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「なるほど、そうやって日本蜜蜂を増やしていくわけだね」
 柿ノ倉は納得した。契約書にサインした。
「これでご主人様も、養蜂家組合のメンバーとなられました。いえ、メンバーとなったからと言って、別に会費がかかるわけではございませんから、ご安心ください。今後、日本蜜蜂の擁護者として社会に貢献されてゆかれます。これは会員証です」
 と、男は手提げ袋からA4版の紙を柿ノ倉に手渡した。──養蜂家組合は、貴殿を日本蜜蜂の擁護者と認定し、これを委託いたします。──とかなんとか書いてあった。社会に貢献できるかどうかは別として、柿ノ倉は果樹なども庭に植えたいと思っていたから、そばに受粉の手助けをしてくれる蜜蜂がいるというのは心強いものがあった。
 男は礼を言って去っていったが、このとき柿ノ倉は、わざわざ玄関の外に出て見送った。というのは、柿ノ倉は男が家に来たとき、車のエンジン音、またそのドアを閉める音を聞かなかった(この静かなところで、車が来れば、二階にいた柿ノ倉の耳に届かないわけがなく、またチャイムが鳴ったとき、窓からちらっと見たのだが庭には自分の車しかなかった)こんな辺鄙なところにどうやって来たのだろう、と不審に思ったからだ。あるいは離れたところに車をとめているのかもしれない。山道を去る男の後ろ姿を見つめながら、柿ノ倉は、強いて男の後を追う気にはなれなかった。それは以前から蜜蜂を飼いたいと思っていたところへ、向こうから好条件で来てくれたのだ、どこから来ようといいではないか、と思ったからだ。

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 数日後、再びあの男がやってきた。今度は一輪車を押して来た。一輪車の上に四角い箱が網に包まれていた。これが蜂の巣箱だろう、網の中で蜜蜂がうごめいていた。
「この前お話しいたしました日本蜜蜂でございます。どうかご主人様のお好きな場所に置いていただきたいと思います」
 柿ノ倉は、雨の当たらない軒下に置こうと言ったが、男は「それもいいのですが、それですと蜂が家の中に入り込む恐れがありますから、やはり庭の隅に置かれるのがいいかと存じます」と答えた。
「でも、大雨のときは箱の中がべちょべちょにならないかね?」
「そのためにビニールシートとその重しとなるレンガをちゃんと用意してあります。もちろん台風のあとは様子を見に来ますから、ご主人様は何も心配はいりません」
 改めて平底の一輪車を見れば確かに巣箱の他にビニールシートとレンガが数個載せてあった。それだけでなく長さ四十センチ、太さ十十センチ程度の丸太も二本載せてあった。
「じゃあ庭の隅に置いてもらおうか」と柿ノ倉は言った。

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「かしこまりました」
 男は言って、一輪車のハンドルを握った。柿ノ倉は自ら先にたって、庭の隅を指定した。男はそこに二本の丸太を置いた。
「木の箱を直接地面に置きますと、下の方から腐っていきますから、こうして空間を作るのです」と説明した。
 男はその丸太の上に巣箱をそっと載せた。そして、網の覆いをはがすと、日本蜜蜂がいっせいに飛び交った。
 柿ノ倉は思わず手で顔を覆った。
「ご心配いりません。この蜂が人間を襲うことは通常ありませんから。ただ巣箱の蓋を開けたりしないでください。たまにあるのですが、会員の方が、ハチミツがどのくらい溜まったかと箱を開けたときに、刺されることが。蜂が人間を襲うのは、あくまでも箱の中にいる女王蜂や幼虫を守るための防衛本能です。箱から離れて飛び交っている蜂に、そういう本能は惹起されません。ですから、巣箱は家から離した方がいいのです。庭の片隅なら、まったくもって問題ありません」
 話を聞いて柿ノ倉は、この男に好意を寄せるようになった。男が設置をすんで帰るときに、お茶でも飲んでいかないかね、と声をかけた。
 しかし男は、「今日は忙しいので------」と一輪車を押して帰っていった。
 柿ノ倉は、今時珍しい殊勝な人だなあと感心しながら、男の後ろ姿を見ていたが、しかしすぐに、いったい男は一輪車を押して、どこへ帰るのだろうかと不思議に思った。仮に離れたところに車をとめているとしても、ならばなぜ車を家の庭につけなかったのか、車が通れる道幅はあるのだから、わざわざ一輪車に積み替える必要はないのだ。
 今度こそ男の後をつけなければならないと、柿ノ倉は男の去っていった方向へ忍び足で歩いていった。男は林の中の道を、後ろを振り返ることもなく歩いていた。やがて道が枝分かれをし、さらに細い道の方を男は進んだ。柿ノ倉は不審に思った。というのは、柿ノ倉は日々の散歩で、よくこの辺まで来るのだが、この向こうは確か崖になっていたように思うからだ。
