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日記 1

20**年4月1日

 私は今日東京のアパートに着いた。両親の車で来て、彼らが引っ越しを手伝ってくれた。まだ段ボールがいくつか未開封のまま残されている。家族と離れるのは正直寂しいけれど、それでも両親が帰って、夜一人になると、ここから私の本当の人生が始まるのだ、という実感がじわじわと湧いてくることになった。六畳一間の狭いアパートに過ぎないけれど、ここが生まれて初めて手にした私だけの場所なのだ。自分の場所を持てるというのは、やはり気分のいいものだ。

 

4月8日

 今日大学のオリエンテーションがあった。たくさんの新入生と、サークルの勧誘をする上級生たち。オリエンテーションそのものはあまり面白いというわけでもなかった。不安と期待が入り混じっている。食堂でお昼を食べたが、あまりに混み過ぎていて、全然気持ちが落ち着かなかった。

 

4月9日

 結局第二外国語はドイツ語を取ることにする。特にドイツ語でなければならない、という理由はないのだけれど、なんとなくほかの言語よりは興味が持てそうな気がした。ドイツ語の教官はなかなか厳しそうな、()せた中年の男だった。

 

4月16日

 ときどき外に出て街を歩いてみる。予想していた通り、さほど面白い街でもない。東京都内とはいっても、ここはそのずいぶん(はず)れである。でもその分、多少都心よりは緑が残っている。田舎から出て来たばかりの私にとっては、それはずいぶんありがたいことだった。

 さっき母親から電話がかかってきたが、何も問題ない、大丈夫、と言ってすぐに切ってしまった。

 

4月24日

 いくつかのクラブを見てみたのだが、そのどれにも興味を()かれなかった。人々はみな(つな)がりを欲しているように見えたが、彼らがそれを実際に手にしているようには見えなかった。でもそれは私が十八歳のくせに、ただ単に大人の振りをしている、というだけなのかもしれない。正直なところ、もちろん私だって寂しいのだ。しかしだからといって、ああやってグループになっていても、それ以上どこにもいけないような気がする。

 

4月30日

 もうそろそろ一月(ひとつき)が経とうとしている。考えてみればあっという間だった。何がなんだか分からないくらい。それでも次第に一人暮らしに慣れていく自分には驚く。まだ寂しい夜はあって、見たくもないテレビを点けっぱなしにしていたりすることはある(純粋な時間の消耗(しょうもう))。それでもそういう時間も徐々に少なくなってきたようだ。カフカの『審判』を読み始める。

 

5月27日

 大学での私は完全に孤立している。ドイツ語で同じクラスになった女の子と何度か話したのだが、知り合いと言えるのは彼女くらいだ。彼女は実家から電車で通ってきていて、私が田舎の話をすると珍しがって聞いてくれた。それでも私は、自分はなんでこんな話をしているんだろう、と思ってあとで自己嫌悪に(おちい)った。こんなの何の意味もない会話じゃないか、と。でもちょっと考え過ぎだとも思う。

 実際のところドイツ語以外の授業はあまり面白くない。英文科に属してはいるものの、今はまだ一般教養が中心だ。それでも自分にできることはやりたいと思う。カフカの『審判』は面白かった。

P.S. Kがなぜ裁判にかけられなければならなかったのか、ずっと考えていたのだけれど、私にはまだその答えが分からない。「犬のようだ!」という彼の最後の言葉が、ずっと頭の中に残っている。

 

8月2日

 ようやく最初の試験が終わった。手応(てごた)えからするに、ほぼ全部単位は取れたと思う。でもそれがどうした、という気持ちもなくはない。単位なんか取って何になるんだ、と。なんだか最近はずいぶんシニカルになっている。

 明日(あした)高速バスで実家に帰る。新宿から夜行便が出ているのだ。両親は新幹線で帰ってくるよう言ってくれたが、バスの方が半分くらいの値段で済む。それに一度夜行バスに乗ってみたかった、というのもあるし。

 

9月29日

 またこのアパートに帰ってきた。実家にいるときはずいぶん気持ちが落ち着いていた。おそらくこっちにいるときには、知らぬ間に心が固く凍りついてしまっていたのだろう。実際に生きた人間と一緒に暮らすというのは――ときに煩雑(はんざつ)ではあるけれど――やはりいいものだと思った。

 でも、にもかかわらず、私はそこに居心地の悪さを感じることになった。そこはいわば、私がすでにあとに残してきた世界だったのだ。今はまだ家族の支えを必要としているけれど、おそらく私は別の新しい世界に入って行かなければならないのだと思う。でも飼っていた犬に会えたのはやはりうれしかった。

 

10月14日

 なんだかひどく心が重い。大学で講義を受けているときは大丈夫なのだが、問題は休日だ。土日がやってくるのが怖いくらいだ。私はクラブにも入っていないから、その時間をどうやって埋めたらいいのか分からない。もちろん本は読み続けている。この間はサリンジャーの『フラニーとズーイ』を読んだ。安易にそんなことをすべきでないのは分かっているのだけれど、どうしても自分をフラニーの姿に重ねてしまうことになる。でも私にはズーイのような兄はいない。

P.S. ブルームバーグは結構可愛いと思う。

 

10月20日

 結局アルバイトを始めることにした。仕送りは(多くはないけれど)必要な額もらっているし、どうしてもお金が必要だ、というわけではないのだけれど、それでも自分にかかる費用くらいは自分で稼ぎたい。家にはまだ二人の弟がいるのだ。彼らにもずいぶんお金がかかっている。

 インターネットでいくつかアルバイトを探し(探すだけでずいぶん疲れてしまった)、結局コンビニの店員に応募する。なんとなくそれが一番無難である気がしたのだ。喫茶店だってよかったのだけれど、私は愛想が悪いし、そもそも自然ににっこり微笑む、ということができないのだ(どうしても顔がこわばってしまう)。そういえばあのドイツ語で一緒だった子は、駅前のカフェでバイトをしていると言っていた。

 

10月25日

 面接を受けて、採用された。本当は夜勤もやりたかったのだけれど、若い女の子は危険だからそれ以外の時間で、ということだった。まあ仕方ない。店長は五十代後半くらいの穏やかな――というかいささか人生に疲れているようにも見える――白髪の男の人だった。

 

12月24日

 実家に電話をかけて冬休みは家に帰らない、と告げる。どうしてもやり終えなければならないレポートがあるから、と言って。本当はそんなもの、気合を入れてやれば一日で終わるようなものなのだけれど。

 仕事は慣れるまですいぶん時間がかかった。それでもほかの従業員の人たちが親切に教えてくれて、それなりにこなせるようになった。ときどき変な客は来るけれど、まあ彼らにも彼らなりの事情があるのかもしれない。

 

2月10日

 日々はするすると過ぎていく。アルバイトも慣れたし、今学期の試験もほぼ大丈夫だとは思うけれど、それでも「これでいいのか?」と思っている自分がいる。何がおかしいのかはよく分からない。だって周囲のほかの人たちなんか――大学の中でも外でも――自分たちの生活に何か問題があるとは思ってもいないのだ。それでも私は何かが足りないと感じている。でもそれが何なのかが分からない。そういうときは古典文学を読むことにしている。春休みの間に『カラマーゾフの兄弟』を読破したいと思っている。

 

20**年 4月5日

 これで一年が過ぎた。春休みの間一週間くらい実家に帰っていたけれど、あとはこちらでアルバイトをしていた。仕事があるときはいいのだけれど、ないときにはまるで自分が何かに追われているような気分になる。振り返って見てみたいのだけれど、本当は見ることを死ぬほど恐れている何かに。そこから逃げるために、ときどき食べ過ぎたりしてしまう。

 

4月13日

 今日からランニングを始めることにした。少し太ってきたというのもあったのだけれど、何かを始めなければならない、という思いが徐々に湧いてきていたのだ。アルバイトで稼いだお金でウエアとシューズ、それにランニングキャップを買った。外を走るのは始めはすごく恥ずかしかったけれど、それでも風を浴びるのは楽しかった。でもまだ長く走ることはできない。今は夜だけど、いまだに心臓が激しく鼓動を打ち続けている。

 

5月6日

 週に何回かの割合でランニングを続けている。走っているうちに徐々にフォームができ上がってくる。まだ全然速くは走れないけれど、それでも体重は落ちてきた。何かを実際にやっているということが、なによりも私を落ち着かせてくれる。

 

5月20日

 今日走っているときに彼に似た人とすれ違った。でも彼がここにいるはずはない。彼は地元の大学に(かよ)っていて、私は東京にいる。ただ少し雰囲気が似ている、というだけのことだ。

 そういえばこの前ようやく『カラマーゾフの兄弟』を読み終えた。ずいぶん時間はかかったけれど、最後の方は勢いのまま一気に読み通した。まだ理解できているとは言えないけれど――というかほとんど何も分かっていないような気がする――それでも、あれだけ長い本を読破できたのは嬉しかった。そのうちまた読み返すと思う。

P.S. アリョーシャみたいな人は現実に存在するのだろうか?

 

6月15日

 何が足りないのだろう、と思う。ときどきそれについてじっと考え続けていることがある。でも何一つ答えは出ない。ただ刻々と時間だけが過ぎていく。

 授業はあまり面白くない。朝起きると自分の心が不満を訴えているのが分かる。でも今のところ私には(一)大学に出ることと、(二)アルバイトをすることと、(三)たまに外を走ることしかすることがない。でもこのままではいけない、とも思う。

 

6月21日

 今日あの女の子が遊びに来た。ドイツ語の授業で一緒だった子だ。私が唯一大学で会話することのできる女の子。うちに来たって何も面白いことなんかないよ、と言ったのだけれど、それでもいいから、と言って彼女はやって来た。彼女はとても明るくて、その表情には屈託(くったく)がない。きっと男の子にも人気があるのだろう。彼女は二時間ほどいて帰っていったが、実際何の話をしたのかは覚えていない。彼女が帰って少しホッとしている自分がいて、罪悪感を感じている。

 

7月3日

 おそらく問題は自分のシステムがないということだと思う。つまり私には〈芯〉というものがないのだ。いつもフラフラしていて、つまらないことで(本当につまらないことで)傷ついている。誰かとしゃべるときには、いつも警戒している。果たしてこの人は私を傷つけないだろうか、と。

 もちろんほとんどの人はそんなもののことは考えていない。つまり〈システム〉のことだ。それでも私はそのことを考え、考えるだけではなく、実際に行動しないといけないと思う。でもどうやったら自分のシステムをつくることができるのか、私には分からない。今のところ、走ることがその助けになるような気はしているのだけれど。

P.S. この前からエミリー・ブロンテの『嵐が丘』を読んでいる。読みながら、こんなものを書ける人はきっと長生きできないだろうな、と思って略歴を見てみると、案の定彼女は三十歳の若さで亡くなっていた。

 

8月29日

 結局一週間ほど実家にいてまた戻ってきた。帰るたび、あそこはもう私の場所ではないのだと感じるようになる。でもこの部屋にいると、ときどきたまらなく家族に会いたいと思っている自分に気付く。弟たちにも会いたいし、犬も撫でたい。なんだかひどく矛盾している。

 夏休みの間はここでアルバイト中心の生活を送ることになる。帰省する人が多いから、その穴埋めが必要なのだ。それでもそうやってお金を稼ぐことも、ときどき(むな)しくなってしまうことがある。そもそもこの生活は何のために存在しているのだろう? 稼いだお金で、私は何を買うのだろう?

 

10月4日

 九月の終わりに二十歳(はたち)になった。母親がプレゼントを送ってくれたが、なぜか開封する気にはなれなかった。同封された手紙もまだちゃんと読んでいない。ただの子供じみた反抗に過ぎないことはよく分かっているのだけれど。私の中には何か(かたく)ななものが育ってきつつある。

 最近は二十歳(はたち)で自殺した女子大学生の日記を読んでいる。彼女が亡くなったのはもうずいぶん前の話だ(まだ学生運動が盛んだったころ)。それでも私は、彼女と自分を比べてみないわけにはいかない。その日記の記述には、常に死の影が見え隠れしている。おそらく彼女もまた薄暗い何かに肩を掴まれていたのだろう。

P.S. きっと私は、こんなものは読むべきではないのだろう。だって私は、なにも死んでしまいたいと思っているわけではないのだから。ただ「今のままではいけない」と思っているだけ。でもきっと最後まで読んでしまうのだろう。

 

10月5日

 結局最後まで読んでしまった。もちろん本人が書いた日記だから、自分が死んだ瞬間と、そのあとのことまでは書かれていない(当然のことだ)。そこであらためて彼女の略歴を見てみると、大学三年時(二十歳(はたち)のときだ)、「鉄道事故で死亡」とある。

「事故」か、と私は思う。でも考えてみれば、確かに「事故」という表記の方が合っているのかもしれない、とも思う。彼女が自殺したのがほぼ確実だったとしてもだ。だって彼女は飛び込んだあと、最後の最後の瞬間に――本当の最後の瞬間だ――もしかしたら、そのことを後悔したかもしれないのだから。だとしたらそれは「自殺」ではなく、より正確にいえば「事故」だということになる。私の部屋の窓の外では、毎日すぐそこを電車が走っている。

 

10月15日

 相変わらずものごとに進展はない。大学、アルバイト、そしてランニング。走っているときが一番心が安らぐような気がする。でもそれだけでは足りないのも事実だ。私の問題はおそらく肉体的なものではなく、精神的な種類のものなのだ。でも精神科に行ったところで何も解決しないだろう。そのことは自分でもよく分かっている。でもだからといって、一体どうすればいいのか、私には何も分からない。

 

10月26日

 昨日奇妙な夢を見た。ものすごく奇妙な夢だ。以下それを書き(しる)す。

 

 私は自分のベッドの上にいて、じっと天井を見つめている(このとき私は自分が完全に目覚めているのだと思っている)。まるでそこに人生のヒントか何かが浮かんでいるみたいに。でもそこには何もない。何もないのだけれど、なぜか私はそこを見るのをやめることができない。

 するとそこで部屋の中に誰かがいることに気付く。それは彼だ。高校の卒業式以来会っていない彼。もちろん私は動揺するのだけれど、それが彼だと知って安心する。彼はベッドの脇に立ち、ただじっとこちらを見つめている。その顔には表情がない。何をしているのだろう、と私は思う。彼はどうして何も言わないのだろう?

 そのときふと気付くのだが、私はベッドの中で裸になっている。まったくの裸だ。何一つ身に付けていない。それに気付いて私は顔中真っ赤になる。そして急いで掛け布団を掴もうとする。何かの拍子にそれがずれてしまったりしないように。

 しかしそのとき私は、自分の身体がまったく動かないことに気付く。布団を掴むことも、寝返りを打つこともできない。ただ固まって、彼の顔を眺めていることしかできない。

 そのとき分かるのだけれど、彼は私が裸でいることを知っている。完全に知っているのだ。その視線は厚い布団を通り抜け、奥にある私の肉体を見つめている。私のこの不完全な肉体を。私は今その視線を痛いくらい肌に感じ取っている。でもだからといってどうすることもできない。もはや身体は一ミリたりとも動かない。

しばらくそのまま時間が過ぎた。私も動かなかったし、彼もまた動かない。部屋には何の音もなく、まるですべてが静止しているかのようだ。このまま何も起きなければいいのに、と私は思う。なにもかもこのまま動きを止めていればいいのに。でももちろんそううまくはいかない。このとき私はすでに知っていたのだが、この夢では始めから何かが起きることに決まっていたのだ。そしてその「何か」が起こる。

といっても私は動くことができないから、その「何か」の主体は彼でなければならなかった。彼は突然動き出すと、無表情のまま私の布団に手を伸ばし、それを乱暴にはねのけた。冷やりとした秋の空気が、急に全身を包み込んだ。そしてその結果、私の無防備な白い身体は、仰向けのまま彼の目の前に(さら)されることになった。

 私は恥ずかしくて仕方なかったのだが、それでも頭に一つの大きな疑問が浮かぶ。彼はこんな乱暴なことをする人ではない。私はそれをよく知っていた。だからこそ私は彼に好意を持っていたのだ。

 しかしよく見ると、そこにいるのがもう彼ではないことに気付く。それは黒い影のような人間で、私には今そのシルエットしか見えない。しかしシルエットしか見えないのに、なぜか私には彼がにやりと笑っていることが分かる。それも耳に届きそうなくらい大きく口を開けて。彼は裸の私を見下ろし、よく通る声でこう言った。

「いいかい? 我々は二人で一つなんだ」

 そして私の中に入り込んでくる。

 

 もっとも私の中に入り込んできたのは彼の性器ではない。違う何かだ。もっと暗く、もっと硬い。それは闇に満ちたものだ。私は身動きができず、ただ彼のなすがままになっている。私は自分の子宮から、その何かがさらに身体の奥へと侵入するのを感じている。それは影本体を離れ、独立した一個の生物として動き続けている。それは黒く、細長い生物で、目が付いていない。身をくねらせて盲目的に動き、近くにある肉を、鋭い歯で片端から(むさぼ)り喰っていく。私にはそれが分かる。

 ガリガリガリガリ、という音が聞こえる。ガリガリガリガリ。それが今、私の骨を(かじ)り取っているのだ。私は、その細かい振動を身を持って感じることできる。ガリガリガリガリ。でも不思議なことに痛みは感じない。ただ(かじ)り取られた部分に、漠然(ばくぜん)とした寒気(さむけ)のようなものを感じるだけだ。でもそれは本当はよくないことなのかもしれない、とも私は思う。痛みがないということは、つまり危機感を感じられない、ということでもあるのだから。私は自分がどこか遠い場所に移動していくような感覚を味わっている。この世界を遠く離れた場所に。まるで宇宙のような・・・。

もうやめて、とそのとき私は自分が言葉を発していることに気付く。このときだけはなぜか口の筋肉を動かすことができる。おそらく私は、自分の中に残った最後の力を振り絞って、その言葉を口にしたのだと思う。こんなことをする権利はあなたにはないはずだ、と。でもそのとき、暗闇からひどくはっきりした影の声が聞こえてくる(彼の姿はもう私には見えなくなっている)。

「いや、ちゃんと権利はあるんだよ」と彼は言う。「なんなら正式な権利書を見せてやってもいい。具体的な法律の条文を見せたっていい。とにかく俺が言いたいのはさ、これがどこまでも自然なことだってことなんだ。いいかい? 忘れるんじゃないよ。俺たちは二人で一つなんだ」

 そして私は私自身を失っていく。自分の身体がどんどん消えていくのが分かる。でも私には、もはやどうすることもできない。内側に巣食ったその何かは、容赦なく私を()尽くしていく。骨だけでなく、内臓も吸い取られる。血液も、皮膚も、髪の毛も、あっという間にそいつに呑み込まれる。それは私を養分にして、どんどん()え太っていく。それは巨大な闇の(かたまり)となり、やがて部屋全体を覆い尽くしていく。私はただそれを見つめている。

最後に全部きれいになくなってしまったあと、私はふとこう思う。私自身が失われたのなら、今ここにいる私は一体何なんだろう? そこでふと足元を見ると、自分が影になっていることが分かる。人型(ひとがた)した、一つの影だ。かつて肉体があった場所には、ただ光の欠如だけが存在している。

「それが本当の君なんだ」とそのときどこかで影が言った。「君は本当は死んでいたんだよ」

そこでようやく目が覚めた。

 

私の頭には、影の最後の言葉がそのまま消えずにずっと残っていた。

君は本当は死んでいたんだよ

それは一体どういうことだったのだろう?

