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慌ただしい初夏の風景

 丸二日ばかり続いた雨が、この町の家々の表面をきれいさっぱり洗い流すと、繰り返す季節に染まった古い家並みの中に、リフォームしたばかりの真新しい屋根や、白く汚れのない壁面を持った家が、ぽつりぽつりと混じって見える。互いの個性を主張しつつ変化しながらも、町の雰囲気に違和感はない。さまざまな住人が土地に溶け込んで一つになるほどの時の長さが見て取れるのである。

 その住宅地の中で交差する路地の一角に、この物語の舞台となる家が根を張っている。こじんまりしているが、この地の風景に長く馴染んで、家の中から漏れだす雰囲気に気取りが無く、微笑ましさを感じさせるのである。

 

 東西に延びる路地沿いに、すいと光が射し込んで、この角の家を照らし出したのは、数時間前のこと。曇り空がからりと晴れて、懐かしいと思わせるほど親しみのある陽の光である。やがて、賑やかだった雀の囀りが、町が取り戻した活気に飲み込まれて薄れて消えた。

 路地とブロック塀一つ隔てた南向きの小さな庭に、やっと人が腰掛けられるほどの小さな縁側が張り出していて日当たりが良い。この時期、夜が明けて2時間も経つと、隣家の屋根の上から漏れだした陽の光が、直接に射し込むようになる。トラ縞の猫がここに姿を現すのは、日が差し込んでおよそ20分後、ひなびた縁側が暖まってからである。

 今日も猫がのっそり姿を表して、周囲の家並みに小さく切り取られた空を仰いだ。その毛並みは艶を失っているが、長年愛用した上質のコートのようにしっとり落ち着きのある色合いをみせている。その慎重な足どりは躍動感より風格を感じさせた。

 猫は満足げな笑顔を浮かべるように大きく口を空き、気怠さを払うよう精一杯の伸びをした。長年の経験で、猫はこの陽の光がじんじんと耐えられない不快なものになることを知っている。しかし、梅雨の合間の晴れ間は、まだ心地よい暖かさを持っていた。この猫にとって、縁側が外の世界との接点になる。昔は欠かしたことのない町内パトロールだが、体力の衰えと共に、この場所を観測所の1つに定めて、縁側を拠点に世界の情報を収集するのである。

 猫は物憂げな欠伸を止めて、ぴんと耳を立てた。十九年間という、猫にとって寿命に当たるほどの時が、猫特有の精悍さの代わりに、社会から隠遁した老賢者のような風格を与えている。それでも、風や香りに敏感に呼応して、耳や尻尾の先がぴくぴく反応することがある。この猫はそうやって周囲との繋がりを欠かさない。

 この季節に気まぐれな風に乗って漂ってくる香りは、三軒ほど間をおいた家の庭のクチナシが今年も白い花を開かせたと言うことである。猫はヒヨドリという言葉は知らないが、この時期に屋根の上から聞こえる甲高い叫びは、くちばしの長い灰色の鳥の声だと知っていた。今し方、塀の向こうを通り過ぎた自転車に乗っていたのは、南の突き当たりの家に住む少女で、いつもこの曲がり角でベルを鳴らす。塀の向こうから、ふんふんと慌ただしい鼻息が聞こえる。あの小生意気な鼻息は、隣に住む胴の長い犬で、毎朝、首輪についた鎖で主人を引きずり回すように散歩をする。

 この縁側に居ながらに、そんな情報が集まってくるのである。猫にとって生きるのに充分な情報だった。今日もまた平凡な日常の世界で、好奇心をそそるほどの変化がない。瞑想か微睡みか分からぬものに身を任せていると、老いて活気を失った体が、この町に溶けて世界が広がる心地よさだった。猫はくんっと、伸びをしてみた。この時、鼻をぴくりと動かしたのは、薄れかけた記憶の中に、雨上がりの町の新鮮な大地の香りを思い出したからある。

 

