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【試し読み版】 死への目撃者 (2/16)

 百子が気にしている穂乃果という15歳の少女は、母親からの度重なる暴力が原因で、警察と児童相談所による介入の結果、光の友に入所してきた。他の入所児童以上にセンシティブな性格で、いつまでここにいるのかと不安になる度に、奇声を上げ、自分の頭皮やわき、背中を血がにじむまでひたすら掻きむしる癖を持っていた。この数ヶ月、光の友から連絡を受けて診察に向かう8割方は彼女が原因だった。

「穂乃果ちゃんじゃないんです。一昨日おととい、新しく入ってきた児童のようです」

「そう……」百子は表情を強張らせる。

 精神科医の医師にとって、新患とは厄介な存在である。特に児童養護施設に入ってくる子供は、往々にして人付き合いが苦手だったり、人見知りで猜疑心さいぎしんの強いタイプが多い。そんな彼らに信頼されるよう、精神科医の多くはファーストコンタクトにかなりの神経をすり減らす。

「それにあの……」

 辰巳師長が口ごもりながら、上目遣いに百子を見た。

 なに? なんなの?

 百子は背筋がゾワッとした。彼女が百子にああいう視線を送る時はいつも厄介事を押し付ける時と決まっていた。

「症例なんですが……記憶喪失らしいんです。それも、全生活史健忘けんぼう

「全生活史健忘?」

 百子は思わず頓狂とんきょうな声を出した。

 

 光の友ホームまで徒歩で約6分。その間、百子は何度も同じ言葉を反芻はんすうしていた。「全生活史健忘? 本物? それとも……」

 全生活史健忘は、小説や映画でよく見かける、「ここはどこ? 私は誰?」と、自分が何者なのか過去にどんな生活をしてきたのか、一切の記憶を喪失しているタイプの記憶障害である。一般的に記憶喪失イコールこの全生活史健忘を指すことがほとんどであるが、しかしこの、俗に言うところの「記憶喪失」はフィクションの世界ではかなりポピュラーな病名である一方、現実の精神医学界においては、それほど症例の多い病気ではない。事実、医師免許を取得して6年を経過している百子でさえ、これまで、直接、全生活史健忘の患者を診察したことがなかった。


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最終更新日 : 2017-11-07 16:19:51

【試し読み版】 死への目撃者 (3/16)

 実は百子は今も、心のどこかで、「全生活史健忘型の記憶喪失」と診断された患者の半分近くは詐病さびょうではないかと疑っていた。その理由として、「都合が良すぎる」点がどうにも気になるのだ。「全ての記憶をなくしているくせに、なぜ言葉はしゃべれるのか? なぜ食事や排泄はいせつ、入浴の方法は覚えているのか?」などなど。

 比較的患者数の多い通常の記憶障害、つまり、脳への外傷や薬物などによる外因性の記憶喪失や強いストレスを受けたことによる心因性の解離性かいりせい記憶喪失患者は、百子もそこそこ診察してきたが、それらは皆、記憶の一部のみを失ったものだった。

 もちろん彼女とて過去の症例などを勉強し、外因性、心因性問わず、全生活史健忘というモノ自体が存在していることは十分に理解しているつもりだったが。

 光の友ホームは、2階建ての木造テラスハウスアパートの作りをしている。ホームになる前は、4世帯が入居するごく普通の賃貸物件だったそうだが、今は、1階2世帯部分が共有スペースとスタッフ居住区、2階の2世帯部分4部屋を9人の児童がシェアハウスのようにして暮らしている。

 チャイムを鳴らすと、すぐに玄関が開き、ドンと勢いよく一人の少女が百子の胸に飛び込んできた。穂乃果だ。穂乃果は機嫌のいい時はとにかく甘えん坊で人懐っこい女の子なのだ。

