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前三八〇〇〇年頃 列島の人々の石材利用

 前三八〇〇〇年頃、列島の人々の間で、石材の選択的利用が進展していた。

 

 次に掲げる史料は、古事記のいわゆる国産み神話の一節であるが、ここに、石土毘古神・石巣比売神がみえる。

【史料1】和銅5年1月28日序 太安万侶『古事記』上巻(岩波・日本思想大系)
 既(すで)に国(くに)を生(う)み竟(を)へて、更(さら)に神(かミ)を生(う)みましき。故(かれ)、生(う)みませる神(かミ)ノ名(な)は、大事忍男神(おほコトおしをノかミ)。次(つぎ)に、石土毘古神(いはつちびこノかミ)を生(う)みましき。〈石を川(ヨ)みて伊(い)波(は)ト云(い)ふ。亦(また)毘古ノ二字は音(コゑ)を以(モち)ゐる。下(しも)は此(コれ)に效(なら)ふ。〉次(つぎ)に、石巣比売神(いはすひめノかミ)を生(う)みましき。

 

 ここには、既に国を生みおえてとあり、大事忍男神は、国産みの大事を成就したことを象徴的に讃える神であろうか。石土毘古神は、石や土の男神であり、石巣比売神は、石や砂の女神。人々が、石や土砂に興味を持ち、それを積極的に利用するようになって案出された神々であろう。

 前3万8千年頃というと、中石器時代から後期旧石器時代への過渡期であり、列島における人類の活動が明瞭に認められるようにった時代である。
 石器時代は、C.J.トムゼンによって提唱された石器時代・青銅器時代・鉄器時代という人類文化の発展段階の最古にあたり、石を材料にした利器を製作使用した時代である。
 その石器時代は、旧石器時代・中石器時代・新石器時代に細分される。
 旧石器時代は、石器時代のうち最古の時代で、人類最古の文化階程に属し、地質学的には第4紀洪積世(更新世)に相当し、アフリカでは自然環境の変動が激しく、ヨーロッパでは氷河の時代であった。

 天保9(1838)年、フランスのソンム川渓谷の洪積層で、多数のフリント(ヨーロッパなどの白亜層中に産出する石英質岩石)製石器と絶滅種のゾウ・サイの骨が発見され、ノアの大洪水以前に人類が絶滅動物と共存した時代があると主張された。しかし、パリの学士院は、特別委員会を設けたものの、全員一致で却下した。
 弘化3(1846)年、フランスの税関吏ブーシェ・ド・ペルトJ.Boucher de Perthesは、北フランスのアブヴイル付近のソンム河谷の洪積層から、絶滅した哺乳類の骨と粗末なフリント製石器が同一の層から出ることに着目し、人類の始原が非常に古い時代にさかのぼることを主張し、イギリス人ジョン・ラボックが、磨製石器や土器を伴う既知の石器文化に対して、これらを旧石器文化と名付けた。
 安政3(1856)年、ドイツのネアンデルタール渓谷の洞窟で人骨が発見され、翌4年、その頭蓋に現生人類と異なる原始的特徴があると主張されたが、イギリスとフランスでは承認されたのに、地元のドイツでは承認されなかった。
 その後、南フランスを中心に研究が行われ、編年(6期)が設定された。人類による加工または使用の明らかな打製石器を道具として使い、主に狩猟・採集を生業とし、まだ土器や磨製石器を知らず、土器製作・弓の使用も一般化しない人類文化史の一過程であった。
 旧石器時代は、さらに、前・中・後期に区分される。約60万年前の原人から、旧人にかけての時代が前期、旧人のネアンデルタール人やアフリカや中近東における新人出現前後の時代が中期、ヨーロッパに現生人類が登場する前後から約1万年前までの時代が後期に相当するとされた。しかし、今では、日進月歩を遂げている考古学や古人類学によって、大きく修正されている。
 明治41(1908)年、スコットランド出身で横浜で医師をしながら考古学研究を進めたN・G・マンローは、小田原近郊で発見した旧石器の可能性がある資料を紹介した。
 大正6(1917)年、京都大学の浜田耕作は、旧石器に似る粗大石器が採集された大阪府の国府(こう)遺跡を発掘したが、この時は、縄文時代以後の土層の調査にとどまった。
 昭和6(1931)年、直良信夫は、兵庫県明石市の西八木海岸でヒトの左寛骨(腰骨の一部)を発見し、のち、長谷部言人が「明石原人」と命名した。
  昭和13(1938)年、八幡(やわた)一郎は、縄文初期の石器が新石器時代以前の中石器時代の石器に類似すると指摘した。

 しかし、一般には日本では、縄文時代(新石器時代)以前の時代は、無土器時代あるいは先土器時代・プレ縄文時代と呼ばれたりしていた。
 昭和24(1949)年7月、相沢忠洋は、笠懸村(現みどり市)岩宿の切通しで、木の葉形に黒く光る石片(木の葉形尖頭器)を発見した。戦時中、忠洋は、浅草で働いていた時に、土器や石器を手がかりに歴史を語る考古学に興味を持つようになった。復員後、群馬県の桐生に移り住み、赤城山の麓の村々を自転車で廻りながら納豆などを売り歩き、行商のかたわら、地図を片手に遺跡を探し歩いていた。
 同9月11日、相沢忠洋と若き考古学者芹沢長介・杉原荘介らは、岩宿の切通しの赤土層から石器がまぎれもなく出土することを確かめた。
 昭和24年10月と翌年4月、岩宿遺跡の本調査が行われた。

  昭和56(1981)年、宮城県岩出山(いわでやま)町(現大崎市)座散乱木(ざざらぎ)遺跡の調査に際して、後期旧石器時代よりも明らかに下の層から、珪岩製ではない「斜軸尖頭器」に類する資料を含む石器群が出土したが、これは後に、捏造によるものとされた。
 平成12(2000)年、「上高森(かみたかもり)遺跡」の調査中、調査副団長の藤村新一氏が、早朝、発掘区内に石器を埋込む姿が、毎日新聞社によって撮影され、捏造が発覚した。この事件によって日本考古学協会は検証調査を実施し、北海道から東京都まで114ヶ所の「前・中期旧石器遺跡」の発掘資料・データおよび土層断面採取資料は捏造によるものとして抹消され、それに関する報告や論考も無効と判定された。
 日本における旧石器時代の実態については、不明な点が多く、見解の相違点が少なくない。しかし、少なくとも、4万年前になると列島全体に多数の遺跡が一斉に形成されている。
  第四紀更新世の氷期には、陸上の多くの水分が固定されたため、著しい海面低下を招いた。日本列島周辺の海面低下は、少なくとも百㍍以上とみなされており、そのため、現在の北海道は、サハリンや千島列島南部とともにアジア大陸と陸で繋がる半島(古北海道半島)を形成していた。いっぽう、海底の深い津軽海峡と朝鮮海峡は狭まったとはいえ更新世を通じて存在し続けたので、本州・四国・九州は、陸化していた瀬戸内海とともに一つの島(古本州島)を成していた。琉球は、海面低下により陸域は多少拡大していたが、更新世においても基本的には島嶼のままであった(平成25年11月 佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」『岩波講座日本歴史』1)。

 

 つぎに、地球誕生・人類の起源から、列島において人々が活躍するようになるまでの経緯を概観してみる。

 約137億年前の宇宙誕生(ビッグバン)から、約91億年を経過した約46億年前に地球が誕生した。
 約46億年前、地球、誕生。
  地質時代は、地球の歴史を地質学が対象とする相対的な時間関係で区分した年代(地質年代という)で、大きく冥王代・始生代・原生代・顕生代の四つに区分され、さらに地層の重なりと地層中の化石による古生物の進化から、大・中・小の区分がなされている。
 冥王代は、地球誕生から約40億年前までの約5億年間を指す。この時代に、地球が形成された。
 約45億5000万年前、地球の表層部が形成された。地殻と海ができ、有機化合物の化学進化の結果、最初の生命が誕生したと考えられている。
 約40億年前から、始生代となる。始生代は、太古代ともいい、約40億年前(または約38億年前)から約25億年前までの、原核生物から真核単細胞生物が現れるまでの、原生代の前の時代である。
  約25億年前から、原生代となる。原生代は、約25億年前から約5億4200万年前までの、真核単細胞生物から硬い骨格を持った多細胞生物の化石が多数現れるまでで、古生代(カンブリア紀)の前の時代である。
 この冥王代・始生代・原生代をまとめて先カンブリア時代と呼ぶ。
 顕生代は、「肉眼で見える生物が生息している時代」という意味で、三葉虫などの生物化石が多数産出し始めるカンブリア紀以後を指し、古生代・中生代・新生代に分けられる。
 約5億4200万年前から、古生代となる。古生代は、約5億4200万年前から約2億5100万年前までの、無脊椎動物の繁栄から恐竜が繁栄しはじめる中生代の手前までの期間。
 約2億5217万年前から、中生代となる。中生代は、約2億5217万年前から約6600万年前に相当し、恐竜が生息していた時期に対応する。
  約6600万年前から、新生代古第三紀となる。新生代は、約6600万年前から現在に至る期間で、古第三紀・新第三紀・第四紀の三つに区分される。
 約6500万年前、哺乳類の一部が、樹上の三次元不連続空間に適応して、霊長類化を遂げた(第一回運動革命=葉山杉夫説)。肩関節の多軸化、拇指対向の出現、平爪と指掌文様の発達、指文様の指尖球による触覚の発達、平衡感覚の再編成、立体視の能力と色彩感覚の獲得、一子一胎子宮胎盤構造と血液絨毛胎盤などのヒトの持つ基本的デザインの80%以上は樹上で準備されたという(平成22年4月 稲田孝司「旧石器時代の人類史と日本列島」『講座日本の考古学』青木書店)。
 約2300万年前から、新第三紀中新生となる。新第三紀は、約2300万年前から、約258万年前までで、さらに中新生・鮮新生の二つに細分される。
 中新生は、約2300万年前から約500万年前までで、新第三紀以降では最も気温の高い時代で、この時代にヒト科が出現した。
 約2000万年前から、日本海の形成が始まり、ユーラシア大陸東部にあった日本列島の主体部が大陸から分離した。
 約1700万年前、東北日本と西南日本の異なる方向への観音開きのような移動により、日本列島が現在のような弧状の形をとるようになったと考えられている(平成22年4月 早田勉「更新世堆積物とテフラ」『講座日本の考古学』1青木書店)。
  この頃、西南日本一帯で、広域の火成活動が活発で、また、東北日本は大部分が海域にあったが、火山活動が活発で、グリンタフ(緑色凝灰岩)と呼ばれる地層が形成された。
 約1400万年前、ラマピテクスが生存していた。
 この頃、日本海では、大量の玄武岩が貫入するとともに、海域は拡大沈降し、日本海ができあがった。
  約700万年前、最も古い人類が出現した。
  ビンセント・サリッチとアラン・ウィルソンは、昭和42(1967)年、抗原たんぱく質の分子配列の差から、ヒトやゴリラ、チンパンジーなどとの分子配列の差異を求め、分子が進化の過程で起こる突然変異で並び順が変わる確率から生物間の分岐時代を推定する分子時計を拡張した。分子時計によると、ヒトとチンパンジーとの分岐が起きたのは400万年前から500万年前という。ラマピテクスのいた1千400万年前より遙かに最近の出来事ということになる。しかし、この値は当時の常識とあまりにもかけ離れでいたため、すぐに受け入れられることはなかった。
 イエール大学の鳥類学者チャールズ・シブリーとジョン・アールクィストは、昭和(一九八四)59年、DNA―DNA分子交雑法を用い、チンパンジーと最も近縁なサル類はゴリラではなく、ヒトであることを突き止めた。さらに、ラマピテクスの研究が進むとラマピテクスはヒトの祖先ではなくオランウータンの祖先であるという可能性が強まった。ヒトと類人猿を決定的に分ける特徴は、かつては、言語を使用すること・火を使うこと・道具を使用すること等があげられていたが、今では、恒常的な二足歩行と考えられている。二足歩行はヒトだけではないが、ヒトは、恒常的な二足歩行を為し得るようになったことが他の動物と異なる生物学的特徴と考えられる。
 今からおよそ700万年前~600万年前、最古のヒトが、チンパンジーと共通の祖先から分岐したと推定されている。

 

【参考A】平成22年4月 藤田尚「更新世の人類化石」『講座日本の考古学』
 二〇〇一年に中央アフリカのチャドで、七〇〇万年から六〇〇万年前の化石が働きが発見された。サハラントロプス・チャデンシスである。この化石は、ほぼ完全な頭蓋骨が残っており、脳容積は三五〇㏄程度で、大後頭孔(だいこうとうこう)の位置は頭蓋底(とうがいてい)の後方にあり、直立二足歩行をおこなっていたかは不明である。しかし、この化石は、おそらく、ヒトとチンパンジーが分岐する前後の化石と考えられるが、人類学者の大部分は、最古級のヒト科の化石と考えている。
 二〇〇〇年に、東アフリカのケニアで発見された、オロリン・トウゲネンシスは、サハラントロプス・チャデンシスよりも新しいとされ、約六〇〇万年前ごろ生存した、初期人類であると考えられている。化石には大腿骨(だいたいこつ)が含まれ、その形態から、オロリン・トウゲネンシスは、直立二足歩行をしていたと推測されている。

 二〇〇二年に、東アフリカのエチオピアで発見された、アルディピテクス・カダバ(カッダバ)は、五八〇万~五二〇万年前の化石とされる。
 以上紹介した三化石は、ヒトとチンパンジーの分岐時点か、その直後に、ヒト科への方向性をもって進化したとされる化石である。

 

 約500万年前から、約258万年前までの期間で、パナマ地峡が形成され、ヒマラヤ山脈の上昇が激しくなり、気候は寒冷化しており、いわゆる猿人が誕生し、直立二足歩行運動への適応で、ヒト化が成し遂げられた。直立とともに、脊柱のS字状湾曲、中央よりの後頭孔、上半身の体重を受ける横幅の広い骨盤が発達し、二足歩行のために外側へ「く」の字に張り出した大腿骨上部、大腿骨と脛骨の水平な関節面、土踏まずのアーチが形成された。
 約500万年前、不完全ながらも弧状列島(日本)の形ができあがりつつあった。その頃はまだユーラシア大陸と陸続きであった。
 この期の上部鮮新世から次の下部更新世の地層が姫島でも見られる。山陰系火山活動としての角閃石(かくせんせき)安山岩が、姫島から南西方向へ、両子山、由布岳・鶴見岳、九重山へと続く。角閃石は、ナトリウム・カルシウム・マグネシウム・アルミニウムなどを含み、組成が変化に富む珪酸塩鉱物。安山岩は、ほとんどがプレートの沈み込み帯で噴火した非アルカリ質の岩石で、もと、アンデス山系で発見され、andesiteに由来する火山岩の一つ。角閃石の多い安山岩を角閃石安山岩という。

