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第3章 近世史料解読集①天保4新涯村俊平ほか連署願書

第8章 近世文書解読集

第8章 近世文書解読集


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書・端裏書

天保四年七月廿五日 四日市御役所宛 国東郡新涯村俊平ほか連署 伊美別宮社舎人方の儀につき願書

 

(端裏書)

「巳七月廿五日御神役舎人方之儀ニ付/御役所へ御願書被申受之事」


豊後国国東郡伊美別宮社舎人方につき連署願書〔解説〕

天保四年は、癸巳、西暦1833年。仁孝天皇朝。徳川第十一代将軍家斉(安永2~天保12)の治世。家斉は、安永2(1773)年に誕生。母は岩本氏。父は一橋刑部卿治済。長男。天明1(1781)年に10代将軍家治の養子となり、天明6年9月、家治(50歳)が崩じ、翌7年4月、第11代将軍となった。彼が将軍職に就任した天明7年は、前年の凶作により米価は騰貴し、5月には江戸・大坂をはじめ各地で打ち壊しが発生した。6月、幕府は米の買い占めを禁じ、7月からいわゆる寛政の改革に着手した。翌8年3月、老中松平定信が将軍補佐となり、前代からの権臣田沼意次を排し、寛政の改革を行った。しかし、定信の失脚後は、家斉の親政となり、幕政は緩み、大奥の華美驕奢は文化文政期の文化を生んだが、幕府財政は一段と窮乏の度を増した。この天保4年は、松平豊後杵築藩主は第9代親良で、日田郡代は塩谷大四郎であった。この年はまた、全国的に天気不良で、冷害・洪水・大風雨が続発し、米価が騰貴した。

 

四日市御役所は、豊前国宇佐・下毛両郡(のち国東郡十ヶ村を加えた)の幕府領を管轄するために設けられた代官所(陣屋)。四日市は、現大分県宇佐市域西部の中央に位置する。明徳年中(1390~94)、渡辺氏が、大内義弘の恩賞にあずかって、豊前国宇佐郡高家(たけい)郷の四日市に来住したという。渡辺氏は、肥前国松浦の出身で、防州大内家に仕えていた。以降、元重村近くの小倉山(狐塚山)の小倉城(四日市切寄)に拠った渡辺氏が在地領主として一帯に勢力を振るった。天文20(1551)年、大内義隆自害以降、渡辺氏は、大友義鎮によって所帯を没収され、旧領のうちいくらかを安堵されて、大友氏の軍役に馳走したという。天正8(1580)年9月20日、四日市切寄衆は、大友義統から宇佐郡に計57町5反の地を与えられた。天正15(1587)年、黒田孝高領となり、慶長5(1600)年、細川豊前中津藩領となったが、元和6(1620)年、細川氏は主城を豊前小倉に移したため、小倉藩領となった。寛永9(1632)年、細川氏は肥後熊本に転封し、小笠原豊前中津藩領となったが、元禄11(1698)年に、藩主小笠原長胤は、失政・乱行を糺されて領地八万石を収公されて、収公地のうち四万石は長胤の弟長円に与えられた。残る四万石(実高は5万3千石余)宇佐・下毛両郡のうち126ヶ村は幕府領となった。これらの幕府領を管轄するために、四日市代官所(陣屋)が設けられた(元禄13年陣屋普請完成)。享保5(1720)年から元文2(1737)年まで、日田代官の出張陣屋となり、元文2年には国東郡十ヶ村が所管に加わった。以降、四日市陣屋は、日田代官・長崎代官や西国筋郡代所管の出張陣屋となるなどの変更があった。


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その1)

     乍恐以書附奉願上候

国東郡杵築領分知濱村 別宮八幡

御料三ヶ村杵築領五ヶ村都合八ヶ村氏子ニ而年々

九月十五日祭礼ニ付先例ゟ當場村順ニ而相勤來候 (つづく)


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その2)

(前承)處當年者私共村方輪番ニ而祭礼ニ付屋具左美

与申儀相勤候處右役割村中寄之上射手三人

舎人六人申付候處舎人之者共一向請合不申彼是与


乍恐以書附奉願上候 影印と釈文(その3)

故障申立候中ニ茂法外抔申出之者有之去ル

天保二夘年當場之節茂舎人方之者共ゟ故障申立

以後取締書付村中ゟ差入茂有之尚又先䂓之例

段〃利解申聞候得共一円承引ふ仕六人一統罷出

村役人衆相勤候ハヽ舎人役相勤可申候得共其外

 

(影印つづく)


乍恐以書附奉願上候 注解(その1)

