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「捨てられた、というとまさかあの崖から投げ落とされたのではないだろうね?」
「いえ、行方不明になったのです。十年近く前ですが、あの高台で……たまたま高台を散歩していた人が、偶然船頭の妹に似た女性を見かけたのです。こんな山の中に若い女性が来ることは希ですから、よく覚えていたようです。捜索願が出されたとき、女性は稲山田の長男と一緒だったとその目撃者は証言したのですが、もちろん長男はそれを否定しています。というか一緒にいたことはいたが、すぐに別れたと警察に言ったようです。あの別邸へ入ったという目撃はないですから、警察もそれ以上深く追求はできなかったようです。──以降、その妹の兄である船頭が、やっきとなって探していたのですが、それから数年経って、今度はさっき言った空穂坂の娘の事件があったのです。そこで彼は空穂坂に協力を求めました。同じ稲山田に恨みを持つということで、頼みやすかったのでしょう。じつは空穂坂の長男は、子供の頃よく私たちと一緒に遊んだ仲間でした。昆虫が好きで、蝉取りなどをして遊んだものです。そこで恨みもありライバルでもある稲山田を懲らしめてやろうと、あの養蜂家組合というのを思いついたのです。表向きは、日本蜜蜂の守護及び繁殖ですが、まあ確かに彼は日本蜜蜂の将来に懸念を持っていたことは持っていました。しかし本当の目的は、それにかこつけての船頭の妹の捜索であり、また稲山田に対する脅迫なのです。しかし長男は何かと忙しい人なので、弟にその任務を委ねたのです。次男坊は、崖から突き落とされた妹を大変可愛がっていましたから、進んで協力してくれました。彼自身稲山田の人間に復讐をしたいという思いが強かったのでしょう」
 そう言って主人は、薄ら笑いをしたが、その意味深な笑みは、ひょっとすると復讐はすでに終わっているという意味だったのだろうか。なるほど空穂坂の娘が自殺ではなく他殺であれば、犯人は稲山田の次男坊しかいない。目撃証言もある。目撃証言というのはあまり信用できないものだが、仮に自殺であったとしてもその原因は稲山田の息子にある。ライバル関係にあることを知りながら、妹に接近し誘惑した。それがなければ妹は死ぬことはなかったのだ。その恨みを晴らすために空穂坂の次男坊は稲山田の息子を殺害したのだろうか。であれば、ななみの方は一応それで決着がついた。が、船頭の妹は、まだ手がかりさえつかめていない状態だ。そして、その妹の行方を知っているのは、稲山田の長男しか考えられない。空穂坂としては、何とかして長男に、白状させる必要がある。そのために稲山田を四六時中監視して、ぼろが出るのを待っているのではないだろうか。
 柿ノ倉は言った。
「で、稲山田の長男は、そのことを知っているのかね」
「知ってる知ってる。だからいつもびくびくして暮らしていますよ。いつか自分も弟のように殺られるのではないかとね。間違ってもあの高台の家では暮らせない。なぜなら、周りに家がないので、何かあったときに助けを求めることができないから。たぶんあの家を売りに出した理由も、そういったことが関係すると私は思っとります。実際、一度他人に売ってしまえば、空穂坂の人間も、そう簡単には、その敷地に入ることができませんからね」

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「いや、養蜂家組合の人間が、この前入ってきたがね」
 と柿ノ倉は言った。
「おやそうでしたか。知りませんでした。で、蜂の巣箱は置きましたか?」
「置いたよ。庭の隅に──」
「そうですか。だとお客さん、非常に危険な兆候ですぜ」
「えっ!」柿ノ倉は驚いて、聞き返した。「危険というと、どう危険なのだい?」
「ですから、空穂坂の次男坊は、船頭の妹の行方を探しているのです。お客さんが今住んでいる家が、最も怪しいと睨んでいるのです。あの家は、無人であってほしいのです。なぜなら、いつかあの家を手に入れて、屋根裏から床下まで探すつもりだからです。もしもお客さんが稲山田と何か関係がある人間だとすれば、空穂坂は間違いなく強硬手段に出るでしょう」
「強硬手段とは?」
「つまりお客さんをあの家から追い出すことです」
「どうやって?」
 すると居酒屋の主人は、にやっと笑って、「蜂ですよ。日本蜜蜂とかいう蜂です。船頭、つまり私の連れの話では、空穂坂の次男坊には特殊な才能があって、日本蜜蜂を自由に操ることができるというのです。猛獣使いのように」
 柿ノ倉は農業青年の話を思い浮かべた。青年の話でも、男が片手を振り回して、イチゴハウスの蜜蜂を一斉に自分の体に集めたと言っていた。
「で、その蜜蜂を使ってどうするというのだね?」
「お客さんの体を攻撃させるんですよ。蜜蜂と言えども、カタマリとなって襲ってきたら、そりゃー恐ろしいもんですぜ。しかしそれは、お客さんが稲山田と関係する人間であった場合です。まったくの他人でしたら、そこまではしないと思いますが、用心するに越したことはありません」
「そうかね。私にはとても親切な人間に見えるのだが」
「親切ですよ。悪い人間ではありません。ただ稲山田の人間に対しては鬼のようになります。私もあの家が売りに出されていたとは最近まで知りませんでした。空穂坂も知らなかったのでしょう。知っていればあの家を購入したでしょうから。もちろん稲山田が空穂坂の人間にあの家を売ることはないでしょうから、誰か知っている人に頼んで購入したはずです。それくらいの余裕はある家です空穂坂は。稲山田があの家を売りに出したのは、さっきも言いましたが、無人のままにしていたら、いつか空穂坂があの家を勝手に捜索するのではないかと心配したからです。もっとも、これは私の推測に過ぎないのですが」
「今、捜索と言われたが、ではあの家には何かが隠されているということかね」と柿ノ倉は、あえてとぼけてそう聞いた。
「ええ」

