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 医者と言ったって、どうにも怪しいもんだぜ。

 そうかね。骨接ぎは、なかなか上手いって聞いたがね。

 ああ、でも飛び込んでくるのは、やくざ者まがいのろくでなしばかりだって

話だ。助けたって、世のためにゃあならねえや。

 それでも、貧乏人の間では、結構有り難がられてるみたいだが……

 そんなの、見せかけに決まってる。おおかた毒にも薬にもならないようなも

んを飲ませて、雀の涙ばかりの銭を巻き上げてやがんだろう――

 

     *     *     *

 

 ま、そう大きく外れちゃあいねえ――と、周庵はうっすらと笑った。

 こんな話を聞かされて、間辺新八郎は、周庵を第一の標的と定めた……らし

い。

 確かに、傷の手当てについては心得があるが、医者だなどと言えるような代

物だとは、自分でも思ってはいない。

 薬が、気休めに過ぎないのも事実だ。

 貧乏人の病の元はまさにその貧困であって、食うや食わずの弱った体には、

病をはねのけるだけの力が備わっていないのだ。

 まずはそちらのほうに金を使えば、当然薬にまでは手が回らない。

 自分自身が貧乏人の眷属なのだから、高直な薬などばらまけるわけは無いし、

第一、ちゃんとした漢方医のような、微妙な匙加減など知らないのだから、そ

もそもあまり強い薬などは扱えなかった。

 しかし――

 そんな人達から周庵は、雀の涙ほどの金さえ受け取ってはいない。

 本道(内科)のことは分からぬと言って断れば、他に頼るところも無く、後

はただ死を待つばかりの人達だ。医者だろうとなかろうと、手を差し伸べるの

が人情というものだろう。

 助けられる見込みなど、ほとんど無いに等しい。それでも、少しでも身体が

楽になれば良い、多少なりと長らえられれば良いという思いで面倒を見るのだ。

 医者でも無い者が、近所のよしみで世話をしたからと言って、金など取れる

はずが無い――

 相長屋のよしみが町内のよしみになり、気が付けば今では、とても近所とは

言えないような場所にまで往診に行く。

 と、言うわけで、金は、他の手立てで稼がなければならない。

 今日、周庵の羽織の袂は、重かった。

 これまた、まったく褒められたことでもないが――

 別に、強請りに行ったつもりはない。

 ただ、田神の与太兵衛が埋葬されることになった寺の名と、おきた婆ぁのそ

の後を、大口屋に知らせてやったまでだ。

 正式にお上へ勘当の届けをしていない以上、関わり無いは通用しない、とは

言った。

 これだけの大身代を張る大店が、知らぬ振りはかえっていかがなものかと。

 はじめ応対した番頭は居丈高だった。札差は武家を相手の商売で、中にはた

ちの悪い者もいるため総じて気が強く、腕の立つ用心棒も抱えている。しかし、

周庵の後ろで仁王立ちしていた用心棒の顔色は、みるみる悪くなっていった。

 ちゃんと、剣術の分かっている者で助かった。さもなければ、店の前で大立

ち回りなどするわけにはいかないのだから、大人しく叩き出されるより他は無

い。

 やがて奥から大番頭が出てきて、叩きつけるように渡された紙包みの中身は

十両。周庵が診ているような貧しい一家が、一年は安穏と暮らせる額だ。さす

が、大店。うるさい蝿を追い払う端金の桁が違う。

 庄左衛門や万蔵ならば、青筋を立て、目を怒らせて、突き返すところだろう

か。

 だが、金は金なのだ。

 蔑まれても、哀れまれても、それは別段構わない。

 結局――与太兵衛の甥という男の顔は、拝み損なった。


文化三年 八月十五日 春光寺

~柏木周庵によって語られた話~

 