  約440万年前、エチオピア地方の人類は、身長が122センチ程度で、二足歩行をしていたと考えられる。平成4(1992)~5年にかけて、エチオピアで発見されたアルディピテクス・ラミダスは、発見された部位は頭骨であるが、その形態から身長は122㎝程度で、直立二足歩行をしていたと考えられている。
 約420万年前、アウストラロピテクスがケニアに出現した。
 約400万~500万年前、九州に低い山地(のちの九州山地)が出現し、その後も隆起が進行している。
 約280万年前、地球全体で寒冷化が始まった。
 約260万年前、世界的な寒冷化が恒常的となり、国際地質科学連合は、ここを第四紀の開始とした。これにより、第四紀は、「人類の時代」から「人類が世界へ広がった時代」へと意義が変更された(平成22年4月 趙哲済「旧石器時代遺跡の地層学」『講座日本の考古学』)。
  この紀は氷河時代で人類が出現して活躍する時代であるが、更新世と完新世に二分される。
 更新世は、約258万年前から約1万年前(1万1784年)までの期間で、かつては、洪積世ともいい、そのほとんどは氷河時代で、汎世界的に四回の氷期と三回の間氷期が認められている。更新世は、前期・中期・後期に分けられ、前期はさらにジェラシアン及びカラブリアに分けられている。

 約240万年前頃、ホモ・ハビリスが出現した。「ホモ」は、「人類」を意味し、ホモ・ハビリスは、ホモ・ルドルフェンシスとともに、極初期のホモ属と考えられている。
  更新世は、ヒトが、身体的にも文化的にも、いよいよヒトらしく進化を遂げた時代ともいわれ、前期更新世、中期更新世、後期更新世に区分される。
 約200万~180万年前、前期更新世が始まったとされる。
 約160万年前、ホモ・エルガスターは、南アフリカのスワルトクランス洞窟で、火を使用していた。これが、現在確認されている人類最古の火の使用である。
 もともと、霊長類は、熱帯性の動物であり、人類の発祥もアフリカであった。火の使用は、人類の旧世界への拡散に大きな役割を果たしたと考えられている。火を通さねば食料に出来なかったものを食料にすることが可能となった。寄生虫・細菌などを食料から死滅させる。防寒・肉食獣からの防禦など、生活に直結したメリットがもたらされた。
 約130万年前~120万年前、パラントロブス属は、ホモ・ハビリスやホモ・エルガスターと同時期に生存していたが、この頃、絶滅した。
  更新世中期(中期更新世)は、0.781-0.126mya(78万1000年~12万6000年前)。
 ※myaは、million years agoの略で「百万年前」を単位とする年代。
 約78万年前、地磁気逆転が起きた。
 約67万年前、ヒトは、有節音声が可能な声道を持っていたらしい。ヒトが有節音声を発することができるのは、喉頭の下降により、咽頭が長くなって複雑な調音が可能になったためだとされる。平成17年、タッタソールは、60万年前のハイデルベルグ人(原人)骨に喉頭の下降を間接的に示す頭骨底の屈曲がみられることを指摘し、有節音声が可能な声道を持っていたとする考えを述べている。
 約43万年前、東シナ海北部に陸橋が形成された。この陸橋を経て、ナウマンゾウや現生種のハタネズミが、中国北部から渡来したらしい。
 約43万年前の陸橋形成以降、やがて陸橋は海に没し、その後、本州・四国・九州は、ずっと大陸から孤立していたと考えられる。
  約34万年前の噴出によって、姫島(大分県)の黒曜石が形成された。
 黒曜石(黒耀石)は、火山岩の一種で、化学組成上は流紋岩(まれにデイサイト)である。流紋岩は火山岩の一種でSiO2(二酸化ケイ素)が70%以上のもの、デイサイト(過去には「石英安山岩」と呼ばれていたが成分的にデイサイトであっても石英結晶を含まないものもあり、現在では安山岩よりも流紋岩に近いという考えが主流であることから石英安山岩の名称は使われなくなった)はSiO2が63~70%でアルカリ成分の少ないもの。黒曜石の石基はほぼガラス質で少量の斑晶を含むことがある。流紋岩質マグマが水中などの特殊な条件下で噴出することで生じると考えられている。
 黒曜石は、外見は黒く(茶色、また半透明の場合もある。姫島の黒曜石は乳白色)、ガラスとよく似た性質を持ち、割ると非常に鋭い破断面(貝殻状断口)を示すことから、先史時代より、世界各地でナイフや鏃(やじり)、槍の穂先などの石器として長く使用され、列島においてもすでに後期旧石器時代から使われていた。
 黒曜石は特定の場所でしか採れず、日本では約70ヶ所以上が産地として知られているが、良質な産地は限られている。後期旧石器時代や縄文時代の黒曜石の代表的産地としては、北海道白滝村、長野県霧ヶ峰周辺や和田峠、静岡県伊豆天城(筏場や柏峠)、熱海市上多賀、神奈川県箱根(鍛冶屋、箱塚や畑宿)、東京都伊豆諸島の神津島・黒馳島、島根県の隠岐島、大分県姫島、佐賀県伊万里市腰岳、長崎県佐世保市周辺などの山地や島嶼が知られる。このうち、姫島の黒曜石産地は、国の天然記念物に指定されている(以上、ウィキペディアによる)。

 

 約30万年前、ヨーロッパでは、ルヴァロワ技法が、発達した。ヨーロッパにおける中期旧石器時代の開始をここに置く考えが有力となりつつあるが、なお、統一した見解をみるに至っていない。
  約20万年前、ホモ・サピエンスが、アフリカに誕生した。
 現生人類の起源は、今ではアフリカ単一起源が確実とされている。

 

【参考B】平成25年11月 佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」
現在生きているわれわれ人類は、すべて現生人類ホモ・サピエンスから構成されている。一九八〇年代末に発表されたミトコンドリアDNA等の遺伝人類学上の研究成果を端緒として、現在ではホモ・サピエンスは二〇万年前頃アフリカに起源し、そこから全世界に広がったと考えられている。これまではヨーロッパ・西アジアを中心とした研究により、現生人類がネアンデルタール人等の先行人類と混血することなく各地でこれらを絶滅させて現生人類に置き換わったとする遺伝人類学の非混血(=断絶)置換説が定説となり、これらの地域の考古学的資料とも調和するとする考え(後期旧石器革命説)が主流であったが、アジアを中心とした最近の研究では、大規模な混血を伴う漸移的置換説が有力になりつつある。
 20世紀末頃から西ヨーロッパや西アジア以外の地域で旧石器時代遺跡の調査が活発になり資料が蓄積されるようになると、ネアンデルタール人等の先行人類が担ったと見なされる中期旧石器時代の石器群から、現生人類の後期旧石器時代石器群への変化は各地で連続的であるとする考古学からの主張が次第に強くなり、21世紀には遺伝・形質人類学の断絶置換説と鋭く対立するようになった。ところが最近になって、男女の遺伝情報が応分に獲得できる細胞核遺伝子の解析が可能となった結果、現生人類のゲノムに先行人類に起源するゲノムが一定程度寄与していることが判明した。この新しい研究成果はヨーロッパ以外の最近の考古学的研究と整合的であるため、現在論争が過熱化している。

 約11万4000年前、間氷期が終焉した。その後の約十万年間を最終氷期と呼ぶ。
 前7万3000年頃、ヒト(ホモ・サピエンス)は、シンボルを用いて抽象的な思考を持つようになっていた。南アフリカ・プロンボス洞窟からは、約7万5千年前の線刻オーカー(顔料石)や貝殻ビーズが出土した。線刻オーカーは、格子目の模様が刻まれたシンボリックものであり、貝殻ビーズは、1㎝に満たないほどの小さな貝殻に穴をあけたもので、人類最古のアクセサリーといわれている。
  前5万~前3万年頃、気候は比較的温暖であった。
 タケ亜科(竹笹類)は、日本列島のほぼ全域に分布しており、その分布状況などから、メダケ属は温暖、ササ属は寒冷の指標とされている。そこで、植物珪酸体分析の結果から、メダケ率(両者の推定生産量の比率)を産出し、過去の気候を推定する試みが行われている。メダケ率が100%に近ければメダケ属が主体の温暖な気候、0%に近ければササ属が主体の寒冷な気候であることを示している。約5~3万年前、関東地方および九州南部の分析結果では、メダケ率は比較的高くなっていた(平成21年5月 杉山真二「植物珪酸体と古生態」『大地と森の中で』同成社)。

  早水台遺跡は、大分県速見郡日出町川崎に所在する旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡である。
  昭和39年2月、すでに縄文時代早期の押型文土器の出土する遺跡として知られていた早水台遺跡の緊急調査が行われ、安山岩角礫層中から石英製の石器が発見された。そこで、芹沢長介は、その包含層の調査を目的に、早水台遺跡の発掘調査を行った。この発掘によって、ナイフ形石器を主体とする文化層より下位の安山岩角礫層中から、多量の石器群が発見された。石材は石英脈岩、石英粗面岩が主体で、地質学者によって、下末吉海進期(約13~7万年前頃)の堆積物とされた。しかし、年代からは大陸の中部旧石器時代に入るが、その石器型式をみると、チョッパー・チョッピングツールとハンドアックスという下部旧石器時代の内容であった。この矛盾を、芹沢は、まだ研究途上としていた。

 

【参考C】平成15年7月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻
 今から1万2千年以前の別府湾の周辺の地形と景観は現在と大きく異なっていた。地質学的には洪積世(こうせきせい)(更新世(こうしんせい))と呼ばれるこの旧石器時代には4、5回の大きな氷河期が訪れた。このため、日本列島はその度に大陸と地続きとなり、このときにユーラシア大陸から多くの動物とともに人類も到達してきたのである。
 とくに、日本列島内で多く発見されている後期旧石器時代(約3万年~1万2千年前)の遺跡は、最後の氷河期であるヴュルム氷期の陸橋によって、一方は朝鮮半島を、北はサハリンを経由して渡来した原日本人によってもたらされたものである。
 後期旧石器時代以前の前・中期旧石器時代(約3万年以前)についても渡来した可能性は高いものであるが、列島内で発見されている確実な遺跡は少ない。その中で、別府湾の北岸にある速見郡日出町の早水台(そうずだい)遺跡では、数回の発掘調査によって、中期旧石器時代(約12万年~3万年前)に相当する下位の角礫粘土(かくれきねんど層の中から、確実な石器が出土している。これらの石器は、ガラス質安山岩、石英粗面(せきえいそめん)岩、玉髄(ぎょくずい)等の特殊な石材を利用して、チョッピングトゥール、削器(さっき)、石核(せっかく)等が製作されている。中でもチョッピングトゥールは、国東半島の沖の姫島産のガラス質安山岩で作られているもので、良質の石材を求めて遠い原産地から運ばれてきたものである。早水台遺跡は、現在も東北大学が中心となって発掘調査が行われており、日本の前・中期旧石器時代の存否が問われている昨今、確実に前・中期旧石器時代に遡りうる貴重な遺跡であるといえる。

 

 その後、早水台遺跡は、自然礫層中の礫そのものであり、自然破砕礫という評価が出された。平成12年、旧石器遺跡捏造事件が発覚し、日本には前期~中期旧石器時代の確実な遺跡は存在しないとされた。平成13年、柳田俊雄により、早水台遺跡の前期旧石器時代文化の再調査が行われ、出土石器群の内容に変化はなく、自然礫層中の礫と考えられた。しかし、最近の研究では、この石英製旧石器は、層位学上(九重第一テフラ)、前3万8千年以降に位置づけられる可能性が高いとされている。


前二七四〇〇年頃 姶良火山の大噴火

 前二七四〇〇年頃、列島の人々は、姶良火山の大噴火後の降灰に悩まされていた。

【史料1】養老四年五月 舎人親王ら『日本書紀』上巻第五段一書第八
一書〔第八〕に曰はく、伊弉諾尊、軻遇突智命(かぐつちのみこと)を斬りて、五段(いつきだ)に爲(な)す。此(これ)各(おのおの)五(いつつ)の山祗(やまつみ)と化成(な)る。一(ひとつ)は首(かしら)、大山祇(おほやまつみ)と化爲(な)る。二(ふたつ)は身中(むくろ)、中山祗(なかやまつみ)と化爲る。三(みつ)は手(て)、麓山祗(はやまつみ)と化爲(な)る。四(よつ)は腰(こし)、正勝山祗(まさかやまつみ)と化爲る。五(いつつ)は足(あし)、酓隹山祗(しぎやまつみ)と化爲る。是(こ)の時(とき)に、斬(き)る血(ち)激灑(そそ)きて、石礫(いしむら)・樹(き)草(くさ)に染(そま)る。此(これ)草木(くさき)・沙石(いさご)の自(おの)づからに火(ひ)を含(ふふ)む縁(ことのもと)なり。麓は山(やま)の足(ふもと)を麓と曰(い)ふ。此(これ)をば簸耶磨(はやま)と云(い)ふ。正勝、此をば麻娑柯(まさか)と云ふ。一(ある)に麻左柯豆(まさかつ)と云ふ。酓隹、此をば之伎(しぎ)と云ふ。音(こゑ)は烏含(の)反(かへし)。

 

