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はじめに -服部 賢ー

 服部正という作曲家が亡くなって間もなく10年になります。

ちょうど百歳で亡くなったので、生誕110年を迎える、という事にもなります。

服部正は1908年(明治41年)に生まれ、大正、昭和、平成という4つの世代を生きてきました。

 特に昭和時代、中でも戦前、戦後の混乱期にクラシックを中心とする音楽を広めるべく身を粉にして活動し、その軌跡を昭和33年に「広場に楽隊を鳴らそう」という本も出版しました。後にも先にも服部正の自伝的書物はこの本限りであり、この本の初版の平凡社殿に確認したところ、権利も50年を過ぎたため親権者である私の一存で再版は可能である事も分かり、没後10年を迎えるにあたり今回電子出版にて復刻をする事にいたしました。

 【広場で楽隊を鳴らそう初版本】

 

 服部正没後、おびただしい譜面と写真等が遺品として残されましたが、今回の出版では記事に書かれた内容に即した譜面や画像があればそれも掲載し、そして初版発刊後の服部正の音楽家として残りの半生の活動の一端も追記させていただきました。

 内容として不十分なところ、また服部正の表現で不可解な所の修正も的を得ているか非常に不安ですが、「音楽を楽しむ環境でない激動の時代に、服部正がどれだけ音楽の普及に努力をしていたか」を感じ取っていただければ幸いです。

 

2017年 冬 服部 賢

 


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最終更新日 : 2017-12-30 06:41:36

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目次

1.アマチュア時代
 慶応義塾マンドリン・クラブ
 学生音楽万才

2. 音楽を職として
 四十日のサラリーマン
 黄金時代のビクターへ
 トーキー映画出演
 楽壇へ
 西風にひらめく旗
 森永プロムナード・コンサート
 新響無指揮者演奏会
 「金銭」と楽隊気質

3.模索の時代
 最初のリサイタル
 コオロギのなくスタジオ
 PCLと「田園交響楽」
 映画音楽の位置
 楽団づくり
 ミュージカルスの芽
 絢爛たるバレエ・コンサート
 七月七日の演奏旅行

4.戦争と音楽の仲間たち
 「次郎物語」と戦争
 ついにきた赤紙
 学徒出陣のうた
 空襲下の燕尾服
 八月十三日のカンタータ

5. 新しい出発
 青響の解散
 アメリカの文化政策
 生活の転期
 日本のミュージカルス

6. 広場のコンサート
 オペラ「手古奈」の始末
 広場のコンサート

     あとがき - 服部 正 -

7.その後の服部 正(服部 賢 著)

     もっとも多忙な高度成長期時代

     「プリマ・ローザ」の挫折、「グレース・ノーツ」への執念

     慶應義塾マンドリンクラブとの終焉、そして晩年

     最後に - 服部 賢 -

 


 


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最終更新日 : 2018-01-17 12:36:31

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慶應義塾マンドリンクラブ

 昭和32年6月22日、午後6時15分。

 わたくしは神宮外苑日本青年館ホールの舞台の袖で、出を待っていた。もう幕が上がるというのに、わたくしの前を少々上り気味の学生がガタガタとしきりに出入りしている。これから音楽をしようというのだから、もう少し落ち着けばいいのに-とわたくしは彼らを少し渋い顔で眺める。が、学生たちはこの一年に二度の晴れの舞台の出ることが嬉しくて、遠足に出かける日の小学生のようにジッとしていられないのである。

 1分、2分-このガタガタも漸く静かになって、百人の学生があまり広くない青年館の舞台にぎっしりと楽器をもって落ち着いたようである。もう二十年以上おなじみの青年館の主ともいうべき、志賀昇さんが私の顔をみて、もうよいかというような様子である。と同時に舞台では、堀内敬三作の慶應義塾応援歌「若き血」の演奏が始まる。

