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 今度は青年が言った。
「ですが歩いて回っていたのでは、行動範囲が限られてくるでしょう」
「ええ。しかしわたくしには、ありがたいことに社長の部下が必要なときに手伝ってくれます。遠くにいくときは車に乗せてもらっています。たとえばホームセンターとか、手に持って帰れないものを買ったときです。ですから、何も困ることはありません」
「そうでしたか。いつも歩いて来られて大変だなあと感心していましたが……そういえば、一度車に乗って来られたことがありましたね。車を運転していた人が、その会社の人ですか?」
「いえ、あの人は違います」と男は言ったまま言葉を閉じた。青年も、あえてそれ以上たずねなかったが、何かまずいことを言ったのかなあ、と気になって、話を変えた。「確かにホームセンターから比べれば、僕の家などは散歩程度の距離でしょう」
 すると男は、声を出さない変な笑い方をしたが、その薄気味の悪い笑顔を見て、柿ノ倉はまた自分の家の前の住人のことを思い出した。軒で首を吊った男のことだ。
で、柿ノ倉は言った。
「ところで、あなたがここに小屋を建てたのは、いつ頃のことかね?」
「もう五、六年は経つでしょうね」
 前の住人が自殺したのが五年前だから、男は前の住人を知っているかもしれない。そう思って柿ノ倉は聞いた。
「じゃあ私があの家に住む前の住人を知っているかね?」
「よく知っていますよ。と言いますのも、わたくしがこの仕事をしだして、最初に訪問した家だからです。快く承諾してくれましたよ」
「若者だと不動産屋から聞いたが、どんな感じだったかね?」
「……ちょっと変わった感じで、あまりしゃべらない人でした。いつも何か考え事をしているように顔をしかめていましたね」
「自殺をしたというのは知っているかね?」
「知っているもなにもわたくしが第一発見者ですよ。巣箱の点検に来て、軒であの方が首を吊っておられたので、驚きましたよ」
「なぜ自殺したかは分からないよね?」
「悩み事があったのでしょうが、わたくしには分かりません。とにかくあまりしゃべらない人でしたから。わたくしとしても養蜂家組合のメンバーを失って悲しみましたよ。最初の契約者でしたから、なおさらです。蜂の巣箱も持ち帰りました。いえ、あの方に家族がおられれば、継続できるのですが、独り身でしたから勝手に置くわけにはいかないのです。その辺はきっちりしています」
 このとき青年は、ぶっと息を吐いた。蜂の巣箱を勝手に置けないと言いながら、自分の土地には勝手に小屋を建てているではないかと思ったのだ。

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 柿ノ倉は、ふと前の住人はひょっとするとこの男に見せるために、軒で首を吊ったのではないか、と考えたが、それは不動産屋が家の中では発見されないと思ったからでしょう、と言った言葉を思い出したからだ。もちろん、根拠があるわけではない。
 それにしても養蜂家組合は、なんと不思議な存在だろうか。表向きは、つまり行いはどう考えても善である。しかし、どこか腑に落ちないところが柿ノ倉にはあった。それはまず自分の家のすぐ近くに、しかもとんでもない場所に拠点があるということだ。が、それは今、男が説明をしたことによって、多少納得できた。納得できないのは、男が言った釣り船の合図である。まるで推理小説のようではないか。しかし、それもミステリー好きの柿ノ倉にとっては、決して嫌なことではない。むしろ楽しみが増えたと喜んでさえいた。──柿ノ倉は昼夜を問わず二階の窓から海を眺めている。今まで、ただ美しいだけの風景だったのが、今後それにミステリーの要素が加わったのだ。男の話が本当かどうか、期待しながら暮らせるではないか。そういえば、以前ライトをこちらに向けて点滅させたり、円を描くようにぐるぐる回したりしていた船があったことを柿ノ倉は思い出した。変だなあ、たぶん漁師が遊んでいるのだろうと、そのときは思ったが、男の話を聞いて、考えを改める必要が出てきた。あれが合図なら、いったい何を知らせていたのだろう。男が言った、船の居場所は、嘘に決まっている。きっと何か重要なことを知らせているのだ。その何かを柿ノ倉は研究してみようと心に決めた。
 さて、柿ノ倉と青年は、養蜂家組合の男の話に一応満足した。もちろん理解できない部分があったことはあったが、男が終始低姿勢であったことで、これ以上追求するのも気の毒になり、別れを告げて、その場を去った。
 そうして柿ノ倉の家の庭に戻った二人は、その理解できない部分を話し合った。
「しかし、あの人の話しは本当なんですかねえ?」と青年が言った。「釣り船から合図があるというのは──」
 柿ノ倉はそれに答えた。
「前に一度、いや、あるいは二回ぐらい私はそういうのを見たように思う。──ライトをこの高台に向けて点滅させたり、ぐるぐる回したりするのをね。だから私は、今後そういう船を注意して観察してやろうと思っているのだよ。じつを言うと私は昔からこういう謎ものが好きでね。自分でもミステリーを書いているんだよ」
「へえーそうでしたか。で、もし何か分かれば僕に教えてください。ここは僕の椎茸山に近いので、そのついでに寄るかもしれませんから。──今日はもう遅いので椎茸の原木は見ないで帰るつもりです」
「ああ、いつでも来られたらいい。君はこの近辺に詳しいだろうから、私も君の話を聞いていろいろ参考にしたいし」