 

11月4日

 あの夢のあと、私はずっと体調がすぐれなかった。あれから一度も走っていない。心臓がドキドキして、夜も眠ることができない。

 あの夢はおそらく何かを訴えかけていたのだろう、と思う。私が見ることを――そして考えることを――恐れていた何かを、だ。このままだと君は死んだままだ、とあの夢は言っていた。あの夢全体を通して、そういうメッセージが送られていたのだ。少なくとも今になってそう感じている。

そしておそらく、あれは単なる荒唐(こうとう)無稽(むけい)な幻想などではなく、あの形でしか表せない、ある種の真実を映し出していたのだと思う。あの中で私は、黒い謎の生物に内側から身体を(むしば)まれ、ただの影になってしまっていた。つまり私は私自身を失ったのだ。夢はその過程を、明らかに強調した形で映し出していた。そしてそれを見た今となっては、これ以上このままぐずぐずしているわけにはいかなかった。なにしろ私は私自身ではない、何か別のものになり果てようとしていたのだから。そんなのはもはや私の人生とは呼べない。

それでも――そう強く感じながらも――実際に動き出すまでにはずいぶん時間がかかった。何をすればいいのかはうすうす感じ取っていたのだけれど、なかなか最初の一歩を踏み出すことができなかった。しかしその一方で、私の中の空虚さはどんどん増大していった。留まることを知らない速度で。私は自分の内側がどんどん(から)っぽになっていくのを感じることができた。そして影の最後の言葉が、何度も頭の中でこだましていた。

君は本当は死んでいたんだよ

 

 そして今日ようやくその一歩を踏み出そうとしている。私がやろうとしているのは、つまり文章を書くことだ。もちろんこの日記の記述は別にして、ということだけれど。それはフィクションでなければならなかった。あの暗い夢を浄化するようなフィクションだ。もしあれが真実の一面を映し出しているのだとしたら(たぶんそうだと思うけど)、私はそのもう一つの側面を映し出さなければならない。逃げるのではなく、自分からそこに向かっていかなくてはならないのだ。おそらくそのようにして初めて、私は本当の私を取り戻すことができるのだから。

これはあくまで一つの(こころ)みである。上手(うま)くいくかどうかは分からない。でも、私にはそもそもほかに選択肢がないのだ。でも一つだけ確かに言えることがある。それは、これが誰のためでもない私自身のための文章だ、ということだ。


 


日記 2

『文書一』(注:これはフィクションである)

 今日大学の帰り、川沿いの道を散歩しているときに、私は〈に出会った。死はごく普通の男の格好をしていたのだが、私には一目でそれが死だと分かった。死はしばらくこっそりと私のあとをつけていたのだが、私はもうずっと前からそれに気付いていた。それでとうとう我慢できなくなって、急に振り向き、彼に声をかけた。

「何かご用ですか?」

 すると死は急にどぎまぎしたようになって、舌足らずの口調でこう言った。

「いや、ちょっと道をお訊きしたくて」

「どこに行きたいんですか?」と私は訊いた。

「墓地です」と彼は言った。「この近くに集合墓地があるでしょう」

 私はその場所を知っていた。それにちょうど散歩の途中でもあったので、彼に道案内をしてあげることにした。

 そこは比較的広い墓地で、奥には鬱蒼(うっそう)とした林があった。その高い枝の上では、お(そな)え物を狙うカラスたちがカーカーと鳴き声を上げていた。周囲にはまだまばらに人影があったものの、もう日暮れ時ということもあって、そのほとんどが帰り支度(じたく)をしていた。すぐ近くにお寺が見えたが、そこに人の気配はなかった。そこで死は言った。

「どうもありがとうございます。助かりましたよ」

 でも彼はまだ何かを言おうとして、しばらくまごついていた。私はただ黙ったままその顔を眺めていた。とても不思議な顔だ、と私は思った。どこかで見たような顔なのに、それがどこだったのか全然思い出せない。やがて彼は意を決して言った。「ところでですね、あなた死に興味はありませんか?」

「私?」と私は驚いて言った。「でもまだ二十歳(はたち)ですよ。死ぬことを考えるには早いんじゃないでしょうか」

「いや」と死は言った。「早いなんてことはありません。実際赤ん坊でも生まれたときから死のことを考えている人もいます。でも一方で死ぬまで――つまり死ぬ直前まで、ということですが――死のことなんか考えない人もいる。でもあなたはそれを欲しているはずだ。私にはそれが分かります」

「つまり死を欲している、ということ?」と私は訊いた。

「いや、死そのものではありません」と死は言った。「〈死について考えること〉をです。どうも(まぎ)らわしくて申し訳ありませんが」

 私はそれについて考えてみたが、まだうまく話の趣旨が呑み込めなかった。それに今ここにいる死は――確かに誠実そうではあるものの――明らかに普通の人間とは異なっている。彼の背中には、何か不吉な影のようなものが、まるでカーテンのように覆いかぶさっている。一体どこまで彼の話を信用していいのだろう? それでも私は自分に対して認めないわけにはいかなかった。私は今、心からその話に興味を()かれていたのだ。

「どうやって死について考えるんです?」と私は訊いた。

 すると死は言った。「やってみますか? 実際に」

「ちゃんと元に戻れるんでしょう?」と私は確認した。

「もちろん」と死は言った。「戻れますとも」

 そして私は同意した。〈死について考えること〉を。その結果がどうなるのかも分からずに。

 

 死は私に、近くの墓石と面と向き合うよう言った。

「そこをじっと見つめてください」と彼は言った。それはごく普通の墓石だったのだが(ほかと何の変わりもない)、私は素直に言われたことに従った。次に何が起こるのか、とても興味があったのだ。私は穴があきそうなくらい強く集中して、じっとその石を見つめた。

 するとそこで、突然死が私の背中に手を入れた。それは服を貫通して身体の内部に入り込み、胸の奥の、ちょうど心臓のあたりにある何かを抜き取った。あとから思ったのだが、それはおそらく、私の〈生命の核〉ともいうべきものだったのだろう。彼はそれを抜き取り、自分の口に入れた。そしてごくりと呑み込んだ。

「ここからが本当の始まりです」と彼は言った。

 

 

 そこは死が失われた場所だった。あたり一面に芝生が広がり、雲一つない空は青く晴れ渡っている。太陽の光がとてもまぶしい。遠くを見ると、ところどころに質素な木製の小屋が見える。小屋と小屋の間は大きく離れていて、それぞれが孤立しているといった印象を受ける。すぐ近くには小さな集会所のようなものがあって、今その外にあるベンチで老人が本を読んでいた。私はそこに近づいてみることにした。

「こんにちは」と私は言った。

 老人は始め何を言われているのか分からないみたいだった。でもやがて顔を上げ、静かな声で「こんにちは」と言った。

「何を読んでいるんです?」と私は訊いた。私には興味があったのだ。この世界では人々はどんな本を読むのだろう? 彼は本の表紙を見て題名を確かめた。

「ああ、ヘミングウェイの『老人と海』みたいだ」

 そしてまた読書に戻った。

 

 私はしばらくその辺を散策してからまた戻ってきたのだが、そのときも彼はまだ『老人と海』のまったく同じページを開いていた。

「読書は進んでいますか?」と私は訊いてみた。

「ああ、うん」と彼は言った。でもそこで自分の返答が間違っていたことに気付いた。「ええっと、そうだな。実はあんまり進んでいないみたいだ」。そしてまた読書に戻った。

 

 ここは何かがおかしい、と私は思った。いろんなことがあまりにも平穏過ぎるのだ。ここは確かに空気もいいし、雑音もない(というかほとんど何の物音もしない)。それはある意味では、私が心の底の方でずっと求めていた環境でもあった。しかし、にもかかわらず、そこには何か不自然なものがあった。あるいは私の中には、世界はもっと乱雑で無秩序であるはずだ、という無意識の認識があったのかもしれない。だからこそ私はここに――この平穏さに――ある種の居心地の悪さを感じたのかもしれない。そしてそれには、死が失われたことが密接に関係しているように思われた。

 私はその後も散策を続け、やがて小さな小川に辿(たど)り着いた。それは遠くの方にある山から流れてきているみたいだった。近くには鬱蒼(うっそう)とした林が広がっていた。そしてその林の入り口に、一人の人影が見えた。そこにゆっくり近づいていくと、それが私と同い年くらいの若い女性であることが分かった。見ると、彼女はあの二十歳(はたち)のときに列車事故で亡くなったはずの女性だった。つまり私が読んでいた日記の作者だ。私は驚いて口も利けなかった。

「あなたは死んでしまったのではないですか?」と私は訊いた。

 すると彼女はにっこりと笑った。「あのとき、電車が衝突する直前にね」と彼女は言った。「私は死を捨てたのよ。それでここに来たの」

「ここはどんな場所なんですか?」

「ここは死が失われた場所」と彼女は言った。「そして永遠に変わらない」

 

 彼女は小川の流れにそっと手を()けて、水中で小さく指を動かしていた。まるでそこに何かの模様を描いているみたいに。彼女はその水の冷たさを楽しんでいるようにも見えた。私も(ため)しに指を浸けてみたが、それは驚くほど冷たかった。

「でもこの水は流れ続けている」と私は(ため)しに言ってみた。でもその言葉も彼女には何の印象も残さなかったみたいだった。彼女は微笑(ほほえ)んだまま小さく頷き、そのままずっとゆらゆらと指を動かし続けていた

 

 私はその後も何人かの人に会ったが、彼らはみな一様に生気を欠いていた。話しかけると一応返事は返すのだが、何度訊いても同じ答えしか返ってこないのだ。しばらく経ってからまたあの老人の様子を見に行ったが、彼の読書は最初に会ったときからまったく先に進んでいなかった。

 

 私はそのまま散策をして夜がやって来るのを待ったが、いつまで経っても夜はやって来なかった。どれだけ待っても世界は明るいままだったのだ。どうしてだろう、と私は思った。そこであの女性が、ここは「永遠に変わらない」と言っていたことを思い出した。永遠に変わらない、ということは、夜さえ来ない、ということなのだろうか?

 私はそこで雲一つない青空を見上げた。確かに天気もずっとこのままだ。太陽もずっと同じ位置に留まっている。それは明らかに自然の(いとな)みに反していたが、もちろんそれが悪いというわけではない。そもそもここは普通とは違った世界なのだから。でも一つ大きな問題があった。私は、夜になればここにも変化が訪れるだろう、と思っていた。そしてそこに何かを発見できるかもしれない、と。それは単なる推測に過ぎなかったけれど、それでも私はなぜかここに来た瞬間から、そのような根拠のない確信を抱いていたのだ。ここには何かがあるはずだ、と。

 でもまったく変化が訪れないとなると、もう私にはお手上げだった。昼間の世界にはないものが、夜の世界にはあるかもしれない。でもここでは夜はやって来ない。雨さえ降らない。あるのはこの停滞した、無音の、平穏過ぎる世界だけだ。そう思うと、ふと背筋に寒気を感じることになった。私はここに――この永遠に変わらない世界に――閉じ込められてしまったのだろうか? だとしたら、私はここで一体何をすればいいのだろう?

 

 私は不安を払拭(ふっしょく)するために、さらにペースを上げて散歩をすることにした。何かまだ見落としているものがあるかもしれない。そう思ってより遠くの方まで歩いてみたが、そこにあるのもまた、結局似たような景色でしかなかった。どこに行っても同じような小屋があり、同じような人々が中でまどろんでいるだけだったのだ。彼らは実際に眠っていたわけではない。しかし話しかけても、ほとんど寝ぼけたような返事しか返ってこなかったのだ。彼らの姿は私にある種の危機感をもたらした。あるいはこのままでは私自身もまた彼らのようになってしまうかもしれない。

 私はそうやって歩き続けていたのだが、そのときふとある純粋な疑問が湧いてきた。さほど本質的な問題とは言えなかったけれど、それでも考えてみれば確かに不思議に思えた。そもそもどうしてこれまでこのことに気付かなかったのだろう? その疑問とは、つまりこういうものだった。ここにはどうして子どもがいないのだろう?

 

 そこで私は近くの小屋に行き、ちょうど外で洗濯物を干していた中年の女性に声をかけた。

「どうしてここには子どもがいないんです?」

「ええっとね・・・」と彼女は言って、じっと考え込んだ。そしてそのまましばらく黙り込んでしまったのだが、私はその間ただ辛抱強く待っていた。まあ、時間ならあり余るほどあったし。結局、そうやってずいぶん多くの時間が過ぎていったのだが、太陽は相変わらずその位置を変えなかった。時刻はずっと同じ地点に留まっていた。

やがて彼女は――ようやくのことで――何かを思い出したようにして言った。「そうそう。ここは子どもにはそぐわない場所だから、〈がみんな連れて行ってしまったんですよ。その中に私の子どももいたはずなんだけど・・・」。でもそこで彼女の思考はストップしてしまったようだった。表情は固まり、その意識は(おそらく)世界の辺境をふらふらと彷徨(さまよ)っていた。彼女がここに戻ってくるまでには、もうしばらく時間がかかることだろう。私は動かなくなったその女性をあとにして、影のもとを訪ねてみることにした。

 

 私は会う人々みなに影の居場所を訊いたのだが、なぜか誰も知らなかった。というか彼らは影のことになんか興味もないみたいだった。「ああ、そういえばそんなのもいたね」という一通りの反応があっただけだ。それは私にはずいぶん不思議なことに思えた。だって彼ら自身の子どもたちが、影に連れ去られてしまっているのだ。どうしてそんなことに耐えられるのだろう?

 でも私はそこであることに気付いた。彼らには誰一人として足元に影ができていなかったのだ。上空で太陽があんなに燦々(さんさん)と輝いているにもかかわらず、だ。そこで私ははっとして自分の足元を見たのだが、案の定私にも影はできていなかった。それは奇妙な光景だった。光は私の肉体をすり抜けて、そのまま地面に達していた。ということは、と私は思った。私もまた彼らと同じように、奥行きのない人間になってしまったのかもしれない。

 

 そうやってしばらく探し続けたあと(不思議なことに、ずいぶん歩き回ったにもかかわらず、肉体的な疲労はまったく感じなかった。精神的にはもうへとへとだったのだけれど)、私はあの女性なら影の居場所を知っているかもしれない、と思った。河原(かわら)にいた、あの日記の作者の女性だ。

 私は再び小川を辿(たど)って彼女のもとへと向かった。ありがたいことに、彼女はまだそこにいて、小川に手を()けていた(といっても一日中そうやって、そこにいるのかもしれなかったけれど)。彼女は私を見るとにっこりと微笑(ほほえ)んだ。その細い指は、澄んだ水の中で、驚くほど白く透き通って見えた。

「あの」と私は言った。「一つお訊きしたいんですが、〈影〉は一体どこに住んでいるんでしょうか?」

「影?」と言って彼女は考え込んだ。「ええっと、ちょっと待ってくださいね・・・」。そしてしばらく黙り込んでいたあとで、ようやく何かを思い出したように言った。「そうそう、影はこの小川のずっと上流にいるのよ。つまり山の(ふもと)に。ここからはちょっと遠いけれどね」

「あなたはそこに行ったことがあるんですか?」

「私は・・・」と彼女は言ったが、なぜかそこで言葉は止まってしまった。彼女の目は、どこかずっと遠くを見つめていた。

 

 私は礼を言ってその場をあとにした。彼女は川に手を()けたまま、相変わらずじっと何かを考え込んでいた。私はその静かな黙想を邪魔しないように、そっとその場を立ち去った。しばらく川沿いを歩いてから振り返ると、彼女は私に向けて手を振っていた。考えごとはもう終わったのだろうか、と私は思った。そこに解答は与えられたのだろうか でもいずれにせよ、彼女は今にっこりと微笑(ほほえ)んでいた。この距離からでもちゃんとそれが分かった。そこで私もまた、彼女に向けて大きく手を振り返した。

 しばらく林を歩き続けたあとで(小川は林の真ん中を通っていた。不思議なことに、そこには一匹の虫も、一羽の鳥も見当たらなかった)、また開けた場所に出た。芝生の()えたなだらかな丘が続き、その谷間を小川が静かに流れている。ふと気付くと、上空を気持ちの良い風が吹き渡っていた。風はちゃんと吹いているんだ、と私は意外に思った。というのも、ここでは空気すら停滞しているのだと思い込んでいたからだ。でも風はちゃんと吹いている。とすると、と私は思った。ここでかろうじて生きているのは、風とこの小川だけだ。

 山はずいぶん遠いように見えたが、それでも私は急がなかった。ここでは肉体的な疲れが存在しないことを、すでに知っていたからだ。私は川沿いの芝生の上を、ただひたすらまっすぐ歩き続けていた。静かな川音がすぐ脇でいつまでも鳴り響いていた。途中でふと自分が鼻歌を歌っていたことに気付いたが、どれだけ考えても、それが何の歌だったのか思い出すことができなかった。

