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第1章

【試し読み版】 死への目撃者 (1/16)

《 第1章 》

 糸川いとかわ百子ももこは勤務時間を終え、白衣を脱いだ。ロッカーにそれを無造作に投げ込むと、トートバッグを肩に掛けつつ腕時計を見た。18時12分。早足で駅に向かい、20分の電車に飛び乗れば、19時ちょうどからの映画にはなんとか間に合うはずだ。

「お疲れ様」

 すれ違う看護師たちに軽く挨拶あいさつを交わしながら、クリニックの入り口ドアを開けたその時だった。

「糸川先生!」

 背後から呼び止める声がした。聞こえないふりをして、そのまま駅にダッシュしてやろうとも思ったが、さすがにやめた。今日はそれでやり過ごせたとしても、明日からの仕打ちが怖い。

「何でしょうか、師長?」

 百子は、声の主を確かめることなく、作り笑顔で振り返った。あのダミ声は、百子の天敵である辰巳たつみ看護師長に違いなかった。

「光の友ホームからお電話です。急なんですが、一人、診察をしてほしい児童がいるようです」辰巳師長が診察室のドアを開けながら言った。「駅への通り道ですから、お帰りのついでに立ち寄っていただけないでしょうか」

 いただけないでしょうかもクソもあったものじゃない。辰巳の手にはコードレス受話器はすでにない。つまりは、「糸川を向かわせます」と先方に勝手に承諾して電話を切ったはずだ。これは強制だ。ついでに言わせてもらえば、光の友ホームは駅への通り道ではない。ホームに顔を出して駅に向かうとなれば、相当な遠回りになる。

「分かりました。向かいます」

 百子は小さくため息をついた。映画は延期するしかない。

「それで? だれの、どんな症状なんでしょうか? また穂乃果ほのかちゃんのきむしりかしら? 血が出てなきゃいいけど」

 ひかりともホームは、いわゆる児童養護施設である。様々な理由で、親が養育できない子供たちを預かっている施設だ。光の友は多摩たま地区の中では比較的新しくできた養護施設で規模も小さい。現在は8歳から18歳までの男児女児9人が入所している。

 百子が勤務する北吉祥寺きたきちじょうじメンタルクリニックは、光の友ホームの指定カウンセラー医院である。施設に入所する児童は、例外なく、親からの虐待や育児放棄、親との死別を経験しているため、心に深い傷を負った者たちばかり。精神科医である百子は、日頃から光の友ホームに顔を出しては、子供たちの心のケアに努めていた。


最終更新日 : 2017-11-07 16:19:41

【試し読み版】 死への目撃者 (2/16)

 百子が気にしている穂乃果という15歳の少女は、母親からの度重なる暴力が原因で、警察と児童相談所による介入の結果、光の友に入所してきた。他の入所児童以上にセンシティブな性格で、いつまでここにいるのかと不安になる度に、奇声を上げ、自分の頭皮やわき、背中を血がにじむまでひたすら掻きむしる癖を持っていた。この数ヶ月、光の友から連絡を受けて診察に向かう8割方は彼女が原因だった。

「穂乃果ちゃんじゃないんです。一昨日おととい、新しく入ってきた児童のようです」

「そう……」百子は表情を強張らせる。

 精神科医の医師にとって、新患とは厄介な存在である。特に児童養護施設に入ってくる子供は、往々にして人付き合いが苦手だったり、人見知りで猜疑心さいぎしんの強いタイプが多い。そんな彼らに信頼されるよう、精神科医の多くはファーストコンタクトにかなりの神経をすり減らす。

「それにあの……」

 辰巳師長が口ごもりながら、上目遣いに百子を見た。

 なに? なんなの?

 百子は背筋がゾワッとした。彼女が百子にああいう視線を送る時はいつも厄介事を押し付ける時と決まっていた。

「症例なんですが……記憶喪失らしいんです。それも、全生活史健忘けんぼう

「全生活史健忘?」

 百子は思わず頓狂とんきょうな声を出した。

 

 光の友ホームまで徒歩で約6分。その間、百子は何度も同じ言葉を反芻はんすうしていた。「全生活史健忘? 本物? それとも……」

 全生活史健忘は、小説や映画でよく見かける、「ここはどこ? 私は誰?」と、自分が何者なのか過去にどんな生活をしてきたのか、一切の記憶を喪失しているタイプの記憶障害である。一般的に記憶喪失イコールこの全生活史健忘を指すことがほとんどであるが、しかしこの、俗に言うところの「記憶喪失」はフィクションの世界ではかなりポピュラーな病名である一方、現実の精神医学界においては、それほど症例の多い病気ではない。事実、医師免許を取得して6年を経過している百子でさえ、これまで、直接、全生活史健忘の患者を診察したことがなかった。


