、用心しろと言ったのは、つまりこういうことだったのか、と柿ノ倉はため息をついた。
 その夜、柿ノ倉はなかなか寝付けなかった。そして、それは正解だった。というのは、二階の寝室で横になっていた柿ノ倉の耳に、玄関のドアが開く音が、かすかに聞こえてきたからだ。柿ノ倉はすぐに起きた。こうなることを頭のどこかで予想していたのだろう。普段着のジャージに着替え、寝室のドアの横に立った。この部屋のドアも用心のために鍵はしているが、もともとこの家の構造を知っている人間にとっては、これぐらいは簡単に開けてくるだろう。
 足音は階段に近づいた。階段を上がる音で、どうも二人いるようだと分かった。彼らがこの時間帯、不法侵入して来る目的は、もちろん、柿ノ倉の命を奪うことである。柿ノ倉は自覚し、その場に低く構えた。

 静寂の中で、部屋のドアノブがガチャガチャ鳴らされた。このとき柿ノ倉はためらった。それはドアノブを内側から持って開けさせないようにするのか、それともすんなり開けさせて、彼らが部屋の中に入った瞬間を狙って自分が外に飛び出すか、という選択だ。ドアノブを持って開けさせない方法は、時間の問題となるだろう。なぜなら相手は二人いるわけだから、綱引きで勝てるわけがなかった。そこで柿ノ倉は後者を選んだ。

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 間もなくドアがすっと後ろにひかれて、懐中電灯の明かりがさっと部屋の中に差し込んだ。一人目の男が部屋に入って来た。続いて二人目も部屋の中に入ろうとしたそのとき、一人目の持っていた懐中電灯の明かりが、柿ノ倉を捉えた。瞬間、それっ、と柿ノ倉はドアのところに立っていた二番目の男を突き飛ばして、階段を駆け下りた。暗がりの階段で、段を踏み外しそうになったが、ここで転がって足でもくじいたら、柿ノ倉は彼らに捕まっていただろう。
 玄関の靴を履くとき、そこにあった男たちの靴を蹴飛ばして、外に飛び出した。そして、林の中に逃げ込んだ。二人の男もすぐに家の外に出て、柿ノ倉のあとを追ったが、周りは暗い林だから柿ノ倉がどこに逃げ込んだのか分からないようだった。柿ノ倉は木の陰で、じっと二人の様子をうかがった。
 二人の持っている懐中電灯の明かりが、あちらこちらを照らしていた。彼らが近づけばまた遠くに逃げるだけだが、そうならないように柿ノ倉は神に祈った。こういう暗い林の中では逃げる者が、どうしても不利になる。逃げる者は前方を手探りで進まなければならないうえに、木の枝に服が引っかかったりして、猟犬のように追ってくる者に追いつかれてしまうからだ。
 幸いなことに二人は、しばらくして諦めたようだった。探すのが広範囲だったせいもあるだろうが、柿ノ倉が意外と機敏だったことで、たとえ見つけたとしても、そう簡単には捕まえることができないと判断したからだろう。実際、手に持っている懐中電灯は、柿ノ倉を捕まえるときに邪魔になるし、叩き落とされれば、手探り状態になる。それに加えて柿ノ倉が、何か武器を持っているかもしれないのだ。林の中なら、武器になるものはいくらでも手に入る。木の棒はもちろんのこと土でも小石でも立派な武器になるだろう。
 二人は車の通る道を去っていった。柿ノ倉は一先ず安心したが、用心して家には戻らないことにした。
 しかしながら、朝になるにはまだ時間があった。そこで柿ノ倉は、あの養蜂家組合の青いテント小屋に行ってみることにした。じつは柿ノ倉の着ているジャージのポケットに、小さな懐中電灯が入っている。これはいつも夜トイレに行くときに使用しているのだが、先ほど玄関の靴を履くときも、これで照らして履いたのだ。ただ林に隠れるときは使わなかった。月明かりだけでなんとかなったからだ。しかし、あの二人が遠くに去った以上、もう使ってもいいだろう、と柿ノ倉は目の前の地面を照らして歩いた。
 柿ノ倉は、用心して車が通る道は避けて、獣道のようなところを歩いた。そうして、あのテント小屋に近づいたとき柿ノ倉は驚いた。テント小屋に明かりが灯っていたからだ。まさか先ほどの二人がいるのではないかと思ったが、彼らが去っていった方向とは真逆であったので、それはないだろうと心を落ち着けた。とはいえ柿ノ倉は、なかなか小屋に近づくことができなかった。それは線香の匂いが漂ってきたからだ。こんなところに墓場はないだろうし、ましてやこんな真夜中にお参りをすることもないだろう。なぜなのだ。するとやがて、小屋の中からあの養蜂家組合の男、つまり空穂坂の次男坊が現れた。それで柿ノ倉は安心して近づいた。

