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「いや、そこまでお頼みすることはできないよ」と言ったとき柿ノ倉は、スコップを持っていないことに気がついた。ホームセンターで買うべきだったのだが、思いつかなかったのだ。
 柿ノ倉は笑いながら、「スコップを買うのを忘れていたよ。今あなたが植えると言ったので気づいたのだが、これからまたホームセンターにいって買ってこよう」
「ですから今回は私がお手伝いをしましょう。スコップはまた次の機会に買われたらいいでしょう。じつは僕の土地があの高台にありまして、そこにシイタケの原木を置いているのですが、そろそろ見に行ってみようかと思っていたところです。そのついでです」
「そうかね。ではお頼みするとするかね」
 青年は笑顔になり、「苗木は僕が適当に選びましょう。ブルーベリーは大きくはなりませんし、剪定も簡単ですから、四、五本軽トラに積んでいきましょう」
「そ、そんなに……二本程度でいいよ。まだ他の植物も植える気でいるから」
「では二本、実の大きくなるやつを選んで、持っていきましょう」
 青年は鉢植えにしているブルーベリーの苗木を二本選んだ。その素焼きの鉢をコンコンと地面に叩いて苗木だけを抜くと、線毛のような細かい根がびっしりとつまっていて、鉢の形が崩れていなかった。それを軽トラの荷台に積むと、今度は剣先スコップとタケノコ鍬を積み、「さあ行きましょう」と柿ノ倉に声をかけた。柿ノ倉はうなずいた。
 柿ノ倉は自分の車に乗り込むと、バックミラーで軽トラを確認しながら、高台の我が家へと向かった。
 家に着くと、柿ノ倉はどの辺りに植えるのかを指定した。庭の周りは雑草だらけで、どこに植えても大丈夫そうだったが、一応自分の敷地内に植えるつもりでいた。結構広い敷地なのだ。
「僕が土を掘りますから、あなたはバケツに水を汲んで用意していてください」と青年はタケノコ鍬を手にして言った。スコップではなくタケノコ鍬を手にしたのは、庭の地面が固かったためで、ツルハシのようにして土をほぐすのだ。
 さすがに農業青年は手慣れたもので、あっという間に全部の苗木を植えた。柿ノ倉自身も途中からタケノコ鍬を使って地面を柔らかくするなどしたが、いずれにしても柿ノ倉は、汗をかいて手伝ってくれた青年に対して好意を抱いた。
「ちょっと家に入ってコーヒーでも飲んでいかないかね」
 と柿ノ倉は言った。
「そうですか。じゃあお言葉に甘えて──」
 柿ノ倉は青年をリビングに通した。殺風景な部屋で、小さなテーブルと座椅子が一つあるのみだったが、それはまさか人をこの家に招こうとは思わなかったから、一つしか購入しなかったのだ。
「その座椅子に座って……」と柿ノ倉は言った。

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 柿ノ倉はキッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。それを盆に載せリビングにいる青年のところに持っていった。
 テーブルの上には、細長い小袋に入ったシュガーの容器が常に置いてある。
「ミルクはないんだが、そのシュガーを好きなだけ入れて──。コーヒーは好きな方かね?」
「これはどうも、──私はコーヒーに目がないもので、一日に五、六杯は飲みますね」
「そう、それは良かった。私もコーヒーが好きで、その反面アルコールの方はさっぱりダメだがね」
 ふと窓の外に人影が映った。見ると例の養蜂家組合の人だった。分蜂のための巣箱を持って来たのだ。この前のときのように一輪車にそれを載せていた。
「養蜂家組合の人も大変だね。巣箱を持って来られたよ」と柿ノ倉が言うと、青年も窓の外を見て、
「あの人は律儀な人ですよ。私とこのイチゴハウスは三棟あるのですが、その三棟ともに巣箱を置いてくれました。そしてしょっちゅう蜂の様子を見に来てくれます。それでお金は一切受け取りませんからね。農家にとっては神様のような人です」
「コーヒーでも勧めてみようかな」と柿ノ倉は言った。
「たぶん飲まないと思います。私もあの人には、たびたびコーヒーやお茶を勧めたのですが、一度も応じてくれませんでしたから。休憩もせず、いつも忙しそうに帰ります」
「いつも歩いてくるのかね?」
「ええ、今日みたいに、一輪車を押してくることもありますが、だいたい歩いてきますね、手提げ袋を持って」
 柿ノ倉は、ふとこの前の青いテント小屋を思い出して、あそこから歩いていくのだろうか、と想像して、ため息が出た。けっこう距離があるからだ。また徒歩ともなればそれだけ時間がかかるわけだから、それで経営が成り立つのだろうか、と不思議に思った。もっとも、金儲けではなく日本蜜蜂を増やすのが目的なのだろうが。それにしても諸経費がかかるだろうし、それはどうやって賄っているのだろうか。徒歩であればガソリン代は不要だとしても、腹は空くし、巣箱を作るにしたって、その板を購入する必要があるだろう。まさかそこら辺の木を切って板にすることもないだろう。仮にそこら辺の木を切り倒して巣箱を作るにしても、釘は買わなければならないから、まったく金がかからないわけではないはずだ。しかし、柿ノ倉は考えた。こういうものは篤志家がいて、その支援で成り立っていることが多いものだ。おそらく養蜂家組合も、そういう篤志家が何人もいて、いや、一人でも金持ちがいれば、あの男一人ぐらい十分養っていけるだろう。
 養蜂家組合の男は、新しい巣箱を設置すると、そそくさと帰っていった。
 柿ノ倉は言った。