 最近、この猫は日がな一日、目を閉じていることが多い。家族から、最も日当たりの良い場所を与えられて、何もせずに眠っていることが許されているのである。

 再び、猫は物音に反応して、耳を滑らかに動かした。好奇心をそそられたわけではない。五月蝿気に目を閉じて耳を臥せたのである。小さな生き物が、ガリガリと丈夫な針金を囓る音がしつこく響き続けて、無視できない。時折、この小さな庭の中で風が巻いて風向きが変わる。その風に乗って小さな生き物の香りが届く。音の主は、この家の長男が世話をする生き物である。猫は彼のポン太郎という名は知っているが、ハムスターという生き物の呼び名までは知らない。

 庭に吹き込む風が乱れて起きたつむじ風に乗って、猫の香りがポン太郎にも届いて、猫の存在を認識していていいはずだ。猫の香りに慣れきってしまっているのか、ケージから出してもらうのに夢中なのか、猫という生き物に対する畏敬の念がないのか、ポン太郎は猫の迷惑を顧みる様子がない。

(可哀相な奴やで)

 猫は同情を込めてそう思った。

 あの小さな生き物は、自分と違って自由は許されていない。一日の大半を小さなケージの中で過ごしている。時々、ああやってケージの丈夫な針金を囓って、出してくれと自己主張するのだが、主張が認めてもらえることは少ない。猫も若い頃なら、ああいう小さな生き物に好奇心をそそられたものだが、今は、食欲や好奇心より、ポン太郎の境遇に何か同情を感じている。猫は小さく鳴いた。

「にぃぃぃぃ」

 ポン太郎を宥めているつもりである。

 軽快なエンジン音が近づいて、パタンという歯切れのよい音を間に挟んで、また遠ざかって行った。猫はその音がいつもよりやや遅いという誤差を修正しつつ、朝刊が郵便受けに届いた音だと判断した。

 この猫には名前以外に、ちゃんと姓があって、「小林」という。この家の猫好きな女たちの手で、郵便受けの横の表札に小林という姓に加えて、伸一、英美という夫婦の名があり、続いて俊子、洋子、浩、チッピイと、子供の名の末尾にこの猫の名が表記されているのである。

 チッピイの経験では、この家で最も早く人の気配がし始めるのは父親の伸一の部屋で、新聞の到着を待っていたかのように起き出す。続いて、台所が妻の英美が朝食作りの気配でがちゃがちゃ賑やかな音をさせ始める。

 今朝もそんな時間を迎えている。その台所で、鍋に味噌を溶く香りが漂い始めると、他の家族に先立って、チッピイの食事の時間になる。間もなく、チッピイの食事が缶から皿に移され運ばれてくるはずだ。この家での変わらない習慣だが、最近は皿を運ぶ人物が変わった。

 チッピイは目を瞑ったまま、髭の先を揺らすようにくんっと鼻先を動かした。みそ汁の香りは似ているが、チッピイの鼻は今までと微妙な違いを嗅ぎ分けている。

 長女の俊子は母のやり方を真似てはいるが、火加減や出汁の取る時間の長さ、味噌を溶くタイミングなど、こつと表現できる、本人しか分からないほど僅な違いがあり、母親の英美の作るみそ汁と風味に差がある。チッピイはその僅かな香りの差で、台所にいる人物を探り当てたのである。

 長女の俊子は鍋の火加減に注意向けたまま、縁側に面した部屋にいる弟に叫んだ。

「浩。チッピイにちゃんとご飯をやってくれた?」

「分かってる」

「ちゃんと、ほぐしてやってね」

 俊子は弟の浩に缶詰を開けるだけではなくて、お皿の上で食べやすいように、柔らかくほぐしてやれと、細かい指示をしたのである。

「わかってるって」

 弟はしつこい指示に不満そうに口をとがらせた。最近、長女の俊子は心を入れ替えたように熱心に料理に取り組むのだが、そのツケは弟の浩に回っていて、浩は自分のハムスター以外に、俊子の愛猫の食事も世話する。

