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 男は、上機嫌でドアの前に立っていた。
「ご主人様、今日は嬉しいお知らせをいたします」と男は言った。
「嬉しい知らせ!?」
「さようでございます。新しい女王蜂が誕生いたしました。近いうちに分蜂いたします。それで以前お話ししましたように、もう一箱、あの箱の横に置かさせてもらいたいと存じますが、よろしいでしょうか?」
「それは構わんよ。置いたらいい。で、ハチミツの方はどうかね?」
 柿ノ倉はそのことが一番気になっていた。
「はい。順調に溜まっているようです。後三ヶ月ほどお待ちください。そうしますと市販されている瓶と同じくらいの量が取れるでしょう。全部を収穫することはできません。というのは、蜂のために三分の一は残すようにしていますから」
 柿ノ倉は、このときほど蜜蜂を愛おしく感じたことはない。自分のために毎日せっせと花粉を集めているのかと思って。
「それは楽しみだね」と柿ノ倉は言った。
「はい。今の時期田んぼに蓮華草が一杯咲いていますから、その花粉から作られるハチミツは格別美味しゅうございます」
 柿ノ倉は、トーストした食パンにそのハチミツを塗って食べるのを想像して、思わず微笑んだ。
「では後日、箱を持ってまいります」と男は言って帰っていった。
 柿ノ倉は、去っていく小男が、まるで福の神のように感じた。それは誇張ではなかった。娯楽の乏しい自分の生活に日々の楽しみを持って来てくれたのだ。これが福の神でなくて何であろう。また柿ノ倉は、自分のためにせっせと働いてくれている蜜蜂に、何か花の咲く植物をプレゼントしようと思った。敷地に植えるのだ。花をたくさんつける果樹がいい。しかも、あまり大きくならないのがいい。なぜなら、高木になる木は、二階からの視界を遮る恐れがあるからだ。眼下の景色を眺めるために、あえて事故物件と知りながら購入した家なのだ。その美点を損なってはなんにもならない。そこで柿ノ倉は、いろんな果樹を頭に思い浮かべた。そして、その条件に適ったのは、ブルーベリーだった。これなら庭に植えても邪魔にならない。白い小さな花を一杯咲かせ、実を食べることもできる。ジャムにしたっていい。ハチミツとブルーベリーのジャム、この二つが自家製となれば、なんとなく洒落た感じになる。文化人を気取っている柿ノ倉には、ちょうどいいアイテムになるだろう。柿ノ倉は、明日にでもホームセンターへいって、ブルーベリーの苗木を購入することに決めた。
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 翌日、早速柿ノ倉は自分の車で、最寄りの、と言っても八キロほど離れているが、ホームセンターへいった。建物の外に、鉢物の植物や果樹の苗木がたくさん置かれていて、人気の高いブルーベリーの苗木も当然あった。そのそばに温州みかんの苗木もあり、ちょうど白い小さなつぼみをたくさんつけていた。それで、柿ノ倉はこれも一つ購入することにした。ブルーベリーは三月から四月にかけて花が咲き、温州みかんは五月である。一年中何かの花が咲いていれば、庭が華やいでいい。取り敢えず柿ノ倉は、ブルーベリーと温州みかんの苗木を一本ずつカートに載せて、レジに向かった。そのとき、柿ノ倉は、見知らぬ男から声をかけられた。
「そのブルーベリーはラビットアイという種類ですよ」
 柿ノ倉は驚いて男の顔を見た。まだ二十代だが、逞しい体をして麦わら帽子をかぶっていた。
「そうですか。で、それが------」柿ノ倉は、この青年が何を言いたいのか分からなかった。
「ラビットアイ系は、一本だけでは結実しないのです。すでにラビットアイ系をお持ちならいいですが、そうでなければ同じラビットアイ系で別の品種を同時に植える必要があるのです」
「なるほど、そういうことだったのかね。これはどうもご親切にありがとう。ではもう一本苗木を追加することにしよう」
「いえ、差し上げます」
「えっ!」柿ノ倉は思わず声が出た。
「僕の家にブルーベリーがたくさんありますから、よろしければ何本でも差し上げます。じつはブルーベリーは、挿し木で簡単に増えるのです。趣味で増やしたのですが、今では増えすぎて、困っています。というのも現在、僕はもう一つの種類、ハイブッシュ系の方に嵌っていまして、こちらを増やしているからです。スペースが限られていて、ラビットアイ系は、半分くらい処分しようと思っていたところです。しかし、捨てるのも何ですから、欲しい方にお分けしているのです」
「それではお言葉に甘えて分けてもらえるかね」