  史料1は、『日本書紀』第五段の国産みについで山川草木・月日などを生む説話の一書である。国産み神話は、実に様々な要素を含んでおり、単純にとらえることは出来ない。
  軻遇突智(迦具土)をめぐる神話には、火山噴火・焼畑農耕・産屋焼き・発火法・鎮火法・五行思想など、種々の要素が認められるが、この一書第八には、姶良火山の大噴火の印象を含んでいるのではないかと思われる節がある。
 ここには、大山祇・中山祇・麓(は)山祇・正勝(まさか)山祇・酓隹山祇の五山祇が登場し、山の神は農耕の神でもあるといわれるので、いわゆる縄文時代の農耕社会を反映しているようにも見えるが、「是(こ)の時(とき)に、斬(き)る血(ち)激灑(そそ)きて、石礫(いしむら)・樹(き)草(くさ)に染(そま)る。此(これ)草木(くさき)・沙石(いさご)の自(おの)づからに火(ひ)を含(ふふ)む縁(ことのもと)なり」とあるのは、むしろ、石器時代の火山の大噴火を彷彿させる。日本神話の形成過程には、石器時代をも含めた原始時代の列島人の体験や印象を反映しているところも少なくないものと思われる。この一書第八には、姶良火山の大噴火の印象を含んでいるのではないかと思われる節がある。
 日本列島の火山活動において、最大の噴火は、約9万年前の阿蘇の噴火とされているが、9万年前に、列島に人が住んでいたかどうか、はっきりしない。もし、人が住んでいたとしても、それは旧人であり、その記憶が、後の列島人に継承されているとは言いがたい。その9万年前の阿蘇山の噴火につぐ最大級の噴火は、約2万9400年前の姶良カルデラの大噴火である。日本神話の形成過程には、原始時代の列島人の体験や印象を反映しているところもあると推定される。
 前2万7400年頃(以前は約2万5000年前~2万年前と考えられていた)、現在の桜島付近で大噴火が発生した。先ず、軽石(大隅降下軽石)や火山灰が風下の大隅半島付近に降り積もった。続いて、数回にわたって、火砕流(妻屋火砕流、垂水火砕流)が発生し、カルデラ周辺に粒の細かい火山灰が降り積もった。ここで数ヶ月程度噴火活動が中断した後、破局的な大噴火が発生し、最後にカルデラ北東部の若尊(わかみこ)付近から大量の軽石や火山灰が一度に噴出した。この一連の大噴火は、総称して姶良大噴火と呼ばれている(「ウィキペディア」)。
  姶良カルデラは、約13万年前の最終間氷期には海湾として成立していた。
  姶良大噴火の火山灰(姶良Tn火山灰)の発見に至る経過を一瞥すると、先ず昭和33年頃、貝塚爽平が、南関東のいわゆる立川ローム累層のうちに、特色的な火山ガラスを多量に含む層準のあることを指摘した。昭和46年、町田洋らは、これが、富士東麓から丹沢山地一帯の富士山のテフラ(火山灰)の厚い地域で、厚さ数㎝の単一のガラス質白色火山灰層として認められることを報じ、「丹沢パミス」(丹沢軽石TnP)と名付けた。
 テフラは、単なる火山灰ではなく、砕屑をも含めた呼称のようである。町田洋らによると、テフラは、噴火に際して火口から地表に放出された固形の噴出物であるが、この火山灰そして火砕流、泥流堆積物をも広く含む「テフラ」という用語が便利であるという(小田静夫「日本の旧石器文化」)。テフラ層の基本単位は、1噴火輪廻の地層である。テフラをもたらす爆発的噴火は、数時間から数日程度で終了し、この間に噴煙柱が火口から立ち上がり、風で拡散し、堆積する。丹沢パミスは、最終氷期極相期に降下したとみられることから、氷期に関連する地形・地質学的諸問題や旧石器の編年・対比といった考古学的問題の解明に重要な役割を果たすと考えられた。
  日本列島には、四百に近い火山があり、各地に、これらの噴出物である火山灰(テフラ)が堆積している。日本の先史時代の遺跡・遺物は、こうした火山灰土に埋没した状況で発見されることが多い。初めて日本の旧石器文化の存在が確かめられた群馬県岩宿遺跡は、「関東ローム層」と呼ばれる火山灰土の中に発見され、その後の旧石器時代研究も火山灰層との関係で進展してきた。旧石器遺跡の探索は、地表近くの黒土層下の「赤土(火山灰・ローム)」層を目安にして地層断面に露出した礫・石片の存在を確認することが定番であった。そして、石器が発見されると、その赤土の岩相を観察して、ソフトか、ハード・ローム層か、また、黒色帯か、さらに、パミス(軽石)やスコリア(岩滓(がんさい))の混在、色調、粒度状況はどうか、などを地質学者と協力して判断し、その層準に名称を与え確定していった(平成15年5月 小田静夫『日本の旧石器文化』同成社)。
  町田洋らは、「丹沢パミス」のテラフの給源火山は、少なくともフォッサ・マグナ南部の火山群にはなく、かなり遠隔地にあるものと予想していた。
 昭和50年夏、伯耆大山のテフラ調査に赴いた折、現地で、20㎝浮石層(別にKey aおよび法万浮石あるいはキナコという名称がある)と呼ばれていたテフラが、南関東の丹沢パミスにきわめて類似した記載岩石学的特徴をもつこと、しかも、東は鳥取市から西は中の海周辺まで、ほとんど同じ暑さで分布すること、さらに丹沢パミスと同様、2万年前に近い時代の層準を占めること等からヒントを得て、広域に探索をすすめることになった。

 

【参考A】昭和51年6月 町田洋・新井房夫「広域に分布する火山灰」
その結果、西日本から東日本にかけて全く類似したガラス質火山灰層が、あるいは台地の土壌の母材として、あるいは泥炭中や河成層中に見出され、広域にわたって対比される可能性が高まったのである。かつて松井健・加藤芳朗が広島県下や京都府北部などで報じたガラス質火山灰、京都市平安神宮地下で見出された火山灰、そして宮崎平野で第二オレンジと呼ばれたもの、などはいずれも全く類似した特徴をもつテフラで同一層とみなせる。さらに、南九州一帯で著名な"シラス"の大部分を占める、姶良カルデラから噴出した入戸(いと)火砕流も全く類似した諸特性をもつテフラであることがわかった。……結局、このテフラ探索行のゆきついたところは姶良カルデラということになり、この広域に分布するテフラは、入戸火砕流の噴出とほぼ同時に形成されたことが判明した。以上の経過から、この広域テフラを、新たに"姶良Tn火山灰(Aira-Tn Ash)"(略称AT)と呼ぶことにしたい。


 ATの分布は、日本列島全域、日本海全域、韓半島、東シナ海、太平洋四国海盆までを広く被っている。層厚は南九州、四国南部地域では約50㎝、中国、四国北部、近畿地域では約20㎝、東海、中部、関東、東北南部地域では約10㎝である。ATの給源地域では数100㍍の層厚を示す「シラス台地」として知られており、約5㎝前後の高純度で確認される地域では、灰白色火山灰層として認識されている(平成15年5月 小田静夫『日本の旧石器文化』同成社)。
  近年の新しい検定法によるATの放射性炭素年代の平均値を実年代に較正すると約2.94万年前になると指摘されている(平成22年4月 早田勉「更新世堆積物とテフラ」『講座日本の考古学』1青木書店)。
  この姶良火山大噴火が発生した時期は、後期旧石器時代前半期(MIS36万~2万8千)から同後半期(2万8千~1万2千)に移り変わる過渡期に当たる。MISは、海底の堆積物の酸素同位体比率に基づく海洋酸素同位体ステージ。気候・動植物相・景観といった各種の自然環境情報を総合して見るのに便利な時間の単位とされている。
 後期旧石器時代前半期は、氷期の中でも相対的に温暖な時期の後半に相当し、次第に寒冷化し始めた時期で、紀元前2万2000年~前1万6000年頃は、最終氷期最寒冷期であった(佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」)。

 

【参考B】平成15年7月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
  別府市の北部の羽室丘陵は、旧石器~弥生時代の複合遺跡である。ここでは、縄文・弥生時代の遺構の調査区の中で、総数49点の後期旧石器時代の石器が発見された。石器はナイフ形石器2点のほか、石核、2次加工剥片等である。ナイフ形石器の1点は、横長剥片を素材とするもので、いわゆる国府型ナイフと呼ばれるものに類似する。石核も横長剥片の母材とみられるもので、こうした特徴から、羽室遺跡の時期は、後期旧石器時代の後半期のうち、AT火山灰降下直後(約2万5千年前)のものと推定される。なお、これらの石材は、大野川流域産のホルンフェルスを主体とするものであるが、横長のナイフ形石器は、国東半島沖の姫島に産するガラス質安山岩を使用している。
 十文字原高原台地の北端部に位置するエゴノグチ遺跡では、姶良火山大噴火前後の石器が認められ、別府市北部の羽室遺跡は、AT火山灰降下直後のものと推定される石器が出土している。

  前二六○○○年頃、剥片尖頭器が、朝鮮半島から九州へともたらされた。
  この時期、遺跡数の急増がみられ、一定の人口増があったと考えられる。
 
  前二一〇〇〇~前二〇〇〇〇年頃、列島の人々は、最寒冷期を迎えていた。この頃、ナウマンゾウ‐オオツノシカ動物群に属する大型哺乳類は絶滅したらしい。狩猟対象は、中・小型動物に移行した。絶滅した大型動物の多くは草食性で広大な生息域を必要としたが、中・小型動物は相対的に生息範囲が縮小した。そのため、人類集団の狩猟範囲や資源利用の領域も縮小するので、後半期の古本州島では石器群の地域的分立が顕著となり、地域差が一気に拡大した(佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集社会」)。

 この最終氷期最寒冷期でも、九州南部から種子島の地域は、常緑樹の森が消えることはなかった。変わらぬ常緑樹の森のもとで、礫群を用いる調理法が行われていた。
 南極大陸やグリーンランド、北米大陸や北欧の氷床の厚さは3㎞にもおよび、全球的な海水準は130mも下がっていた。しかし、海水準低下により日本海が完全に外海から遮断された可能性は低く、対馬海峡や津軽海峡が完全に陸橋化した可能性も低い。

 前一八〇〇〇頃、古本州島(関東地方および九州南部)は、寒冷な気候であった。
  タケ亜科(竹笹類)は、日本列島のほぼ全域に分布しており、その分布状況などから、メダケ属は温暖、ササ属は寒冷の指標とされている。そこで、植物珪酸体分析の結果から、メダケ率(両者の推定生産量の比率)を産出し、過去の気候を推定する試みが行われている。メダケ率が100%に近ければメダケ属が主体の温暖な気候、0%に近ければササ属が主体の寒冷な気候であることを示している。関東地方および九州南部の分析結果では、メダケ率は、約2万年前頃が最も低い(平成21年5月 杉山真二「植物珪酸体と古生態」『大地と森の中で』同成社)。

  前一五〇〇〇頃、古本州島に細石刃石器群がもたらされた。


前一四〇〇〇年頃 土器の製作と貝塚の形成

 前一四〇〇〇年頃、古本州島で土器が製作されるようになった。

【史料1】和銅五年正月廿八日序 太安万侶『古事記』上巻(岩波・日本思想大系)
 次(つぎ)に、成(な)りませる神(かミ)ノ名(な)は、宇比地迩神(うひぢにのかミ)。次(つぎ)に、妹(いも)須比智迩神(すひぢにのかミ)。〈此(コ)ノ二(ふた)はしらノ神(かミ)ノ名(な)は音(コゑ)を以(モち)ゐる。〉

 

  比地(ひぢ)は泥、迩(に)は土。列島の人々が、泥土を神格化したものであり、泥土を積極的に利用しだしたことが推測される。妹須比智迩(いもすひぢに)神は、宇比地迩神の配偶神で、同じく泥土を神格化したものである。妹は、配偶の女性神をあらわしている。

 

【史料2】養老四年五月 舎人親王ら『日本書紀』上巻第二段本文
 次に神有(ま)す。埿土煮尊(うひぢにのみこと)〈埿土、此をば于毘尼(うひぢ)と云(い)ふ。〉沙土煮尊(すひぢにのみこと)。〈沙土、此をば須毘尼(すひぢ)と云ふ。亦(また)は、埿土根尊(うひぢねのみこと)・沙土根尊(すひぢねのみこと)と曰(まう)す。〉

 

 この段は、世界起源神話のつづきで、男女二神を対としてあげている。ウヒヂニ・スヒヂニのヒヂは泥、ニも泥。ウヒヂネ・スヒヂネはウヒヂニ・スヒヂニの音転で、意味は同じ。記紀ともに、当てられている文字は異なるが、ほぼ同一内容となっている。


 前1万4000年から晩氷期になり、一説に、ここから縄文時代草創期に入るという。晩氷期の開始とともに、マンモス動物群中の大型動物は姿を消したと推測されている(佐藤宏之「日本列島の成立と狩猟採集の社会」)。
 平成10年、旧蟹田町(青森県外ヶ浜町)教育委員会は、民家の建て替え工事に伴う大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡の発掘調査を行い、無文土器を発掘した。土器はすべて小破片で形の分かるものはないが、文様はなく平らで角張った底の土器であった。土器の内側には炭化物が付着しており、食料の煮炊きに使ったものである。この無文の縄文土器に付着した炭化物のAMS(加速器質量分析) 法による放射性炭素年代測定法の算定で、約1万6500年前(暦年較正(れきねんこうせい)年代法による)とされ、この無文(無紋)土器が1万6000年前を遡る可能性が報告された。これが、今のところ世界で最も古い土器とされている。
  更新世は、天保10(1839)年に、イギリスの地質学者ライエルが軟体動物化石群に現生種が90%以上含まれる地層を更新統と命名し、更新統の堆積した時期が更新世であるとされていた。日本では、洪積世も更新世と同じ意味に使われていたこともあったが、洪積層は洪水による堆積を意味し、北欧の氷河堆積期をこのように呼んだことに発しており、誤解されかねないことから、今は洪積世という呼称は国際的には使用されていない。更新世は、従来は170万年前から始まったとされていたが、平成21年6月に、国際地質科学連合(IUGS)により、新しい定義が批准され、約258万年前から約1万1700年前とされた。そのほとんどが氷河時代で、汎世界的に四回の氷期と三回の間氷期が認められている。
  昭和21(1946)年、相沢忠洋(ただひろ)は、群馬県新田郡笠懸村阿左美岩宿(いわじゅく)のローム層から石器だけの文化層を発見し、昭和24年に明治大学が発掘調査をした。この岩宿遺跡から最初に発掘された楕円形の石器を杉原荘介(そうすけ)は、「ハンドアックス」と呼んだ。これは、彼がユーラシア西部の前期旧石器に比肩できるような極めて古い石器であると予想したことを示しているという(平成25年6月 今村啓爾「縄文時代研究史」『縄文時代』上 青木書店)。その先端に磨かれたような痕があることは発掘者によってもみとめられたが、摩滅痕として処理されていた。ところが、山内清男(やまのうちすがお)(明治35~昭和45)は、これを石器製作技術としての磨研であり、磨製石斧に分類されるものと指摘した(今村啓爾同上)。
 昭和27年12月、藤森栄一は、長野県茶臼山遺跡のナイフ形石器文化の遺跡から立派な磨製石斧が出土し、日本の無土器文化に磨製技術が伴うことを確信したという。
 しかし、その後、考古学界ではこの磨製石器発見の事実は、数年の間、話題には上らなかった。
 昭和33年冬、長野県神子柴(みこしば)遺跡で、ローム層中から大形の石槍、石斧とともに長大肉厚な局部磨製石斧がまとまって発見された。
 世界の石器時代は、旧石器時代と新石器時代に大きく区分され、旧石器時代の石器は打製石器であり、新石器時代は磨製石器と土器が最も特徴的な遺物であることが、世界の常識となっていた。
 ところが14C年代測定に従うと、日本列島で発見された磨製石器と土器は、ともに旧石器時代に相当することになる。

 

  青森県の大平山元Ⅰ遺跡の最古の土器の年代約1万6500年前というのは、地質時代の区分では、第四紀更新世後期(約12万6000年前~約1万1700年前)で、最終氷期の晩氷期(最終氷期極相期の直後)に当たる。更新世に土器文化の起源を有する列島の文化は、世界的にも希有な考古学的現象と考えられる(佐藤宏之)。