「まあ先生。ようこそおいで下さいました」

 門前を掃いていた年若い尼僧が、手を合わせて腰を折る。

 白い喉に、赤黒い傷跡が痛々しい。かつて、自害しようと喉を突きかけた時

のものだ。

 以前は白布で隠していたものだが……

 何か、心境の変化があったらしい。

 しかし、野暮なことは聞かずに、わたしも頭を下げた。

 手当てをしたのはわたしだが、彼女を救ったのは、おそらくわたしでは無い。

 この寺にいる女達は、尼も、そうで無い者も、訳ありの者が多かった。

「せんせーいっ」

 甲高い歓声とともに、子ども達が駆け寄ってくる。三月の火事で親を亡くし

た子ども達だ。

 当初は、怪我人や病人も身を寄せていたから、わたしも足繁く通って来てい

たものだった。子どもも、もっと大勢いたのだが、奉公先や養い親が見つかっ

て散って行き、今では五人を残すのみだ。

「せんせい、おくちゅり」

 四つのおみよが握りしめているのは、ドクダミだった。

「そう、よく覚えていたね」

 頭を撫でてやると、きゃっきゃとはしゃいだ声を上げた。

 ドクダミ、ゲンノショウコ、ヨモギ、スギナ、オオバコなど、どこにでも生

えている草の中にも、薬になるものは多い。

 中でも一番必要となるのがドクダミで、これは生薬屋へ行けば十薬という名

で干した物が売られているが、入り用なのは生の葉だ。生のまますりつぶして

膏薬にすると、傷や炎症によく効く。床ずれを起こしている患者には欠かせな

いものだが、火傷にも使った。それを、おみよは覚えていたのだ。

 これらの、一切元手のかからぬ薬を子ども達と一緒に摘んで、籠に放り込む。

 こんな物を生やし放題にしているせいで、この寺の庭は一見、雑草畑のよう

な有様だ。

 野菜を自給している小さな畑の隅に、わざわざ植えさせてもらっている薬草

もあった。

「先生、栗を持って行っておくれね」

「おいら達が、拾ったんだよ」

 

 墓参りをしてから帰ろうと思っていたが、思いがけず墓前に同心姿の若者が

手を合わせているのを見て、つい身を隠した。

 小森庄左衛門が一子、庄太郎である。

「まったく――庄太郎の子が庄太郎って……ややこしいな」

 小森家では代々、嫡子の名は庄太郎、家督をして家を継ぐ時に、庄左衛門と

改めることになっているのだそうな。

 すらりとした長身で、端整な顔立ちの若者は、いつまでもその場を動こうと

はせず――

「また、今度にするか」

 ――わたしは、引き返した。


 周庵先生の長屋

 今日は、中秋の名月。お月見だ。

 あたしは、川っぷちで摘んできたススキを手に、長屋の木戸をくぐる。

 あいにく先生は、留守だった。

 相変わらず何も無い部屋の中を眺め回してみたけれど、ススキを活けられそ

うな物は見当たらない。片隅に一升徳利が置いてあるけれど、たぶん中には焼

酎が入っているんだろう。

 二階に登る梯子が、掛けっぱなしになっていた。こういう所、先生は時々無

精だ。

 上ってみると、屋根裏みたいな狭い空間に、薬だか枯れ草だかよく分からな

い代物が、いくつかの袋に分けられて、きちんと片付けられている。

 知っているかえ? 下手な医者のことを藪と言うのは、そこら辺の藪の中か

ら適当に、薬になりそうな物を引いてきて使うような、いい加減な医者のこと

なんだって話だ。

 だけど、何でも取りあえず葛根湯一点張りの葛根湯医者と、果たしてどちら

がまともかね?