「ええ、どうぞどうぞ。では僕の車の後について来てください」
 柿ノ倉は、カートに載せている品物をいったんレジで購入し自分の車に積むと、青年の軽トラの後について車を走らせた。運転しながら柿ノ倉は、養蜂家組合といいこの青年といい、世間は意外と親切な人がいるものだなあと感心した。
 青年の車は、柿ノ倉の住む高台の裾の方に向かっていた。柿ノ倉は、この青年が麦わら帽子をかぶり軽トラを運転するところから、農家ではないかと推測していたが、案の定農家だった。周りは田んぼだらけで、まだ田植え前のことだから、一面に蓮華草が咲き誇っていた。赤い絨毯とはよく言ったものだ。この辺の蓮華草の花粉を、うちとこの蜜蜂は集めているのだろうかと、柿ノ倉は思わず目を細めた。
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 青年が庭先に軽トラをとめると、柿ノ倉もその横に車をとめた。
 降りて見ると、庭一杯にブルーベリーの苗木が置かれていた。ホームセンターよりもはるかに数が多かった。まるでブルーベリーの専門農家のような感じだったが、しかし青年は、あくまでも趣味でやっていると言う。確かにブルーベリーの専門農家がタダで苗木を人に譲るわけがなかった。
「こっちにあるのがラビットアイ系ですから、好きなのを選んでください」と青年は指差した。苗木にはどれも名札がついていた。品種によって味も大きさも違うのだろうが、門外漢の柿ノ倉には、どれを選べばいいのか分からなかった。ホームセンターに置いてあるブルーベリーの苗木には、一本一本実のついた写真が添えられていたが、さすがそういう配慮はない。取り敢えずホームセンターで買った苗木とは、別のラビットアイ系を選ぶ必要があった。できるだけ実の大きくなるものを柿ノ倉は選びたかった。で、「この中で一番実が大きくなるのはどれかね?」と聞いた。
 すると青年は答えた。
「ラビットアイ系は、あまり大きくはならないですが──強いて言えば○○ですかね、この中で一番大きい実をつけるのは。そこにあります」
 と青年が指差した方を見ると、確かに○○と書いた名札が苗木にぶら下がっていた。と、その横にどこかで見たような箱があるのに柿ノ倉は気づいた。すぐに、柿ノ倉の庭に置いてある蜂の巣箱と同じものであることが分かった。こちらもビニールシートが箱の上に被せられていて、よく見れば日本蜜蜂がそこらじゅう飛び交っていた。
 柿ノ倉は言った。
「ここも養蜂家組合の人が来たのかね?」
「養蜂家組合……ええ、来られました。そこに蜜蜂の巣箱を置いていかれたのですが、こちらも大いに助かっていますよ。というのは、農家というものは稲作などは別として、果樹をやっているところは蜜蜂がいないと仕事になりませんからね。いえ仕事の量が増えるのです。自分でいちいち受粉作業をしなければならないからです。僕のところはビニールハウスでイチゴの栽培をやっていまして、以前は自分たちで受粉作業をしていましたが、今は蜜蜂に頼りきりで、楽なもんですよ。普通はお金を払ってシーズン中だけ蜜蜂を借りるのですが、養蜂家組合に入ればそれが無料なんですから」
「やはり来たかね」と柿ノ倉は言った。「じつは私のところにも来てね。庭の片隅に巣箱を置いていったのだが、今日ホームセンターでブルーベリーや温州みかんの苗木を買ったのも、その蜜蜂のためなのだ。私の家はあの高台にあって、まだ引っ越して間がないのだが」と柿ノ倉は指差した。
「そうでしたか。近いですね。なんなら僕が苗木を植えるのを手伝いましょうか?」

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「いや、そこまでお頼みすることはできないよ」と言ったとき柿ノ倉は、スコップを持っていないことに気がついた。ホームセンターで買うべきだったのだが、思いつかなかったのだ。
 柿ノ倉は笑いながら、「スコップを買うのを忘れていたよ。今あなたが植えると言ったので気づいたのだが、これからまたホームセンターにいって買ってこよう」
「ですから今回は私がお手伝いをしましょう。スコップはまた次の機会に買われたらいいでしょう。じつは僕の土地があの高台にありまして、そこにシイタケの原木を置いているのですが、そろそろ見に行ってみようかと思っていたところです。そのついでです」
「そうかね。ではお頼みするとするかね」
 青年は笑顔になり、「苗木は僕が適当に選びましょう。ブルーベリーは大きくはなりませんし、剪定も簡単ですから、四、五本軽トラに積んでいきましょう」
