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「あの人も車を使わず大変だね。ところで君は、彼がいったいどこから来て、どこに帰るのだろう、と疑問に思ったことはないかね?」
「そう言えばそうですね。今まで考えたこともなかったですが、確かに不思議です」
「じつは私は以前、あの人の後をつけたことがあるのだよ。いや何、別に悪気があってしたことではない。こんな辺鄙な山の上に、わざわざ一輪車を押して来るのは大変だろう、きっとどこかに車をとめているに違いない、しかし、それではなぜここまで車で来なかったのか、と疑問に思ってしたことなのだ」
「で、どうでした?」
「ここから数百メートル離れた山の中に青いテント小屋があってだね、そこに彼は入っていったよ」
「ほう!」青年は驚いたように言った。「この山の中に事務所があるのですか?」
「事務所かどうか、単なる物置のような感じが私はしたがね」
「で、どの辺りですか?」
 そこで柿ノ倉は指差した。
「あっちの方角に五百メートルほどいって、そこからさらに細い道を進んでいくうちに樹木の間からテント小屋が見えてくるよ。かなり奥まったところにあるから普通に歩いていたら、たぶん気づかないと思う。じっさい私はそれまで何度かその辺りを散歩したのだが、彼の後をつけて初めて小屋があるのが分かったくらいだ」
 青年は言った。
「その細い道をずっといけば、獣道のようになってやがて崖になっていませんか?」
「そう。だから私は、彼がこの細い道を進んで行ったので、あれっと思ったのだ」
「おかしいですね。あの一帯はうちとこの山なんですよ。この反対側の斜面に椎茸の原木を置いているのです。崖の方は何もないですから、ここ何年も行ったことがありませんが」
「君の山だったのかね」今度は柿ノ倉が驚いて言った。「じゃあ彼は無断であそこにテント小屋を建てたというわけかね」
「そうなりますね。これはちょっと気になりますね。一言断ってくれれば、私も養蜂家組合の趣旨に賛同していますから、許可したのですが……無断ですと黙っているわけにもいかなくなります」
「じゃあ彼の後を追ってみるかね?」
「はい。確かめる必要があります」
 ということで、柿ノ倉と青年は外に出て、養蜂家組合の男の後を追った。柿ノ倉はすでに場所を知っているから慌てることはなく、また男に接近し過ぎて気づかれるのもよくなかった。会話はあのテント小屋の前でする必要があったから。男はやはり振り返ることもなくどんどん進んだ。間もなく、男が細道から脇にそれて、青いテント小屋が見えてくると、柿ノ倉は青年の方を振り向いて、指差した。

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 青年は言った。「確かにテント小屋がありますね。知りませんでした。あの人が初めて私のところに来たのが、五年ぐらい前になりますが、それ以前にはあの小屋は無かったように思います。もちろん、くまなく点検したわけではないですが、私はキノコを取りにこの辺に来たことがありまして、そのときは無かったです」
 男がテント小屋に入るのを見て、柿ノ倉と青年は早足に近づいた。そして小屋の入口で、青年が声をかけた。
「すみません。養蜂家組合の方、ちょっと外に出て来てください。お話があります」
間もなくあの小男が現れた。怯えたような顔をして、二人を見た。「何でしょうか?」
 青年は言った。
「じつはこの山はうちとこのものなのです。断りもなく小屋を建てられたら困りますね」
「そうでしたか、それは大変申し訳ございませんでした。どなたの山なのか分かりませんでしたし、また広い山の中のほんの一点ですから、ご迷惑が掛からないと思ったのです。しかし、確かに無断で小屋を建てたのは悪いことです。謝罪いたします」と男は頭を下げた。
 青年は急に笑顔になった。「いえ、謝る必要はありません。最初に断ってくれていれば、僕は喜んで許可していたでしょう。僕はあなたのしていることを高く評価しています。この辺の農家の人たちは、みんなそうだと思いますが、あなたのことを神様のように崇めていますよ」
 男は妙な笑い方をした。「神様だなんて、そんな、わたくしは日本蜜蜂のためにしていることです」
「それで僕たち農家は助かっているのです。面倒な受粉作業を省くことができ、なおかつハチミツが貰えるのですから」
「喜んでいただければ幸いです。わたくし共養蜂家組合としましても、メンバーの方々のご協力があればこそ、安心して巣箱を設置できるのです。御蔭さまで日本蜜蜂は徐々に増えています」
「ところで」と柿ノ倉が言った。「この小屋の中には何があるのかね?」
 すると男はまた妙な笑い方をして、「ただの倉庫ですよ。巣箱などを置いています。また、ここで巣箱を作ったりもしています」
「ここで寝泊りはしていないのかね?」
「しないこともありませんが、山の中ですから、電気も水道もありませんし、何日も泊まることは難しいです。遅くなって帰るのが億劫になったときに、朝までいることはあります。わたくしの仕事は時間があってないようなものですから、昼も夜も関係ありません。日本蜜蜂を増やすこと、それだけがわたくしの仕事です」
「しかし、収入はあるかね?」

