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「ただいま」

 仲良しのはるかと別れると由香は桜の花びらが舞う公園を抜けて帰って来た。家の門には『高木学習室』という小さな木製のプレートがかかっている。

「いーっだ」

 由香は、口をとがらせてそのプレートを軽くにらんだ。

 去年、四年生になる春休み、久しぶりに三人がそろった夕食の後のことだ。母の由美子がいつになく真面目な顔で切り出した。

「家で小さな塾を開いてもいいかしら?」

急にどうしたんだ?」

 父の晃は食べかけた苺を口に入れたまま目をぱちくりして言った。

「ずっとね、考えてたんだ。由香が小学生になってからは手もかからなくなったし、もやもやしてたの。二年間教師だった頃を無性に思い出すのよね、だめかなあ」

俺は単身赴任でいつもいないから構わないけど、由香はいいのか?」

べつにいいよー。関係ないし」

 由香は、苺のお皿を持ったままリビングのテレビを点けると言った

 晃と由美子は、食卓でそのまま話を続けた。

「やはり結婚する時教師を辞めたのが残念だったんだな。あの時は勤務地が遠かったからなあ申し訳なかったと思ってるんだ

「あーそれはいいのよ。承知の上だったんだから。ずっと引っ越しばっかだったもの、どうしたって無理よ。でも、またこっちへ戻って来たし、あなたに単身赴任してもらって申し訳ないんだけど。だからね学校で教えることは無理でも、もう一度ああいう仕事できないかなって考えてたの」

「このリビングでやるの?」

「折り畳みの長机に座布団。まあ寺子屋よね」

 そんなことを話しているうちに、由美子の目が輝いてきた。

「俺は塾って言うと黒板とかイメージするんだけど、そういうのはいらないの?」

「その子のそばでね、その子のつまずいているところを見つけてじっくりと、まあ家庭教師みたいにね、そう簡単にはいかないと思うけど、学年とか教科関係なく進められたらいいなあって考えていたの」

「今まで専業主婦で頑張って来たんだから、やりたいことやってほしいと思うよ。でも、由香の夕食とかどうするんだ?」

「それなのよねえ、週に二度一人で食べないといけないんだよねえ。もちろん作ってはおくけど」

 由香は、二人が自分の方に顔を向けたのを感じて

「大丈夫だよ、何年生だと思ってるの?後片付けもできるし」

 きっぱりと言いいながら、心の中でバンザイをしていた。

「イシシ、テレビ見ながらご飯食べられる。ラッキー」

 

 由美子は、翌日からいそいそと動き回った。ネットで机を注文した後、学生時代からの親友に会いに行った。彼女はスタディ塾いうかなり名を知られた進学塾のエリアマネージャーをしている。

「やはりPRが一番大事よ、親にアピールしなきゃ」

 かっちりとスーツを着こなした友人に言い切られて、由美子はうつむいてしまった。いかにもキャリアウーマンという友人に比べて、すっかりウエストラインの崩れた自分が後ろめたい。

「ビジネスじゃなくって、学校の授業についていけない子をなんとかって思ってるの。だからPRはいいわ」

「はあ、夢見る由美子さん、変わらないわねえ。一緒に教師になったのに、由美子はすぐに辞めてしまったんだもの。あなたのゆるやかなラインがシアワセオーラ放ってるわよ。でもまあ、確かにそういう塾も必要だとつくづく思うことも多いよ。がんばってね、応援する。ただ、赤字は確かだなあ。それにしても、急にどうしたの?まさか今はやりの自分探しなんて言わないでね。あれが許されるのは十代よ。私たちもう四十」

「なんかね、この歳になって無性に子供とかかわる仕事がしたいなと。能天気だね、相変わらず私」

 学生時代に戻ったように取り留めもないことを話した後、塾用の問題集を専門に扱う書店も教えてもらって足を運んだ。やはり進学に特化したものが多い。その子に合ったものを用意したいと買わずに帰った。

 リビングの本棚に、とりあえず小学校の国語の教科書、貸し出し用に自宅の絵本や童話、歴史漫画や図鑑を並べた。収入は期待できないけれど一応役所と税務署には届けておく。なんか事業主になったみたいでこそばゆい。仕上げに小さな板に文字をはりつけたプレートを門にくくりつけて、ポンポンとなでた。

