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「もちろん蜜蜂の様子を見に来たのです。でもいつもは一人で来られるわけですから、実際のところはよく分かりません。こちらも尋ねる理由もありません。で僕は彼らの様子を見ていたのですが、あの養蜂家組合の人がハウスの隅で片手をぐるっとさせると、ハウス中にいた蜜蜂が一斉にあの人の方に集まってきました。すごいもんだなあと感心していると、今度は船頭さんの方が巣箱を開けて、中の様子を確認していました。二人ともネットを被っていませんから、いつもの人が蜜蜂を自分の体に集めて、船頭さんの作業をし易くしたのでしょう。僕はハチミツを採取するのかと思いましたが、そうではありませんでした。聞いた話では、普通の養蜂業者は、遠心分離機を使ってハチミツを採取するようですが、ここはヘラでハチミツを瓶に入れます。しかし、このときは点検だけでした。イチゴハウスは三棟あるのですが、三棟とも同じようなことをして、帰っていきました」
「それはたぶん見習いだったかもしれんね」と柿ノ倉は言った。「養蜂家組合も一人だけでは何かあった場合に困るから、予備員として、教えていたのじゃないかな」
「なるほど、そうかもしれません。確かにまったく知らない人がすぐにすぐできる作業ではありませんし、第一どこに巣箱を設置しているか、実際に現場を回って確かめておく必要がありますから。それにしても、ちょっと変わった人たちですね。いえ、悪い意味ではありませんが、何となく不気味です。あんな林の中に小屋を建てて、しかも毎日のように合図をし合っているのですから」
 柿ノ倉が言った。
「その合図を私はあれからずっと研究しているんだよ。ちょうど二階の窓から海全体を見渡すことができるからね。あっ、このことは前にも言ったかな」
「ええ。そのとき僕は確か、何か分かれば教えてほしいと言いました」
 そんな話をしているうちに、軽トラは柿ノ倉の家に到着した。柿ノ倉は自分が釣った魚も青年に持って帰らせることにした。自分で料理できないわけではないが、青年に何かプレゼントしたかったのだ。もっとも青年は、それほど喜びはしなかったが、柿ノ倉の好意を受け取った。
 青年が去った後、柿ノ倉は寒くはないが手をすりながら、ほくほくした気分で玄関に向かった。
 その日の夕飯は、いつものインスタント食品ですませた。そして柿ノ倉は、すぐに二階の書斎に上がった。暮れなずむ内海をぼんやり眺めるのが、柿ノ倉の至福のときであった。実際、これがなければ柿ノ倉がこの家に住む理由はなかった。

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 ところで家族のいない柿ノ倉は、ずっと一人で暮らしてきた。だから、一人でいることには慣れている。が、ふと家族があったらなあと思わないこともない。これまでの人生で二度、結婚というチャンスが目の前にあった。しかし、柿ノ倉はいずれも自分からそれを反古にした。工場勤務で周りから比較的うるさく言われなかったこともあるが、元来孤独が好きで一人暮らしが自分の性格に合っていると昔から自覚していた。子供が欲しいと思ったこともない。ただ、せっかくこの世に生まれて来たからには、自分しかできないことをしてやろう、自分の花を咲かせてやろう、と歳を経るにつれて考えるようになった。小説を書き始めたのもそのためだ。別にプロの作家になるつもりはない。しかし、自分の頭で考えて書いた文章を誰かに読んでもらいたい。大勢の人に読んでもらいたい。そこに自分の存在価値があると思ったのだ。
 すっかり暗くなった海にライトが点滅した。柿ノ倉は思わず身を乗り出した。そのライトが円を描いたりしたことで、あの釣り船に間違いないと柿ノ倉は思った。昼間にやって、また夜間にも合図をするというのは、よっぽどのことだ。養蜂家組合の人も、まだあの崖にいるのだろうか。そのことを確かめてみたかった。しかし、一日中釣りをして心地よい疲労感があったので、とてもそれを実行する元気はなかった。別の日にチャンスはいくらでもあるだろうし。
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 柿ノ倉は、一日中家で過ごすことが多い。それでもほぼ毎日食料を買いに出かけた。それが気晴らしでもあった。海沿いの港町に、ちょっとしたデパートがあり、この食料品売り場でよく買い物をした。佃煮なんかが売っていて、柿ノ倉はそれが好物であった。他にオカズがなくても、佃煮さえあればなんとかなった。漬物の代わりでもある。
 さて、この古いデパートの屋上には、小さな観覧車があった。今は使われていないようだった。ちっぽけな観覧車なので、遠くを見渡すほどのこともないのだろう。柿ノ倉の二階の窓からの方が、よっぽど見晴らしがいい。しかし柿ノ倉は、この屋上にあるベンチで休憩するのが大のお気に入りだった。高い金網のフェンスがあり、そこから町並みや通りを行き交う人々を眺めるのが、楽しみだった。
 このデパートのある商店街の通りはアーケードになっていて、歩行者は見えなかったが、アーケードはこのデパートのところで終わっていた。先にあるフェリー乗り場に向かう道は露天だった。その通りを歩いていたのが、例の養蜂家組合の男だった。よく歩く男だ。歩くのが仕事だと言っていたが、確かにそうなのだろう。しかし、どこへ向かっているのだろう、手に何も持たずに、と思っていると、男は脇道にそれて、いったん家並みに姿を消した。しばらくするとまたずっと向こうの方で姿を現したが、何の躊躇もなく一軒の豪邸に入っていった。この豪邸は、この町の屈指の資産家の家だった。庭に松の大木があり、銘木図鑑にも載っているようだった。

