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 青年は一階の趣味本のある書棚を真剣に眺めていた。柿ノ倉は近づいて、「やあ!」と声をかけた。すると、青年はギョッとしたように振り向いた。柿ノ倉の姿を認めると、「驚きましたよ、こんなところで人から声をかけられたことがないものですから」と言った。
「君もよくここに来るのかね?」と柿ノ倉は聞いた。
「たまにですが、今日は釣りの本を借りに来たのです」
「ほう、君は釣りをするのかね?」
「ええ。川釣りですが。しかし、せっかく近くに海があるのですから、海釣りもいいかなと思いまして、食料にもなるし一石二鳥ですし」
「なるほど、それはいいね。私も定年退職をして、これから暇を持て余すことになるので、釣りでも趣味に持とうかなと考えたこともあるんだが……」
「じゃあ今度一緒に釣りに行きませんか──」
 柿ノ倉は笑いながら、「いや釣竿もまだ持っていないし、それに釣竿は高いのだろう」
 年金生活者になってから、柿ノ倉は以前にもまして倹約家になっていた。
「安いのもありますよ。なんなら僕のを貸してあげましょう。二、三本持っていますから。それより船賃の方がけっこうかかりますけどね」
「じゃあ何、釣り船に乗って釣りをする気かね」
「ええ──もちろん堤防から釣りをすることもできますが、しかし僕はこの前のことで、一度あの船に乗ってみようと思っているのです」
「あの船……」柿ノ倉は言った。「養蜂家組合の人が話していた釣り船のことかね」
「そうです。あれから僕は、ずっとそのことが気になっていまして──誰でもそうでしょう。自分とこの所有地で他人が何かコソコソやっていたら、何をしているのかと気になるものです。それと僕は磯釣りはあるのですが、船釣りはないので、一度やってみたいと思っていたのです。ちょうどいい機会だと思って」
 柿ノ倉はうなずいた。百聞は一見にしかずと言うが、あの船に乗らずして、あの船のことを知ろうというのがどだい無理なことなのだ。
「船代は高いのかね?」やはり金額が気になる柿ノ倉であった。
「四、五千円はかかるようですが、時間を考えれば妥当だと思いますよ。途中で島に上がって休憩できるようです。また、以前乗ったことのある人から聞いた話では、お昼に飲み物とパンなどが出されるようです」
「ほう、それはなかなかサービスがいいね。じゃあぜひ一緒に行こうじゃないかね」
「ええ、平日が空いていますが、しかし平日は五名以上でないと船は出ないようですから、メンバーを増やすか、それとも土曜日曜の込んだ日を選ぶかです」
 柿ノ倉は何曜日でも良かった。毎日が日曜日のようなものだから。

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「君の都合のいい日でいいよ。で、釣竿は貸してくれるかね」
「お貸しします。では今度の日曜日ということにしましょう。わいわいやる方が面白いですから」
 農業青年には珍しく社交性のある男だと、柿ノ倉は思いながら、「前日に、電話で何時頃その波止場に着けばいいのか教えてくれるかね」と言って携帯の電話番号を青年に教えた。
「当日は僕があなたの家までお迎えに行きますから、その時刻までに準備を整えていてください。他所から来られて間がないあなたに、あの波止場は分かりづらいでしょうから」
「それはかたじけない。助かるよ」
「それにパンが出るといっても、一つでしょうから、弁当もご自分でご用意していてくださいね」
「もちろんそうするよ。なんだかピクニックにいくようで、わくわくしてきたよ」
 青年は微笑を浮かべた。
 柿ノ倉は、二つの期待で胸が膨らんでいたが、それはいつも眺めている方向とは、真逆から自分の家を眺めることができるということと、船頭の合図が何を意味しているのか、分かるのではないかという期待からだった。
 青年は一冊の本を書棚から抜き取ると、その本をペラペラっとめくり(写真の一杯載った海釣りに関する本だった)「この本が良さそうだね」と言って、「じゃあ僕はこれで失礼します。──今度の土曜日にお電話しますから」と、貸出のカウンターの方へ歩いていった。
 柿ノ倉は、思いがけず青年と会って話ができ、あの釣り船のことを研究する機会を得たことで、あの青年は、ひょっとすると自分にとってラッキーボーイかもしれない、と思った。なぜなら、ブルーベリーのことといい、あの養蜂家組合のことといい、さらに釣り船のことといい、彼がいなければ、このままずっと知らないままで終わったかもしれないからだ。
 因みに、その棚にある釣りの本を、柿ノ倉は手に取ってめくってみたが、やはり自分には推理小説の方がいい。釣りは今度の釣り船だけにしておこうと思った。生き物を殺すことが好きではないうえに、けっこう面倒臭がり屋だからだ。
 この後柿ノ倉は、文芸書の棚で、二、三冊本を抜くとそれを閲覧席で読んだ。柿ノ倉は、パチンコもギャンブルもしなかったが、ただ読書に関しては時間を惜しまなかった。読書に勝る娯楽はない、これが柿ノ倉の信条であり、自分でも小説を書いている。プロの作家が、どのような文書を書いているのか、それを研究するためにも本を読む必要があったのだ。
 さて、この図書館の帰りに、どこかの店に寄って、惣菜を買うのが柿ノ倉のいつものコースだった。