 天保9(1838)年6月18日、モースEdward Sylvestar Morse(モールスともいう。天保9~大正14)、アメリカのメーン州ポートランドに誕生。
 嘉永3(1850)年、はじめてデンマークで、貝塚が人間の残したゴミ捨て場であるという認識のもとに発掘調査され、その後、欧米各地で貝塚が発見・発掘されるようになった。
 この頃から、モース(当時13歳)は、貝類の標本を採集し始めた。
 安政6(1859)年、ダーウィンの『種の起源』が、イギリスで刊行された。モースは、この進化論に傾倒した。
 慶応4(1865)年、イギリスのジョン・ラボックは、石器時代を旧石器時代と新石器時代に二分することを提唱した。
 明治8(1875)年、ワイマンは、フロリダのセントジョン河畔の貝塚研究の報告書を刊行した。
 明治10年6月18日、モース(この日は彼の39歳の誕生日であった)は、腕足類の収集と研究を目的として来日し、横浜に上陸した。6月20日、モースは、文部省に、収集と研究の便宜を図ってもらうために横浜駅から新橋駅に向かう汽車の窓から、現・東京都品川区と大田区にまたがる大森貝塚を発見した。モースは、訪れた文部省の外山正一から、東京大学の動物学・生理学教授への就任を請われた。かくして、彼は、東京大学教授の職を得て、さらに江ノ島に臨海研究施設を開設することが出来て、同年9月16日、大森貝塚に立ち、25日以降、学生や人夫を使って断続的に発掘調査を実施した。
  その後、モースは一旦帰国した。
 明治11(1878)年4月下旬、モースは、家族をつれて東京大学に戻った。
  6月末、モースは、浅草で、「大森村にて発見せし前世界古器物」を五百人余に講演し、考古学の概要、「旧石器時代」「新石器時代」「青銅器時代」「鉄器時代」の区分、大森貝塚が新石器時代に属することを述べ、出土した人骨には切傷があり、食人風習説を唱え、石器が少ないことと食人の風習から、日本人やアイヌ人の祖先ではないとして、現在のアイヌには食人風習がないから、「昔の日本には、アイヌとは別の、食人する人種が住んでいた」と推論し、先史人類のプレ・アイヌ(アイヌ以前の人)説を唱えた。演説会の主催および通訳は、江木高遠であった。
 明治12年、モースは、大森貝塚の報告書を英和両文で『Shell Mounds of Omori』『大森介墟古物編』として、Memoirs of tha Science Department, University of Tokio(東京大学理学部英文紀要)の第1巻第1部として出版した。モースは、ここで、発掘した大森貝塚発見の縄目紋様をもつ土器をcord marked potteryと説明した。
 谷田部良吉(嘉永4~明治32)は、cord marked potteryを「索紋土器(さくもんどき)」と訳した。
 モースは、時の東京大学綜理・加藤弘之(天保7~大正5)に、「学術報告書を刊行し、海外と文献類を交換するよう」勧めた。
 明治12年8月末、モースは、任期満了となり、9月には帰国した。
  この年、かつて大森貝塚の発掘に大学生で参加した佐々木忠次郎・飯島魁(いさお)は、茨城県美浦村陸平(おかだいら)貝塚を日本人だけで発掘し、四年後に報告書を刊行した。この発掘調査で、土器に違いのあることが明らかになった。しかし、やがて二人は共に考古学を離れ、昆虫学と動物学に進んだため、モースの考古学研究の科学的精神は定着することなく、モースの「プレ・アイヌ説」も、考古学の主流にはならなかった。
 明治19年、白井光太郎(文久3~昭和7)は、モースのcord marked potteryを訳して「縄紋土器」という名称を初めて使用した(その後、土器の一部に撚紐(よりひも)を押しつけた縄目文様がみられることから、縄文式土器(じょうもんしきどき)という名称が用いられるようになった)。
 明治26(1893)年の茨城県江戸崎町椎塚貝塚の発掘調査で、はじめて、遺跡には層位の差があり新旧の差を示すことに気づいたという。
 明治27年、千葉県小見川町阿玉代貝塚が発見され、その後、数次におよぶ発掘調査が行われた。その報告書で、はじめて、土器の様相の違いは時代差とされた。異なる土器にともなう貝の塩分濃度の違いから、大森式→陸平式という年代差が導かれたが、実は逆で、層位にもとづかない研究の危うさを露呈していた。
 大正5(1916)年、鳥居龍蔵(りゅうぞう)(明治3~昭和33)は、縄文時代はアイヌ民族、弥生時代は日本民族であると主張した。
 大正6年、濱田耕作らは、大阪府藤井寺市国府(こう)遺跡を発掘調査した。この調査では、意識して層位学の原理を取り入れた発掘調査が行われた。
 大正8年、鳥居龍蔵は、厚手式=陸平式=山手の狩猟民、薄手式=大森式=海岸部の漁労民、出奥式=亀ヶ岡式=出羽・陸奥に分布という部族差とする見解を発表した。
  昭和3(1928)年、山内清男は、千葉県の賀曽利(かそり)貝塚・姥山(うばやま)貝塚・上本郷貝塚などの地点別の層位的発掘調査の知見にもとづき、関東地方の縄紋土器の編年を、昭和12年には全国の土器編年と、早期・前期・中期・後期・晩期の五時期の大別を示し、今日の層位学と型式学にもとづく考古学の基礎を築いた。
 昭和15(1940)年、矢島清作は、東京都杉並区の井草(いぐさ)遺跡の発掘調査を実施した。ここで、当時最古とされていた三戸(みと)式より古い土器片が、ローム土中にまで食い込んで出土し、山内清男は江坂輝彌(えさかてるや)と検討し、井草式土器を設定した。井草式土器は、口縁部が肥厚外反し、縄文が施される丸底深鉢形土器で、千葉県西之城貝塚の層位から、Ⅰ・Ⅱ式に細分され、関東地方早期前半撚糸文(よりいともん)土器の最古の段階に位置づけられた。
 昭和26(1951)年、これまでの撚糸文系土器の編年が逆転して、井草式土器が最古とされた。
 昭和29年、芹沢(せりざわ)長介(大正8~平成18)は、ローム層中に土器が含まれていないことに注目して、この文化を「無土器文化」と名付けた。
 昭和30年以降、撚糸文系土器より古い土器が全国各地で発見されるようになり、最古の土器追究の主舞台は、関東地方から離れていった。昭和30年の山形県高畠町日向洞窟(ひなたどうくつ)、昭和33年の新潟県上川村小瀬(こせ)が沢洞窟、昭和34年の群馬県笠懸町西鹿田(さいしかだ)遺跡など各地の洞窟を中心とした遺跡が調査された。
 昭和33(1958)年、長野県伊那市神子柴(みこしば)遺跡の発掘調査が実施された。
 昭和34年、神奈川県横須賀市夏島貝塚の夏島式土器の年代が、14C年代法による測定で9,450±400y.B.P.と発表され、日本の土器が世界最古の土器とされた。これに対して、山内清男は、14C年代法を信用せず、ソ連の考古学者A.P.オクラードニコフ(明治41~昭和56)のバイカル編年の年代観を基準に、イサコボ期(昭和25年に提唱されたバイカル地方新石器編年の第二期)に共通する円鑿(まるのみ)という石斧(せきふ)や、他の石器の有無から草創期は紀元前3000年前から、早期は紀元前2500年前から……と各時期を五〇〇年見当で割り振った(堀越正行「縄文時代」『考古学を知る事典』)。


 昭和35年、長崎県北松浦郡吉井町(佐世保市吉井町)の福井洞穴遺跡が調査された。福井洞穴は、佐々川支流の福井川に面し、西向きに開いた間口十二メートル、奥行き六メートル、高さ三メートルの岩陰状の洞穴で、標高八十メートルの稲荷神社の境内に位置する。昭和11年、地元の郷土史家松瀬順一が稲荷神社の改修工事の際に石器を発見して遺跡の存在を明らかにし、昭和35年から39年にかけて、芹沢長介らが、三回にわたって発掘調査を実施した。ただし、稲荷神社の本殿直下は未調査のため、全貌は明らかになっていない。
 遺跡は、十五層からなり、うち、七層の包含層が確認されている。
①第1層:石鏃と押型文土器、縄文時代早期。
②第2層:船底形の細石核と細石刃、爪形文土器。
③第3層:船底形の細石核と細石刃、隆起線文土器(1960年代に14C年代 測定法で12000~13000年前と推定された)。
④第4層:半円錐形の細石核と細石刃、片面調整円形石器、尖頭器(せんとうき)。
⑤第7層:黒曜石の小石核と小石刃。
⑥第9層:サヌカイトの石核と翼形剥片。
⑦第15層(最下層):サヌカイトの大型石器(槍先形両面調整石器、削 器)と刃型剥片14C年代測定法では、31,900年以上前と推定された。
 昭和37年、佐藤達夫らは、青森県東北町甲地の長者久保(ちょうじゃくぼ)遺跡の発掘調査を実施した。特徴的な円鑿(まるのみ)をはじめとして、石斧、小形打製石斧、石槍(いしやり)、彫刻刀のような彫器(ちょうき)、物をそぎ削る削器(さっき)など約五十点が、川沿いの谷筋の低い粘土層より出土した。その上面を洪積層の軽石流堆積(たいせき)物が覆っているため、旧石器時代と思われるが、調査者は、円鑿は磨製石器であるから新石器時代の所産であるといい、シベリアのイサコボ期の流れを汲むものとし、縄文時代存続期間を約二千~三千年とする短期編年観の立論の根拠とされた。
  昭和39年、山内清男は、井草式土器より古い土器が続々と発見され、ほかの時期との数的バランスが崩れたため、早期を二分し、押型文土器からを早期とし、それより前を草創期とした。それは、細別時期を八ないし十型式にすることにより、細別時期の時間を同じにするためであった。
  昭和43(1968)年、山内清男は、草創期の始まりを紀元前2500年前、そして各期平均四〇〇年と改定した。この山内の年代観を「短編年」という。
 昭和44年、芹沢長介は、旧石器時代後期と新石器(縄文)時代の間を、長崎県福井洞穴の12,700±500y.B.P.という隆起線文土器の年代から、土器の出現から撚糸文系土器の前までを、年代としては1万3千から1万年前までを「中石器時代」もしくは「旧石器時代晩期」とした。
 一方、杉原荘介は、細石器から撚糸文系土器の前までの間を「原土器時代」と一括した。
  昭和48年、長崎県佐世保市泉福寺(せんぷくじ)洞穴で豆粒文(とうりゅうもん)土器が隆起線文土器の下層から発見され、当時、日本最古の土器とされた。
  昭和50(1975)年、青森県蟹田町大平山元(おおだいやまもと)Ⅰ遺跡、茨城県ひたちなか市後野(うしろの)遺跡で、神子柴・長者久保文化に無文土器が伴うことが判明した。これにより、細石器を持つ九州の土器が最も古いものではなく、九州では土器を使用するようになっても細石器が残ったという様に解釈変更を迫るものとなった。

 縄文草創期前半段階ですでに、弓矢技術を示す石鏃も出現している。列島の石鏃もまた世界で最も古いものであり、世界で最も古い弓矢の使用を示している。すでに後期旧石器時代初期の段階から列島では磨製石器がみられる。
 世界最古の土器と世界最古の磨製石器に世界最古の弓矢(石鏃)が、日本列島に存在している。世界の石器時代が大きく旧石器時代と新石器時代に区分されることは歴史の基本であり、磨製石器と土器が新石器時代を特徴づける遺物であることも世界の常識と思われた。しかして、日本の磨製石器と土器が世界最古のものであるはずもないと思われていた。土器の編年をさかのぼっていけば、いつか大陸から日本列島に渡来した当初の文化に行き着くと期待されていた。しかし今はそれがまさに覆(くつがえ)されている。横須賀市の夏島貝塚が当時世界最古の土器とされてから既に半世紀を経過し、青森県の大平山元Ⅰ遺跡の無文土器が世界最古の土器とされてからでも三十余年を経過し、これよりさらに古い土器が列島以外の地で発見されそうにも思われない。

 

  大分県杵築市山香町の目久保第1遺跡では、縄文草創期の隆帯文(りゅうたいもん)土器片が1点、出土している。

 

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
 縄文文化の開幕を告げるこの時期の遺跡は県下では数少なく、別府市域でもまだ発見されていない。近くでは十文字原の北方に広がる山香町の開析(かいせき)された火山麓の標高322メートルの丘陵上に立地する目久保第1遺跡で、後期旧石器文化層の上部から隆帯文(りゅうたいもん)土器片1点と有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)2点が出土している。隆帯文土器は、日本列島最古の土器の一つであり、その起源は大陸・朝鮮半島に求められる。その半島に近い九州では、長崎県福井(ふくい)洞穴や泉福寺(せんぷくじ)洞穴等で発見されており、目久保第1遺跡は県下唯一の出土例である。この土器は、土器の表面に粘土帯を貼り付けて文様とするもので、列島全域に広がった縄文草創期(そうそうき)と呼ばれている日本最古の土器文化である。


 有舌尖頭器は、この時期に特徴的な石器であり、石鏃(せきぞく)の先駆をなすものである。石鏃と同様に、ていねいな加工を施し、基部は着柄のためのゆるやかな基部をもっている。目久保第1遺跡の有舌尖頭器は、中型と小型のものであり、前者は大野川流域産のホルンフェルス、後者は阿蘇外輪山産の黒曜石を利用している。これによってこの時の交流の範囲を知ることができる。そしてこの有舌尖頭器は、次の縄文早期になると完全に石鏃にとって代わられる。

  隆帯文土器は、粘土ヒモを土器の表面に付けた後、指やヘラなどで押し付けて模様を付けたもので、広義には隆線文系土器群に属している。
  隆帯文土器期は、晩氷期前半の温暖期に相当し、隆帯文土器は、列島中に分布が認められる。若干の地域差が生じているが、まだ明確な型式差をもたず、広域にわたる活発な相互交流があったと考えられている(佐藤宏之)。

 

  前一三〇〇〇年頃、日本海側でも、比較的積雪量が少なく、乾燥した環境であったと推測されている。杉山真二によると、「ミヤコザサ線の周辺におけるこれまでの調査によると、浅間板鼻黄色軽石(As‐YP、約1万5000年前)より下位層準では、現在は多雪地帯となっている日本海側でもミヤコザサ節型が優勢であり、積雪量が比較的少ない乾燥した環境が推定される。この時期には、ミヤコザサ線は日本海側に大きく移動していたと考えられる」(杉山真二「植物珪酸体と古生態」『大地と森の中で』)という。


