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目次

<目次>

 

 (1) 我は切望す、我が真意のありようを受け止めんことを

 

 (2) 無用な心配は大いなるお節介

 

 (3) この顔が悪用されるって

 

 (4) 伏せよ、頭を抱えよ、そして、逃げよ!

 

 

 

 


(1) 我は切望す、我が真意のありようを受け止めんことを

 

 ロビーナでは、リビングの端に置かれたダイニングテーブルが私の書斎です。

 それも、朝の3時から6時までの3時間だけです。

 4時には、娘が赤ちゃんにおっぱいを与えるために、リビングにきて、そのまま、赤ん坊と眠ります。

 その中で、私はものを考え、文章を綴るのです。

 

 世の明けきらないリビングには、あの独特の甲高い、そして、周期的な声で鳴く「謎」の鳥の鳴き声が聞こえて来ます。

 娘が赤ん坊にお乳を与えながら、ソファで身を沈めて眠りに入り、満腹になった赤ん坊も静かに寝入っている頃、空が白んできます。

 その頃、私は、私自身が言うところの「ルーチン」を終えるのです。

 

 原稿用紙5枚程度の文章を綴り、ネットに、それをアップし、ネットを通しての友人たちとコンタクトを取るのです。

 これが、私のルーチンです。

 来る日も来る日も、早朝、欠かすことなく、私がやることにしている活動です。

 

 そして、そっと、娘と孫を起こさないように朝食の準備をし、トーストと卵焼きの朝食をとります。後片付けをして、私は、ロビーナの森へと、朝のウォーキングに出ていくのです。

 

 しかし、そんな生活が終わりました。

 幾分湿気を感じる9月のある日、私はホームグランンドつくばに戻り、いつもの私の書斎に戻ってきたのです。

 

 湯川れい子という音楽評論家がいます。

 今、その方の回顧録を新聞連載で読んでいます。

 

 その中に、10代の私は、何事も前向きに物事を捉えることで生きて来たという記載がありました。

 前向きに捉えることで、女であった私は、大人の、それも男ばかりの世界で、音楽評論家として、作詞家として自立できたのだと言うのです。

 当時、容易に行けなかったアメリカにも行くことができたのも、そうした捉え方が幸いしたというのです。

 

 確かに、人間というのはチャンスをものにしなければ、そして、そのチャンスがなんであるのかを知らなければと始まらないと思います。

 

 私は、どちらかというと、表に出ていくことがどうも苦手な性格で、裏方にあって、何かをしている方を好んだので、チャンスを手に入れるということには縁遠い人間ではありました。

 それでも、若いうちには、時の流れとか、物事のちょっと先を読むことには長けていたようで、チャンスというわけではないのですが、多くの人に支えられて、なんとかやってこれたと思っているのです。

 

 ロビーナに暮らす2歳の孫に、私は、教育レゴの「サイエンス アンド テクノロジー」を持って行きました。

 もちろん、2歳にはまだ早いレゴではあります。

 でも、歯車や太陽エネルギー、小さい部品を組み立てるという活動を通して、知恵をつけてもらいたいし、よしんば、それが打ち捨てられても、手元にあるということで、きっと、何か、この子にチャンスを与えるきっかけになるのではないかと思っていたのです。

 周りの大人たちは、ちょっと早いねとかいうのは承知の上です。

 でも、子供たちと言うのは、手にするのは完成されたおもちゃばかりです。

 

 そうした中で、レゴは部品ばかりです。

 そこから何が作れるのかを考えるだけでもいいかと思っているのです。

 それこそが教育だからと思うからです。

 つまり、ちょっと先の未来を見込んで、子供たちにチャンスを与えるのが教育の一つの大切な在り方だからです。

 決して、無駄なことではないのです。

 

 湯川れい子の回顧録には、活動する人間には、二つの型があるということが書かれていました。

 

 パーティー型の一例としてあげられていたのが、大橋巨泉です。

 彼は、見るからに、遊ぶことの好きな男性です。

 競馬、麻雀、ジャズ、俳句に車……。

 それらを通して、多くの人と付き合い、なんだかんだとやりながら、人との交流を広げ、仕事を増やしていくというのです。

 こうなると、それは一種の才能となります。

 