『高木学習室』

 

 由香は、とがらた口を元に戻して玄関に入った。そこに子ども靴が三足あっちこっち向いているのを見て、そっと二階の自分の部屋に入った。ウスケンのバカ高い声が聞こえる。

「もう来てるんだ。去年も今年も同じクラスなんて最悪」  

 そう呟きながら、ベッドに寝転がってマンガを読み出した。由香にとって、誰にも邪魔されず思いっきり好きな本を読むことができるのが、塾のある日のお楽しみだ。でも、家が自分の家でないような変な感じもしていた。

 去年、はりきって準備している母親には悪いけれど、由香は生徒なんてだれも来ないと思っていた。それなのに、同じクラスのウスケンが入って来た時は口をあんぐり開けてしまった。

「由香も一緒に勉強してみる?」

「いやだよ。こんなダサい塾。床に座るのきらいだもん。お母さんが先生なんて絶対いやだ。ウスケンと一緒なんて絶対絶対いやだ」

 由美子はクスッと笑っただけで、それっきり何も言わなかった。生徒一号のウスケンこと臼井賢太は、スポーツ万能、見た目と明るさで人気者だけれど、勉強の方はさっぱりだ。

「お前の名前の賢ってかしこいっていう意味なんだぞ。かわいそうだなあ」

 などと友達に言われても平気な顔をしていた。

 由美子は、張り切って賢太君と勉強を始めた。挨拶もきちんとでき、「元気」が服を着ているような子だ。ただ、本を読む習慣がなくて、すぐ投げ出してしまう。一冊ずつ本を貸し出して読むように仕向けていった。

「宿題やってきた?」

「うーん」

「やってないね。じゃあ仕方ないから今からやってね。終わってから今日の勉強」

「えー!帰るの遅くなるー」

「それはしかたないね。宿題終わるまでは先生何も手伝わないからね」

 賢太君はしぶしぶ前回の宿題のプリントをやり終えた。

「ほらー、できるじゃない。がんばったね。今日は三年生の算数の復習だよ」

「えー、こないだ割り算の筆算、点だった。オレ、頭悪いから」

「そんなことないよ賢太君、だってこの三角形の問題なんて全部合ってるもの。計算苦手なのはどうしてかなあ」

 じっくり計算のプリントを見直していた由美子ははっと気づいた。九九が間違っているのだ。七の段を間違えて覚えてしまっていた。それから毎回九九練習をしたら、計算間違いが格段に減った。五年生になった賢太君は見違えるようだ。

 塾を初めて一年がたった今は、生徒も少し増え、由美子もやる気満々だ。

 ただ、由香はなんとなくすっきりしない。昨日もウスケンに廊下で言われた。

「高木はいいよなあ、宿題なんかちょちょいっと教えてもらえて。だからいっつもいい点取ってるんだ」

「私はそんなことしないよ!」

 由香はぷんと顔を背けて席に戻った。由美子が塾を初めてからこういうことを、よく言われるようになった。でも、由香は由美子に勉強を教えてもらった記憶がなかった。小さい頃ちょっとたずねると

「はい、これがみーんな教えてくれるよ」

 そう言われて辞書か百科事典を娘に渡すだけの母親だったのだ。おかげで由香は今時珍しい辞書大好き少女になったけれど、特にうれしくもないと思っていた。

 由香は夕食の前に、開いたドアからリビングをチラッと覗いた。一年生の子が数え棒で計算している横で、中学生が英語のプリントをやっている。あっちこっち顔を向けている由美子を見て

「よくやるよなあ」

 そう感心するけれど、ざわざわとした雰囲気はどうしても納得できない。由香は、塾ってもっとピシッとしたものだと思う。五年生になる前かはるかが通い出したこともあってスタディ塾に行きたくなっていた

「由香もおいでよ。入塾テストがあるけど由香ならばっちり。教科ごとに先生が代わって楽しいよ。まあ厳しいことは厳しいけど、なんか勉強してるって実感するよ。バスの中はすっごい楽しいし」

 そうはるかが言う通りいつも見かけるバスがとてもおしゃれで乗っている子も賢そうに見えてしまう。

「塾やってる家の子が塾へ行くのもなんだかなあ」

 由香はずっと言い出せずにいた。

 

