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第7章 史料による別府の歴史

第7章 史料による別府の歴史


前八世紀頃 稲作農耕の進展

  前八世紀(前800~前701年)頃、列島の人々の一部に、稲作農耕が普及していた。

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波日本思想大系)
又(また)、食物(をしモノ)を大気都比売神(おほけつひめノかミ)に乞(コ)ひき。尓(しか)して、大気都比売(おほケつひめ)、鼻口(はなくち)ト尻(しり)及(ト)自(よ)り、種〃(くさぐさ)ノ味物(うまモノ)取(と)り出(い)で而(て)、種〃(くさぐさ)作(つく)り具(ソな)へ而(て)進(たてまつ)る時(トき)、速須佐之男命(はやすさノをノみコト)、其(ソ)ノ態(わざ)を立(た)ち伺(うかか)ひ、穢汚(けが)し而(て)奉進(たてまつ)るト為(し)て、乃(すなは)ち其(ソ)ノ大宜津比売神(おほゲつひめノかミ)を殺(コロ)しき。故(かれ)、殺(コロ)さ所(江)し神(かミ)ノ身於生(ミにな)れる物(モノ)者(は)、頭於(かしらに)蚕生(こな)り、二(ふた)つノ目於(めに)稲種(いなだね)生(な)り、二(ふた)つノ耳(みみ)於(に)粟(あは)生(な)り、鼻(はな)於(に)小豆(あづき)生(な)り、陰(ほト)於(に)麦(むぎ)生(な)り、尻(しり)於(に)大豆(まメ)生(な)りき。故(かれ)、是(ココ)に、神産巣日御祖命(かむむすひノみおやノみコト)、茲(コれ)を取(と)ら令(し)メて、種(たね)ト成(な)しましき。

 

【参考A】養老四年 舎人親王ら『日本書紀』巻第一・第五段一書第二(岩波古典大系)
次に火神(ひのかみ)軻遇突智(かぐつち)を生む。時に伊弉冉尊(いざなみのみこと)、軻遇突智が爲(ため)に、焦(や)かれて終(かむさ)りましぬ。其の終(かむさ)りまさむとする間(あひだ)に、臥(ふ)しながら土神(つちのかみ)埴山姫(はにやまびめ)及び水神(みづのかみ)罔象女(みつはのめ)を生(う)む。卽ち軻遇突智、埴山姫を娶(ま)きて、稚産靈(わくむすひ)を生(う)む。此の神の頭(かしら)の上(うへ)に、蠶(かひこ)と桑(くは)と生(な)れり。臍(ほそ)の中(なか)に五穀(いつくさのななつもの)生(な)れり。罔象、此をば美都波(みつは)と云ふ。

 

  この紀巻第一第五段一書第二は、稚産靈神の頭の上に蠶と桑、臍の中に五穀が生じたとなっているが、古事記の大気都比売(おほげつひめ)、日本書紀の保食(うけもち)神は殺された死体から穀物などが化成する。

 