 しかしまだ幕は上がらない。前奏が四小節。歌に入って八小節。この辺から志賀さんの指は開幕緞帳のボタンにかかる。

 こうして慶應義塾マンドリンクラブ第78回定期演奏会の幕が開いたのである。

超満員の客席から若々しい拍手が湧きおこる。舞台の上では百人の学生がたいへんな速度で「若き血」をひいている。

 わたくしは舞台の袖で、これを見ながらこのテンポは速すぎると首をかしげる。指揮者なしの演奏で、会を始める習慣は、戦前から慶應義塾マンドリンクラブではやっていた。

 「若き血」が終わると、守屋須美雄君(元NHKアナウンサー、現NHK教養部職員)がのこのこと舞台にでていく。そして昔とった何とやらで、スマートな司会を始める。

 わたくしは、今日の温度はどの位かなと考える。25℃位かな。そして、相当汗をかかなければなるまいと覚悟する。大きな汗ふき用タオルを忘れてきたことを少々後悔する。舞台係の志賀さんの顔をみて、「暑いですね」という。志賀さんは「この建物は旧式で冷房装置が無いから夏はだめですよ」と笑う。

 守屋君の司会が終わった。「では、わたくしたちの大先輩、服部先生、お願い致します!」という声がかかる。私は志賀さんに「では汗をかいてきますよ」といって、さっそうと舞台へ出る。これはできる限りさっそうと出なければならない。腹が痛かろうが金が無かろうが、微笑をたたえて十八貫五百匁の多少重たい体を軽そうに見せなければ、登場にならない。

 拍手がおこる。この音楽会に関する限りわたくしは大先輩として舞台に出ることに何の心配もないし、この日はスターになれるのだから拍手を計算どおり受け、それにふさわしいおじぎをする。良い気持ちである。

 この拍手とわたくしの拍手に対する期待が違うときは、何か落着かなくなる。場合によっては、そこに集まった聴衆の敵意を感ずることもあるし、地方などであまり盛大な拍手で迎えられると、何だか馬鹿にされたような気になることもある。

 しかしこの日の拍手は計算どおりであり、まずよい気持ちで舞台の学生諸君に顔を向ける。

舞台の中央から外れたあたりに、だいぶ新顔が並んでいるようだ。学生団体の春季の音楽会には、必ず新入生部員(フレッシュマン)というものが、生まれて初めて舞台に乗せられるのである。

 この新人の舞台というものは、何とも言えぬ興奮状態を呈する。相当心臓の強いアプレ・ボーイでも、この時だけは神妙な顔をしている。

 眼がすわって少々息切れがしている。こういう硬直状態をほぐさなければ演奏をはじめられない。わたくしは客席にきこえないような小さな声で、何か用があるようなないようなことをブツブツしゃべる。

 興奮状態の新人はこのとき多少眼を動かし、首などを廻すものである。とにかく緊張でひきつったような初舞台の新人の顔は、何とも初心で可愛く美しいものである。

【昭和33年慶應義塾マンドリンクラブ定期演奏会】

 

 三十年前にはわたくしもこの新人の顔で、同じ慶應義塾マンドリンクラブの定期演奏会に一部員として出演していたのであった。

 昭和二年の五月のことである。場所は、芝三田の慶応義塾の中にある大講堂の舞台。舞台の正面に、福沢諭吉先生の着流しの大きな肖像画がある。わたくしも、人並みに新人的上りを体験した。わたくしの場合はただ初舞台で上がったというよりも、わたくしの目の前にいる指揮者の顔がこわかったからである。この指揮者は宮田自転車の息子の宮田政夫氏で、生涯をマンドリンという楽器に捧げたという楽人であったから、その演奏はいささかのエラーも許さぬ峻厳をきわめたものであった。

