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 住めば都というが、しばらく住むうちに柿ノ倉はこの家での暮らしが気に入ってきた。まず何より静かだった。もちろん小鳥のさえずりは一日中聞こえてくるのだが、気になるものではなかったし、煩わしい人間の姿もここでは見ることがなかった。
 柿ノ倉は本を読むのが好きで、数年前から自ら小説を書くようになっていたが、二階の窓から眼下の海を眺めながら、本を読んだり小説を書いたりと、まさに理想的な暮らしをすることができた。
 そんなある日、誰かが家のチャイムを押したのだ。ここに来てから初めてのことだった。柿ノ倉はビクッとした。誰だろう、こんな辺鄙なところに。そう思いながら柿ノ倉は玄関に出た。
 三十歳くらいの小男がそこに立っていた。作業服を着て、手提げ袋を持っていた。男は言った。
「わたくしは養蜂家組合の者ですが、ご主人様に耳寄りなお話を持ってまいりました」
「養蜂家組合!?」柿ノ倉は聞き返した。そんな組合があったのだろうか。「蜜蜂かね?」
「はい。蜜蜂の養蜂家組合でごだいます。ご存知ないかもしれませんからご説明致しましょう」
 柿ノ倉はうなずいた。他のセールスならすぐに断るつもりでいたのだが、もとから昆虫が好きで、前から蜜蜂を飼って自前のハチミツをパンにつけて食べたりする生活に憧れを持っていたのだ。もっとも、この時点では男が何の目的で来たのかは分からない。単にハチミツを売りに来ただけかもしれない。
 男は手に持っている袋から、パンフレットを取り出して、それを柿ノ倉に見せた。柿ノ倉は前のめりでそれを見た。パンフレットには、蜜蜂とその棲家となる木の箱が図に描かれていた。
 男は言った。
「ここに描かれている木の箱一つにですね、数千匹の蜜蜂がいます。そして、この蜜蜂は西洋蜜蜂ではありません。日本蜜蜂です。今、市販されているハチミツのほとんどが西洋蜜蜂によってなされたものです。西洋蜜蜂は愛護されてきました。それなのに日本蜜蜂は、まったく誰からも相手にされてきませんでした。そのため日本蜜蜂は次第に西洋蜜蜂にテリトリーを奪われ、数を減らしているのです。このままですと日本古来の日本蜜蜂は消滅するかもしれません。そこでわたくし共は、日本蜜蜂の擁護及び繁殖を目的とする養蜂家組合というのを結成したのでございます」
 柿ノ倉は興味を持った。日本蜜蜂という存在を以前から知っていたし、西洋蜜蜂に追いやられている話も聞いたことがある。
「で、ご用件は?──」と柿ノ倉は聞いた。男の用件を早く知りたかった。

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「はい。率直に申しますと、ご主人様に日本蜜蜂を飼っていただきたいのです。飼うと言いましても、まったく手間が要りません。蜜蜂が自分たちでちゃんと暮らしていきますから、その棲家となる巣箱をこの家の敷地内に置いていただければ、それで結構なのです」
「蜜蜂がその針で人間を刺すということはないのかね?」
「まずございません。人間の方からちょっかいを出さなければ、蜜蜂の方から攻撃してくることはないと申し上げます。確かにたくさんの蜜蜂が飛び交いますから、最初のうちは怖いかと思いますが、すぐに慣れます。箱の蓋を開けたりしなければ、蜜蜂が人間を襲うことはないでしょう」
「しかし、それじゃあハチミツを取ることができないじゃないか?」
「それはこちらにお任せください。定期的に箱の点検にまいります。そして、ハチミツが貯まればそれを瓶に入れて、ご主人様に差し上げます」
「ほう、それは嬉しいことだが------しかし、金がかかるのだろう」
「いえ、皆さん、そのことをご心配されますが、わたくし共養蜂家組合は、金儲けが目的ではありません。あくまでも日本蜜蜂の繁殖を目的としていますから、お金は一切いただきません。ただ箱を置く場所を提供していただければ、それで結構なのです。敷地のどこでもかまいません。邪魔にならないところに置いていただければ、わたくし共は感謝いたします。この周りは草花が咲き、花の咲く樹木も多いですから、これ以上ないほどの好条件なのでございます」
 柿ノ倉はすぐに承諾した。以前から蜜蜂を飼ってみたいと思っていたわけだから、渡りに船である。
「それではご契約書にサインをお願いいたします」
「本当にタダなんだね」と柿ノ倉は念を押した。年金生活をしていくわけだから、お金は必要最低限にとどめなければならなかったのだ。
「タダでございます」と男は言った。「ご主人様のご負担はまったくございません。ハチミツを楽しみにしていただければ、こちらも嬉しゅうございます。日本蜜蜂のハチミツは西洋蜜蜂とは一味違いますから------」と男はニコリと笑った。
 どのように違うのか柿ノ倉は聞こうと思ったがやめた。それは今後の楽しみということにした。
「では後日、日本蜜蜂とその巣箱を持って参りますから、よろしくお願いいたします」
「一箱だけなんだろうね」と柿ノ倉は慌てて聞いた。たくさん置かれては、かなわないからだ。
「最初は一箱ですが、そのうち分蜂のためにもう一箱置かさせてもらいます。そして、この新しい箱に新しい女王蜂が移り住んで、ある程度蜂の数が増えれば、これをまた別のところに持っていきます。これが目的です」