 

 ようやく影の小屋が見えてきた。

 遠くにあった山はだんだん近くなり、気付いたときにはもうその(ふもと)に達していた。この奇妙な世界に入り込んだせいで、時間の感覚がおかしくなっている。長く扁平(へんぺい)に引き伸ばされたかと思えば、次の瞬間にはもう、あっという間に多くの時間が過ぎ去っている。

 影の小屋は丸太造りの、ごく小さな建築物だった。そのすぐ脇を小川が流れている。私はその入り口目指して一直線に歩いていったのだが、そのとき小屋のすぐ後ろの方に、柵に囲まれた畑が広がっていることに気付いた。見ると、そこでは今たくさんの子どもたちが農作業をしていた。私はしばらくそれを眺めていたのだが、子どもたちは汗をかきながら一心不乱に何かの植え付け作業をしていた。誰も、一度も顔を上げない。と、そのとき玄関の戸が開いて、探していた〈影〉が姿を見せた。夢の中で私に入り込んできたあの影だ。彼は言った。

「いいから中に入りなよ」

 私はその言葉に従った。

 

 小屋の窓は開け放たれていて、気持ちの良い風が中に吹き込んでいた。そこは一面仕切りのない空間になっていて、隅に小さなベッドが置かれている。真ん中には木製のテーブルがあって、すぐ(そば)に何脚かの椅子が置かれている。そして今その一つに、一人の男が座っていた。見るとそれは〈死〉だった。私をこの世界へと(みちび)いた死だ。

「やあ」と彼は言った。「やっと来ましたか」

 私はただ頷き、小屋の主人が差し出した椅子に座った。

 影は黙ったまま私にコーヒーを()れてくれた。手動ミルでガリガリと豆を()き、沸かしておいたお湯で――おそらく奥にある(まき)ストーブを使ったのだろう――ゆっくりとドリップした。風に乗って部屋中に香ばしい香りが広がった。一杯分のコーヒーができ上がると、彼はそれを持ってきて、私の目の前に置いた。私は礼を言い、一口それを飲んだ。こんなところでコーヒーを飲むというのも変な感じがしたが、それはとてもおいしいコーヒーだった。きっと水が新鮮だからだろう。

 私がコーヒーを飲んでいる間、二人はただじっと黙り込み、(そろ)って目の前のテーブルを(にら)んでいた。あるいはこちらが先に話し出すのを待っているのかもしれない。コーヒーを飲み終えると、私はカップをそっとテーブルの上に置き、口を開いた。

「ここにはどうして死が存在しないのですか?」

 でもその質問は二人の耳には届かなかったみたいだった。あるいは聞こえたのかもしれないけれど、返事をするだけの価値がないと思ったのかもしれなかった。二人は相変わらず目の前のテーブルを(にら)み続けていた。一方私の発した質問は行き場をなくし、どこか遠くに吸い込まれていった。誰にも一度も(かえり)みられることのない場所に。

 そのとき気付いたのだが、おそらくここに死が存在しないのは、すでにひとつの前提条件のようなものになっているのだろう。だから「なぜ」とか「どうして」とか訊いても仕方のないことなのだ。とにかく事実として、ここには死が存在しないのだ。私はまずそれを受け入れなければならないのだろう。

私は質問を変えた。

「子どもたちは何をしているんですか?」

「彼らは〈死〉を植えているのさ」と影は言って顔を上げ、向かい側に座った死の顔を見た。

 それを見て死は言った。「そうです。私が監督をしています。子どもたちは死を植えるのが大好きなんです。『こんなに楽しいことはほかにない』と彼らは言ってくれています。我々はそれでずいぶん助かっているんです。大抵の大人は、そんなものには見向きもしませんからね」

「子どもたちも死を(まぬか)れているんですか?」と私は訊いた。

「まあもともとは違うんです」と死は言った。「でもここで彼らの死を抜き取ります。そしてそれを土に植えるんです。しばらく経つと、一つにつき大体五個の死が()れる」

「それをどうするんですか?」と私は訊いた。

「それをどうするかってさ」と影は言って鼻で笑った。明らかに人を小馬鹿にした笑いだった。でも私はそれを見ても特に傷つかなかった。だってどうするのか実際に見当もつかなかったから。

「外国に輸出するんです」と死が答えてくれた。「なにしろ国内産のオーガニックですから」

 

 私は話についていくのに困難を感じた。外国? この世界のほかに、まだ別の世界があるのだろうか? そこでも人々は死を欠いているのだろうか? でも私はそれについては()えて訊ねないことにした。きっとまた影に鼻で笑われるだろうから。私は死に向かって言った。

「外国の人はその死をどうするんですか?」

「まあ」と死は親切に説明してくれた。「たとえばコーヒーに入れたり、そのまま舐めたり、いろいろですよ。私はブランデーに混ぜますがね」

 

 栽培(さいばい)された死についての話はそこで終わった。私たち三人は突然ふっと黙り込んだ。開いた窓から、また別の新鮮な風が入り込んできていた。部屋の中にはまだ、さっきのコーヒーの香りがぐずぐずと居残っていた。そろそろ本題に入る頃合いだ、と私は思った。

「ねえ」と私は二人に向かって言った。「私はもうこんな世界にはいたくありません。ここではなにもかもが停滞しています。住んでいる人たちも、本当には生きていない人たちです。まともに会話を交わすことすらできない。彼らは自分の子どもたちを取り戻そうとすらしないんです。それもこれも、全部死が失われてしまったせいです。ねえ。私は死を取り戻したいんです。それには一体どうしたらいいんですか?」

「それにはだね」と影は言った。「君は君自身の影を取り戻さなくちゃならない。そうして初めて身の内に死を抱え込むことができる。もちろん今栽培している死をちょっと舐めれば、少しの間は死を取り込むことができる。でもそれもやがて排出されてしまう。あんなものは単なる嗜好品(しこうひん)に過ぎないんだ。自前の死とは比べ物にもならない」

「では私の死と影は一体どこにあるんですか?」と私は訊く。

「君にそれを見る勇気があるかい?」とそこで影は言った。「一度行ったら、もうあとには戻れないぜ」

「大丈夫です」と私は言った。私はここに来る途中で、すでに堅く決心していたのだ。「私は自分の影と、そして死を取り戻したいんです。そうしないと生きている意味そのものがなくなってしまう」

「君は一つ間違っている」とそれを聞いて影が言った。「君は今生きてはいない。なぜなら死のないところに生は存在しないからだ。君はただここにいるのさ。ずるずると。意味もなく」

 そのとき急に裏口の戸が開いて、小さな男の子が中に入ってきた。手は土で真っ黒になり、(ひたい)には大粒の汗をかいていた。その目付きは驚くほど(けわ)しかった。彼は何も言わなかったが、すぐに死が席を立ち、その(そば)に寄った。

「そうか、終わったんだな」と死は言った。子どもはそれを聞くと、一度敬礼をしてから駆け足で畑に戻っていった。

 

 私と影は山に向かうことになった。彼が言うにはそこに私の影がいる、ということだった。死は残って畑の監督をする、と言った。

「子どもたちに優しくしてくださいね」と私は言った。

「彼らは働くのが好きなんですよ」と彼は不服そうに言ったが、これではまずいと思ったのか、最後になってこう言い()えた。「ええ、もちろん。優しくしますとも」。そして私と握手をした。

 

 影は小屋を出るとき、私に小さなナイフを手渡した。

「いいかい」と彼は言った。「ここから先君は、自分の身は自分で守らなくちゃならない。俺にできることは限られている。なにしろただの影に過ぎないからな」

 私は頷いた。そして(てのひら)の上のナイフを見つめた。それは木製の()の付いた、折りたたみ式の小さなナイフだった。その刃先は確かに鋭利に(とが)ってはいたものの――そこには日常的な手入れの(あと)(うかが)えた――こんなものが本当に役に立つのだろうか、と私は疑問に思った。それは何かを切ったり刺したりするには、あまりにも小さいような気がしたのだ。それに私は、一体何に対してこれを使うのだろう? そう思いながら、何度か刃を出したりしまったりしてみたが、その不安はやはり消えなかった。でも今から先のことを心配していても仕方あるまい、と思い直した。あとのことは、またあとで考えればいい。 

私は影のあとを追って歩き出したが、そこでふと疑問に思ったことがあったので、彼に訊ねた。

「あなたの〈本体〉はどこにいるんです?」

 でも彼は首を振って、その質問には何も答えてくれなかった。

 

 私たちは(けわ)しい山道を登っていった。木々は鬱蒼(うっそう)と茂っていたが、なぜかそこには生気が感じられなかった。よく考えると匂いだってない。どうしてだろう、と思って木の幹を触ってみると、それはまるでプラスチックみたいにカチカチだった。落ちていた葉っぱもまた同様だった。それらは今完全に生命の兆候を欠いていた。

「彼らもまた死を失っているんだ」と影は言った。

 そのとき気付いたのだが、木にも影はできていなかった。

 

 細い山道を登っていくと、やがて急に視界が開けてきた。そこにはもう高い樹木はなく、一面に背丈の低い植物が茂っているだけだ。彼らはまるで身を寄せ合うように、密集して()えていた。試しに触ってみると、それらもまたカチカチに固まっていることが分かった。生きているわけでもなければ、かといって完全に死んでいるわけでもない。私たちは、ただその脇を通り抜けていった。そこをしばらく進むと、やがて大きな岩に出くわした。

「ここが入口」と影は言った。

 

 それは場違いなまでに大きな岩だった。一体なぜ、こんなところに突然こんな岩が出現するのか、私には理解できない。それは明らかにどこかほかの場所から持ってこられたものだった。それは周囲の山の景色に、まったく溶け込んでいなかったのだ。近くにある別の石と比べても色が全然違うし、なによりも大きすぎる。でも一番の問題はその雰囲気にあった。そこには自然のものにはない、何か薄暗い雰囲気があった。私はそこに死の気配を感じ取った。あるいはこれは、古来何かの儀式に使われてきたものなのかもしれない、と思った。

影はその岩の前に来ると(岩は近くで見るとさらに巨大に見えた)、ポケットから自分のナイフを取り出し、左手の人差し指の腹に刃先でちょっとだけ切れ目を入れた。するとそこからは影のように黒い血が――つまり彼の身体と同じ色だ――ほんの少しだけ流れ出した。そしてその血の付いた指を、岩の真ん中にぺたりとくっつけた。

「君も同じことをやって」と彼は言った。

 私もまたナイフで指先に小さな傷をつけ――ナイフの切れ味は抜群だった――少しだけ血を流し、岩にその指を付けた。しばらく何も起こらなかったが、やがてゴ、ゴ、ゴ、という低い音が鳴り響き、突然岩の下に大きな穴が出現した。よく見るとその先には石でできた階段が続いていた。

「さあ、行くよ」と影は言って、躊躇(ちゅうちょ)なくその階段を下りていった。私もまた遅れずにそのあとを追った。

 

 

ここまで書いてしまうと急に眠気がやって来た。圧倒的な眠気だ。もう目を開けているのもやっとだ。続きはまた明日書こう。

 

 


日記 3

11月5日

大学で講義を受けているときも、昨日書いた物語のことばかり考えていた。ちょっと現実離れはしているけれど(「ちょっと」じゃないか)、それでもそこには何かがあるような気がする。今日は大学のあとアルバイトもあったから、今はもう夜遅くなっている。とりあえず昨日の続きから書き始めることにする。

 

『文書二』

 私は影と一緒にその階段を下りていった。影は腰に(くく)りつけていた小さな麻袋(あさぶくろ)からランプを取り出し、マッチで火を点けた。じんわりしたオレンジ色の(あか)りが、ぱっとあたりを照らし出した。彼はそれを持って私の先を歩いていった。

 中は薄暗い空間だった。進むにつれて、その暗さはどんどん濃さを増していった。影が持つランプの明りだけが頼りだが、それもこの闇の中ではとても弱々しく見える。火に照らされた影の顔は、特殊な輝きを()びているようにも見える。彼の目は明らかにここではない、どこか遠くを見ている。

私たちはしばらくの間、何も言わずにただその階段を()り続けた。少なくとも今のところ、あたりには何の物音もない。私たちの単調な足音だけが響いている。それにしてもずいぶん長い階段だ、と私は思った。一体どこまで下りていくのだろう? するとそのとき突然影が話しかけてきた。

「なあ」と彼は言った。「ちょっと訊くけどさ、君はどうして君なんだと思う?」

「私?」と私は驚いて言った。でも彼の質問の趣旨は、私にはうまく呑み込めなかった。私はどうして私なのか? 「別に理由なんてないんじゃないかな」ととりあえず私は言った。「ただたまたまそうなった、というだけで」

「いや」とそれを聞くと影は言った。彼はわざわざ振り向いてそう言ったのだ。「そこには理由があるのさ。ちゃんとね」。そしてまた下に向かって歩き出した。

 

 しばらくそのまま下りると、やがて開けた場所に出た。そこはかなり広い空間だった。暗くて全体は見渡せないのだが、それでも雰囲気でなんとなくそれが分かった。その奥からは、何かが何かにぶつかるドサッという音や、何の音かまったく見当も付かないような音が聞こえてきた。それに混じってたくさんの人間の足音も聞こえた。ふと気付くと、影の目の前に一人のまだ小さい男の子が立っていた。

 彼は影に向かって敬礼をした。そして言った。「ご苦労様であります!」

「おう」と影は言った。「どうだね、訓練の方は」

「万事順調であります!」

「それはいい」と影は言い、手で「戻ってよい」という合図をした。子どもは、(かかと)(かかと)を強くぶつけて音を出すと、素早く回れ右をして奥の空間に帰っていった。

「あの子はなんであんな話し方をするんです?」と私は訊いた。

「いいかい」と影は言った。そして私を連れて闇の奥に足を踏み入れた。ランプの光に照らされて、たくさんの子どもたちが――そこには女の子も大勢混じっている――軍事教練のようなものをしている様子が見えてきた。外壁沿いを集団で走っている子たちもいれば、(わら)でできた人形に(やり)を突き刺している子たちもいる。彼らの目は一様に真剣そのものだった。そこには百パーセント純粋な狂気が浮かんでいた。私は唖然として、ただその光景を眺めていた。

「これは子どもの軍隊なんだ」と彼は続けた。「彼らは死を捨てなかった。勇敢な子どもたちだ。彼らは今戦争の準備をしているんだよ」

「戦争?」と私は訊いた。戦争?

「そうだ」と影は言った。「戦争だ」

 私たちはゆっくりとその空間を通り過ぎていった。そこは見るからに異様な空間だった。私のすぐ(そば)では、ヘルメットを(かぶ)った小さい女の子が――たぶん六歳くらいだろう――歯を食いしばって必死に匍匐(ほふく)前進の練習をしていた。

「憎しみを込めるんだ!」と槍を突き刺している子どもたちの脇で、さっき挨拶に来た少年が叫んでいた。

「身に宿(やど)すべての憎しみを込めるんだ!」

 そしてそれを聞いた子どもたちは、言われた通り身に宿るすべての憎しみを込めて、無抵抗の(あわ)れな(わら)人形を突き刺した。

 

「ここはおかしいです」と私は影に向かって言った。「子どもたちがあんなことをしているなんて。それにそもそも誰と戦争をするんです?」

「大人たちさ」と影はなんでもなさそうに言った。「当然じゃないか。彼らは無能な大人たちを殺す訓練をしているんだよ」

「それでどうなるんです?」と私は訊いた。「そのあとどんな世界がやって来るんです?」

 それを聞くと影は少し意外そうな顔をした。あるいは、そんなことを言われるとは予想していなかったのかもしれない。「もっといい世界だよ」と彼はポツリとつぶやいた。「そんなの当たり前じゃないか」

 そのあと私たち二人は何も言わず、ただ黙々と子どもたちの脇を通り抜けていった。

 

 ようやく反対側の壁に行き着くと、そこにもまた階段が続いていることが分かった。それはさらに下へと向かっていた。影は手を上げて、さっきの教官役の男の子を呼び寄せると――彼はものすごいスピードで飛んで来た――こう言った。

「あとは頼むぞ」

「了解であります!」と少年は言った。そしてまた敬礼をした。

 

 階段を下りながら、一つ気になったことがあったので影に訊ねた。

「さっき大人たちを殺すと言いましたね」

「ああ」と影は言った。

「でもあの人たちはそもそも死を欠いているわけです。死のない人を殺すことはできないでしょう」

「いや、それができるんだよ」と影は言った。「まあいろんなやり方があるのさ。それに」、彼はそこで私の方を振り返った。「彼らはそれを求めているんだよ。つまり大人たちがさ」

「大人たち自身が殺されることを求めている?」と私は訊いた。

 彼はただ頷き、この件についてはそれ以上何も言わなかった。

 

 私は道中そのことについて考えていた。確かにあの大人たちは、生きることを楽しんでいるようには見えなかった。でもだからといって、子どもたちに殺されることを自ら望んでいるのだろうか? 私はあの、何度も同じページを読んでいた老人のことを(彼はきっと今でも同じページを読んでいるのだろう)思い出した。そしてあの小川にいた若い女性のことも。でも彼らが本当のところ何を望んでいるのかは、私にはまったく理解できなかった。

 長く続いた階段がようやく終わると、そこにもまたさっきと同じような奥行きのある空間が広がっていた。私には暗くてよく見えなかったのだが、影にはその全貌が見渡せるようだった。彼は階段を下りてすぐのところで、しばらく立ったまま前方を(にら)んでいた。

「ここからはできるだけ近くにくっついて来て」と影は私に向かって言った。私は頷き、彼の背中のすぐ後ろについて歩き出した。

 

 彼がランプを持って進んでいくにつれ、私にはある程度その内部が見渡せるようになった。そこにいたのは動物たちだった。地上の世界には一切存在しなかった動物たちだ。まず見えたのは一頭のチンパンジーだった。彼(あるいは彼女)は不思議そうな顔をして私たちをじっと見つめていたが、やがて興味を失ったのか、飛び跳ねながらどこかへと去っていった。

 次に見えたのはキリンだった。最初はその細長い脚しか見えなかったのだが、影が高くランプを(かか)げるとその顔が見えた。キリンはじっと私たちを見下ろしていたが、その目はなんだか悲しげだった。

 そのあとさらにいろんな動物が見えてきた。ゴリラや、ライオンや、ヘビ。巨大なサイもいた。私は少しびっくりしたが、幸い彼らは私たちに襲いかかったりはしなかった。というか彼らには、もうそんな元気は残っていないように見えた。どの動物も一様に悲しげな目をして、じっとこちらを見つめているだけなのだ。そこで私はあることに気付いた。

「彼らはみんな一匹ずつですね」

「ああ」と影は言った。

 それは私にはひどく不自然なことのように思えた。

「彼らは本来つがいでいるべきではないのですか?」

「ここにつがいはいない」と影は言った。「どの種類もオスかメスか、そのどちらかしかいない。『どうしてか』なんて訊かないでくれよ。ここではとにかくそういうことになっているんだ」

 そこで私は振り返り、寝そべったままじっと私を見つめているライオン(オス)の方を向いた。実のところ、彼はライオンであるというよりは、海岸に打ち上げられたアザラシか何かのように見えた。無気力で、生きる意志を失っているように見える。彼の目はとても寂しそうだった。

 

 進んでいくうち、やがてまた奥の壁際に辿(たど)り着いた。そこにもまた土壁をくり抜いた穴のような出口があり、その先にさらに下へと続く階段があった。私たちは前と同じように長い階段を()り、やがてさらなる地下室へと到達した。

 その場所もまた広い空間だった。影の後ろについていくと、そこにはほとんど何もないことが分かった。子どもたちもいないし、動物たちもいない。あたりはしんと静まり返っている。しかし中央に近づくにつれ、暗闇の中に徐々に何かが姿を現した。見ると、それは一本の巨大な木だった。地面に深く根を張り、そのてっぺんは天井に届きそうなほど高い。緑の葉がびっしりと枝を覆い尽くしている。その前に来ると、影は突然歩を止めた。

「さあ着いた」と彼は言った。

 私はただそこに立ち止まって、彼が何か続きを言うのを待っていた。

「それで、だ」と彼は続けた。「君は自分自身の〈影〉と、そして〈死〉を取り戻したいと思っている」

 私は頷いた。

「でも、一度捨てた影を取り戻すというのは、並大抵のことではないんだよ。それは分かっているね」

 分かっている、と私は言った。

「それにはある種のひっくり返しが必要とされる。それだけが必要なエネルギーを生むことができるんだ。それは分かるかい?」

 私はなんとなく頷いた。でも本当のところ、きちんと理解できていたわけではない。ひっくり返し?