「みぃ」

 食事の皿を提供されたチッピイはそう言った。食事の準備をして貰ったお礼のつもりである。その後は、黙ったままである。チッピイと呼ばれた老猫は、柔らかいキャットフードをもしゃもしゃ咀嚼し続けた。牙が幾つか欠けていて、昔のように勢いの良い食べ方ではない。汁がとろりと流れるほど柔らかい食事で、不味くはないが、かりかり音がする食事も懐かしくなることがある。

 浩はそんな年老いた猫を見ながら、思いつくように言った。

「なぁ、チッピイ。あいつ、子供の頃から人使いが荒かったんかな?」

 チッピイは、姉が物心着いた頃に拾ってきた猫だから、姉とのつきあいは自分より長く、姉のことを知り尽くしているはずだ。

「ひゃん」

 チッピイは時々、むせ返るようにしゃっくりをする。その姿は浩の言葉に頷いているようにも見える。浩は独り言のように言葉を継いだ。

「いつも人に仕事を押しつけて、あんなんやから結婚でけへんねん」

「にゃぁ」

「いまさら、付け焼き刃の料理を覚えたって、男は寄りつけへんわ」

 猫はそれには答えず、少し首を傾けた。

「ふにぃぃ」

 チッピイは新たな人影に気付いて、お早うの挨拶をしたのである。浩がその人影にぎょっと驚いて振り返ると、次女の洋子である。この家の女たちは、狩りをするの猫のように、気配を消すという特技を持っていた。

 洋子は襖の陰で弟とチッピイの会話を聞いていたらしいが、つい今までその気配を感じさせなかった。洋子は早朝から、実に晴れやかな笑顔をしながら、弟が口にした言葉を繰り返した。

「あんなんやから結婚でけへん? 料理を覚えたって、男は寄りつけへん?」

 ぎくりとする弟を尻目に洋子は言葉を継いだ。

「俊子姉ちゃーん。浩が姉ちゃんの結婚がどうとか言うてるで」

 洋子の声は台所の俊子に届くかどうかギリギリの大きさだった。もう少し声のトーンが高まれば、俊子に聞き取れるだろう。浩を脅しているのである。

「黙っといてや」

「何、くれる?」

「大学生にもなって、小学生から脅しとるんか?」

 こうやって、すぐに計算通りの挑発に乗ってムキになる単純さが可愛い。洋子にとってからかいがいのある弟なのである。

 みそ汁の香りが家の中に漂っていて、妹と弟は朝食の時間だと言うこに気づいているはずなのに台所に顔を出さない。長女の俊子は不審そうに縁側に顔をみせた。

「二人で何してんのん? ごはん出来てるで」

「浩が『俊子姉ちゃんが、早く幸せな結婚できたらええな』て可愛いこと言うてんねん。優しい弟や」

 浩は、全てをべらべらと喋りかねない次女から目を離せず、黙り込むしかない。そんな姉弟を見ながら、チッピイはお皿を綺麗に舐め上げた。ここの所、食欲も回復して体も軽く感じるのである。

 洋子の発した「結婚」という言葉に、姉の俊子はぴくりと反応して、縁なしの眼鏡を指で押し上げた。最近、俊子は眼鏡を買い替えたが、チッピイにとって俊子の腕の温もりが全てで、気にするような変化ではない。

 この時、チッピイは俊子に抱き上げられつつ、何か奇異なものを感じて閉じていた目を開けて俊子の顔を観察するように眺めた。自分を抱き上げた腕の柔らかさや胸の鼓動と共に伝わる暖かさは、俊子のものに違いない。しかし、彼女の肌から薫る化粧水の香りが、チッピイを多少戸惑わせたのである。

(なんか、いつもと違うで)

