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九月十五日 引き続き、亀屋の二階

「め、麺棒って……」

「いくらなんでも、それで大の男を……?」

 鉈や鋤鍬じゃないんだからと、あたしとおつたさんは顔を見合わせたけれど、

「田舎の女は、力が強いです」

 そこは、自信満々に言う所じゃ無いと思うんだけど。折角庇っているのにさ。

 だけど、おいねちゃんは、

「伝次なんて、あんな奴、大の男のうちに入らない。ろくに畑を耕したことだ

って無いんだ」

 きゅっと口を引き結び、両の拳を握りしめた。

「それにしたって……後も見ずに飛び出したって言うんだろ? 本当に息が絶

えたか、確かめたわけじゃ、ないんだろ?」

「あたしは、確かめてません。だけど――」

 

     *     *     *

 

~おいねによって語られた話~

 

 村はずれのお地蔵様を見た時は、もうここへ帰ってくることもないんだと、

涙がこぼれたけれど、それでも足を止めずに駆け抜けた。

 街道筋の小さな宿場町までは、何度も野菜を売りに行ったことがある。

 走って走って走って、もうすっかり足が棒になったけど、それでも足を休め

ずに、とぼとぼと歩き続けた。

「おい、おめえ、おいねだろう。どえれえことをしでかしたなぁ」

 突然後ろから声をかけられて、初めてあたしはぎくりと足を止めた。

 それは、あたしを引き取りに来た女衒で、由助という男だった。

「頭の鉢をぱっくり割られてくたばってたぜ。おめえがやりやがったんだろう?」

 その時あたしは初めて、伝次が死んだのだということを知った。恐ろしさと、

ほっとするのが同時だった。

 だけど、実際にはほっとしてる場合なんかじゃなかったんだ。

「亭主殺しとなると、ただじゃあ済まねえぜ。すぐにも山神一家の奴らが追っ

手をかけてくるだろう。磔獄門くらいで済めばいいがなあ」

 山神一家というのは、この辺り一帯を牛耳るやくざ者だけど、代官所から十

手も預かっていて、やりたい放題の奴らだ。伝次は、この山神一家の賭場にも

出入りしてるという、もっぱらの噂だった。

 由助は、狡猾そうな目で、

「なあおい、俺が、江戸まで連れて行ってやるぜ。おめえも、命は惜しいだろ

う?」

 本当のところ、命が惜しい、なんて気持ちはもう、あんまり無くなっていた。

いっそ川にでも飛び込んでしまおうかとさえ思っていたのだけれど、やっぱり

磔獄門は恐ろしい。

 何が何だか分からないうち、今度は由助のいいようにされて、江戸まで連れ

られて来てしまった。

 

     *     *     *

 

「ふうん、武州の山神一家か」

 先生は目を眇めて、懲りねえなぁ――と、低く呟いた。

「それで、結局江戸へ出るまで、その追っ手はかからずに済んだのかね」

「女衒の由助は旅慣れていて、山道とか、雲助に金をやったら通れる抜け道と

か、色々知っていたから……」

「……なるほど」

 