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「あの人も車を使わず大変だね。ところで君は、彼がいったいどこから来て、どこに帰るのだろう、と疑問に思ったことはないかね?」
「そう言えばそうですね。今まで考えたこともなかったですが、確かに不思議です」
「じつは私は以前、あの人の後をつけたことがあるのだよ。いや何、別に悪気があってしたことではない。こんな辺鄙な山の上に、わざわざ一輪車を押して来るのは大変だろう、きっとどこかに車をとめているに違いない、しかし、それではなぜここまで車で来なかったのか、と疑問に思ってしたことなのだ」
「で、どうでした?」
「ここから数百メートル離れた山の中に青いテント小屋があってだね、そこに彼は入っていったよ」
「ほう!」青年は驚いたように言った。「この山の中に事務所があるのですか?」
「事務所かどうか、単なる物置のような感じが私はしたがね」
「で、どの辺りですか?」
 そこで柿ノ倉は指差した。
「あっちの方角に五百メートルほどいって、そこからさらに細い道を進んでいくうちに樹木の間からテント小屋が見えてくるよ。かなり奥まったところにあるから普通に歩いていたら、たぶん気づかないと思う。じっさい私はそれまで何度かその辺りを散歩したのだが、彼の後をつけて初めて小屋があるのが分かったくらいだ」
 青年は言った。
「その細い道をずっといけば、獣道のようになってやがて崖になっていませんか?」
「そう。だから私は、彼がこの細い道を進んで行ったので、あれっと思ったのだ」
「おかしいですね。あの一帯はうちとこの山なんですよ。この反対側の斜面に椎茸の原木を置いているのです。崖の方は何もないですから、ここ何年も行ったことがありませんが」
「君の山だったのかね」今度は柿ノ倉が驚いて言った。「じゃあ彼は無断であそこにテント小屋を建てたというわけかね」
「そうなりますね。これはちょっと気になりますね。一言断ってくれれば、私も養蜂家組合の趣旨に賛同していますから、許可したのですが……無断ですと黙っているわけにもいかなくなります」
「じゃあ彼の後を追ってみるかね?」
「はい。確かめる必要があります」
 ということで、柿ノ倉と青年は外に出て、養蜂家組合の男の後を追った。柿ノ倉はすでに場所を知っているから慌てることはなく、また男に接近し過ぎて気づかれるのもよくなかった。会話はあのテント小屋の前でする必要があったから。男はやはり振り返ることもなくどんどん進んだ。間もなく、男が細道から脇にそれて、青いテント小屋が見えてくると、柿ノ倉は青年の方を振り向いて、指差した。

