閉じる


<<最初から読む

12 / 16ページ

乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その3)

故障申立候中ニ茂法外抔申出之者有之去ル

天保二夘年當場之節茂舎人方之者共ゟ故障申立

以後取締書付村中ゟ差入茂有之尚又先䂓之例

段〃利解申聞候得共一円承引ふ仕六人一統罷出

村役人衆相勤候ハヽ舎人役相勤可申候得共其外

 

(影印つづく)


乍恐以書附奉願上候 注解(その1)

國東郡杵築領分知 国東地方は、関ヶ原の戦いのあと、慶長5年、中津の黒田氏が筑前福岡に移り、その後に細川氏が入った。細川氏は豊前一国と国東郡全部と速見郡の一部を領有し、慶長検地・元和人畜改め等を行い、手永・大庄屋制をしいて領内支配の基本体制を作り上げたが、寛永9年、肥後熊本に転封し、豊後木付(杵築)には小笠原忠知が入封し十三年間国東郡を支配した。正保2年7月、小笠原氏は、木付から三河吉田に転封となり、その後に豊後高田から忠知の甥にあたる松平英親が入封した。英親は、父の遺言に従って、天和2年に弟の重長に三千石、直政に二千石を分知した。元文2年、直政の分知領は、孫の武郷の駿府在番中の不行跡によって幕府に没収され、幕府領となった。重長の分知領は、伊美組七ヶ村=嶺・伊美浦・伊美浜・櫛来・小熊毛・大熊毛・向田、両子組八ヶ村=中野・中野川・矢川・糸永・小俣・恒清・油留木・山浦の、都合十五ヶ村であった。

 

濱村  来浦浦(くのうらうら)・来浦浜村とも称した。伊予灘に臨む来浦川河口部に位置する村。江戸時代はじめは細川豊前中津藩領。慶長6(1601)年、鈴木大蔵が、松原の恵美須神社を創建したという。鈴木大蔵は、摂津の人で、豊後に来る途中で難風に会い、恵美須大神に祈請したところ、無事にこの浜に着き居住し、報賽のため、本社を創建したという。元和8(1622)年には浦手来浦と称し、富来手永に属して蔵納地であった。寛永13(1636)年2月、安静覚十郎という武士が剃髪して僧となり、釈教伝と号して、来浦字浜(中村)に一宇を建立し、浄土真宗本願寺派の安静山正覚寺を開基したという。享保5(1720)年、小串佐五七(定保)が、来浦奥に誕生した。母は某女。父は小串芳好。四男。寛保年間(1741~43)、来浦のお茶屋小串重玄の五男芳好は、浜に別居した。当時、本家の定生が幼少であったので、成長するまでの十五年間、大庄屋を務めた。芳好の四男佐五七(定保)は、資性明敏、豪胆のうえ、才智非凡にして、伴右衛門と号して商業を志し、松原から南浜に居を移し、浜田屋を名乗った。まず酒造株を許されて酒造に精を出す一方で海運業に着目し、瀬戸内を舞台に物資の交易しだいに盛んとなり、数十隻を配下に、藩公からもお目見え商人として遇せられるようになった。その頃の来浦は川尻二つでその間松原に洲浜があり、南浜・北浜・松原に官宅庄屋あり、船着き至って狭く、松原の北には塩浜があった。塩浜を良くすれば中国地方で見るように、製塩の利を得ることもできるが、とにかく何としても良港を持ちたいもの、さすれば来浦一帯も繁栄する―と考えながら、いよいよ商売は活況を呈し、京阪地方でも名声高く、大阪に出張別邸を構え、瀬戸内はわが家敷うちとばかり、もちろん藩内外の輸送関係は一手に引受け、両浜に倉庫立並び、藩士の北する者、必ずまげて立寄れば、三浦梅園も何回か足をまげた。こうして日に日に盛大に屈指の豪商と評判されるようになった半面、定保は、思想堅実、信仰に厚く、社寺の寄進怠ることなく、社殿の再建、十王堂奉献、鳥居の奉納など、来浦谷のみならず、諸方の寺社に及んだ。宝暦3(1753)年、小串伴右衛門定安発願の石碑に、「内社御寄進並に上屋建立仕処也」とあるという(以上『国東町史』による)。明和5(1768)年の恵美須神社鳥居がある。安永(1772~81)頃から、浜田屋(小串)伴右衛門は、塩浜干拓の事業に取組んだ。しかし、中堤を終り、大堤北半分ほど出来た安永9(1780)年5月20日、病没。その子滝蔵は、二代目伴右衛門定世を名乗り、親族一体となって、地方有志や藩の後援まで得て、この大工事を続け、寛政4(1792)年春、潮止めの式を行い、新田13町4段6畝29歩の干拓を完成させた。地方まれにみる大事業であっただけに、豪商といわれた小串家の全財産のみならず、各方面にわたる莫大な起債につき、妻は病死、定世の苦心も一方ならず、彼は一笠一杖の姿で大阪方面に行ったという。享和2(1802)年、浜村から、七島筵5746束が移出された。来浦川の河口部は、広く水深もあり、湊として商人に利用され、杵築藩より穀物の船による出荷が認められていた。文政4(1821)年、升田屋の神宮丸が、石見国浜田外(と)ノ浦に入津した。升田屋は、豪農で、酒造を行い、中国方面との商取引も活発であった。丁字屋は、旅館を営み、鮮魚商をしていた。浜屋は、船持で筵や木材を扱っていた。