 なんにもせよ、壁に掛けてあった籠が無くなっているから、その藪な薬を調

達しに行ったのに違いないよ。もしかしたら、ついでにススキも摘んで来ちま

うかも知れないとがっかりしたけれど、先生がいつも煎じ薬を持ち歩くのに使

っている竹の水筒が、いくつか置いてあるのを見つけて手に取った。

 これなら、丁度良さそうだ。

 水筒を口にくわえて梯子を下りていくと、

「ああ、おあいちゃん。びっくりしたぁ。泥棒でもいるのかと思った」

 おしんちゃんが、土間で丸い目を大きく瞠いていた。

「あっはは、そんな物好きな泥棒が、いるものかね。盗る物なんて、なんにも

ありゃしないじゃない」

「そうだけど。それでもお医者様だもの。中には、こっそりとため込んでるん

じゃないか、なんて勘ぐる人だって、いないとは限らないよ」

 おしんちゃんは、大真面目に心配そうな顔をする。

 確かに、お医者ってもんは、いいのも悪いのも、ちゃんとやればなかなか儲

かる商売らしいからね。

 だけど、もしそんなことを考えた盗人がいたとしたら、ずいぶんがっかりす

るだろうね。なにしろ、小金どころか家財道具の類さえ、ろくに有りはしない

んだもの。

「それより、どうしたの? まさか、おとっつぁんの具合が悪くなったとか」

 おしんちゃんのうちは、須田町で小さいながら表通りに店を構える餅菓子屋

だったのだけど、火事で店は焼け、おまけに悪いことにはおとっつぁんが、避

難の際に大八車に突き当てられて腰を痛め、ほとんど足腰が立たなくなってし

まった。

 今は、裏長屋に身を寄せ合って、おしんちゃんとお祖父さんが八辻が原に団

子屋の屋台を出して、細々と商いをしているんだ。

「ううん。おとっつぁんは、先生に言われた通りに、毎日少しづつ歩く稽古を

してるよ。今日は、お月見だから、これを先生にっておじいちゃんが。売れ残

りで悪いんだけど」

 大事そうに胸に抱いていたのは、売り物の団子の包みだった。

 売れ残りだなんていうのは方便に決まってる。だって、おしんちゃんとこの

お団子は、ほっぺたが落ちるほど美味しくて、おまけに、看板娘のおしんちゃ

んが可愛くて、よく働くというんで近頃大評判なんだもの。売れ残りなんて、

出るわけないのさ。

 だけど、そうでも言わないと、先生は律儀に団子の代を払ってしまうから。

 ちなみに、おしんちゃんのおとっつぁんの治療代は、おとっつぁんが元気に

なって店を再開できるようになるまでは貸しということになってるらしい。

 一応仮にも、金創骨接ぎは本職だろうに、そんなことで大丈夫なのかね?

 

