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本文表紙

科学捜査系SFミステリー長編

 死への目撃者

 

著:酒井 直行

 


◆◇ 本作品は、試し読み用のサンプルです ◇◆

◆◇ 製品版(全10章)のうち、第2章冒頭までを無料でお読みいただけます ◇◆

 

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(Kindle Unlimited 読み放題対象)


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最終更新日 : 2017-11-15 23:22:46

【試し読み版】 死への目撃者 (1/16)

《 第1章 》

 糸川いとかわ百子ももこは勤務時間を終え、白衣を脱いだ。ロッカーにそれを無造作に投げ込むと、トートバッグを肩に掛けつつ腕時計を見た。18時12分。早足で駅に向かい、20分の電車に飛び乗れば、19時ちょうどからの映画にはなんとか間に合うはずだ。

「お疲れ様」

 すれ違う看護師たちに軽く挨拶あいさつを交わしながら、クリニックの入り口ドアを開けたその時だった。

「糸川先生!」

 背後から呼び止める声がした。聞こえないふりをして、そのまま駅にダッシュしてやろうとも思ったが、さすがにやめた。今日はそれでやり過ごせたとしても、明日からの仕打ちが怖い。

「何でしょうか、師長?」

 百子は、声の主を確かめることなく、作り笑顔で振り返った。あのダミ声は、百子の天敵である辰巳たつみ看護師長に違いなかった。

「光の友ホームからお電話です。急なんですが、一人、診察をしてほしい児童がいるようです」辰巳師長が診察室のドアを開けながら言った。「駅への通り道ですから、お帰りのついでに立ち寄っていただけないでしょうか」

 いただけないでしょうかもクソもあったものじゃない。辰巳の手にはコードレス受話器はすでにない。つまりは、「糸川を向かわせます」と先方に勝手に承諾して電話を切ったはずだ。これは強制だ。ついでに言わせてもらえば、光の友ホームは駅への通り道ではない。ホームに顔を出して駅に向かうとなれば、相当な遠回りになる。

「分かりました。向かいます」

 百子は小さくため息をついた。映画は延期するしかない。

「それで? だれの、どんな症状なんでしょうか? また穂乃果ほのかちゃんのきむしりかしら? 血が出てなきゃいいけど」

 ひかりともホームは、いわゆる児童養護施設である。様々な理由で、親が養育できない子供たちを預かっている施設だ。光の友は多摩たま地区の中では比較的新しくできた養護施設で規模も小さい。現在は8歳から18歳までの男児女児9人が入所している。

 百子が勤務する北吉祥寺きたきちじょうじメンタルクリニックは、光の友ホームの指定カウンセラー医院である。施設に入所する児童は、例外なく、親からの虐待や育児放棄、親との死別を経験しているため、心に深い傷を負った者たちばかり。精神科医である百子は、日頃から光の友ホームに顔を出しては、子供たちの心のケアに努めていた。


2
最終更新日 : 2017-11-07 16:19:41

【試し読み版】 死への目撃者 (2/16)

 百子が気にしている穂乃果という15歳の少女は、母親からの度重なる暴力が原因で、警察と児童相談所による介入の結果、光の友に入所してきた。他の入所児童以上にセンシティブな性格で、いつまでここにいるのかと不安になる度に、奇声を上げ、自分の頭皮やわき、背中を血がにじむまでひたすら掻きむしる癖を持っていた。この数ヶ月、光の友から連絡を受けて診察に向かう8割方は彼女が原因だった。

「穂乃果ちゃんじゃないんです。一昨日おととい、新しく入ってきた児童のようです」

「そう……」百子は表情を強張らせる。

 精神科医の医師にとって、新患とは厄介な存在である。特に児童養護施設に入ってくる子供は、往々にして人付き合いが苦手だったり、人見知りで猜疑心さいぎしんの強いタイプが多い。そんな彼らに信頼されるよう、精神科医の多くはファーストコンタクトにかなりの神経をすり減らす。

「それにあの……」

 辰巳師長が口ごもりながら、上目遣いに百子を見た。

 なに? なんなの?

 百子は背筋がゾワッとした。彼女が百子にああいう視線を送る時はいつも厄介事を押し付ける時と決まっていた。

「症例なんですが……記憶喪失らしいんです。それも、全生活史健忘けんぼう

「全生活史健忘?」

 百子は思わず頓狂とんきょうな声を出した。

 

 光の友ホームまで徒歩で約6分。その間、百子は何度も同じ言葉を反芻はんすうしていた。「全生活史健忘? 本物? それとも……」

 全生活史健忘は、小説や映画でよく見かける、「ここはどこ? 私は誰?」と、自分が何者なのか過去にどんな生活をしてきたのか、一切の記憶を喪失しているタイプの記憶障害である。一般的に記憶喪失イコールこの全生活史健忘を指すことがほとんどであるが、しかしこの、俗に言うところの「記憶喪失」はフィクションの世界ではかなりポピュラーな病名である一方、現実の精神医学界においては、それほど症例の多い病気ではない。事実、医師免許を取得して6年を経過している百子でさえ、これまで、直接、全生活史健忘の患者を診察したことがなかった。


