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私見

 黒子は当作品に敷かれたユーモア性の効果を探るに当り、昭和初期に富んだ佐々木邦の作風を称して言われる「佐々木邦調」の影響力を見張り、辰野九柴、獅子文六、北村小松、をはじめとする〝ユーモア小説の書き手〟に課された当時の雑誌編集を念頭に置き、『畜犬談』が送られた伊馬鵜平が当時どのように活躍出来たか、推察しながら、当作品と伊馬鵜平との関連事項を洗ったようだ。そうする事から氏の論に言われる〝雑誌編集〟の過程に立ち得た〝ユウモア小説〟〝滑稽小説〟延いては「大衆雑誌」の市民への需要の基軸を問うに当って、「ムーラン・ルージュ」からはじめ、「キング」「新青年」といった当時のジャーナリズムの一端を担う商業誌に眼を止め、ユウモア作品作家と雑誌社との執筆構想のずれを説いている。中野嘉一は当作品『畜犬談』を解釈するに当り「抱腹絶倒させられる滑稽小説」だとして作品に込められた太宰の創作気質を讃えているが、黒子においては先述の「佐々木邦調」の発端に根付いた作家達の作風により「大爆笑」「抱腹絶倒」させられる作品は殆ど無いとし、やはり「編集」と作家が擁した発表態度の違和に注意していた(雑誌「ユーモアクラブ」に掲載された作品観による)。この辺りの読後感の相違においては当然各自の見方で千変するが、この違和感を当時これ等の作品を読んでいる読者の視点に向け据え各作品が時代のニーズへ受容され得た経緯を図れば、「近代文学始まって以来のユーモア」を冠したジャーナリズムに佐々木邦をはじめに同乗していた「ユーモア作家倶楽部の面々」の創作姿勢を調べる際にも、新たな活気を見るかも知れない。

 当作品に付される「ユーモア」「滑稽」については尾崎をはじめに斎藤理生、奥野健男も綿々解いたが、夫々の論に課される「笑い」の主論には大体尾崎の呈した「常識線」上に交される「私」と「家内」の動きが終始脈打ち、各々似寄る争点へと沈着していた。しかし内でも「一人角力」を冠した「私」と「家内」の対照観はやはり「浮かぬ顔」した「家内」の姿勢を紐解くのに面白く、この言葉には「家内」の作品における重要度を独自に解する光明を見た上ストックしたい。又、斎藤理生が呈した「聞き手に自分とは異なる犬観の持ち主を想定している」ことは作者の読者へ講じた作品主張を読者側から読み取り可能な一種転じた奇想と思われ、これは「私」と「犬」(延いては「ポチ」)との関連性を紐解く際での構想貯蓄に携えて置く。

 また、舘下、今西をはじめ、『畜犬談』に付された〝数(数詞)〟の働きに注目し、この〝数〟が齎す読後感への巧妙を〝滑稽〟を軸にして解いているものは、両氏を外して尾崎、斎藤、奥野による見解にも散見され得る。こうした内でも舘下論では紅野謙介の「数字の無根拠性」を主題にしながら、『富嶽百景』を参照に置き(紅野も同じ)、「三、七、二十一日間」「三七、二十一日間」に歌われる読者と作者の〝合いの言葉〟を取り上げたのち〈言葉の無駄遣いによる愉しさ〉を念押ししている。今西はこれに対して人が使う慣用句等の手近な口調に近いとした上、「指折り数えられる」数詞記述の「現実感」は、読者に実感を与えられる(作者による)〝印象付け〟としてやはり作品解釈の方へと軸が向かった。舘下はこれに加え、佐藤信夫による〈誇張法〉に着目した上、「過剰実証性、或いは過剰論理性が言語自体への自己パロディとなる特殊な誇張表現」に視座を向け、「私」の伝える「決して噛まないといふことは、科学的に証明できる筈はないのである」とのラインを取り、「私」の演出効果とは「科学的実証」とは相反する「特殊な誇張表現」から成ると論決し、『畜犬談』におけるパロディへの装飾にはこうした「過度の誇張」が根も葉も無く内在している根拠の游離にある等、一応の帰着を擁してある。

 丸山においても同様にあるが、こうした『畜犬談』に対する評価の構想(発想)とは当時太宰・作品を取り巻いていた同時代背景に視野を拡げる事を大事とした上、川端康成、志賀直哉による「畜犬」を扱った作品と当作品との関連性への注意を持ちつつ、メディア、甲府市での新婚生活、太宰の心身状況、また、甲府市内に横行していた畜犬・野犬の人との関連等まで調べる事は必然とするまま大体取り入れ、特にそうした同時代への追究とはまた、当作品が事実「献辞」され得た〝伊馬鵜平〟と太宰作品との関連性へと傾倒している。こうした作品を知る上での〝背景〟への追憶とは(作品は皆そうであろうが)今回『畜犬談』に内在され得た意識を問う上では必須の手順に考えられる。

 


