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 この港町にはアーケードと露天の商店街があり、柿ノ倉はその両方を日替わりで、あてもなくぶらつくのが好きだったが、その日は露天の方を選んだ。すると偶然、某レストランから、養蜂家組合の男が、ひょっくり出てきたのにかち合わせた。男は、柿ノ倉に気づいてニコッと会釈したが、何も言わなかった。しかし、いつもの低い物腰である。柿ノ倉も、ニコッと会釈したが、声をかけることはしなかった。このレストランが、この前男が言っていたレストランなのだろう、改めて店の中を覗き込むと、なかなか洒落た店だった。男はここで食事をしたのだろうか、あるいは何かの用事で来たのだろうか、足早に遠ざかっていった。
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 日曜日の早朝、青年が約束の時間に、いつもの軽トラで迎えに来た。柿ノ倉は弁当や飲み物の入ったクーラーボックスをその荷台に載せ、手ぶらで助手席に乗り込んだ。
 船着場に着くと、すでにたくさんの釣り客が集まっていた。間もなく釣り船と陸地に渡し板がかかり、釣竿とクーラーボックスを持った釣り人たちが一斉に乗船した。船の上で、一人ずつ確認をして、料金を払い名簿にサインするシステムだ。その後、船は離岸しゆっくりと沖に向かって進んだ。船頭はもと漁師で、この海域に熟知している。青年は、すでに人からそのことを聞いて知っていた。潮の流れによって魚は移動するから、その流れを読むことが船頭の腕の見せどころであるらしい。
 一番目のポイントのところで、船はエンジンを止めた。柿ノ倉たちは、百円ショップで売っている小さな折りたたみ椅子に腰を下ろした。これは青年が二脚持ってきたのであり、他の釣り人の中にはクーラーボックスを椅子にしている人もいた。
 釣り客は、全部で十数人ほどいたが、連れで来ている者もいれば、一人で来ている者もいた。それぞれ等間隔で釣り糸を垂れていた。船頭は、四十歳くらいのよく日焼けした男でサングラスをしていた。必要以外はあまりしゃべらなかったが、釣り客の方も、常連が多く勝手を知っているので、船頭にたずねることもなかった。もともと釣りというのは孤独を楽しむものだ。魚が掛かるのをじっと待つ、そこに愉悦を感じるのだが、柿ノ倉と青年は、しじゅうしゃべっていた。それは柿ノ倉が、釣りをするのが初めてであり、ちょっとしたことでも興が湧き、またたずねることも多かったからだ。当然、釣竿の扱いに難儀したが、餌は青年が針につけてくれた。 
 柿ノ倉は、釣りに夢中になっているようでいて、じつはたえず船頭の行動に注意していた。それがこの釣り船に乗った目的だから当然なのだが。
 さて、船頭は後方の操舵室にいつもいたが、たまに外に出ては、あの高台の崖の方を見ていた。

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 柿ノ倉も、高台にある自分の家を眺めた。日頃二階の窓から見下ろしている海上から、逆に自分の家を眺めて、あれが自分の終の棲家になるのか、と感慨に耽った。華々しい人生ではなかった。地味で人に語るようなものは何もなかった。といって、後悔しているわけでない。自分に適した生き方をしてきたつもりだ。しかし、ここで一つ自分らしい花を最後に咲かせてみたい、と柿ノ倉は、数年前から思うようになっていた。 二番目のポイントに移動した後、船頭が甲板の方へ出てきたとき、手に大きな懐中電灯を持っていた。いよいよ何かやるな、と柿ノ倉はそれとなく様子をうかがった。青年は釣りに夢中で、気づいていないようだったが、柿ノ倉は黙っていた。船頭に自分たちの思惑を察知されてはいけないからだ。
 船頭は、持っている懐中電灯のスイッチを入れた。この明るいときに明かりは必要ないのだろうが、しかし距離を考えれば、光らせた方が断然分かりやすい。山に向かって円を描くような合図をした。
柿ノ倉は、すぐに腕時計を見た。午前十一時だった。崖の上を見ると、やはりあの養蜂家組合の男が立っていた。そして、同じように懐中電灯で合図を送ってきた。 

