目次
またあの夏がきました 1
またあの夏がきました 2
あの時のこと 1
あの時のこと 2
あの日の事 3
今にも雪の降りそうな朝
クニ子おばばと不思議な森 
昔私は本屋さんになると言っておりました
グリーンゲーブルズの マシュー は
オールデーズ
雑感録
戻れない場所、戻ってはいけないところ
勘違いの勘違い
くじけないで
もう一度生き直せるとしたらとかんがえます
祖母二人
山の上 1
山の上 2
中古の家をこっそり見た時のことでした
中古の家を見てきました
いつもの日曜日の朝のことです
二枚の絵
ジュリーロンドンをご存知ですか
雛祭
ホンダのスーパーカブ
テレビが来た時
こんな寂れた町にも喫茶店は何軒かありました
クリスマスケーキ カレー ホットケーキ
夢で会いましょう シャボン玉ホリデー
昭和という時代
昭和
昭和のヒーローたち
昭和のヒーロー 2
あの頃の遊び
昭和映画の全盛期
映画の後日談
そして後日談
善通寺 千年昔の話です
遍路巡礼
池の土手で遭遇したものは
あの人です
今更の追悼文 高橋和巳氏へ
昭和を語っていたのでした
電車乗り場
マツダ キャロル
まさに現代の天狗さん
絶滅危惧種 文学全集
瀬戸内芸術祭 漂流郵便局
昭和の歌謡曲
トキワ荘の軌跡
いまスーパーヒーローは
善通寺の仁王さん
聞いた話
Eテレの勧め
格安散髪屋のワンシーン
また春が来ます
特別な桜
年取った私の最後の犬
詩の話です
私の好きなテレビ番組です

閉じる


またあの夏がきました 1

  今年は公私共に忙しく、妻に言われるまで蝉の声がしないことに気付きませんでした。確かに今も蝉の声は少ないように思いますが、下の写真は気持ち悪いぐらい 蝉 蝉 蝉 といった感じです。この木の足元には蝉が抜け出した穴が沢山開いています。蝉の抜け殻も、この他に木一面にぶら下がっています。でも蝉の声は去年のようではありません。どこへ行ったのでしょうか。そしてこの時期に ひぐらし が鳴いています。

 

 

     

 


またあの夏がきました 2

   善通寺は、善通寺祭りが終わるとすぐお盆が来ます。そしてすぐ  さぬきの宮 護国神社の 万灯夏祭り が行われます。それには、戦没者の家族の献灯した幾百の提灯が、広い神社内の参道に掲げられます。その提灯には戦没者の名が書かれており、夜、その参道を歩きながらそこに書かれた名前の一つ一つを読んでいきますと、心がしんと冷えて重くなってしまいます。私は戦後生まれの人間で、戦争のことも戦後の混乱のことも知りません。今思えば子供時代は何もなく、ただ貧しかったこと、そしてそれは誰しものことであったということ - そんなことしか解りません。しかしそれは今思うからであって、その時は貧しいともつらいとも思いませんでした。

 

  今大マスコミの中で、典型的にして類型的な、そしてかつてのような古めかしい  右翼的発言  が横行しております。

 

       国旗と国歌を愛せない者は 愛国者ではない

 

えっ?日本人はすべからく国旗と国歌を愛さなければいけないの・・・と、そんなことを言うと

      非国民

といわれる時代がまたくるのでしょうか。

     

  国家のために死ぬことは名誉なことであると教えなければならない

と言います。しかし私は

 

  命はひとつ 人生は一回だから命を捨てないようにね

  あわてると ついふらふらと お国の為なのとね言われるとね

  青くなって 尻ごみなさい 逃げなさい 隠れなさい 

 

と いう方に共感します。 弱くて、覚悟もなく、時代の中で親の後をただ働いて生きてきたものとしては、なんとののしられようとこんな風に生きてきました。私達に貼り付けられた最大の レッテル は  団塊の世代 です。

 

 

 

 

他にも 戦争を知らない子供達 トロツキスト  新左翼  全共闘 ベ平連 ・・・そうです、私の精神は今でも、かの山本一太氏が与謝野氏の言ったこととして国会の質問のなかで連呼した  新左翼の全共闘くずれ  です。もっと格好良い言い方がありました。  ノンセクト ラジカルズ -私達は右翼の人たちのように、もうすでに用意された美しい言葉も論理も様式も持ちません。庶民として生き、何も残せず、戦時中であれば  お前達は赤紙一枚でいくらでも補充ができるんだ  といわれる側の人間です。それ故自分が生きてきた実感の中から自分の言葉を掴み、生きております。敷島の 大和心を  と美しく言えません。何せ、ノンセクト なんですから。しかしもう ラジカル  にはなれませんが。