 前一三〇〇〇~前八〇〇〇年頃にかけては、広域的には、積雪量が増加したらしい。杉山真二は、「約1万5000年前から約1万年前にかけては、太平洋側を含む多くの地点でチマキザサ節型が占める割合が増加しており、広域的に積雪量が増加したことを示している」という(同上)。

  完新世は、沖積世とほぼ同義で、最終氷期が終わる約1万年前SiO2(1万1784年前)から現在(近未来を含む)までを指し、その境界は大陸ヨーロッパにおける氷床の消滅をもって定義された。現在はグリーンランド中央部から採取された氷床コアの硏究に基づきGSSP(国際標準模式層断面及び地点=各地質時代を区切る境界)によってその下限が定義され0.01178Ma(1万1784年)以降の時代を指すとされている。
  ※Maは、Mega annumの略で、主に地質学で使われる「百万年前」を単位とする年代。

 

 前一一〇〇〇年頃、遠州沖を黒潮前線が通過した。
 九州では、これ以前でも、コナラ亜属やクマシデ属、ブナ属が見られ、針葉樹と落葉広葉樹林が混在した針広混交林の様相が認められた(辻誠一郎「縄文時代の植生史」『大地と森の中で』同成社)。
 この頃、イスラエルのレバント南部地域では、野生オオムギ、野生二粒系コムギ、野生一粒系コムギが、気候の温暖化のもとに、生長していた(平成17年3月15日 宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史01 講談社)。
  西アジアにおける麦作の始まりは、じつに曖昧でゆっくりしたものだったらしい。
  同じ頃(一説に前10000年頃)、中国南部で、野生イネか栽培イネか判然としないが、イネが存在していたらしい。
  湖南省道県玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は、洞窟遺跡で、多層位に区分可能な遺跡である。ここで、中国でも最古に位置づけられる丸底の深鉢形土器が発見され、14C年代測定で1万3000年前の年代が与えられている。その同じ層から炭化米が採取された。ただし、イネと同じ地層から出土した有機物によると1万2000年前のものとされる。また出土した種子について、「栽培イネ」と発表されているが、どんな根拠からそれが栽培イネと断じられたのかは不明である。専門家によると形態的には野生イネと栽培イネの過渡期的な性格が見いだされるともいう。
  稲作は、アジアでは長江の流域で始まったと考えられている。ただし、その正確な時期や場所は、まだ特定されていない。
 ごく最初の頃の稲作は、稲作なのか野生のイネの採集なのか区別さえつかないほど、曖昧なものであったという。

 

  前一一〇〇〇~一〇〇〇〇年頃、九州から四国・中国・近畿・北陸・東海・関東地方にかけての平野部から山間地にかけては、植生を構成する主要素と変化様式には、優占する要素や量的な違いがあるものの、高い類似性があり、まず、モミ属、ツガ属、マツ属、トウヒ属といった針葉樹を共通に含む植生に、主にコナラ亜属が増加を開始した(辻誠一郎「縄文時代の植生史」『大地と森の中で』同成社)。

 前一〇八〇〇年以前、古本州島南部では、照葉樹林の分布拡大が始まっていたらしい。杉山真二「植物珪酸体と古生態」には、「九州南部の108地点における植物珪酸体分析の結果、種子島や屋久島では最終氷期を通して照葉樹林が存在していたことが確かめられた(杉山1999)。鹿児島県南部では桜島薩摩テフラ(Sz‐S、約1万2800年前)の下層からクスノキ科が出現しており、この頃には照葉樹林の分布拡大が開始されていたと考えられる(図5)」とある。

 前一〇八〇〇年頃、桜島が噴出した(桜島薩摩テフラ)。噴火当時、寒冷で比較的乾燥した気候であったと推定されている。
 前一〇〇〇〇年頃、日本海が形成され、ここで蒸発した水分が雲となって、日本海側の山々にぶつかり、大雪を降らせるようになった。こうした多雪化は、すべての生命の根源となる豊かな水を供給し、多様な植物や動物を育んでいった(平成25年6月 宮下健司「中部高地」『縄文時代〈上〉』青木書店)。
 前九七〇〇年、列島は、温暖・湿潤で安定した完新世を迎え、ほぼ現在の自然環境へと移行した。
 前九七〇〇年、地球の温暖化が始まった(完新世の始まり)。

  前九五〇〇年、縄文時代早期の始まり。

    縄文時代早期前葉の無文円底土器が、国東半島のほぼ中央部に位置する成仏岩陰遺跡の第Ⅴ層から発掘されている。
 岩陰遺跡は、張り出した岩盤を屋根代わりに利用した先史人類の生活の痕跡としての遺跡である。
 旧石器時代や新石器時代の人類にとって、岩陰や洞窟の入口は、天井の岩盤が屋根代わりとなって風雨を避けることができるとともに、外光が射し込むため、きわめて居住に適した場所であった。
 昭和11年、長崎県北松浦郡吉井町の稲荷神社の改修工事に際し、洞窟床面が約1㍍掘削された折、土器・石器・人骨等が発見され、その後、町の郷土史家松瀬順一が学会に報告し、福井洞窟遺跡の存在を明らかにした。
 昭和30年、山形県高畠町日向洞窟(ひなたどうくつ)の調査が行われた。
  昭和33年、新潟県上川村小瀬(こせ)が沢洞窟の調査が行われた。
  昭和34年、群馬県笠懸町西鹿田(さいしかだ)遺跡の調査が行われた。
 昭和35年夏、西北九州総合調査特別委員会(芹沢長介ら)によって、長崎県北松浦郡吉井町(現・佐世保市)の福井洞窟遺跡が調査された。
 昭和36年、近在の中学生によって、愛媛県上浮穴郡美川村(現・久万高原町)上黒岩ヤナセで、上黒岩岩陰遺跡(縄文時代早期)が発見された。
  昭和44年、大野中学校の生徒が、泉福寺洞窟遺跡を発見した。
 昭和45年から10年かけて、千葉大学名誉教授麻生優を団長として、泉福寺遺跡の発掘調査が行われた。
  昭和45年、城崎中学校の麻生敏夫(当時2年)・桜木栄一(当時1年)の両生徒が、成仏正ノ田の岩陰から土器片および歯を採集した。両生徒は、国東町教育委員会に遺跡の発見を届け出るとともに、遺物は中央公民館に保管されることとなった。発見された遺物は、縄文・弥生式土器のほか、獣骨に混じって人骨の一部もあった。また、現地に人骨が一体発見されていた。
 同年8月、別府大学の賀川光夫教授と橘昌信講師によって、試掘が行われた。試掘地点は、地表から地山に達するまですべて攪乱層であった。攪乱層の中から、縄文土器等が発掘された。
 同10月、長崎大学医学部助手坂田邦洋は、国東町に小出正和主事を訪ね、同主事の案内で、成仏岩陰遺跡を踏査した。そのあと、山崎準一郎国東町中央公民館館長とともに、中央公民館において、発掘の日取りりや調査団の編成等の打ち合わせを行った。その日の打ち合わせで、発掘調査期日を同年12月19日から29日までの11日間とし、調査団の構成は国東町教育委員会を主催者として、別府大学文学部および長崎大学医学部がこれに協力することになった。
  同12月19日~29日まで、成仏岩陰遺跡の発掘調査が、実施された。調査団は、次のような構成であった。
 調査団長 堀池宗彦(国東町教育長)
 調査主任 賀川光夫(別府大学教授・考古学)
 調査員 内藤芳篤(長崎大学医学部教授・人類学)
          橘昌信(別府大学文学部講師・考古学)
          坂田邦洋(長崎大学医学部助手・同)
 調査補助 中村幸四郎(別府大学文学部考古学専攻生3年)
           山野洋一(同)
            上村佳典(同)
            宮崎正文(同2年)
            山手誠治(同)
            牧野吉秀(同)
            池辺元明(同)
            牧尾義則(同1年)
            倉原謙治(同)
            坂本嘉弘(同)
            西田道世(明治大学学生)
            今村光興(長崎大学学生)
            中村修身(北九州市役所主事)
            斉藤武男(長崎桜馬場中教諭)
            山崎準一郎(国東町役場中央公民館長・社会教育課長)
            松本繁(国東町役場社会教育課主事)
            照山俊(国東町役場中央公民館主事)
            小出正和(国東町役場中央公民館主事)
            安松カシミ(同主事)
            松木管人(国東町文化財調査委員委員長)
            吉武直彦(同副委員長)
            吉武工(国東町文化財調査委員)
            後藤徳美(同)
            上野鉄雄(同)
            後藤宗玄(同)
            村上賢明(同)
            有永一雄(同)
            佐藤琢磨(同)
            久野信行(同)
            若杉昌昭(同)
            友成元孝(同)
  なお、地主は岡部利博で、宿舎は、安部俊亨成仏寺住職以下、安部キミ子・安部るり子、清原マツノ・小原フミ子・福田正子が担当した。遺物整理参加者は、橘昌信・牧野吉秀・牧尾義則・坂本嘉弘・宮崎正文で、報告書用図版作製は、本田圭吾長崎大学医学部解剖学第二教室文部技官が担当した。
 成仏岩陰遺跡は、田深川によってできた凝灰岩の浸食崖を利用した縄文時代の遺跡で、標高約140㍍、田深川川床との比高は23㍍、岩陰の大きさは高さ7㍍・幅20㍍、奥行4㍍で、北側に10㍍ほどのテラスがつく。この調査で、縄文時代早期~前期を主体とする遺跡であることが判った。なお、発見されていた人骨は、再埋葬された近世の人骨であることが判明した。
 最下層の第五層は、無文円底土器のみを包含し、石英とチャートの石器が出土した。
 第四層は、三層と五層の土器が混在している。
 第三層は、いわゆる早水台式と呼ばれる早期の土器を包含し、押型文土器とともに無文尖底土器が出土した。

(無文円底土器;坂田邦洋「成仏岩陰遺跡」より転載)


  昭和46年3月31日、成仏岩陰遺跡は、国東町の史跡に指定された。
 昭和47年3月、成仏岩陰遺跡の調査報告書が発行された。
  昭和48年、今から1万2千年以上前に位置づけられる豆粒文土器が、泉福寺洞窟遺跡で発見された。

 この頃(BP12000年~11000年)、中国大陸吊桶環遺跡G層では、プラントオパール分析によって、野生イネが存在ていた。
 前九〇〇〇年頃、ヤンガードリアス(寒の戻り)。
  前八六〇〇以前、南九州では、ヒエ属、エノコログサ属、キビ属、モロコシ属、ジュズダマ属が生育していた。
 鹿児島県霧島市の上野原遺跡では、桜島13テフラ(約1万600年前)の下層から、ヒエ属型、エノコログサ属型、キビ族型、モロコシ属型、ジュズダマ属型の植物珪酸体が揃って検出された。

 前八五〇〇年頃、中国大陸吊桶環遺跡F層では、イネのプラントオパールが発見されていない(BP11000年~10000年)。

  前八三〇〇年頃、ハイガイが、種子島の貝塚遺跡で確認された。

  前八〇〇〇年以前、列島の一部では、イネなどが栽培されていたらしい。島根県飯南町の板屋Ⅲ遺跡や、鹿児島県曽於市の耳取遺跡で、1万年前をさかのぼる地層から、イネなどの栽培種の植物珪酸体が検出されたという。
 植物珪酸体(Phytolith、ファイトリス)は、植物の細胞内に珪酸(SiO2)が蓄積したもので、植物が枯れた後も、ガラス質の微化石となり、土壌中に半永久的に残っている。この植物起源の微化石は、プラント・オパール(Plant opal)ともよばれ、考古学分野では、この名称が使われることが多い。
 植物珪酸体は、イネ科植物(イネ、ヨシ、ススキ、竹笹類など)をはじめ、カヤツリグサ科、シダ類、トクサ類などの草本類、およびブナ科(シイ属、カシ類など)、クスノキ科、モクレン科、マツ科、ヤシ科などの木本類でも形成される。植物の種類によって、植物珪酸体の形や大きさ、密度が異なることから、土のなかから取り出して調べることで、当時そこに生育していた植物の種類や量を知ることができる。
 花粉、種実、葉、木材などの植物遺体(化石)を対象とする分析は、その保存性の関係から、泥炭層などの水性堆積物を検討対象とする場合が多いが、植物珪酸体分析は、ローム層や黒ボク土などの風成堆積物も対象となり、焼土や灰化物、土器(胎土)でも分析が可能である。また、花粉(風媒花)と比較して、現地性が高いことから、調査地付近の比較的限られた範囲の植生を把握するのに適している。
 有用な植物を多く含むイネ科植物(タケ亜科を含む)は、花粉では細分がむずかしいが、植物珪酸体では、属あるいは節レベルで同定が可能である。

 前八○○○年頃、列島の年平均気温は、現在よりも摂氏三度前後低かった。海水面は、現在よりも四十メートル前後低い水準にまでしか達しておらず、瀬戸内海などは、まだ陸化したままだった。日本海は成立していたが、対馬暖流が流入してこなかったことから、冬の日本海側の降雪量は少なく、このことは同時に太平洋側が著しく乾燥化していたことになる(平成25年月5日 勅使河原彰「縄文文化の高揚(前・中期)」『縄文時代 上』講座日本の考古学 青木書店)という。
  タケ亜科(竹笹類)は、日本列島のほぼ全域に分布しており、その分布状況などから、メダケ属は温暖、ササ属は寒冷の指標とされている。そこで、植物珪酸体分析の結果から、メダケ率(両者の推定生産量の比率)を産出し、過去の気候を推定する試みが行われている。メダケ率が100%に近ければメダケ属が主体の温暖な気候、0%に近ければササ属が主体の寒冷な気候であることを示している。関東地方および九州南部の分析結果では、メダケ率は、約2万年前頃が最も低く、およそ1万年前を境に急激に上昇している(平成21年5月 杉山真二「植物珪酸体と古生態」『大地と森の中で』同成社)。
  植生は、北海道を除いて、日本列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになったとはいえ、本州の山地帯を中心に、亜寒帯針葉樹林が広く残り、照葉樹林も、海岸線沿いに分布域を広げてきてはいたが、それ以上に拡大する気配をみせてはいなかった(同上勅使河原彰)。西日本から関東地方にかけては、針葉樹がほとんど見られなくなるほど植生の急激な衰退があり、針葉樹に代わって、コナラ亜属を主に、クマシデ属、ブナ属(イヌブナを相当含んでいた)、クリ属などの落葉広葉樹が優占する植生に急変した(辻誠一郎「縄文時代の植生史」『大地と森の中で』同成社)。
  この頃、古本州島の一部では、ヒョウタンが利用されていた。縄文時代早期の約1万年前の福井県鳥浜貝塚遺物包含層から、ヒョウタンの果皮が出土している。西洋梨型の頂部が鋭い刃物で切断されたいわゆる「ヒョウタンカプセル」で、果皮の両側から穴が開けられており、紐を通して容器として利用されたと考えられる。
 ヒョウタンは、アフリカを起源とし、日本に自生する植物ではなく、人間とかかわりのはっきりしている植物としては日本でもっとも古い外来植物と考えられている。
  この頃、房総半島沖に黒潮前線が達した。
 この頃、中国大陸で、最古の土器が発見されている。また、一説では、野生イネから栽培イネが生まれたことが判明したという(宮本一夫『神話から歴史へ』)。