【参考B】養老四年 舎人親王ら『日本書紀』巻第一一書第五段第二(岩波古典大系)
一書(あるふみ)に曰は(〔第十一〕 )く、伊弉諾尊(いざなきのみこと)、三(みはしら)の子(みこ)に勅任(ことよさ)して曰(のたま)はく、「天照大神(あまてらすおほみかみ)は、高天之原(たかまのはら)を御(しら)すべし。月夜見尊(つくよみのみこと)は、日(ひ)に配(なら)べて天(あめ)の事(こと)を知(しら)すべし。素戔嗚尊(すさのをのみこと)は、滄海之原(あをうなはら)を御(しら)すべし」とのたまふ。既(すで)にして天照大神、天上(あめ)に在(ま)しまして曰(のたま)はく、「葦原中國(あしはらのなかつくに)に保食神(うけもちのかみ)有(あ)りと聞(き)く。爾(いまし)、月夜見尊、就(ゆ)きて候(み)よ」とのたまふ。月夜見尊、勅(みことのり)を受(う)けて降(くだ)ります。已(すで)に保食神の許(もと)に到(いた)りたまふ。保食神、乃(すなは)ち首(かうべ)を廻(めぐら)して國(くに)に嚮(むか)ひしかば、口(くち)より飯(いひ)出(い)づ。又(また)海(うみ)に嚮ひしかば、鰭(はた)の廣(ひろもの)・鰭の狹(さもの)、亦(また)口より出づ。又山(やま)に嚮ひしかば、毛の麁(あらもの)・毛の柔(にこもの)、亦口より出づ。夫(そ)の品(くさぐさ)の物(もの)悉(ふつく)に備(そな)へて、百机(ももとりのつくゑ)に貯(あさ)へて饗(みあへ)たてまつる。是(こ)の時に、月夜見尊、忿然(いか)り作色(おもほてり)して曰(のたま)はく、「穢(けがらは)しきかな、鄙(いや)しきかな、寧(いづくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以(も)て、敢(あ)へて我(われ)に養(あ)ふべけむ」とのたまひて、廼(すなは)ち劒(つるぎ)を拔(ぬ)きて撃(う)ち殺(ころ)しつ。然(しかう)して後(のち)に、復(かへりこと)命(まう)して、具(つぶさ)に其(そ)の事(こと)を言(まう)したまふ。時(とき)に天照大神、怒(いか)りますこと甚(はなはだ)しくして曰(のたま)はく、「汝(いまし)は是(これ)惡(あ)しき神なり。相(あひ)見(み)じ」とのたまひて、乃(すなは)ち月夜見尊と、一日(ひとひ)一夜(ひとよ)、隔(へだ)て離(はな)れて住(す)みたまふ。是(こ)の後(のち)に、天照大神(あまてらすおほみかみ)、復(また)天熊人(あまのくまひと)を遣(つかは)して往(ゆ)きて看(み)しめたまふ。是(こ)の時に保食神(うけもちのかみ)、實(まこと)に已(すで)に死(まか)れり。唯(ただ)し其(そ)の神の頂(いただき)に、牛(うし)馬(うま)化爲(な)る有(あ)り。顱(ひたひ)の上(うへ)に粟(あは)生(な)れり。眉(まゆ)の上に蠒(かひこ)生れり。眼(め)の中(なか)に稗(ひえ)生れり。腹(はら)の中に稻(いね)生れり。陰(ほと)に麥(むぎ)及(およ)び大(まめ)小豆(あづき)生れり。天熊人、悉(ふつく)に取(と)り持(も)ち去(ゆ)きて奉進(たてまつ)る。時に、天照大神喜(よろこ)びて曰(のたま)はく、「是の物(もの)は、顯見(うつ)しき蒼生(あをひとくさ)の、食(くら)ひて活くべきものなり」とのたまひて、乃ち粟稗麥(あはひえむぎ)豆(まめ)を以ては、陸田種子(はたけつもの)とす。稻を以ては水田種子(たなつもの)とす。又因りて天邑君(あまのむらきみ)を定む。卽ち其の稻種(いなたね)を以て、始めて天狹田(あまのさなだ)及(およ)び長田(ながた)に殖(う)う。其の秋の垂穎(たりほ)、八握(やつかほ)に莫莫然(しな)ひて、甚(はなは)だ快(こころよ)し。又口(くち)の裏(うち)に蠒(かひこ)を含(ふふ)みて、便(すなは)ち絲(いと)抽(ひ)くこと得(え)たり。此(これ)より始めて養蠶(こかひ)の道有り。保食神、此をば宇氣母知能加微(うけもちのかみ)と云ふ。顯見蒼生、此をば宇都(うつ)志枳阿烏比等久佐(しきあをひとくさ)と云ふ。

 