彼は木の幹に手を当ててしばらく何かを考えていた。その頭の中でグルグルと歯車が回転していた。でもやがてまた口を開いた。「そこで君にやってもらいたいことがある」

「やってもらいたいこと?」と私は言った。

「うん」と彼は言った。そして目の前の木を眺めた。「今ここに大きな木がある。見ての通りこれは普通の木じゃない。この木はいわば〈生命の源泉〉なんだ。そういう大事な木だ。君には今からこの木を殺してほしい。そうして初めて〈ひっくり返し〉が達成されることになる」

「木を殺す?」と私は言った。

「そうだ。木を殺すんだ」と影は言った。

 

 私はそれについてじっと考え込んだ。一体どうやってこんな巨大な木を殺すというのか。あらためて見ると、その木は普通の木とは明らかに違っていた。樹皮は(ふし)くれ立ち、その幹の太さは尋常ではなかった。さらにそこから、私の胴体ほどの太さの枝が多数分かれている。そしてその先には(おびただ)しい数の葉が茂っている。どうやってこんなものを殺せばいいんだろう?

 でも問題はそれだけではなかった。殺せるかどうかはともかく、私には自然のものを傷つけることが正しいことだとは思えなかったのだ。この木はこの場所にそっとしておくべきではないのか? なにしろ〈生命の源泉〉なのだから。私は視線を戻し、影の方を向いて言った。

「それは正しいことなの?」

 でももうそこに影はいなかった。

 

 そこには地面にぽつんと置かれたランプがあるきりで、どこにも影の姿はなかった。あるいはこの広い部屋のどこかに隠れているのかもしれなかったが、雰囲気からしてどうもそうではなさそうだった。彼は私を置いたままどこかに消えてしまったのだ。そう思うと急に背筋に寒気が走った。私はただ一人、この奇妙な深い暗闇に取り残されているのだ。次に何が現れるのか見当もつかない暗闇に。果たして私は、無事に元の場所に辿(たど)り着けるのだろうか?

 でもよく考えてみれば、その「元の場所」というのは、温かい日に照らされてはいたものの、死を失っている世界だった。本当の〈生〉というものがない世界だった。そもそも私はあそこから逃れるためにここにやって来たんじゃないか。今さら泣き言を言っていても何も始まらない。

 

 私は意を決してその巨大な木を眺めた。今私の手元にあるのはランプと、小さな折りたたみ式のナイフだけだ。試しにナイフで幹に傷をつけてみたが、茶色い樹液のようなものが流れるだけで、ほとんどビクともしなかった。何度か足で蹴飛ばしてみたが、もちろん足が痛くなっただけだった。

 一体どうしたらいいのだろう?

 

 私はしばらく頭を働かせていたが、全然いい考えは浮かばなかった。そもそも本当にこれを殺す必要があるのだろうか? それによって、一体何が達成されるというのだろう? でも影がそう言ったのだ、と私は思った。彼の言うことをなにもかも信用している、というわけではなかったけれど、それでも彼がここで嘘をつくとは思えなかった。だってそんな必要はどこにもないから。

 私は試しにぐるりと木のまわりを回ってみたが、どこにも隙もなければ、ダメージを与えられそうな場所もなかった。そもそも「木を殺す」とはどういうことなんだろう?

 

 そのとき頭上の木の枝の先端が、ガサガサと音を立てて動いた。

 見るとそこには何かがいた。何なのかよく目を凝らしてみると、それは一つ上の階で見たあのチンパンジーだった。彼は――すぐあとでオスであることが判明する――枝にぶら下がって私を見ていたあと、二度(かん)高い鳴き声を上げ、やがて下に()りてきた。彼は臆することもせず、地面に立ってまっすぐ私の目を見つめていた。

「ここまでついてきたのね」と私は言った。すると予想外にも彼は返事を返した。

「まあね。あんたが心配だったからさ」

 私は驚いて口も()けずにいたのだが、チンパンジーはごく平然とした顔先を続けた。

「そもそもあんたはこんな変な場所にいるんだ。なにも動物がしゃべったくらいでそんなに驚かなくたっていいだろう」

 私はなんとか心を落ち着かせて言った。

「でも上ではしゃべらなかったじゃない」

「あそこではしゃべれないんだ」と彼は言った。そしてポリポリと頭を()いた。「でもここでならしゃべれる」

 私はそれについて考えてみたが、どうして上の階でしゃべれなかった動物が、一つ下の階に()りただけでしゃべれるようになるのかは、理解できなかった。でも結局、その問題はひとまず脇に置いておくことにした。そしてとにかく、今ここの状況を理屈抜きでそのまま受け入れることにした。そうしないと、いつまで経っても現にそこにある問題と面と向き合うことができなかったからだ。

「さっき影にこの木を殺せって言われたの」と私は言った。「どうやったらそんなことができるんだろう?」

「ふうん」とチンパンジーはまた頭を()きながら言った。「この木を殺すのか。それはどうも大変そうだな」

「何かいい案はない?」

 彼はじっと考え込んでいたが、やがて言った。

「俺がちょっと様子を見てこよう」

 彼はそう言って、また軽々と木の上に登った。そして枝から枝へと飛び移り、それぞれの先端に掴まって、何度も上下に揺らし始めた。まるでそのたわみ具合の細かな違いの中に、何か重要なヒントが隠されてでもいるかのように。一方の私は木の根元に立って、ただぼんやりとそれを眺めていた。彼は一体何をしているんだろう、と思いながら。でもそのときある不思議な光景を見て、はっと我に帰った。枝の揺れに(ともな)って何枚かの葉が落ちたのだが、それは地面に触れた瞬間すぐに死んでしまった。鮮やかな緑が急に褐色(かっしょく)になり、ぼろぼろになって、やがて粉となって散っていったのだ。最初は錯覚かとも思ったのだが、次の一枚もまた、まったく同じようにして消えていった。地面には葉が落ちた痕跡すら残らなかった。

少ししてチンパンジーが葉の隙間から顔を出した。

「なあおい」と彼は下に向かって叫んだ。

「何かあった?」と私は訊いた。

「いや」と彼は言った。「特別なものはなんにもない。でも一つ分かったことがある」

「何?」

「これは普通の木じゃないぞ」

「どういうこと?」

「とにかく普通の木じゃないんだ。枝のたわみ具合でそれが分かる。そんなちっぽけなナイフじゃ歯が立つまい」

「じゃあどうすればいいの?」

「そんなの俺は知らない」

 

 でもそのあとも彼は、何やらガサガサと木の中を捜索していた。そしてしばらく経ったあと、急にものすごい勢いで地面に下りてきた。

「なあ、こんなものを見つけたぜ」

 見ると彼は手に何かを持っていた。それはごく普通の、小さな、緑色の木の実だった。見た目だけでは梅の実によく似ている。

「これ一つしかなかった。隠れたところにぽつんと()っていたんだ。まるで何かから身を隠しているみたいに。でもこの俺の目はごまかせない。ほら」。彼はそう言って私にその実を渡した。

 それは本当に何の変哲もない木の実だった。試しに匂いを嗅いでみたが、何の匂いもしない。触ると少し柔らかい。

(かじ)ってみなよ」と彼は言った。

 私は言われるまま、ほんのちょっとだけ(かじ)ってみたのだが、酸っぱいような、(しぶ)いような、なんともいえぬ味が口に広がって、すぐに吐き出してしまった。私は(そで)で口を(ぬぐ)いながら言った。

「おいしくはないね」

 私はその実をチンパンジーに差し出し、今度は彼も同じように少しだけ(かじ)った。彼は顔に(しわ)を寄せ――顔中(しわ)くちゃになった――(かじ)ったものをすぐに吐き出した。そして舌を何度も手で(ぬぐ)った。

「まったくだな」と彼は言った。

 

 結局私はその実をポケットに入れ、またしても木を前に考え込むことになった。きっとこの実は特にたいした意味を持つものではないのだろう。見た目も味も、はっきり言って何の変哲もない。そんなことより、この木そのものを殺す方法を考えなければならない。

私はそうやって考え続けていたのだが、そのときすぐ近くで、ふと誰かの小さな足音が聞こえた。パタパタパタと走る音。また別の動物が来たのかと思って振り返ると、そこにいたのはあの少年だった。二つ上の階で見たあの司令官の子だ。彼は私を見ると急に姿勢を正し、素早く敬礼をした。

「ご苦労様であります!」と彼は言った。こんな下の階までやって来て、彼はなんだかずいぶん緊張しているみたいだった。

「あなただったの」と私は言った。

「はい」と彼はよく通る大きな声で言った。「影に命令されて来たのであります」

「影に?」と私は訊いた。「彼はなんて言ってたの?」

「とにかくここに下りて来い、と。何をすればいいのかは、来てみれば分かる、と」

「ふうん」と私は言った。「でも彼はどっかに行っちゃったよ。急に消えちゃったんだ」

 少年はもじもじしながら私のことを眺めていた。(ひたい)からは大粒の汗が流れている。どうしてそんなに緊張しているんだろう?

「どうしてそんなに緊張しているの?」と私は訊いた。

「分からないのであります」と彼は正直に言った。「ただ自分の中で何かが(うごめ)いているのであります」

 そしてはあはあと大きく息をついた。

 

 そうこうしているうちに、彼の体調は明らかに悪化していった。(ひたい)の汗はさらに増え、顔は赤くなり、もう立っているのもやっとという有様だった。しかし私の前で威厳を崩したくなかったからか(それとも軍人としての意地だったのか)、決して座り込もうとはしない。その姿勢は気を付け」のまま、針金のようにまっすぐに保たれていた。

 そのとき私の頭にある考えが(ひらめ)いた。果たしてそんなことが成功するのかどうかは分からなかったが、それでもやってみないよりはましだった。私はさっきポケットにしまった緑色の木の実を取り出し、彼に渡した。そこには私とチンパンジーの分の歯形が残されていた。

「もしよかったら(かじ)ってみて。何かの役に立つかもしれない」

 少年は、かたじけない、と言ってそれを受け取った。そして実のきれいな部分を少しだけ(かじ)り取った。それは子どもにはずいぶん苦い食べ物だったはずだが、彼はそれを吐き出さずにきちんと呑み込んだ。見上げた軍人魂だ、と私は思った。

 彼は顔をしかめたままそこに立っていたのだが、やがてその顔色に大きな変化が現れた。肌が急に青い色になったかと思うと、再び赤い色に戻った。少しして今度は緑がかった色になると、すぐにごく普通の色に変わり、最後に全体が影に覆われたように暗くなった。どうやらその暗さを別にすれば、彼はごく普通の状態に戻ったようだった。両目はしっかりと見開かれ、(ひたい)の汗も止まっていた。彼は健康を回復したらしかった。

「どうもありがとうございます」と(よど)みない口調で彼は言った。「ご厚意(こうい)に感謝します」。そしてじっと私を見た。

 

 私はその視線を見て、少しビクリとした。というのも、彼は体力を回復はしたものの、今度は逆にその視線が鋭くなり過ぎているような気がしたからだ。彼の中に残っていた子どもらしさが消え、今では別の何かが彼を動かしていた。それはおそらく、闇に根を張った〈何か〉だった。

「ところで」とやがて彼は口を開いた。「あなたは一体どちらなんです?」

「どちら?」と私は、何のことか分からずに訊ねた。

「子どもなのか、それとも大人なのか」

 私はそれについて考えた。私は子どもなのか、それとも大人なのか。「どちらでもあると思う」と少しして私は言った。「まだ子どもだけど、大人になりたいと思っている。たぶんその中間ぐらいにいるんだと思う」

 少年はそれを聞くと、じっと何かを考え込んでいた。でもやがて口を開いた。

「あなたはどちらなのか選ばなければならない」と彼は言った。静かではあったけれど、それは間違いなく、有無を言わせぬ司令官の口調だった。「完全な子どもなのか、それとも完全な大人なのか」

 私は言った。「どちらかを選ぶことはできない。それにそんなことにあまり意味があるとは思えないの」

「意味がない」と少年は言った。

「意味がないというか」と私は言葉を探しながら言った。「そんなことよりも、私が私自身であることの方が大事な気がするの。大人であるとか、子どもであるとかいうよりも」

 少年はまたしてもじっと黙り込んだ。彼が何を考えているのかは分からなかったが、その目は終始まっすぐ私を見つめていた。それは、思わず身震いしそうなほど冷たい視線だった。やがて彼は言った。

「それでは、あなたは完全な子どもではない、ということになる。それは認めますね」

「だから言ったでしょう」と私は言おうとしたのだが、彼は手を上げてそれを制止した。

「もう大丈夫です」と彼は言った。「さっき命を救ってくださったことには感謝します。しかし回復した今となっては、私は軍人としての責務を果たさなければなりません。そして戦場においては、味方でないものはすべて敵とみなすのです。もう一度言います。戦場においては、味方でないものはすべて敵とみなすのです。そうしないと自分の命を守ることができないからです」

「でも私は・・・」と私は口を挟もうとしたのだが、彼はまたしても手を上げて、それを(さえぎ)った。戦場? と私は思った。どうしてここが戦場である、ということがあり得るのか?

「もう結構です」と彼は言った。「これ以上しゃべっても時間の無駄です。影は私に、ここに来れば何をすればいいのか分かる、と言いました。そして今私ははっきりと自分の目的を悟りました。我々はあなたを殺します。でも勘違いしないでほしい。あなた個人を恨んだり憎んだりしているわけではないのです。ここでは味方でないものは、例外なくみな敵なのです。これは原則の問題なのです」

 我々? 彼は今「我々」と言った。我々はあなたを殺します、と。でもここには彼一人しかいない。でもそこで気付いたのだが、彼の背後の暗闇に、いつの間にか二つ上の階で見たあの子どもたちが勢揃いしていた。彼らはみなヘルメットを(かぶ)(やり)を持って、上官からの命令が下るのを今か今かと待ち受けていた。そこにあるたくさんの目は深い暗闇の中、赤く不気味に発光していた。

 司令官はさっと後ろを向き、そこにいる部下たちに向かって言った。

「ついに戦うときがきた。我々はこのときのために日々厳しい訓練を続けてきた。これは我々にとって非常に重要な一歩である。小さな一歩ではあるが、まずこれを踏み出さないことにはどこにも辿(たど)り着くことができない。そしてこれを足掛かりにして、我々はより大きな目標へと進むのだ」

 彼はそこで一度中断し、自分の言葉が兵隊たちに――といっても小さな子どもたちなのだが――しっかりと伝わるのを待った。彼らはみな息を呑んで、司令官が次の言葉を発するのを待ち受けていた。

「今ここにいるのは」と彼は私を指差して続けた。「大人でも子どもでもない人間だ。女性ではあるが、そんなことは我々には関係ない。彼女は今、純粋な子どもであることをやめようとしている。自分からそう言ったのだ。彼女はいずれ汚い無能な大人となり、我々の世界の清浄(せいじょう)な空気を(けが)すだろう。そしてその傲慢(ごうまん)さで、すべての子どもたちが自然に生きる邪魔をするだろう」

 彼はそこでまた効果的に言葉を止めた。そしてゆっくりと聴衆を見回し――彼らは(まばた)き一つせずに司令官を見つめていた――たっぷり時間をかけたあとで、再び口を開いた。

「だからこそ今ここで彼女の息の根を止めるのだ。諸君、これは彼女のためでもある。だって大人になるくらいなら、そもそも死んだ方がましなのだから」

「これは理念と原則のための戦いである」と彼は続けた。「崇高な理念の前では、一個人の命など何の意味もなさない。我々は情を捨て、正しい目的のために行動しなければならない。諸君、ここでもう一度誓いの言葉を言おうじゃないか。我々の団結と、そして信念を確かめるために。

 我々は自由である!」

我々は自由である!」と兵隊たちは復唱した。

「我々は純粋である!」

我々は純粋である!

