閉じる


塚の恐ろしい話から膨らむ信長の話

  塚いうものの厳密な話は、よくわかりませんが、戦国時代からの、たとえば 首塚 、 胴体塚 、刀塚などの剣呑な塚の名称が今でもあちこちに残っています。この香川にも、ナントカ峠の頂上あたりに 首塚 の地名があります。土地の人にいわれを聞くと、なにやら口ごもってよくわからないことでごまかされましたが、文献上ではあの長曾我部を裏切った土地の城主が、命だけは助けてやると言われて降伏したのに、ひかれていう途中、その場所で斬首され、その故恨みを込めて首塚というようになったそうです。

  こんな凄惨な話は戦国時代、どこにでもありますが、そも、戦いの場で首を切って取るようなことは常態であったそうです。その首で恩賞をもらえたからでありました。雑兵も大将も、首を取っていかなければ手柄にはなりません。それゆえ、拾い首なんてもっとも恥ずべきこともあったようです。それらを首実検し、あと埋めたのが首塚、首のない胴体は胴体塚でありました。陰惨な話です。

  しかし、こういった合戦の在り方を、古くはしていませんでした。どうもあの坂上田村麻呂が征夷大将軍として、東の蝦夷の征伐に向かってからのようです。そして、やあやあ我こそは、と名乗りを上げて一騎打ちをするというのも、このときからであるようで、この戦い方はむしろ蝦夷の側の戦いの習慣であったそうです。以来、源平の戦いはその華麗な戦い方の典型になり、琵琶の音に寄せ、語られました。そして弓弦の音を響かせて忌払いし、頼朝が首実検をします。歌舞伎にもそうした場面があります。

   しかし、そうした合戦のあり方をガラッと変えた人がありました。誰あろう、織田信長でありました。

   もはや言うまでもないことですが、彼がこの日本の歴史の中に存在しなければ、今の日本はないと言って構わないと思います。この大変革者は軍事の天才とか独裁者とかいっても表現しきれません。彼の経済背策の、楽市楽座は単に誰でも自由にどこででも商いができるという表面的なとらえ方では足りません。あの封建時代の人を縛る規制を緩和ではなく、なくしてしまったのですから。つまり、農民を土地に縛り付けるのではなく、どこへでも行ける移動の自由、農業に従事することを義務付けた縛りからも解放する職業選択の自由、税金さえ払えば自力で得た財は取り上げられることはない所有権の保証と、これこそ資本主義経済のあり方そのままでありました。

  また家こそ家制度で固められていましたが、それは長男が家を継ぎ、次男三男は厄介者扱いで、名古屋あたりの侮辱の言葉は たわけもの でありました。これを変換すると 戯けもの と出ますが、本当は 田分け者 であって、相続で農地を細かく分けとるのをののしった言葉でした。そこで、信長はこの農民の余計者、次男三男を自分の軍団に取り込み、常設軍を形成しました。そして、この常設軍が城下町を作りました。このことは時代劇を見るとき、当たり前のように思いがちですが、他国にはない大変革でありました。と同時に、これで兵農分離も達成しましたから彼は農繁期を考えず、いつでも戦争が出来たのです。これは大変な強みです。そういった流れで、木下藤吉郎も登用されました。

  また、信長の軍は弱いという評判でした。確かに元が農民の次男三男ですから武芸のできるはずもなく、旧来の戦い方では容易に蹴散らされる弱さです。そこに織田の長槍がでてきます。約6メートルもあったそうで、これを振り回すなんて無理。ですから、集団戦で鑓を前に構えて突き出しながら前進してゆく戦法でした。また、鉄砲の採用があります。あの長篠の戦で鉄砲の三段撃ちを工夫し、それで武田の騎馬軍団を倒したと有名ですが、じつはこの三段撃ち、信長は火縄銃の玉装填にかかる手間という欠点を最初から見抜いており、鉄砲を手に入れた当初からやらせていたようです。彼ほどの天才が見抜けないはずがありませんし、欠点の克服も当然やっておりました。しかし彼は通常の戦いには弱かった。彼は何回負けて、何回しっぽをまいて逃げたでしょう。即断即決、逃げ足の速いこと。