最終更新日 : 2017-11-07 16:19:51

【試し読み版】 死への目撃者 (3/16)

 実は百子は今も、心のどこかで、「全生活史健忘型の記憶喪失」と診断された患者の半分近くは詐病さびょうではないかと疑っていた。その理由として、「都合が良すぎる」点がどうにも気になるのだ。「全ての記憶をなくしているくせに、なぜ言葉はしゃべれるのか? なぜ食事や排泄はいせつ、入浴の方法は覚えているのか?」などなど。

 比較的患者数の多い通常の記憶障害、つまり、脳への外傷や薬物などによる外因性の記憶喪失や強いストレスを受けたことによる心因性の解離性かいりせい記憶喪失患者は、百子もそこそこ診察してきたが、それらは皆、記憶の一部のみを失ったものだった。

 もちろん彼女とて過去の症例などを勉強し、外因性、心因性問わず、全生活史健忘というモノ自体が存在していることは十分に理解しているつもりだったが。

 光の友ホームは、2階建ての木造テラスハウスアパートの作りをしている。ホームになる前は、4世帯が入居するごく普通の賃貸物件だったそうだが、今は、1階2世帯部分が共有スペースとスタッフ居住区、2階の2世帯部分4部屋を9人の児童がシェアハウスのようにして暮らしている。

 チャイムを鳴らすと、すぐに玄関が開き、ドンと勢いよく一人の少女が百子の胸に飛び込んできた。穂乃果だ。穂乃果は機嫌のいい時はとにかく甘えん坊で人懐っこい女の子なのだ。

「先生! 私のこと、嫌いになっちゃったの?」

 いきなり穂乃果が目を潤ませて訴えてきた。

「なにそれ? そんなわけないじゃん」

 百子は殊更ことさらに驚いた顔を見せてあげた。

「よかったぁ。最近、先生が来てくれないから、穂乃果、てっきり嫌われたんだとばかり思ってたんだ」

 穂乃果は心からホッとしたように笑った。

 心に傷を持つ児童の多くは他人への依存心が強くなる傾向にある。穂乃果にとって、今や、百子の存在は、自分の精神安定のために必要不可欠な人間になっていた。

 ヤバイな。

 百子はフとそう思った。精神科医に依存する患者は多い。そしてそれはあまりいい治療結果をもたらさないことを、百子は知っていた。

 今後は、なるべく穂乃果との距離を遠ざけていくよう対処しないと共倒れになるぞ……。


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:05

【試し読み版】 死への目撃者 (4/16)

 穂乃果は、ひとしきり百子と会話したら満足した様子で、「今日は夕食の後片付けの当番なの」と言って、奥の台所へと戻っていった。

 穂乃果が去ってすぐに、手前の部屋からこのホームの院長、桑原くわばらなみが顔を出した。

「先生、こちらへ。お忙しいのに、すみません」

 奥の部屋には、スタッフたちの居住スペースの他に、小さな4畳半の面会室が2つある。普段は、児童相談所とのミーティングや、児童とその親御さんとの面会などに使われる。そして、百子によるメンタルカウンセリングルームとしての用途もあった。

 通い慣れた手前の面会室のドアを開けると、テーブルを挟んだ窓際の椅子いすに、少女が座っていた。

 ストレートの黒髪に、透き通っているかのように白い肌。少しつり目で切れ上がった目。長いまつげ。白いワンピースを着ている。年齢は16か17だろう。だが正確なところは正直よく分からなかった。あまりの美しさが実年齢を判別しづらくさせていた。とにもかくにも、ファッション雑誌の表紙に登場してもおかしくないほどの美少女がそこにいた。

「きれい……」

 百子はわざと声に出した。もちろん、ファーストコンタクトで相手にいい印象を与える狙いもあった。心を閉ざす患者に初めて会う時、まずは、何かしらめると、その後の会話がスムーズに行くことを、百子は経験則として知っていた。だが、先ほどの感想は本心から思わず出た言葉でもあった。