 それをパーティー型とし、その相反する立場にあるのが書斎型というわけです。

 

 てっきり、湯川れい子もそのパーティー型かと思いきや、彼女自身はそうではないというのです。いや、むしろ、彼女自身が書斎型を選んだというのです。

 では、書斎型というのはどういうものか、それについては回顧録には詳細には語られてはいませんでした。

 

 ですから、少し、ここで考察を展開していきたいと思うのです。

 

 人間は、多くの人と喧々諤々とやりあって、そこから何かを見出すことをします。

 学校教育でも、それは一つの手法です。

 指導教諭は、気長に、それを見つめ、彼らが結論に近づくのを待ちます。

 巨泉のあり方は、この学校の手法と一緒なのです。

 ただ、指導教諭がいないだけなのです。

 

 それに対して、書斎型は、自分1人が生徒であり、指導教諭であるということです。

 何かを感じ、何かを思い、何かを生み出すことを、自分1人の中で完結するということです。

 孤独に耐え、世間の流れとはまったく違う流れの中に身を置き、ものを作り出していくのです。

 

 しかし、だからと言って、孤立無援ではなく、世間と遮断された世界にのみ生きるのではないのです。

 

 己の中の世界を大切にして、多くの人の共感できるものを作り上げていく、たった1人の活動こそが書斎型であるということです。

 

 2歳の孫に贈った教育レゴも、その流れの中にあるものに違いないのです。

 願わくば、この2歳の孫が、二世代前の屁理屈をこねるこの男の真意を受け止めてくれることを切望するのです。

 


(2) 無用な心配は大いなるお節介

 

 チグリス・ユーフラテス、インダス、ナイル、そして、黄河。

 いうまでもなく、四大文明を発祥させた川の名前です。

 

 そのうち、黄河文明で使用されていた文字、漢字だけが今に伝わり、現に使われているのです。

 すごいことではないですか。

 5千年も前の知恵の結晶が今でも使われているのですから。

 

 現在、漢字を使っている国は、本家中国に、それに日本だけです。

 中国では、煩雑な漢字を略して表記する簡体字を用いる大陸の地域と昔からの繁体字を用いる台湾など、その他東南アジアに暮らす華僑のいる地域があります。

 日本では、10万字はあるという漢字に加えて、二種の仮名までも用います。

 日本語を学ぶ外国人は、大変な苦労を強いられるとは思います。

 

 ロビーナで暮らす私の孫、複雑な言語環境の中に身を置いています。

 もっとも今は、文字を読めないので、もっぱら音、言語による特殊な環境下にいるわけです。

 先日、娘からラインがあって、こんな話をしていました。

 おしめの中にウンチをするとき、孫は、テーブルの下とか、バスルームのはじにそれとなく移動するのですが、その折、娘が何気なくついていこうとすると、おもむろに振り返り、「ウエイト!」と声をかけられたというのです。

 

 「ママ、来ちゃダメ」とか、「来ないで」という日本語に比べると、英語の「ウエイト」はきついというのです。

 きっと、キンディで、友達や先生から、何かの折に「ウエイト」と言われて、その言葉の使い方を覚えているのでしょう。

 

 私が向こうにいるとき、いつもは騒がしいこの孫が随分と静かにしている時がありました。

 コックリと居眠りをしている時と、iPadで動画を見ている時です。

 iPadには、YouTubeの動画が入っています。

 娘がお気に入りに登録していたのですが、その登録ページにも似たような動画があり、それを器用に、小さな指でスクロールして、面白ければ長めに、つまらなければ次にと、さっさと動かして見ているのです。

 もちろん、気に入ったものは何度も何度も飽きずに見ています。

 何気に、何を見ているのかをそっとうかがって見ると、ロシアのちょっと気の強い女の子が森の動物とあれこれ騒ぎを起こすアニメーションのようです。

 耳をすますと、確かにロシア語です。

 またある時には、日本語でドラゴンボール、スパイダーマンを英語で見ていたりもします。

 

 私の世代が子供のころ、膝の上に置いた機器で、このように言語の異なる、それも、いろいろな国で作られた多少価値観の異なる、あるいは、文化背景の異なる映像を見たことがあったでしょうか、異なる言語に飽きもせず耳をすませることなど、ただの一度もなかったはずです。