「我々は大人にはならない!」

我々は大人にはならない!

「悪は」と最後に司令官は言った。「我々の(がわ)にはない」

悪は我々の(がわ)にはない!

 

そしてこちらを向き、「突撃!」と言って脇に身をよけた。私にはそのとき、彼がほんの少しだけにやりと笑ったように見えた。ひどく嘲笑的な笑いだ。明らかに小さい子どもが浮かべられるような()みではない。そしてそのとき私は気付いたのだが、それはあの影とまったく同じ笑いだった。さっき急にいなくなってしまったあの影だ。そうか、これは影だったんだ、と私は悟った。おそらくあの実を食べたあとで、影が少年の身に取り()いたのだろう。彼ならきっと、それくらいのことは簡単にできる。とすると、これはすべて影自身が仕組んだ罠だったのだ。

しかしそれが影だったとして、もはや子どもたちの士気(しき)は後戻りできないところにまで高まっていた。彼らは一斉に(やり)を構え、私目がけて勢いよく突っ込んできていた。(とが)った銀色の刃先が、闇の中にキラリと光った。彼らは断固たる殺意を持って私に向かってきていた。世界の純粋さを(けが)すこの私に向かって。

「心臓を狙うんだ!」と脇にいた少年が――というか影が――叫んだ。

 

 私はなぜか動くことができなかった。どうしてかは分からなかったのだけれど、身体がピクリとも動かなかったのだ。それにそのときの私は「自分は子どもたちに殺された方がいいのだ」と本気で思っていた。心の底からそう思っていたのだ。今思えば、私自身もまた影の影響下にあったのかもしれない。そういう思考をするように、彼が知らぬ間に私の意識を誘導したのだ。私は自分の生きるエネルギーが、徐々にどこかに消え去っていくのを感じることができた。

 でもそのとき誰かが私の腕を取った。それはあのチンパンジーだった。彼は少年の演説の間中、ずっと木の上に隠れていたのだが、今素早く下りてきて、私の腕を(つか)んだのだ。彼はそのまま、私をどこか遠いところに――つまり部屋の奥の方に――連れていこうとした。

「なにぼおっと突っ立ってるんだ」と彼は言った。「本当にやられてしまうぞ」

 私は何一つ考える暇もないまま、ただ走り続けていた。チンパンジーに引っ張られ、闇の奥に向かって、全速力で。しかし子どもたちの足も思ったより速く、今その第一陣が私の背中に追いつこうとしていた。

 彼らが槍を突こうとした瞬間、何かが私の代わりにその刃先を受けた。見るとそれは巨大なサイだった。いつ、どこで出現したのかは分からなかったけれど、とにかく彼は今、身を(てい)して私を守ってくれていた。

「ありがとう」と私はサイに向かって言った。サイはこちらを向き、ほんの少しだけ頷いた。

 その後も子どもたちは執拗に迫ってきたが、その都度ライオンや、キリンや、あるいはシマウマまで、さまざまな動物が身を(てい)して私を守ってくれた。子どもたちは、今や動物との間に激しい戦闘を繰り広げていた(もっとも攻撃をしているのは子どもたちだけで、動物たちはまったく抵抗しなかったのだが)。床には動物たちの赤い血が、まるで池のように大きく広がっていた。

 私とチンパンジーは、そのまま走り続けて部屋の奥に行き、壁に()いた穴のところに辿(たど)り着いた。見ると、そこにはさらに下へと向かう階段が続いていた。私たちはそのままの勢いで――危うく転びそうになったけれど――急いで下に下りていった。

 

 私は、当然のことながらひどい興奮状態にあったのだけれど、それでも一部にはまだ冷静な自分が残っていた。その冷静な方の私は、少し離れた地点から今通り抜けてきたもののことを眺めていた。そのとき、その部分の私があることに気付いた。

「なんでランプがないのに床の血が見えたんだろう」と私は言った(ランプはそのまま木の下に置いてきてしまっていた)。「というか今ここにある階段も見えている」。そう言って私は自分の目をこすった。それでも見えるものに何一つ変化はなかった。「どうしてだろう?」

「それはね」とチンパンジーが前を見たまま答えた。「ここがただの暗闇ではないからだ。ここはいわば君の暗闇でもあるんだよ」

「だからランプがなくても見える?」と私は訊いた。

「よく目を凝らせば、ね」と彼は言った。

 

 階段はさらに長く下へと続いていた。我々はただ黙々と歩いていたのだが、そのとき、あるもっと重要なことに気付いた。なんでこんなことに気付かなかったんだろう?

「ねえ」と私は言った。「そもそも私は死を失っていたんでしょう? それなら、あのとき子どもたちに刺されたとしても、私は死ななかったんじゃないの?」

 それを聞くと、チンパンジーは一度だけこちらを向いた。「まあそういうことだな」。でも彼はそれ以上は何も言わず、ただ下を向いて黙々と目の前の階段を下りていった。

 

 次の部屋もまた似たような暗い空間だった。でも今までとは暗さの度合いが違っている。闇の粒子(りゅうし)の一粒一粒が、芯まで黒く染まっている。一つ上の階ではランプなしでまわりが見えた私の目も、ここでは何の役にも立たなかった。この部屋は、それくらい濃密な闇に覆われていたのだ。でもそこにあるすべてが黒く染まっていた、というわけではない。天井を見上げると、ところどころに何か細長いものがぶら下がっているのが見えた。根元が太く、先端が細い。全体が薄い毛のようなものに覆われている。そしてそれが今、淡い緑色に光っていたのだ。

「あれは何なの?」と私はチンパンジーに(たず)ねた

「あの木の根っこさ」と彼は言った。「あの、上の階にあったやつのさ」

 そうか、と私は思った。あの木はすぐ下の階に根を張って、そこから養分を吸い取っていたのだ。だからこそ日光を浴びずとも、あんなに鮮やかな緑の葉を茂らせることができたのだ。でも、とそこで新たな疑問が浮上した。もしそうだとしたら、ここには栄養になるような何があるというのだろう? この根は一体何を吸い取っていたのだろう? 周囲には深い闇しか存在しない。

「ここは〈闇の()まり〉なんだ」とそこでチンパンジーが私の心を読んだように言った。「いろんなものがここに集まってくる。光の(もと)では存在できないものたちが」

 

 私たちはそのまま部屋の中心へと歩いていった。歩くにつれてチンパンジーの足音が変化していくのが分かった。彼はまだ私の手を握っていたのだが、ふと気付くとそれが人間の手に変わっているのが分かった。私はその深い暗闇の中、彼に向かって訊いた。

「あなたは誰なの?」

 すると彼はこちらを振り向いた。闇の粒子の間に、私はその顔を見たような気がした。それは〈死〉だった。私をこの世界へと(みちび)いた死だ。

「あなたがチンパンジーだったの?」と私は驚いて言った。

「どちらにしろあまり変わりはないさ」と彼は静かに言った。

 

 私は事態の進展に驚いてはいたものの、確かに彼の言う通り、ここではもう誰が誰であってもあまり変わりがないような気がした。光がない、ということもあったのだが、それだけでなく、この深さがその感覚をもたらしているような気がした。ここではもう私は私ではない。ふとそう思った。私はもうなにものでもない。

 そのとき部屋の中心に何か淡く光るものを発見した。

 

 それは、さっきまで何も存在しなかったはずの空間に、ぼんやりと浮かんでいた。私はそこに近づき、じっと目を凝らした。それはドーナッツ状の光だった。()のような形をした緑色の光で、真ん中に黒い穴が()いている。それはとても小さい穴で、ちょうどさっきあの木から取ってきた木の実と、同じくらいの大きさをしている。そこで私はふと思い立って、ポケットからその実を取り出そうとした。

 でもそこには何もなかった。まったくの(から)ぽだ。そうか、あのときあの少年にあげてしまったんだ、とそこでようやく思い出した。あのときは全然たいしたものではないと思っていたのに。でも今、その穴を見れば見るほど、それはまさにあの実で埋められるべき穴のように見えた。そもそもどうしてこの穴を埋めなければならないのかは分からなかったけれど、私には、それは本来埋めなければならない穴のように思えた。一体誰のために? おそらく私のために

 私はそこで後ろを振り向いたが、そこにいるはずの死は何も助言してはくれなかった。彼がそこにいる、という気配はまだ感じられた。彼は暗闇の中そこにいて、おそらく腕組みをして私を見つめている。でも何かを言ってくれるわけではない。

 そのときふと、私はあることを理解した。それは理屈も何もなく、ただ突然やって来たのだ。それはつまりこういうことだった。

ここは私だけのための世界だったんだ。

おそらく、あの寝ぼけた大人たちがいる芝生の世界も私だけのものなら、その地下に広がるこの世界もまた私だけのものだった。そしてそこにいた子どもの軍隊、動物たち、巨木、それにこの暗闇、そのすべてが私自身に属するものだったのだ。だからこそ子どもたちは私を殺そうとしたのだ。つまり彼らは、この世界の(あるじ)を殺そうとしたわけだ。彼らにとって私はそれだけ重要な人物だった。ほかの大人たちとは比べ物にならないくらい。なぜなら私が汚染されることは、つまりこの世界そのものが汚染されることを意味するからだ。

 そう思うといろんなことのつじつまが合うような気がした。そういえば死は最初、あの墓地で、〈死について考える〉ということを言っていた。私はなんとか記憶を掘り起こし、彼が言ったことをそのまま頭の中に再現してみた。いや、死そのものではありません。〈死について考えること〉をです。そうするとこのすべては、私に死について考えさせるための、一つのフィクションだったということなのだろうか?

 そう思って周囲を見回したのだが、どうしてもそこにある世界が造り物だとは思えなかった。そこにある闇は、私には本物の闇に見えた。それに、さっき私が通り抜けてきたものごとは、例外なく確かな重みを持っていた。殺された動物たちの血は、生臭い本物の血の匂いを放っていた。この世界にあったものは、どれも奇妙ではあったけれど、だからといってリアリティーを欠いていたわけではない。むしろそれは、普通とは違う、別な種類のリアリティーを保持していたのだ。

 そしてそのとき気付いたのだが、そのドーナッツ状の光の反対側に影の姿が見えた。問題のあの影だ。彼は私が探していた緑色の木の実を手に持っていた。

「ようやく気付いたかい?」と彼は笑いながら言った。いつものシニカルな笑いだ。

「まあ」と私は言った。

「あの演説をしているときは、笑うのを(こら)えるのが大変だったよ」と彼は言った。とすると、と私は思った。やはり彼があの司令官だったのだ。「あのときの君は茫然とした顔をしていた」

「どうして自分が殺されなくちゃならないのか、よく分からなかったから」と私は言った。「でもきっと私はここに来るようになっていたんでしょう?」

「どうかな」と影は言った。「いくら俺たちだって、次に何が起こるのか全部見通せるわけじゃない。まあ大体のプランというものはあったけどな」

 彼はそう言って緑色の木の実を――そこには三つの歯形が付いていた――高く宙に放り投げ、ほとんど見もせずに片手でキャッチした。それは今淡い緑色に光っていた。

「それを返して」と私は言った。「穴を埋めなくちゃならない」

  でも彼は、それを放り投げてはキャッチする、という動作を何度も繰り返していた。「どうかな」と彼は言った。「だってその穴を埋めたら木は死ぬぜ。今だから言うけど、あの木はつまり君そのものだったんだ。そしてこの実が君の〈生命の核〉だ。もしこの穴を埋めたら、根は養分を吸い取れなくなってしまう。だって闇がなくなってしまうわけだからな」

「闇なんてなくなってしまえばいい」と私は言った。私は本気でそう思っていたのだ。

 影は少しだけ笑って言った。「闇がなくなったら、俺もいなくなることになる。なにしろ〈影〉というのは、つまり〈闇〉の言い換えだからな」

「どうして穴を埋めたら闇がなくなるの?」と私は訊いた。

「ダイナミズムが失われるんだ」と彼は言った。「光のあるところ必ず影ができる。それが自然の摂理なんだ。この実が――つまり君の〈核〉が――完全にあるべき場所にあったとしたら、そこでもうダイナミズムは失われてしまうことになる。なにしろ光にせよ、闇にせよ、もう動く必要がなくなってしまうわけだから」

 私には彼の言っていることがよく理解できなかった。ダイナミズム? 彼は一体何のことを言っているのだろう? でも私にはこの実は、本来あるべき場所にきちんと置かれるべきなのだ、と思えた。強くそう思えたのだ。たとえ影がどんなレトリックを持ち出したとしてもだ。だから勢いよく駆け出して、(すき)を突いて彼の手からそれをかすめ取ろうとした。

「おっと」と言って影はそれを落とした。木の実は私の足元を転がって、ちょうど死の目の前に行った。死はそれを拾ってしげしげと眺めた。

「それを渡して」と私は死に向かって言った。

 それでも死はまだその実を眺めていた。小さな木の実は、彼の(てのひら)の上で淡く緑色に光っていた。そして今その光を受けて、暗闇の顔が鮮明に浮かび上がっていた。そのとき私は気付いたのだが、彼の顔は一人の若い女の顔に変わっていた。というか私の顔だ。どうしてだろう、と私は思った。彼はさっきまでごく普通の中年男だったのに。

「あなたはそもそも何のためにここにやって来たんです」と死は言っていた。その声は女の――つまり私の――声になっていた。「自分の死を取り戻すためでしょう」

「あなたが私の〈死〉だったんですね」と私はようやく気付いて言った。「でも死を取り戻すためには、まず影を取り戻さなければならない」

 そこで私はもう一つの重要な事実に気付いた。なぜそんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう。つまり、今そこにいるこの影こそが私の〈影〉だったのだ。

「でもあなたは男でしょう?」と私は驚いて言った。

「女の影が女だ、なんて誰が言ったんだい?」と影は言った。「だから俺は君の(そば)を離れられないのさ。そういう運命なんだ。まったく、(たま)らないよな」

「もしあなたが私の影なら」と私は言った。「どうして私の邪魔ばかりするの? もっと本体のことを考えてくれてもいいんじゃない」

 すると影は首を振って言った。「君はなんにも分かってない。なんにも分かってないんだよ

 そして急に走り出したかと思うと、私のすぐ脇をすり抜け、死が持っていた木の実を瞬時にひったくった。彼はそれを得意げに私に見せつけて言った。

「俺には影として君の邪魔をする義務があるんだ。ありとあらゆる邪魔をね」

 そして部屋の遠いところ――つまり暗闇の奥深く――に走り去っていこうとした。

 

 そのときあることが起こった。それは突然の出来事で、始めは何がなんだか私には理解できなかった。それはおそらく、上の階で子どもたちに殺された動物たちの血だったのだろう。あの、池のように床を覆っていた血だ。今その真っ赤な血が、天井から突き出た木の根を伝って、この階に落ちてきたのだ。それはちょうど、影と、私の頭上に落ちた。血はぽたぽたと少しずつ垂れ落ちてきたのだが、それを受けると影は急に動きが(にぶ)くなった。まるで全身が(しび)れてしまったみたいに。その顔には例のシニカルな微笑(ほほえ)みが引きつったまま残っている。しかし一方の私は、その血を受けて急速に活性化した。私は自分の中にエネルギーが湧いてくるのを感じることができた。それは純粋に肉体的なエネルギーだった。私の頭には、あのつがいのいない、孤独な動物たちの姿が鮮明に浮かんでいた。彼らは悲しげな目をして地面に横たわり、身体中からだらだらと血を流して死んでいこうとしていた。しかし彼らは無為(むい)に死んだわけではない。彼らは最後の最後に、その思いを私に(たく)したのだ。

 果たしてそれはどういう「思い」だったのか? もちろん動物たちは言葉を持たない。しかし血を通して、私はそれを肉体的に理解することができた。彼らはまるでこう言っているかのようだった。

 たとえ孤独だとしても、きちんと地上で生きなさい。それがあなたの役割なのだから、と。

 私はその指令を受け取ると、瞬時に走り出し、動きの(にぶ)った影の手から自分の〈核〉を奪い返した。そしてその実を、ドーナッツ状の光に囲まれた、黒い小さな穴の中に()め込んだ。

 その瞬間、すべての動きが止まった。私はそれを肉体的に感じることができた。世界は一瞬だけ深い闇に包まれたが、そのあとすぐに光が取って代わった。ドーナッツ状だった光は今や完全な球状の光となり、徐々に増幅していった。そしてそれは加速度的なスピードで周囲に膨張していった。私は身動きすらできないまま、ただその光景を眺めていた。それは純粋に美しい光景ではあったものの、あまりにも光が強力だった。そしてそれはさらに強さを増し、やがて何か別のものへと姿を変えた。何か光を超えたものだ。もうそこに闇の入り込む余地はない。ほかの何が入り込む余地もない。なぜならそれは百パーセント完全な世界だったからだ。それは完全であるがゆえに、もうどこにも行き場のない世界だった。光と闇のダイナミズムは、もはやどこにも存在しなくなっていた。そして私はといえば、まるで子宮の中の赤ん坊みたいに、今そこに完全に含まれていた。

 

 

 私は肌に風を感じて目を覚ました。見ると、私は人気(ひとけ)のない墓地にただ一人寝転んでいた。もう完全に日は暮れている。心臓がどきどきと激しく鼓動を打ってはいたが、身体のほかの部分には何ら異常は見当たらなかった。ということは、と私は思った。なんとか無事にここに辿(たど)り着くことができた、ということなのだろうか? 私は上半身だけを起こして、あらためて周囲の状況を確認した。奥の林の方で、カラスが何度も鳴いていた。私はそれを聞くともなく聞きながら、なんとかこの世界の重力に自分を慣れさせようとしていた。でもそれもなかなかうまくいかなかった。今の私には、それはあまりにも重いように感じられたのだ。