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「ええ、何でも聞いてください。僕としても話をする相手がこの山にいるというのは、とてもうれしいことです。もともと人としゃべるのが大好きなのですが、しかし残念なことに、今の時代農業をする青年が少なくて、僕の話し相手になってくれる人があまりいないのです。ブルーベリーの苗木をみなさんにお分けしているのも、じつは話し相手を求めて、というのも一つにはあるのです」
 青年は、軽トラに乗り込むと、エンジンを掛けた。
 なかなかの好青年だと柿ノ倉は思いながら、去っていく軽トラを見送った。
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 柿ノ倉は、すでに述べたように昼夜を問わず暇があれば、二階の窓から眼下の内海を見渡すのだが、確かに頻繁に見かける釣り船が一艘あった。双眼鏡で見れば、男が言ったよう甲板の真ん中に低い屋根があり、これは炎天下のときだけではなく、突然の雨が降ったときの避難場所にもなるのだろうが、他にそのような船はないから、この船に間違いないようであった。そしてそれは、以前ライトの明かりを点滅させた船と同じものであると柿ノ倉は確信した。
 船の上には誰もいなかった。平日だから釣り客はいなかったのだろうが、では何のために海に出ているのだろうか。やはり何かのメッセージを山に向かって発するためなのだろうか。
 やがて、船の後方にある操舵室から帽子をかぶりサングラスをした男が現れた。男は手に何か持っていた。それは大きめの懐中電灯で、それをこちらの方角に向けて点滅させたり、振り回したりしていた。養蜂家組合の男も、崖のところにいて、それを見ているに違いない。その様子を想像して、柿ノ倉は今更ながら、あの合図は船の位置を知らせるためではないと確信した。なぜなら、船の位置など、崖の上から見れば一目瞭然だからだ。養蜂家組合の男は何か秘密を隠している。他人には教えることができない何かを。しかしそれは、真っ当なものではなく、犯罪に関するものではないだろうか、と考えるのは、柿ノ倉が推理小説を読んでいるせいなのだろうか。養蜂家組合という慈善事業のようなことをしている人が、その陰で犯罪に手を染めている、という考えを柿ノ倉は極力したくなかった。しかし、世の中はカモフラージュである。実力のない者が実力のあるフリをしたり、悪人が善人のフリをすることは世の習いである。ひょっとするとこの養蜂家組合というのも、世を忍ぶ仮の姿で、本来の目的は他にあるのではないだろうか。
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 言うまでもないが、柿ノ倉は独り身だから、毎日の食料は自分で買いに出かけなければならなかった。外で食べることは滅多にないが、海沿いの町のスーパーにはよく買いにいった。またこの町には図書館があり、ここも柿ノ倉のお気に入りの場所だったが、なんとこの図書館で、柿ノ倉はあの青年とばったり出くわしたのだ。あの青年とは、もちろんブルーベリーの彼だ。図書館の駐車場にどこかで見たような軽トラが置いてあるなと思っていたが、やはり彼の車だった。