   合戦の在り方を変えたというのは、獲得首で恩賞を与えるということを止めた、もしくは重要視しないとしたことにあります。首をぶら下げて戦場を走り回るなんて無理です。勝手放題といったと思いますが、相手をやっつけっぱなしのし放題で戦うことを命じました。首はいらないということです。ですから、桶狭間の戦いでは、今川義元の首を取ったものより、今川義元が桶狭間にいるという確実な情報をもたらした物見に、より多くの恩賞を与えました。そして、それらの家臣たちに、お前たちが合戦で勇猛に戦い、もし戦死したとしても、お前の子孫に家を継がせ、重く引き立ててやると確約したのです。後にはこれが封建時代の常識になりましたが、これも画期的な考え方でした。これによって、家臣団は結束し、徳川とは違って、一向一揆にも立ち向かえたのです。

   さて、その一向一揆ですが、これが手ごわかった。命のいらない集団が挑んでくるのですから、とても勝てない。また信仰は家臣団にも浸透しており、先に述べた徳川は、家臣を二分する争いになったことは有名です。信仰の事で盟友同士、血を流して争うなんて、今では考えられないことですが、当時は深刻な問題でした。この泥沼の戦いを有利にするため、というより、和議を結ぶため、信長は天皇をさえ利用します。上洛するための大義名分には将軍を、泥沼の戦いには天皇を。彼には、利用できるものはすべて利用しました。そして、比叡山の焼き討ちです。彼は天罰仏罰を信じてなかった。しのうはいちじょう,死のうは一定でありました。かれは自分が魔王と呼ばれていることは知っていたでしょう。後世、彼はそれを否定し、反発していたかのように言いますが、私は彼は、なんで?、程度にしか思ってなかったんではないかと思っています。あなたたち、なんでそう思うの?、しのうはいちじょう ではないかと、思っていたのだと思います。

  しかし彼は魔王でした。彼によって結局一向一揆は殲滅させられ、比叡山はつぶされ、日本で宗教が政治対立の勢力とはならなくなりました。政教分離です。

  これらがなかったら、日本のその後はどうなっていたでしょう。今とは完全に違っていたはずです。イスラムの宗教対立、西欧、アメリカの宗教政党の根強い勢力、カースト制の社会制約、中国韓国の因習と精神的不安定。日本は天皇を現人神にしなくとも、明治以降の資本主義による勃興は達成できたと思います。日本には精神のしがらみがなかったからです。そして、それを破壊し、消滅させたのが信長だったと思っています。

 

 

  塚の話に戻ってみましょう。平将門のことです。あの将門も、時の権力に憚って正式には神社に祭られていませんでした。その将門の首塚は千代田区にあります。そして他の祭神に紛らせて将門を祭ったのが、神田明神でした。これは当初、日本最大の祟り神をお沈め申すために祭ったのでしたが、その霊力にあやかろうと徳川江戸、帝都東京を守らせるためにより華々しく祭ったのが、この神田明神でありました。将門には胴塚もあります。神社も神も結局は権力の都合だけ。菅原道真、しかりです。神社の格付けを決めていたのが朝廷でありました。菅原道真のような最大の祟り神は社格も別格で、天満宮を名乗れるのは菅原道真だけです。しかし、神様の位を朝廷とはいえ、人間が決めるのはなんとも腑に落ちないと思います。最初は祭ることもできず塚に葬り、祟るとなればお沈め申そうと神社に祭る、そしてついには江戸、東京を守る守り神に祭り上げる。不思議な感覚だと思います。そういえば、崇徳上皇の項でも、同じような主張をしたと思い出しました。

 

  しかし、神社に百姓は祭られていません。声高に言いたかったことはそれだけです。ただ、百姓といういい方ですが、イコール農民とはなりません。百の姓とある通り、つまり姓名の姓ですが、世の中にいる百の名前のものということで、どこにでもいるものというほどの事を表しています。どこにでもいる人、大多数のもの、それが農民だったということです。かれらは、つまり、私たちは、神にも祭られない、世の片隅に常に捨て置かれる存在だということです。いや、祭られたところ、靖国神社がありました。

 

 


この本の内容は以上です。


読者登録

pinokopapaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について