  ここに掲げた古事記・日本書紀の記事は、殺された神の死体から作物が生まれたとする食物起源神話の一つであるが、東南アジアから大洋洲・中南米・アフリカなどに分布している神話的人物が殺されてその屍体の各部分から色々の栽培植物が生じるという話は、親芋を切断して土中に埋め、そこから新しい食物が生じるという話の方が古いものだという。本来は穀物栽培以前の古い農耕文化のうち、球根植物の起源を説明するものであったらしい。しかし、古い列島においては、芋の栽培はあまり見られない。列島においては、稚産靈(わくむすひ)神から五穀を生じたとする話の方が古く、水田耕作が進展する過程で死体化生神話が伝えられて、古事記に見えるようなオホゲツヒメ(食物を掌る神)の死体から穀物の種子が生じたという話になり、さらに、紀第五段一書第十一のような保食神神話に発展したのであろう。紀第五段一書第十一には、「水田種子」とあり、この神話は、水田耕作が普及した後の要素を多く含んでいる。

  前8世紀といえば、周王朝が洛陽に遷都して春秋時代が始まり、西洋ではギリシア各地にポリスが成立していた頃である。

 日本では、縄文時代晩期から弥生時代早期への過渡期にあたるが、弥生時代の開始年代については、近年、諸説が対立しており、単純にわりきることができない。
 明治17(1884)年、現在の東京都文京区弥生にあった向ヶ岡貝塚から一個の壺形土器が発見されて、明治29(1896)年に蒔田鎗次郎は、「弥生式土器(貝塚土器に似て薄手のもの)発見に付て」『東京人類学会雑誌』を発表して、学会ではじめて「弥生式土器」という名称を用い、貝塚土器(現在の縄文土器)と古墳時代の土器(土師器)との差異を指摘した。その後、弥生土器(弥生式土器は弥生土器と略称された)は縄文土器と同じ石器時代の土器の仲間とされたが、明治(一九○○)33年には、弥生土器が青銅器や鉄器・鉄滓が伴うことがあきらかとなり、明治35年、八木奘三郎は、弥生土器に炭化米が伴ったり籾圧痕を残したもののあることを指摘した。
 大正6(1917)年、中山平次郎は、「土器の有無未詳なる石器時代遺跡(下)」『考古学雑誌』を発表し、「金石両器併用の時代―中間時代」という時代概念を提示され、また、福岡県八女市岩崎遺跡で竪穴から出土した炭化米により、弥生文化は「すでに確かに農業を営み作物としてイネを有していた」と報告した。
 大正7年、富岡謙蔵は、「九州北部に於ける銅剣銅鉾及び弥生式土器と併出する古鏡の年代に就いて」『考古学雑誌』を発表した。こうした富岡らの硏究により、九州の甕棺に多量に副葬される場合のある漢代の鏡が弥生時代の実年代を考える有力な手がかりとされるようになった。
 大正14(1925)年、イギリスのG・チャイルドは、J・ラボックが設けた新石器時代を農耕の時代と再定義した。
 昭和7(1932)年、山内清男(やまのうち・すがお)は、「日本遠古之文化 縄文土器の起源」『ドルメン』(岡書院)を発表して、「日本内地の住民の文化は、第一に大陸との交渉が著明でなく、農業の痕跡のない期間、第二は大陸との著明な交渉を持ち、農業の一般化した時代である」と述べ、「後者の段階が弥生式の文化である」とした。
 昭和26年、小林行雄は、多数の銅鏡を副葬した甕棺は弥生中期であり、これらの鏡は紀元前108年に朝鮮半島に設置された楽浪郡を通じて日本列島にもたらされたとして、中期の上限は紀元前1世紀をさかのぼらないと考え、さらに中国で鋳造された貸泉の日本列島における出土状況からから中期の下限を1世紀以降とし、弥生中期を紀元前後の1、2世紀間としたうえで、その前後にほぼ同様な期間を加算して弥生時代を紀元前2、3世紀―後2、3世紀とした。
 昭和26年に福岡市板付遺跡が発掘調査され、これまで縄文晩期末とされていた突帯文土器である夜臼式土器と弥生時代初頭の板付Ⅰ式土器が環濠の底からともに出土した。このとき出土した夜臼式土器と板付Ⅰ式土器の割合は、およそ3対2であり、いずれも壺と甕などを備えていた。
 昭和35(1960)年、杉原荘介は「農業の発生と文化の変革」『世界考古学大系2日本Ⅱ』(平凡社)を、さらに翌36年には「日本農耕文化の生成」『日本農耕文化の生成』(東京堂出版)を発表し、弥生前期が前300~前100年、中期が前100年~後100年、後期が紀元100~300年とした。これは、その後、歴史教科書などに採用されて長い間定着した年代観となった。
 昭和43年、森貞次郎は、「弥生時代における細形銅剣の流入について―細形銅剣の編年的考察」『日本民族と南方文化』(平凡社)を発表した。
 昭和50(1975)年、佐原真と金関恕(かなせき・ひろし)は、弥生文化は「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現するまでの時代の文化」であるとした。さらに佐原真は、「農業の開始と階級社会の形成」『岩波講座日本歴史1原始および古代1』を発表した。佐原は、昭和43年の森貞次郎の細形銅剣の編年的研究などをうけて、弥生前期は前200年もしくは前3世紀におさまるとした。