 俊子が眼鏡ばかりではなく、密かにイメージを変えつつある。チッピイを抱き上げた俊子は、話題を逸らすように妹と弟に迷惑そうな表情を向けた。

「あほなこと言うてんと、はよ、ご飯済ましや。洋子、洗いもんはあんたの当番やで」

「任しといて。浩が皿洗いを代わりたいって言うてるから」

 洋子は弟ににこりと笑って、皿洗いが秘密を守る条件だと提示した。浩はその条件をのんで、黙ってこくりと頷いた。

 

「お父ちゃん、行儀悪い」

 新聞を読みながら食事をするなと言うのである。長女はいつの頃からか、母の英美を真似るように父親を叱りつける。父親の伸一は叱責をうけて、ちらりと娘を一瞥すると、素直に新聞を折りたたんでテーブルの端に置いた。伸一は味噌汁をすすって、一瞬、箸を止めて椀を眺めた。俊子はそんな父親を密かに観察していたが、父親は旨いとも不味いとも評さず、再び椀にに口をつけた。結婚して二十数年、妻の手料理に文句を言ったことのない男である。ただ、その温厚さと従順さの中に、しなやかな洞察力と記憶力を持っていた。専門家ではないので言葉では表現しにくい。しかし、まろやかで調和がとれた風味をした妻の味噌汁に比べて、昆布だしと味噌の味が互いに自己主張するように調和せず、やや味にバランスを欠いている。ただ、娘が作る味噌汁の味に首を傾げたのは、ふと新婚当時の妻の記憶を呼び覚ましたからである。四国出身で、いりこダシに慣れていた伸一は、いつの間にやら昆布だしで味噌汁を作る大阪育ちの妻に飼い慣らされていた。娘の味噌汁に新婚当初の妻の味噌汁の味の記憶を呼び起こされてみると、現在の妻の料理が年月を経て熟成してまろやかさを醸し出していたのに気づいたのである。そんな家族の光景を眺めるように、チッピイは縁側から台所へ姿を移して、隅のマットの上に家族に尻を向けて寝そべって尾の先をゆらゆら振っていた。

 

 朝八時が近づくと、伸一と俊子が出かけ、浩は形だけの洗い物を母に引き継いで登校する。最後に洋子が出かけてしまうと、この家は再び落ち着きを取り戻す。

 家族が居なくなった台所に用はなく、日射しの加減で日当たりが悪くなった縁側にも興味はない。チッピィは次の瞑想の場所を探して家の中を彷徨った。チッピイは両耳をぴくりと動かして、五月蝿く響き渡る洗濯機の音の中に、英美の気配を探り当てた。

 チッビイの予想通り、洗濯機の傍らに母親の英美の姿を見つけた。優しいが、悪戯をしたチッピイの尻を叩くほど厳しく叱りつける人物でもあり、チッピィにとっては実の母親としての権威がある。愛情と敬意を忘れず接するべき人物だった。

 チッピィは英美を見上げて、親しみと尊敬のこもったお願いの挨拶をした。

「みぃぃぃ」

 あわよくば、英美の膝で昼寝が出来るのではと考えたのだが、今日の英美は、チッピイより洗濯物に興味がある。天気予報によれば、雨続きだった天候が回復して、しばらく快晴が続く。貯まっていた洗濯物をまとめて片づけてしまうチャンスに違いない。

「あらっ、あんたも手伝どうてくれるのん?」

「にゃぁぁぁ」

 英美は夫や子供の衣類を抱えて腕が塞がっていて、チッピイを抱き上げてやることが出来ない。いつもなら求めに応じて抱き上げてくれる英美が、今はスリッパを履いた爪先を、猫の後ろ足のように器用に動かして、チッピイを追い払った。