 その時、がたがたと音がして、予想外に早く万蔵親分が帰ってきた。

 おつたさんが、慌てて降りていく。

「早かったねぇ、おまいさん。甘酒屋、見つかったのかえ?」

「いんや、今時分にこの辺りで夜に商いしてる甘酒屋は一人もいねえよ。酒屋

に頼み込んで、固練りを分けてもらってきた」

 さすが親分。この方面にかけての手並みは天下一品で、縄張り内のことなら

猫の仔一匹に至るまで知らないことは無い。

 酒屋さんはとうに店じまいしている刻限だけど、十手を笠に着ることも無く、

頭を下げてちゃんと金を払ってのことだから、気持ちよく分けてくれたそうだ。

 固練りというのは甘酒の元だよ。

 普通の甘酒は、米をおかゆ状に炊いて麹を混ぜ、温かくして一晩置いて作る

ものだけど、固練りは、少し柔らかめに炊いた餅米で、同じようにして作った

もので、お湯で伸ばして温めて飲むんだよ。

「それでよう。まさか一杯分だけとも言えめえから、一斤買って来ちまった。

飲みきれねえ分は、明日客にでも出してやるがいいぜ」

「ばかじゃないのかい。うちの店に来るような男どもが、女子どもみたいに甘

酒を喜んですすったりなんかするもんかね」

「何だとう! 女子どもたあなんだ。おりゃあ好きだぜ、甘酒っ。……おめえ

の菜飯もだが」

 くすっ、と――

 こんな階下のやり取りを聞いていたおいねちゃんが、はじめて笑った。

「夫婦って、ほんとはこういうもんなんだね……」

 笑いながら、涙ぐんでいた。

 