 昭和53年に板付遺跡の夜臼式土器だけを出土する層位から感慨施設を伴う水田跡が検出され、この段階を弥生早期とする意見が提示された。
 昭和55年には、佐賀県唐津市菜畑(なばたけ)遺跡が発掘調査され、弥生早期の水田跡が検出されたと報じられた。

 平成14年、武末純一は、『弥生の村』(山川出版社)を発行して、韓国の松菊里式土器の年代との比較によって弥生早期が紀元前六世紀にまでさかのぼるという斬新な説を提示した。

 

 平成15年7月、清水宗昭は、「原始」『別府市誌』を執筆した。

【参考C】平成15年7月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
 紀元前500~300年頃、北部九州の玄界灘沿岸に朝鮮半島南部から本格的な水田稲作の文化をもった集団が波状的に渡来し、移住してきた。そのことは、北部九州地方の唐津平野や福岡平野の縄文晩期から弥生前期にかけての遺跡から出土した大陸・半島系の遺物、特に土器・石器によって知ることができる。その代表的な遺跡に佐賀県菜畑(なばたけ)遺跡や福岡県板付(いたづけ)遺跡等があげられる。(中略)
  北部九州に近い大分県地方にも当然こうした新しい文化の波が広がっていったとみられ、内陸部の台地や海岸平野部にこの時期の遺跡が多く分布するようになる。その典型的な遺跡として、大分平野の大分市下郡(しもごおり)桑苗(くわなえ)遺跡がある。ここは、大分川河口に近い低地にあり、旧河道の泥炭層から弥生時代前~中期の土器と共に、多量の農具等の木製品のほか、多数のブタの頭骨や半島系のイヌの頭骨が出土した。この集落遺跡は、木製の農具の種類から水田耕作によって維持されていたと推定されるもので、あわせて家畜としてブタが飼育されていたことが明らかになった。これまで、我が国における弥生時代の農耕文化には、家畜は伴わないものとされていたが、大分市の下郡桑苗遺跡は、半島からもたらされた水田稲作文化が家畜を伴う本格的なものであったことを示してくれたのである。
 別府市域では、弥生前期の遺跡の分布は少ない。石垣原扇状地では、この時期の遺跡はほとんど発見されていない。前述したとおり、この地域では、縄文時代後期~晩期の遺跡は実相寺山の東麓部で集落として定着が見られるようになるが、弥生時代前期は現在のところ空白となっている。

 