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「なるほど、そうやって日本蜜蜂を増やしていくわけだね」
 柿ノ倉は納得した。契約書にサインした。
「これでご主人様も、養蜂家組合のメンバーとなられました。いえ、メンバーとなったからと言って、別に会費がかかるわけではございませんから、ご安心ください。今後、日本蜜蜂の擁護者として社会に貢献されてゆかれます。これは会員証です」
 と、男は手提げ袋からA4版の紙を柿ノ倉に手渡した。──養蜂家組合は、貴殿を日本蜜蜂の擁護者と認定し、これを委託いたします。──とかなんとか書いてあった。社会に貢献できるかどうかは別として、柿ノ倉は果樹なども庭に植えたいと思っていたから、そばに受粉の手助けをしてくれる蜜蜂がいるというのは心強いものがあった。
 男は礼を言って去っていったが、このとき柿ノ倉は、わざわざ玄関の外に出て見送った。というのは、柿ノ倉は男が家に来たとき、車のエンジン音、またそのドアを閉める音を聞かなかった(この静かなところで、車が来れば、二階にいた柿ノ倉の耳に届かないわけがなく、またチャイムが鳴ったとき、窓からちらっと見たのだが庭には自分の車しかなかった)こんな辺鄙なところにどうやって来たのだろう、と不審に思ったからだ。あるいは離れたところに車をとめているのかもしれない。山道を去る男の後ろ姿を見つめながら、柿ノ倉は、強いて男の後を追う気にはなれなかった。それは以前から蜜蜂を飼いたいと思っていたところへ、向こうから好条件で来てくれたのだ、どこから来ようといいではないか、と思ったからだ。

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 数日後、再びあの男がやってきた。今度は一輪車を押して来た。一輪車の上に四角い箱が網に包まれていた。これが蜂の巣箱だろう、網の中で蜜蜂がうごめいていた。
「この前お話しいたしました日本蜜蜂でございます。どうかご主人様のお好きな場所に置いていただきたいと思います」
 柿ノ倉は、雨の当たらない軒下に置こうと言ったが、男は「それもいいのですが、それですと蜂が家の中に入り込む恐れがありますから、やはり庭の隅に置かれるのがいいかと存じます」と答えた。
「でも、大雨のときは箱の中がべちょべちょにならないかね?」
「そのためにビニールシートとその重しとなるレンガをちゃんと用意してあります。もちろん台風のあとは様子を見に来ますから、ご主人様は何も心配はいりません」
 改めて平底の一輪車を見れば確かに巣箱の他にビニールシートとレンガが数個載せてあった。それだけでなく長さ四十センチ、太さ十十センチ程度の丸太も二本載せてあった。
「じゃあ庭の隅に置いてもらおうか」と柿ノ倉は言った。