  前八〇〇〇年以降、日本海側では、積雪量が多かったらしい。杉山真二は、「約1万年前より以降では、太平洋側ではネザサ節型が急激に増加し、日本海側ではチマキザサ節型が継続して卓越している」(杉山真二「植物珪酸体と古生態」)という。


前七〇〇〇年頃 列島における海面上昇

  前七〇〇〇年頃、古本州島の人々は、急激な海面上昇に目を見張るようになっていた。

 

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安万侶序『古事記』上巻(岩波・日本思想大系)
次(つぎ)に、海神(うみノかミ)、名(な)は大綿津見神(おほわたつみノかミ)を生(う)みましき。次(つぎ)に、水戸神(みなとノかミ)、名(な)は速秋津日子神(はやあきつひこノかミ)、次(つぎ)に、妹速秋津比売神(いもはやあきつひめノかミ)を生(う)みましき。〈大事忍男神(おほコトおしをノかミ)自(よ)り秋津比売神(あきつひめノかミ)至(ま)で幷(あは)せて十(ト)はしらノ神(かミ)。〉此(コ)ノ速秋津日子(はやあきつひこ)・速秋津(はやあきつ)比売(ひめ)ノ二(ふた)はしらノ神(かミ)、河海(かはうみ)に因(ヨ)りて持(モ)ち別(わ)き而(て)、生(う)みませる神(かミ)ノ名(な)は、沫那藝神(あわなぎノかミ)。〈那藝ノ二字は音(こゑ)を以(モち)ゐる。下(しも)は此(コれ)に效(なら)ふ。〉次(つぎ)に、沫那美神(あわなみノかミ)。〈那美ノ二字は音(コゑ)を以(モち)ゐる。下(しも)は此(コれ)に效(なら)ふ。〉次(つぎ)に、頬(つら)那美神(なみノかミ)。

 

  大綿津見神は、海を掌る神。ワタは海、ツは「の」の助詞、ミは神霊。


 古本州島は、前7000年頃から急激な海面上昇に転じた。最寒冷期とされる約3万年前では、黒潮は太平洋岸から遠く離れて流れ、日本海は日本湖のような、おおむね閉鎖された水域であったが、海面上昇によって、黒潮は太平洋岸に近接して流れるようになり、朝鮮半島と日本列島の間が大きく開いて、黒潮の分流である対馬暖流が南から流入しはじめた。しかし、海水準はまだ、現在よりも40mほど低かったという。
 前7000~前5500年頃、地球規模で温暖化がいっそう進み、それによって海面が30mほど上昇した。百年当たり平均2mの速さで海面が上昇したことになる。
 古本州島の人々は、年ごとに上昇する海や、かつて生活の場であった平野部に海水が浸入し、入江や干潟に変わっていくことに目を見張り、海や岸辺を積極的に利用するようになった。地球は、前9700年頃から、氷河時代(最寒冷期は2万4000~1万8000年前)が終わり、温暖化が進んできた(完新世の始まり)。日本の考古学では、前9500年頃から縄文時代早期とされている。
 前11000年頃、遠州沖を黒潮前線が通過した。
 九州では、これ以前でも、コナラ亜属やクマシデ属、ブナ属が見られ、針葉樹と落葉広葉樹林が混在した針広混交林の様相が認められた(平成21年5月 辻誠一郎「縄文時代の植生史」『大地と森の中で』』(縄文時代の考古学3)同成社)。
 この頃、イスラエルのレバント南部地域では、野生オオムギ、野生二粒系コムギ、野生一粒系コムギが、気候の温暖化のもとに、生長していた(平成17年3月15日 宮本一夫『神話から歴史へ』中国の歴史01 講談社)。西アジアにおける麦作の始まりは、じつに曖昧でゆっくりしたものだったらしい。
  同じ頃(一説に前10000年頃)、中国南部で、野生イネか栽培イネか判然としないが、イネが存在していたらしい。
  湖南省道県玉蟾岩(ぎょくせんがん)遺跡は、洞窟遺跡で、多層位に区分可能な遺跡である。ここで、中国でも最古に位置づけられる丸底の深鉢形土器が発見され、14C年代測定で1万3000年前の年代が与えられている。その同じ層から炭化米が採取された。ただし、イネと同じ地層から出土した有機物によると1万2000年前のものとされる。また出土した種子について、「栽培イネ」と発表されているが、どんな根拠からそれが栽培イネと断じられたのかは不明である。専門家によると形態的には野生イネと栽培イネの過渡期的な性格が見いだされるともいう。
  稲作は、アジアでは長江の流域で始まったと考えられている。ただし、その正確な時期や場所は、まだ特定されていない。
 ごく最初の頃の稲作は、稲作なのか野生のイネの採集なのか区別さえつかないほど、曖昧なものであったという。
 前8500年頃、中国大陸吊桶環(ちょうとうかん)遺跡F層では、イネのプラントオパールが発見されていない(BP11000年~10000年)。

  前8300年頃、ハイガイが、種子島の貝塚遺跡で確認された。

  前8000年以前、列島の一部では、イネなどが栽培されていたらしい。島根県飯南町の板屋Ⅲ遺跡や、鹿児島県曽於市の耳取遺跡で、1万年前をさかのぼる地層から、イネなどの栽培種の植物珪酸体が検出されたという。
 植物珪酸体(Phytolith、ファイトリス)は、植物の細胞内に珪酸(SiO2)が蓄積したもので、植物が枯れた後も、ガラス質の微化石となり、土壌中に半永久的に残っている。この植物起源の微化石は、プラント・オパール(Plant opal)ともよばれ、考古学分野では、この名称が使われることが多い。
 植物珪酸体は、イネ科植物(イネ、ヨシ、ススキ、竹笹類など)をはじめ、カヤツリグサ科、シダ類、トクサ類などの草本類、およびブナ科(シイ属、カシ類など)、クスノキ科、モクレン科、マツ科、ヤシ科などの木本類でも形成される。植物の種類によって、植物珪酸体の形や大きさ、密度が異なることから、土のなかから取り出して調べることで、当時そこに生育していた植物の種類や量を知ることができる。
 花粉、種実、葉、木材などの植物遺体(化石)を対象とする分析は、その保存性の関係から、泥炭層などの水性堆積物を検討対象とする場合が多いが、植物珪酸体分析は、ローム層や黒ボク土などの風成堆積物も対象となり、焼土や灰化物、土器(胎土)でも分析が可能である。また、花粉(風媒花)と比較して、現地性が高いことから、調査地付近の比較的限られた範囲の植生を把握するのに適している。
 有用な植物を多く含むイネ科植物(タケ亜科を含む)は、花粉では細分がむずかしいが、植物珪酸体では、属あるいは節レベルで同定が可能である」(平成21年5月 杉山真二「植物珪酸体と古生態」『大地と森の中で』)。

 前8000年頃、列島の年平均気温は、現在よりも摂氏三度前後低かった。海水面は、現在よりも四十メートル前後低い水準にまでしか達しておらず、瀬戸内海などは、まだ陸化したままだった。日本海は成立していたが、対馬暖流が流入してこなかったことから、冬の日本海側の降雪量は少なく、このことは同時に太平洋側が著しく乾燥化していたことになる(平成25年月5日 勅使河原彰「縄文文化の高揚(前・中期)」『縄文時代 上』講座日本の考古学 青木書店)という。
  植生は、北海道を除いて、日本列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われるようになったとはいえ、本州の山地帯を中心に、亜寒帯針葉樹林が広く残り、照葉樹林も、海岸線沿いに分布域を広げてきてはいたが、それ以上に拡大する気配をみせてはいなかった(同上勅使河原彰)。
  この頃、房総半島沖に黒潮前線が達した。
  この頃、古本州島の一部では、ヒョウタンが利用されていた。縄文時代早期の約1万年前の福井県鳥浜貝塚遺物包含層から、ヒョウタンの果皮が出土している。西洋梨型の頂部が鋭い刃物で切断されたいわゆる「ヒョウタンカプセル」で、果皮の両側から穴が開けられており、紐を通して容器として利用されたと考えられる。
 ヒョウタンは、アフリカを起源とし、日本に自生する植物ではなく、人間とかかわりのはっきりしている植物としては日本でもっとも古い外来植物と考えられている。

 この頃、中国大陸で、最古の土器が発見されている。また、一説では、野生イネから栽培イネが生まれたことが判明したという(宮本一夫『神話から歴史へ』)。

  前8000年以降、日本海側では、積雪量が多かったらしい。杉山真二は、「約1万年前より以降では、太平洋側ではネザサ節型が急激に増加し、日本海側ではチマキザサ節型が継続して卓越している」(杉山真二「植物珪酸体と古生態」)という。

  前7500年頃、当時の海面はマイナス40メートル付近にあった。
 この頃、神奈川県の夏島は島ではなく、南西の追浜方面から東京湾方向へ延びる尾根先端に位置していた。この頃、夏島貝塚(東京湾で最も古い貝塚)が形成された。

 この頃(BP10000年~9000年)、中国大陸吊桶環遺跡E層では、土器が出現する段階であるとともに、野生イネだけではなく、栽培イネが出現する(プラントオパール分析から判明)。

  前7000年以上前、中国大陸長江流域では、イネが栽培されていた。湖南省澧県(れいけん)彭頭山(ほうとうざん)遺跡を代表とする彭頭山文化の土器の胎内土から炭化イネが発見された。その14C年代が樹木年輪較正値では、紀元前6990年(未較正値BP7795±90)というデータが出た。
 縄文時代になると、列島の人々は、木材を本格的に使用するようになるが、草創期から早期にかけては、まだ、比較的簡単な加工によって作られる杭や板、加工材といった建築・土木材しか作成されていなかった(平成21年5月 能城修一「木材・種実遺体と古生態」『大地と森の中で』)。
 縄文時代には、列島の人々は、クリの木材だけでなく、果実も利用していたが、縄文早期の段階では、果実の大きさは、野生のシバグリとあまり変わらないものであった。

 

【参考A】平成27年3月 高橋信武ほか『新しい大分の考古学』大分県教育庁枚増文化財センター
姫島産黒曜石製石器の使用は後期旧石器時代に遡るが、その量は少なく分布も限られる。縄文時代早期後半の押型文土器段階になり、その利用は急激に拡大・増加し、大分県下全域と福岡県、熊本県、宮崎県、鹿児島県、山口県、広島県、島根県、愛媛県、高知県の約一〇〇遺跡から出土が報告されており、ここに大きな画期がある。
 さらに、重量一㌕を超える大型の石核・原石や各種の製品を出土する遺跡が早期後半に出現する。原遺跡七郎丸1地区(国東市)一、一三㌕、横尾遺跡(大分市)一、三㌕、一二、二㌕、編籠(あみかご)入黒曜石数㌕、野村台遺跡(臼杵市)三.七㌕がその代表であり、国東半島沿岸部から別府湾や臼杵湾へ至る海上交易の存在が認められ、その中で大型の原石や石核を出土する遺跡は海上交易の拠点としての役割が考えられる。

 

  姫島は、女嶋・姫嶋とも書き、国東半島の北部沖合約4㎞(伊美港からは約6㎞)に位置する、周囲約17㎞、東西約7㎞、南北最大幅2㎞の東西に長い小島である。島の中央部に標高266.6mの矢筈(やはず)岳があり、西に達磨(だるま)山(標高105m)、北に城(しろ)山があり、柱(はしら)ヶ岳と両瀬(もろせ)を合わせた五つの火山を結ぶ砂洲により成立した陸繋島で、川らしい川はない。
  島内には、負崎(おいざき)・立磨(ひなま)・南・堂ノ下・風越・北・松原・用作(ようじゃく)・道仏・迫・明石前・越地(こえじ)・唐戸・下小屋・西大海(にしおおみ)・瀬丸・東大海・深谷・川尻・板屋・呉岩(くれいわ)・タルミ・金・両瀬(もろせ)・稲積の地名がある。
 約34万年前の噴出によって、姫島の黒曜石が形成された。姫島の北西部にある観音崎(かんのんざき)に幅約120m、高さ40mに及ぶ日本最大の黒曜石露頭が存在する。通常、黒曜石は、その名が示すとおり、黒く光る石であるが、姫島で出土する黒曜石は、灰~乳白色を呈している。通常の黒曜石産地においても、乳白色あるいは白味のある黒曜石が少量出土することがあるが、姫島産の黒曜石は、すべて乳白色を呈し、黒い黒曜石は全く産しない。また、微細な斑点を無数に含むものが多く、肉眼的にも判別しやすい特徴を有している。
  姫島では、観音崎・負崎・稲積・両瀬の四ヶ所が、黒曜石の産地として知られている。
 後期旧石器時代、姫島産黒曜石製石器が使用されていた。姫島に隣接する大分県中部や山口県宇部台地の旧石器時代遺跡では姫島産黒曜石と考えられる石器が少量出土している。しかし、その量は少なく、分布も限られている。旧石器時代の姫島は、瀬戸内海が陸化していて、現在の姫島産黒曜石の産地は山の頂上で、山裾など低地部ではガラス質安山岩が広く分布し、それに混じって少量の黒曜石が存在していたらしい。

 前7000年頃から、列島は、急激な海面上昇に転じた。
  最寒冷期とされる約3万年前では、黒潮は太平洋岸から遠く離れて流れ、日本海は日本湖のような、おおむね閉鎖された水域であったが、海面上昇によって、黒潮は太平洋岸に近接して流れるようになり、朝鮮半島と日本列島の間が大きく開いて、黒潮の分流である対馬暖流が南から流入しはじめたが、海水準はまだ、現在よりも40mほど低かったという。

 前7000年頃、西日本から関東地方にかけて、コナラ亜属を主とする落葉広葉樹の減少とエノキ属、ニレ属‐ケヤキ属の増加があり、両者が漸次的に入れ替わった。
 縄文時代になると、列島の人々は、木材を本格的に使用するようになるが、草創期から早期にかけては、まだ、比較的簡単な加工によって作られる杭や板、加工材といった建築・土木材しか作成されていなかった(平成21年5月 能城修一「木材・種実遺体と古生態」『大地と森の中で』)。
 縄文時代には、列島の人々は、クリの木材だけでなく、果実も利用していたが、縄文早期の段階では、果実の大きさは、野生のシバグリとあまり変わらないものであった。
  前7000年頃、北海道では、漆製品が製作されていた。北海道南茅部町の垣ノ島B遺跡で、約9000年前の世界最古の漆製品が出土した。ウルシは、ウルシ科ウルシ属に属する落葉樹で、中国原産の植物である。日本には、ウルシのほかに、ヤマウルシ、ツタウルシ、ヌルデ、ハゼノキ、ヤマハゼの五種が産し、ウルシとハゼノキは外来種とされている。
 しかし、現在のところ、近畿地方以西の遺跡では、縄文時代のウルシの存在は確認されていない(能城修一「木材・種実遺体と古生態」)。