 当時、テレビで放映されるアメリカ映画は、全部が日本語に吹き替えられて、それとなく、日本的にアレンジされていたような気もするのです。

 あの時、テレビ局が英語で放映し、字幕をつけていてくれたら、私たちの世代も多少英語が喋れることができたのではないかと思っているのです。

 

 少し大きくなった頃に、「電卓」が、安い価格で、世の中に売り出されるようになりました。

 すると、大人たちがこぞって、それは子供の計算力を奪うと口から泡を出して言い出しました。そろばんの苦手な子供の一人であった私は、余計なことをいう人たちだと思いながら、「電卓」なるものの登場を歓迎していたのです。

 その後、ワープロが登場して来ました。

 すると、今度は、漢字が書けなくなると、さらには、考える力も削がれるのではないかと、真顔で、世の評論家諸氏が言い出したのです。

 その頃は、もう、働いていましたので、無理して、当世随一のワープロなる機器を買って、使い出しましたが、すると、今度は、誰にも簡単に扱えるコンピューターが鳴り物入りで登場して来ました。夜7時のNHKニュースで、そのソフトが売り出されることが報道されるくらいの盛り上がりようです。

 1995年のことでした。

 私は、まだまだ使えるワープロを放り出し、このコンピューターにのめり込んでいくのです。

 

 10万字あるという漢字に、それに二種の仮名文字を、アルファベットの配置されたキーボードを叩き、画面に打ち出し、それをプリントアウトし、教師としての仕事は、今までの数倍、いや、数十倍、早くこなしていけるようになったのです。

 

 そんな自分のありようを振り返ってみると、孫がiPadを使って、動画をみて、言葉を触れていることは価値あることではないかと思うのです。

 それが、どこの国の言葉であるとかわからないまでも、自分の好きなキャラクターが喋る言葉には親近感があるはずです。

 この言葉の意味は熊なのだとか、自分と同じ名前の登場人物がこの漫画には出ているとか、あるいは、親が蜘蛛がいるという、あの蜘蛛がスパイダーともいうんだと、知らず識らずのうちに頭に入ってくるのですから、しっかりと根付くはずです。

 

 バイリンガルとかトリリンガルとか言われて、多言語を話せることは、脳にあるニューロンが、モノリンガルの子より結びつきを複雑にするのではないかと想像したりもするのです。

 しかし、漢字は苦手になるだろう、しかも、日本の歴史はまるきりわからなくなるだろうと心配もするのです。

 

 そんな心配をする自分に、ハッとしました。

 

 あの時の大人たち、評論家諸氏たちと一緒ではないかと。

 電卓が世の中に浸透して、計算能力が劣りましたかと、ワープロやコンピューターを頻繁に使うようになって、漢字がまるきり書けなくなりましたかと。

 それに警鐘を鳴らす大人たちに冷たい視線を送っていた自分が、あの大人たちと同じような気持ちで孫を見ようとしていることに気がついたのです。

 

 そんな心配などすることはないのです。

 

 孫は、必要であると思えば、漢字を学ぶであろうし、同じように、日本の偉人に興味を持つだろうということです。

 孫が必要としなければ、それはそれでいいことなのです。

 孫の必要とするものは、孫が生きていく上で、自分で判断していくからです。

 実に年寄りというのはつまらぬ心配をするものです。

 我ながら呆れてしまいました。

 


(3) この顔が悪用されるって

 

 つくばに居を構える田舎者なので、世の中で行われていることでピンとこないことがままあるのです。

 例えば、ネット上で、私はこの顔をさらけ出しています。

 いや、むしろ、顔を示すことで、自分の意見を言うことに嘘偽りなし、正々堂々我ありと公言している(つもりな)のです。

 それを娘などは、危険だというのです。

 何が危険なのか、それがつくばに暮らす田舎者の私にはわからないのです。

 私の顔が、どこかで悪さをしたやつが、自分はこの顔だって言い張って、なんの得があるのかと思うのです。

 そんなこと、本当かそうでないか、すぐにわかってしまうはずです。

 プライバシーの侵害に関わるという記事もまま目にします。

 確かに、自分が何を考えているかを、ネット通販で発注したもので悟られ、それを買えと広告が私のSNSなどに頻繁に出てくるのは困ったことですが、それがプライバシーとどう関わってくるのか、それも今ひとつ分からないのです。