 

  参議院自民党の女性議員の主張を聞いていると、幕末の遊説家なるものを思い出しします。かつては  尊王攘夷  でありました。今は  あなたには国家観がないっ!  です。過激な論を精一杯声高にわめいて他人をののしり、一方的に決め付けることが国家観と関係あるのでしょうか。

  今の日本人は  一番駄目だね

と、かつての芥川賞作家の都知事は言います。その首都で  3・11 に帰宅難民9万人が粛々と、整然と、暴動も起こさず、じっと我慢して帰りました。戦後モラルの第一番目の破壊者は  太陽族  ではなかったかと、かの知事にいってやりたい思いに駆られています。

  今の風潮に、私は  マリオと魔術師  を思わざるを得ません。そして今、大マスコミも、評論家なるものも、世論調査の数字も信じられません。私は神にも国家にもよって立つことのできない  ノンセクト  ですから。しかし私はまだ今も マリオ  で居続けていられてますでしょうか。

  

 しかし、かつての大野党の主張のように、憲法9条があるから日本は戦争から逃れられているのだとは思いません。しかし日本が戦後一度も海外で鉄砲を発射した事が無いことを、何故誇りとしてはいけないのでしょうか。常に膨大な軍備を用意し、他国と戦う体制を準備するのではなく、かの中国で日本の災害救助隊が遺体を発見した際、きちんと整列して黙とうを捧げた、その態度を貫くことの方が、誇り高く、世界に凛と立つ日本を示す方法だと、私は思っています。

  

   
     
   

 

 

 

 


あの時のこと 1

  山陰の地方大学で私は、あの学舎と大学本部を全共闘が封鎖しているさなかに、京都大学文学部助教授にして著名な作家であった  高橋 和己氏 の講演会の開催に加わったことがありました。あの時代、こんなことも出来ました。確か、昭和44年ごろであったと思います。バリケードの中で、どんなきっかけからそんな話になったのか解りませんが、高橋氏がこの大学が旧制高校の頃の出身であることを頼りに、講演会を依頼しょうということになり、図々しくも直接出かけていって頼み込んだのでした。私自身は貧乏学生でしたので京都までの旅費が辛く、一度だけ朝早く京都に着く夜行列車に乗り、初回だったか二回目だったかの依頼に同行しました。その頃は京大もバリケード封鎖されていましたが、その整然と積み上げられたバリケードの規模の大きさに、圧倒される思いがしたのは地方大学の学生のひがみだったでしょうか。そしてそのバリケードも割合なんと言う事もなく通ることができたこと、高橋氏にもすんなり会えたこと、加えて氏が講演依頼にちょっと考えただけで直ぐ応じてくれたことに拍子抜けしたような思いがしたことを覚えております。更に講演には、氏のほかに東大の  最首悟氏  も加わってくれることになり、講演を依頼したこちらの方がびっくりしました。この面会の後、何度か打ち合わせがあり、講演会の日時も決まって、私は謂わば宣伝のために読書会を開きました。メンバー6人で、まるで目立たない小さな立看を書き、学生会館の前に立てました。たったそれだけでしたが、その集会には、色分けすれば右から左まで、日共、反日共、ノンポリ、ノンセクト、ちょっと過激な高校生、右翼学生、そして英文科の助手まで、まるで休戦協定を結んだかのように集まってきました。

    先生 スパイにきたんかな

  誰が スパイじゃ  ここへ来たことが学校にばれたら こっちの

  首が あぶないわ

そんな会話が飛んでいました。そこは、占拠されている大教室で、そんなにも人が集まるとは思わなかったので、あわててマイクを用意し、それから集会を始めました。

 

 

 

 

 

 

 高橋和己氏 最首悟氏の講演会準備委員会として  両先生の講演     

  会に先立ち  ・・・・  云々

と会の開催の挨拶が出来るまで大分のこと、手間取りました。

  そして、その時私が選んだ高橋和己氏の著作は  憂鬱なる党派 でもなく  我が心は石にあらず  邪宗門  悲の器 でもなく

      散華     と    暗殺の哲学

でありました。 

 

 


あの時のこと 2

   高橋和己氏の二つの作品

     散華

     暗殺の哲学

は、共に大いに議論が発展するだろうし、いかにも新左翼好みと言う作品を選ぶのはどうかと考えたからでした。会の最初の基調レポートは私が行いましたが、もう40年以上も前のことで、おぼえておりません。しかし高橋氏は、体制に言葉と思想で挑んで行き、極限での人間の思想とそこに表出される行動との落差を、透徹した論理で展開したものが  暗殺の哲学  だと私は思う、とか言ったと思います。どんな高邁な革命思想も行動であらわすと、ただの殴り合いでしかないと言った積りでした。そして  散華  は、戦争には参加していなくとも自分の目で戦争を見てきた高橋氏が、戦時に踊った思想と、戦争が終わった後もそれを抱え続けた人を描いたものと紹介しました。どちらも思想を抱え込んで生きている人間を論じ、描いた作品であるというようなことが私の基調レポートでありました。 