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 空穂坂は、人が近づく音と懐中電灯の明かりにギョッとしたようだった。こんな時間に誰だ、と思ったのだろう、棒のように突っ立っていた。
 それで柿ノ倉は、自分から声をかけた。
「こんな時間にまだ仕事をしているのかね?」
 すると空穂坂はほっとしたようだった。
「ああ、あなたでしたか。驚きましたよ。あなたの方こそ、こんな時間に何でここへ?」
 そこで柿ノ倉は、これまでの経緯をすべて話した。
「そうでしたか」と空穂坂は感慨深げに言った。「その二人は間違いなく稲山田に属する人間です。あなたが寝ないで起きていたのは大変幸運と言えます。でなければ、今こうしてわたくしと話をすることはできなかったでしょう。それであの家の床下を調べるということでしたが、ぜひこちらにお任せ下さい。それがかねてからの願いでしたから」
「頼むよ。それもできるだけ早くしてほしい。でないと、安心して過ごせないから。警察に通報するつもりだったが、ここでちょうどあなたに会えたので、通報するのはあなたが調べた後でもいいかなと。それに不法侵入というだけで警察が床下を調べるかどうか分からないからね」
「さようでございます」と空穂坂は、急にかしこまって言った。「というのも、この辺の警察の中には稲山田に属する人間が何人もいまして、稲山田に関わることは、まともに取り合ってくれない恐れがあるのです。実際あのときも──いえ、船頭さんの妹さんがこの高台で行方不明になったときのことですが、稲山田の長男と船頭さんの妹さんが一緒にいて、それを目撃した人がいるにもかかわらず、警察は稲山田の別宅を調査しませんでしたから」
「家の鍵は今日中に替えるつもりだが」と柿ノ倉は言った。「しかし、またいつどこで彼らに捕まるか分からない。日課の散歩も、できやしないよ」
「ですから、今日のお昼ごろ、わたくしは船頭さんを連れて、そちらにお伺いします」
「助かるよ。だが、それはいいとして、夜が明けるまで、この小屋の中で匿ってくれないだろうか。今、家に戻っても、またあの二人がやって来るような気がして、とても不安なんだ」
 空穂坂は、しばし戸惑ったようだが、やがてうなずきながら、「いいでしょう。あなたもお困りでしょうし、それにあなたならここの秘密を人に言ったりしないでしょうから、どうぞ入ってください」
「ありがとう」
 柿ノ倉は、空穂坂が秘密と言った言葉に引っかかるものを感じたが、うれしかった。それにしても線香の匂いが一段と強くなっていた。以前からこの小屋の中が気になっていた柿ノ倉は、より一層の興味を持って小屋の中に入った。
 大きなランタンの明かりで小屋の中は照らされていた。小屋の奥に祭壇が設えてあり、そこに遺影が置かれていた。まだ若い女性だった。どことなく顔立ちが空穂坂に似ていた。その遺影の前で、線香の煙が立ち上っていた。

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 空穂坂は言った。
「わたくしの妹ですよ。今日がその命日です。正確には昨日でしたが、わたくしは毎年その日は夜通し、こうして線香をたいて供養をしているのです」
 柿ノ倉は、どう言っていいのか迷った。
「さあ、ここに座ってください」と空穂坂は、ブルーシートの上にある座布団を指差して言った。周りには蜂の巣箱もたくさん置いてあったが、蜜蜂は箱の中で眠っているのか静かだった。あるいは空箱だったのかもしれない。なぜなら、線香の煙に燻されて、じっとしているのはオカシイからだ。
「眠たければ横になってもかまいません」と空穂坂は言った。
「いや、それより話を聞かせてもらえないかね」と柿ノ倉は言った。
「妹のことですか」
「ええ」
「ですからそれはこの前お話ししたように、稲山田の次男坊にあの崖から突き落とされて、それでわたくしはここに小屋を建てて、妹の霊を祀っているのです。よく事故現場に手向け花をするでしょう。それと同じ理屈です。また養蜂家組合を設立するにも、ここはちょうど良かったのです」
「それだけではないね」と柿ノ倉は言った。「私は港の近くの、ある居酒屋で、その亭主から話を聞いたのだが、あなたと釣り船の船頭さんは稲山田を脅すために、毎日あの崖の上で、合図を出し合っているというじゃないかね」
 空穂坂は、声を出さない薄気味の悪い笑い方をした。
「そこまでご存知でしたか。最初あなたを見たときから、ちょっと普通の人と違うと感じましたが、やはりわたくしのカンに狂いはありませんでした」
「どういう風に違うのだね」
「いえ、ですから悪い意味ではありません。普通の人が考えないようなことをあなたは考えることができる、という意味です」
柿ノ倉は、小説を趣味で書いているが、確かに普通の人が考えないようなことをいつも考えている。空穂坂は、そういったことを最初に会ったときに直感したのだろうか。反対に柿ノ倉も、最初に空穂坂を見たときに、やはりなんとなく普通と違うように感じたが、それは養蜂家組合という聞きなれない言葉があっただけではなく、空穂坂の体から発する霊気のようなものを感じたからだろう。蜜蜂を自分の思いのままに操ることができるのは、単にローヤルゼリーを服につけているだけではないように思った。
「また」と柿ノ倉は言った。「船頭さんの妹さんを捜索するためにここに拠点を構えたわけだね」

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