「帰って来ちまったのなら仕方がない。やはり、親分にも話を聞いてもらうか」

 と、先生も降りていき、

「親分。甘酒の残りは、わたしがもらおう」

 病の子どもには良い薬になるからと言って先生は、珍しく銭を出した。

 また引きつけを起こされちゃ大変だから、あたしは慌てて万蔵親分はいい人

で、ちゃんと人の話を聞いてくれる人だから大丈夫だよと説明したけど、そん

な必要も無いくらいに、おいねちゃんはもう落ち着いていた。

 おつたさんが温めて来てくれた甘酒を、みんなで飲んで一息つく。

「でもさあ、あたしが思うに、その女衒がいっち怪しいよ」

 家に行ったら伝次が目を回していて、おいねちゃんはいない。でも、まだそ

んなに遠くへは行っていないはずだ――と、思ったら、伝次を殺しておいねち

ゃんを追いかけ、人殺しの汚名を着せて言うなりにして、江戸で売ってしまえ

ば丸儲けじゃないの。

「ありそうなことだが……しかし、その証を立てるのは難しかろう。そこが、

問題なんだ」

 確かに、江戸のことではない上に、今となってはもはや調べる術も無く、由

助が、自分がやったと告白でもしないことには、証の立てようはないけれど、

自分が死罪になっちまうと言うのに、わざわざそんなこと言うわけないからね。

 だいたい、おいねちゃん自身が、本当のところを分かっていないってのが、

一番の問題なのさ。


 花川戸の権七

「ところで、その女衒の由助はどうしたのさ。どうやって逃げてきたの?」

 ここへ来た時、おいねちゃんは、裸足だった。

「江戸へ着いたら、すぐにも女郎屋に売られるものと思っていたら、どこか分

からないけど小さな一軒家に連れ込まれて、縛られて、押し込められてしまっ

たんです。なんだか、取り引きに厄介なことがあったみたいで、しばらくの辛

抱だと言って、由助は出て行きました」

 たぶん、旅の間はどうせ逃げ場は無いと高をくくっていたけど、このお江戸

で逃げられたらことだと思ったんだろうね。

「でも、逃げ出すつもりなんか無かったんですよ。逃げたってどうにもならな

いことは分かっていたし、伝次なんかに比べたら、まだ由助は親切だったし…

…だけど、由助は出て行ったきり全然帰ってこなくて、そのうち厠に行きたく

なって……一生懸命動いていたら、縄が解けました」

「それで、逃げられたんだ?」

「……そんな気力、無かったです。前の晩からご飯もいただいてなくて、ふら

ふらしながら厠へ行っただけでした。だけど、間が悪いことに、丁度その時由

助が帰ってきたんです。『あのあま、逃げやがった』って、ものすごい声でわ

めくのを聞いて、急に恐ろしくなって、厠の中でがたがた震えてました。そし

たら、表で、身投げだ――って。女が橋から身を投げたと人が騒いでいるのが

聞こえてきて、あたしだと思ったんでしょう、由助は飛び出して行ったんです。

それで、ようやく逃げ出す決心をして、そこからそのまま――」

「へへっ、あれを身投げというのならね」

 親分が、笑った。

「奥山辺りじゃちょいと名の知られたお紋って女掏摸が、追い詰められて新シ

橋からドボンと飛び込みぃの、あれよあれよという間に抜き手を切って泳ぎだ

しぃので、いやもう一騒動だったんで」

 江戸で、泳げる人はそう多くは無いから、さぞかしみんな面白がって見物し

たことだろう。あたしも見たかったよ。

「じゃあ、親分が言ってた捕物っていうのは、それのことかね」

「ああ、舟を出すの出さねえのと騒いでいるうち、急に沈んで、そのまま浮か

んでこなくなったんで、溺れたかと思っていたら、深く潜って目を眩まして、

ずっと遠くの岸に泳ぎ着いて逃げおおせていやがったんだ。あんな芸があるの

なら、掏摸なんて危ねえ稼業からは足を洗って、奥山か広小路で人魚の見世物

でもすりゃあ、大入り間違い無しなんだがな」

 掏摸は、三回までは叩きと入れ墨だけど、四回目に捕まると、いくら掏った

かに寄らず、問答無用で死罪となってしまうんだ。

「……すると、その閉じ込められていた家は、ここからそう離れてはいないの

だろうな」

 そんなことくらい、最初から分かっているじゃないの。