大分県中津・八面山とその周辺

八面山

 大分県中津市三光田口に位置する標高659.4mの卓状溶岩台地(メサ)。

 

令和1年9月3日、撮影。 八面山神護寺。

伝説では、大宝元年、法蓮上人により開山され、当時は猪山八幡宮の別当として創建されたという。明治期には衰退したが、昭和初期、覚瑞和尚が、神護寺を復興した。

 

令和1年9月3日、撮影。 神護寺境内脇の清流。

 

令和1年9月3日、撮影。 八面山平和公園見取図。

 昭和20年5月7日、北九州地区の上空に向かう途上の米軍のB­-­29に対して、八面山付近で防空に上がった陸軍の屠龍の一機が山の背後から体当たりして、日本軍機は三保村洞の上(現・中津市洞の上)に、米軍機は八面山3合目に墜落。米軍機搭乗員11名、日本軍機搭乗員1名が死亡した。

 また、同年8月12日、宇佐海軍航空隊所属の戦闘機が、米軍のグラマン戦闘機と交戦して被弾し、日本軍機搭乗員1名が死亡した。

 これらの日米の戦没者を慰霊するため、昭和45年5月7日に慰霊碑が建立され、昭和47年5月7日には、八面山平和公園記念館が開館した。

 公園には、実物のF86ジェット戦闘機などが展示されている。

 

令和1年9月3日、撮影。 八面山散作コース案内板。

 

(製作中)


国東市・小松神社とその周辺

小松神社

 

令和1年6月13日、撮影。小松神社鳥居。

 

令和1年6月13日、撮影。 小松神社解説板。

 (小松神社解説板)
「小松神社
祭神、小松内大臣平重盛、素戔嗚尊(すさのうのみこと)ほか十七社、
社記によれば寿永二年(一、一八三年)平家壇之浦に
滅亡の時、平宗盛、諸姫嬪(しょきひん)とともに帝を奉じて間道
から小松(今の尾崎)の山中に退き、鎮守社に重盛公の
靈を併祀し社号を小松神社とした。
平貞能(さだよし)が都落ちの時、重盛公の墓からその骨を
収めて西下と史上にあるから最埋骨したのが
この尾崎であろう。
一月一日裏白の葉で握り飯を巻いて供える古例が
ある。これは平家滅亡を聞き大いに悲歎、歳旦
餅つきもできず握り飯を餅の形にして供えたことに
始まるという。
明治三十四年郷社、尾崎の墓塔十二基
町指定有形文化財
五輪塔・板碑・宝塔群
伝平重盛墓ほか五基
町指定民俗文化財 手洗鉢
町指定記念物
クロガネモチ・ケンポナシ・ホルトの木
国東町教育委員会 」

 

令和1年6月13日、撮影。 小松神社鳥居。

右柱銘文 「神徳皇恩萬民長命」
左柱銘文 「風雨順時百穀豊饒」

 

(製作中)


奥付



【2017-11-21】Qミん君の歴史つれづれ


http://p.booklog.jp/book/118684


著者 : 日本史の森
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/nihonshinomoriq/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/118684



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト




この本の内容は以上です。


読者登録

日本史の森さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について