「先生! 私のこと、嫌いになっちゃったの?」

 いきなり穂乃果が目を潤ませて訴えてきた。

「なにそれ? そんなわけないじゃん」

 百子は殊更ことさらに驚いた顔を見せてあげた。

「よかったぁ。最近、先生が来てくれないから、穂乃果、てっきり嫌われたんだとばかり思ってたんだ」

 穂乃果は心からホッとしたように笑った。

 心に傷を持つ児童の多くは他人への依存心が強くなる傾向にある。穂乃果にとって、今や、百子の存在は、自分の精神安定のために必要不可欠な人間になっていた。

 ヤバイな。

 百子はフとそう思った。精神科医に依存する患者は多い。そしてそれはあまりいい治療結果をもたらさないことを、百子は知っていた。

 今後は、なるべく穂乃果との距離を遠ざけていくよう対処しないと共倒れになるぞ……。


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最終更新日 : 2017-11-07 16:20:05

【試し読み版】 死への目撃者 (4/16)

 穂乃果は、ひとしきり百子と会話したら満足した様子で、「今日は夕食の後片付けの当番なの」と言って、奥の台所へと戻っていった。

 穂乃果が去ってすぐに、手前の部屋からこのホームの院長、桑原くわばらなみが顔を出した。

「先生、こちらへ。お忙しいのに、すみません」

 奥の部屋には、スタッフたちの居住スペースの他に、小さな4畳半の面会室が2つある。普段は、児童相談所とのミーティングや、児童とその親御さんとの面会などに使われる。そして、百子によるメンタルカウンセリングルームとしての用途もあった。

 通い慣れた手前の面会室のドアを開けると、テーブルを挟んだ窓際の椅子いすに、少女が座っていた。

 ストレートの黒髪に、透き通っているかのように白い肌。少しつり目で切れ上がった目。長いまつげ。白いワンピースを着ている。年齢は16か17だろう。だが正確なところは正直よく分からなかった。あまりの美しさが実年齢を判別しづらくさせていた。とにもかくにも、ファッション雑誌の表紙に登場してもおかしくないほどの美少女がそこにいた。

「きれい……」

 百子はわざと声に出した。もちろん、ファーストコンタクトで相手にいい印象を与える狙いもあった。心を閉ざす患者に初めて会う時、まずは、何かしらめると、その後の会話がスムーズに行くことを、百子は経験則として知っていた。だが、先ほどの感想は本心から思わず出た言葉でもあった。

 それぐらい、少女は美しかった。

 少女は、百子が入ってきたことを認識しているはずなのに、うつむいたままじっとしていた。

 向かいの席に腰を下ろす百子に、一緒に入ってきた桑原院長が小声でささやく。

「一昨日、田無たなし警察署の生活安全課の婦警さんが児童相談所の所長と一緒に彼女を連れてきたんです。2週間前、青梅おうめ街道沿いの児童公園で倒れていたそうです」

「公園で?」

「発見された時は素足に上下ジャージ姿だったみたい。すぐに市民病院に運ばれて精密検査を受けたら、身体的には全く異常なしだったけど……」

「記憶だけが、なかった?」

 桑原は小さくうなずいた。「病院でCTやMRI? そういったものも全部やったみたいです。だけど、外傷が原因ではないってことぐらいしか分からなかったみたいで、病院としても警察としても、病気ではないと診断された身元不明の児童をいつまでも入院させるわけにはいかないってことで……」


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最終更新日 : 2017-11-07 16:20:15

【試し読み版】 死への目撃者 (5/16)

「それで、ここに?」

「ええ」桑原は弱く微笑ほほえんだ。「本当だったら、もっと早く先生にご連絡差し上げて、診察に来てもらいたかったんですけど、警察から、『いつ、保護者が名乗り出てくるか分かりません。ここに入所をお願いしたのは、あくまでも暫定ざんてい的処置ということで』とか言って念押しされちゃったもので」

「そう、ですか」百子は納得した。

 桑原としても、彼女を他の入所児童同様、ホームの家族として迎えていいものかどうか迷っているようだ。

「名前とか年齢とか、どこから来たとかの手がかりって、まるでないんですか?」

 百子は、わざとテーブルの向こうの少女にも聞こえるように大きめの声で隣の桑原に質問する。桑原も、百子の意図することが分かったようで、同様にはっきりと聞こえる声で答えた。