「それはそうだよ。だって、おいねちゃん、履き物を履いていなかった。そん

なに長くは――」

「そうなると、ちょいと気の利いた御用聞きが嗅ぎ回れば、じきにここへ辿り

着くだろうな」

「それぁそうだろうが、だって、武州のずっと田舎で起こった話でしょ。全く

の支配違ぇで、代官所から手配でも回ってこねえ限りは、何の義理もねえ。江

戸の御用聞きは、動きやせんよ」

「だが、どういうわけか知らんが――」

 先生が、すっと目を細めたその時、どんどんと今にも破られそうな勢いで戸

障子が打ち叩かれて、

「やい、亀っ。出てきやぁがれ!」

 胴間声が響いた。

 先生は、不思議に人が訪ねてくる前から、それが分かっているようなふしが

ある。

 一方万蔵親分は、

「うるせえ、おりゃあ亀じゃねえんだ、べらぼうめ」

 ぽんぽんと鞠が跳ねるように階段を駆け下りた。

 ぬっと入ってきたのは、花川戸の権七という御用聞きだ。

 御用聞きには、いいのと悪いのとがいるんだよ。万蔵親分が良い方の極めつ

きなら、権七は、悪い方の極めつきさ。

 右頬に凄みのある深い傷跡があって、万蔵親分とは貫禄が違う。

「黙れ。亀の分際で、足抜き女郎を匿うたあ、ふてえ野郎だ」

「……足抜き女郎? 違うだろう、まだ売られてもいねえんだから」

「なら、不義密通だ。亭主を殴り倒して男と逃げ出すたあ、ふてえあまだ。隠

すとてめえも同罪だぜ」

 権七が、親分に十手を突きつけてそう決めつけ、また別の男が、

「やい、おいね。よくもやりゃぁがったな。いるんだろう、出てこい!」

 その声を聞いて、おいねちゃんは、

「ゆ、幽霊――っ」

 がたがたと震え出す。

 男の頭には、白い布が巻かれていて、少しばかり血も滲んでいる。

「なんだ、生きてたんじゃないか。良かったな」

 のんびりと先生は言ったけれど、いいもんか。

 岡っ引きまで同道で、亭主が女房を帰せと乗り込んできたということになれ

ば、渡さないわけには行かないじゃないの。そしたら結局おいねちゃんは、伝

次に売り飛ばされてしまうんだろう。話が振り出しに戻っただけだ。

「うるさいな。静かにしないか。ここにいるのは病人だぞ」

「病人だとぉ?」

「うむ。おいねと言ったか、あの娘、大変に良くない病に罹っている」

「まさか」

「本当だ。こういう病人が出た時は、すぐさまお上へ申し上げなければならな

い。それで、万蔵親分に相談をして、明日にも小石川養生所へ、身柄を移す手

筈になっておるのだ」

 先生は、いけしゃあしゃあと、適当なことを言う。

 伝次の顔色が変わった。

「そっ、それは……命に関わるような――?」

「うむ。コロリのようにあっという間に死んでいくわけではないが、まず死病

の部類だな。死ぬまでどこかへ隔離しておくより他あるまい」

「それで、その病は……その、伝染りますんで?」

「さよう、だからたちが悪いというんだ。ことに、肌を合わせたりすると、て

きめんに伝染る。ご亭主と言われたな。あんたも念のため養生所に――」

「じ、冗談じゃねえ――」

 よろよろと伝次が後退る。

「おいおい、こんな藪医者の言うことなんか……」

 眉をしかめて権七は言ったけれど、田舎では江戸よりもずっと、お医者とい

うものの株が高いらしく、頭から信用しきった様子の伝次はもう真っ青になっ

ている。

 そんな伝次の有様を見て権七は、ちっと舌打ちし、

「おう、亀よ。養生所へは、俺も同道するからな」

 言い捨てて、伝次を小突くようにして帰って行った。


翌日――

 菜飯屋・亀屋の前に一丁の町駕籠が止まり、店の中から、白髪頭の医者に抱

きかかえられるようにして、薄汚れた紺木綿を来た女が出てくる。

「おい、ようく確認しろよ。てめえの女房に、間違ぇはねえんだろうな」

 びくつく伝次を小突くようにして、花川戸の権七は、女の顔を改めさせた。

 頭から手拭いを被り、顔を背けるようにしていた女の顔を見て、権七はぎょ

っとした。

 女の両頬から首筋にかけて、どす黒い痣が広がっていたからだ。

 伝次も、ひっと悲鳴を上げて、

「ま、間違いねえ、おいねだ。だけど、どうして、こんな――」