 人を飼い慣らすためには、じゃれつくという行動と、抱かれて喉を鳴らすと言う手段があるのだが、この時にはどちらも効果がなかった。

 やむなく、チッピイはこの場所を去った。廊下を歩くチッピィは、しめたと目を細め、ヒゲをぴくりと動かした。いつもは閉じているドアの一つが僅かに開いているのに気付いたのである。東南に位置する角部屋で、日射しが差し込む大きな窓と、日当たりの良いふかふかのベッドがあり、昼寝をするのに丁度良い。部屋の主は既に仕事に出かけて部屋の中に人の気配はない。しかし、僅かに空いた隙間から漂う残り香は俊子のものだ。

 チッピィは、するりと身をかわすようにドアの隙間を通り抜けた。

(もうちょっと、几帳面やったはずやで)

 チッピィは、部屋の景色に迷惑を感じた。いつもは片づいている部屋だが、今日はアルバムや、小物の入った小箱が散らかっていて、ベッドの上に角張った酷い凹凸が出来ている。チッピイが体を丸めるスペースもない。チッピィは日が差し込む柔らかで平らなクッションの上で、ぬくぬくと心地の良い昼寝をすることが出来ないのである。

 周りを睥睨して平らな場所を探すチッピィは、俊子の香りに染まりつつ、思い出すように考えた。俊子と自分、どちらが先にこの家にいたのか、古い時代の話で、明瞭な記憶がない。物心ついた頃から一緒にいて、気心の知れた兄妹である。棚に並んだ猫の人形や写真の数が、この家で二人で暮らした年月を感じさせる。チッピィは前足を棚にかけてのぞき込んだ。猫の置物が並んでいて、ここも昼寝の場所にならない。ただ、どの置物にも俊子とチッピイの匂いと記憶が染みついていて、不快な感じはない。

 この家の女たちには猫グッスの収集癖があった。その癖は、とりわけ長女の俊子に顕著で、集めたグッズは縫いぐるみやキーホルダーまで含めれば数十種類を越える。チッピイはそのグッズの端の古いテニスボールに目に止めた。このボールにも懐かしい記憶がある。

 チッピイは前足を棚にかけた頭の高さで部屋を眺め回して、昼寝向きの平らな場所を机の上に見つけた。磨りガラス越しに注ぐ日射しに、机の表面の暖かさが読み取れた。チッピィはフローリングの床から、椅子を経て机の上に飛び移った。まだこの程度の身軽さは残っているのだと言う自信が心地よい。ここにも一匹だけ特別な物のように、黒い猫の縫いぐるみがいる。

 ふんっ。

 チッピイは不満げに鼻を鳴らした。じんじんと体に心地よい日射しを浴びて体を丸めて眠りにつこうとしたのだが、何か得体の知れない異臭を感じたのである。異臭の発生源を探って鼻を鳴らしてみると、机の上の新しい縫いぐるみにいきつく。俊子の香りに紛れているが、この家の者ではない、男の存在が漂ってくるのである。チッピィは容赦なく、縫いぐるみを机の下に蹴り落とした。

 机の上に小さな写真立てがあり、若い男と並んで笑顔を浮かべた俊子の写真が納められている。チッピイは写真の俊子と、さっきの古いテニスボールを見比べるように眺めた。思い出す笑顔に共通点を感じたのである。テニスボールは俊子とチッピイの共有の遊具で、あのボールにじゃれついて遊ぶときの素直で幼い笑顔の記憶がある。写真の笑顔は、普段は澄ました雰囲気を漂わす俊子が、昔、チッピイと遊んだ時の警戒心のない笑顔と同じ雰囲気を漂わせていた。

 じっと黙って物思いに耽っているチッピイを、磨りガラス越しの光がぽかぽか暖め続けていた。チッピイは猫特有の気まぐれな眠りの中に心地よい夢を見た。

 この部屋は思い出に耽るネタに事欠かない。俊子の気配に染まった部屋の中で、くつろぐ姿勢を変える度に、別の想い出に身を任せて夢を見るという具合に時が過ぎた。やがて、ゆっくり目を開けたチッピイは目玉だけを動かして辺りを窺った。

(いったい、ここは?)

