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「おかえり、寒かったでしょう。郵便が届いてるわよ」

 和子は、中学生になったとたん口数がめっきり減った娘に声をかけた。案の定、ゆう子は、むすっとしてその茶封筒を受け取った。でも、心待ちにしていたものなのだろう、それを抱きしめると顔を上気させた。それからあわてて「ムスッ」にもどすと、ドドンと階段を踏み鳴らして二階へかけ上がった。

「雑誌社だったけど、また投稿したのかな」

 宛名は本名のゆう子ではなく『村瀬ゆう』だったキッチンに戻った和子は、ため息を一つ吐く夕食づくりに取り掛かった。そして、クリームシチューの準備をしながらあれこれと思い出していた。

 今、反抗期真っただ中のゆう子だが、きっかけは名前だった。

 五年生になったある時、

「ねえお母さん、なんで『ゆう子』ってつけたの?ダサイ名前ですっごく嫌なんだけど」

 そう言われた和子は、一冊の絵本を本棚から取り出して言った。

「これ、お母さんの大好きな絵本なの、ここからもらったのよ。お父さんも賛成してくれたし」

 ゆう子は、山脇百合子の『ゆうこのあさごはん』をパラパラとめくると

「うそー!女の子がゆでたまごに乗って帰ってくるだけの話しじゃない。そんなにこの作者が好きならいっそ『ぐりぐら』ってつければよかったのに」

 そう言って和子をキッと睨むと、絵本を押し返した。

「二月生まれだから、如月で『きさら』にしようか迷ったんだけど、女の子の名前はあまり個性的じゃない方がいいと思ったの」

「うわ、何、その封建的思考!あー、『きさら』だったらどんなにかっただろう」

 うっとりとして言った後、

「お母さん、大勢がいるところでね、後ろから『ゆう子さん』って呼んでごらんよ、何人もが振り向くよどこにでもある名前ってすっごい嫌

 ふくれっつらをして言い足した。

 和子も、確かにもっとおしゃれな名をつけてやればよかったとっと思ってる。ゆう子の友達も『美咲』『遥』『萌』さんとか愛らしい名ばかりだ。生まれてからニ、三年で 『子』が急に減ったように思う。

 玉ねぎをを切りながら、涙目でふと窓を見ると風花が舞っていた。あの朝も雪がちらついていたなあと思い出す。

「おぎゃー」

「元気なお嬢ちゃんですよ」

 その声を聞いたときの喜びは、眩しい粒が降り注いだようであった

 それからも、名前の話をした後も、ゆう子はいろんなペンネームを考え出して、雑誌のちょっとしたコーナーに投稿していた。そして、本名を『ゆう』と名乗っていたようだった。和子は、「ゆうこ」という響きがとても好きなのだが、今更どうすることもできず、娘に文句を言われる度にぐちぐちと思い悩んでいた。

 ゆう子は、志望の高校へ入学すると、図書室で民法を調べ始めた。娘が真剣に改名を考えていると知った和子は、

「それほどひどい名前なの?まあそのうち無駄だと分かりやめるわ」

 流石に呆れ果て、好きにさせておいた。ところが、ゆう子はそれ以来、法律に興味を持ち続け、大学は法学部にと決めてしまった。しかも猛勉強の末、遠い東京のそれなりの大学に合格するとさっさと家を出たのだった。そして卒業すると都内の中堅の会社に就職した。和子は法学部出身というと弁護士のような仕事しかイメージしていなかったが、会社でも色々な部署で必要とされていことを夫に教えてもらった。

 それから、今に至っている。音信不通という訳ではなく、こちらに帰って来るし、電話もメールも交換している。それにしても、自分の改名という突拍子もない思いから始まって、進路を決めその道を歩いている娘に、和子はエールを送っている。だけど、あまりにあっさりした娘にいつも寂しかった。今も、々間違って届く郵便物は相変わらず『村瀬ゆう』で、和子はやれやれと苦笑している。

 ある年、ゆう子の誕生日が近づいた頃、急に帰ってきた。前日に連絡があったとき

「お正月にも忙しいからと帰らなかったのにどうしたのかしら。ご馳走作らなきゃ」

 和子は、いそいそと娘の好物を用意した。

「ただいまあ」

「おかえり、寒かったでしょう」

 慌ててドアを開けた和子はポカンとして固まってしまった。

 娘の後ろに、青年が立っていたのだ。

「はじめまして。日和佐と申します」

 そう言われた和子は、しどろもどろに答えた。

「あっ、まあ、と、遠いところよ、よ、よくいらっしゃいました。ひわささん、ちょっと珍しいお名前ですわね」

 二人並んでソファーに座ると、夫と私に彼は言った。

「僕たち婚約します。よろしくお願いします」

 突然のことで緊張していた和子たちだったが、しばらくして、夫もお酒が入り和気あいあい話が弾んだ。帰る二人を見送ってドアを閉めようとする和子に娘は笑顔を向けた。

「お母さん、ありがとう。ゆう子という名前をつけてくれて。だって、ひわさきさらじゃちょっと恥ずかしいじゃない。またね」

 二人の後姿を見送った和子は、ばかばかしいような思いと共に、しい粒が降り注いでいるような喜びに満たされた。それは、あの日から三十年になろうかという夜であった。


この本の内容は以上です。


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