 それぐらい、少女は美しかった。

 少女は、百子が入ってきたことを認識しているはずなのに、うつむいたままじっとしていた。

 向かいの席に腰を下ろす百子に、一緒に入ってきた桑原院長が小声でささやく。

「一昨日、田無たなし警察署の生活安全課の婦警さんが児童相談所の所長と一緒に彼女を連れてきたんです。2週間前、青梅おうめ街道沿いの児童公園で倒れていたそうです」

「公園で?」

「発見された時は素足に上下ジャージ姿だったみたい。すぐに市民病院に運ばれて精密検査を受けたら、身体的には全く異常なしだったけど……」

「記憶だけが、なかった?」

 桑原は小さくうなずいた。「病院でCTやMRI? そういったものも全部やったみたいです。だけど、外傷が原因ではないってことぐらいしか分からなかったみたいで、病院としても警察としても、病気ではないと診断された身元不明の児童をいつまでも入院させるわけにはいかないってことで……」


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:15

【試し読み版】 死への目撃者 (5/16)

「それで、ここに?」

「ええ」桑原は弱く微笑ほほえんだ。「本当だったら、もっと早く先生にご連絡差し上げて、診察に来てもらいたかったんですけど、警察から、『いつ、保護者が名乗り出てくるか分かりません。ここに入所をお願いしたのは、あくまでも暫定ざんてい的処置ということで』とか言って念押しされちゃったもので」

「そう、ですか」百子は納得した。

 桑原としても、彼女を他の入所児童同様、ホームの家族として迎えていいものかどうか迷っているようだ。

「名前とか年齢とか、どこから来たとかの手がかりって、まるでないんですか?」

 百子は、わざとテーブルの向こうの少女にも聞こえるように大きめの声で隣の桑原に質問する。桑原も、百子の意図することが分かったようで、同様にはっきりと聞こえる声で答えた。

「ええ。本人は全く記憶にないみたい。児童公園で発見された時の着衣には名前などの記載はなかったそうですし、身元を判別するモノも持ってなかったみたいです。裸足はだしの足の裏はほとんど泥も砂もついていなかったことから、警察としては、車でどこからか運んできたか、あるいは本人の意志で車から逃げ出した可能性が高いだろうって……事件事故の両方で捜査はしているようなんですけど、手がかりは全然みたいで……」

 百子と桑原の会話が聞こえているはずの少女の体がピクンと反応した。

 それを見て百子は、シメタ、と内心喜んだ。

 本当の記憶喪失だった場合、自分が何者でどこから来たのか知りたいと一番願っているのは本人なのだ。記憶を取り戻すには、何かしらのキッカケが必要である。しかし本人がそのキッカケが何であるかを見つけ出そうとする強い意志を持たない限り、記憶は簡単には取り戻すことができないというのが百子の考えだった。

 今、少女は、自分が発見された時の状況にしっかりと耳を傾けていた。その中に、自分が見落としたキッカケがないか、必死に探そうとしているからこそ、体が反応したのだ。とにもかくにも、少女自身は、記憶を取り戻したいと願っていることは明らかだった。

 人は誰でも、『自分は何者なのか』を必死に探し求める定めにある生き物なのだ。

 とはいえ……、

 百子はこの時点では、目の前の少女が本当に記憶を喪失してしまっているのか、あるいは、記憶喪失のフリをしているのか、その判断をする段階になかった。


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:25

【試し読み版】 死への目撃者 (6/16)

 ようやく百子は少女に向かって話し始めた。

「ごめんなさいね、自己紹介が遅れて。私は精神科医のイトカワモモコ。毛糸の糸に川、数字の百に子と書いて百子って言うの。近くのメンタルクリニックから呼ばれて来たの。ここのホームの悩み相談役も引き受けているから、これからもよろしくね」

 少女はコクンと頷いた。しかしまだ百子の目は見てくれない。

「今、院長さんからあなたがここに来たいきさつは聞いたわ。大変だったのね。自分が誰なのか分からないのって、すっごく不安だと思うし、昔のことが全然思い出せないっていうのも、つらいと思うわ」