3
最終更新日 : 2017-11-07 16:19:51

【試し読み版】 死への目撃者 (3/16)

 実は百子は今も、心のどこかで、「全生活史健忘型の記憶喪失」と診断された患者の半分近くは詐病さびょうではないかと疑っていた。その理由として、「都合が良すぎる」点がどうにも気になるのだ。「全ての記憶をなくしているくせに、なぜ言葉はしゃべれるのか? なぜ食事や排泄はいせつ、入浴の方法は覚えているのか?」などなど。

 比較的患者数の多い通常の記憶障害、つまり、脳への外傷や薬物などによる外因性の記憶喪失や強いストレスを受けたことによる心因性の解離性かいりせい記憶喪失患者は、百子もそこそこ診察してきたが、それらは皆、記憶の一部のみを失ったものだった。

 もちろん彼女とて過去の症例などを勉強し、外因性、心因性問わず、全生活史健忘というモノ自体が存在していることは十分に理解しているつもりだったが。

 光の友ホームは、2階建ての木造テラスハウスアパートの作りをしている。ホームになる前は、4世帯が入居するごく普通の賃貸物件だったそうだが、今は、1階2世帯部分が共有スペースとスタッフ居住区、2階の2世帯部分4部屋を9人の児童がシェアハウスのようにして暮らしている。

 チャイムを鳴らすと、すぐに玄関が開き、ドンと勢いよく一人の少女が百子の胸に飛び込んできた。穂乃果だ。穂乃果は機嫌のいい時はとにかく甘えん坊で人懐っこい女の子なのだ。

「先生! 私のこと、嫌いになっちゃったの?」

 いきなり穂乃果が目を潤ませて訴えてきた。

「なにそれ? そんなわけないじゃん」

 百子は殊更ことさらに驚いた顔を見せてあげた。

「よかったぁ。最近、先生が来てくれないから、穂乃果、てっきり嫌われたんだとばかり思ってたんだ」

 穂乃果は心からホッとしたように笑った。

 心に傷を持つ児童の多くは他人への依存心が強くなる傾向にある。穂乃果にとって、今や、百子の存在は、自分の精神安定のために必要不可欠な人間になっていた。

 ヤバイな。

 百子はフとそう思った。精神科医に依存する患者は多い。そしてそれはあまりいい治療結果をもたらさないことを、百子は知っていた。

 今後は、なるべく穂乃果との距離を遠ざけていくよう対処しないと共倒れになるぞ……。


4
最終更新日 : 2017-11-07 16:20:05

【試し読み版】 死への目撃者 (4/16)

 穂乃果は、ひとしきり百子と会話したら満足した様子で、「今日は夕食の後片付けの当番なの」と言って、奥の台所へと戻っていった。

 穂乃果が去ってすぐに、手前の部屋からこのホームの院長、桑原くわばらなみが顔を出した。

「先生、こちらへ。お忙しいのに、すみません」

 奥の部屋には、スタッフたちの居住スペースの他に、小さな4畳半の面会室が2つある。普段は、児童相談所とのミーティングや、児童とその親御さんとの面会などに使われる。そして、百子によるメンタルカウンセリングルームとしての用途もあった。

 通い慣れた手前の面会室のドアを開けると、テーブルを挟んだ窓際の椅子いすに、少女が座っていた。

 ストレートの黒髪に、透き通っているかのように白い肌。少しつり目で切れ上がった目。長いまつげ。白いワンピースを着ている。年齢は16か17だろう。だが正確なところは正直よく分からなかった。あまりの美しさが実年齢を判別しづらくさせていた。とにもかくにも、ファッション雑誌の表紙に登場してもおかしくないほどの美少女がそこにいた。

「きれい……」

 百子はわざと声に出した。もちろん、ファーストコンタクトで相手にいい印象を与える狙いもあった。心を閉ざす患者に初めて会う時、まずは、何かしらめると、その後の会話がスムーズに行くことを、百子は経験則として知っていた。だが、先ほどの感想は本心から思わず出た言葉でもあった。

 それぐらい、少女は美しかった。

 少女は、百子が入ってきたことを認識しているはずなのに、うつむいたままじっとしていた。

 向かいの席に腰を下ろす百子に、一緒に入ってきた桑原院長が小声でささやく。

「一昨日、田無たなし警察署の生活安全課の婦警さんが児童相談所の所長と一緒に彼女を連れてきたんです。2週間前、青梅おうめ街道沿いの児童公園で倒れていたそうです」

「公園で?」

「発見された時は素足に上下ジャージ姿だったみたい。すぐに市民病院に運ばれて精密検査を受けたら、身体的には全く異常なしだったけど……」

「記憶だけが、なかった?」

 桑原は小さくうなずいた。「病院でCTやMRI? そういったものも全部やったみたいです。だけど、外傷が原因ではないってことぐらいしか分からなかったみたいで、病院としても警察としても、病気ではないと診断された身元不明の児童をいつまでも入院させるわけにはいかないってことで……」


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最終更新日 : 2017-11-07 16:20:15


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