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【試し読み版】 死への目撃者 (6/16)

 ようやく百子は少女に向かって話し始めた。

「ごめんなさいね、自己紹介が遅れて。私は精神科医のイトカワモモコ。毛糸の糸に川、数字の百に子と書いて百子って言うの。近くのメンタルクリニックから呼ばれて来たの。ここのホームの悩み相談役も引き受けているから、これからもよろしくね」

 少女はコクンと頷いた。しかしまだ百子の目は見てくれない。

「今、院長さんからあなたがここに来たいきさつは聞いたわ。大変だったのね。自分が誰なのか分からないのって、すっごく不安だと思うし、昔のことが全然思い出せないっていうのも、つらいと思うわ」

 百子はフレンドリーな言い回しを心がけた。

「名前、どうしよっか? 本当の名前を思い出すまでの間、あなたのこと、なんて呼べばいいかな?」

 少女が、一瞬、戸惑ったように感じた。次の瞬間、ゆっくりと顔を上げ、百子ではなく桑原を見た。

 桑原が小さく頷いた。

 そして少女が初めて口を開く。

「……ミナ」それは小さな声だった。

「え?」百子は片手を耳に当て、問い返す。

「ミナ」少女がもう一度言った。

 百子は驚いて隣の桑原を振り向いた。

「すみません。私が仮につけた名前です。ほら、いくら短期間だけお預かりするとしても、やっぱり、名前がないと不便だから」

「ああ。そうだったんですか」百子は少しガッカリした。名前だけは覚えていたのだと勘違いしてしまったからだ。

「でも、どうしてミナちゃんって?」

「それが……」

 桑原が何故なぜか言いよどんだ。百子は怪訝けげんそうに首をかしげた。

「……タトゥーで37と……彼女の右の手首に」怒りのせいで顔を真っ赤にさせた桑原が絞り出すように言った。

「えっ!?」百子は耳を疑った。そして目の前の美少女の右手に視線を移す。しかしテーブルに隠れているので手首は見えない。

 ためらいもなくミナがスーッと自分の右腕を百子の前に差し出した。確かに、右手首の内側に、『37』と小さなタトゥーが彫られている。マジックインキとかで書かれたものではなく、明らかに彫られたもののようだ。

「……37だから、ミ(3)ナ(7)ですか……なるほど」

 百子はようやく名前の由来を理解した。と同時に、憤怒ふんぬで胸が苦しくなった。

「誰が一体、こんなひどいことを……」


7
最終更新日 : 2017-11-07 16:20:35

【試し読み版】 死への目撃者 (7/16)

 年齢から推測して、自分自身で入れ墨を入れたとは考えにくい。となると、親なり友人なりが強制的に、または興味本位で、彼女の体にタトゥーを刻みつけたと推測するのが順当だろう。

「ただ、彼女の精密検査を担当したお医者さまによれば、このタトゥーは、若い人の間で最近流行っているヘナタトゥーと同じく、表皮だけを染めているようで、どれだけ長くとも、3ヶ月か半年もすれば消えていくだろうって……」

「そう……消えるんだ。よかった」百子は心から安堵あんどする。

「この数字、何なんでしょうか?」桑原が百子に尋ねる。

「さあ? ミナちゃんにも心当たりはないんですよね?」

 百子は、桑原とミナを交互に見やった。ミナはかすかに首を横に振った。

「警察の人は、不良グループの友人たちがグループ名にちなんだ数字を彫ったんじゃないかって言ってましたけど。別の警察の方は、数ヶ月で消えるヘナタトゥーだと分かっていたのなら、本人が自らの意思で、好きな数字をそういうお店で入れてもらった可能性もあるんじゃないかって」

「そういうお店?」

「その警察官の話ですと、最近、ハワイの土産物屋とかでも簡単に入れられるんだそうです、ヘナタトゥーっていうのは」

「へえ」

 桑原の言葉に百子は一々感心したように頷いた。

「なるほどね。消えるタトゥーなら、気軽な気持ちで、好きな男子の生年月日とか交際を始めた記念日とかを入れちゃうってこと、あるのかも」

 さっきまでの怒りの感情が急速に消えていくのが分かった。半年で消えてしまうのならば、そこまで深刻に考える必要はないのかもしれない。百子は次の質問に移ることにした。

「これまでに何度も、警察や児童相談所で同じことを聞かれていると思うけど、改めて質問いいかしら? あなたの本当の名前や年齢、お父さんお母さんのこと、どこから来たとか、覚えていることってある?」百子は本題を切り出した。

