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豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書・端裏書

天保四年七月廿五日 四日市御役所宛 国東郡新涯村俊平ほか連署 伊美別宮社舎人方の儀につき願書

 

(端裏書)

「巳七月廿五日御神役舎人方之儀ニ付/御役所へ御願書被申受之事」


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書〔解説〕

天保四年は、癸巳、西暦1833年。仁孝天皇朝。徳川第十一代将軍家斉(安永2~天保12)の治世。家斉は、安永2(1773)年に誕生。母は岩本氏。父は一橋刑部卿治済。長男。天明1(1781)年に10代将軍家治の養子となり、天明6年9月、家治(50歳)が崩じ、翌7年4月、第11代将軍となった。彼が将軍職に就任した天明7年は、前年の凶作により米価は騰貴し、5月には江戸・大坂をはじめ各地で打ち壊しが発生した。6月、幕府は米の買い占めを禁じ、7月からいわゆる寛政の改革に着手した。翌8年3月、老中松平定信が将軍補佐となり、前代からの権臣田沼意次を排し、寛政の改革を行った。しかし、定信の失脚後は、家斉の親政となり、幕政は緩み、大奥の華美驕奢は文化文政期の文化を生んだが、幕府財政は一段と窮乏の度を増した。この天保4年は、松平豊後杵築藩主は第9代親良で、日田郡代は塩谷大四郎であった。この年はまた、全国的に天気不良で、冷害・洪水・大風雨が続発し、米価が騰貴した。

 

四日市御役所は、豊前国宇佐・下毛両郡(のち国東郡十ヶ村を加えた)の幕府領を管轄するために設けられた代官所(陣屋)。四日市は、現大分県宇佐市域西部の中央に位置する。明徳年中(1390~94)、渡辺氏が、大内義弘の恩賞にあずかって、豊前国宇佐郡高家(たけい)郷の四日市に来住したという。渡辺氏は、肥前国松浦の出身で、防州大内家に仕えていた。以降、元重村近くの小倉山(狐塚山)の小倉城(四日市切寄)に拠った渡辺氏が在地領主として一帯に勢力を振るった。天文20(1551)年、大内義隆自害以降、渡辺氏は、大友義鎮によって所帯を没収され、旧領のうちいくらかを安堵されて、大友氏の軍役に馳走したという。天正8(1580)年9月20日、四日市切寄衆は、大友義統から宇佐郡に計57町5反の地を与えられた。天正15(1587)年、黒田孝高領となり、慶長5(1600)年、細川豊前中津藩領となったが、元和6(1620)年、細川氏は主城を豊前小倉に移したため、小倉藩領となった。寛永9(1632)年、細川氏は肥後熊本に転封し、小笠原豊前中津藩領となったが、元禄11(1698)年に、藩主小笠原長胤は、失政・乱行を糺されて領地八万石を収公されて、収公地のうち四万石は長胤の弟長円に与えられた。残る四万石(実高は5万3千石余)宇佐・下毛両郡のうち126ヶ村は幕府領となった。これらの幕府領を管轄するために、四日市代官所(陣屋)が設けられた(元禄13年陣屋普請完成)。享保5(1720)年から元文2(1737)年まで、日田代官の出張陣屋となり、元文2年には国東郡十ヶ村が所管に加わった。以降、四日市陣屋は、日田代官・長崎代官や西国筋郡代所管の出張陣屋となるなどの変更があった。


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その1)

     乍恐以書附奉願上候

国東郡杵築領分知濱村 別宮八幡

御料三ヶ村杵築領五ヶ村都合八ヶ村氏子ニ而年々

九月十五日祭礼ニ付先例ゟ當場村順ニ而相勤來候 (つづく)


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その2)

(前承)處當年者私共村方輪番ニ而祭礼ニ付屋具左美

与申儀相勤候處右役割村中寄之上射手三人

舎人六人申付候處舎人之者共一向請合不申彼是与


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その3)

故障申立候中ニ茂法外抔申出之者有之去ル

天保二夘年當場之節茂舎人方之者共ゟ故障申立

以後取締書付村中ゟ差入茂有之尚又先䂓之例

段〃利解申聞候得共一円承引ふ仕六人一統罷出

村役人衆相勤候ハヽ舎人役相勤可申候得共其外

 

(影印つづく)



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