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 この港町にはアーケードと露天の商店街があり、柿ノ倉はその両方を日替わりで、あてもなくぶらつくのが好きだったが、その日は露天の方を選んだ。すると偶然、某レストランから、養蜂家組合の男が、ひょっくり出てきたのにかち合わせた。男は、柿ノ倉に気づいてニコッと会釈したが、何も言わなかった。しかし、いつもの低い物腰である。柿ノ倉も、ニコッと会釈したが、声をかけることはしなかった。このレストランが、この前男が言っていたレストランなのだろう、改めて店の中を覗き込むと、なかなか洒落た店だった。男はここで食事をしたのだろうか、あるいは何かの用事で来たのだろうか、足早に遠ざかっていった。
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 日曜日の早朝、青年が約束の時間に、いつもの軽トラで迎えに来た。柿ノ倉は弁当や飲み物の入ったクーラーボックスをその荷台に載せ、手ぶらで助手席に乗り込んだ。
 船着場に着くと、すでにたくさんの釣り客が集まっていた。間もなく釣り船と陸地に渡し板がかかり、釣竿とクーラーボックスを持った釣り人たちが一斉に乗船した。船の上で、一人ずつ確認をして、料金を払い名簿にサインするシステムだ。その後、船は離岸しゆっくりと沖に向かって進んだ。船頭はもと漁師で、この海域に熟知している。青年は、すでに人からそのことを聞いて知っていた。潮の流れによって魚は移動するから、その流れを読むことが船頭の腕の見せどころであるらしい。
 一番目のポイントのところで、船はエンジンを止めた。柿ノ倉たちは、百円ショップで売っている小さな折りたたみ椅子に腰を下ろした。これは青年が二脚持ってきたのであり、他の釣り人の中にはクーラーボックスを椅子にしている人もいた。
 釣り客は、全部で十数人ほどいたが、連れで来ている者もいれば、一人で来ている者もいた。それぞれ等間隔で釣り糸を垂れていた。船頭は、四十歳くらいのよく日焼けした男でサングラスをしていた。必要以外はあまりしゃべらなかったが、釣り客の方も、常連が多く勝手を知っているので、船頭にたずねることもなかった。もともと釣りというのは孤独を楽しむものだ。魚が掛かるのをじっと待つ、そこに愉悦を感じるのだが、柿ノ倉と青年は、しじゅうしゃべっていた。それは柿ノ倉が、釣りをするのが初めてであり、ちょっとしたことでも興が湧き、またたずねることも多かったからだ。当然、釣竿の扱いに難儀したが、餌は青年が針につけてくれた。 
 柿ノ倉は、釣りに夢中になっているようでいて、じつはたえず船頭の行動に注意していた。それがこの釣り船に乗った目的だから当然なのだが。
 さて、船頭は後方の操舵室にいつもいたが、たまに外に出ては、あの高台の崖の方を見ていた。

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 柿ノ倉も、高台にある自分の家を眺めた。日頃二階の窓から見下ろしている海上から、逆に自分の家を眺めて、あれが自分の終の棲家になるのか、と感慨に耽った。華々しい人生ではなかった。地味で人に語るようなものは何もなかった。といって、後悔しているわけでない。自分に適した生き方をしてきたつもりだ。しかし、ここで一つ自分らしい花を最後に咲かせてみたい、と柿ノ倉は、数年前から思うようになっていた。 二番目のポイントに移動した後、船頭が甲板の方へ出てきたとき、手に大きな懐中電灯を持っていた。いよいよ何かやるな、と柿ノ倉はそれとなく様子をうかがった。青年は釣りに夢中で、気づいていないようだったが、柿ノ倉は黙っていた。船頭に自分たちの思惑を察知されてはいけないからだ。
 船頭は、持っている懐中電灯のスイッチを入れた。この明るいときに明かりは必要ないのだろうが、しかし距離を考えれば、光らせた方が断然分かりやすい。山に向かって円を描くような合図をした。
柿ノ倉は、すぐに腕時計を見た。午前十一時だった。崖の上を見ると、やはりあの養蜂家組合の男が立っていた。そして、同じように懐中電灯で合図を送ってきた。 