 百子はフレンドリーな言い回しを心がけた。

「名前、どうしよっか? 本当の名前を思い出すまでの間、あなたのこと、なんて呼べばいいかな?」

 少女が、一瞬、戸惑ったように感じた。次の瞬間、ゆっくりと顔を上げ、百子ではなく桑原を見た。

 桑原が小さく頷いた。

 そして少女が初めて口を開く。

「……ミナ」それは小さな声だった。

「え?」百子は片手を耳に当て、問い返す。

「ミナ」少女がもう一度言った。

 百子は驚いて隣の桑原を振り向いた。

「すみません。私が仮につけた名前です。ほら、いくら短期間だけお預かりするとしても、やっぱり、名前がないと不便だから」

「ああ。そうだったんですか」百子は少しガッカリした。名前だけは覚えていたのだと勘違いしてしまったからだ。

「でも、どうしてミナちゃんって?」

「それが……」

 桑原が何故なぜか言いよどんだ。百子は怪訝けげんそうに首をかしげた。

「……タトゥーで37と……彼女の右の手首に」怒りのせいで顔を真っ赤にさせた桑原が絞り出すように言った。

「えっ!?」百子は耳を疑った。そして目の前の美少女の右手に視線を移す。しかしテーブルに隠れているので手首は見えない。

 ためらいもなくミナがスーッと自分の右腕を百子の前に差し出した。確かに、右手首の内側に、『37』と小さなタトゥーが彫られている。マジックインキとかで書かれたものではなく、明らかに彫られたもののようだ。

「……37だから、ミ(3)ナ(7)ですか……なるほど」

 百子はようやく名前の由来を理解した。と同時に、憤怒ふんぬで胸が苦しくなった。

「誰が一体、こんなひどいことを……」


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:35

【試し読み版】 死への目撃者 (7/16)

 年齢から推測して、自分自身で入れ墨を入れたとは考えにくい。となると、親なり友人なりが強制的に、または興味本位で、彼女の体にタトゥーを刻みつけたと推測するのが順当だろう。

「ただ、彼女の精密検査を担当したお医者さまによれば、このタトゥーは、若い人の間で最近流行っているヘナタトゥーと同じく、表皮だけを染めているようで、どれだけ長くとも、3ヶ月か半年もすれば消えていくだろうって……」

「そう……消えるんだ。よかった」百子は心から安堵あんどする。

「この数字、何なんでしょうか?」桑原が百子に尋ねる。

「さあ? ミナちゃんにも心当たりはないんですよね?」

 百子は、桑原とミナを交互に見やった。ミナはかすかに首を横に振った。

「警察の人は、不良グループの友人たちがグループ名にちなんだ数字を彫ったんじゃないかって言ってましたけど。別の警察の方は、数ヶ月で消えるヘナタトゥーだと分かっていたのなら、本人が自らの意思で、好きな数字をそういうお店で入れてもらった可能性もあるんじゃないかって」

「そういうお店?」

「その警察官の話ですと、最近、ハワイの土産物屋とかでも簡単に入れられるんだそうです、ヘナタトゥーっていうのは」

「へえ」

 桑原の言葉に百子は一々感心したように頷いた。

「なるほどね。消えるタトゥーなら、気軽な気持ちで、好きな男子の生年月日とか交際を始めた記念日とかを入れちゃうってこと、あるのかも」

 さっきまでの怒りの感情が急速に消えていくのが分かった。半年で消えてしまうのならば、そこまで深刻に考える必要はないのかもしれない。百子は次の質問に移ることにした。

「これまでに何度も、警察や児童相談所で同じことを聞かれていると思うけど、改めて質問いいかしら? あなたの本当の名前や年齢、お父さんお母さんのこと、どこから来たとか、覚えていることってある?」百子は本題を切り出した。

「……ない」

 ミナは少しだけ考え込む仕草しぐさをして、ポツリと言った。ぶっきらぼうだが、決して怒っているわけでもないみたいだ。そして続けた。「本当に覚えてない……ごめんなさい」

「謝ることはないわ。だって記憶喪失ってそういうものだから」

 百子は笑顔をミナに向けた。

「質問変えようか。じゃあ、好きな色は何?」

「……分からない」

「好きな食べ物は? 反対に嫌いな食べ物でもいいわ」

「……分からない」

「じゃあ、好きなアイドルとか、いる?」

「……分からない」


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:45

【試し読み版】 死への目撃者 (8/16)

 ミナは、百子から矢継ぎ早に質問される度に、決まって首を少し傾げ、考え込んだ。しかし、どの質問にも結局答えることができずに、「分からない」を繰り返した。

 それでも百子は、好きなモノ嫌いなモノの質問をしつこく繰り返した。それらの質問の何か一つでもいい、ミナの失われた記憶の鍵穴かぎあなに突き刺さる「キッカケ」がないか、それを探していた。