 周りに熊笹などが生い茂った小径をしばらく進んだ頃、男の姿が急に見えなくなった。どこかに入り込んだようだ。すると近くの木立の間から青いテント小屋が見えてきた。柿ノ倉は立ち止まり、それ以上近づくことは控えた。あの男がそこにいたからだ。男は一輪車をテント小屋の横に立てて、小屋の中に入ろうとしていた。
 柿ノ倉は引き返した。頭の中が混乱していた。養蜂家組合というのは、いったい何なんだろう。あれがその拠点なのだろうか。会員証まで発行しているというのに。もっとも、その会員証はコピー用紙に印刷したものだったが。
 柿ノ倉は、このときふと前の住人が自殺していることを思い出した。その自殺もこの養蜂家組合と何か関係があったのではないか、という気がしてきたが、別に根拠があるわけではなかった。

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 また、養蜂家組合というのがいつ結成したのか、いつからあのテント小屋があるのか、そして、前の住人も養蜂家組合の会員ではなかったのか、といったことを矢継ぎ早に考えたが、柿ノ倉は、前の住人が、一人で生活をしていたことといい、どうも自分と重なるようで急に不安になってきた。
 さっき柿ノ倉がちらっと見た限りでは、あのテント小屋には電気も水道もないようだが、もちろん、宅地開発されていない山に、そんなものがあるわけがない。であれば住居ではなく単なる物置なのかもしれない。物置であれば、この周辺は自然のままだから、蜜蜂の需要も多く、蜂の巣箱を保管するにはもってこいだろう。が、だとしても------と、さらに疑問点が柿ノ倉の頭に浮上した。住居ではないとするとあの男はこの後、どこへ帰るつもりなのだろうか。バス停がある市道に出るまで四キロほど離れているのだ。自転車もないようだし──もっとも、この高台の下が海沿いの細長い町だから、そこの住人であれば徒歩であっても不思議はない。が、それでもこの高台は急斜面だから、上がり下りをするには、かなり遠回りをする必要があった。
 柿ノ倉は今後、あのテント小屋がある細い道は避けなければならないと思った。ばったりあの男と会って、気まずい思いをしたくないからだ。とはいえ、蜜蜂のいる生活は、なかなか楽しいものだった。蜜蜂はそこかしこ飛び交っているが、他の蜂のような恐怖感はなく、むしろ一生懸命に花粉を集めている姿に感動すら覚えた。
 すでに述べたように、柿ノ倉は年金生活者の気楽な身分である。毎日、本を読んだり小説を書いて過ごしているが、二階の書斎の窓から、庭の片隅に置いてある蜂の巣箱をときどき眺めるのが好きで、これほど手間のかからない、そして希望を与えてくれるペットは他にないとまで気に入っていた。
 そんなある日、例の男が巣箱を見にやって来た。挨拶もなく、箱の蓋を開けて中を調べていた。二階の窓から、柿ノ倉はその様子を眺めていたが、よっぽど慣れているのか、男は頭にネットも何も被っていなかった。やはり専門家はちがうと柿ノ倉は感心した。
 男はすぐに帰っていったが、柿ノ倉はもう男に対して余計な詮索はしないことに決めた。律儀に蜂の巣箱の点検に来たのだ。金も取らず、これほど真摯に対応するセールスマンが他にいるだろうか。
 そしてこれ以降、男は近いこともあるのだろうが、一週間に一度の割合で、巣箱を見に来た。だいたい昼間で、すぐに帰るのだが、ある日のこと男は珍しく巣箱の前にしゃがみ込んでメモ帳に何か記入していた。柿ノ倉はその様子をいつもの二階の窓から眺めていたのだが、気になったので降りていって聞いてみようかと思った。しかし、元来人付き合いの悪い柿ノ倉は、あえて尋ねることはしなかった。用事があれば向こうの方から言ってくるだろう、と安気に構えていた。はたして男は、帰り際に家のチャイムを押した。柿ノ倉は、待ってました、とばかりに二階から駆け下りた。

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 男は、上機嫌でドアの前に立っていた。
「ご主人様、今日は嬉しいお知らせをいたします」と男は言った。
「嬉しい知らせ!?」
「さようでございます。新しい女王蜂が誕生いたしました。近いうちに分蜂いたします。それで以前お話ししましたように、もう一箱、あの箱の横に置かさせてもらいたいと存じますが、よろしいでしょうか?」
「それは構わんよ。置いたらいい。で、ハチミツの方はどうかね?」
 柿ノ倉はそのことが一番気になっていた。