「ええ。本人は全く記憶にないみたい。児童公園で発見された時の着衣には名前などの記載はなかったそうですし、身元を判別するモノも持ってなかったみたいです。裸足はだしの足の裏はほとんど泥も砂もついていなかったことから、警察としては、車でどこからか運んできたか、あるいは本人の意志で車から逃げ出した可能性が高いだろうって……事件事故の両方で捜査はしているようなんですけど、手がかりは全然みたいで……」

 百子と桑原の会話が聞こえているはずの少女の体がピクンと反応した。

 それを見て百子は、シメタ、と内心喜んだ。

 本当の記憶喪失だった場合、自分が何者でどこから来たのか知りたいと一番願っているのは本人なのだ。記憶を取り戻すには、何かしらのキッカケが必要である。しかし本人がそのキッカケが何であるかを見つけ出そうとする強い意志を持たない限り、記憶は簡単には取り戻すことができないというのが百子の考えだった。

 今、少女は、自分が発見された時の状況にしっかりと耳を傾けていた。その中に、自分が見落としたキッカケがないか、必死に探そうとしているからこそ、体が反応したのだ。とにもかくにも、少女自身は、記憶を取り戻したいと願っていることは明らかだった。

 人は誰でも、『自分は何者なのか』を必死に探し求める定めにある生き物なのだ。

 とはいえ……、

 百子はこの時点では、目の前の少女が本当に記憶を喪失してしまっているのか、あるいは、記憶喪失のフリをしているのか、その判断をする段階になかった。


6
最終更新日 : 2017-11-07 16:20:25

【試し読み版】 死への目撃者 (6/16)

 ようやく百子は少女に向かって話し始めた。

「ごめんなさいね、自己紹介が遅れて。私は精神科医のイトカワモモコ。毛糸の糸に川、数字の百に子と書いて百子って言うの。近くのメンタルクリニックから呼ばれて来たの。ここのホームの悩み相談役も引き受けているから、これからもよろしくね」

 少女はコクンと頷いた。しかしまだ百子の目は見てくれない。

「今、院長さんからあなたがここに来たいきさつは聞いたわ。大変だったのね。自分が誰なのか分からないのって、すっごく不安だと思うし、昔のことが全然思い出せないっていうのも、つらいと思うわ」

 百子はフレンドリーな言い回しを心がけた。

「名前、どうしよっか? 本当の名前を思い出すまでの間、あなたのこと、なんて呼べばいいかな?」

 少女が、一瞬、戸惑ったように感じた。次の瞬間、ゆっくりと顔を上げ、百子ではなく桑原を見た。

 桑原が小さく頷いた。

 そして少女が初めて口を開く。

「……ミナ」それは小さな声だった。

「え?」百子は片手を耳に当て、問い返す。

「ミナ」少女がもう一度言った。

 百子は驚いて隣の桑原を振り向いた。

「すみません。私が仮につけた名前です。ほら、いくら短期間だけお預かりするとしても、やっぱり、名前がないと不便だから」

「ああ。そうだったんですか」百子は少しガッカリした。名前だけは覚えていたのだと勘違いしてしまったからだ。

「でも、どうしてミナちゃんって?」

「それが……」

 桑原が何故なぜか言いよどんだ。百子は怪訝けげんそうに首をかしげた。

「……タトゥーで37と……彼女の右の手首に」怒りのせいで顔を真っ赤にさせた桑原が絞り出すように言った。

「えっ!?」百子は耳を疑った。そして目の前の美少女の右手に視線を移す。しかしテーブルに隠れているので手首は見えない。

 ためらいもなくミナがスーッと自分の右腕を百子の前に差し出した。確かに、右手首の内側に、『37』と小さなタトゥーが彫られている。マジックインキとかで書かれたものではなく、明らかに彫られたもののようだ。

「……37だから、ミ(3)ナ(7)ですか……なるほど」

 百子はようやく名前の由来を理解した。と同時に、憤怒ふんぬで胸が苦しくなった。

「誰が一体、こんなひどいことを……」


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最終更新日 : 2017-11-07 16:20:35


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