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 この屋敷が、ひょっとするとあの養蜂家組合の篤志家の家かもしれない。だとすれば、男がその家をたずねたのは、しごく当然なことだ。何か用事があったのだろう。昔風のどっしりとした建物で、その裏にも現代的な建物があるようだった。養蜂家組合の男は屋敷の隅を通りその裏側の建物の方に姿を消した。柿ノ倉は、しばらくその屋敷を観察していたが、男が出てくる様子がないので、仕方なくデパートの屋上から退散して、駐車場の方に向かった。そして帰りがけに、その屋敷の前を通ろうと車に乗り込んだ。
 アーケードは歩行者専用道だから、遠回りをして柿ノ倉は、あの屋敷の前の道をゆっくり走らせた。 門のところで車を止めて、表札を見ると空穂坂とあった。ウツボザカと読むのだろうか。そういえば、養蜂家組合の男の名前を柿ノ倉は知らなかった。知らなくても別に困ることはないから聞くこともなかったし、また男の方も自分から名乗ることをしなかった。もしかするとこの屋敷はあの男のものかもしれない。仮に男の屋敷だとすれば、あの崖の小屋からここまで歩くには小一時間ほどかかる。が、健脚なら散歩程度だろう。それに地元の人間なら、近道を知っているはずだ。車で通れない細い路地を歩けば、もっと短縮するだろう。そういえばと柿ノ倉は思った。あの山の中で、散歩の途中まだ一度もあの男と出会ったことがないのだ。あれほど頻繁に散歩をしながら、遭遇しないというのは、柿ノ倉が主に車が通れる広い道を歩くのに対して、男は細い獣道のようなところを歩いているからではないだろうか。あの高台には、細い道、雑草や熊笹に縁どられた道が、いたるところから発生している。柿ノ倉はあまりそういうところに入り込まなかったが、あの男は、そういう細かい道をくまなく知っていて、もっぱらそういう道を歩いているのだろう。なぜならあの男は、この界隈を歩くことに関してはプロだからだ。
 と、後ろから車が来た。それで柿ノ倉は松の大木が偉容を誇るこの屋敷を後にして、自分のネグラに戻った。
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 例によって、柿ノ倉は二階の書斎から眼下に広がる町の明かりを眺めながら、この港町のことを詳しく知りたいと思った。昔は廓もあったほど栄えたところで、今は繊維産業が盛んだが、知っているのはその程度で、それ以上のことは知らなかった。たとえばこの町の権力者は誰なのか、そういうことを知りたかった。どこに何があるのかは地図を見れば分かることだ。それよりも興味があるのは人間の構図である。端的に言えば、空穂坂という変わった苗字は何者なのか、あれほど立派な屋敷を有しているのなら、この町の名家に違いないが、養蜂家組合の男とどうつながりがあるのか、そういったことを知りたかった。それによって、あるいはあの奇妙な組合の構造が分かるような気がした。実際、あの釣り船との交信は、どう考えてもまともなものではない。これだけ携帯電話が普及している中で、あえて懐中電灯で合図をし合うというのは、何か理由があると考えるのが妥当だろう。