 私は背後を振り返ったが、一緒にここに来たはずの死はどこにもいなかった。彼はどこに行ったのだろう? でもなんとか立ち上がり、服に着いた(ほこり)をパンパンと叩いているときに気付いた。彼は私の中にいるのだ、と。私はその存在を、自分のずっと奥の方に感じることができた。彼は今中年男の姿に戻り、腕組みをして、じっと何かを考え込んでいた。眉間(みけん)に深い(しわ)を寄せ、何度同じところを行ったり来たりし。その姿は、私に本来必要な重みを付与してくれているような気がした。この世で死だけが持つことのできる、あの貴重な重みだ。

 影は? とアパートに向かって歩き出しながら私は思った。影はどこにいるのだろう? でもすぐに悟った。おそらく影もまた私の中に潜んでいるのだろう。彼は暗闇の中、こっそりと見つからないよう動き回り、いつか出しぬけに私の前に現れる機会を、息を殺して待ち受けているのだ。

 

 


栗田陽一郎

 栗田(くりた)陽一郎(よういちろう)は新聞記者である。もっとも私は彼が具体的にどんな記事を書いているのかは知らない。スポーツ記事かもしれないし、新刊本の書評を書いているのかもしれない。しかし正直なところ、それは私にはどうでもいいことだ。私は彼本人に興味があるのであって、彼の書く記事に興味があるわけではないからだ。

 

 彼と私はある酒場で出会った。私は普段あまり酒を飲まないのだが、そのときは珍しく寝る前に一杯やりたい気分だった。カウンターでちびちびとウィスキーを飲んでいると、ちょうど二つ隣の席で同じように一人で酒を飲んでいる男に気が付いた。私は普段知らない人間に気安く話しかけたりはしない。でもそのときはなぜか彼に声をかけた。どうしてそんなことをしたのかは分からない。あるいは彼の背中が発する独特な雰囲気が、無意識に私の好奇心を刺激したのかもしれない。ちょっと話をしましょう、と私は言った。いいですよ、と彼は人の良さそうな笑みを浮かべて言った。そしてそのようにして私は、栗田陽一郎と知り合いになったのである。

 

 実を言うと「栗田陽一郎」というのは彼の本名ではない。私はそのとき彼の名字だけを聞いたのだが、それも「栗田」という名前ではなかった。それなのにどうして彼のことを「栗田陽一郎」と呼んでいるのか? それは彼がまさに「栗田陽一郎」という顔をしていたからである。

 そのせいで私は彼の本名を忘れてしまった。彼は、私に一言話しかけたその瞬間から「栗田陽一郎」であったのであって、それ以外の何者でもなくなってしまったのだ。

 

 勘違いしないでほしいのだが、私には「栗田陽一郎」という名前の知り合いは一人もいない。「栗田」という名字の人間と知り合いになったことも一度もない。しかしなぜかその名前が、彼の顔を見た瞬間、突然私の頭に浮かんできたのである。これは一種の啓示といってもいいのではないか。

 

 栗田陽一郎の顔はごく普通である。特にハンサムなわけでもないし、かといって奇妙な顔立ちをしているわけでもない。しかしその表情には生来の()真面目さ、とでもいったものが(にじ)み出ている。髪の毛は長くもなく、短くもない。眉毛は太いが、それは彼の堅く締まった表情によく似合っている。落ち着いた色合いの服装を好み、ネクタイの趣味が良い。私が会ったときの彼は、深海を思わせる深い青色のネクタイを締めていた。私がその色を褒めると、彼は照れたように言った。

「いや、ほら、なんとなく海が好きなものだから」

 

栗田陽一郎は泳ぐのが苦手である。彼は長野の山の中の出身で(本当に山しかないんですよ)、水泳が大の苦手だった。しかし海は好きだった。子どもの頃はよく深海魚の写真を見て過ごした、と言った。

「あのグロテスクなところが、なんともいえず良いのです」と彼は二杯目のウィスキーをすすりながら言った。

 

 彼は、かつて山間のある集落に取材に行った話をしてくれた。

「たいした取材じゃないんです」と彼は言った。「そこは本当に田舎(いなか)で、老人と犬しか住んでいないようなところです。ただその奥の方に(わり)と大きな滝があって、それが観光名所みたいになっています。それで僕がそこの取材をすることになったんです」

 彼は最寄りの駅からバスを乗り継ぎ、二時間以上かけて、ようやくその村に辿(たど)り着いた。村の入り口には、事前に連絡を取っていた村長が迎えにきてくれていた。もっとも「村長」とは言っても、ごく普通の人の良い農家の老人にしか見えなかったが。彼は小奇麗な軽自動車で、栗田陽一郎を滝のある場所に案内した。道中、老人はその滝に関するある不思議な話を聞かせてくれた。

「昔々の話ですがね」と彼は言った。「一人の女がここに身を投げたんです。まだ若い女で、大そうな美人だったということでした。もちろんたくさんの若者が求婚にやって来ました。でも彼女は(がん)として首を縦に振らなかった。『私は誰とも結婚したくない』と彼女は言いました。でも家族はそんなことは認めません。まあ昔の話ですからね。適齢期のきた女性はみな嫁に行くことに決まっておったのです。

 そんなあるとき、彼女のもとに例のごとく求婚者が現れました。彼はまず両親のところに行き、挨拶をしました。それはとても顔立ちの良い男で、年齢も彼女と同じくらいでした。彼は、少し離れた町の出だ、と言いました。本当かどうかは分かりません。でも少なくとも本人はそう言いました。一方娘の方は、ふすまの隙間からその男の姿をじっと見つめていたのですが、そこで何かを感じ取ったようでした。その夜、男が帰ったあとで両親がその話をすると、女は言いました。

『あの人だけは駄目。絶対に駄目よ』

 でも両親は彼女の言った意味がよく分かりませんでした。なぜなら彼は今までやって来た求婚者の中で一番見込みがある、と思っていたからです。顔立ちも良かったし、態度も立派でした。両親はなんとか説得しようとしたのですが、彼女は決して承知しようとしませんでした。『あの人と結婚するくらいなら、私は滝に身を投げて死ぬ』とまで言ったのです。

 それで両親はあきらめて、後日青年にその(むね)を伝えました。申し訳ないが、彼女は誰とも結婚したがらないのだ、と。

『それでも僕はあきらめませんよ』とその男は言いました。あとで分かったことですが、その言葉はまさに真実だったのです。

 

 その後数日は何事もありませんでした。両親の方はもうほとんど娘を嫁にやることをあきらめかけていました。日々は何事もなく過ぎていったのですが、両親と娘の間には(険悪とまではいかないにせよ)居心地の悪い空気が(ただよ)っていました。物事は停滞し、なにもかもが動きを止めているように思われました。

そんなとき一人の商人が彼らの家を訪ねました。それは女の両親が普段からお世話になっている薬屋でした。しかしあとになって分かったのですが、それは(にせ)の薬屋だったのです。あるいは本当の薬屋だったのかもしれませんが、その中には何か別のものが入り込んでいたのです。

 その薬屋は言いました。『あんたらは娘を嫁にやるのに苦労しているな』

 そうだ、と両親は言いました。

『それなら、これを飲ませるといい。細かく(くだ)いて、食事に混ぜるんだよ。そうすればあんたらの娘は、もうわがままを言うことはなくなるだろう』

 両親はもちろん怪しいものだ、と思ったのですが、薬屋がいつもお世話になっているあの薬屋だったこと、そしてその白い(かたまり)を薬屋本人が一粒口に放り込んだのを見て――『ほら、大丈夫だろう』と彼は言いました――その男を信用してしまったのです。健康に害のないものなら、一度くらい試してみても悪くはあるまい、と父親は思いました。その薬の値段はびっくりするくらい安いものでした。

 ある晩彼女の母親は、その白い(かたまり)(くだ)いたものを食事に混ぜて、彼女に食べさせました。彼女はもともと小食だったのですが、なぜかその日だけはきちんと全部平らげました。そして何も知らないまま自分の部屋に戻っていったのです。

 事件が起きたのはその日の夜のことでした。家中が寝静まったあとで、突然彼女の叫び声が聞こえたのです。父親が驚いてその部屋に行くと、ちょうどそこから誰かが出てくるところでした。それはあの若者でした。最後に求婚に来た若者です。彼は以前とは似ても似つかないような表情を浮かべていました。顔全体が影のようなものに覆われ、目だけが爛々(らんらん)と輝いています。彼はまったく別人のように見えました。彼は彼女の父親を見ると、一度にやりと笑いました。そして言いました。

『どうもありがとよ、おじさん』

 そしてそのまま縁側(えんがわ)に出て、どこかに走り去っていきました。父親は気を取り直して娘の方を見たのですが、彼女はうつむいたまましくしくと泣き続けています。

『出て行って』と彼女は父親に言いました。『ここから出て行って』

『何があったんだ?』と父親は訊きました。『あいつは何をしたんだ?』

『あの人は私の最も大事なものを奪ったのよ』

 そしてそれきり布団の中に潜り込んでしまいました。

 

 次の日も彼女は起きてきませんでした。彼女の部屋のふすまをそっと開けてみても、そこにはただ膨らんだ布団が見えるだけです。両親はどうしたらいいのか分かりませんでした。彼らはそこでようやく、自分たちが致命的な間違いを犯したことに気付いたのですが、時すでに遅しでした。そもそもあの男の狙いはなんだったんだろう、と父親は思いました。状況から察するに、娘が性的に犯されたのはほぼ間違いのない事実でした。しかしそこには何か別のものがある、と彼は感じていました。何かそれだけではないものがある、と。

 昼まで待って、彼は彼女に詳しい話を訊くことにしました。そうしないといつまで経っても物事は先に進まない、と感じたからです。彼は娘の部屋に行き、膨らんだ布団の横で話しかけました。自分たちが間違っていた、と。もう何も押し付けたりはしない。だから昨日何があったのか話してほしい、と。

 しかしそれでも娘はそこに眠ったままでした。膨らんだ布団は、まったく動きません。そこで何かおかしいと思った彼は、ほんの少しだけ布団をめくってみることにしました。

『なあ、大丈夫か?』と彼は言いました。

 しかし彼は驚きのあまり腰を抜かしてしまうことになります。なぜなら布団の中にいたのは娘ではなく、黒い蛇の(かたまり)だったからです。そこには数えきれないほどの蛇がいて、グルグルと渦を巻いていました。どうやら彼らはお互いに(から)み合い、(ほど)なくなっているようでした。蛇たちはそこから逃れようとするのですが、動けば動くほどかえって複雑に(から)み合っていきます。そのせいでその(かたまり)は意識を持った一つの生命体のようにさえ見えました。

 父親は気を取り直すと、急いで(すき)を持ってきて、その(かたまり)に突き刺しました。何匹かの蛇はちょうど頭を突き刺され、血を流して死にました。でもそのおかげで、ひどくこんがらがっていたもつれが突然(ほど)たようでした。死んだ何匹かを除いて、蛇たちは勢いよく布団から飛び出し、家の外に()い出して行きました。父親は身動き一つせず、蛇たちの動きを、ただじっと目で追っていました。

 

 一方で娘は一人で家を抜け出し、近隣の高名な僧のところに行っていました。彼女はその老人に、昨夜起こったことを細部まで詳しく説明しました。そしてこう訊ねました。

『私はどうすればいいのでしょう?』

『あなたは自らを浄化する必要がある』と老人は言いました。『しかし単なる(みそぎ)だけでは足りない。なぜなら今あなたの腹には、邪悪なものが巣食っているからです。それはいずれあなたの中で成長し、腹を裂いて飛び出してくるでしょう』

 彼女はそれを聞くと身震いし、こう言いました。『それは危険なものなのですか?』

『ええ』と老人は言いました。『とても危険なものです。おそらくこの村の人間など、みなすぐに殺されてしまうでしょう』

 すると彼女は言いました。『それならいっそ今すぐに死んでしまいます。どうせ意味のない人生だったのです。未練はありません』

『いや』と老人は言いました。『あなたが今死ぬと、それはその何かの思うつぼでしょう。それはあなたの死体を喰い尽くし、結局のところいち早く地上に出ることができるのです。それはおそらく一番被害を大きくする選択肢です』

『ではどうすれば?』と彼女は訊きました。

『私の意見を言えば』と老人は言いました。『方法は一つしかありません。毎晩少しずつ死ぬのです』

『少しずつ死ぬ?』

『そうです』と老人は言いました。『ちょうど最近病気で死んだ若い娘の死体があります。今日は右腕、そして明日は左腕、という風に五日間かけて腹以外の部分をすべて取り換えるのです』

『そんなことが可能なんですか?』

『簡単ではないが、やってできないことではない』

『頭も取り換えるのですか?』

『もちろんです』

『それでは』と娘は言いました。『私はどうなるのでしょう? 私は結局は死ぬのでしょうか?』

『そうなりますが』と老人は言いました。『それは普通の死に方とは違います。というのも、私はあなたを別の動物の中に移し替えるからです。つまり頭を取り換えるときに、ですな』

『別の動物?』

『ええ』と彼は言いました。『でもそれが何であるのかを今説明することはできない。そう決まっておるんです。あなたはそのときに初めて、自分が何になったかを知るでしょう』

『それで、私はその動物になって生き続けるのですか?』

『いや』と老人は言いました。『あなたはいずれにせよ死ななければならない。なぜならそれが必要だからです』。彼はそこで少し黙り込みました。あるいはその先を続けようかどうか迷っていたのかもしれません。しかし結局続けました。『ここであることを伝えねばなりません』と彼は言いました。『ある重要なことです』

『それは何ですか?』と彼女は訊きました。

『それはつまりこういうことです。実はあなたは、大事なものを奪われたわけではないのです。その若者は、何一つ奪ってはいかなかった。彼はただ、あなたに真実を見せつけただけなのです』

 それを聞いても、娘の方は何を言われているのかよく理解できませんでした。彼は何も奪ってはいない?

『そうです』と老人は彼女の心を読んだように言いました。『彼には最初からそんな意図はなかったのです。彼はただ厚い幻想の覆いを、あなたの目から取り払っただけなのです』

『それでは』と彼女は訊きました。『その邪悪なものはどうなんです? それは彼が植えつけたものなんでしょう?』

『正確に言えば』と老人は言いました。『彼はただ刺激を与えただけなのです。その邪悪なものの根は始めからあなたの中にありました。彼はただその成長を(うなが)しただけなのです』

『でも彼はなぜそんなことをしたのでしょう?』

『それが彼の役割だったのです』と老人は言いました。『良くも悪くも』

 

 老人は手順を説明しました。今日の夜、まず彼女の右腕を切断する。そして死んだ若い女の右腕をそこに接合する。その間老人は特殊なお経を唱え続けることで、彼女が痛みを感じるのを防ぎます。切り取られた彼女の右腕は、すぐに火にくべられます。そのとき宙に飛び上がった彼女の右腕分の意識は、小僧によって回収され、捕獲しておいたある動物の中に入れられます。それが四晩続き、左腕、右(あし)、左(あし)もまた同じように火にくべられます。そして最後の五日目の晩に彼女の頭を交換します。頭もまた火にくべられ、そのとき彼女の頭分の意識が動物の中に入れられます。そこまで行くと、老人はお経を唱えながら彼女の腹に刃物で穴をあけます。もちろんその穴の中には例の邪悪なものが巣食っています。動物としての彼女は、その邪悪なものの中に分け入っていきます。あるいは彼女はその中に何かを発見するかもしれない・・・。

『何かってなんです?』と彼女は訊きました。

『わしには分からない』と老人は正直に言いました。『しかしそこには何かがあるはずなんだ。あなたはそこにあるものをきちんと見つめなければならない。そうしないとなにもかもが無駄になってしまうんだよ』

 そしてその後老人と小僧は、彼女の肉体をあの滝へと持って行き、そこに投げ落とす。それによって邪悪なものは浄化される。

『私は結局どうなるんでしょう?』

『あなたは肉体と共に死ぬ。でもおそらく、そのときにはもう別の場所に移動しているだろう。というのもその邪悪なものの奥には穴があいているはずだからだ』

『穴?』

『そうだ』と老人は言いました。『もしそれをうまく見つけられれば、あなたはもう一度生き直すことができるだろう。今度は真実の生を』

 

 その夜から彼らは計画を実行しました。時間がかかると、いつ彼女の腹を裂いてその邪悪なものが飛び出してくるか、見当もつかなかったからです。老人と小僧は夜の間中ずっとお経を唱え続け、その(かん)に彼女の右腕を切断しました。お経のおかげで彼女はまったく痛みを感じなかったのですが、自分の意識がまさにその部分だけ切り取られたのを感じました。彼女の右腕があったところには、別の女性から取った腕が()い付けられ、一方切断された彼女の腕は火にくべられました。小僧はそこで宙に飛び上がった彼女の右腕分の意識を回収すると、別の場所に隠しておいたある動物の中にそれを移しました。それで一日分の仕事は終わりです。

 その後同じような作業が四晩続き、彼女の四肢(しし)はすべて切り取られました。切断した部分には、別の女性の死体が取り付けられました。それは大手術だと言ってもよかったのですが、少なくとも日中の間は、彼女は問題なく周囲を動き回ることができました。身体にはなんら違和感を感じることもありませんでしたし、それはむしろ以前よりしっかりと動いたくらいだったのです。しかしその一方で意識はといえば、どこか薄暗いところでゴニョゴニョ(うごめ)いている、という感覚を味わっていました。それがどこなのか彼女には分からなかったのですが(頭の意識はまだ本来の肉体にくっついていましたからね)、どうもじめじめした狭い場所に閉じ込められている、という感じがしました。

 そして五日目の晩がやって来て、ついに彼女の頭が取り換えられました。老人はお経を唱えながらその首を切り取り(たくさんの血が流れました)、別の女性の首を()い付けました。彼女の頭分の意識は、またしてもどこかに隠されている動物の中に移されました。そしてその時点で初めて気が付いたのですが、その動物とは、実は白い蛇のことだったのです。頭の意識が移った瞬間、彼女はその蛇の目を通して世界を見ていました。これまで(五晩かけて)移されてきた五つの意識が一つになって、蛇の身体を器用に動かしていました。それは不思議な感覚でした。というもの蛇には腕も脚もありませんから、ただ一つの胴体の意識だけで用が足りたのです。