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「かしこまりました」
 男は言って、一輪車のハンドルを握った。柿ノ倉は自ら先にたって、庭の隅を指定した。男はそこに二本の丸太を置いた。
「木の箱を直接地面に置きますと、下の方から腐っていきますから、こうして空間を作るのです」と説明した。
 男はその丸太の上に巣箱をそっと載せた。そして、網の覆いをはがすと、日本蜜蜂がいっせいに飛び交った。
 柿ノ倉は思わず手で顔を覆った。
「ご心配いりません。この蜂が人間を襲うことは通常ありませんから。ただ巣箱の蓋を開けたりしないでください。たまにあるのですが、会員の方が、ハチミツがどのくらい溜まったかと箱を開けたときに、刺されることが。蜂が人間を襲うのは、あくまでも箱の中にいる女王蜂や幼虫を守るための防衛本能です。箱から離れて飛び交っている蜂に、そういう本能は惹起されません。ですから、巣箱は家から離した方がいいのです。庭の片隅なら、まったくもって問題ありません」
 話を聞いて柿ノ倉は、この男に好意を寄せるようになった。男が設置をすんで帰るときに、お茶でも飲んでいかないかね、と声をかけた。
 しかし男は、「今日は忙しいので------」と一輪車を押して帰っていった。
 柿ノ倉は、今時珍しい殊勝な人だなあと感心しながら、男の後ろ姿を見ていたが、しかしすぐに、いったい男は一輪車を押して、どこへ帰るのだろうかと不思議に思った。仮に離れたところに車をとめているとしても、ならばなぜ車を家の庭につけなかったのか、車が通れる道幅はあるのだから、わざわざ一輪車に積み替える必要はないのだ。
 今度こそ男の後をつけなければならないと、柿ノ倉は男の去っていった方向へ忍び足で歩いていった。男は林の中の道を、後ろを振り返ることもなく歩いていた。やがて道が枝分かれをし、さらに細い道の方を男は進んだ。柿ノ倉は不審に思った。というのは、柿ノ倉は日々の散歩で、よくこの辺まで来るのだが、この向こうは確か崖になっていたように思うからだ。
 周りに熊笹などが生い茂った小径をしばらく進んだ頃、男の姿が急に見えなくなった。どこかに入り込んだようだ。すると近くの木立の間から青いテント小屋が見えてきた。柿ノ倉は立ち止まり、それ以上近づくことは控えた。あの男がそこにいたからだ。男は一輪車をテント小屋の横に立てて、小屋の中に入ろうとしていた。
 柿ノ倉は引き返した。頭の中が混乱していた。養蜂家組合というのは、いったい何なんだろう。あれがその拠点なのだろうか。会員証まで発行しているというのに。もっとも、その会員証はコピー用紙に印刷したものだったが。
 柿ノ倉は、このときふと前の住人が自殺していることを思い出した。その自殺もこの養蜂家組合と何か関係があったのではないか、という気がしてきたが、別に根拠があるわけではなかった。

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 また、養蜂家組合というのがいつ結成したのか、いつからあのテント小屋があるのか、そして、前の住人も養蜂家組合の会員ではなかったのか、といったことを矢継ぎ早に考えたが、柿ノ倉は、前の住人が、一人で生活をしていたことといい、どうも自分と重なるようで急に不安になってきた。
 さっき柿ノ倉がちらっと見た限りでは、あのテント小屋には電気も水道もないようだが、もちろん、宅地開発されていない山に、そんなものがあるわけがない。であれば住居ではなく単なる物置なのかもしれない。物置であれば、この周辺は自然のままだから、蜜蜂の需要も多く、蜂の巣箱を保管するにはもってこいだろう。が、だとしても------と、さらに疑問点が柿ノ倉の頭に浮上した。住居ではないとするとあの男はこの後、どこへ帰るつもりなのだろうか。バス停がある市道に出るまで四キロほど離れているのだ。自転車もないようだし──もっとも、この高台の下が海沿いの細長い町だから、そこの住人であれば徒歩であっても不思議はない。が、それでもこの高台は急斜面だから、上がり下りをするには、かなり遠回りをする必要があった。
 柿ノ倉は今後、あのテント小屋がある細い道は避けなければならないと思った。ばったりあの男と会って、気まずい思いをしたくないからだ。とはいえ、蜜蜂のいる生活は、なかなか楽しいものだった。蜜蜂はそこかしこ飛び交っているが、他の蜂のような恐怖感はなく、むしろ一生懸命に花粉を集めている姿に感動すら覚えた。
 すでに述べたように、柿ノ倉は年金生活者の気楽な身分である。毎日、本を読んだり小説を書いて過ごしているが、二階の書斎の窓から、庭の片隅に置いてある蜂の巣箱をときどき眺めるのが好きで、これほど手間のかからない、そして希望を与えてくれるペットは他にないとまで気に入っていた。
 そんなある日、例の男が巣箱を見にやって来た。挨拶もなく、箱の蓋を開けて中を調べていた。二階の窓から、柿ノ倉はその様子を眺めていたが、よっぽど慣れているのか、男は頭にネットも何も被っていなかった。やはり専門家はちがうと柿ノ倉は感心した。
 男はすぐに帰っていったが、柿ノ倉はもう男に対して余計な詮索はしないことに決めた。律儀に蜂の巣箱の点検に来たのだ。金も取らず、これほど真摯に対応するセールスマンが他にいるだろうか。
 そしてこれ以降、男は近いこともあるのだろうが、一週間に一度の割合で、巣箱を見に来た。だいたい昼間で、すぐに帰るのだが、ある日のこと男は珍しく巣箱の前にしゃがみ込んでメモ帳に何か記入していた。柿ノ倉はその様子をいつもの二階の窓から眺めていたのだが、気になったので降りていって聞いてみようかと思った。しかし、元来人付き合いの悪い柿ノ倉は、あえて尋ねることはしなかった。用事があれば向こうの方から言ってくるだろう、と安気に構えていた。はたして男は、帰り際に家のチャイムを押した。柿ノ倉は、待ってました、とばかりに二階から駆け下りた。

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