閉じる


<<最初から読む

1 / 19ページ

はじめに

日本史年表

 歴史は、年表に始まり、年表に終わると言っても過言ではない。

 年表の重要性は、十分に自覚しているつもりではあるが、しかし、ここでは、気楽に思いつくままの年表を作ってみたい。


応永五年 戊寅  西暦1398年

応永五年 戊寅。西暦1398年。

 後小松天皇朝。足利4代将軍義持の治世。管領は斯波義将(閏四月まで)。

 六月、畠山基国が管領に就任。足利義持は、義満の子で、応永1年に、9歳で将軍となったが、義満在世中は、将軍としての権力を発揮することができなかった。斯波義将は、3代将軍義満の側近で、義持が将軍となってからも、これを補佐して幕府の職制の整備に努力したが、この年閏4月、管領を退いた。ついで管領となった畠山基国も、義満に重用されていた。



(製作中)    


明和六年 己丑 西暦1769年

明和六年 己丑。西暦1769年。

 後桜町天皇朝。德川10代将軍家治(在位:宝暦10(1760)~天明6(1786))の治世。家治は、第9代将軍家重の長男。宝暦10年に将軍となり、最初は、享保の節倹政治に復そうと努めたが、田沼意次が権勢をもっぱらにするに及び、重商主義的な政治を行い、儒者らの悪評をうけた。

 

 明和六年条『日本災変通志』(平成16年12月 池田正一郎)に、『〇七、八月の間、彗星出(い)づ。冬に至って又、西に出(い)づ。その気甚だ薄く四、五日して消滅す(皇年代略記)。△「夏の末、秋の初に至り彗星とやらん怪しき星、東北の方に現れ、根は細うして末広く、大きなる草箒(くさぼうき)の形の如し。この星、次第に長くなり、後は数十丈に及び、天の半ばにも至りぬと見ゆ。二タ月ばかりも毎夜に見えたりしが、北へ北へと下りて終に見えずなりぬ」と(後見草・中)△津軽、中旬より彗星出(い)づ。芒、殊に長く見え、鶏鳴の頃(明け方)西へ入る(梅田村彦六家記)△久留米『石原家記』に七月廿六日、木屋喜左衛門が彗星を見る図を載す。これによれば、八月十五日迄見え、十六日以降は見えずなりぬと人々の言」と。『泰平年表』には「七月下旬より八月上旬まで珍星現る。俗に朱星(あけぼし)という」と、『武江年表』には「長さ数丈、箒の如し。稲星という。孛(はい)星(せい)(彗星の一種)なりという」と』とある。

 

(製作中)


明和七年 庚寅 西暦1770年

明和七年 庚寅。 西暦1770年。

 後桜町天皇(元文5(1740)~文化10(1813)。女帝。在位:宝暦12年7月~明和7)朝。德川第10代将軍家治の治世。後桜町天皇は最後の女性天皇。宝暦12年、桃園天皇が崩じたが、第1皇子英仁(のち後桃園天皇)は幼少(当時5歳)のため践祚できず、明正天皇の故事にならって、伯母にあたる智子内親王(後桜町天皇)が即位した。明和に入って、明和1~2年の伝馬騒動(農民蜂起)、3年1月の西濃騒動(強訴)、5年1月の大坂町人らの打こわし、3月の越前福井藩の農民による、みの虫騒動(一揆)、9月の亀山騒動(打ちこわし)、新潟湊騒動(一揆)等の騒動が頻発していた。明和七年四月、幕府は、徒党強訴逃散を訴人すべき旨の高札を立てた。七月、石代金納相場の基礎となる市場相場の作為を禁じた。十一月廿四日、後桃園天皇(13歳)、受禅(明和8年4月、14歳で即位)。

 

(製作中)


文化六年 己巳 西暦1809年

文化六年 己巳 西暦1809年。

 

 光格天皇朝。德川第11代将軍家斉の治世。

 八月、伊能忠敬は、九州沿岸の測量に向かった。

 

(製作中)



読者登録

日本史の森さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について