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「で、それは?」
「ですから……あまり大きな声では言えないですが、船頭の妹ですよ」
「その遺体ということかね?」
「ええ……このことは絶対に他にいって言わないようにしてくださいよ。お客さんがあの家で暮らしているから特別に言っているだけで、極秘中の極秘なんですから。もしもこのことが稲山田に知られたら、私はただではすみません。私はあの長男をよく知っています。狡猾で陰険な男です。自分の見栄と欲望だけで生きているゲスな野郎です」
「しかし、気味の悪い話だね。あの家に遺体があるだなんて。そんなことを言われたら、私はたった一人で暮らしているのだから、夜怖くて寝られないじゃないか」と柿ノ倉は言いながら、頭の中では、あのキッチンの床を思い浮かべていた。
「これはどうも余計なことを言って、悪かったです」と主人は頭を下げた。
「いや、余計なことではない。むしろ感謝している。だが、マスターが言うのが本当なら、なんとかしないといけないね」
「ええ。で、そのなんとかとは?」
「決まっているじゃないか。家宅捜索だよ」
「警察に言うわけですか?」
「いや、自分でやってみる。どうもキッチンの床下が怪しい感じがするんでね」
「だったら船頭と空穂坂に頼みましょう。彼らもそれを願っているわけですから」
「なるほど、それが一番いいだろう。私もスコップはまだ買っていないし、楽しい作業ではないからな。彼らにやってもらいたい」
「じゃあ明日早速彼らに連絡を取ってみますよ」
「頼むよ。私もこのままでは安心して暮らせないからね。一日でも早く決着をつけたい」
「こちらも同じです。ひょっとするとお客さんは、私どもにとっては、福の神かもしれません。いやまあ、チャンスを与えてくれたということで。しかし、結果は残念なことになるかもしれません。複雑なところです。とりあえず明日か明後日、空穂坂がそちらの家に伺うと思いますので、そのときに話し合ってください」
 柿ノ倉は、この居酒屋に来て大正解だと思った。もしも来なければ、ずっと稲山田の犯罪を隠す一員となっていただろうから。もっとも、本当に船頭の妹が、我が家に秘匿されているかどうかまだ分からないのだが。
 やがて焼き鳥も食べ終わって、柿ノ倉は満足して居酒屋を出た。ところが、店の引き戸を開けた瞬間、誰かが慌てて走り去っていった。すぐに夜の闇に紛れたので、はっきりとは見ていないが、先ほど店にいたカップルの男性に似ていたように柿ノ倉は思った。まさか、自分たちの会話を店の外で盗み聞きをしていたのではないだろうか。二人だけの世界に浸っていたように見えたのだが、あのときも、ひょっとすると柿ノ倉たちの会話にこっそり耳を傾けていたのかもしれない。だとすれば、あのまま席に座っていれば良かったのだろうが、それだと店の主人は極秘の話を柿ノ倉にしなかっただろうから、それで店を出たのかもしれない。

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 もしそうだとすると、今後まずいことになりそうな予感が柿ノ倉はした。
 近くで車を急発進させる音が聞こえてきた。
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 家に戻る途中、車を運転しながら柿ノ倉は再び考えた。あの若者が稲山田に属する者で、柿ノ倉と店の主人の会話を盗み聞きしていたのなら、必ず稲山田に報告するだろう。なぜなら、稲山田とまったく関係ない人間が店の外で盗み聞きをする必要がなく、またそれは、柿ノ倉にとって命の危険を意味していた。というのもあの家は、稲山田が家の秘密を保持するために、独り身の柿ノ倉に売ったのであり、その柿ノ倉自身が家の秘密を暴こうとしているのを、黙って見ているはずがないからだ。必ず妨害をしてくるだろう。それも早急に。
 家に戻ってドアを開けるとき、柿ノ倉はふと、この家の鍵は大丈夫だろうかと考えた。不動産屋から引き継いだ鍵のままなのだ。鍵を新しくする必要があるだろう。年金生活者にとって、手痛い出費になるが、鍵という鍵は全部明日替えよう、と柿ノ倉は決心した。しかし、それよりも今夜が一番危険なように感じた。なぜなら、空穂坂は明日この家に来るかもしれないのだ。稲山田としては、それよりも早く手を打つ必要があるだろう。
 そこで柿ノ倉は、こう推理した。──稲山田が、自分たちの企みを阻止する方法は、空穂坂を自分に会わせないようにすることだ。そのためには自分を監禁するか連れ去るか、しないといけないが、しかしそれはその場しのぎであって、結局、自分を始末するしか方法はないのではないだろうか。
 居酒屋の主人が、この家は呪われた家で、用心しろと言ったのは、つまりこういうことだったのか、と柿ノ倉はため息をついた。
 その夜、柿ノ倉はなかなか寝付けなかった。そして、それは正解だった。というのは、二階の寝室で横になっていた柿ノ倉の耳に、玄関のドアが開く音が、かすかに聞こえてきたからだ。柿ノ倉はすぐに起きた。こうなることを頭のどこかで予想していたのだろう。普段着のジャージに着替え、寝室のドアの横に立った。この部屋のドアも用心のために鍵はしているが、もともとこの家の構造を知っている人間にとっては、これぐらいは簡単に開けてくるだろう。
 足音は階段に近づいた。階段を上がる音で、どうも二人いるようだと分かった。彼らがこの時間帯、不法侵入して来る目的は、もちろん、柿ノ倉の命を奪うことである。柿ノ倉は自覚し、その場に低く構えた。