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「仕事自体は一銭も儲けがありません。むしろ費用がかかります。しかし、スポンサーがいますから、何とかやっていけます。その方にわたくしは雇われているのです。その方はこの地方でも指折りの富豪でして、ある会社を経営しています。じつはわたくしはそこの社員でしたが、社長からこの仕事をするように頼まれました。社長は根っからの昆虫好きで、とりわけ日本蜜蜂に愛着があるようです。なんでも昔、家の近くに日本蜜蜂が巣を作っていたのですが、勢いのある西洋蜜蜂に追われていなくなったそうです。同じ蜜蜂といっても日本蜜蜂と西洋蜜蜂とは、犬猿の仲でして、体格のいい西洋蜜蜂の方が、どうしても勝利するようです。このままですと日本古来の日本蜜蜂が日本からいなくなってしまうと、社長は懸念され、そして養蜂家組合なるものを設立し、わたくしをその責任者にしたのでございます。わたくしはお恥ずかしい話ですが、この歳になってもまだ独身ですから、適任だと社長は考えたのでしょう。わたくしも蜜蜂に限らず虫は好きですから、すぐに承諾しました。まず手筈目に地元で日本蜜蜂を増やそうとこの山を選んだのですが、それはこの辺りに花の咲く草木が多く茂っていることと海が見えるからです。海が見えなければ話になりません」
 男は、この山にテント小屋を建てた言い訳で、そのように言ったのだろうが、柿ノ倉は興味を持った。先ほど柿ノ倉が考えた、養蜂家組合には支援する篤志家がいるのではないかという予想は的中したのだが、海が見えなければならない、というのは思いつかなかった。で、柿ノ倉はたずねた。
「なぜ、海が見える必要があるのかね?」
「はい。それは社長の経営している、といっても趣味でしているのですが、釣り船を見る必要があるからです」
「釣り船と蜜蜂と、どういうツナガリがあるというのかね?」
「はい。釣り船は決まったポイントで船を停めます。いわゆる潮の流れで魚は移動していますから、朝昼晩と釣れるポイントは違ってきます。蜜蜂も太陽の動きで朝昼晩と花粉を採取するポイントが違ってくるのです。太陽が羅針盤の役割をしているのです。太陽光線がどちらの方角からやってくるか、それで今いる位置を確認するらしいのです。ですから雨の日はもちろんですが、曇った日も蜜蜂はあまり遠くに飛んでいきません」
 柿ノ倉は、男の話をじれったく聞いていた。それは柿ノ倉がした質問の答えになっていないからだ。柿ノ倉は釣り船と蜜蜂とどう関係があるのか、と聞いたのであって、共通点を聞いたのではない。で、さらに聞くと、
「決められた時間に海を眺めることになっています」と男は答えた。「釣り船から合図が送られてくるのです」
「どんな合図だね?」

