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イチ

 ソクラテスのシュチョウ

 

 

 わたしは、わたしへのコクソシャがいったことを あなたがたがどうかんじるかをしらない。しかもかれらは わたしがわたしであることさえ わからなくさせようとした。かれらはもっともらしくいった。さらにいうと かれらはこのセカイのシンジツをのべていないと わたしにはいえる。そのかれらがいうすべてのキョギは わたしがおおいなるエンゼツカとして あなたたちをみちびくのにタイして かれらがあなたたちにみずからをまもらなければならないというのかを わたしはうたがっている。


 わたしジシンのコウドウによって かれらはただちにロンパされることを かれらがしったとき、またはわたしがこれまでのもっともすぐれたエンゼツカでないことをあなたがたにしらせたとき なんのハジもかんじないであろう。かれらがイダイなエンゼツカのそばで ひとりのおとこにシンジツをかたらせようとするしないにかかわらず、それはわたしにかれらのフラチのおおきさをみせてくれる。シンジツをかたるのがかれらのイトだとしたら、わたしはわたしがかれらにはにていないひとりのエンゼツカだということをみとめよう。しかし、わたしにいわせれば、かれらのいうことは うそにちかいかシンジツではない。わたしによってあなたがたはすべてのシンジツをしるだろう。いや、わたしはあなたがたをたしかめる。あなたがたがそんなギロンをただしたいかを。アテネのシミンよ、かざりのあるリュウレイないいまわしではない。しかし、ふにおちるようないくつかのことばが はなすことのさきにある。


 わたしはわたしがいわなくてはならないことは シンジツだとおもっている。そしてわたしはあなたがたがほかのなにものも みつけないことをおねがいしたい。みなさん、それはあなたがたがこどもだったまえにわたしのネンレイをあわせながら エンゼツするような まったくのコンナンだ。


 すでにわたしはあなたがたにひとつのおねがいをした。そしてそれはヒジョウにシンケンである。もしあなたがたが わたしがいちばのギンコウカのテーブルのうえではなすようにチョウセイしながら ベンゴしていることをみつけたら、あなたがたのおおくが そうだったり、そうでなかったりだとおもうが、それについておどろかないで、またジャマをしないでいただきたい。これはモンダイをロンじるホウホウである。


 これはわたしにとってはじめてのホウテイベンロンだ。わたしはナナジュウさいになるけれども、まったくここでのことばづかいになれていない。それをみなさんにおゆるしいただきたい。わたしはまじめである。わたしはガイコクジンのようであろうか。もし、わたしがうまれたときのようにはなすようだったら、わたしはわたしがすきなホウホウではなせるようあなたがたにおねがいできるケンリがあるとかんがえる。それがいいにせよ、わるいにせよ、あなたがたのチュウイをこのシツモンや、わたしがいうことがただしいか、まちがっているかについてむけていただきたい。それはシンジツこそがシュチョウシャのビトクのように、サイバンのビトクなのである。

 