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 やはりこの町のことを知るには、地元の図書館へいって郷土の資料を調べるのが一番である。どの図書館にも、たいてい郷土の資料コーナーを設けている。とくにこの町は、古くから港町として栄えた歴史があるわけだから、それ相当の資料があるはずだ。
 図書館へいって調べよう。柿ノ倉は急にわくわくしてきた。これほどわくわくしたのは、久しぶりのことだった。
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 図書館の二階の片隅がこの地方の資料コーナーになっていた。窓際に長椅子が置いてあり、そこに座って柿ノ倉は、書棚の書籍を、手当たり次第に読むことにした。またこのコーナーには、この町の航空写真も展示されていた。例の空穂坂の家を見ると何やら番号が付されていて、その番号の説明を読むと、かつての網元・空穂坂邸、と書かれていた。また、かつての網元はもう一軒あって、それは空穂坂邸とは正反対のところに位置していた。詳しく言えば町の東の外れに空穂坂の屋敷があり、西の外れの方に、もう一つの網元の屋敷があったのだ。ここもかなりの豪邸で、やはり庭に松の大木があった。この両家の松は、遠くの海からでも確認できた。一つの目印となっていたのだろう。そして、この二本の松が、まるで競い合っているかのように天に向かって伸びていたことから、柿ノ倉はこの両家がこの町の権力者で、ライバル関係にあったのではないだろうか、と推測した。因みに、もう一軒のかつての網元は、稲山田邸と書かれていた。
 後になって繊維産業が盛んとなったこの町も、それまでは漁業と海運業が主体であり、船乗りからは廓のある港町として、その名を知られていた。
 柿ノ倉は興味を増した。空穂坂、そして稲山田の名前が出てくる資料を片っ端から集めた。そうして分かったのは、柿ノ倉が先ほど推測したとおり、この両家はライバル関係にあり、昔から事あるごとに争い、些細なことで揉め事を起こしていたことだ。この町は両家を対極として、二分され町の人間はたいていどちらかに属していた。確かに内海という限られた漁場で、漁を生業とするならば、自然とそこに競争が生まれ、小さなことでも比較せざるを得ないのだろう。しかし、それは昔のことであり、今は世代も変わり、業種も違っているはずだ。かつての網元と記されているのが、その証拠である。

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 書棚を調べるうちに、柿ノ倉は、一冊の面白い本を見つけた。それは稲山田家の御子息(次男坊)が書いたエッセーだった。二十代の若者らしいが、稲山田家の成り立ちから、自分の今いる立場、日常の細々としたことが書かれていた。また同じ網元であった空穂坂家とはライバル関係にあり、それは今も続いているとしたうえで、面白いことに自分は空穂坂の娘に恋をして、恋愛関係にまで発展したと赤裸々に綴っていた。二人は学校の同級生だったようだ。誰が読んでもいいエッセーだから、あまり詳しいことは書いていなかったが、将来結婚を誓っていたようだった。ところが、ライバル関係にある両家の親が猛反対をして、二人は駆け落ち寸前にまでいった。結局、空穂坂の娘が飛び降り自殺をして、叶わぬ夢となったが、それ以降、自分は空穂坂家から恨まれ、また稲山田の家にも居づらくなり、裏山の高台にある稲山田の別宅で、一人世捨て人のように暮らしているという。このエッセーはその別宅で書いたらしく、自費出版をして町の図書館に寄贈したのだ。本に寄贈とハンコが押されていた。が、わざわざ自分の恥部を曝け出してまで図書館に寄贈したのには、何かわけがあったに違いないと、柿ノ倉は思った。そこで柿ノ倉は、再び推理を働かせた。━━━━この本には、稲山田の成り立ちや、かつての網元の暮らしぶりが紹介されていた。それは網元の子孫として、何も問題はない。問題なのは空穂坂の娘との色恋沙汰である。とくに娘の自殺は、醜聞以外の何ものでもないだろう。そしてそのことは、この町の人にとっては周知の事実だったに違いない。懺悔の気持ちがあったのかもしれない。後悔して、今は、修行僧のように一人で暮らしていますよ、ということを世間に知らせたかったのかもしれない。しかし、と柿ノ倉は考えた。空穂坂の娘は、ひょっとすると自殺ではなかったのではないだろうか。もちろん、根拠があるわけではない。それと、さっきから気になっていたのだが、稲山田家の裏山の高台というのは、つまり柿ノ倉の住む高台のことある。航空写真でそれと分かったのだが、では別宅というのはどこにあるのだろうか、柿ノ倉の住んでいる家以外は、まったく見当たらないのだ。そういえば、前に住んでいた人間が、やはり独身の若者だったが、もしかするとその若者が稲山田の息子だったのだろうか。世捨て人のように暮らしていたというのが、何となく当てはまるような感じがした。であれば、養蜂家組合の男が何か知っているかもしれない。あの男は、最初にこの家を訪れ蜜蜂の巣箱を置いていったのだ。その際、契約書にサインするわけだし、あの男が空穂坂の人間なら、知らないはずがない。もっとも単なる使用人であれば、知らないかもしれないが、あの釣り船との奇妙な交信は、どうも稲山田と何か関係がありそうな気が柿ノ倉はして仕方なかった。因みに、稲山田邸は、あの崖の斜め下にあるのだ。

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