 彼女は今、小僧が部屋の隅に置いていた(かご)の中にいたのですが、やがてそこから出て、自分の腹を目指して畳を()い出しました。そんな風に移動するのは初めてだったのですが――まあ当然のことですね――まるで生まれたときから蛇だったみたいに、とてもなめらかに動くことができました。

 そしてちょうどそのとき、老人はお経を唱えながら彼女の胴体に(つまり残っている唯一の本物の肉体です)刃物で穴をあけました。たくさんの血が流れたのですが、そのすぐ先には何か黒い(かたまり)のようなものが見えました。おそらくそれがあの『邪悪なもの』、つまりあの若者が彼女の中に入り込み、刺激を与えた結果、成長してきたものでした。今彼女は(ちゅう)(ちょ)なく自らの腹の内部に入り込み、力強くその(かたまり)に噛みつきました。

 その何かは不意を突かれたらしく、じたばたともがき始めました。しかし彼女は(あご)の力を(ゆる)ませんでした。とにかくこれに喰らいつくことが必要なのだ、と彼女は思っていました。なんとしてもこいつだけは殺さなければならない。そうしないと村のほかの人々にまで危害が及んでしまう。

 それはやがて力尽きたと見えて、突然もがくのをやめました。彼女はそこでふっと力を抜きました。さすがに彼女も疲れていたのです。しかしその瞬間、その黒いものは、隙を突いて彼女に巻き付いてきました。さっきまでは(かたまり)だったのですが、今では細長く変わっていたのです。それはものすごい力で巻き付き、彼女にはもう抵抗すらできませんでした。しかし一方の老人はといえば、ただお経を唱え続けるだけで、彼女を助け出そうとはしません。あるいは手出しをしてはいけない、と始めから決まっていたのかもしれません。

 その何かは次第に形を変え、やがて大きな黒い蛇になりました。それは彼女(つまり今は白い蛇だったわけですが)よりも一回り大きな蛇で、ひどく獰猛(どうもう)そうな顔付きをしていました。そいつは彼女の目をギロリと見て、一瞬動きを止めました。彼女はなにもかもが動きを止めたような気がしました。お経さえも、一瞬()んだように思えました。彼女は今、完全に無抵抗の状態のまま、その視線に(さら)されていました。そして次の瞬間、蛇は大きな口を開けて、頭から彼女を呑み込んだのです。

 彼女はそのまま蛇の体内に入り込んだのですが、不思議と嫌な感じはしませんでした。ぬるぬるとした粘液が全身を包み込むのが分かりました。でもそれもまったく不快だとは思いませんでした。なぜかは分からなかったのですが、彼女は、今自分がいるべきところにいる、と感じていたのです。そしてその暗い世界の奥に――つまり黒い大きな蛇の腹の中ですが――彼女は何かを発見したのです。

 それは淡い光を放つ、細長い割れ目のようなものでした。そこから洩れてくるのは、強い光ではありません。むしろ弱い、分かるか分からないか、という程度の光です。しかしこの深い暗闇にあっては、それは本来の倍くらい明るい光に見えました。その光は彼女の冷え切った心を底の方から温めてくれました。これはいわば「世界の隙間」のようなものなのだ、と彼女は思いました。彼女には一目見ただけでそれが分かったのです。これは出口なのだ、ここを通ればどこかに抜けることができるのだ、と。それは彼女がその短い生涯の間、追い求め続けたものの、どこにも見つけられなかったものでした。しかしもう迷う必要はありません。彼女は一目散にそこに向かって()っていきました。

 彼女がそこに近づくと、蛇はまるでそれを感じ取ったかのように一度大きく身をくねらせました。でも彼女の邪魔をしたわけではありません。むしろ彼女がそこにうまく入り込めるよう背中を押してやったのです。まるで蛇本人がそれを望んでいたかのように、です。

 彼女がその先に見たのは、広い空の景色でした。ものすごく広い空の景色です。大きな雲がところどころに見え、気持ちの良い風が吹き渡っています。それは何の制限もない世界でした。風と、鳥たちのための世界です。蛇としての彼女はその先へと進み、そこに入った瞬間、何か別のものへと姿を変えました。それが何だったのかは、私には分かりません。なにしろ彼女は、すぐにどこかに向けて飛んでいってしまいましたから。

 

 残された彼女の腹の傷は、再び縫合(ほうごう)されました。黒い蛇はもう暴れることをしませんでした。それは元いた場所におとなしく収まっていました。老人と小僧は疲労困憊(こんぱい)した身体に(むち)打ち、彼女の身体をあの滝へと持って行きました。彼女の意識そのものはどこかに飛び去ってしまいましたが、その肉体は(けが)れを持ったまま、まだここに存在しています。彼らは最後にまた特別なお経を唱え、その肉体を滝の中に投げ込みました。その身体は強い水の勢いによって浄化され――どれだけの勢いがあるか、ご覧になれば分かるでしょう――やがてごく普通の死体となりました。その数日後、村人たちに発見されたとき、彼女の身体には縫合の(あと)もなかったし、腹の中にいた黒い蛇もいなくなっていました。彼らは彼女を引き()げ、葬式をあげて――もちろんあの老人がお経をあげたのです――その死体を火葬にしました。小僧は最後に訊きました。

『あの人は本当はどこに行ったんでしょう?』

『わしにも分からんよ』と老人は言いました。『いずれにせよ、どこかずっと遠いところだ』

 そのとき突然強い風が吹いて、彼ら二人の間を通り抜けていきました」

 

 そこでちょうど滝に着いて、栗田陽一郎は村長と一緒にしばらくそれを眺めていた。彼らは無言のまま、ただ激しく上がる水しぶきを全身に浴びていた。滝の音があたりのほかの音(鳥や虫の鳴き声)をかき消していた。栗田はできるだけ近くに寄ってしゃがみ込み、その透明な水を触った。彼はそのとき、滝の水しぶきの下あたりに、一匹の白い蛇を見たような気がした。でもきっと気のせいだろう。村長の話があまりにも鮮明に頭に焼き付いているせいだ。

「両親はどうなったのでしょう?」とやがて彼は村長に訊ねた。

「両親?」と老人は何のことやら分からない、という風に訊き返した。

「その白い蛇になった女の両親です」

「ああ、なるほど」と彼は言った。「ええ、彼らはひどく後悔しました。彼らはもちろんほかの村人たちと同じように、彼女が自ら身を投げたのだ、と思い込んだのです。しかし葬式が済んでしばらくしたとき、父親が、かつての娘の部屋に一匹の白い蛇を見たのです。彼はなぜかその蛇を追い出そうという気にはなれませんでした。彼らはただじっと見つめ合ったまま、身動き一つしませんでした。縁側(えんがわ)の方から、急に強い風が吹いてきました。父親は一瞬だけ外を見ました。そしてもう一度視線を戻すと、もうそこに蛇はいませんでした。どこに行ったのか、彼は(さが)すこともしませんでした。あの蛇はそもそもここにはいなかったのだ、と彼は思いました。そしてなぜかは分からなかったのですが、それ以降『娘はまだどこかで生きているのだ』と思うようになったのです。彼は後悔するのをやめ、やって来る一日一日をしっかりと生き延びていきました」

 

 ここで栗田の話は終わった。私は酒を飲みながら、その話を集中して聞いていた。少ししてから、私は彼に向かって訊いた。

「果たして本当にこんな伝承があったのでしょうか? あるいは最初から最後まで、すべて村長の作り話だったのでしょうか」

 栗田は首を振った。「私には分かりません。私はただ、彼の話にじっと耳を傾けていただけです。もっともずいぶん不思議な話ではありましたが。あれを聞くのと聞かないのとでは、滝から受ける印象は大きく違っていたはずです。なんというのかな、少なくとも私には、落ち続ける水の音が何かを訴えかけてきているような気がしたんです。何を、かは分からない。でもそこには確実に何かがありました」。彼はそこで少し話を止め、ウィスキーを飲んだ。そしてこう言った。「あるいは何かがあったのは私自身の中で、滝の音は単にそれを刺激しただけなのかもしれませんが」

「ちょうどあの話の中で、若者が女の中の何かを刺激したのと同じように」と私は言った。

「ええ」と栗田は言った。「思うんですが、あの若者は実は悪役ではなかったのではないか、とも思うんです。彼はただ自分のやるべきことをやっただけなのではないか、と」

 それは実は私が感じていたことでもあった。彼は実はそんなに悪い人間ではなかったのではないか?

「いずれにせよ」と彼は続けた。「私にできるのは、ただ人の話に耳を傾けることだけです。それが私のやるべき仕事なんです。ときどきこんなことでいいのか、と思うことはあります。あるいは私自身が話を語るべきではないのか、と。でも私には分かっています。自分にはそんな能力はないのだと。でもそれもそんなに悪いことではありません。ときどきこういう不思議な話に(めぐ)り合えますからね」

 彼はそこで立ち上がった。

「誰かにこの話をしたのはこれが初めてです。結局あれは記事にはならなかった。あまりにも現実離れし過ぎていますからね。でもあなたと話すことで、なんだか私も少し気が楽になったような気がする」

 それはどうも、と私は言った。

「それじゃあ」と彼は言った。「また何か面白い話を仕入れたら、あなたに話しにきますよ」

 そうしてくれるとありがたい、と私は言った。そして我々は軽く握手をして、その日はそのまま別れた。

 

 栗田陽一郎がその後新たな話を仕入れたかどうかは謎である。私はあれ以来、あの酒場には一度も足を踏み入れていないからだ。そろそろまた、あの静かな声で語られる彼の話を聞いてみたい、という気はしているのだが。

 

 


太った女

 太っている女がいて、今何かを食べている。(えり)(もと)に白いナプキンを巻きつけ、器用にナイフとフォークを使い、黙々とそれを食べている。彼女は大体三十歳くらいで、(あご)は綺麗に二つに重なっている。彼女はものすごく太っているというわけではない。しかし肥満体であることに疑いの余地はない。

 彼女がいるのは不思議な空間だ。僕は(ちゅう)の一点からその光景を眺めている。そこは一軒のレストランのようにも見えるが、周囲に人はいない。壁は白く、床も白い。そしてそれよりもさらに白いテーブルクロスがかかったテーブルに、彼女は一人座っている。そして今何かを食べ続けている。

 僕は興味深くその光景を眺めている。この女は一体何をそんなにおいしそうに食べているのだろう? そう思った途端、僕の視点はすっと脇に移動し、それによって彼女の皿の上のものが見えるようになる。そこにあったのは、おそらくは(なま)肝臓(かんぞう)だった。細い血管が浮いた、赤黒い新鮮な肝臓。サイズはかなり大きいが、彼女は構わずそれを喰いしていく。表情も変えないし、手を止めたりもしない。ただ黙々とそれを食べ続けている。

 そしてそのとき突然気付いたのだが、それは僕の肝臓だった。僕はそこで少し混乱してしまう。どうしてここに僕の肝臓があるんだ? そしてどうしてこの女がそれを食べているんだ? でもそんなことはもちろん分からない。とにかく事実として、その太った女の前に僕の肝臓が置かれていて、彼女はただひたすらそれを食べている。

 

 やがて彼女は皿の上のものを綺麗に平らげてしまった。あんなに大きかった肝臓を。それでも彼女はまだ食べ足りないように見える。しかし次の皿は出てこない。ウェイターもいない。

 彼女はあきらめて(えり)からナプキンを外し、それをテーブルの上に置く。そして椅子から立ち上がり、その下に置いていたピンク色のバッグを取り上げる。僕は今気付いたのだが、彼女は上下ともに鮮やかなピンク色の服を着ている。ピンク色のジャケットに、ピンク色の(たけ)の長いスカート。その色は彼女にとてもよく似合っている。

 彼女は無表情のまま店のドアを開けると、そのまま外に出た。そこにはごく普通の街並みが広がっていた。あたりは夜で、そこではごく普通の人々がどこかに向けて歩いていた。スーツを着たサラリーマン。何やらしゃべりながら歩く若者のグループ。露出度の高い服を着た若い金髪の女性。でも僕の目には彼らの姿は否応(いやおう)なくくすんで見えた。なんというか、生気が感じられないのだ。どうしてだろう、と僕は思う。どうしてこう薄く見えてしまうんだろう? でもすぐにそれが太った女のせいであることに気付いた。彼女のピンク色があまりにも鮮やかなので――そしてその肉体がはちきれんばかりに瑞々(みずみず)しいので――ほかのものがすべてくすんで見えてしまうのだ。

 

 彼女はどこかに向けて速足で――その太った肉体からは考えられないくらいの速足で――歩いていたのだが、そのとき突然携帯電話の着信音が鳴った。彼女は歩きながらバッグに手を入れ、それを取り出した。そして応答した。

 しかしそのとき僕は気付いてしまったのだが、それは普通の携帯電話なんかではなかった。それは、一つの心臓だった。まだ生きて動いている心臓だ。彼女は今それを耳に当て、誰かと会話をしていた。

「ええ・・・。ええ・・・。分かったわ」と彼女は言った。彼女の声は、その姿から想像されるよりもずっと若々しかった。「ええ、今向かっているところ」と彼女は言って電話を切った。

 彼女は何かを確かめるようにしてその心臓を見つめていたのだが、やがてまたバッグにしまった。実を言うと、最初に見たときからすでに気付いていたのだが、それもやはり僕の心臓だった。どうしてここで僕の心臓が出てくるんだろう、と僕は思った。そしてどうしてそれは一つの携帯電話として機能しているんだろう? でも誰もその疑問には答えてくれなかった。その疑問は宙を(ただよ)い、そのままどこかへと消えていった。そして「これが当たり前なのだ」という前提でものごとは先に進んでいく。どうやらそれがここのルールであるようだった。一切誰の疑問にも答えないこと。

僕は女に視線を戻した。彼女はそのままの速足でどこかへと向かっていた。彼女が今向かっているのは、どうやら大きな橋のようだった。それは街の中心を流れる川に()かった橋で、彼女は今その欄干(らんかん)に手をかけて下を覗いていた。とりあえずここが最初の目的地だったようだ。

 彼女はただじっと夜の川の流れを見つめていた。そして僕もまた宙に浮いた一つの視点としてそれを眺めている。それはどこにでもある、ごく普通の川だった。あまり綺麗そうには見えない。ところどころでゴミが浮いていて、川岸に白い泡が立っている。近くの石段には高校生のカップルが並んで座っている。

 と、そのとき彼女が突然バッグから何かを取り出した。それはとても大きなものだった。一瞬バッグそのものよりも大きく見えたほどだ。でももちろんそんなことはあり得ない。だって今まできちんとその中に収まっていたのだから。それは彼女の手の上で、闇に不気味な白い光を放っていた。見ると、それは一つの人間の頭蓋骨だった。

 もちろんそれも僕の頭蓋骨だった。僕は、ほとんど見る前からそれを予期していた。彼女は今その大きな頭蓋骨を持ち上げて、目に()いた(うつ)ろな穴を覗いていた。果たしてそこに何か特別なものが見えるのだろうか? 僕のいる地点からはそれは分からなかったのだが、それでも彼女はひとまずその頭蓋骨の形状に満足したらしかった。それで、かつてのその(あるじ)としての僕はほっと胸をなでおろすことになった。もし彼女の意に添わなかったらどうしよう、と思っていたのだ。

 彼女は何かを確かめるようにもう一度頭蓋骨を眺めると、橋の手すりの上にそれを置いた。そこに置かれた頭蓋骨は、まるで橋の装飾の一部のようにも見えた。もっともどんな設計師がわざわざそんなものを作るのかは分からなかったが。彼女は半歩身を退()いてじっとそれを見つめていた。頭蓋骨もまたじっと彼女を見つめていた。一瞬だけ時間が止まったような気がした。でも次の瞬間、時はまたすぐに動き出した。というのも、何の躊躇(ちゅうちょ)もなく彼女がそれを下に突き落としたからだ。

 

 僕の頭蓋骨はまっさかさまに落ちて水面に当たり、そこでしばらくぶくぶくと泡を吐いていた。彼の表情には何ら変化は見当たらなかった。傷ついた様子も、彼女を責める様子も見受けられず、ただ黙して自分の運命を受け入れていた。彼は何も言うことなく、そのまま誰にも見えないところに沈んでいった。橋の上の彼女は、黙ったままその様子を見つめていたのだが、やがて顔を上げ、周囲を見渡した。彼女は何かを期待しているみたいだった。さて、これから何が起こるのかしら、とでもいうように。

 僕もまた、それに釣られて周囲を見回したのだが、特に変わったことは何も起きていないように思えた。相変わらず人々は元気に歩き回っていたし、あの高校生のカップルもまだ石段のところでいちゃつき合っている。

 と、そこでようやく気付いたのだが、彼らは今、ただの白骨と化していた。服を着て元気に歩いていたせいで、上からは見分けが付きにくかったのだ。しかし今では彼らは紛れもない骸骨(がいこつ)に変わっていた。その太った女を除いて、そこにいるすべての人間が白骨化してしまったらしかった

 スーツを着たサラリーマンも骨だけになっていたし、若者のグループもみな(そろ)って骸骨になっていた。あの金髪の女性の髪も、そのほとんどが抜け落ちていた。そして彼らに限らず、大人も、子どもも、ほぼ例外なくみな骸骨になっていた。しかしそれにもかかわらず、彼らはみな元気に歩き続けていた。

 

 やがて彼らは川に身を投げ始めた。といっても絶望に暮れたとか、そういう様子は微塵(みじん)感じられなかった。彼らはただ自発的に川に身を投げ始めたのだ。最初に落ちたのはあの高校生のカップルだった。彼らは二人並んだまま石段を下り、手を握り合って川底に沈んでいった。あの女のすぐ(そば)からも、たくさんの人々が手すりを越えて川に落下した。わざわざ車を降りて飛び下りる人もいた。見るとそこだけではなく、今や上流や下流も骸骨で一杯だった。たくさんの白骨が川に(あふ)れ返っていた。

 女はその光景をただじっと見つめていた。表情を変えるでもなく、まわりの人々を止めるわけでもない。

 と、そのとき一人の若い男が女にしがみついた。三十代前半くらいのまだ若い男で、今激しく欲情しているらしかった。それを見て僕は少し意外に思った。だってその女はひどく太っていて、顔だってお世辞にも美しいとは言えなかったからだ。一体誰がこの女を見て欲情したりするのだろう?