 この演奏会のための練習の間、この宮田政夫氏にわたくしは大いにマークされ、いろいろとしぼられたのである。それにジョバンニ作曲の「夜の印象」という曲の一部に、嬰記号(シャープ)、重嬰記号(ダブルシャープ)がギッシリとついたパッセージがあって、自家用にいろいろ書き直した譜まで作ったのであるが、どうにも、うまく弾けないところがあった。こういう負け目のために、わたくしは指揮者がこわくて上がったものだ。この場合よい音楽を演奏するのが目的なのに、どうしたらこの指揮者の目をくらまして、事なく曲の終わりにたどりつくかということが目的になってくるから妙なものである。こういう錯誤は職業的な楽団の場合はもっとひどく、その昔ローゼンストックはなやかなりし頃の日本交響楽団には、こういう心理状態で仕事をしていた楽員がずいぶん沢山あったようだ。聴衆を喜ばせるために演奏するのではなく、指揮者のご機嫌を損じないために演奏するのであった。この場合のわたくしも、指揮者の宮田政夫氏のきびしい視線を避けるために死にもの狂いで演奏した。すんだときに何かスポーツでもやった後の爽快さを味わったのは不思議だった。しかしこの演奏会で新人のわたくしは認められたのか、翌年からはマンドラ・テノーレのトップ奏者に抜擢されたのだから、案外よく弾けたのかもしれない。

 昭和の初期、学生音楽というものは隆盛を極めていた。練習も厳格であり、海外から新譜を入手して初演をしたりして若々しい意欲に燃えていた。音楽ジャーナリズムも一応これを認め、その公演の広告などは今日よりも大きく日刊紙面に出ていたようである。ということは、この時代には今日の如くラジオもレコードも盛んでなく、テレビはもちろんなく映画も無声時代であったから、音楽を楽しむことは自分で演奏するなり歌うなりすることしかなかったからである。そのためにかえって身をもって音楽を味わう幸福を持つことができたのかもしれないが、何しろこの時代の大学生の音楽熱は非常なもので、ジャズはまだ全く生活の中にはなく、もっぱらクラシック音楽を逞しく演奏する事を最上の喜びとしていた。

 社会情勢としては、大正末期から尾をひいていた経済不況が昭和二年に金融恐慌をひきおこし、やがては世界的パニックの波にまきこまれてしまった時期ではあったが、物がやすくて金がなくとも何とか気楽に暮せた時代であった。一杯十銭のコーヒーを前にして夜の更けるまで芸術を論じ、思想を論じてもどこの喫茶店でも別に追い出しはしなかった。生活上の不安はみんな一様にもっていたかもしれないが、今日よりもはるかに差し迫った感じが少なかったようであった。

 

 わたくしは、明治41年に神田の明神様の下で生まれた。父はたたきあげた銀行員で、特別に豊かではなかった。三井系財閥発祥の地である伊勢(三重県)の津の出身である。明治初年、祖父の破産のため父は高等小学校を出ると、すぐに伊勢松坂の三井銀行に入った。そして生涯三井の銀行員として実直な人生を送ったのである。青年時代をのぞいてイガ栗頭で通した父は、その生活に酒・煙草をたしなまず、勝負ごとを好まず、自然を愛して暮らした地味な明治的人間であった。

 父はわたくしを、三井系の会社員か銀行員に仕立てるつもりであった。わたくしが慶応に入ったのも、何となくこの学校に対するあこがれはあったものの、学歴の上で生涯損をし続けたと信じている父がもう一度このハンディキャップをつけられぬために、毛並みのいい大学に入れようと考えたからであった。そんな雰囲気の中で育ったわたくしが音楽などに熱中するのは、父としてあまり面白いことではなかったに違いない。

 中学二年のとき、わたくしの一家は大阪に住んでいた。父はそのころ門司に転勤を命ぜられ、単身新任地にむかった。そして門司では十分な教育ができないというわけで、わたくしは大阪の上宮中学をやめ母と弟と三人で上京し、青山学院中学部に転校した。当時三十八才の父は、そんなことからわたくしたちから離れて、心ならずも独身生活をおくることになったのである。

 その年の夏休み、門司に父の独り住居を訪ねたわたくしは床の間に不思議なものを発見した。マンドリンである。これはおどろくべきことだった。あの実直で趣味らしいものは何一つない父が、マンドリンを持っているとは・・・・。そしてこのときはじめて手にしたマンドリンが、わたくしの一生を左右する決定的な動機となったのである。