 静寂の中で、部屋のドアノブがガチャガチャ鳴らされた。このとき柿ノ倉はためらった。それはドアノブを内側から持って開けさせないようにするのか、それともすんなり開けさせて、彼らが部屋の中に入った瞬間を狙って自分が外に飛び出すか、という選択だ。ドアノブを持って開けさせない方法は、時間の問題となるだろう。なぜなら相手は二人いるわけだから、綱引きで勝てるわけがなかった。そこで柿ノ倉は後者を選んだ。

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 間もなくドアがすっと後ろにひかれて、懐中電灯の明かりがさっと部屋の中に差し込んだ。一人目の男が部屋に入って来た。続いて二人目も部屋の中に入ろうとしたそのとき、一人目の持っていた懐中電灯の明かりが、柿ノ倉を捉えた。瞬間、それっ、と柿ノ倉はドアのところに立っていた二番目の男を突き飛ばして、階段を駆け下りた。暗がりの階段で、段を踏み外しそうになったが、ここで転がって足でもくじいたら、柿ノ倉は彼らに捕まっていただろう。
 玄関の靴を履くとき、そこにあった男たちの靴を蹴飛ばして、外に飛び出した。そして、林の中に逃げ込んだ。二人の男もすぐに家の外に出て、柿ノ倉のあとを追ったが、周りは暗い林だから柿ノ倉がどこに逃げ込んだのか分からないようだった。柿ノ倉は木の陰で、じっと二人の様子をうかがった。
 二人の持っている懐中電灯の明かりが、あちらこちらを照らしていた。彼らが近づけばまた遠くに逃げるだけだが、そうならないように柿ノ倉は神に祈った。こういう暗い林の中では逃げる者が、どうしても不利になる。逃げる者は前方を手探りで進まなければならないうえに、木の枝に服が引っかかったりして、猟犬のように追ってくる者に追いつかれてしまうからだ。
 幸いなことに二人は、しばらくして諦めたようだった。探すのが広範囲だったせいもあるだろうが、柿ノ倉が意外と機敏だったことで、たとえ見つけたとしても、そう簡単には捕まえることができないと判断したからだろう。実際、手に持っている懐中電灯は、柿ノ倉を捕まえるときに邪魔になるし、叩き落とされれば、手探り状態になる。それに加えて柿ノ倉が、何か武器を持っているかもしれないのだ。林の中なら、武器になるものはいくらでも手に入る。木の棒はもちろんのこと土でも小石でも立派な武器になるだろう。
 二人は車の通る道を去っていった。柿ノ倉は一先ず安心したが、用心して家には戻らないことにした。
 しかしながら、朝になるにはまだ時間があった。そこで柿ノ倉は、あの養蜂家組合の青いテント小屋に行ってみることにした。じつは柿ノ倉の着ているジャージのポケットに、小さな懐中電灯が入っている。これはいつも夜トイレに行くときに使用しているのだが、先ほど玄関の靴を履くときも、これで照らして履いたのだ。ただ林に隠れるときは使わなかった。月明かりだけでなんとかなったからだ。しかし、あの二人が遠くに去った以上、もう使ってもいいだろう、と柿ノ倉は目の前の地面を照らして歩いた。
 柿ノ倉は、用心して車が通る道は避けて、獣道のようなところを歩いた。そうして、あのテント小屋に近づいたとき柿ノ倉は驚いた。テント小屋に明かりが灯っていたからだ。まさか先ほどの二人がいるのではないかと思ったが、彼らが去っていった方向とは真逆であったので、それはないだろうと心を落ち着けた。とはいえ柿ノ倉は、なかなか小屋に近づくことができなかった。それは線香の匂いが漂ってきたからだ。こんなところに墓場はないだろうし、ましてやこんな真夜中にお参りをすることもないだろう。なぜなのだ。するとやがて、小屋の中からあの養蜂家組合の男、つまり空穂坂の次男坊が現れた。それで柿ノ倉は安心して近づいた。

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