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私見

 ここでは黒子、渡部、今西の三者を取り上げたが、他の論(「笑い・ユーモア」を主に説いた論)でもこうした段分けはなされており、大体にして大きく分ければ上記に挙げた二分・四分の試みがなされている。ここにおいて注目すべきは「私」の「犬」に対する視点と「ポチ」に対する視点との相違に先ずあり、特に黒子の論の冒頭部に見られるように、「犬嫌いの『私』は最後に『ポチ』に愛情を持つようになったのであって『私』の犬全体への愛情はそれほど変わっていない」という点は『畜犬談』を読む際、「私」と「ポチ」、延いては「犬」との関係を明確にする際重要と思われる。黒子はこの後「何故、犬嫌いの『私』が『ポチ』を好きになったのか」とし、渡部の論がそうした「私」と「犬全体」を背景にした「ポチ」との関係を扱うものだと主張した上、両者共、「『私』の心のコミュニケーションには、当時の太宰と人間との関係がある」と見て「ポチ」を通した「私」の「自己回復」が作品の結末に来ていると主張している(黒子:「犬との交情を描きながら、実は犬を喩えとした自己回復の物語なのである」、渡部:「人間一般への不信を、人間個々との関係を解き明かすことにより、解消させていこうとしていたのである」)。黒子は作品論に触れながら「芸術性」「文学性」が「商業的」に掠め取られた犠牲であるとの懸念を評しているが、やはりタイトル通りに、作品に付された「笑い」「ユーモア」から見たメディアの様子に重きを置いて、井伏と太宰の「笑い」の相違を理解するのが〝作品解釈の一つの鍵になる〟と説いた。渡部の論では、中期初め頃の太宰の執筆態度に注意しながら「作者自らを戯画化することによりその『滑稽』は『自虐的』に齎された」と、飽くまで作品内部へ繋がる「私」と個との関係を想定するのに重きを置いて「八十八夜」「俗天使」等の前後作品に記された太宰自身の記述を採り、「私」に太宰を投影するまま解釈に結び付けている節が無いでもない。

 これ等の結果は、やはり夫人の回想にはじまる甲府での新婚生活が太宰を取り巻いた大きな平安期に在ると共に、そうした〝平安〟の内にも、作品を通して滲み出て来る「自虐」「自嘲」「戯画」といった当の太宰の実直な姿勢(すがた)が執筆に露わに成りつつ、病的な心身の具合が当時の太宰に混在していた事実を講じて土台としており、「私」=太宰ではない、という一種決った想定があるにせよ、やはり作品に設定され得た環境と人物、そこから実生活への掛け渡しを成す作者自身の〝投影〟を仮定するのは案外容易でもある。

 命題に設けた登場人物への「脚色の限界」とは、簡略すれば「作者の主張がそれ以上派生出来ない極点」を見る為やや無理に設けた想起にあって、読者から見て論考され得る作品主張を作品内部と外部の情報網から多角に見る内、作品を通して作者の意図がどの程度に纏まり得るかを推察するのに役立ちはする。しかし前に記したが、そうした見解を成す行程には読者各自の見方に伴う変化がある為、土台を呈する論決までには力量不足が自然に観られて解決不能の壁にぶつかる。そこで、こうした作者自身の自己投影が在るのと無いのと二つの意向に依存したまま、どういう道理が作品意図へと直結するのか、彼等が為し得た様な作品外部の情報網にも注意をして行き、飽くまで作品において展開され得る人物設定・環境設定が構築出来る許容範囲を設けた上で、なるべく内容主体に距離を置かずに論考され得る手段を採りたい。『便覧』で挙げた「人生をドラマ化しないで率直な心で捉えようとしてい」た太宰の執筆姿勢に参照するまま、キャラクターをして太宰が何を問うかを読者側にて推察して行き、こうした論考手段を確立させ得る確かな情報網など作品外部に配慮し土台に据えて、作者の主張をどういう程度に捉え得るかに視点を置く内、作者が設けた脚色の成り立ちを追及してみる。

 こうした命題を問う際、彼等が呈した「ユーモア」「滑稽」「戯画」の在り方とは当時の太宰の執筆姿勢を彷彿させ得る契機を孕んで立脚して在り、又、「私」「ポチ」を見守る「家内」の動向などにも、ひょっとすると、多大な効果を発揮させ得る脚色効果が内在され得る事実を想わせ大事に見えて、「笑い」を呈した『畜犬談』への論考手順もこうした「ユーモア」の在り方から見付けられるか、推考して行く価値は伺え注目したい。

 


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目次

1.     はじめに

2.     第一章 『畜犬談論』諸説と同時代背景

3.     第一節 先行研究

4.     第一節 先行研究

5.     私見

6.     第二節 同時代背景に纏わる諸事情

7.     第二章 『畜犬談』における構想

8.     私見

9.     第二節 文体構造における段落分け

10.  私見

11.  第三節 伊馬鵜平と当作品との関係性

12.  私見

13.  第三章 『私』『犬』『家内』への脚色の限界

14.  第二節 「私」の「ポチ」への視点

15.  第三節 「家内」の維持する立場

16.  おわりに

17.  注一覧

18.  参考文献

19.  本文校異

20.  語釈


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