「これこれ、近づいてはいかん。伝染ると、お前達もこうなるぞ」

 痣はやがて全身に広がり、そこから身体が腐れていくのだと医者が説明をし

たから、伝次はもう見るも哀れな有様で、使い物になりそうも無い。

 昨夜見張りに残した子分どもも、今朝まで女は一人も家を出ていないと請け

合ったし、朝早くにやってきた小女のおきみは、前垂れ姿で店の前に立ってい

る。もう一人、昨夜も二階から顔を出していた小娘は、ちょこまかと医者の後

ろにまとわりついて叱られている。大女のおつたは論外で、確かに女は入れ替

わっていないようだ。

 だが、念のためだ――と、権七は、大威張りで駕籠を先導している亀屋の万

蔵の横に並んだ。

 病人を乗せているためだろう、駕籠はそろそろと、普通よりはゆっくりとし

た速さで八辻が原に差し掛かった、その時――

「喧嘩だっ!」

 歓声が上がり、十数人の屋敷中間どもが乱闘をおっぱじめていた。

 こいつらは、まるでそっちが仕事ででもあるみたいに、のべつ喧嘩ばかりし

ている野郎どもで、駕籠の先棒争いに始まって、肩が触れたの眼を飛ばしたの

という、まるでしょうこともない何から何までが発端となって、挙げ句、無責

任に煽り立てる者あり、訳も分からず加勢する者ありで、徒党を組んでの派手

な喧嘩となるが、武家奉公人だから町方の手先である御用聞きには何の関わり

もない。いや、関わり合っても得にはならないから権七は、無視してそのまま

行き過ぎようとしたのだが、

「親分、これは危ないぞ、何とかしてくれ」

 医者は、脇の方へ駕籠を寄せて降ろさせた。

 言われて万蔵は、素直に鉄砲玉のように飛んでいく。

 しかし、ちびでのろまな亀は、たちまちはじき出されて、ころころと転がっ

た。

「へっ、馬鹿な野郎だ――」

 と、権七は唇を歪めて笑う。

 そうこうしている間に、騒ぎはどんどん大きくなった。

 八辻が原は、筋違御門前の火除地で、日頃は食べ物屋台や大道芸人が出て、

賑わっているところだが、側杖を食っては大変と、皆大慌てで逃げ惑う。

 その様を権七は、ただにやにや笑いながら、眺めていた。

「花川戸の。俺にゃあ荷が重い。助《す》けておくんねえ――」

 日頃、鼻っ柱だけは強い鈍亀が、頭にこぶをこしらえて、半べそですがって

きたのは、気分が良かった。

「尻っ腰のねえ野郎だぜ」

 嘲ったが、中間という奴は、町方は支配違いと十手など歯牙にも掛けない連

中で、おまけに人数が多いから面倒だ。

「こんなもの、放って置いたって、そのうちおさまらあな」

「けどよう……」

 万蔵は不満げな顔をしたが、結局は権七が言った通りで、喧嘩は唐突に終わ

った。

 どんな手打ちがあったのか、中間どもは、あれよあれよという間に蜘蛛の子

を散らすように散って行き、やれやれと皆が動き出す。

「やれ、酷い目に遭ったな。行こうか――」

 酷い目に遭ったのは万蔵一人で、それはお前のせいだろうがと思ったが、口

には出さず権七は、鋭く辺りを見回した。

 さっきまでふらふらとつきまとっていた娘は、団子の屋台の縁台で、団子を

頬張っている。大方医者が、団子でだまして追い払ったのだろう。

 病なんぞは嘘の皮で、あるいはこの娘とおいねがどこかで入れ替わりを演じ

るのではないかと疑っていた権七は、拍子抜けした気分で小石川まで道中をと

もにしたが、その後は何事も無く養生所に着いた。

 医者と女が門をくぐり、万蔵と権七は外に待たされたが、権七は抜かりなく

帰って行く駕籠の中を確認したし、相変わらず手拭いを被っていたものの、女

の顔に痣があるのは、はっきりと見えた。

 しばらくして一人で出てきた医者は、「言うまでもないことだろうが、流言

の類で人心を惑わしてはいけないから、くれぐれもこのことは内密に」と、念

を押すと、厄介ごとが片付いてせいせいしたという顔で、すたすたと帰途に就

いた。

 酒手の一つも出さない、ケチな貧乏医者だった。

 権七は、それでもしばらくその場に粘って、養生所から女が出てくる度に声

をかけたが、おいねらしき田舎娘は、一人としていなかった。

 