 前7000~前5500年頃、地球規模で温暖化がいっそう進み、それによって海面が約30メートル上昇した。100年当たり平均2㍍の速さで海面が上昇した。

 縄文時代早期の遺跡は、別府市内でも、十文字原遺跡、野田遺跡、北鉄輪遺跡などが知られており、縄文早期の押型文土器をはじめ、各種の土器が出土し、また、配石土壙墓なども検出されている。
 十文字原遺跡は、昭和55年度まで、九州横断自動車道(湯布院―大分間)の建設に伴う予定路線の埋蔵文化財分布調査を実施し、昭和56年度は、日出工事用道路予定地区(十文字原地区)の試掘調査を行い、この試掘調査をもとに、昭和57年度に本調査を行った。
 昭和57年8月から12月まで、十文字原第1遺跡を主として行い、併行して新たに発見された松ノ木台地区の試掘調査も実施した。調査の結果、十文字原第1遺跡では、縄文時代早期の大規模な集石遺構が検出された。この集石遺稿は、保存状態もよく、下部に土壙墓を有するところから、移築復元して保存することになり、昭和58年2月から3月にかけて、集石の移動を行った(昭和58年3月 牧尾義則・江田豊『十文字原遺跡群』)。なお、別府市内に所在する縄文時代早期の遺跡に関する主な参考文献は次の様なものである。
・昭和58年3月 牧尾義則・江田豊『十文字原遺跡群』大分県教育委員会・日本道路公団
・平成2年3月『若杉遺跡 十文字原遺跡 ふいが城遺跡』大分県教育委員会
・平成19年3月31日発行 宮内克己「別府市北鉄輪遺跡・野田遺跡の縄文土器(角田コレクション資料紹介1)」『大分県立歴史博物館研究紀要8』

  縄文時代早期の西日本の押型文土器は、長い時期にわたり、広い範囲に分布している。これは、まだ人口は少なく土器文様の展開は遅く、人の移動は頻繁で、まだ安定した定住生活ではなく、この段階では、まだ広い地域が強い力で統合されていたとは考えられない。

  前六九九〇年、中国大陸長江中流域(湖南省澧県(れいけん)彭頭山(ほうとうざん)遺跡)では、イネが栽培されていた(未較正値BP7795±90)。

 前六四〇〇年以前、古本州島南部沿岸部では、シイ属を主体とした照葉樹林が成立したらしい。杉山真二「植物珪酸体と古生態」には、「桜島・・・テフラ(約8400年前)の下層では、錦江湾沿岸部や宮崎県南部沿岸部などでシイ属を主体とした照葉樹林が成立したと考えられる。花粉分析によると約8400年前には宮崎県南部沿岸部でシイ林が成立していたと推定されており(松下1992)、植物珪酸体分析の結果とよく一致している」とある。


前五五〇〇年頃 瀬戸内海の成立

 前五五〇〇年頃、瀬戸内海が成立した。

【史料1】養老4年5月 舎人親王ら『日本書紀』卷第一神代上第四段(一書第六)
一書に曰はく、二(ふたはしら)の神、合爲夫婦(みとのまぐはひ)して、先づ淡路洲(あはぢのしま)・淡洲(あはのしま)を以て胞(え)として、大日本豐秋津洲(おほやまととよあきづしま)を生(う)む。次(つぎ)に伊豫洲(いよのしま)。次に筑紫洲(つくしのしま)。次に億岐洲(おきのしま)と佐度洲(さどのしま)とを雙生(ふたごにう)む。次に越洲(こしのしま)。次に大洲(おほしま)。次に子洲(こしま)。

 

 当時、海面は現在の海水面よりマイナス15メートル付近にあり、紀伊水道と豊後水道とに向かう東西旧瀬戸内河川の分水界が水没し、瀬戸内海が成立した。瀬戸内海では、海が、東から紀淡海峡や鳴門海峡を、西からは豊後水道を越えて進入した。東からの海と西からの海が出会うのが、ちょうど現在の瀬戸大橋の付近であった。当時、海面は現在の海水面よりマイナス15メートル付近にあり、紀伊水道と豊後水道とに向かう東西旧瀬戸内河川の分水界が水没し、瀬戸内海が成立した。岡山県瀬戸内市内の黄島で発掘調査された黄島貝塚は、縄文時代早期押型文土器と無文土器とを共伴する黄島貝塚で、下層ではヤマトシジミが95%を占めるのに対して、上層ではハイガイが90%に達する。ヤマトシジミは鹹(かん)水域には生息できない。他方、ハイガイは鹹水域に生息する種である。

 

【参考A】平成廿一年五月 高橋学「平野の形成史と遺跡群」『大地と森の中で』
 瀬戸内海では東から紀淡海峡や鳴門海峡を、西からは豊後水道を越えて海が進入した。東からの海と西からの海が出会うのが、ちょうど現在の瀬戸大橋の付近であった。その近く、岡山県瀬戸内市の黄島で発掘調査された黄島貝塚がある。縄文時代早期押型文土器と無文土器とを共伴する黄島貝塚では、下層ではヤマトシジミが95%を占めるのに対して、上層ではハイガイが90%に達する。ヤマトシジミはかん水域には生息できない。他方、ハイガイはかん水域に生息する種である。このことから、黄島貝塚の位置する岡山県瀬戸内市付近が淡水もしくは汽水の状態から海へと変化したことがわかる。その年代は、8393±350y.B.P.であった。瀬戸大橋のある岡山県下津井から香川県坂出付近の海底は、現在、-15mほどの水深しかなく、海水準がこれより低かった時代には紀伊水道と豊後水道とにそれぞれ向かう河川の分水界となっていた。ここが水没し、現在の瀬戸内海が成立したのはおよそ7500y.B.P.のことであった。したがって、現在の瀬戸内海の海底には瀬戸内海成立以前の遺跡が存在している可能性がある。

 

 ここに、大日本豐秋津洲(本州)と伊豫洲(四国)が分離し、現在にいたる本州・九州・四国からなる日本列島の原型が誕生した。

 

 史料1は、日本書紀のいわゆる国産み神話の一書第六であるが、ここに見える「二(ふたはしら)の神」とあるのは、もちろん、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の二神である。胞(え)は、兄(え)と同義。上代においては、ア行のエeとヤ行のエyeとの区別が明確であった。胞(え)は、ヤ行のエyeの音で、兄(え)もヤ行のエyeの音で全く同音であり、胞と兄の起源は、同一と考えられる。南セレベスやバリ島やスマトラなどで、胞は兄または姉と信じられ、生児を守護すると思われており(坂本太郎ほか校注『日本書紀』上神代上第四段(本文)補注参照)。古い日本にも、兄姉が生児を守護するという観念があったのであろう。史料1には、「先づ淡路洲・淡洲を以て胞として」とある。記紀は、いずれも、淡路島を日本で最初に生まれた島として記述している。今まで川であった瀬戸内に海水が入り込み、瀬戸内海が成立した折、まず、人々の目を引いたのは、瀬戸内海を塞ぐかのように横たわる大きな島(淡路島)だったのだろう。「淡」は、色や味が薄いこと、心浅く素っ気ないこと、などの意があるが、「アハム(軽蔑する)」など、良くない意味で用いられることが多い(岩波・日本思想大系『古事記』上巻22頁頭注)。「淡路島」の語源は、「阿波への道」と思われがちだが、信濃路や木曽路などの「~路」という用法を「~への道」として使う用法は、とうぜん漢字が使われるようになった後のことである(ウィキペディア)。この一書第六では、「淡路洲・淡洲」と淡路洲と淡洲が連記してある。本来は淡洲であったものが、後世になって実在する淡路洲が神話に採用されるようになり、古来から伝えられていた「あはのしま」と、漢字伝来後に成立した「淡路島」とを結びつけたのであろう。

 

【参考B】和銅五年正月廿八日序 太安万侶『古事記』上巻(日本思想大系)
其(ソ)ノ嶋(しま)於(に)天降(あも)り坐(ま)し而(て)、天之御柱(あメノみはしら)を見立(みた)て、八尋殿(やひロドノ)を見立(みた)てましき。於是(ココに)、其(ソ)ノ妹(いも)伊耶那美命(いざなみノみコト)を問(と)ひて曰(ノ)らさく、「汝(な)が身者如何(ミはいか)に成(な)れる。」トノらせば、答(コた)へて白(まを)さく、「吾(あ)が身者成(ミはな)り〃(な)り而成(てな)り餘(あま)れる処(トコロ)一処(ひトトコロ)在(あ)り。」トまをす。尓(しか)して、伊耶那岐命(いざなきノみコト)詔(ノ)らさく、「我(あ)が身者成(ミはな)り〃(な)り而(て)成(な)り餘(あま)れる処(トコロ)一処(ひトトコロ)在(あ)り。故(かれ)、此(コ)ノ吾(あ)が身(ミ)ノ成(な)り餘(あま)れる処(トコロ)以(モ)ちて、汝(な)が身(ミ)ノ成(な)り合(あ)は不(ぬ)処(トコロ)に刺(さ)し塞(ふさ)ぎ而(て)、国土(くに)を生(う)み成(な)さむト以為(おモ)ふ。生(う)むコト奈何(いか)に。」トノらせば、〈生を訓(ヨ)みて宇牟(うむ)ト云(い)ふ。下(しも)は此(コれ)に效(なら)ふ。〉伊耶那美命(いざなみノみコト)、答(こた)へて曰(まを)さく、「然(しか)善(ヨ)けむ。」トまをす。尓(しか)して、伊耶那岐命(いざなきノみコト)詔(ノ)らさく、「然(しか)あら者(ば)、吾(あれ)ト汝(なれ)与(ト)是(コ)ノ天之御柱(あメノみはしら)を行(ゆ)き廻(メぐ)り逢(あ)ひ而(て)、美斗能麻具波比(みとノまぐはひ)為(せ)む。」〈此(コ)ノ七字は音(コゑ)を以(モち)ゐる。〉如此(かく)期(ちぎ)りて、乃(すなは)ち詔(ノ)らさく、「汝者(なは)右(みぎ)自(よ)り廻(メぐ)り逢(あ)へ。我(われ)者(は)左(ひだり)自(よ)り廻(メぐ)り逢(あ)はむ」トノらす。約(ちぎ)り竟(を)へて廻(メぐ)る時(トき)、伊耶那美命(いざなみノみコト)先(ま)づ「阿那迩夜志(あなにやし)、愛袁登古袁(えをトこを)。」〈此(コ)ノ十字は音(コゑ)を以(モち)ゐる。下(しも)は此(コれ)に效(なら)ふ。〉ト言(い)ふ。後(ノち)に、伊耶那岐命(いざなきノみコト)、「阿那迩夜志(あなにやし)、愛袁登売袁(えをトめを)。」ト言(い)ふ。各(おノモおノモ)言(い)ひ竟(を)へし後(ノち)、其(ソ)ノ妹(いも)に告(ノ)らして曰(いは)く、「女人(をみな)先(ま)づ言(い)へるは不良(さがな)し。」トノらす。然(しか)あれ雖(ドモ)、久美度迩(くみどに)〈此(コ)ノ四字は音(コゑ)を以(モち)ゐる。〉興(おコ)し而(て)生(う)みませる子(こ)は、水蛭子(ひるこ)。此(コ)ノ子者(こは)葦船(あしぶね)に入(い)れ而(て)流(なが)し去(つ)。次(つぎ)に淡嶋(あはしま)を生(う)みましき。是亦子之(コモこノ)例(かず)には入(い)ら不(ず)。

 

 ここでは、最初に生まれた子は、「水蛭子(ひるこ)」で、次に淡嶋が生まれたとなっている。水蛭子は、ヒルのような姿の不具児であろう。沖縄で蛭をビル、不具や発育の悪い子をビールーという。一説に、蛭児は淡路島付近の暗礁とみて、暗礁は潮が干(ひ)る時に現れるので涸子(ひるこ)という説があるが、干るという動詞は奈良時代は上二段活用で連体形はフルであった明証があり、ヒルという活用形は無く、「涸子」説は成立しないとして、否定されている(坂本太郎ほか校注『日本書紀』日本古典文学大系67神代上第四段一書第一頭注)。また、ヒルコは、天照大神の別名ヒルメに対する男性の日神を表すすものという説もある。
  第一子に生み損ないが出来て、それを流し棄てるという説話は各地にある。台湾パイワン族に、昔大水が出たために陸地が溶けて山も全部水になってしまった、ところが小山が一つ残った、人も皆死んでしまったが、二人の兄と妹とが生き返った、そして二人は夫婦になった、すると彼等は盲や跛や瘰癧の者などを生んだ、それで、それを平地へやってしまい、良い子を自分の子にしたという話がある。また、同じくパイワン族の伝説に、昔洪水のために人々が流されてしまい、二人の兄妹が生き残った、二人は成長したが相手がないので夫婦になった、初めに生まれた子は傷がある者や、盲や手足の片輪の者だった、二代目の子はやや良かったが、三代目は良い子が生まれた、という説話もある(坂本太郎ほか校注『日本書紀』神代上第四段一書第一補注33)。
 蛭児・水蛭子は、紀の本文や史料1には見えず、はじめは最初に淡洲が誕生したという単純な日本の神話に、こうしたヒルコ(不具の第1子)伝説が加えられたのであろう。
  淡洲は、本州や四国に比して狭く、洲(国土)としては狭く、まさに最初に生まれた淡洲は、哀れむべき洲であり、生み損ないの大地と思われたのであろう。史料1においては、この淡洲を胞(え)(兄姉)として、次に本格的な大地「大日本豐秋津洲(おほやまととよあきづしま)」が生まれたとなっている。
  「大日本」という表現は、大和朝廷成立後の表現であろうが、「やまと」という地名は、日本列島が成立してまもなく生まれたのではないかと推定される。「やまと」の文献史料上の初見は、魏志倭人伝の「邪馬台」で、これには畿内のヤマトに比定する説と筑後国山門郡の山門(やまと)に比定する説との二説があるが、言語学的には、邪馬台のトは上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)ト乙類töで、山門のトはト甲類toである。
  上代特殊仮名遣というのは、奈良時代およびそれ以前の万葉仮名文献において見られる特有の音韻の区別のことで、後世にはない奈良時代およびそれ以前特有の音韻の区別である。奈良時代には、〈き・ぎ・ひ・び・み・け・げ・へ・べ・め・こ・ご・そ・ぞ・と・ど・の・(古事記ではも)・よ・ろ〉の音には、それぞれ二種類あったと見られ、今は便宜上、慣習的に〈甲類〉〈乙類〉と呼んで区別する。上代においては、ア行のエeとヤ行のエyeとの区別も明確であったが、これは、上代特殊仮名遣には含めない。
  明和4(1767)年以前に、本居宣長は、記紀万葉に、この様な書き分けがあることに気づいた。