 ゴールデンウイークに久しぶりに帰って来た晃と由美子が話していた。

「どうなんだ?塾は?」

「楽しいわよ。いろんな子がいて、大変なこともあるけど、なんかやりがいというか、すっごく充実してる感じ。ただね、もう少しだけ生徒さん増やしたいのよね」

「無理しない方がいいんじゃないか?でもチラシとか配るのもいいかも」

「そうね、始めるとき友達にPRなんていらないって言ったけどちょっと欲がでてきたのかな。作ってみよう」

「生徒さんの勉強も大事だろうけど、由香は大丈夫なのか?」

「あの子は自分でやれる子よ。学校の勉強ができているから心配ご無用」

「まあ由美子が言うならそうなんだろうけどなあ」

 由美子は、早速手作りのチラシを作り、どうせなら小学校の近くで配った方がいいかと考えて、小学校の校門の近くで立っていた。かなり恥ずかしかったけれど、せっかく作ったのだからと自分を励まして配っていた。

「さようなら」

 はるかちゃんに手をふって由香が歩いてきた。

あら、由香ちゃん、ちょうどよかった。ちょっと手伝ってくれない?」

 そう声をかけられた由香は、目を大きく見開いたとたん、さっと青ざめた。そしてすぐ、ふっくらした頬を真っ赤にして向こうへ走って行ってしまった。

「やってしまった。由香の気持ちを考えなかったな。私浮かれてたんだ」

 由美子は、そうつぶやくと、チラシを握る手に力を入れて由香の走り去った方を見つめていた。

「高木先生!」

 そう呼ばれて由美子が振り向くと賢太君がいた。

「チラシ配るん?手伝ったげる」

「いやそれはだめ、ありがとうだけどね」

 由美子はチラシを配るのをやめて急いで家に戻った。でも、由香は日がすっかり暮れてから帰って来て、だまって夕食を少しだけ食べた。

「今日はごめんね、お母さん軽率だったわ。ほんとごめん」

 そう謝っても由香は一言も言わず二階へ上がってしまった。

「あんまり恥ずかしくて、そのまま学校へ戻って屋上から飛び降りようかと思ったくらいだった」

 ずっと後になってその時のことを由香はそう話した。

 

 一学期が終わる頃、学年で合同テストがあった。由美子に褒めてもらいたくて、汗びっしょりになりながら帰った由香は、テストを高々と広げた。

「算数Ⅰ〇〇点、国語96点、どっちも最高点なんだよ!」

「あらよかったね、平均点は?あー賢太君、できたかしら、心配だわ

「なにそれ!私が最高点取ったことよりウスケンの点を心配してる母さんって!信じられない、もういいよ!これからテストは絶対見せない!」

 そう言うと由香はテストをぐしゃぐしゃに丸めると、足音も荒く二階へ上がった。そして、自分の部屋のドアをバタン!と閉めた美子は最近由香との間がぎくしゃくしてきたように思って、うなだれてしまった。

「私ドジばかりやっているなあ。あんなにおしゃべりだった由香の口数がめっきり減っているし、やっぱり塾とかやるの無理なんだろうか?ゆっくり話してみなくては」

 そう自分に言い聞かせた。

 

 夏休みになると高木学習室は午前中から始まる。一番に賢太君がやって来た。

「あら、今日は宿題ばっちりやってきたのね、すごい」

「今日はプール行く約束してるから帰るの遅くなると困るんや」

 そう言ってプリントをやり始めた。宿題をやって来るようになったのが頼もしい。一年生の亮君が、ドタバタとやって来たとたん

「いややあ!べんきょうなんかきらいやー」

 机の内側で大の字になって手足をバタバタさせて泣き叫び始めた。由美子は笑いをかみ殺して、何も言わず賢太君の漢字の間違いを直していた。怒られもせず慰めてももらえず、あきらめた亮君はしぶしぶ自分のファイルからプリントを出した。