 当時のマンドリンは大正から昭和にかけてもっとも広く流布した家庭音楽の楽器であった。このマンドリン音楽はその頃実に発達していたもので、東京の大学にはもちろんのこと民間の会社、工場を問わず全国いたるところに合奏団ができていた。東京のマンドリン演奏会は毎夜のように催された。その数多い合奏団のなかでもっとも輝かしい存在だったのが、武井守成男爵の主宰する「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」である。このグループの定期演奏会は、当時音楽演奏の中心だった日本青年館でひらかれていた。いつも四十人をこえる楽員全部がお仕着せのタキシードを一着におよび、特性の手漉き和紙に特別の印刷をした高価なプログラムが招待状とともに添えられ、お客様は全員御招待という超豪華版であった。

 この「オルケストラ・シンフォニカ・タケヰ」が、後年わたくしに音楽家として起つことを決意させ、以来、ずっと浅からぬ因縁をもつようになるのである。

 大正11年の秋、父は東京転勤になった。

 二年間わたくしたちと離れて生活していたのが漸く解消したのだから、大変な喜びで上京してきた。そのとき、例のマンドリンを下げてきたのである。この日から、わたくしはこの楽器の虫になってしまった。そして誰に教わることもなく、いつとはなしにこの楽器を自分のものにしてしまった。

 青山学院はキリスト教の学校だから、毎朝の礼拝で讃美歌をいくつか歌わされる。わたくしはこの讃美歌を歌うことで、ヨーロッパの音楽の美しさを心から味わった。この体験はわたくしが音楽家になるために、将来大いに役立った。この体験がなければ、わたくしはもっと廻り道をしなければならかったろう。青山学院ではクラス担任の倉長久氏の率いるグリー・クラブに入れさせられた。これは高等部の人が主体で作られているもので、わたくしたちの中学生の方は選抜されたものだけが参加を許されたのである。わたくしはここで生まれて初めて、男声合唱という面白い音楽を知ったのである。声変わりの年令であったが、比較的高い声が出たので第二テナーのパートを受け持ち、「オオ・ザ・ブルドッグ・オン・ザ・バンク」というような歌を力一杯に歌って楽しかった。その頃の青山学院には牧師の子弟が多く、彼らはみんななかなか音楽が堪能で、わたくしは彼らと盛んに合奏をやった。特に中学生にしてはギターの上手なのがいて、わたくしのマンドリンにきれいな伴奏をつけてくれるのは嬉しかった。中学を出る最後の年などは、家にいてはマンドリン、学校に行ってはコーラスと、そろそろ朝から晩まで音楽という時代が始まりだしたのである。気の短い父は「そんなにマンドリンばかり弾いていると、楽器をたたき壊してしまうぞ」とどなることもあった。その筈である。わたくしは上級学校へ進むための入学試験の準備を少しもしていなかったのである。

 しかし、音楽の面白さはそのような心配を吹きとばしてしまった。そしてそのころからわたくしは、自分の心の中に聴こえはじめた音楽を紙の上に写すことを始めていた。中学を卒業する別れのパーティで、フリュート一本、ピアノ、マンドリン二本、ギター二本、ハーモニカの七人からなるバンドをクラス・メイトで組織し、恒青会というクラス会の名から考えて「恒青マーチ」という行進曲を作曲しわたくしの指揮で発表したのである。

【”恒青行進曲”直筆譜】

 これが、わたくしが他人の前で発表した最初の作品であった。大正13年3月、満十六才の春のことである。このバンドの中には現在裁判所研修所の判事になった斉藤寿郎や、横浜の慶友病院の副院長の斉藤修二がいた。この二人ともわたくしと一緒に慶応に入り、その後も音楽仲間として在学中は親交を続けた。斉藤寿郎はハーモニカからチェロに転向し、ワグネル・ソサエティの幹事として大いに活躍していた。

 この斉藤寿郎は最初の音楽の友であり、その後わたくしが音楽家になろうと決意したとき、あたたかい握手と力強い励ましとでわたくしを支持してくれた数少ない友人の一人である。

