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 その日、豆屋の息子・弥太郎は、腹痛で寝込んでいる父親の使いで近所の薬屋へ向かっていた。

(チッ。今日は矢作ん家へ行って、奴が最近極秘ルートで入手したっていうアレがナニでピーするっていう、どえらい猥本を読ませてもらう予定だったのに)

 弥太郎が心の中で悪態を吐きながら川沿いを歩いていると、向こう側から藁の包みを抱えた男がやって来るのが見えた。

 藁包み自体は別段珍しいものではないのだが、片手に乗る大きさのものを、わざわざ両手で大事そうに抱えているところに彼は興味を惹かれた。

 しかし、わざわざ引き留めるほどのことではない。気にはなるが、彼はそのまま何事もなく通り過ぎるつもりでいた。

 ところが、まさに今からすれ違うというタイミングで、弥太郎はこれまでに嗅いだことのない魅惑的な芳香を感じ取って、思わず足を止めた。どうやらにおいは例の藁包みの中から漏れてきているらしかった。

 次の瞬間、弥太郎は男を引き留めていた。

 それも無理はない、彼は極度の匂いフェチだったのである。しかも、かなりマニアックな部類に入る。

 たとえば、冬場に雪沓(ゆきぐつ)を履いて長時間歩き続けたあとのような、発酵臭に近いものが好みだった。

 中国には幼い少女の足に布を巻きつけて成長を阻害する纏足という風習が存在するが、何年も密閉され続けた足は蒸れてひどい臭気を放つと云(い)われている。中国の男性の間ではその香りが好まれるらしく、それを施された娘を手に入れた彼らは、布を解いた足の裏に酒を満たして飲んだりするらしい。

 弥太郎は矢作からその話を聞いて以来、一度でいいからそのにおいを嗅ぎたい、あわよくばひと舐めさせてもらいたいと考えていた。

「お気に召されましたか?」

 弥太郎が何も云わないうちから、男はすべて承知の上だといった体で何度か軽く頷いて見せた。

「いや、えっと……これはいったい何なんだい?」

「百聞は一見にしかず。どうぞご自分の目……いや、鼻でお確かめ下さいまし」

 男はさっそくその場にしゃがんで、包みの両端に結んであった紐を解き始めた。弥太郎も膝を曲げて興味津々の様子で男の手元を覗き込む。

 男が両手で包みの口を大きく開くと、そこからそれまで辺りに漂っていたものとは比べ物にならぬほど強烈な匂いがあふれ返った。

 さすがの弥太郎も一瞬は怖気づきかけた。しかし、ひとたびそこを越えると、一転して今度は下腹部からぞくぞくと迫り来るような、得も云われぬ快感が彼の中心部を突き抜けた。

「ほう、これはまた珍妙な」

 興奮した弥太郎が匂いの元へ鼻を寄せる。

 中身は枇杷茶(びわちゃ)色をした小粒の豆で、表面にはいくらか皺が寄っていた。それが藁の中ぱんぱんに詰め込まれている。

「これは夜になるとますます匂いを強め、嗅ぐ者をたちまち極楽へと連れて行ってくれます。おっと、怖がらないでおくんなさいまし。極楽というのは単なる比喩で、つまり……ここまで話せばおわかりになりますよね」

 男はそこでいったん言葉を切り、下卑た笑いを口元に浮かべた。

「その快感は通常の十倍から百倍と云われており、一度経験すると生身の人間では満足できなくなるとか。この不思議な豆が一粒たったの百文。夜のお供にいかがです? 日中の疲れなど吹っ飛びますよ」

 百文ならちょうど持ち合わせがあるぞ、と袂に手を伸ばしかけた弥太郎は、そこではっと我に返った。

 おれにとって百文は「たったの」と呼べる金額ではない。それにこれは父から持たされた大事な薬代だ。

「すまんが今は百文も払えない。父が腹痛で苦しんでいるんだ。一刻も早く薬を買って帰らなければ」

 弥太郎はしばらく逡巡していたが、いくらなんでも寝床で冷や汗をかいて魘(うな)されている父を裏切ることはできないと、とりあえずその場はあきらめることにした。

 ところが、男に背を向けて歩き始めたところで、

「お待ち下さいまし」

 どこからともなく女のすすり泣く声が聞こえてきた。

「何だ?」と思ってきょろきょろと辺りを見回すものの、声の主と思しきおなごの姿は見当たらない。男の方は声に気づいていないらしく、突然立ち止まった弥太郎を不審げに眺めていた。

 すぐにまた、弥太郎の耳にあの声が響いた。

『わたくしはここから遠い国に棲みつく精霊です。運悪くこの男に捕まって、ここまで連れて来られてしまいましたが、そろそろ戻らなければ干からびて死んでしまいます。しかし、この男にはわたくしの声が届かないらしく、何度訴えても聞き入れてくれません。どうかわたしを買って、そこの川へ流してくれないでしょうか。川の先がわたくしの祖国へとつながっているのです』

 弥太郎は、そこでようやく声の主が先ほど男に見せられた豆であることがわかった。不思議なことに、いまはどの豆が話しているのかまではっきりと感じられるのだった。

 弥太郎は慈悲の心など持ちあわせていなかったが、代わりに人一倍強い下心を持っていた。

「気が変わった。一粒いただこう」

 艶めかしい声につられて、彼はついに袂から銭貨を取り出した。

「ありがとうございます。さて、どれになさいますか。おっと、自分でお掴みにならない方がよろしいですよ。お選びになったものを指で示して下さい。こちらでお包み致します」

 弥太郎がその一粒を指差すと、男は箸を取り出して器用にそれをつまみ上げた。すると、宙に浮いた豆から何やら白い糸が引いているのが見えた。弥太郎はたじろいだが、今さら後に引くわけにもいかず、男がそれを薄紙に包むのを不安な様子で見守った。


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