「今日はこの本読もうよ。面白いよ」

 絵本を交代で声に出して読んでいく。その後、お金のおもちゃで足し算をすると、セミの鳴き声が聞こえるほど静かな時間が流れて行った。

 ところが、二年生の拓人君がやって来るとその静寂はあっけなく破られた。

「お母さんがお出かけするから弟も連れて行きなさいって」

 拓人君と手をつないだ三才くらいの男の子を見て由美子は流石に慌てた。

「おしっこ!」

 慌ててちびっこを拓人君にトイレに連れて行ってもらってから、どうしたものかと考えた。その時、二階から由香の叫び声がした。

「キャー!だ、だれー?お母さん!知らない子がいる!」

 物珍しくちびっ子は二階へ上がってしまったらしい。

「ご、ごめんね、なんか弟が来てしまって。申し訳ないけど折り紙貸してくれる?」

 なんとかお兄ちゃんの横にすわらせたそのちびっ子は、可愛い目をキョロキョロさせていたが、リュックから水筒とクッキーを出してきた。

「あっ、ここはお兄ちゃんたちがお勉強するところだからね、おやつはだめだよ」

 冷や汗をかきながら由美子は言った。亮君もあっけにとられている。六年生の聡さんはクスクス笑っていて、もう勉強にならない。由美子は、拓人君の勉強を終わらせ、なんとか二人を帰すと、午後拓人君のお母さんに電話をして、これっきりにしてもらった。

 その夜、由香はこらえきれずに大声を出した。

なに?このゆるい塾ここは江戸時代の託児所?どの子もだらだらしてるし、何考えてるの、お母さん

 そう言われて由美子は

「今日はごめんね。由香はずっといろいろ嫌な思いしてるよね。お母さん自分の思いばっかで突っ走ってしまって」

 そう静かに話した。

「私スタディへ行きたいの。はるかみたいに本物の塾で勉強がしたいのずっと言えなかったのよ、だって塾の子が塾へ行くってへんだって言われるかもって

終わりの方は涙声になってよく聞き取れなかった。

「そうじゃないかと思ってた。遠慮させてしまったんだね。由香は由香のやりたいようにするべきだよ。進学塾には良いところがいっぱいあるし、お母さん、大賛成だよ」

 そう言われて由香は涙がたまった目を見開いた。

「えっ、いいの?」

「いいわよ、すぐに手続するね。ただね、お母さんは、このやり方を続けたいの。今日の託児所騒動にはまいったけどね」

 そう言った由美子は、あのちびっ子を思い出して思わずクスッと笑ってしまった。鼻を勢いよくかんでいた由香もついアハッと笑った。そして二人は顔を見合わせると、ゲラゲラとお腹を抱えて笑った。

 九月になって、由香は、ピカピカの塾バスに乗った。

「やっぱ進学塾ってすごいね。問題集でカバンがパンパンだもん。教科で先生違うし、みんな集中してるよね」

 由香がそう言うと、はるかも言う。

「理科の先生かっこよくておもしろいよね。この間の上方置換の実験楽しかったね」

「はるかは中学受験するの?」

「うん、行きたいとこあるの。由香は?」

「考えたことなかったけどがんばろうかなあって思ってるとこ」

 

 その頃、由美子は中学三年の愛子さんと数学の勉強していた。愛子さんは、引っ込み思案だからか友人もほとんどいなくて、勉強も苦手意識が強く、学校が好きではないようだ。個人的な問題解決は何もできないけれど、じっくり話を聞くことはできる。由美子に話すことで、愛子さんの表情がやわらかくなってくる。今日は、関数の式とグラフの関係が彼女の中でストンと理解できたことがものすごくうれしかった。まだまだ受験まで多難だけれど。

「さようなら」

 すっきりした笑顔で帰っていく愛子さんを玄関まで送って、由美子は、ふーッとため息をついた。

 辺りはもう真っ暗で、風も冷たくなってきた。住宅街にも虫の鳴き声が響いてなんとなく寂しげだ。塾のバスが止まるところまでと歩き出した。向こうから由香が歩いてくる。急に駆けだした。

「遅くまでおつかれー」

 由美子を見つけた由香は、ほっとした表情を無理やりむっつり顔に変えた。

「来なくったっていいのに。お母さんも終わったの?」

「うん、さっきまで中三の受験生ががんばってた。ゆるい塾もそれなりに大変」

 そう言ってうふふと笑った。

「今夜は栗ご飯だよ」

「やったー」

 金木犀の香りがする。満月と門灯の光で小さな『高木学習室』のプレートがぼんやり光っている。由香はそのプレートをぽんぽんと叩くと、勢いよく門を開けた。

「ただいまー


この本の内容は以上です。


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