國東郡杵築領分知 国東地方は、関ヶ原の戦いのあと、慶長5年、中津の黒田氏が筑前福岡に移り、その後に細川氏が入った。細川氏は豊前一国と国東郡全部と速見郡の一部を領有し、慶長検地・元和人畜改め等を行い、手永・大庄屋制をしいて領内支配の基本体制を作り上げたが、寛永9年、肥後熊本に転封し、豊後木付(杵築)には小笠原忠知が入封し十三年間国東郡を支配した。正保2年7月、小笠原氏は、木付から三河吉田に転封となり、その後に豊後高田から忠知の甥にあたる松平英親が入封した。英親は、父の遺言に従って、天和2年に弟の重長に三千石、直政に二千石を分知した。元文2年、直政の分知領は、孫の武郷の駿府在番中の不行跡によって幕府に没収され、幕府領となった。重長の分知領は、伊美組七ヶ村=嶺・伊美浦・伊美浜・櫛来・小熊毛・大熊毛・向田、両子組八ヶ村=中野・中野川・矢川・糸永・小俣・恒清・油留木・山浦の、都合十五ヶ村であった。

 

濱村  来浦浦(くのうらうら)・来浦浜村とも称した。伊予灘に臨む来浦川河口部に位置する村。江戸時代はじめは細川豊前中津藩領。慶長6(1601)年、鈴木大蔵が、松原の恵美須神社を創建したという。鈴木大蔵は、摂津の人で、豊後に来る途中で難風に会い、恵美須大神に祈請したところ、無事にこの浜に着き居住し、報賽のため、本社を創建したという。元和8(1622)年には浦手来浦と称し、富来手永に属して蔵納地であった。寛永13(1636)年2月、安静覚十郎という武士が剃髪して僧となり、釈教伝と号して、来浦字浜(中村)に一宇を建立し、浄土真宗本願寺派の安静山正覚寺を開基したという。享保5(1720)年、小串佐五七(定保)が、来浦奥に誕生した。母は某女。父は小串芳好。四男。寛保年間(1741~43)、来浦のお茶屋小串重玄の五男芳好は、浜に別居した。当時、本家の定生が幼少であったので、成長するまでの十五年間、大庄屋を務めた。芳好の四男佐五七(定保)は、資性明敏、豪胆のうえ、才智非凡にして、伴右衛門と号して商業を志し、松原から南浜に居を移し、浜田屋を名乗った。まず酒造株を許されて酒造に精を出す一方で海運業に着目し、瀬戸内を舞台に物資の交易しだいに盛んとなり、数十隻を配下に、藩公からもお目見え商人として遇せられるようになった。その頃の来浦は川尻二つでその間松原に洲浜があり、南浜・北浜・松原に官宅庄屋あり、船着き至って狭く、松原の北には塩浜があった。塩浜を良くすれば中国地方で見るように、製塩の利を得ることもできるが、とにかく何としても良港を持ちたいもの、さすれば来浦一帯も繁栄する―と考えながら、いよいよ商売は活況を呈し、京阪地方でも名声高く、大阪に出張別邸を構え、瀬戸内はわが家敷うちとばかり、もちろん藩内外の輸送関係は一手に引受け、両浜に倉庫立並び、藩士の北する者、必ずまげて立寄れば、三浦梅園も何回か足をまげた。こうして日に日に盛大に屈指の豪商と評判されるようになった半面、定保は、思想堅実、信仰に厚く、社寺の寄進怠ることなく、社殿の再建、十王堂奉献、鳥居の奉納など、来浦谷のみならず、諸方の寺社に及んだ。宝暦3(1753)年、小串伴右衛門定安発願の石碑に、「内社御寄進並に上屋建立仕処也」とあるという(以上『国東町史』による)。明和5(1768)年の恵美須神社鳥居がある。安永(1772~81)頃から、浜田屋(小串)伴右衛門は、塩浜干拓の事業に取組んだ。しかし、中堤を終り、大堤北半分ほど出来た安永9(1780)年5月20日、病没。その子滝蔵は、二代目伴右衛門定世を名乗り、親族一体となって、地方有志や藩の後援まで得て、この大工事を続け、寛政4(1792)年春、潮止めの式を行い、新田13町4段6畝29歩の干拓を完成させた。地方まれにみる大事業であっただけに、豪商といわれた小串家の全財産のみならず、各方面にわたる莫大な起債につき、妻は病死、定世の苦心も一方ならず、彼は一笠一杖の姿で大阪方面に行ったという。享和2(1802)年、浜村から、七島筵5746束が移出された。来浦川の河口部は、広く水深もあり、湊として商人に利用され、杵築藩より穀物の船による出荷が認められていた。文政4(1821)年、升田屋の神宮丸が、石見国浜田外(と)ノ浦に入津した。升田屋は、豪農で、酒造を行い、中国方面との商取引も活発であった。丁字屋は、旅館を営み、鮮魚商をしていた。浜屋は、船持で筵や木材を扱っていた。