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前四世紀頃 相争う人々

 前四世紀(前400~前301)、人々は、屡々、争いを展開していた。

 

【史料1】和銅五年正月廿八日 太安萬侶・序『古事記』上巻(岩波日本思想大系)
  故、火照命者、海佐知毘古〈此ノ四字は音を以ゐる。下は此に效ふ。〉ト為而、鰭ノ広物・鰭ノ狭物を取り、火遠理命者、山佐知毘古ト為而、毛ノ麁物・毛ノ柔物を取らしき。尓して、火遠理命、其ノ兄火照命に、「各佐知を相易へて用ゐむト欲ふ。」ト謂ひて、三度乞はせ雖、許さ不。然あれドモ、遂に纔かに相易へ得つ。尓して、火遠理命、海佐知以ちて魚釣らすに、都て一つノ魚モ得不、亦其ノ鉤海に失ひたまひつ。於是、其ノ兄火照命、其ノ鉤を乞ひて曰く、「山佐知母、己之佐知佐知、海佐知母、己之佐知佐知、今は各佐知を返さむト謂ふ。」トいふ時、〈佐知ノ二字は音を以ゐる。〉其ノ弟火袁理命答へて曰らさく、「汝ノ鉤者、魚釣りしに一つノ魚モ得不て、遂に海に失ひつ。」トノらす。然あれドモ、其ノ兄強ちに乞ひ徴る。故、其ノ弟御佩かせる十拳釼を破り、五百鉤を作り、償ひたまへ雖取ら不。亦、一千鉤を作り、償ひたまへ雖受ケ不て、「猶其ノ正本ノ鉤得欲。」ト云ひき。
 於是、其ノ弟、泣き患へて海辺に居ます時、塩椎神来て、問ひて曰く、「何ソ、虚空津日高之泣き患へたまふ所由は。」トいふ。答えへて言らさく、「我兄与鉤を易へ而、其ノ鉤を失ひつ。是に其ノ鉤を乞ふ故に、多ノ鉤を償へ雖、受ケ不て、『猶其ノ本ノ鉤得欲。』ト云ふ。故、泣き患之ふ。」トノらす。尓して、塩椎神云はく、「我、汝命ノ為に、善き議作さむ。」トいひて、即ち无間勝間之小船造り、其ノ船に載せて教へて曰く、「我、其ノ船を押し流さ者、差暫し往せ。味し御路有ら将。乃ち其ノ道に乗りて往さ者、魚鱗ノ如く所造れる宮室、其綿津見神之宮者也。其ノ神ノ御門に到りな者、傍之井上に、湯津香木有らむ。故、其ノ木ノ上に坐さ者、其ノ海神之女、見て相議らむ者也。」トいふ。〈香木を訓みて加都良ト云ふ。木〉

 

 一般に4世紀代は、弥生時代中期の始まりとされている。

  海幸彦・山幸彦の神話は、列島において金属器(青銅器・鉄器)が利用されるようになった時代、すなわち、弥生中期を背景にして生まれた神話ではないかと思う。

 

 

【参考A】平成十五年七月 清水宗昭「原始」『別府市誌』第1巻 別府市
  石垣原扇状地の北に接する北鉄輪丘陵の一角にある羽室遺跡は、標高110~120メートルの小盆地状をなし、後期旧石器時代や縄文後期の遺物や遺構が発見されている。これは、この地が遺跡の立地として好条件のところであったことを示しているもので、弥生時代になっても、中期の初頭にこの地に人々が定着するようになる。遺跡は、北に開口する摺鉢(すりばち)状地形の東側斜面の部分である。この地は、西側をわずかな尾根で北鉄輪の台地とつながる以外は、南、北、東は、急斜面によって周辺から隔絶された地形である。丘陵全体が防禦(ぼうぎょ)するに絶好ともいえる天然の要害の地である。
 弥生中期初頭の集落は、旧石器、縄文時代の遺跡と重なる部分一帯の盆地東側の西に緩く傾く斜面である。遺跡は後世の耕作により、かなり削平をうけていたが、竪穴遺構や多数の柱穴が検出された。主な遺構は、方形竪穴(ほうけいたてあな)住居跡、方形竪穴、袋状貯蔵穴(ふくろじょうちょぞうけつ)、組合せ式箱式石棺等である。このほか、性格不明の竪穴が多数あり、無数の柱穴の中には、竪穴住居跡か掘立建物跡のものがかなり存在するものとみられる。(中略)
  以上のことから羽室遺跡は、高位の丘陵上部に営まれた弥生時代中期初頭の集落遺跡であることが明らかになった。それは、方形の竪穴住居跡に貯蔵施設を伴うもので、また、箱式石棺にみられるように墓地も形成されており、北九州系、在地系土器の併用と紡錘車の出土等からみても集落として定着性の高いものであった。一方、羽室小盆地を含む丘陵の範囲内だけで生活が完結したと考えるには、小盆地内の水田農耕がなされていたのかという点では疑問である。現在は他からの用水によっていくらかの水田が維持されているが、当時はわずかな湧水に頼るしかなかったとみられる。そうであれば、生産の基盤は、丘陵下の平田川流域に求めるしかないと考えられる。(中略)
  弥生時代の中期のこうした現象は、中国の史書に表れる「倭国大乱(わこくたいらん)」と関係あるものとみられる。当時100余国に分かれていたといわれる弥生中期頃のクニグニが、各地で勢力争いの小乱を起こしていたものとみられており、弥生中期頃に形成された羽室遺跡の集落もそうしたきびしい社会情勢を反映したものと想像されるのである。羽室遺跡の位置は、海上交通の要衝(ようしょう)別府湾の奥の眺望のきくところにあり、あわせて大分地方と宇佐、国東地方を結ぶ重要な地であることも、その大きな要素と考えられる。