 27問目からは質問形式を変えた。

「じゃあ、今度は好き嫌いじゃなくて、得意か不得意かを教えて。お料理は得意?」

「……分からない」

「英語は得意?」

「……分からない」

「スポーツは得意?」

 ミナが初めてピクンと反応した。「得意かどうかは……分からない……けど、病院で体力測定みたいなことを何度かやった……いい成績だった」

「例えば?」

「50メートル、7秒5……立ち幅跳び、2メートル20」

 ミナは自分の記録を暗記していた。

 記憶を失う前の記憶は全て忘れてしまっているが、それ以降の記憶についてはよく覚えているということなのか。

「ちょっと待って。今、調べてみる」

 百子はトートバッグからスマホを取り出し、中高生女子の運動能力テストの全国平均値を検索する。

 ミナの正確な年齢は分からないが、見た目から高校一年生と推定し、その辺りの女子の平均値を見てみると、50メートル走では8秒後半から9秒頭、立ち幅跳びは170センチ前後だった。ミナの数値は同年代男子平均に匹敵していた。

「かなり運動神経はいいみたいね。記憶をなくす前は、運動部に入っていたのかもね」

「病院の先生や警察の人も同じこと、言ってた」

 ミナが少しだけ表情を緩めた。

「体育会系なのかもね。私とは反対ね。私なんかウンチだもん」

「ウンチ?」ミナが首を傾げた。

「運動音痴のこと。私なんか、勉強する他はからっきしなの。だから、スポーツができる人や音楽ができる人、あと、マンガ描けちゃう人とかにすっごくあこがれるのよ」

「マンガ!? そうだわ。先生! ミナも、絵、上手うまいんです! それもびっくりするぐらい」

 桑原が思い出したように大声を上げた。

「原本は警察の方に提出しちゃったんですけど、コピーがあるんです。見ていただけますか?」

 桑原はそう言うと、あわてて面会室を飛び出していった。そしてしばらくの後、クリアファイルに入った一枚のコピー用紙を持って戻ってきた。


最終更新日 : 2017-11-07 16:20:58

【試し読み版】 死への目撃者 (9/16)

 桑原が百子に見せたその紙切れには、一人の若い女性のバストショットが鉛筆画で描かれてあった。デフォルメされた似顔絵ではなく、極めて写実的に描かれたデッサン人物画である。まるで一枚の写真を切り取ったような、それとも目の前の光景を直接見てデッサンしたかのような、そんな人物画だった。

 人物は、ショートカットでメガネ姿。OLっぽいブラウスにジャケットを着用している。歳は25から30前後だろうか。なかなかの美人であるが、驚いた時の顔だからか、眉間みけんにシワが寄っているのが玉にきずと言えば言えるかもしれない。外出先でのワンシーンをデッサンしたらしく、女性の背後の街路樹らしき木々までうっすらと描いている。

「上手ねぇ。もしかしてミナちゃん、美術系の学校に通っているの?」

「分からない」

「で、この人、どなた?」

「……誰だか……分からない」

「え?」

「急に、頭の中にこの人が出てきて。描かなきゃいけないって」

「描かなきゃいけない?」

「一昨日、ウチに来て、すぐでした。いきなりミナが、紙と鉛筆が欲しいって言い出して。だからこれの原本は、チラシの裏なんですよ」

 桑原によれば、ホームのリビングで、他の入所者の紹介をしている最中に、ミナが突然、頭を抱え込み、しゃがみこんだかと思いきや、すぐに紙と鉛筆を要求してきたのだという。ミナは何かに取りかれているかのように、ものすごい早さで鉛筆を動かし、このデッサンを仕上げたのだという。

「驚いたわ。たった10分とかで描きあげちゃったのよ」

「もう一度、聞くけど、この女の人に見覚えはないのよね? ミナちゃんのお姉さんとか、学校の先生とか、知り合いじゃないのよね?」

「……分からない……本当に分からない」

 ミナは頭を抱えた。

「警察の人も、写真とかを見ずに、ここまで細かく描写できているっていうのは、ミナが過去に深く関わった人であることは間違いないから、この人物画が誰か、探してみますって言って、原本を持っていったの」

「そうですね。私も同感です。それどころか、この人が、ミナちゃんが記憶をなくすキッカケだった可能性も高いです」

「先生もそう思われますか?」桑原が飛びつくように言った。

「ええ。他の記憶を全てなくしているにもかかわらず、ここまで細かく人物描写ができるっていうことは、ミナちゃんの記憶障害のキーパーソンであることは間違いないと思います」