大正15年春、慶応義塾大学に入った。

 先にも述べたように、父にしてみれば大学出のものは昇給が早い、それも三井系の慶応へという希望の一端が達せられたわけだから、どうせ入るなら経済に入れたかったようである。ところがマンドリンばかりひいていてあまり出来がよくなかったので難関の第一志望の経済に落ち、第二志望の法学部へ入ることになったのである。だが友人たちが青くなって勉強しているのに、音楽ばかりに熱中していて入試準備の勉強などほとんどやらなかったわたくしが、第二志望にもせよよく入れたものだと思った。

 嬉しかった。そして思いもかけず慶応に入れたことから、ちょっとした自信がついてきた。この機会に少々勉学に励むことを決心し、気障ではあったが模範生的な学生生活に入った。その結果予科一年は首席になったこともあったが、ようやく増えてきた塾生同士の交友に多忙になり、次第に音楽や文学に熱中しはじめた。山下汽船の息子山下三郎におだてられて、しきりにコントや小説を書いたりした。この時代は文士になりたい希望も相当強かった。そんなことで学校の成績は前ほどかんばしくなくなった。父は苦い顔をしていた。しかし予科三年のとき音楽と文学のバランスが破れて、古い伝統とはなやかな演奏活動で内外から注目の的となっていたあこがれのマンドリンクラブに入った。ちょうどそのころマンドリンクラブは、前に述べた宮田政夫氏がリーダーをしていたのである。

 彼は既にOBだったが、マンドリンをもって身を立てようとしていた専門家で、すばらしい技術の持ち主だった。わたくしは中学時代から合奏の経験があったので、初めから中音部パートのマンドラを選んだ。そして昭和2年の春、はじめてステージを踏む感激と興奮とを味わうことになったのである。

 

 それから二年後の昭和5年、宮田政夫氏が亡くなった。そして宮田氏の亡きあと学生で指揮をしていた近藤八郎にかわって、思いもかけず、わたくしが指揮者に推されたのである。以来三十年後の今日にいたるまで、慶応義塾マンドリンクラブとわたくしとの関係は切っても切れぬものとなり、わたくしの仕事や生活の中でもっとも深いつながりを結ぶことになった。

【昭和5年頃の慶應義塾マンドリンクラブ演奏会】

 思えば、わたくしの音楽家への第一歩は集団で音楽をすることで始まった。そして今日まで、わたくしの音楽は常に集団で演奏するものが大部分であった。

 


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最終更新日 : 2017-12-30 06:41:36

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空襲下の燕尾服

 青響の練習所を失う少し前、わたくしは放送局の芸能嘱託という仕事をとおして日本交響楽団と名前を改めていた日響の事務長、有馬大五郎氏と相知った。この芸能嘱託というのはレコード会社の歌謡曲が軟弱で戦意昂揚にふさわしくないとする情報局の意向により、放送協会が新しい時局にそった、しかも音楽的に高い歌謡曲をつくろうという計画から置かれたもので、作詞、作曲家十名前後で組織されわたくしもその一人として委嘱されたのである。有馬氏はオブザーバーとしてこの仕事に関与していた。

 のちその有馬氏の好意によって不便をかこっていた青響が、日響の楽器や練習所などをいっさい使わせてもらえることになったのである。

 有馬大五郎氏は、現在、新響-日響の後身であるNHK交響楽団の事務長をしているが、もともと慶応中退後ウィーンに遊んで声楽の勉強をおさめた音楽家である。それが不幸にも胸を病んだことから、長い間スイスのサンモリッツ・サナトリウムに入り、その後音楽史や理論を学び、また人類学まで専攻して帰国したという、いささか日本人の枠から外れた経歴の持主であった。帰国後「有馬大五郎唱歌独演会」をひらきドイツ・リートの紹介をつとめたが、やがて朝日新聞に格調高い演奏評のペンをとった。昭和十四年にいたって新響が独立、財団法人を設立するにおよんで事務長にむかえられ、いらい評論のペンを折って楽団経営に専念していた。有馬氏はわたくしの歌曲を見てから急速にわたくしの仕事を注目してくれた。あたたかな作曲に対する氏の批判は、菅原氏とは全く異なった角度からであったので、啓発されることが多かった。わたくしが最も畏敬したことは、氏の批評が音楽の上だけでなく、その豊かな学識から生まれた世界観の上に立っていることであった。