 お昼になると釣り船は、とある無人島に横付けされて、柿ノ倉たちは上陸した。ここでしばらく休憩するのだが、弁当を食べた後は、昼寝をしてもいいし、釣りをしてもいい。ここも釣りポイントの一だからだ。
 船頭は一人一人にアンパンやジャムパン、そしてペットボトルのお茶を配った。もちろん釣り客は、自らも弁当を持ってきているが、これはこの釣り船のサービスの一つだった。釣り船のオーナーは、例の養蜂家組合の篤志家でもある。社会に対して何かしら奉仕をしないでは気がすまないのだろう。余ったパンは釣り客に持ち帰らせた。
 さて船頭も、島に上がって弁当を食べたので、このチャンスにと柿ノ倉はそばに近づいた。そして話しかけた。船頭はサングラスをした目で、おやっという感じで柿ノ倉を見た。右頬に傷があり、少し怖い人相であったことで、めったに話しかけられたことがなかったのだろう。しかし、柿ノ倉の質問に、ちゃんと答えてくれた。それで分かったのは、船頭は、釣り船のオーナーが経営している知的障害者の施設でいつもは働いていて、土曜日曜祝日、そして平日でも予約が入った日は、釣り船の船頭をしているということだった。柿ノ倉は、平日に釣り客も無しに船を出すことはあるのかと、聞いてみたかったが、それをすると船頭は怪しむだろうから、黙っていた。
「ところで」と柿ノ倉は言った。「この釣り船のオーナーは養蜂家組合というのをされているようだが……」
 すると船頭は、再びおやっという感じで横にいる柿ノ倉を見た。

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「ええ。よく知っていますね。多角経営というのか、手広く何でもやっていますよ。もっとも養蜂家組合は慈善事業のようなもので、儲けはとくに無いようですが。知的障害者の施設も、我が子のためにしているだけで、儲けなどは考えていないのです。私もその施設で長いこと働いていますが、まったく大した人物ですよ、社長は」
「じつは私も養蜂家組合のメンバーなんだがね」
 と柿ノ倉が言うと、船頭は弁当を食べる手をとめて、柿ノ倉の顔をじっと見た。
「そうですか。それは良いことをされています。日本古来からいる日本蜜蜂を絶滅の危機から救い出すというのが、この組合の趣旨です。皆さんの協力で成り立っているのです」
 ブルーベリーの青年が、いつの間にか柿ノ倉の横に来て、そして、柿ノ倉に「あの話をしてみませんか」と言った。
 柿ノ倉は、すぐにピンときて、うなずいた。それは例の合図のことだ。養蜂家組合の男が自ら話したことなので、言っても差支えがないだろうと船頭に、「ところで、これはその養蜂家組合の人が話をしてくれたのだが、なんでもこの釣り船と崖の上の組合の人と何か合図を取り合っているそうじゃないかね?」
 すると船頭は、今度は驚愕した。
「あの人がそう言いましたか。まいりましたな。これは秘密だったのですが……」
 このとき青年が口を開いた。
「じつはあの山は僕とこの山でして、断りもなしに小屋を建てていたことから、自然とそういう話になったのです。なぜここに小屋を建てたのか。するとあの崖の上から、この海を見晴らすためだと言われたのです。なるほど、ここからでもあの崖がよく見えます。さらにその目的は、この釣り船と合図を取り交わすことだと言いました」
「最前、午前十一時頃だったが、あなたは懐中電灯を持ち、あの山に向かって何か合図をしたようだが……」と柿ノ倉は言った。
 船頭はハハハと笑った。「まるで尋問みたいですね。ええ、確かに連絡を取り合っています。しかし、それ以上は何も言えません。あの人も言っていないのでしょう。だから私も言えません」
 柿ノ倉は、あえてそれ以上は聞かなかった。船頭の人柄が観察できただけでも大きな収穫があった。
 時間が来て、釣り客は再び乗船した。後半の釣りポイントに向かって船は移動した。
 そのポイントで船は停止して、しばらくして、船頭はやはり手に懐中電灯を持って甲板に出て来た。今度は青年も気づいて、それを見ていた。船頭は、柿ノ倉たちにちょっと視線を投げかけたが、ひるむことなく山に向かって合図を出した。柿ノ倉は腕時計を見た。午後三時だった。