 私が、知る人ぞ知る有名人であれば、話は多少違ってくるとは思いますが、私は正真正銘の「無名人」です。

 ですから、カメラに追われることないし、街角で手鼻をかんでも、くしゃみをする際に大胆に空に向かって、体全体を使ってしても、誰も気にはしないのです。せいぜい、嫌なオヤジだくらいにしか思われないのです。

 ところが、盛んに危険だと言っているのは、娘ばかりではなく、いや、それ以上に、新聞などの論調が声を上げて盛んに言っているのです。

 自分が自分であることを立証するという、普段は気にもかけないこと、それが現代では必要性を高めていると言うのです。

 

 昔、刑事ドラマを見ていて、指紋から犯人を追い詰めていくストーリーがありました。

 指紋というのは人それぞれ違うんだ、この指の普段は気にもしない紋様が私自身を特定するんだと面白おかしく思ったものでした。

 刑事が、喫茶店に入って来て、マスターに警察手帳を見せ、ポケットからおもむろにハンカチを出して、テーブルの上のコップを持って帰る、そこには犯人と思われるであろう人物の指紋がついているというような筋書きのドラマをみて、すごい技術だと感心したものです。

 でも、よくよく考えてみれば、犯罪に関与したとか、ある特殊な場面でしか、指紋判定というのは使われないわけです。

 それでも、ドラマを見ていると、自分を犯罪者に仮託したりもしているのですから面白いことです。

 やがて、犯人は指紋を隠すために手袋をしたり、故意に指紋を潰したりとテレビドラマの犯人たちは知的になっていくのですが、そうなれば、今度は、網膜で個人を特定するとか、DNA鑑定だとか、捜査テクノロジーは犯人を特定するのに大いなる進歩をしていくのです。

 それとても、よくよく考えてみれば、私が宝石店に押し入ったとか、私に私生児がいたとか、そんな事態にならなければ、無用なことなのです。

 

 しかし、新聞の論調がやかましく書きまくるのは、犯罪ではなく、個人認証が随分と日常生活に入り込んで来ているからなのです。

 確かに、ついこの間訪れたゴールドコースト空港では、混雑する入国審査の窓口より、機械の前に立って、顔写真を撮られ、機械が自動的に入国審査する方へ回された方が、早く手続きがすみました。

 それを嫌う人は、根気よく係官の審査を待つことになります。

 つまり、私は、現在の私の写真を撮られ、パスポートに貼られた10年前の私の写真と顔が一致することで、私が私であることを認証されるのです。

 

 オーストラリアに暮らす娘は、信号のある交差点で停止線をオーバーして、後日、車のナンバーと運転席にいる自分の写真とが郵便で送られて来て、違反通告を受け、たいそうな額の罰金を払ったと言います。

 顔写真という確たる証拠を突きつけ、有無も言わさず罰金を与えるのです。

 

 中国では、同じように、信号を無視して道路を横断する人の姿を、人が沢山いる目立つ場所に設置されている大型スクリーンで映し出し、すでに顔からわかっている氏名と住所もそこに示すと言います。

 一罰百戒、見せしめのような取り締まりで、私は好きではありませんが、それでも、中国の運転マナーの悪さ、交通事故の死傷者をなくすにはこれが今の所最善の策なのでしょう。

 それでも、自分がいけないことをしながら、注意を受けたことを根に持って、相手の車に対して、危険極まりない嫌がらせをする犯罪者ならともかく、安全を確認して渡った歩行者を見せしめにするなんてと思ってしまいますが、違法は違法ですからと納得もするのです。

 

 なんでもNASAの研究員が、人の顔ではなく、歩く姿で個人を特定する技術の開発に取り組んでいるようです。

 

 「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」とは、何をやっても美しい女性のことを言ったとは思いますが、これからは、歩く姿から、認知症になって徘徊し、自分が何者であるかをわらかない人の身分特定に使われるというなんとも無粋な、しかし、ありがたい研究がなされているのです。

 