「……ない」

 ミナは少しだけ考え込む仕草しぐさをして、ポツリと言った。ぶっきらぼうだが、決して怒っているわけでもないみたいだ。そして続けた。「本当に覚えてない……ごめんなさい」

「謝ることはないわ。だって記憶喪失ってそういうものだから」

 百子は笑顔をミナに向けた。

「質問変えようか。じゃあ、好きな色は何?」

「……分からない」

「好きな食べ物は? 反対に嫌いな食べ物でもいいわ」

「……分からない」

「じゃあ、好きなアイドルとか、いる?」

「……分からない」


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最終更新日 : 2017-11-07 16:20:45

【試し読み版】 死への目撃者 (8/16)

 ミナは、百子から矢継ぎ早に質問される度に、決まって首を少し傾げ、考え込んだ。しかし、どの質問にも結局答えることができずに、「分からない」を繰り返した。

 それでも百子は、好きなモノ嫌いなモノの質問をしつこく繰り返した。それらの質問の何か一つでもいい、ミナの失われた記憶の鍵穴かぎあなに突き刺さる「キッカケ」がないか、それを探していた。

 27問目からは質問形式を変えた。

「じゃあ、今度は好き嫌いじゃなくて、得意か不得意かを教えて。お料理は得意?」

「……分からない」

「英語は得意?」

「……分からない」

「スポーツは得意?」

 ミナが初めてピクンと反応した。「得意かどうかは……分からない……けど、病院で体力測定みたいなことを何度かやった……いい成績だった」

「例えば?」

「50メートル、7秒5……立ち幅跳び、2メートル20」

 ミナは自分の記録を暗記していた。

 記憶を失う前の記憶は全て忘れてしまっているが、それ以降の記憶についてはよく覚えているということなのか。

「ちょっと待って。今、調べてみる」

 百子はトートバッグからスマホを取り出し、中高生女子の運動能力テストの全国平均値を検索する。

 ミナの正確な年齢は分からないが、見た目から高校一年生と推定し、その辺りの女子の平均値を見てみると、50メートル走では8秒後半から9秒頭、立ち幅跳びは170センチ前後だった。ミナの数値は同年代男子平均に匹敵していた。

「かなり運動神経はいいみたいね。記憶をなくす前は、運動部に入っていたのかもね」

「病院の先生や警察の人も同じこと、言ってた」

 ミナが少しだけ表情を緩めた。

「体育会系なのかもね。私とは反対ね。私なんかウンチだもん」

「ウンチ?」ミナが首を傾げた。

「運動音痴のこと。私なんか、勉強する他はからっきしなの。だから、スポーツができる人や音楽ができる人、あと、マンガ描けちゃう人とかにすっごくあこがれるのよ」

「マンガ!? そうだわ。先生! ミナも、絵、上手うまいんです! それもびっくりするぐらい」

 桑原が思い出したように大声を上げた。

「原本は警察の方に提出しちゃったんですけど、コピーがあるんです。見ていただけますか?」

 桑原はそう言うと、あわてて面会室を飛び出していった。そしてしばらくの後、クリアファイルに入った一枚のコピー用紙を持って戻ってきた。


9
最終更新日 : 2017-11-07 16:20:58

【試し読み版】 死への目撃者 (9/16)

 桑原が百子に見せたその紙切れには、一人の若い女性のバストショットが鉛筆画で描かれてあった。デフォルメされた似顔絵ではなく、極めて写実的に描かれたデッサン人物画である。まるで一枚の写真を切り取ったような、それとも目の前の光景を直接見てデッサンしたかのような、そんな人物画だった。

 人物は、ショートカットでメガネ姿。OLっぽいブラウスにジャケットを着用している。歳は25から30前後だろうか。なかなかの美人であるが、驚いた時の顔だからか、眉間みけんにシワが寄っているのが玉にきずと言えば言えるかもしれない。外出先でのワンシーンをデッサンしたらしく、女性の背後の街路樹らしき木々までうっすらと描いている。