 既に陽が落ちて、空気の冷たさが背中にしっとり重い。

 チッピイはここが生身の世界だと判断した。腹がくちくて、英美が運んでくれた昼食を取ったという記憶は確かだが、どの夢の合間に取ったのか思い出すことが出来ない。

 果たして誰の物音に反応したのか分からない。チッピイは耳を澄ませて、入り交じる音の中に、家族一人一人の存在を聞き分けた。

 あの明るい笑い声は英美だ。

 軽快なスリッパの足音は洋子のものだ。

 新聞を広げては折り畳む音は、伸一が新聞を読むときの癖だ。

 小さく慎重な足音、その歩調に乱れがあり、浩がポン太郎のケージを運んでいるのだと判断できる。

 そして、この部屋にはつい先ほどまで俊子がいたという気配がある。チッピイを包むようにかけてくれてあるタオルに新鮮な俊子の残り香がするのである。

 老いという言葉は知らないまでも、自分の体が衰えたという事を自覚しており、チッピイはもの悲しい。昔なら、部屋に俊子が近づく気配を感じて、じゃれつく準備をしたものだが、気配を察することも、タオルをかけてもらったことを察知する能力も、今の自分から失せてしまっている。

 出かけていた家族は帰宅し、今日も平穏無事に顔を揃えている。チッピイはその事実だけに満足せざるを得ない。チッピイは家族の音の中から、父親の伸一の存在を探り当てて居間に向かった。

 

 伸一が居間でくつろぐときには、彼があぐらにかいた足の上が、チッピイお気に入りの温かな寝床になる。この男は女どもと違って、くつろいでいるチッピイを突然に抱き上げたり、ひっくり返して腹を撫でたりするような迷惑な干渉をすることがない。阪神戦の野球中継を見るとき以外は、無口だという長所も持っていて、チッピイは静かにくつろぐことが出来るのである。男同士で心を許してくつろげることもある。伸一もだまって膝を許している。

 チッピイは伸一の膝の上に横たわった。伸一の太股の凹凸に体が当てはまると、もう動くのが嫌になるほど心地よく、チッピイは目を細めてくつろいで、満足そうなため息を付いた。

「ふゅぅぅ」

 父の膝の上に、チッピイを抱き上げようとする洋子の腕が伸びてきたのはこの時である。

「ちょっと、浩のとこ、行こか」

 洋子そう言って、父親の膝の上からチッピィを抱き上げた。抱き上げる姿勢が不安定なのは、右手にキャットフードの缶詰を持っているからである。

「まだ、早いんとちゃうか」

 伸一は長年一緒に暮らして、チッピイの細やかな素振りが読める。腹を減らしたチッピイは背をこすりつけるようにまとわりついて食事を催促する。その見慣れた素振りがない。洋子の腕の中できょろきょろ不安気に困惑する様子である。伸一はチッピイを代弁して言い添えた。

「まだ、腹減ってないで」

「ええねん」

 洋子は父親にそれだけを言い、チッピイに具体的な目的を言い添えた。

「一緒に、浩をからかいに行こうねぇ」

 父親は娘がチッピイを抱き上げた理由を察した。彼は男として、この家が時に魔女の巣窟のような気がすることがある。洋子は浩が帰宅してから夕食前の時間をハムスターの世話に費やしている事を知っていた。ハムスターのポン太郎をケージから出して遊ばせたり、餌や水を交換したりする。

 さっき弟は庭に面した縁側に古新聞を広げていた。今頃は、部屋でポン太郎を放して遊ばせながら、自分は縁側の古新聞の上でケージの掃除をしているはずだ。単純な弟は、洋子の予想通りの場所にいた。