 しかし、NASAが研究するのですから、人の歩く姿から、その人物が宇宙飛行士に適しているかどうかの判断に、ひいては、個人が持つ特殊な技能、個人の本来所有している性質などが、歩く姿から判断されたりするのではあろうと思いますが、私など、これが実用化されば、役所や企業の面接試験の際に、歩かされて、この人物は怠け者だとか、この人物はよく働くなどと判定されるのではないかと勘ぐってしまうのです。

 で、そうであれば、歩き方を専門に教授する商売が繁盛したり、学校でも、進路指導部に歩き方研究会が作られ、生徒に歩き方を教えたりするなどと、さらに勘ぐるのですから、しょうもありません。

 

 昔、日本海軍では、骨相を見て、長生きの相を持っている人物をゼロ戦のパイロットにしたと言う話を聞いたことがあります。

 その話をしてくれた人は真珠湾で戦い、ミッドウェイ海戦で空母が撃沈され、やむなく海面に着水し、駆逐艦に救助され、その後の3年にわたる太平洋戦で生き残り、戦後、90歳余りまで生き延びた方ですから、骨相は当たっていたと言うことになります。

 

 歩き方に対する私の勘ぐりもまんざら勘ぐりではないのかもしれません。

 

 顔の似たものは、この世に3人はいるなどと都市伝説のような話を聞いたこともあります。

 が、技術開発が進み、プライバシー権の侵害であるなどと声を荒げても、実際の生活に活用されるのが当たり前になっている現状であれば、どうでしょうか、いっそのこと、各自、それぞれの顔を晒していっては。

 

 これが私の顔です。そうすると、かえって、ぼかしを入れられたりする方が、この人悪いことしているなんてことになるかもしれません。

 匿名性をことのほか大切にする人の中には、それを悪用して、汚い言葉で中傷を仕掛けてくる人もいますが、顔が大ぴらになれば、そんな悪い奴もいなくなるはずです。

 この文章、娘に読まれて、バカなことを言っていないでと、ラインで叱られるのではないかとは思っていますが……。

 


(4) 伏せよ、頭を抱えよ、そして、逃げよ!

 

 国内では、よほどのことのない限り、命のやり取りをする争いがないニッポン。

 まことに平和なニッポンではあります。

 

 銃の一発も撃ったことのない人々や武器なるものを家に所有しない人が、何千万と暮らす国でもあります。

 相手をむやみやたらと信じ、非がなくても、ことをおさめるために頭を下げてしまう国、それがニッポンという国なのです。

 

 以前、カナダのバンクーバーから、陸路、バスを使って、国境を越えて、アメリカのシアトルまで移動をしたことがあります。

 カナダからアメリカに入ると、車線も増え、道幅も広くなったことに気がつき、アメリカとカナダ、似たような国ですが、明らかに国が違ったことを道路から実感をしたことがあります。

 

 それ以上に、国境で業務にあたる警備員の腰にぶら下がっている拳銃に、国の違いを感じた覚えがあるのです。

 カナダ側ではさほど気にならなかった腰の拳銃が、アメリカ側に入った途端、それが銀色に輝き、大きくなっていたのです。

 日本の警察官の拳銃は、革ケースに収まり、拳銃本体は見えないようになっています。

 カナダでの警察官や国境警備隊がどうであったかは記憶がないので、きっと、日本とまでは言わないまでも、違和感を持つことのないレベルであったのではないかと思います。

 しかし、アメリカではそうではなかったのです。

 

 カナダとアメリカの国境警備において、あのような大きな銀色をした拳銃が必要なのだろうか、また、なんのためにそれを抜き身で腰に下げているのかなどと思ったのです。

 ソウルの国際空港では、2人一組でパトロールする警察官、いや、もしかしたら軍人かもしれませんが、二人とも同じようなサングラスをかけて、自動小銃を胸に抱えて歩いていたことにも驚きましたが、この時のアメリカ官警の拳銃の輝きには心底驚いたのです。

 

 そして、シアトルで昼食のために用意されたレストランでは、入り口の分厚いガラス扉に円形状にヒビが入ったあとがありました。

 明らかに銃弾が当たったあとと、それはわかるものでした。

 以来、私は、海外に行く時に、爆発音がしたら、たとえそれが花火の破裂音であっても、走っている車のタイヤがパンクした音であっても、身を伏せるよう心づもりをすることを常としていたのです。