 しかしすぐに悟った。というのもこの女を除いては、もはやこの世界には肉を持った女性は存在しなくなっていたのだ。男は、いわば消去法として、欲望の対象に彼女を選んだのである。男は力強く彼女にしがみつき、無理矢理服を脱がせようとした。しかし当の彼女は無表情で、まったく取り乱したりはしなかった。彼女が強く腕を払い除けると、男はいとも簡単に吹き飛ばされてしまった。それでもあきらめきれず、彼はもう一度女に襲いかかったのだが、そのときにはすでに、彼もまた一つの白骨と化していた。彼はしばらくの間その事実に気付かず、ぐずぐずと彼女につきまとっていたのだが、やがて自分が骸骨に過ぎないことを見てとった。彼は自分にはもう生殖器もないこと、そしてそれと一緒に性欲もどこかに消え去っていることを確認した。彼はさっと女から離れ、うるさくつきまとって(わずら)わしたことを()びるように、一度頭を下げると、そのまま手すりを乗り越えて川に落下した。

 その男がいなくなると、街は急に静かになった。今やほとんどすべての人々――というか骸骨――がその川の中に入り込んでいたのだ。上から見ると、その白い腕や頭が至るところで水面から突き出していた。あまりにも多くの骨が一度に入り込んだため、一時的に流れが(とどこお)っていた。

 そこで女はまたバッグから僕の心臓を取り出し、誰かに向けて電話をかけた。その心臓はまだ小さく鼓動を打っていた。彼女は言った。

「ええ、川の流れが止まっちゃってるのよ。そう。骸骨が多すぎて。ええ、頼むわね」

 そして電話を切り、またそれをバッグにしまった。

 

 彼女はその後しばらくじっとして水面を眺めていたのだが、やがてしとしとと雨が降り出した。それが彼女が電話をした結果降ってきたものなのかどうかは分からなかったが、とりあえず僕はそうであると判断することにした。きっと彼女は誰か、天気を(あやつ)ることのできるひとに電話をかけていたのだ

 やがて雨は強くなり、川の水は増大した。(とどこお)っていた水の流れは復活し、たくさんあった骸骨たちはそのまま海に向けて流れ去った。見るとさっきのあの若い男の骸骨は、水面から彼女に向けて大きく手を振っていた。彼女もまた軽く彼に手を振り返した。

 雨はその後もずっと強く降り続いていたが、彼女は傘もささなかったし、雨宿りのためにどこかに避難したりもしなかった。ただそこにいて、強くなった川の流れを見つめていた。と、そこで気付いたのだが、今彼女の服は赤黒く染まっていた。暗いせいで見分けがつきにくかったのだが、それは実は普通の雨ではなく、どす黒い血の雨だった。彼女の白い頬を、血が――誰の血なのかは分からない――一つの筋となって流れ落ちた。

 僕には匂いは感じ取れなかったのだが、その光景からして、あたりはきっと血の匂いで満ちていたはずだ。でも彼女は相変わらず身動き一つしなかった。ただそこにいて、全身が血だらけになるのに任せていた。

 僕もまた空の一点からその光景を眺めていたのだが、実はそれを見てこう思っていた。これはこれで悪くないな、と。たくさんいた街の人々が、みな骸骨になって流されてしまったせいで、街は完全に静まり返っていた。いろんな余計なものが流されて、世界は本来の静けさを取り戻しつつあるように思えた。僕はもう一度思った。これはこれで悪くないな、と。

 そのとき女が急に上を向いた。彼女が見ているのは空ではなく、僕だった。僕にはそれが分かった。僕は単なる視点に過ぎなかったのだが、どうやら彼女にはちゃんと僕の姿が見えているらしかった。それで僕は少し緊張してしまったのだが、だからといってどうすることもできない。どこかほかの場所に移動することもできない。僕は一つの視点ではあったけれど、かといって自由に移動できるというわけではなかったのだ。

 ありがたいことに、彼女はすぐに目を逸らしてくれた。それで僕はほっとして、引き続きその姿を眺めていた。

 やがて彼女は服を脱ぎ始めた。するすると。本当にするすると脱ぎ始めたのだ。靴を脱ぎ、ストッキングを脱いだ。上着を脱ぎ、スカートを脱いだ。ブラウスを脱ぎ、その下の下着も脱いだ。太い身体にもかかわらず、その動きは驚くほど軽快だった。気付いたときにはもう、彼女は完全な裸になっていた。

 僕はただじっとその光景を見つめていた。彼女の肌は驚くほど白く、大きなピンク色の乳首と黒い陰毛だけが、今その白さを乱している。背中と(ふと)(もも)には、見事な贅肉(ぜいにく)(たくわ)えられている。何度も言うように彼女は美人ではなかったが、しかしそれは奇妙に性的な光景だった。

 彼女は今裸になって全身に血の雨を浴びていた。その白い肌に赤黒い血が線となって流れ落ちた。何度も何度も流れ落ちた。彼女は周囲の目を気にする様子もなく――といってもほかにはもう誰もいなかったわけだが――堂々とそこに立ち尽くしていた。どうやらその場所では、堂々としていることが必要であるらしかった。彼女は裸のまま目をつぶり、気持ちよさそうに血のシャワーを浴びていた。それがしばらく続いた。僕はただじっとそれを見下ろしていた。あたりには雨と、川の流れる音だけが聞こえていた。と、突然彼女が動き出した。何の前触れもなくしゃがみ込み、頭を下に向け、両手で(ひざ)を抱え込んだのだ。

 どうしたんだろう、と僕は思う。彼女は体調を崩してしまったのだろうか? 裸でいたせいで、身体が冷えてしまったのだろうか?

そのとき突然、背後でカラスの鳴き声が聞こえた。カラス? と僕は思う。もちろんカラスがいていけない理由はない。動物にだって生きる権利はある。しかしそのときの僕には、なんだかそれは、この純粋に静かな世界に対する無思慮な闖入者(ちんにゅうしゃ)であるように思えたのだ。僕はそちらを見たが、肝心のカラスの姿は見えなかった。あるいは夜の闇に紛れ込んでしまっているのかもしれない。そこで僕はまた橋の上に視線を戻したのだが、そこにはもうあの女はいなくなっていた。そこにいたのは、ただのピンク色の肉の(かたまり)だった。

 

 それは球形をした(かたまり)で、ところどころに(すじ)のようなものが見えた。よく目を凝らすと、表面に薄く血管が浮かんでいる。その鮮やかなピンク色は、ちょうど彼女が着ていた服とまったく同じ色だった。そういえば彼女のハンドバッグもまた同じ色をしていたのだが、それは今橋の歩道にポツンと置かれたままになっていた(そしてその中では相変わらず僕の心臓が小さな鼓動を打ち続けていた)。まあそれはともかく、さっきまで女がいたはずの場所にあるその(かたまり)は、今分裂と結合を繰り返していた。真ん中に割れ目ができ、さらにそれと交差するように別の割れ目ができた。そのようにして細かく分裂が続いていくのだが、やがてある段階に達すると、割れ目は完全に閉じられてしまう。そしてまた一から新たな分裂が始まるのだ。その動きが際限なく何度も繰り返された。

 

 これは一体何を意味しているのだろう、と僕は思う。このピンクの(かたまり)は、一体何なんだろう? でもいうまでもなく、それはもちろんあの女だった。あの女がこのように姿を変えたのだ。それ以外のことは、僕には何も分からない。

 そのボールはやがて反対側の手すりに向けて転がり出した。コロコロと。それは進むにつれて勢いを増し、手すりをピョンと飛び越えて、下の黒い川に落ちた。そして水面にぷかぷかと浮かび、骸骨たちが流された海に向けて流されていった。

 あとに残されたのは僕と、そのピンク色のハンドバックだけだった。誰もいない橋の上にはたくさんの血の雨が降り続いている。と、そこでまた携帯電話の――つまり僕の心臓の――着信音が鳴った。でも今はもうあの女はいない。ピピピピピピピピ、とそれは鳴った。ピピピピピピピピとそれは鳴った。でも誰も取るものはいない。たくさんの血がいまだに空から降り注いでいる。ピピピピピピピピとそれは鳴った。それはまるで、生命の最後の残滓(ざんし)を燃焼させるかのように、執拗に鳴り続いていた。ピピピピピピピピとそれは鳴った。

 そしてそのとき僕は気付いたのだ。これは実は僕自身の内部の世界だったのだと。

 

 

 その話を聞くと、彼女はこう言った。「それで、あなたはこの話で何を伝えたかったわけ?」

「いや」と僕は言った。「別に何かを伝えたかった、というわけじゃない。ただそういう情景がふと頭に浮かんだ、というだけなんだよ。ただそれだけなんだ」

「ふうん」と彼女は言って黙り込んだ。彼女は今何かを考えているらしかった。部屋はとても静かで、壁掛け時計のチクタクという音が、嫌に大きく響いていた。

「それで」と少しして彼女は言った。「その女の人のモデルは私なの?」

「違う」と僕は言って首を振った。「君は太っていないし、年齢も違う。彼女のモデルは、()いて言えば僕なんだよ」

 でもその意見は、彼女には特に感銘を与えなかったみたいだった。彼女は不服そうに低く(うな)った。

「でも彼女はあなたとは全然違うじゃない」と彼女は言った。「あなたは男だし、太ってもいない。たしかに最近少し肉が付き始めてはきたけれど」。そう言って僕のおなかの肉を引っ張った。

 僕はその手を払い()けて言った。「いや、にもかかわらず、というかだからこそ彼女は僕なんだよ。その辺の按配(あんばい)を説明するのは難しいんだけど」

「でもいずれにせよ」と彼女は言った。「その人はどこかに消えてしまった。おそらく海に向かって」

「たぶん」と僕は言った。

「彼女はそこで何をするのかしら?」

「分からないな」

「骸骨たちはどうなっちゃったのかしら?」

「分からないな」

 彼女はそこで溜息(ためいき)をついた。それはおそらく、彼女自身が想像していたよりもずっと重い溜息(ためいき)だった。時計がまだチクタクと鳴り続けている。

「本当はあなたは彼女をどこかに行かせたりするべきじゃなかったんじゃないかしら」とやがて彼女は言った。

「でも僕には肉体がなかったんだ」と僕は言った。

「そんなのは何の関係もない。あなたはきっと全力を尽くして彼女を引きとめるべきだったのよ。それなのにあなたは、ただそれを眺めているだけで、何一つしようとしなかった。努力すらしなかった。ねえ」。そこで彼女は正面から僕の目を見た。

「本当はあの最後の電話は、あなた自身がかけていたんじゃないの? あなたは自分で自分に電話をかけていたのよ」

 そのとき窓のすぐ(そば)でカラスの鳴き声がした。本当にすぐのところだ。カーテンが閉まっているせいでその姿は見えなかったけれど、その声はとてもクリアに聞こえた。それはいわば、僕の耳に一種の警告(アラーム)として響いた。それはこう言っていた。

 お前は今すぐそこを離れるべきなのだ、と。カラスは何度も同じことを繰り返していた。

 お前は今すぐそこを離れるべきなのだ。さもないと・・・。

 さもないと? でもその先を続ける前にカラスは飛び去ってしまった。あとには前よりもずっと凝縮(ぎょうしゅく)された静けさだけが残った。僕は急に自分が一人ぼっちになってしまったように感じた。そしてそのとき、ふとある考えが湧き上がってきた。それはこういうものだった。

あの太っている女は、まったくの始めから僕と寝たがっていたのだ。

どうして今までそれに気付かなかったのだろう? だからこそ彼女は僕の肝臓を食べ、心臓をバッグに入れ、頭蓋骨を川に投げ込んだのだ。それは一種の愛情表現だった。たしかにすごく奇妙な形をしてはいたけれど。

 そう思ってしまうと、何かがすとんと()に落ちたような気がした。彼女は僕と性交をしたかったのだけれど、僕にはもはや肉体がなかった。ではどうして彼女は肉の(かたまり)になんかなってしまったのだろう? どうしてその場に留まらず、海の方に向けて転がってしまったのだろう? 僕には分からなかった。僕には何も分からなかった。分かるのはただ一つ、あの場では僕は、骸骨ですらなかったということだ。ほかの人々はみな骸骨になって海に流されていった。でも僕はただの視点に過ぎなかった。つまりなにものでもなかったのだ。その中で、携帯電話としての僕の心臓は、必死に着信音を鳴らし続けている。ピピピピピピピピと。でも僕はそれを取ることができない。僕はなにものでもないから。それは誰もいない橋の上で、(むな)しく泣き続けている。ピピピピピピピピと。ピピピピピピピピと。

 

 そのとき突然、実際に僕の携帯電話が鳴り出した。誰がこんな時間に電話をかけているんだろう? 今は午前の四時半だ。隣にいる彼女は、ついさっきまでは起きていたはずなのに、今はぐっすりと眠っている。この着信音もその眠りを(さまた)げはしない。ピピピピピピピピとそれは鳴っている。僕は画面を見たが、それは誰か知らない人物からの電話だった。無機質な数字の羅列(られつ)がそこに表示されている。僕は応答しようかどうか迷った。ひどく迷った。彼女に相談しようとしたが、なぜかまったく目を覚まそうとしない。まったく、と僕は思った。どうしてこういうときに限って眠っているんだ? その着信音は鳴るたびに大きくなっていくような気がした。ピピピピピピピピとそれは鳴った。このままでは隣の部屋の住人から苦情がくるかもしれない。

 しかし、にもかかわらず僕は決心することができなかった。もちろん簡単に切ってしまうこともできたのだが、それが正しいことだとは思えなかった。ここには何かがある、と僕は思った。これは普通の電話ではない。人間ではない別の何かが、僕に連絡を取ろうとしているのだ。

 そのとき再び窓の外でカラスの鳴き声がした。彼はまたしても僕に対して警告(アラーム)を発していた。携帯の着信音に邪魔されながらも、カラスは声を張り上げて僕にそのメッセージを伝えていた。それは今僕にこのように聞こえた。

 お前はその電話を取ってはいけない。お前はその電話を取ってはいけない。お前はその電話を取ってはいけない

 でもまさにその警告がきっかけとなって、僕は電話に応答していた。

「もしもし」と僕はその相手に言った。しかししばらくの間、その人物は何もしゃべらなかった。向こう側には、ただ圧倒的な沈黙だけが存在している。「もしもし」と僕はもう一度言った。

 その間カラスはまだ警告を続けていた。

 もし電話を取ったら、とカラスは言っていた。お前は彼女を完全に失うことになるだろう

 それでも僕は、カラスの言うことを無視してしゃべり続けていた。「もしもし。もしもし

 やがて電話の向こうで何かが動く音が聞こえた。何の音だろう? 何かが、どこかに吸い込まれていく音だ。ヒュウ、という(かん)高い音。ちょうど花火が飛び上がるときみたいな。一体何が、どこに吸い込まれているのだろう?

「ねえ」とその音に混じって突然女の声が聞こえてきた。その声には聞き覚えがあった。それは、まさにあの太った女の声だった。「今まで一体何をしていたの?」

 僕は一体何をしていたんだろう、とそこで僕は思った。僕は一体何をしていたのだ? しかしよく分からなかった。いろんなことをしてきたような気もしたが、それらはすべてひどく(くだ)らないことのように思えた。俺は今まで一体何をしてきたのだ?

「分からない」と僕は言った。「自分が一体何をしてきたのか」

 

 窓の外ではまだカラスが警告を発し続けていた。お前は今すぐそこを離れなければならない。お前は今すぐそこを離れなければならない。

 でも僕はもう身動きが取れなくなってしまっていた。さっきの電話に応答したことで、僕は(から)っぽになってしまったらしかった。なぜかは分からない。しかし事実そうなってしまっていたのだ。僕は自分の中に、その(うつ)ろな空洞の存在をひしひしと感じることができた。

「違うわよ」と、そのとき僕のすぐ横で彼女が言った。彼女は今ようやく目を覚ましたらしかった。彼女はこう言っていた。「あなたはずっと前から(から)っぽだったのよ。それに気付かなかっただけで」

 見ると彼女はもう以前の彼女ではなくなっていた。そこにあったのは、一つの(にく)(かい)でしかなかった。ちょうどあの太った女と同じような、ピンク色の肉塊だ。そして今その真ん中に大きな割れ目ができて、僕の肉体を中に呑み込もうとしていた。一方の僕は自らの肉体を離れ、今完全に一つの視点になっていた。僕の肉体はベッドの上にいて(身動きも取れず)、ただその(かたまり)に呑まれるがままになっていた。彼は何の抵抗もしなかった。ピンク色の(かたまり)はムシャムシャと僕を食べ、食べ終えると、そのままどこかに転がっていった。どこかずっと遠くの方に。どこかずっと下の方に。あとには、中国製の小さな携帯電話だけが残った。

「もう遅いわ」と太った女は電話の向こうで言っていた。きっとそうなのだろう、とそれを聞いて僕は思った。きっと僕は何かに気付くのが、おそろしく遅かったのだろう。でも何に? 自分が(から)っぽである、という事実に?

女はこう続けていた。

「でも、何もかもまだ始まったばかりなのよ」

 

 僕の視点はそのまま後方に吸い込まれ、周囲を闇が覆った。完全な闇だ。宇宙が僕を吸いこむヒュウという甲高い音が聞こえた。遠くの方に金星の姿が見えた。どこか遠くで――でもすぐ近くかもしれない――カラスがまだ警告を発し続けていた。

 お前は今すぐそこを離れなければならない。今すぐそこを離れなければならない。さもないと・・・。

 「さもないと」何なんだ? と僕は思った。「さもないと」何なんだ?

 でもその先はなかった。カラスもまたどこかに消えてしまった。火星と、木星の姿が見えた。でも地球がない。太陽もない。ここは一体どこなんだ?

どこかでもう一度あの女が言った。

でも何もかもまだ始まったばかりなのよ

 

まさにその通りだ、と僕は思った。

 

 

 



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