「ごめんなさいよ。――おや、先生はお留守かい」

 今度は、衣かつぎの小鉢を手に、おつたさんがやってきた。

「今日は、芋名月だから、先生にもお裾分けと思ってね。商売物の余りで悪い

んだけど」

 余り物のお裾分け、なんていうのは方便に決まっている。

 いくら、朝早い職人達の朝飯に間に合うように明け六つから店を開け、夜は

遅くまでやらずに早じまいするとは言っても、まだ七つ半前だよ。朝昼ほどの

忙しさはないけれど、これから、仕事帰りに夕飯を食おうという独り者や、腰

を据えず軽く一杯引っかけて帰ろうという人達がやって来るんだというのに、

余り物だなんておかしいじゃない。

 果たしておつたさんは、そのまますっかり腰を据えて話し始めた。

「うちの宿六に聞いたんだけど、あの大口屋が、ね――」

 一度は不人情に追い出したおきたさんに、突然十分な金子を送って寄越した

らしい。

 住み込みで長年《ちょうねん》している奉公人の大方がそうであるように、

自分では使うことも無いからと、給金の大半を与太兵衛さんに預けてあったの

を、与太兵衛さんがまめに記して置いた書き付けが見つかったんだとかいう話

だよ。

 おきたさんは、それを元手に、子ども相手の小さな駄菓子屋の株を買った。

 葛飾の在に孫娘の嫁ぎ先があるのだけれど、今さら田舎に引っ込んで人の世

話になって暮らすより、ずっと張り合いがあると張り切っているんだそうで、

今度、お祝いがてら冷やかしに行かなくちゃあね。

 それから、与太兵衛さんの供養を引き受けてくれた信行寺へも、この先一切

の法事をするつもりはないがと断った上で、永代供養料として、大枚の寄進を

したらしい。

「一体どういう風の吹き回しだろうね」

「与太兵衛さんが夢枕にでも立ったのじゃない?」

 あたしとおしんちゃんが口々に言うのへ、ちょっと声を低めておつたさんは、

「うちの人が言うにはね、きっと先生が何か――」

「おや、おや。娘が三人寄ると、賑やかだな。一体なんの騒ぎだね」

 いつからいたのか先生が、にこにこしながら立っていた。

「あらやだ、先生。娘だなんて」

 先生からすると、十五も二十も三十も、みんな娘のようなもんなのかも知れ

ないけれど、おつたさんは、嬉しそうに大きな身体をくねらせている。

「何って、今日は十五夜のお月見だもの。おしんちゃんがお団子を、おつたさ

んがお芋を持ってきてくれたんだよ。あたしは、ほら、ススキを取ってきた。

食べられなくて、悪いんだけど」

 先生は、それを手に取り、ちょっと目を細めて笑い、

「これは、荻だな」

 と、言った。

「ええ?」

「毛が白くて長いだろう? 川縁を埋め尽くすように生い茂っているのは、荻

だよ。薄は、もっと乾いた野原のようなところで株立ちになる」

「えええー?」

 結局、みんなすっかり煙に巻かれた格好で、おしんちゃんもおつたさんも一

緒になって、オギとススキの違いを教わった。

「まあしかし、どっちだろうと、構わんさ。お月さんは、そんなことで苦情を

言ったりせんだろうからな」

 そう言って先生は笑い、おつたさんに「あとで寄るから――」と言い残して、

おしんちゃんを送って行った。ついでに、おとっつぁんの具合を見てくるつも

りだ。

 あたしは、お団子を持っておつたさんについて行く。衣かつぎも、亀屋へ出

戻りだ。


 亀屋

「ああ、お帰んなさい、女将さん」

 おきみちゃんが、ほっとした顔をする。

 亀屋の売り物は、さっと湯通しして塩もみした青菜を、たっぷりと刻んで混

ぜ込んだ菜飯と、豆腐と季節の野菜がたっぷり入った具沢山の汁。その他の総

菜はおまけみたいなもので、その日の仕入れとおつたさんの気分によって、毎

日品書きも品数も全然違う。

 仕込みは全ておつたさんが夜明け前から済ませてしまい、あとはどれもよそ

って運ぶだけだから、暇な時間帯なら、おきみちゃん一人でも十分間に合うの

だけれど、店は丁度立て込み始めていた。

 しようがないから、あたしもお運びを手伝った。

 他の店とは違い、六つ半頃にはもう、ぼつぼつ人の波が引いていく。

 朝早くからの商売だから、五つには暖簾をしまい、おつたさんは早寝をして

しまうんだ。

 それが分かっているから酒を飲む客も、長っ尻はしない。そもそも、酒は一

人二合までと壁に貼りだしてあって、それ以上を欲しがると、「酒飲みは嫌い

さ。うちは居酒屋じゃないんだ」と、おつたさんに叩き出されることになって

いる。それを逃れられるのは、お町の旦那方と、周庵先生くらいのもんだとい

う話だよ。

 最後の客が帰っていって、あたしは暖簾を入れた。

 だけど、万蔵親分に御用が無くて家にいる時は、掛け行灯の火は入れたまま

にしておく。

 そうすると、三々五々、大道芸人や夜鷹やお菰さんみたいな人達が集まって

きて、親分は、「残り物だから――」と言って、ただで振舞いながら色々話を

聞くんだ。本当は、これを見越して余分に用意してあるんだけれどね。

 こういった人達に聞けば、江戸のことはたいがい分かると言っても過言じゃ

ないそうだ。

 たいがいの岡っ引きは、必要の時だけ金を握らせたり、十手で脅しつけたり

して話を聞き出そうとするけれど、そんなこっちゃあなかなか本当のところは

聞かせてもらえないのさ。

 親分はいなかったけれど、追っ付け戻るはずだとおつたさんが言うから、行

灯は点けて置いた。そう言えば、先生も来るはずだったんだ。もう、まあるい