 

(製作中)


第8章 近世文書解読集

第8章 近世文書解読集


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書・端裏書

天保四年七月廿五日 四日市御役所宛 国東郡新涯村俊平ほか連署 伊美別宮社舎人方の儀につき願書

 

(端裏書)

「巳七月廿五日御神役舎人方之儀ニ付/御役所へ御願書被申受之事」


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書〔解説〕

天保四年は、癸巳、西暦1833年。仁孝天皇朝。徳川第十一代将軍家斉(安永2~天保12)の治世。家斉は、安永2(1773)年に誕生。母は岩本氏。父は一橋刑部卿治済。長男。天明1(1781)年に10代将軍家治の養子となり、天明6年9月、家治(50歳)が崩じ、翌7年4月、第11代将軍となった。彼が将軍職に就任した天明7年は、前年の凶作により米価は騰貴し、5月には江戸・大坂をはじめ各地で打ち壊しが発生した。6月、幕府は米の買い占めを禁じ、7月からいわゆる寛政の改革に着手した。翌8年3月、老中松平定信が将軍補佐となり、前代からの権臣田沼意次を排し、寛政の改革を行った。しかし、定信の失脚後は、家斉の親政となり、幕政は緩み、大奥の華美驕奢は文化文政期の文化を生んだが、幕府財政は一段と窮乏の度を増した。この天保4年は、松平豊後杵築藩主は第9代親良で、日田郡代は塩谷大四郎であった。この年はまた、全国的に天気不良で、冷害・洪水・大風雨が続発し、米価が騰貴した。

 

四日市御役所は、豊前国宇佐・下毛両郡(のち国東郡十ヶ村を加えた)の幕府領を管轄するために設けられた代官所(陣屋)。四日市は、現大分県宇佐市域西部の中央に位置する。明徳年中(1390~94)、渡辺氏が、大内義弘の恩賞にあずかって、豊前国宇佐郡高家(たけい)郷の四日市に来住したという。渡辺氏は、肥前国松浦の出身で、防州大内家に仕えていた。以降、元重村近くの小倉山(狐塚山)の小倉城(四日市切寄)に拠った渡辺氏が在地領主として一帯に勢力を振るった。天文20(1551)年、大内義隆自害以降、渡辺氏は、大友義鎮によって所帯を没収され、旧領のうちいくらかを安堵されて、大友氏の軍役に馳走したという。天正8(1580)年9月20日、四日市切寄衆は、大友義統から宇佐郡に計57町5反の地を与えられた。天正15(1587)年、黒田孝高領となり、慶長5(1600)年、細川豊前中津藩領となったが、元和6(1620)年、細川氏は主城を豊前小倉に移したため、小倉藩領となった。寛永9(1632)年、細川氏は肥後熊本に転封し、小笠原豊前中津藩領となったが、元禄11(1698)年に、藩主小笠原長胤は、失政・乱行を糺されて領地八万石を収公されて、収公地のうち四万石は長胤の弟長円に与えられた。残る四万石(実高は5万3千石余)宇佐・下毛両郡のうち126ヶ村は幕府領となった。これらの幕府領を管轄するために、四日市代官所(陣屋)が設けられた(元禄13年陣屋普請完成)。享保5(1720)年から元文2(1737)年まで、日田代官の出張陣屋となり、元文2年には国東郡十ヶ村が所管に加わった。以降、四日市陣屋は、日田代官・長崎代官や西国筋郡代所管の出張陣屋となるなどの変更があった。


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その1)

     乍恐以書附奉願上候

国東郡杵築領分知濱村 別宮八幡

御料三ヶ村杵築領五ヶ村都合八ヶ村氏子ニ而年々

九月十五日祭礼ニ付先例ゟ當場村順ニ而相勤來候 (つづく)



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