  平成15年、国立歴史博物館(歴博)は、炭素14年代測定の結果、弥生時代の開始が定説に対しておよそ五百年古くなるという説を提起した。歴博は、AMS法を用いて福岡市雀居(ささい)遺跡の板付Ⅰ式土器と夜臼Ⅱb式土器という弥生前期の土器に付着したススやコゲなどの炭化物の炭素14年代を測定し較正した。その結果、弥生前期の始まりの年代は紀元前830~前750年の間に来る確率がおよそ七十%であるという値が示された。
 平成16年、田中良之・溝口孝司・岩永省三らは、歴博年代の検証のために弥生人骨のAMS測定を行った。これによると、歴博年代より新しくなり、14C(炭素14)較正年代は、弥生早期=前七―五世紀、中期初頭~中頃=前四―三世紀、中期後半=前二―一世紀となる。
 平成25年、藤尾慎一郎は、『弥生文化像の新構築』(吉川弘文館)を発表した。ここでは、弥生時代の開始年代は、前960~前915年に来る可能性が指摘されている。

 

 清水氏が、『別府市誌』を執筆した頃は。弥生時代の始まりは、前5―前4世紀とされていた。しかし、その後の硏究によって、弥生時代の始まりは大幅にひきあげられた。細部については、いまなお多くの異論があるものの、弥生時代の始まりは、もはや従来考えられていた年代を、かなりさかのぼることは否めない。
 考古学の調査等の知見によると、別府市域では縄文時代晩期の遺跡は存在するが、その後、弥生時代早期~前期の遺跡は存在せず、約四~五百年ほどの空白があって弥生時代中期になって、また、考古学の遺跡・遺物が見られるようになる。これを如何に解釈するか。①別府市域にも弥生時代早期~前期の遺跡は存在しているが未発見で発掘されていない、②縄文時代終末になって何らかに理由によって別府地方では人々の生活が断絶した、③人々の生活は続いていたが後世になって弥生時代早期~前期の遺跡は津波・洪水あるいは火山噴火等の災害によって破壊され消失したのいずれかであろうが、ここまで開発が進んだ今日においても、別府市域では弥生早期~前期の遺跡が未発見というのは、①ではなく、②か③のいずれかであろう。筆者は、③の可能性が大きいのではないかと考える。したがって、今後は、その視点に立って、注意深く検証していく必要があるのではあるまいか。

 

(製作中)


前四世紀頃 相争う人々

 前四世紀(前400~前301)、人々は、屡々、争いを展開していた。

 

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波日本思想大系)
  故、火照命者、海佐知毘古〈此ノ四字は音を以ゐる。下は此に效ふ。〉ト為而、鰭ノ広物・鰭ノ狭物を取り、火遠理命者、山佐知毘古ト為而、毛ノ麁物・毛ノ柔物を取らしき。尓して、火遠理命、其ノ兄火照命に、「各佐知を相易へて用ゐむト欲ふ。」ト謂ひて、三度乞はせ雖、許さ不。然あれドモ、遂に纔かに相易へ得つ。尓して、火遠理命、海佐知以ちて魚釣らすに、都て一つノ魚モ得不、亦其ノ鉤海に失ひたまひつ。於是、其ノ兄火照命、其ノ鉤を乞ひて曰く、「山佐知母、己之佐知佐知、海佐知母、己之佐知佐知、今は各佐知を返さむト謂ふ。」トいふ時、〈佐知ノ二字は音を以ゐる。〉其ノ弟火袁理命答へて曰らさく、「汝ノ鉤者、魚釣りしに一つノ魚モ得不て、遂に海に失ひつ。」トノらす。然あれドモ、其ノ兄強ちに乞ひ徴る。故、其ノ弟御佩かせる十拳釼を破り、五百鉤を作り、償ひたまへ雖取ら不。亦、一千鉤を作り、償ひたまへ雖受ケ不て、「猶其ノ正本ノ鉤得欲。」ト云ひき。
 於是、其ノ弟、泣き患へて海辺に居ます時、塩椎神来て、問ひて曰く、「何ソ、虚空津日高之泣き患へたまふ所由は。」トいふ。答えへて言らさく、「我兄与鉤を易へ而、其ノ鉤を失ひつ。是に其ノ鉤を乞ふ故に、多ノ鉤を償へ雖、受ケ不て、『猶其ノ本ノ鉤得欲。』ト云ふ。故、泣き患之ふ。」トノらす。尓して、塩椎神云はく、「我、汝命ノ為に、善き議作さむ。」トいひて、即ち无間勝間之小船造り、其ノ船に載せて教へて曰く、「我、其ノ船を押し流さ者、差暫し往せ。味し御路有ら将。乃ち其ノ道に乗りて往さ者、魚鱗ノ如く所造れる宮室、其綿津見神之宮者也。其ノ神ノ御門に到りな者、傍之井上に、湯津香木有らむ。故、其ノ木ノ上に坐さ者、其ノ海神之女、見て相議らむ者也。」トいふ。〈香木を訓みて加都良ト云ふ。木〉