お月さんも上ったというのに、一体何をやっているんだか。

 帰り支度を済ませたおきみちゃんが、挨拶をして外へ出ようとしたまさにそ

の時、目の前で亀屋と書かれた腰高障子ががらりと開いた。

「きゃ――」

 思わず後退り、それから、「すみません。もう、おしまいなんですよ」とい

う言葉を、途中で飲み込んだ。

 戸口に茫然と立っていたのは、おきみちゃんと年の頃のそう違わない娘さん

だった。

 着ている木綿ものの着物は、埃にまみれ、ひどく汚れている。髪は乱れ、何

よりも――裸足だ。

「まあ、まあ、一体どうしたって言うんだい」

 勝手で片付けをしていたおつたさんが出てきて、

「とにかく、お入りよ」

 びっくりして、ぽかんと突っ立っているおきみちゃんを押しのけ、抱きかか

えるように店の中へ招じ入れた。

「さ、ここへお座り。腹が減っているのかい?」

 一瞬の躊躇のあと、こくり、と頷く。

 はじかれたようにおきみちゃんが勝手へ駆け込み、あたしは手拭いと足を洗

う水を汲んできた。

 出された菜飯と汁を娘さんは、はじめはおずおずと、やがて抱え込むように

して食べ始め、よっぽどお腹が減っていたんだろう、身体を使う職人衆や棒手

振が食べるような量を、すっかり平らげてしまった。

「まだ食べられる? お芋と煮豆もまだ残っているけど……」

「あんまり一時に食べちゃ、毒じゃないかねえ。胃の腑がびっくらこいて、吐

き戻しちまうこともあるって言ってたよ」

 それまで、表情ってものをどこかへ置き忘れて来たようだった娘さんは、

「いえ、もう十分いただきました。でも……あの、あたし、おあしが無いんで

す」

 今にも泣き出しそうな顔をした。

「そんなことは心配しなくったっていいんだよ。店はもう終いで、今のは残り

物なんだからね。――さあ、落ち着いたら、話を聞かせておくれな。あんた、

名前は? どこから来たんだえ?」

「………………」

 しばらくの間、心を決めかねるように口を閉ざしていた娘さんがようやく、

「……いね」

「おいねちゃんね。それで――」

「あの…あたし……あたし……」

 その時、実に間が悪いことに、また腰高障子ががらりと開いて、話の腰が折

れた。

「遅くなって済まねえな。ちょいと、つまらねえ捕物があってよ」

 どうしたことかおいねちゃんは、はっと顔を上げて帰ってきた万蔵親分を見

るなり、みるみる真っ青になって、がたがた震えだしたんだ。

 人がいいのを絵に描いたような親分の丸顔を見て怖じ気づく人を、あたしは

初めて見たよ。

 だけど、すぐに分かった。

 おいねちゃんが見ていたのは顔じゃない。十手だった。

 親分は日頃、無粋に十手をひけらかして歩くような真似はしない。いつもは

奥ゆかしく懐にしまってあるのだけれど、今日は捕物の後だからだろうか、帯

に挟んであったんだ。

「きゃあ、大変。どうしよう、女将さんっ」

 おきみちゃんが、悲鳴のような声を上げた。おいねちゃんが、そのままがっ

くりと気を失って倒れ込んでしまったからだ。

「なっ――いってえ、どうしたってんだ、これぁ?」

 親分が、分からない顔をしたのも当然だけど、あたし達にだって、何が何だ

か分からない。

「とりあえず、何だ。先生を呼んでくらぁ」

「あっ、待って、親分――」

 先生なら、おしんちゃんとこへ往診だと教えてあげる間もなく、親分はすっ

飛んで出てしまった。行き違いにならなけりゃいいけど。


 柳原土手

~柏木周庵によって語られた話~

 

 正市の回復は、まず順調と言って良かった。

 家族のために、一刻も早く元の身体になって店を再開しなければという強い

意志が、何よりの薬になっているのだろう。

 家の中が明るいのもいい。

 内儀のおせいは江戸の女らしく気丈で愚痴一つこぼさぬし、搗き米屋の丁稚

から振り売りの菓子屋を経て、一代で表通りに店を構えるまでにしたという隠

居の市蔵は、「なに、昔に戻っただけのことさ」と、元気に屋台を引いている。

娘のおしんも、健気で明るい。

 しかし、心配なこともある。

 餅菓子屋を再開するには、餅も搗かねばならないし、大鍋で餡を練るのも重

労働に違いなく、完全に元通り働けるようになるには、まだ暇がかかるだろう。

 目に見えて回復しているうちは良いが、思うに任せなくなってきた時、一生

懸命な者ほど、不安や焦りから気鬱に陥ったり、自棄を起こしてしまいがちな

のだ。

 市蔵はもういい年だし、おせいにしてもおしんにしても、お嬢様育ちでもな

いだろうが、これまでこうした長屋暮らしの経験など無いようだから、次第に

疲れも出てくるに違いなく、先に希望を持ち、気を張っている間は良くても、

まかり間違って今よりももっと悪い方向へ転がった時には、果たしてどうなる

か分からない。

 そんなわけで、正市には、今が肝心な時だから決して焦って無理をしてはい

けないと言い含め、おせい達の他愛のない雑談に付き合って、いつもの如く

「少しは蓄えもあるのだから――」と、言い出すのへ、それは無事に店が再開

して軌道に乗ったら、たんまり頂くことにするからと断わって、辞した。

 本当に、そうなってくれれば良いと思う。

 順調に良くなっていく患者を見るのは、やはり、嬉しい。

 つるべ落としとはよく言ったもので、いつの間にかすっかり日は落ちて、名

月というのに相応しい、曇りの無い大きな月が輝いていた。

 