 お昼になると釣り船は、とある無人島に横付けされて、柿ノ倉たちは上陸した。ここでしばらく休憩するのだが、弁当を食べた後は、昼寝をしてもいいし、釣りをしてもいい。ここも釣りポイントの一だからだ。
 船頭は一人一人にアンパンやジャムパン、そしてペットボトルのお茶を配った。もちろん釣り客は、自らも弁当を持ってきているが、これはこの釣り船のサービスの一つだった。釣り船のオーナーは、例の養蜂家組合の篤志家でもある。社会に対して何かしら奉仕をしないでは気がすまないのだろう。余ったパンは釣り客に持ち帰らせた。
 さて船頭も、島に上がって弁当を食べたので、このチャンスにと柿ノ倉はそばに近づいた。そして話しかけた。船頭はサングラスをした目で、おやっという感じで柿ノ倉を見た。右頬に傷があり、少し怖い人相であったことで、めったに話しかけられたことがなかったのだろう。しかし、柿ノ倉の質問に、ちゃんと答えてくれた。それで分かったのは、船頭は、釣り船のオーナーが経営している知的障害者の施設でいつもは働いていて、土曜日曜祝日、そして平日でも予約が入った日は、釣り船の船頭をしているということだった。柿ノ倉は、平日に釣り客も無しに船を出すことはあるのかと、聞いてみたかったが、それをすると船頭は怪しむだろうから、黙っていた。
「ところで」と柿ノ倉は言った。「この釣り船のオーナーは養蜂家組合というのをされているようだが……」
 すると船頭は、再びおやっという感じで横にいる柿ノ倉を見た。

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「ええ。よく知っていますね。多角経営というのか、手広く何でもやっていますよ。もっとも養蜂家組合は慈善事業のようなもので、儲けはとくに無いようですが。知的障害者の施設も、我が子のためにしているだけで、儲けなどは考えていないのです。私もその施設で長いこと働いていますが、まったく大した人物ですよ、社長は」
「じつは私も養蜂家組合のメンバーなんだがね」
 と柿ノ倉が言うと、船頭は弁当を食べる手をとめて、柿ノ倉の顔をじっと見た。
「そうですか。それは良いことをされています。日本古来からいる日本蜜蜂を絶滅の危機から救い出すというのが、この組合の趣旨です。皆さんの協力で成り立っているのです」
 ブルーベリーの青年が、いつの間にか柿ノ倉の横に来て、そして、柿ノ倉に「あの話をしてみませんか」と言った。
 柿ノ倉は、すぐにピンときて、うなずいた。それは例の合図のことだ。養蜂家組合の男が自ら話したことなので、言っても差支えがないだろうと船頭に、「ところで、これはその養蜂家組合の人が話をしてくれたのだが、なんでもこの釣り船と崖の上の組合の人と何か合図を取り合っているそうじゃないかね?」
 すると船頭は、今度は驚愕した。
「あの人がそう言いましたか。まいりましたな。これは秘密だったのですが……」
 このとき青年が口を開いた。
「じつはあの山は僕とこの山でして、断りもなしに小屋を建てていたことから、自然とそういう話になったのです。なぜここに小屋を建てたのか。するとあの崖の上から、この海を見晴らすためだと言われたのです。なるほど、ここからでもあの崖がよく見えます。さらにその目的は、この釣り船と合図を取り交わすことだと言いました」
「最前、午前十一時頃だったが、あなたは懐中電灯を持ち、あの山に向かって何か合図をしたようだが……」と柿ノ倉は言った。
 船頭はハハハと笑った。「まるで尋問みたいですね。ええ、確かに連絡を取り合っています。しかし、それ以上は何も言えません。あの人も言っていないのでしょう。だから私も言えません」
 柿ノ倉は、あえてそれ以上は聞かなかった。船頭の人柄が観察できただけでも大きな収穫があった。
 時間が来て、釣り客は再び乗船した。後半の釣りポイントに向かって船は移動した。
 そのポイントで船は停止して、しばらくして、船頭はやはり手に懐中電灯を持って甲板に出て来た。今度は青年も気づいて、それを見ていた。船頭は、柿ノ倉たちにちょっと視線を投げかけたが、ひるむことなく山に向かって合図を出した。柿ノ倉は腕時計を見た。午後三時だった。

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