「そ、そんなに……二本程度でいいよ。まだ他の植物も植える気でいるから」
「では二本、実の大きくなるやつを選んで、持っていきましょう」
 青年は鉢植えにしているブルーベリーの苗木を二本選んだ。その素焼きの鉢をコンコンと地面に叩いて苗木だけを抜くと、線毛のような細かい根がびっしりとつまっていて、鉢の形が崩れていなかった。それを軽トラの荷台に積むと、今度は剣先スコップとタケノコ鍬を積み、「さあ行きましょう」と柿ノ倉に声をかけた。柿ノ倉はうなずいた。
 柿ノ倉は自分の車に乗り込むと、バックミラーで軽トラを確認しながら、高台の我が家へと向かった。
 家に着くと、柿ノ倉はどの辺りに植えるのかを指定した。庭の周りは雑草だらけで、どこに植えても大丈夫そうだったが、一応自分の敷地内に植えるつもりでいた。結構広い敷地なのだ。
「僕が土を掘りますから、あなたはバケツに水を汲んで用意していてください」と青年はタケノコ鍬を手にして言った。スコップではなくタケノコ鍬を手にしたのは、庭の地面が固かったためで、ツルハシのようにして土をほぐすのだ。
 さすがに農業青年は手慣れたもので、あっという間に全部の苗木を植えた。柿ノ倉自身も途中からタケノコ鍬を使って地面を柔らかくするなどしたが、いずれにしても柿ノ倉は、汗をかいて手伝ってくれた青年に対して好意を抱いた。
「ちょっと家に入ってコーヒーでも飲んでいかないかね」
 と柿ノ倉は言った。
「そうですか。じゃあお言葉に甘えて──」
 柿ノ倉は青年をリビングに通した。殺風景な部屋で、小さなテーブルと座椅子が一つあるのみだったが、それはまさか人をこの家に招こうとは思わなかったから、一つしか購入しなかったのだ。
「その座椅子に座って……」と柿ノ倉は言った。

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 柿ノ倉はキッチンで湯を沸かし、インスタントコーヒーを作った。それを盆に載せリビングにいる青年のところに持っていった。
 テーブルの上には、細長い小袋に入ったシュガーの容器が常に置いてある。
「ミルクはないんだが、そのシュガーを好きなだけ入れて──。コーヒーは好きな方かね?」
「これはどうも、──私はコーヒーに目がないもので、一日に五、六杯は飲みますね」
「そう、それは良かった。私もコーヒーが好きで、その反面アルコールの方はさっぱりダメだがね」
 ふと窓の外に人影が映った。見ると例の養蜂家組合の人だった。分蜂のための巣箱を持って来たのだ。この前のときのように一輪車にそれを載せていた。
「養蜂家組合の人も大変だね。巣箱を持って来られたよ」と柿ノ倉が言うと、青年も窓の外を見て、
「あの人は律儀な人ですよ。私とこのイチゴハウスは三棟あるのですが、その三棟ともに巣箱を置いてくれました。そしてしょっちゅう蜂の様子を見に来てくれます。それでお金は一切受け取りませんからね。農家にとっては神様のような人です」
「コーヒーでも勧めてみようかな」と柿ノ倉は言った。
「たぶん飲まないと思います。私もあの人には、たびたびコーヒーやお茶を勧めたのですが、一度も応じてくれませんでしたから。休憩もせず、いつも忙しそうに帰ります」
「いつも歩いてくるのかね?」
「ええ、今日みたいに、一輪車を押してくることもありますが、だいたい歩いてきますね、手提げ袋を持って」
 柿ノ倉は、ふとこの前の青いテント小屋を思い出して、あそこから歩いていくのだろうか、と想像して、ため息が出た。けっこう距離があるからだ。また徒歩ともなればそれだけ時間がかかるわけだから、それで経営が成り立つのだろうか、と不思議に思った。もっとも、金儲けではなく日本蜜蜂を増やすのが目的なのだろうが。それにしても諸経費がかかるだろうし、それはどうやって賄っているのだろうか。徒歩であればガソリン代は不要だとしても、腹は空くし、巣箱を作るにしたって、その板を購入する必要があるだろう。まさかそこら辺の木を切って板にすることもないだろう。仮にそこら辺の木を切り倒して巣箱を作るにしても、釘は買わなければならないから、まったく金がかからないわけではないはずだ。しかし、柿ノ倉は考えた。こういうものは篤志家がいて、その支援で成り立っていることが多いものだ。おそらく養蜂家組合も、そういう篤志家が何人もいて、いや、一人でも金持ちがいれば、あの男一人ぐらい十分養っていけるだろう。
 養蜂家組合の男は、新しい巣箱を設置すると、そそくさと帰っていった。
 柿ノ倉は言った。

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