 わたしはベンゴする。アテネのシミンよ。これはサイショのまちがったコクハツや、サイショのコクハツシャ、そしてそれらにつづくものとの はじめてのコウショウにおいて わたしにとっていいなにかとなろう。
 わたしは、あなたがたにいうナンネンもまえから、シンジツをかたらないタクサンのわたしをヒナンするひとびとにあった。それをわたしは アニトゥスとかれのシジシャよりおそろしいとおもう。かれらはみじめだとおもうけれど。
 しかし、シンシタチ、これはもっとおそろしいのである。わたしは、あなたがたがこどものときに あなたがたのてをひいてあげるような、そして、そのあとにあなたがたにときつづけているような ヒナンされているおとこだ。そのヒナンというのは、「あそこにおとこがいる。ソクラテスというやつだ。テツガクシャで、かみがみのことにてをつけ、チキュウのヒミツをあばき、もっともそうなリユウをつけて わるいものをうみだしている。」ということだ。まったくまちがいだ。
 これらのおとこは、アテネのシミンよ、このはなしをそとにもひろめている。これらのひとはコクハツシャでもある。わたしはこれをきいたひとびとが、そんなケンキュウをするひとなら、ムシンロンシャになるといいとかんがえることをおそれている。
 タホウ、これらのわたしへのヒナンシャはタクサンいる。そしてかれらはそのしごとをながネンやっている。あなたがたがかれらをしんじられるようになるとき、あなたがたはわかかった。いくらかはわかものだった。だれもベンゴしているひとはいないから、サイバンをボウチョウシャによっておこなわれることは むずかしくなった。
 なにがイチバンのモンダイだろう。それは、かれらのなかにコメディアンがいようがいまいが、かれらのなまえをさがしだすことがむずかしいことだ。たとえばコクハツシャがあなたがたをねたみとヘンケン
をともないながら セットクしたとしよう。それはシンジツだ。タシャをセットクしようということは、かれらジシンをセットクできているだろうから。
 こんなようではサイバンのしようがない。これではかれらのナンニンかをよび、リッショウしていくことはコンナンだ。
 ひとりはハンバクした。それはベンゴしながらかげとたたかっているようだ。そしてヘンジをするなにものもいないところにシツモンしている。
 わたしのたちばをリカイしてくれてありがとう。わたしのコクハツシャは、わたしにいわせれば、ふたつのシュルイがある。ひとつはこのようにコウゲキをわたしにしてくる。ほかはわたしがいまはなしているのにもかかわらず、そうそうにたちさってしまう。そしてわたしはわたしがはじめのイッケンにカンしておそいながらもベンゴしなければならないということをごりかいいただきたい。かれらはあなたがたがきかれたようにはじめにわたしをコウゲキした。またかれらにはおおくのながさのツイジュウシャがいた。
 いま、わたしはあえてする。わたしはジブンをベンゴしなければならない。アテネのシミンよ。そして、わたしはタンジカンで、あなたがたのイシキにあり、ながくそだったこのザンゲンをとりのぞくことをこころみる。わたしはこのケッカにキタイすることができるが、もしそれがあなたがたとわたしにとって いいものであれば、わたしのベンゴもセイコウすることになる。しかしわたしがおもうに むずかしいしごとだ。そしてわたしはそれらのセイシツをしらない。しかしながら、ケッカをかみのイシにまかせたい。わたしはホウにしたがうべきだし、ベンゴもしたい。


サン

 さぁ、ことのホッタンからはじめて、このコクハツがメレトゥスがこのコウゲキにいたったときに、かれがシンライしていたなにかにもとづくヘンケンをだしていることをみてみよう。さぁ、かれらはこのヘンケンをシテキされてなんといったか。わたしはかれらがケンサツカンであったことをハイリョしなければならない。かれらのコウジュツショをよむと、
 
 「ソクラテス、わたしたちはかれはアテネにコンナンをもたらすジンブツだ。」という。また、

 

 「かれはチキュウのナイブのこと、またテンクウのことへのチョウサ、また、テキトウなリユウをつけて、わるいものをつくりだし、また、だれかにそれをおしえている。それゆえにかれにはつみがある。」

 

 かれらのいうことはこういうシュルイのものだ。あなたがたは、アリストファネスのキゲキ、ソクラテスとよばれるヤクシャがなにかをかごにはこび、かれはそらをあるけるといい、わたしがわからないイダイか、たいしたことないかというモンダイについてのしょうがなく、おおきなとりひきをかたっていることを、あなたがたジシンのなかにみたというものである。
 もしそれらのことについてをだれかがくわしいとすれば、わたしはそのようなチシキについてのつみにはあたらないということができる。マイ メレトゥスはわたしにタイしてのコウゲキによって、わたしをはかにはつれていかないでほしい。しかし、シンシショクン、シンジツは、それらのシテキするようなことをわたしはなにもしていない。

 わたしはあなたたちジシンに、おおくのあなたがたにだ、チエをもたらす。 わたしはあなたがたにシドウし、わたしのはなしをきいたことのあるひとたち、タクサンかもしれない、とはなしあってほしい。ナンニンかがわたしからそのことがらについて、たいしたことないか、イダイかのどちらかのことばをきいていたとするなら、わたしははなそう。そしてあなたがたは、このことから、わたしについてひとびとがいうはなしでのわたしは、わたしがいうわたしとおなじジンカクだとさとるだろう。


この本の内容は以上です。


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