「まったく、てめえのせいで、とんだ骨折り損で、おまけに恥を掻いたぜ」

 戻って来た権七は、腹立たしげに、伝次を怒鳴りつけたが、伝次は今なお、

心ここにあらずと言った風情だ。

「昔世話になった、山神の親分の添え状を持っていたから、これまで助をして

きたが、もう勘弁ならねえ。女房は病でもう使い物にならねえと言うんだし、

諦めて国へ帰ぇんな」

 花川戸の権七は、十手持ちとは名ばかり、やくざも同然の手合いだと、町の

者も、御用聞き仲間も顔を背けるが、真実権七の前身は、渡世人だったのであ

る。

 山神一家にも草鞋を脱いだことが有り、その伝手で、江戸で人捜しをするか

らと頼ってこられ、やむなく手を貸した。

 はじめは順調だったのだ。

 たまたま、女衒の由助を見つけることが出来たのが大きかった。

 由助を締め上げて、隠れ家へ案内させたが、女は逃げた後だった。だがそこ

からが江戸の目明かしの手並みで、すぐさま亀屋の万蔵の元へ転がり込んでい

ることを突き止めた。

 万蔵は、目明かしとも思えない、お節介焼きで義侠心の強い目障りな男で、

ここらで一つ叩いておけるかと思ったのだが、すっかり当てが外れてしまった。

 その八つ当たりをするように権七は、伝次をすげなく追い出した。


 八辻が原

「いやー、おもしろかったねっ。もう、わくわくしちゃった」

 にこにこと、おしんちゃんが言う。

 八辻が原の乱闘騒ぎは、先生が仕組んだことだった。中間さん達の中には、

先生の世話になったことがあって、恩義を感じている人が大勢いるらしい。

 騒ぎに乗じた一瞬の隙を突いて、おいねちゃんとおしんちゃんが、入れ替わ

ったのさ。

 二重に着物を着ていたおいねちゃんは、駕籠の中で紺木綿を脱いで、痣の化

粧を落とした。おしんちゃんは反対に、いつもの着物を脱いで駕籠に乗り、駕

籠の中で顔に痣を描いた。着物は宮地芝居の早変わりの小道具で、逃げ惑う人

達の中に、やっぱり先生の知り合いの芸人さん達が紛れ込んでいて、みんなで

協力したんだよ。

 本当はこんな面白いこと、あたしがやりたかったのに、あたしは権七に顔を

見られてしまったから駄目だって。

 権七は、それまでおいねちゃんの顔を知らないのだから、どうしても痣の印

象の方が強く残る。それを利用しての入れ替わりだけれど、そうは言っても、

一度でも素顔を見たことのある顔では、さすがに看破されてしまう恐れがある

からと、背格好も似ていたおしんちゃんに頼むことになったんだ。

 仕方がないからあたしは、おしんちゃんの代わりに、団子の屋台を手伝って

いたのさ。

 おいねちゃんは、一旦芝居小屋の人達に匿われ、それから先生が、しばらく

知り合いに預かってもらうと言って、どこへか連れて行った。

 万蔵親分が「蛭みてえにしつっこい野郎」と、評する権七に、跡を尾行けら

れたりしちゃまずいからと、あたし達にも場所を教えてくれなかった。

「おいねちゃんに比べたらさ、あたしなんか、おとっつぁんもおっかさんも、

おじいちゃんだって居るんだし、全然平気だよね……」

 しみじみと、おしんちゃんが言った。

 全然平気、という言葉の裏には、辛い思いが透けて見える。

 いつでも元気いっぱいのおしんちゃんだけど、急に暮らしがすっかり変わっ

てしまって、全然平気なわけ無いんだ。

 だから、あたしは、なんと返していいか分からなかった――

「それにさぁ、婿選びはほんと、がっちりやらなきゃ駄目だよねっ」

「えぇ?!」

「最近、店の再建資金は融通するから、みたいなことを言って、しきりに縁談

を持って来る人達がいるみたいなんだけど――亭主におさまった途端に亭主風

を吹かせるようなのに、母屋を取られちゃかなわないもん」

 商家でも、店を継げるのは長男だけだから、次男三男は、大店だったら暖簾

分けも出来るだろうけど、そうも行かなければ、余所へ奉公して自分の才覚で

身を立てるか、どこかの婿養子に納まるかしかない。

 隙あらば何とかしてねじ込もうとする人達も、いるんだろう。

 また、あたしは、なんと返していいか分からず、ただこくこくと頷いた。


 亀屋

「畜生、あいつら、本気で殴りゃぁがった」

 ぶつぶつと文句を言う万蔵親分のたんこぶに、

「済まなかったな。どうも、関わりない奴らまで、面白がってちょっかいをか