【参考C】明和四年跋文 本居宣長『古事記傳』(自筆草稿本=安田尚道「石塚龍麿と橋本進吉」所収)
ヲオイヰエヱノタグヒハタ清濁ナドノヨク分レタルノミナラズ同音ノ假字ノ中ニモ其語ニヨリテ常ニ用ル字分(ワカ)レタリソノ一ッ二ッヲイハヾノ假字ニハ淤意 (オオ)ノ二字ヲ普ク用ル中ニ大(オホ)ニハ意冨(オホ)トノミ書テヲ書ルヿナシ女(メ)姫(ヒメ)處女(ヲトメ)ナドノニハ賣(メ)ヲノミ書テ米(メ)ヲ書ズ〈略〉凡テ此類イカナル故トハ知(シラ)レネドモ古 (ヘ)オノヅカラ音(コエ)ノ別(ワカ)レケルニヤ此記ノミナラズ書紀万葉ニモ間(マヽ)此意(コヽロバヘ)見エタリ猶廣ク考フベキヿ也

 

 しかし、本居宣長は、版本では、次のような記述になっている。

 

【参考D】寛政二(1790)年 本居宣長 版本『古事記傳』一之巻
假字(カナ)用格(ヅカヒ)のこと、大かた天暦のころより以往(アナタ)の書どもは、みな正(タヾ)しくして、伊韋延惠於袁(イヰエエオヲ)の音(コヱ)、又下に連(ツラナ)れる、波比布閇本(ハヒフヘホ)と、阿伊宇延於和韋宇惠袁(アイウエオワヰウヱヲ)とのたぐひ、みだれ誤りたること一ッもなし、其(ソ)はみな恒(ツネ)に口(クチ)にいふ語(コトバ)の音(コヱ)に、差別(ワキタメ)ありけるから、物に書(カク)にも、おのづからその假字(カナ)の差別(ワキタメ)は有 (リ)けるなり〈略〉さて又同音の中にも、其言に随(シタガ)ひて、用 (フ)る假字異(コト)にして、各(オノゝゝ)定まれること多くあり、其例をいはゞ、の假字には、普(アマネ)く許(コ)古 ( コ)ノ二字を用ひたる中に、子(コ)には古 (コ)ノ字をのみ書て、許ノ字を書ることなく、(彦(ヒコ)壯士(ヲトコ)などのも同じ)の假字には普く米(メ)賣 (メ)ノ二字を用ひたる中に、女(メ)には賣 (メ)ノ字をのみ書て米 (メ)ノ字を書ることなく(姫(ヒメ)處女(ヲトメ)などのも同じ)には伎(キ)岐(キ)紀(キ)を普く用ひたる中に、木城(キキ)には紀をのみ書て伎岐をかゝず、には登斗刀(トトト)を普く用ひたる中に、戸(ト)太問(フトトフ)のには斗刀(トト)をのみ書て登をかゝず、には美微(ミミ)を普く用ひたる中に、神(カミ)のミ木草の實(ミ)には微(ミ)をのみ書て美(ミ)を書(カヽ)ず。には毛母(モモ)を普く用ひたる中に、妹百雲(イモモヽクモ)などのには毛(モ)をのみ書て母(モ)をかゝず。には比肥を普く用ひたる中に、火(ヒ)には肥(ヒ)をのみ書て比(ヒ)をかゝず。生(オヒ)のには斐をのみ書て比肥をかゝず、には備毘(ビビ)を用ひたる中に、彦姫(ヒコヒメ)のの濁 (リ)には毘(ビ)をのみ書て備(ビ)を書ず、には氣祁(ケケ)を用ひたる中に、別(ワケ)のには氣(ケ)をのみ書て祁(ケ)を書ず、辭(コトバ)のケリには祁(ケ)をのみ書て氣(ケ)をかゝず、には藝(ギ)を普く用ひたるに、過禱(スギネギ)のには疑(ギ)字をのみ書て藝(ギ)を書ず、には曾(ソ)蘇(ソ)を用ひたる中に、虛空(ソラ)のには蘇(ソ)をのみ書て曾(ソ)をかかず、には余(ヨ)與(ヨ)用(ヨ)を用ひたる中に、自(ヨリ)の意のには用(ヨ)をのみ書て余與(ヨヨ)をかゝず、には奴怒(ヌヌ)を普く用ひたる中に、野(ヌ)角(ツヌ)忍(シヌブ)篠(シヌ)樂(タヌシ)など後 (ノ)世はといふには怒(ヌ)をのみ書て奴(ヌ)をかゝず、右は記中に同 (ジ)言の數處(アマタトコロ)に出たるを驗(コヽロミ)て此 (レ)彼 (レ)擧たるのみなり。此 (ノ)類の定まりなほ餘(ホカ)にも多(オホ)かり。此 (レ)は此 (ノ)記のみならず、書紀萬葉などの假字にも此 (ノ)定まりほのぼの見えたれど、其(ソ)はいまだ徧(アマネ)くもえ驗(コヽロミ)ず。なほこまかに考ふべきことなり。然れども此記の正しく精しきには及ばざるものぞ。抑此 (ノ)事は、人のいまだ得見(エミ)顯(アラハ)さぬことなるを、己(オノレ)始 (メ)て見得(ミエ)たるに、凡て古語を解(ト)く助(タスケ)となること、いと多きぞかし、

 

  田辺正男は、自筆草稿本と版本との違いに注目して、宣長は一旦は音の区別と考え、後にこの考えを撤回したと見た(昭和38年「上代特殊仮名遣と鈴屋翁」『国語研究』第16号)。これにたいし、安田喜代門は、版本『古事記傳』も仮名の書き分けは音の区別によると述べているのだという。

 

【参考E】寛政十(1798)年序 石塚龍麿『仮字遣奥山路』(東京大学文学部国語研究室蔵本)
○上つ代にはその音おなじきも言によりて用ふる假字定まりていと巖然になむありつるを奈良の朝廷の末などより此差別(ケヂメ)のみたれつと見えて古事記日本紀万葉集の外には證とすへきふみなし〈後世の書にても此三/書に合へるをはとりつ〉しか定まれるはいかなるゆゑともしれねども古事解(フルコトトク)にはたすけとなる事いとおほしとは世〃の識人(モノシリ)のいまだ見得さりし事なるを我師の君のはしめて見得たまひて古事記傳にかつゝゝ論らひおかれたるおのれ其論によりて此ふみをあらはしてその定まりをくはしくわきたむ(中略)子 小 男 彦のこには古事記には古をのみ用ひたるに書紀にはひろく古 姑 故 固 枯 胡 狐 顧などをも用ひたり(これら皆古に通ふかななり。許己擧居虚去莒などをば一つも用ひず。こは皆許にかよふかななるがゆゑなり。古と許のけぢめ古事記に明らけし)。又辭のけには祁 鶏 稽 家 啓(皆祁に通ふかななり。古事記には祁の字をのみ用ふ)を用ひて氣 開 概 階 戒 凱 居(皆氣に通ふ也)などをば用ひず。

※橋本進吉『文字及び假名遣の硏究』所引による。

 

【参考F】昭和十七年刊記 橋本進吉「内務省主催第二回神職講習會講義速記」
明治四十二年の頃、丁度私が國語調査委員會に居りまして「萬葉集」の文法に關することを調査して色々例を集めて居つた内に、その第十四卷の東歌の中に「我」とあるべき所に「家」と使つてあるので少し變だと思つて、此の卷の中の總ての「家」の字を集めて考へて見たのでありますが、それは當面の問題の解決には用立たなかつたのでありますが、さうして見て行く中に、助動詞の「けり」の「け」とか形容詞の語尾の「け」とかには、いつも此の「家」の字が出て來るのを見て、引つゞき、あらゆる「け」といふ音に就いて「萬葉集」をずつと調べて見ましたところが、我々が普通「け」と讀んで居る萬葉假名に、語に依つて何れの字を使ふかといふ使ひ分けがある事を見付けたのであります。それから、まだ其の外に「キ」とか「コ」とかいふ音にも斯ういふことがあるといふ見當を附けて調べて居つたのでありますが、其の内に大學の國語硏究室に行くことがありまして、其の時に偶然「古言別音抄」があつたものでありますから、それをちよつと見たところが、丁度私がやつて居ることと同じやうなことが書いてあり、さうしてそれは「奥山路」に據つたものであるといふことが書いてありましたので、改めて「奥山路」を讀みまして、さうして能く見ると、成程さうであつて、右に述べたやうな硏究であることが判つたのであります。併し私が「奥山路」によつてはじめてかやうな事實を知つたのでなく、獨立して自身でこの事實を見出した、尠くも或る部分だけは自分で見出したといふ關係からして、此の書物が大變價値のあるものである事や、どんな性質のものであるかといふことも解りました。同時に、どういふ點に缺點があるかといふことも判つた譯であります。

 

【参考G】昭和十年 金田一京助『國語音韻論(増補)』刀江書院
此の特殊假名遣の存在を朧げながら先づ意識した人は本居宣長翁であり、門人の石塚龍麿は、このヒントに由って、『假名遣奥山路』三巻を著した。橋本博士は、獨自の研究から、學生時代におのづからこの問題にぶっつかられ、例へば、四段活では已然形と命令形とが同形であるが、他の活用では同形ではない。それで萬葉假名では、といふと、どうも、常に別な字で書き分けられてゐて決して同じ字ではない。やはり何か、發音上に、上代は區別があつたものではないだろうか、即ち本來、已然形と命令形とは、同一形ではないのだつたぢやないかと考へられ、尚、ケのみならず、語によつて、キメミヒヘなどにも、二種の書き分けがあり、神のミと上のミとは別だから、〈略〉といふ様なことを云つて居られた。その内に、同氏は、奥山路を發見して喜ばれ、〈略〉假名遣史上の一發見と題して始めてこの書を世に認めさせもし、刊行もして世に弘めしめられた。〈略〉この二類の假名遣の存在から、氏は、上代の音韻組織の從來の概念を根底から覆す程の意味附けをして居られたが爲めである。この驚くべき見解を、公的に學外で始めて發表されたのは、明治の末年か、遅くも、大正の初年に於ける國學院大學國文學會の講演であった。

 次に、橋本進吉の研究により、記紀万葉の仮名の一例を挙げてみる。
     衣の類 愛哀埃衣依

    延の類 延曳叡要

  

 こうして、明らかになった上代特殊仮名遣に照らしてみると、邪馬台のトはト乙類töで、山門のトはト甲類toである。畿内のヤマトにあてられたトの万葉仮名は、すべてト乙類töで例外はない。したがって、魏志倭人伝の邪馬台は、畿内のヤマトであり、筑後の山門に比定するのは適当ではない。また、安寧記「意富夜麻登久迩阿礼比売命(おほやまトくにあれひめノみコト)」の「登」も乙類töである。

 

 海面上昇によって、対馬暖流が日本海へ流入するようになると、日本海の温暖化と蒸発量の増大をもたらし、日本海側に多量の積雪をもたらすようになった。北極前線は北に後退し、日本列島が前線の通過コースとなることで年間降水量が増大し、また、雨の季節的配分が明瞭になった。六季あるいは八季という雨の多い季節と少ない季節が交互に訪れるという季節性が顕在化した。東京湾や瀬戸内海などの内湾や内海が出来た。このように、海進によってもたらされた日本列島の地理は、海進前の「日本半島の時代」に対して、「日本列島の時代」と呼ぶにふさわしい状況になった(平成25年6月 辻誠一郎「縄文時代の年代と陸域の生態系史」『縄文時代 上』青木書店)。
  各地の湾奥部の干潟にカキ礁が形成された。
 この頃、那珂湊沖に黒潮前線が達した。
 この頃、日本列島沿岸では、南九州に熱帯種が、三陸海岸南部に亜熱帯種が、道南の函館から石狩低地において温帯種が一斉に出現した。
  縄文時代早期後半の押型文土器の段階になると、姫島産黒曜石の利用は、急激に拡大・増加し、大分県下全域と福岡県・熊本県・宮崎県・鹿児島県・山口県・広島県・愛媛県・高知県の約100遺跡から、出土が報告されている。
 さらに、この早期後半には、重量1㎏を超える大型の石核・原石や各種の製品を出土する遺跡が出現する。
  原遺跡七郎丸1地区(国東市)1.13㎏、
  横尾遺跡(大分市)1.3㎏、12.2㎏、編籠入黒曜石数㎏、
   野村台遺跡(臼杵市)3.7㎏、
 姫島産黒曜石の大型原石や石核を出土する遺跡は、国東半島沿岸部から別府湾や臼杵湾へ至る海上交易の存在が認められ、これらは、海上交易の拠点としての役割が考えられる。
 縄文時代前期になると、姫島産黒曜石の中継・加工の基地となる遺跡が出現する。
 羽田遺跡(国東市)は、古砂丘に立地し、露頭より採取した姫島産黒曜石を陸揚げし、加工して石器を製作すると共に、石器の材料となる石核や剥片などを、国東半島内陸部や別府湾周辺の遺跡との間で交易を行った中心的遺跡と言える。出土した黒曜石は、12.5㎏(西日本最大)の原石をはじめ、総数約5000点に及び、その総重量は約80㎏と、一般の遺跡の出土量を大きく凌駕する。九州では稀な硬玉製石斧、獣形(蝮(まむし))把手や多数の瀬戸内系土器と轟B式や曽畑式土器などの存在は、羽田遺跡が、黒曜石交易において中心的役割を果たしていたことを示す。しかし、古砂丘からは住居跡や石皿など居住に関わる遺構や遺物は希薄であり、黒曜石に関わる加工専用の場所であった可能性が高い(平成27年『新しい大分の考古学』)。
  かわじ遺跡(由布市)は、丘陵地帯の谷部(標高約545m)に所在すること等から、狩猟のためのキャンプ地と見られる遺跡であるが、縄文時代前期における黒曜石消費地の様相を見ることが出来る。縄文時代前期の轟B式土器を中心に、早期末から中期前半の土器を少数含んでいる。出土した石器は、石鏃466点を中心に、石錐22点、石匙15点、掻器14点、石核10点など、狩猟や解体に用いられる道具とその素材が中心を占める。石鏃など剥片石器の約八割が姫島産黒曜石であり、サヌカイトやチャート、黒色黒曜石などその他の石材は二割に満たない。



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