「はい。順調に溜まっているようです。後三ヶ月ほどお待ちください。そうしますと市販されている瓶と同じくらいの量が取れるでしょう。全部を収穫することはできません。というのは、蜂のために三分の一は残すようにしていますから」
 柿ノ倉は、このときほど蜜蜂を愛おしく感じたことはない。自分のために毎日せっせと花粉を集めているのかと思って。
「それは楽しみだね」と柿ノ倉は言った。
「はい。今の時期田んぼに蓮華草が一杯咲いていますから、その花粉から作られるハチミツは格別美味しゅうございます」
 柿ノ倉は、トーストした食パンにそのハチミツを塗って食べるのを想像して、思わず微笑んだ。
「では後日、箱を持ってまいります」と男は言って帰っていった。
 柿ノ倉は、去っていく小男が、まるで福の神のように感じた。それは誇張ではなかった。娯楽の乏しい自分の生活に日々の楽しみを持って来てくれたのだ。これが福の神でなくて何であろう。また柿ノ倉は、自分のためにせっせと働いてくれている蜜蜂に、何か花の咲く植物をプレゼントしようと思った。敷地に植えるのだ。花をたくさんつける果樹がいい。しかも、あまり大きくならないのがいい。なぜなら、高木になる木は、二階からの視界を遮る恐れがあるからだ。眼下の景色を眺めるために、あえて事故物件と知りながら購入した家なのだ。その美点を損なってはなんにもならない。そこで柿ノ倉は、いろんな果樹を頭に思い浮かべた。そして、その条件に適ったのは、ブルーベリーだった。これなら庭に植えても邪魔にならない。白い小さな花を一杯咲かせ、実を食べることもできる。ジャムにしたっていい。ハチミツとブルーベリーのジャム、この二つが自家製となれば、なんとなく洒落た感じになる。文化人を気取っている柿ノ倉には、ちょうどいいアイテムになるだろう。柿ノ倉は、明日にでもホームセンターへいって、ブルーベリーの苗木を購入することに決めた。
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 翌日、早速柿ノ倉は自分の車で、最寄りの、と言っても八キロほど離れているが、ホームセンターへいった。建物の外に、鉢物の植物や果樹の苗木がたくさん置かれていて、人気の高いブルーベリーの苗木も当然あった。そのそばに温州みかんの苗木もあり、ちょうど白い小さなつぼみをたくさんつけていた。それで、柿ノ倉はこれも一つ購入することにした。ブルーベリーは三月から四月にかけて花が咲き、温州みかんは五月である。一年中何かの花が咲いていれば、庭が華やいでいい。取り敢えず柿ノ倉は、ブルーベリーと温州みかんの苗木を一本ずつカートに載せて、レジに向かった。そのとき、柿ノ倉は、見知らぬ男から声をかけられた。
「そのブルーベリーはラビットアイという種類ですよ」
 柿ノ倉は驚いて男の顔を見た。まだ二十代だが、逞しい体をして麦わら帽子をかぶっていた。
「そうですか。で、それが------」柿ノ倉は、この青年が何を言いたいのか分からなかった。
「ラビットアイ系は、一本だけでは結実しないのです。すでにラビットアイ系をお持ちならいいですが、そうでなければ同じラビットアイ系で別の品種を同時に植える必要があるのです」
「なるほど、そういうことだったのかね。これはどうもご親切にありがとう。ではもう一本苗木を追加することにしよう」
「いえ、差し上げます」
「えっ!」柿ノ倉は思わず声が出た。
「僕の家にブルーベリーがたくさんありますから、よろしければ何本でも差し上げます。じつはブルーベリーは、挿し木で簡単に増えるのです。趣味で増やしたのですが、今では増えすぎて、困っています。というのも現在、僕はもう一つの種類、ハイブッシュ系の方に嵌っていまして、こちらを増やしているからです。スペースが限られていて、ラビットアイ系は、半分くらい処分しようと思っていたところです。しかし、捨てるのも何ですから、欲しい方にお分けしているのです」
「それではお言葉に甘えて分けてもらえるかね」
「ええ、どうぞどうぞ。では僕の車の後について来てください」
 柿ノ倉は、カートに載せている品物をいったんレジで購入し自分の車に積むと、青年の軽トラの後について車を走らせた。運転しながら柿ノ倉は、養蜂家組合といいこの青年といい、世間は意外と親切な人がいるものだなあと感心した。
 青年の車は、柿ノ倉の住む高台の裾の方に向かっていた。柿ノ倉は、この青年が麦わら帽子をかぶり軽トラを運転するところから、農家ではないかと推測していたが、案の定農家だった。周りは田んぼだらけで、まだ田植え前のことだから、一面に蓮華草が咲き誇っていた。赤い絨毯とはよく言ったものだ。この辺の蓮華草の花粉を、うちとこの蜜蜂は集めているのだろうかと、柿ノ倉は思わず目を細めた。
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