けてきたようで――」

 先生は膏薬を貼ってあげていたけれど、

「てっ、こんなざまじゃ、みっともなくて外を歩けねえ」

 と、おかんむりだ。

 本当は、殴られたことより何よりも、気を逸らすための芝居とは言え、花川

戸の権七なんかにへこへこして見せたのが、大いに気に食わないんだ。

 昨日おつたさんは、結局ほとんど寝ていないし、親分はこうご機嫌斜めだか

ら、店は早仕舞いにしてしまっている。

「由助は、おいねが監禁されていたという家で、倒れていたそうだな」

「へえ、花川戸の奴らにボコボコにされてね。まあ、商売物を欺してかすめ取

ったってことだから仕方もねえが、指が一本切り落とされていやしたぜ」

「ひええ」

 由助の行動は、大体あたしが睨んだ通りだったのだけど、唯一、肝心の所が

違っていた。由助には、おいねちゃんにぽかりとやられて目を回していた伝次

の息の根を止める度胸なんか、無かったんだ。

 後ろに山神一家が付いていることには気付いていただろうけれど、娘一人の

ことで大勢の子分を動かすのは割に合わないし、たとえ多少の追っ手が掛かっ

たとしても、どのみち江戸へ出てしまえば地の利は自分にあって、田舎者など

何も出来ないだろうと高をくくっていたところ、江戸の岡っ引きなんぞが味方

に付いていたのが大誤算で、たちまち捕まって落とし前を付けさせられてしま

ったというわけ。

「まあ、命があっただけでも御の字だろう。田舎のやくざ者は、もっとずっと

荒っぽいからな」

 呼んでくれれば、手当くらいはしてやったのに――と、先生は、相変わらず

人の良いことを言う。

「そのつもりで、自身番に留めて置いたんだがね。番人の隙を突いて、逃げ出

しちまったらしい。咎人とも言えねえんで、縄なんぞはかけちゃいなかったん

で」

「まだ、江戸にいるかねえ」

「さてね。信用を無くしちゃ、女衒なんて続けられねえだろうが……」

 どこの女郎屋にも、相手にされなくなってしまうだろうと、親分は言った。

 こんな稼業の人間が、世の中から一人でも居なくなるのは良いことさ。雨後

の竹の子みたいにどんどん出てきて、決していなくならないことは、分かって

いるけれど。

「江戸にいるなら、いつかおいねちゃんが――」

 何かのはずみで見つかってしまうかも知れないという心配を口にしかけたあ

たしを、先生が止めた。

 先生は、ふわりと立っていき、すっと腰高障子を開く。

 ひっと悲鳴をあげて逃げだそうとした男の、首根っこをつかむようにして、

店の中へ引っ張り込む。

 伝次だった。

 何か言い掛かりでも付けに来たのかと思ったら、伝次は、紙のように真っ白

な顔色で、ぶるぶる震えている。

「せっ、先生、痣……痣がっ――」

 何のことはない、おいねちゃんに打たれた傷の周りがちょっと、青たんにな

っているだけなのさ。だけど、先生の薬が効き過ぎたかして、すっかりもう自

分も死病に取り憑かれたものと思い込んでいるみたいだ。

「……おやおや。しかしまあ、丁度良かった」

 こっちから出向く手間が省けたと呟いて先生は、ご親切にも親分と同じ膏薬

を貼り、薄汚れた白布を替えてやりながら、世間話でもするように、

「伝次と言ったか。おいねのてて親を殺したのは、お前さんかね」

 ずばりと聞いた。

 先生は――あたしだってそんな気がしていたけれど、はじめから、おいねち

ゃんのおとっつぁんが亡くなったところからもう、全てが仕組まれていたんじ

ゃないかと睨んでいたんだ。

 ええっと伝次は目を瞠いて、ぶるぶると首を振った。

「ととととんでもねえ――」

「ふうん。ならば、山神一家の誰かの仕業か」

「しっ、知らねえ――。俺は、ただ……」

「ただ?」

「賭場の借金が膨らんで、どうしようも無くなって、返すための策を親分に授

けられて……親父に金を出させて、元々庄屋に取られることになってる土地を

手に入れるんだって――」

 おいねちゃんの村の庄屋さんは、借金の額に寄らず、金を貸す時に土地をす

っかり担保に取る代わり、返済に何年かかろうと、飢饉などで返済が滞ろうと

基本無利子で、追加の借金さえ受け付けた。

 だから、その土地でお百姓さんが汗水流して働いているうちは、土地を取ら

れてしまうなんてことはまず無いのだけれど、当人が死んだり逃散したりで、