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「はい。懐中電灯の明かりです。こちらの方角に向かって照らします」
「で、それは何のための合図だね?」
「それは秘密です」と男は即座に答えた。「社長に言われたことをしているだけです」
「しかし、ここからだと樹木が邪魔をして海が見えないようだけど……」と今度は青年が言った。
「ええ、ですからこのちょっと先にいったところに崖がありまして、そこにいって海を眺めているのです。内海全体を見渡すことのできる絶景ですね、あそこは──」
「確かにあそこは素晴らしい場所です。昔僕はあの崖の上でキャンプをしたことがあります。ただ海で泳ぐには遠すぎますがね」と青年は言って笑った。
 柿ノ倉が、唐突に言った。
「ところで失礼だが、あなたがおられたという会社は何の会社だったのかね?」
 すると男は、一瞬ひやっとしたような顔をしたが、すぐに答えた。「商社ですよ。いろんなものを商っています。食料から衣料、肥料、家庭内のすべてのものです。国内だけではなく貿易にも関係しています。近くの港から四国に向かうフェリーも見えますが、毎日のようにうちの会社の車がそのフェリーに乗っています。デパートや小売店に納入するためです」
「じゃあ、あなたもそういう仕事をされていたのかね?」
「いいえ、わたくしは経理の方ですから、車の運転はしません。というか車の運転ができないのです。自転車も苦手でして、とにかく歩くしか能のない人間です。歩くことなら誰にも負けません。一日中歩くこともできます」と男は、足踏みをした。
「社長というのは、よく釣りをするのかね?」と柿ノ倉は聞いた。
「ええ、よくしますよ。大きな釣り船を持っているくらいですから。専門の船頭さんを雇っていまして、一般の釣り人も予約制で乗せています。夏になれば一杯になりますよ」
「だが夏は日差しがきつくて、船の上にいるのは大変だろう」
「いえ。ちゃんと屋根があります。といっても簡素なものですが、釣竿が邪魔にならないように船の中央に低く設えてあります。投擲したあと、かかるまでその中で待つのです。なかなか快適ですよ」
「それにしても決まった時刻に懐中電灯で、あなたに何を知らせるつもりなのだろう?」と柿ノ倉は、聞くともなしに口にすると、男は仕方ないといった感じで、
「たぶん、船の居場所でしょう」と言ったが、 でたらめであることは、その笑顔で分かった。柿ノ倉はちょっとムッとして、
「船の居場所だって!?そんなものを教えて、どうなるというのだね。登山でよくここにいるぞーと手を振ることはあるが、釣り船はないだろう。しかし考えれば、日本蜜蜂といい、その社長といい、ちょっと変わったところがあるようだね、気に入ったよ」

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 男は少し、ほっとしたようで、
「とにかく社長は、社会に貢献したいという考えを持っておられまして、釣った魚も多くはすぐに海に戻しますし、施設にプレゼントすることもあります。その施設というのは、社長の会社が経営している知的障害者の施設なのですが、この海の近くにあります。それでよく施設の人たちを釣り船に招待して楽しませていますよ。じつは社長の子供がやはり知的障害者でして、それでこの施設を建てたのですが、今では公の施設より評価が高くなっています。特に食事が星つきレストランなみだともっぱらの評判です。それもそのはず腕のいい料理人を雇っていまして、社長も夕飯は、たいていそこで食べているようです。じつは社長は、レストランも何軒か持っていますから、そこから交代で料理人がやってくるのです。まずいわけがありません」
 柿ノ倉は自分の貧相な食事を思い浮かべて、羨ましくなったが、しかし、今の気楽な生活に十分満足ではあった。
「このことは、いえこのテント小屋のことですが──」と男は、青年の方を見て言った。「この山の所有者が現れたということを、社長にご報告いたしまして、今後借地料を毎月お支払いしたいと思いますが、どうでしょうか?」
「借地料……別にいいですよ。これより広くならなければ、僕とこは蜜蜂に大いに助けられていますから、ウインウインの関係です」
「そうですか、そう言っていただければこちらも嬉しゅうございます」
「しかし、車を使わないのなら、大変手間がかかるだろう」と柿ノ倉が聞いた。
「かかります。ちょっとしたものを買いに行くにも歩いてですから。しかし、歩くことが仕事だと考えています。また歩いていると、日本蜜蜂の数が増えているということがよく分かります。頻繁に見かけるようになりましたから。養蜂家組合としましても、嬉しいかぎりです。彼らは、いえ蜜蜂のことですが、私にとてもなついていまして、私が手で合図をすれば犬のように集まってきますよ」
「ほう、そんな手品のようなことができるのかね」
「ええ、わたくしの体に蜜蜂のニオイ、たぶん女王蜂のニオイが染み込んでいるのでしょう。女王蜂はローヤルゼリーを食しますが、そのローヤルゼリーが毎日のように巣箱を素手で点検するうちにわたくしの体、あるいは服についていたのでしょう。実際作業服を洗濯した翌日は、わたくしに集まる蜂が極端に少なくなるのです。そればかりか作業中、刺されることもありました。それで、わたくしは最初のうちはローヤルゼリーを、わざと服につけていました。しかし今では、そんなことをする必要はありません。彼らは、わたくしを自分の親か何かのように考えているようで、上半身裸で作業しても、刺されることはありません」
「だからいつもネットも被らず、作業をしていたのだね。プロは違うな、と感心しながら見ていたよ」

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