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愛とは?

愛が、残酷なものでなくなる可能性は、ただひとつ、心の清らかさのみです。私はfc2小説に、「愛の氷1~4」を書き、残酷な愛について書きましたが、このパブーでは、私の心と真剣に向き合って、清い愛について書きたい。その前に、カントの純粋理性批判について書きます。

 

純粋理性批判は、認識について書いたもので、愛について書いてはいません。しかし、「愛の氷4」で、この書と照らし合わせて残酷な愛について書くと、カントが汚されてしまった気がしました。

 

カントは、主観をぎりぎりまで自我の中に引き寄せて、神の世界へのジャンプ台を作ったのですが、醜い愛が、ドロドロの主観の中にあると私は述べてしまい、だからこそ、愛は薄氷のように、割れ、この美しい世界に神の世界がドロドロになって降りてくる、それが愛であるという結論を出してしまいました。そこから、私は飛躍したいのです。


故郷を追われた私の、新しい愛

私は、愛の氷1~4に書いた、S子さんの残酷な愛により、故郷を追われました。しかし、私には、新しい、もっともっと素晴らしい愛が待っていました。それは、カントが持っていたような、大きな友情が膨らんだ、温かい愛です。

 

カントは、宗教を否定したかもしれません。しかし、その人は宗教に入っている人でした。創価学会の人です。

私は、愛は、美しいものだと、初めてのように知ることができました。

 

奥さんのいる人を好きになり、その奥さん(S子さん)に故郷を追われ、ズタズタになっていた私を、その人は優しく包んでくれました。

 

 


宗教(創価学会)

私は、愛とは、宗教と同じものとは思っていませんでした。しかし、私の醜さも、めちゃくちゃも、全てを導くことができる、その人の愛は、創価学会に入っているその人しかできないことだと思いました。

 

精神科医の先生を好きで好きでたまらず、壊れていく私、「もう一度先生のもとに入院したい」と泣く私を、その人は止めてくれました。「泣き虫だなあ」と言って、優しく抱きしめてくれました。私の精神病院への入退院に、完全にストップがかかりました。

 


カント

カントは、孤独と戦った人です。その思想は、地から真っ直ぐに積み上げるものです。しかし、カントはプロテスタントでもあり、創価学会の教えである、日蓮の法華経も勉強していました。

 

愛とは、積み上げるものでもなく、ドロドロと戦うものでもない、清らかな、降り注ぐものであると、カントは知っていたような気がします。

 

カントが、「単なる理性の限界内の宗教」で批判したのは、宗教の中にしのびよる、偽善や、上辺の氷で、(何故氷かというと、愛の氷、薄っぺらい愛は、すぐに割れて泥沼に人を落とすからです。)上から美しく降る愛ではないのです。

 

もし、心の奥底から真実の愛を持っているとすれば、嫉妬などはなくなります。そして、天上の神の愛と、心の奥底の愛がひとつになり、それは、どんな積み上げた哲学をも越えます。


神の愛

故郷をS子さんに追われた私は、一切の嫉妬を離れた、神の愛を見ることができました。カントが、主観を自分の側に引き寄せて、神への足がかりにしたことすらも、真実の愛は越えていました。私は創価学会に入会はしませんが、努力を続けて昇り続ける、そして、神と心を結ぶ確かな宗教だと知り、その宗教に入っている彼を誇りに思います。

 

カントの哲学を誰かが越えるとすれば、それは、真実の恋愛、嫉妬も何もかもを越えた無償の愛を哲学できる人かもしれない。そういう人に、私はなりたい。


この本の内容は以上です。


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