そこを維持できなくなった場合には、全部庄屋さんが召し上げた。村の土地が

荒れたり、売り捌かれて余所から変な人が入ってきたりするのを防ぐためなん

だろう。

 そんなわけで、おいねちゃんちの土地は、証文の額面よりはるかに価値があ

ったんだ。

 庄屋さんも、まさかやくざ者の手に渡るとは思わず、村有数の大百姓の息子

が入って、真面目に働くということならと、欺されてしまったんだね。

「だけど、ひっ人殺しなんてっ。俺はっ、ただ親分の言う通りにしただけなん

だ!」

「おいねちゃんを売ろうとしたじゃない!」

「そ、それも親分が……どのみち身売りをするしかねえような女だと。そんな

女が金を持ってたって仕方がない、あっという間に溝に捨てるように間夫に貢

いでしまうだけなのだから、そいつもついでに頂戴してしまえ、て――」

「なんて野郎だ! てめえはっ、ああいう所の女がどんな暮らしをしてるか知

ってて、そんなことを言やぁがんのか!」

 万蔵親分が真っ赤になって、今にもつかみかかりそうな顔をした。

「お、俺が言うんじゃねえ。全部、親分が……畜生、それなのに、なんでこん

な――」

 えへん、と先生は、もっともらしく咳払いをした。

「まあ、そう悲観したものでもない。おいねのようになっては手遅れだが、罹

った者全員が必ず死ぬと決まったものでもないからな」

「ほっ、本当で?!」

 伝次の顔がぱっと明るくなる。あたしなんかの気分じゃ、お前なんか絶対死

ぬと宣告してやりたいくらいなんだけど。

「うむ、まず、江戸の空気は、殊の外良くない。水と空気の綺麗な田舎で、酒

も煙草も断ち、汗水流して働けば――」

「は、働くんで?! 病なのに……?」

「この病の虫はな、骨惜しみせず働く者の身体の中では、身を縮めて大人しく

しているしかないのだが、身体を動かさず自堕落に暮らしていると、たちまち

増えて身体を蝕み命を奪う。おいねも、よく働く娘だったから、それまでは無

事に過ごしてこられたのだが、江戸へなど連れて来られ、挙げ句に自由を奪わ

れ、働きたくても働けなかったが為、可哀想にあのようなことになってしまっ

たのだ。お前さんも、今すぐ故郷へ帰って真面目に働くことだな」

「で、でも、山神の親分が……」

「寅五郎だろう。どれ、わたしが一筆書いてやろう」

「ご存じなんで……?」

「うん……まあ、よろしく言っておけ。これ以上阿漕な真似を続けるのなら、

俺が直々挨拶に推参するからそう思え――とな」

「……へえ」

「それから、おいねとは縁を切った方が良いな。お上の方針がこの先どうなる

か分からんが、もしかすると、病の蔓延を防ぐ為に、関わり合いの者は全て隔

離ということにならんとも限らない」

「ええっ!」

「わたしとしては、助かる望みのある者まで地下蔵のようなところへ押し込め

てしまうのはどうかと思うのでな」

「ち、地下蔵?!」

「しかも、働かないと死んでしまうというので、穴掘りなんぞをさせられるら

しい」

「た、助けてくれ!!」

 伝次は、先生に言われるがまま三行半の去り状を書き、米搗きバッタのよう

に頭を下げ、その足で江戸を離れると言って、逃げるように出て行った。

 

「あれであいつ、まっとうになりやすかね?」

 万蔵親分が首を捻ったけれど、

「まあ、無理だろうな」

 あっさりと先生は言った。

「話は穴だらけだし、こんな与太話をいつまでも信じているわけはない。そう

でなくとも、いつかは必ず怠け癖が出て、なんだ大丈夫じゃないかということ

になるだろう。――さすがにやくざと関わることには懲りただろうから、欺さ

れてでも働く気になっているうちに、周囲の者が本腰入れて改心させ、性根を

たたき直せば良いんだが」

 そして、仮に端から見て真人間になったとしても、一生死病に怯えながら生

きていかなければならないなどというのは良くないことだ、とも言った。

「ともかく、肝心なのはこれだけさ」

 と、先生は、伝次が置いていった去り状をひらひらさせた。

 これさえあれば、仮においねちゃんがどこかで由助に出っくわそうと、早々

と嘘に気付いて伝次が乗り込んでこようと、もう何の問題もない。

 うまく去り状が取れなかったら、縁切り寺を頼るより他なくなるからね。



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