 銃などの武器携行が厳しい、ロンドンの街中でも、フランクフルトの路上でも、常に警戒心を怠らないようにしていたのです。

 

 さすが、ロンドンのビックベンが間近に見える橋の上で、子供が持っていた風船が破裂した時に、そして、多くの人が行き交う中で、橋の上で伏せることはしませんでしが、その動作態勢に入ったことは事実です。

 私の心づもりでは、伏せたら、次に、頭をかかえるという段取りになっています。

 それが命を守る上で、最も大切な動作です。

 銃を撃つ人間というのは、頭を狙うからです。大きく、時に小刻みに動く頭は、本能的に銃を撃つ人間には魅力的なものなのです。

 銃を撃つ際、その機能からして、未来永劫打ち続けるということはあり得ないことです。

 弾切れがあり、銃身が熱を帯び、撃つ本人の手のひらにもその熱がつたわり、撃ちにくくなるのです。

 それが、次に行動を起こすチャンスです。

 その場から身を低くして逃げるのです。

 もちろん、伏せて、頭を抱えているときに、安全な方向を心づもりしておかねばなりません。

 でも、実際には、このような経験がこれまでないことは幸いなことです。 

 

 この夏、オーストラリアでチョイ住みをしました。

 

 オーストラリアは銃に関してはまったく問題のない国だと思っていましたが、つい先日、CNNの見てましたら、違法な銃器を引き渡せば免罪すると報知され、5万丁の銃器が回収されたという記事を見ました。

 私がオーストラリアは安全だと思っていたのは、どうやら、不確かな情報に基づく誤った判断であったようです。

 

 1996年のことです。

 タスマニア州のポート・アーサーで銃乱射事件が発生しました。

 私の記憶でもうっすらとある程度ですが、記事では、この事件で35人が、銃で、殺害されました。

 記憶にある事件では、数年前、シドニーで人質をとって、カフェに立て籠もったという事件がありました。

 この時も、犯人は銃を持っていたはずです。

 今年は、メルボルンで銃撃事件があり、ゴールドコーストに暮らす娘に、街に出た時、爆発音があったら、伏せて、頭を抱えて、爆発音が途絶えたら、一目散に逃げろと話をし、何を言っているのと、笑われたことがありました。

 

 確かに、娘たちの行動する範囲で、そのような物騒な騒ぎを起こすような場所はありませんが、何が起こるのかわからないのが自然の摂理です。

 CNNの記事にあるように、アメリカのラスベガスでの事件が起きないように、オーストラリア政府が動いたことは当然すぎるといえば当然のことなのです。

 

 オーストラリアで行われた武器の回収では、なんでも、拳銃や自動小銃に、それに、ロケット弾発射装置まであったというから驚きです。

 今回、家庭に隠匿してあった武器を出さずに、違法な武器所有が咎められれば、罰金28万ドルと禁錮14年が科せられるというわけですから、きっと多くのオージーが隠匿武器を提出したものと思われます。

 

 しかし、日本には武器と呼ばれるものがありません。

 文化財の日本刀、それに、警察から認められてスポーツとして銃を保有する人がわずかにいますから、そのくらいが武器です。

 あと、包丁にカッター、最近はスコップもプラスチック製になっていますから、棍棒などもあまり役立たないわけです。

 他国から侵略され、侵略軍に立ち向かうとき、私たちはどうやら、伝家の宝刀、<竹槍>で戦うしか方法がないようです。

 仮に、最新の自動小銃をもらっても、扱い方はもちろん、撃ち方も知りませんから、宝の持ち腐れになるかもしれません。

 

 それでも、無辜の民を殺害する銃器が野放しになるよりはいいのではないかと思うのです。

 それが、先住の民を駆逐して、国を作ってきたアメリカと日本の違いでもあると思うのです。

 ミサイルが、原爆がと身につまされるニュースが報じられる昨今、私たちは武器を扱う専門集団の卓越した技量に期待し、私たちは国を愛し、故郷を懐かしむ気持ちを旺盛に持っていく必要があると思っているのです。

 



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