 

 空襲がいよいよ烈しくなった昭和20年春、おどろくべき数の聴衆を集めて、青響による「春の楽しい音楽会」がひらかれた。当時情報局の命令で、舞台に上る演奏家はなるべく質素な服装をするようにということであり、カーキ色の国民服、巻ゲートルで出演するのが普通であった。わたくしはどうもそういう服装で音楽を演奏するのは面白くないと思った。だから家を出る際は国民服に鉄かぶとを背負い、会場に着くと颯爽たる燕尾服に身を固め、楽員にもできるかぎりタキシードのような正装を求めた。

 昭和20年の3月の末であった。やはり日比谷公会堂で、超満員のコンサートがはなやかに開かれていた。ゲストの大谷冽子が舞台に出ていて、たしか三曲目「サンタ・ルチア」を歌っていたときだったろう、急に客席の後方が騒がしくなった。何だろう・・・と思う間もなく、「空襲! 退避!」という叫び声がきこえてきた。するとあっという間に三千人に近い聴衆がせまい公会堂のドアから数分間で姿を消したのである。演奏はむろん中断である。指揮棒をもったままわたくしはこの会場の総員退避の素早さに驚き、かつみとれていた。そしてふと舞台をふりかえると、驚くべしそこには数十名のオーケストラも、そして美しいイヴニングの大谷冽子も、一瞬のうちに消えてしまっていた。ただひとり渋木君という打楽器奏者が、しょんぼりと舞台の奥に残っていた。わたくしは彼と眼を見合し、「どうしよう?」ときいた。

 次の瞬間、わたくしは今日の演奏会がプログラムの三分の二をおえていることに気がついた。この場合は、当時の法規で入場料を払い戻さないでもよかったのである。これは助かったと思った。そこでとにかく楽器と楽譜だけは整理しておかなければ退避するわけにはいかないと思い、渋木君と二人楽譜をあつめ楽器を始末してから、ようやく場外へ退避した。暗い空にはサーチライトが乱れ、高射砲の白煙が夜目にあざやかだった。そしてB29が一機、ひどく高い空をゆうゆうと飛んでいるのを見た。

 「何だ偵察か!騒ぐこともないのに・・・」

と思いながら、燕尾服のまま暗い街を歩いたのであった。

 3月、4月、5月と東京は大空襲に襲われ大部分が焼け落ちてしまい、たくさんの都民が死んだ。こんな状況の中で、はたして音楽会をひらくことができるだろうか。ひらいても聴衆が集まるだろうか。今になれば当然こんな疑問が湧くだろう。しかし不思議なことに、明日をも知れぬ戦火と荒廃の不安の中で聴衆は開催のたびごとに、収容しきれぬほど集まってきたのである。

 20年に入ってからの演奏会は、プログラムもチラシも一枚も残っていない。19年暮れにひらいたときのチラシは石版刷りで、まるで明治時代の印刷のようだし、当日会場でわたしたプログラムはガリ版刷りであった。そして新聞の三行広告とわずかなポスターが街にはられた程度であるのに、どこから集まるのか、聴衆の数は圧倒的だった。

 戦争が末期に近づくにつれ、東京には娯楽と名のつくものはなにひとつなくなった。大劇場はすべて閉鎖され、日劇は風船爆弾という兵器の工場となっていた。映画もラジオも戦意昂揚ものばかりが上映されていた。青響の音楽会がうけたのはそのような状況も影響していたに違いないが、何も特別なことをしなくても不思議な程聴衆は集まった。といって、わたくしは特別意識的な抵抗感をもって演奏会をひらいているのではなかった。それはただ平時と変わらぬプロを組んだだけである。戦争中であるからといって、音楽が変わるとは思えなかった。聴衆が望んだことは、要するに平時に帰りたいことなのである。わたくし自身も聴衆と同じようにそのことを望んでいたし、平時の音楽を平時の心で演奏したかったのだ。

 


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