「これは、薄じゃありません。荻、ですよ――」

 

 不意に、懐かしい声が、脳裏に甦った。

 これと言って特徴の無い、大人しそうな、どこか茫洋とした顔立ちの若者だ

った。

 わたしより十以上も年下だったが、わたしは、彼のことを先生と呼んでいた。

 彼は、わたしの命を拾ってくれた医者だったからだ。

 ぼんやりとしているようでも、すこぶる頭は良く、どうでも良いようなこと

まで何でもよく知っていて、日頃は人見知りで口の重い物静かな男が、ひとた

び蘊蓄を傾け出すと、いつまででもよく喋った。そうなると、彼の気が済むま

で神妙に拝聴しているより他は無い。

 どこぞの藩の重役の次男に産まれ、藩医であった伯父の養子となって漢方の

手ほどきを受けたが、僅か三年で「もはや教えることは何も無い――」と、言

わしめるまでになり、次に蘭方をも志して長崎にまで行ったというのだから、

学の無いわたしなどからすれば、まさに極めつきの天才と言えたが、結局彼は、

本当の医者にはなれなかった。

 藩のごたごたに巻き込まれて、一年足らずで勉学を中断せざるを得なくなっ

たばかりか、脱藩者として命を狙われる羽目に陥っていたらしい。

 共に追われる身ということで、二人して江戸を離れ、他に成すべきことを見

いだせなかったわたしは、命の恩人の用心棒を勤めるような心持ちで、十年ば

かりも行動を共にした。

 実際、一人で旅などさせたらたちまち命を落としかねない頼りなさで、おま

けにお人好しを絵に描いたような坊ちゃんは、行く先々で病人怪我人を放って

おけずに手を出した。

 しかし……そもそも医者に向いていたのかどうか――誰か人が死ぬたびに自

分を責め、めそめそと泣いた。身体もあまり丈夫な方ではなかったために、し

まいには患者から病を拾った挙げ句、血を吐きながら死んでいった。まだ、三

十にもなっていなかった。

 彼を亡くした後、江戸へ戻り、畏れ多くも医者の真似事のようなことをする

羽目になったのは、偶然のことだった。長く続けるつもりなど、毛頭無かった

のだが……

 

「……相変わらず先生は、賢いねえ。しかしまあ、なんだ。お月さんが苦情を

言やしめえし、別にどっちだって構わんさ」

 

 右から左へ、いい加減に聞き流したことでも、案外覚えているものだ。

 こんなことなら、もっと真面目に色々のことを聞いておけば良かった。

 いや――

 代われるものなら代わってやりたかったのだ。

「どうしてあんたが先に逝くんだ。順番が、まるっきり逆じゃぁねえか――」

 俺じゃ、駄目なんだ。先生みてえには、できねえ……

 

 しかし、追憶はそこで中断された。

「せっ、先生っ、探しやしたぜ。てえへんだ、娘っ子がいきなりぶっ倒れて…

…なんだか知らねえが、瘧みてえにぶるぶる震えやがって――」

 いつものことながら、泡を食った万蔵の言うことは要領を得ない。

「倒れた? 娘って、どこの娘だ。熱はあったか。震えていたと言うが、舌を

噛まんようにしてやっただろうな」

 前に教えてやったろうと言ったが、万蔵は首を傾げるばかりだ。

「……よく、分からねえ。なんでも、見たことのねえ山出しの娘でさ。店にい

たんだが、俺がけえるなりばったりときやがって、取りあえず先生を呼びに走

ったもんだから――長屋の方へ行ったら居なさらねえし、まったく往生しやし

たぜ」

「病なんだろう? 薬研堀の方へ走れば、いくらでももっとましな医者がいた

だろうに」

 と、言うと万蔵は、目を怒らせて拳をぶんぶん振り回した。

「おりゃあ、先生以外の医者なんざ、誰一人として信用しねえ」

 実を言えば万蔵は、世の中の医者という医者が大嫌い、という男なのだ。い

わゆる医者嫌い、というのではなく、真実目の敵にしていると言っていい。

「分かった分かった。ともかく、行って診てみよう」



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