 

 一般に4世紀代は、弥生時代中期の始まりとされている。

  海幸彦・山幸彦の神話は、列島において金属器(青銅器・鉄器)が利用されるようになった時代、すなわち、弥生中期を背景にして生まれた神話ではないかと思う。

 

 

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
  石垣原扇状地の北に接する北鉄輪丘陵の一角にある羽室遺跡は、標高110~120メートルの小盆地状をなし、後期旧石器時代や縄文後期の遺物や遺構が発見されている。これは、この地が遺跡の立地として好条件のところであったことを示しているもので、弥生時代になっても、中期の初頭にこの地に人々が定着するようになる。遺跡は、北に開口する摺鉢(すりばち)状地形の東側斜面の部分である。この地は、西側をわずかな尾根で北鉄輪の台地とつながる以外は、南、北、東は、急斜面によって周辺から隔絶された地形である。丘陵全体が防禦(ぼうぎょ)するに絶好ともいえる天然の要害の地である。
 弥生中期初頭の集落は、旧石器、縄文時代の遺跡と重なる部分一帯の盆地東側の西に緩く傾く斜面である。遺跡は後世の耕作により、かなり削平をうけていたが、竪穴遺構や多数の柱穴が検出された。主な遺構は、方形竪穴(ほうけいたてあな)住居跡、方形竪穴、袋状貯蔵穴(ふくろじょうちょぞうけつ)、組合せ式箱式石棺等である。このほか、性格不明の竪穴が多数あり、無数の柱穴の中には、竪穴住居跡か掘立建物跡のものがかなり存在するものとみられる。(中略)
  以上のことから羽室遺跡は、高位の丘陵上部に営まれた弥生時代中期初頭の集落遺跡であることが明らかになった。それは、方形の竪穴住居跡に貯蔵施設を伴うもので、また、箱式石棺にみられるように墓地も形成されており、北九州系、在地系土器の併用と紡錘車の出土等からみても集落として定着性の高いものであった。一方、羽室小盆地を含む丘陵の範囲内だけで生活が完結したと考えるには、小盆地内の水田農耕がなされていたのかという点では疑問である。現在は他からの用水によっていくらかの水田が維持されているが、当時はわずかな湧水に頼るしかなかったとみられる。そうであれば、生産の基盤は、丘陵下の平田川流域に求めるしかないと考えられる。(中略)
  弥生時代の中期のこうした現象は、中国の史書に表れる「倭国大乱(わこくたいらん)」と関係あるものとみられる。当時100余国に分かれていたといわれる弥生中期頃のクニグニが、各地で勢力争いの小乱を起こしていたものとみられており、弥生中期頃に形成された羽室遺跡の集落もそうしたきびしい社会情勢を反映したものと想像されるのである。羽室遺跡の位置は、海上交通の要衝(ようしょう)別府湾の奥の眺望のきくところにあり、あわせて大分地方と宇佐、国東地方を結ぶ重要な地であることも、その大きな要素と考えられる。

 

(製作中)


第8章 近世文書解読集

第8章 近世文書解読集


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書・端裏書

天保四年七月廿五日 四日市御役所宛 国東郡新涯村俊平ほか連署 伊美別宮社舎人方の儀につき願書

 

(端裏書)

「巳七月廿五日御神役舎人方之儀ニ付/御役所へ御願書被申受之事」



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