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 崖の方を注目すると、養蜂家組合の男も、懐中電灯で円を描いたりしていた。かなり遠い距離だったが、ライトをつけているので、すぐに分かった。懐中電灯を小旗の代わりにするのなら、その振り方で、意味が違ってくるのではないだろうか、と柿ノ倉は考えた。たとえば、Zであったり四角であったり、あるいはバッテンや三角、縦、横といった具合に。今の時代携帯電話があるのだから、こんな原始的な方法で連絡を取り合う必要はないのだ。だからこれは単なる合図ではない。ひょっとすると誰かに見せるためにしているのではないだろうか、と柿ノ倉は考えたが、じつは以前からそう思っていたのだ。──だが、いったい誰に……。柿ノ倉はますます興味が湧いてきた。年金生活者の柿ノ倉にとって、今回の釣り船料金は決して安いものではなかったが、しかし、今後の楽しみを考えれば、むしろ安い料金だったと言えなくもない。小説の格好のネタになるではないか。人付き合いもなく、決まったところしかいかない柿ノ倉にとっては、書ける事柄は限られていた。今回の件は十分にミステリーの資格があるだろう。この素材をどう料理しようか、柿ノ倉はもう腕がむずむずしていた。
 五時過ぎ、釣り船はもとの波止場に帰着した。釣果の方は、初心者の柿ノ倉が、名も知らない小魚を数匹釣っただけに対して、青年の方はベテランだけに、そこそこの釣果があるようだった。
下船の際、船頭は一人一人に頭を下げたが、柿ノ倉と青年に対しては、それだけでなく、意味深な笑みを浮かべた。
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 軽トラを運転しながら、青年は言った。「どうも僕には解せませんね」
「解せないというのは、この私も同じだが、君の言う解せないというのは、やはりあの合図のことかね?」
「いえ、確かにそれもありますが、じつは僕はあの船頭さんを知っているのです。さっき思い出したのですが、あの人は一度、僕のイチゴハウスに来たことがあるのです。この前、養蜂家組合の人と話をしたときに、車に乗って来られたという話をしましたが、その運転手があの船頭さんだったように思います。あのときはサングラスをしていませんでしたから、すぐに気づきませんでしたが、顔の横にある傷で分かったのです。しかしそれも、養蜂家組合の人と合図を取り合っているという話を知らなければ、おそらくずっと気づかないままでいたでしょう」
「で、そのとき彼らは君のイチゴハウスに何をしに来たのかね?」

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「もちろん蜜蜂の様子を見に来たのです。でもいつもは一人で来られるわけですから、実際のところはよく分かりません。こちらも尋ねる理由もありません。で僕は彼らの様子を見ていたのですが、あの養蜂家組合の人がハウスの隅で片手をぐるっとさせると、ハウス中にいた蜜蜂が一斉にあの人の方に集まってきました。すごいもんだなあと感心していると、今度は船頭さんの方が巣箱を開けて、中の様子を確認していました。二人ともネットを被っていませんから、いつもの人が蜜蜂を自分の体に集めて、船頭さんの作業をし易くしたのでしょう。僕はハチミツを採取するのかと思いましたが、そうではありませんでした。聞いた話では、普通の養蜂業者は、遠心分離機を使ってハチミツを採取するようですが、ここはヘラでハチミツを瓶に入れます。しかし、このときは点検だけでした。イチゴハウスは三棟あるのですが、三棟とも同じようなことをして、帰っていきました」
「それはたぶん見習いだったかもしれんね」と柿ノ倉は言った。「養蜂家組合も一人だけでは何かあった場合に困るから、予備員として、教えていたのじゃないかな」
「なるほど、そうかもしれません。確かにまったく知らない人がすぐにすぐできる作業ではありませんし、第一どこに巣箱を設置しているか、実際に現場を回って確かめておく必要がありますから。それにしても、ちょっと変わった人たちですね。いえ、悪い意味ではありませんが、何となく不気味です。あんな林の中に小屋を建てて、しかも毎日のように合図をし合っているのですから」
 柿ノ倉が言った。
「その合図を私はあれからずっと研究しているんだよ。ちょうど二階の窓から海全体を見渡すことができるからね。あっ、このことは前にも言ったかな」
「ええ。そのとき僕は確か、何か分かれば教えてほしいと言いました」
 そんな話をしているうちに、軽トラは柿ノ倉の家に到着した。柿ノ倉は自分が釣った魚も青年に持って帰らせることにした。自分で料理できないわけではないが、青年に何かプレゼントしたかったのだ。もっとも青年は、それほど喜びはしなかったが、柿ノ倉の好意を受け取った。
 青年が去った後、柿ノ倉は寒くはないが手をすりながら、ほくほくした気分で玄関に向かった。
 その日の夕飯は、いつものインスタント食品ですませた。そして柿ノ倉は、すぐに二階の書斎に上がった。暮れなずむ内海をぼんやり眺めるのが、柿ノ倉の至福のときであった。実際、これがなければ柿ノ倉がこの家に住む理由はなかった。

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