  しかし会は何時の間にか、

     暗殺是か非か 

     一人一殺  近代の超克

     いやテロリズムは何も生み出さない 

     暗殺 や 蜂起 が歴史に悪と書かれるのは

     歴史が勝者によって記述されるからだ

     明治の元勲達は殆ど皆テロリストだった

と、今にも殴り合いが始まりそうになりました。

待って、待って、この会は暗殺自体を論じるのではなく、極限状態に追い込まれた人間の思想と行動についてと、人間の心の闇の部分までさらけ出すように描いた高橋氏の文学作品について考える会ですよー、 あんたら、彼の小説読んでるんですかー・・・ 、主催者としては無責任ですが私は散会宣言もせず、そろっと教室から逃げ出しました。そして後で見知らぬ人に、あちこちで睨まれることがありました。

 


あの日の事 3

  当の講演会の日は、バリケード封鎖された学内に学生が戻ってきました。彼らは普通に学生会館で昼食を食べ、講演会の行われる大講義室の前の、私達が作った開始時間を知らせる立て看に一瞥をくれ、立ち去って行きます。会場の設営をしながら、私達はそれを見ておりました。あいつ等、来るんだろうか・・・、会は成功するんだろうかという思いがありました。そして、会が成功するって、なに?沢山の人が集まるってこと?と準備委員会の学生と首を捻って考えました。そんな疑問が余りに日常的で、このバリケードの中の異常さとはかけ離れたものだと解っていたからです。しかし、あの  高橋和己氏  が来るのですから、沢山の聴衆に聞いてもらいたいとも思いました。人が集まらなければ、面目が立たない - なんて日常的な考えでしょう。しかし、そんな思いに駆られたことも事実です。そんな私達の横を、普通の、ごく普通の学生が談笑しながら通ります。そこにはごく在り来たりの日常が普通に流れておりました。それを間近に見た私は

  ああ 革命は  成らない

と突然解ってしまいました。このバリケードの中の、熱いほどの高ぶりと異常さが馬鹿馬鹿しく見えたのです。私達の闘争は、彼らの日常を変えられていない ー そう思い、すっと心が引いて行きました。

  高橋氏と最首悟氏は、タクシーで大講義室の前までやってきました。私は会場の入り口で入場料500円を貰いながら、それを見ておりました。人は会場に立ち見が出るほど集まっており、なお入場しようとやってきております。

  1000円にすればよかったなあ

実行委員長が近寄ってきて小声で言います。

  革命は  金か!

そう言いたくなりました。

  講演が始まったとき、私はまだ外で入場料を貰っておりました。

  **大全共闘の諸君に、連帯の挨拶を送る!!

最首悟氏の第一声が聞こえました。私の後ずさりしていた心が、ほっと暖かくなったのを覚えております。そしてその後も笑い声が時を置かず挙がり、最首氏の講演の巧みさが解りましたが、入り口の私には内容までは聞き取れませんでした。

 

 

  その後高橋氏に替わったのでしょう、柔らかな声がし始めました。場内から声も挙がりません。張り詰めてじっと聞き入っているのが解ります。まるで大学の講義を聴いているようです。私も聞き耳を立てていましたが、高橋氏の声は弱弱しく、聞き取れませんでした。思えば、その時はもう相当に体を衰弱させていたのかもしれません。この講演は、私こそ聴きたかった!文学をするものの責任 - 多分そんな思いに駆り立てられて、大学も辞し、田舎大学で講演会を開き、ただ生真面目に学生達に語りかける、私はその姿を垣間見ただけでした。作家が時代の良心であるならば、彼こそ真の意味での良心であると思います。私のようなものが論評するのは余りのも僭越ですが、深い教養に裏打ちされた最良の良心であったと思います。  我が解体 にあったと思いますが、母親に勧められて踊る宗教の踊りまで踊ったのは、高橋氏の母親に対する優しさであったのでしょう。彼はその時39才でありました。彼にはもう少し人生が必要でありました。

  高橋氏と最首氏は、翌日広島大学に講演に向かいました。何も知らない、何も解らない私達に、高橋氏は山道を松明を持って駆け連なってゆく邪宗門の門徒の姿を見ていたのでしょうか。少なくとも、私は 盾の会 ではなく、邪宗門門徒でありたいと、当時は思っていました。   

  

   あれから40年ほども経っております。

  

 

 



読者登録

pinokopapaさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について