 百子は断言した。そしてもう一度、デッサン画に目を落とす。さっきは気づかなかったが、デッサン画の右下に、小さく『201X.9.7.17:15』の文字があった。


最終更新日 : 2017-11-07 16:21:08

【試し読み版】 死への目撃者 (10/16)

「ああ、それね。ミナが日付と時間をわざわざ私に確認して、自分で書いたんです。几帳面きちょうめんな性格なのね。日付だけじゃなくて、デッサンした時間まで書くなんて。それも描き終わった後じゃなくて、書き始めに聞いてきたのよね。『今、何月何日ですか? 今、何時何分ですかっ?』って強い調子で聞かれたから、驚いちゃって、アタフタしちゃったの」

「……あの時、日付と時間をどうしても書かないといけないって……ごめんなさい」ミナは桑原に頭を下げた。

「なんで謝るの? ゼンゼン、ゼンゼン」桑原は笑い飛ばした。

 おそらく、記憶をなくす前の彼女は、デッサン画を描く際、日付と時間を明記するのをルールにしていたのだろう。それが無意識に出てしまったのだ。

 どうやら、ミナが美術系学校に通っていたか、もしくは、美術系の個人レッスンを受けていたという推理は、あながち外れてはいないのかもしれない。

 

 その後、2時間近くかけて、百子はミナの問診を続けた。

 結局、ミナの記憶が戻ることはなかったし、そのキッカケさえつかむことはできなかった。

 結論から言えば、百子はいまだ、彼女が正真正銘の記憶喪失患者なのか、それとも詐病なのかの判断をつけかねていた。

 だが、彼女が2日前に描いたデッサン画の存在が、詐病の疑い有りとする疑念を消し去りつつあった。記憶喪失をいつわろうとする人間が、逆に、過去の記憶の一部であるあの絵をわざわざ描くだろうか。

 あのデッサン画の女性は、ミナの過去に密接に関わったことのある人物であることは間違いない。百子はそう信じてみることにした。つまりは、デッサン画の女性が誰であるかが分かれば、自動的にミナが何者であるか判明するだろう。そうも確信していた。

 そして手首に彫られた37という数字。これも彼女の素性を明らかにする手がかりの一つとなるはずだ。

 面会室を出た時、時計の針はもう21時を過ぎていた。

 入居者たちの共有スペースを抜け、百子は玄関へと向かった。共有スペースの液晶テレビには、夜9時の報道ニュースが映し出されていた。

「チャンネル変えて! バラエティがいい!」入居者の誰かがそう言って、リモコンでチャンネルを変えようとしたその時、

「待って! そのまま! チャンネル、そのままにして!」


最終更新日 : 2017-11-07 16:21:18

【試し読み版】 死への目撃者 (11/16)

 誰かの悲鳴にも似た叫び声がした。

 ホームにいた一同が驚いて、声のした方を振り向いた。

 桑原院長だ。

 百子の見送りに玄関へと出て行こうとした桑原が、ニュースの画面を、愕然がくぜんとした面持ちで見入っている。

「先生……ミナ……あ、あれ……あれ見て」

 桑原が震える声で液晶テレビを指さした。

 玄関先でハイヒールを履こうとしていた百子と、彼女を見送ろうと玄関の手前で立っていたミナが、同時にテレビ画面を見た。そして同時に「あっ」と声を上げた。

「遺体で発見されたのは、東京都八王子はちおうじ市に住む、会社員山中やまなか友絵ともえさん、27歳です。警察の調べによりますと、山中さんは、本日午前6時過ぎ、出勤のため自宅マンションを出た後、行方が分からなくなっていましたが、本日昼過ぎ、自宅近くの公園で遺体となって発見されました。八王子警察署では殺人事件として、警視庁との合同捜査本部を設置し……」

 ニュース画面には、殺人事件の被害者の顔写真が大きく映し出されていた。

 その顔写真は、ミナが2日前にデッサンした人物画そのものだった。

「まさか……ミナちゃんの知り合いが……殺された」

 百子は呆然ぼうぜんつぶやきながら、目の前のミナを振り返った。

 ミナは顔面蒼白そうはくになりながら、必死にその場に立ち続けていた。


最終更新日 : 2017-11-07 16:21:29