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 青年は一階の趣味本のある書棚を真剣に眺めていた。柿ノ倉は近づいて、「やあ!」と声をかけた。すると、青年はギョッとしたように振り向いた。柿ノ倉の姿を認めると、「驚きましたよ、こんなところで人から声をかけられたことがないものですから」と言った。
「君もよくここに来るのかね?」と柿ノ倉は聞いた。
「たまにですが、今日は釣りの本を借りに来たのです」
「ほう、君は釣りをするのかね?」
「ええ。川釣りですが。しかし、せっかく近くに海があるのですから、海釣りもいいかなと思いまして、食料にもなるし一石二鳥ですし」
「なるほど、それはいいね。私も定年退職をして、これから暇を持て余すことになるので、釣りでも趣味に持とうかなと考えたこともあるんだが……」
「じゃあ今度一緒に釣りに行きませんか──」
 柿ノ倉は笑いながら、「いや釣竿もまだ持っていないし、それに釣竿は高いのだろう」
 年金生活者になってから、柿ノ倉は以前にもまして倹約家になっていた。
「安いのもありますよ。なんなら僕のを貸してあげましょう。二、三本持っていますから。それより船賃の方がけっこうかかりますけどね」
「じゃあ何、釣り船に乗って釣りをする気かね」
「ええ──もちろん堤防から釣りをすることもできますが、しかし僕はこの前のことで、一度あの船に乗ってみようと思っているのです」
「あの船……」柿ノ倉は言った。「養蜂家組合の人が話していた釣り船のことかね」
「そうです。あれから僕は、ずっとそのことが気になっていまして──誰でもそうでしょう。自分とこの所有地で他人が何かコソコソやっていたら、何をしているのかと気になるものです。それと僕は磯釣りはあるのですが、船釣りはないので、一度やってみたいと思っていたのです。ちょうどいい機会だと思って」
 柿ノ倉はうなずいた。百聞は一見にしかずと言うが、あの船に乗らずして、あの船のことを知ろうというのがどだい無理なことなのだ。
「船代は高いのかね?」やはり金額が気になる柿ノ倉であった。
「四、五千円はかかるようですが、時間を考えれば妥当だと思いますよ。途中で島に上がって休憩できるようです。また、以前乗ったことのある人から聞いた話では、お昼に飲み物とパンなどが出されるようです」
「ほう、それはなかなかサービスがいいね。じゃあぜひ一緒に行こうじゃないかね」
「ええ、平日が空いていますが、しかし平日は五名以上でないと船は出ないようですから、メンバーを増やすか、それとも土曜日曜の込んだ日を選ぶかです」
 柿ノ倉は何曜日でも良かった。毎日が日曜日のようなものだから。

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「君の都合のいい日でいいよ。で、釣竿は貸してくれるかね」
「お貸しします。では今度の日曜日ということにしましょう。わいわいやる方が面白いですから」
 農業青年には珍しく社交性のある男だと、柿ノ倉は思いながら、「前日に、電話で何時頃その波止場に着けばいいのか教えてくれるかね」と言って携帯の電話番号を青年に教えた。
「当日は僕があなたの家までお迎えに行きますから、その時刻までに準備を整えていてください。他所から来られて間がないあなたに、あの波止場は分かりづらいでしょうから」
「それはかたじけない。助かるよ」
「それにパンが出るといっても、一つでしょうから、弁当もご自分でご用意していてくださいね」
「もちろんそうするよ。なんだかピクニックにいくようで、わくわくしてきたよ」
 青年は微笑を浮かべた。
 柿ノ倉は、二つの期待で胸が膨らんでいたが、それはいつも眺めている方向とは、真逆から自分の家を眺めることができるということと、船頭の合図が何を意味しているのか、分かるのではないかという期待からだった。
 青年は一冊の本を書棚から抜き取ると、その本をペラペラっとめくり(写真の一杯載った海釣りに関する本だった)「この本が良さそうだね」と言って、「じゃあ僕はこれで失礼します。──今度の土曜日にお電話しますから」と、貸出のカウンターの方へ歩いていった。
 柿ノ倉は、思いがけず青年と会って話ができ、あの釣り船のことを研究する機会を得たことで、あの青年は、ひょっとすると自分にとってラッキーボーイかもしれない、と思った。なぜなら、ブルーベリーのことといい、あの養蜂家組合のことといい、さらに釣り船のことといい、彼がいなければ、このままずっと知らないままで終わったかもしれないからだ。
 因みに、その棚にある釣りの本を、柿ノ倉は手に取ってめくってみたが、やはり自分には推理小説の方がいい。釣りは今度の釣り船だけにしておこうと思った。生き物を殺すことが好きではないうえに、けっこう面倒臭がり屋だからだ。
 この後柿ノ倉は、文芸書の棚で、二、三冊本を抜くとそれを閲覧席で読んだ。柿ノ倉は、パチンコもギャンブルもしなかったが、ただ読書に関しては時間を惜しまなかった。読書に勝る娯楽はない、これが柿ノ倉の信条であり、自分でも小説を書いている。プロの作家が、どのような文書を書いているのか、それを研究するためにも本を読む必要があったのだ。
 さて、この図書館の帰りに、どこかの店に寄って、惣菜を買うのが柿ノ倉のいつものコースだった。

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