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 青年は言った。「確かにテント小屋がありますね。知りませんでした。あの人が初めて私のところに来たのが、五年ぐらい前になりますが、それ以前にはあの小屋は無かったように思います。もちろん、くまなく点検したわけではないですが、私はキノコを取りにこの辺に来たことがありまして、そのときは無かったです」
 男がテント小屋に入るのを見て、柿ノ倉と青年は早足に近づいた。そして小屋の入口で、青年が声をかけた。
「すみません。養蜂家組合の方、ちょっと外に出て来てください。お話があります」
間もなくあの小男が現れた。怯えたような顔をして、二人を見た。「何でしょうか?」
 青年は言った。
「じつはこの山はうちとこのものなのです。断りもなく小屋を建てられたら困りますね」
「そうでしたか、それは大変申し訳ございませんでした。どなたの山なのか分かりませんでしたし、また広い山の中のほんの一点ですから、ご迷惑が掛からないと思ったのです。しかし、確かに無断で小屋を建てたのは悪いことです。謝罪いたします」と男は頭を下げた。
 青年は急に笑顔になった。「いえ、謝る必要はありません。最初に断ってくれていれば、僕は喜んで許可していたでしょう。僕はあなたのしていることを高く評価しています。この辺の農家の人たちは、みんなそうだと思いますが、あなたのことを神様のように崇めていますよ」
 男は妙な笑い方をした。「神様だなんて、そんな、わたくしは日本蜜蜂のためにしていることです」
「それで僕たち農家は助かっているのです。面倒な受粉作業を省くことができ、なおかつハチミツが貰えるのですから」
「喜んでいただければ幸いです。わたくし共養蜂家組合としましても、メンバーの方々のご協力があればこそ、安心して巣箱を設置できるのです。御蔭さまで日本蜜蜂は徐々に増えています」
「ところで」と柿ノ倉が言った。「この小屋の中には何があるのかね?」
 すると男はまた妙な笑い方をして、「ただの倉庫ですよ。巣箱などを置いています。また、ここで巣箱を作ったりもしています」
「ここで寝泊りはしていないのかね?」
「しないこともありませんが、山の中ですから、電気も水道もありませんし、何日も泊まることは難しいです。遅くなって帰るのが億劫になったときに、朝までいることはあります。わたくしの仕事は時間があってないようなものですから、昼も夜も関係ありません。日本蜜蜂を増やすこと、それだけがわたくしの仕事です」
「しかし、収入はあるかね?」

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「仕事自体は一銭も儲けがありません。むしろ費用がかかります。しかし、スポンサーがいますから、何とかやっていけます。その方にわたくしは雇われているのです。その方はこの地方でも指折りの富豪でして、ある会社を経営しています。じつはわたくしはそこの社員でしたが、社長からこの仕事をするように頼まれました。社長は根っからの昆虫好きで、とりわけ日本蜜蜂に愛着があるようです。なんでも昔、家の近くに日本蜜蜂が巣を作っていたのですが、勢いのある西洋蜜蜂に追われていなくなったそうです。同じ蜜蜂といっても日本蜜蜂と西洋蜜蜂とは、犬猿の仲でして、体格のいい西洋蜜蜂の方が、どうしても勝利するようです。このままですと日本古来の日本蜜蜂が日本からいなくなってしまうと、社長は懸念され、そして養蜂家組合なるものを設立し、わたくしをその責任者にしたのでございます。わたくしはお恥ずかしい話ですが、この歳になってもまだ独身ですから、適任だと社長は考えたのでしょう。わたくしも蜜蜂に限らず虫は好きですから、すぐに承諾しました。まず手筈目に地元で日本蜜蜂を増やそうとこの山を選んだのですが、それはこの辺りに花の咲く草木が多く茂っていることと海が見えるからです。海が見えなければ話になりません」
 男は、この山にテント小屋を建てた言い訳で、そのように言ったのだろうが、柿ノ倉は興味を持った。先ほど柿ノ倉が考えた、養蜂家組合には支援する篤志家がいるのではないかという予想は的中したのだが、海が見えなければならない、というのは思いつかなかった。で、柿ノ倉はたずねた。
「なぜ、海が見える必要があるのかね?」
「はい。それは社長の経営している、といっても趣味でしているのですが、釣り船を見る必要があるからです」
「釣り船と蜜蜂と、どういうツナガリがあるというのかね?」
「はい。釣り船は決まったポイントで船を停めます。いわゆる潮の流れで魚は移動していますから、朝昼晩と釣れるポイントは違ってきます。蜜蜂も太陽の動きで朝昼晩と花粉を採取するポイントが違ってくるのです。太陽が羅針盤の役割をしているのです。太陽光線がどちらの方角からやってくるか、それで今いる位置を確認するらしいのです。ですから雨の日はもちろんですが、曇った日も蜜蜂はあまり遠くに飛んでいきません」
 柿ノ倉は、男の話をじれったく聞いていた。それは柿ノ倉がした質問の答えになっていないからだ。柿ノ倉は釣り船と蜜蜂とどう関係があるのか、と聞いたのであって、共通点を聞いたのではない。で、さらに聞くと、
「決められた時間に海を眺めることになっています」と男は答えた。「釣り船から合図が送られてくるのです」
「どんな合図だね?」

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