「上手ねぇ。もしかしてミナちゃん、美術系の学校に通っているの?」

「分からない」

「で、この人、どなた?」

「……誰だか……分からない」

「え?」

「急に、頭の中にこの人が出てきて。描かなきゃいけないって」

「描かなきゃいけない?」

「一昨日、ウチに来て、すぐでした。いきなりミナが、紙と鉛筆が欲しいって言い出して。だからこれの原本は、チラシの裏なんですよ」

 桑原によれば、ホームのリビングで、他の入所者の紹介をしている最中に、ミナが突然、頭を抱え込み、しゃがみこんだかと思いきや、すぐに紙と鉛筆を要求してきたのだという。ミナは何かに取りかれているかのように、ものすごい早さで鉛筆を動かし、このデッサンを仕上げたのだという。

「驚いたわ。たった10分とかで描きあげちゃったのよ」

「もう一度、聞くけど、この女の人に見覚えはないのよね? ミナちゃんのお姉さんとか、学校の先生とか、知り合いじゃないのよね?」

「……分からない……本当に分からない」

 ミナは頭を抱えた。

「警察の人も、写真とかを見ずに、ここまで細かく描写できているっていうのは、ミナが過去に深く関わった人であることは間違いないから、この人物画が誰か、探してみますって言って、原本を持っていったの」

「そうですね。私も同感です。それどころか、この人が、ミナちゃんが記憶をなくすキッカケだった可能性も高いです」

「先生もそう思われますか?」桑原が飛びつくように言った。

「ええ。他の記憶を全てなくしているにもかかわらず、ここまで細かく人物描写ができるっていうことは、ミナちゃんの記憶障害のキーパーソンであることは間違いないと思います」

 百子は断言した。そしてもう一度、デッサン画に目を落とす。さっきは気づかなかったが、デッサン画の右下に、小さく『201X.9.7.17:15』の文字があった。


10
最終更新日 : 2017-11-07 16:21:08

【試し読み版】 死への目撃者 (10/16)

「ああ、それね。ミナが日付と時間をわざわざ私に確認して、自分で書いたんです。几帳面きちょうめんな性格なのね。日付だけじゃなくて、デッサンした時間まで書くなんて。それも描き終わった後じゃなくて、書き始めに聞いてきたのよね。『今、何月何日ですか? 今、何時何分ですかっ?』って強い調子で聞かれたから、驚いちゃって、アタフタしちゃったの」

「……あの時、日付と時間をどうしても書かないといけないって……ごめんなさい」ミナは桑原に頭を下げた。

「なんで謝るの? ゼンゼン、ゼンゼン」桑原は笑い飛ばした。

 おそらく、記憶をなくす前の彼女は、デッサン画を描く際、日付と時間を明記するのをルールにしていたのだろう。それが無意識に出てしまったのだ。

 どうやら、ミナが美術系学校に通っていたか、もしくは、美術系の個人レッスンを受けていたという推理は、あながち外れてはいないのかもしれない。

 

 その後、2時間近くかけて、百子はミナの問診を続けた。

 結局、ミナの記憶が戻ることはなかったし、そのキッカケさえつかむことはできなかった。

 結論から言えば、百子はいまだ、彼女が正真正銘の記憶喪失患者なのか、それとも詐病なのかの判断をつけかねていた。

 だが、彼女が2日前に描いたデッサン画の存在が、詐病の疑い有りとする疑念を消し去りつつあった。記憶喪失をいつわろうとする人間が、逆に、過去の記憶の一部であるあの絵をわざわざ描くだろうか。

 あのデッサン画の女性は、ミナの過去に密接に関わったことのある人物であることは間違いない。百子はそう信じてみることにした。つまりは、デッサン画の女性が誰であるかが分かれば、自動的にミナが何者であるか判明するだろう。そうも確信していた。

 そして手首に彫られた37という数字。これも彼女の素性を明らかにする手がかりの一つとなるはずだ。

 面会室を出た時、時計の針はもう21時を過ぎていた。

 入居者たちの共有スペースを抜け、百子は玄関へと向かった。共有スペースの液晶テレビには、夜9時の報道ニュースが映し出されていた。

「チャンネル変えて! バラエティがいい!」入居者の誰かがそう言って、リモコンでチャンネルを変えようとしたその時、

「待って! そのまま! チャンネル、そのままにして!」


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最終更新日 : 2017-11-07 16:21:18


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