 ペコン。

 彼女は明るく響く歯切れのいい音を立てて、缶詰の蓋を開けた。その音は洋子が意図した通り、浩にも届いてケージを掃除する手を止めて振り返った。

 ポン太郎の脇にチッピイを抱いた姉がいる。洋子はしゃがみ込んで、ポン太郎の横に蓋の開いたキャットフードを並べた。

「さぁ、チッピィ。どっちが、お・い・し・い・かなぁ」

 浩のかわいいハムスターの横にキャットフードを並べて、チッピイの好みを聞いているのである。もちろん、チッピイしっかり抱えて放してはいないが、浩のポン太郎にとっては命がけの悪戯に見える。

「あほっ。なにすんねんっ」

 浩は猛獣がポン太郎を食い殺すに前に、かわいいポン太郎をケージに戻した。洋子はそんな浩を見てげらげら笑った。すぐにムキになる弟はからかいがいがある。チッピイは抱かれたまま迷惑そうに洋子を見上げた。性格というのは子供の頃から変わらないものらしい。チッピイには妹に当たる女性だが、迷惑を考えない強引さは、彼女の子供の頃から少しも変わらず、そんな性格を表す記憶をいくつも持っていた。チッピイは家族としてその欠点を受け入れつつも、多少不満を口にして鼻を鳴らした。

「ふぅぅっ」

 騒ぎを聞きつけて部屋に現れた俊子が、チッピイの言葉を訳した。

「洋子。浩をからかうのは止めとき。可哀相やんか」

 妹を叱る声音が、浩とポン太郎にとって随分優しい。優しすぎるといってもいい。俊子は洋子の腕の中のチッピイを奪い取るように受け取ると、母親のようなことを言い残して部屋を出ていった。

「浩。カバンが玄関に放りっぱなしや。帰ってきたらちゃんと片づけときや」

 もともと年齢の離れた姉で、浩には母親のように振る舞うことがある。最近、そういう傾向が目立っていた。チッピイは気持ちよさそうに目を細めて、俊子に抱かれている。チッピィにとって、人の腕の中でくつろぐときには、この家の中で、俊子の腕の中が一番居心地がいい。

 部屋に残された浩と洋子は顔を見合わせた。あれが、俊子の言葉に思えなかったのである。洋子は姉の遊びを真似ただけで、もともと、このたちの悪い冗談を発明したのは俊子のはずだ。しかし、最近、長女の俊子は、妙に浩に優しい。

 洋子は俊子の背をそっと指さして、弟に同意を求めた。

「最近、何か変やで、アレ」

 浩も即座に同意して頷いた。

「うん」

 

 俊子は自室のドアの前で、チッビイをそっと床に下ろし、入室を阻むかのようにチッピイの目の前でドアを閉じた。最近の俊子の様子には何やら変化の兆候が見られるが、体調が悪いわけでは無かろう。耳を動かしてドア越しに中の様子をうかがうと、俊子は部屋を片付けているようだった。誰でも一人になりたいこともある。ドアの前で逡巡していたチッピイは、家族の心情を悟ってこの場を離れようかと考えた。チッピイが苦手にしている掃除機の音が響き始めるとともにドアが開いた。埃が舞う部屋の空気を入れ換えるために、俊子が窓とドアを開け放ったのである。チッピイは掃除機を避けてするりと部屋に入りこんだ。部屋を片付けるなら言いきかせておかねばならない。チッピイはベッドの上に飛び乗って尻尾を立ててうろうろして見せて、この上の散らかり具合が不満だという意志を態度で示した。この上を片付けて置いてもらわねば、明日の昼寝がしにくいのである。

 チッピイの見る所、几帳面な俊子は行動を起こすと、最後までやり遂げないと気が済まない性格だった。ところが、今の俊子は迷いのみ多いようで、掃除の手を止めて掃除機のスイッチを切り、チッピイを抱き上げて椅子に腰掛けた。ただ、抱き上げたことすら気まぐれであるようだった。チッピイは俊子の膝の上で姿勢を変えて腹を見せ、俊子を見上げたが、撫でる俊子の手にいつもの優しさが無く、事務的に撫でるに過ぎない。

 チッピイが膝の上から俊子の顔を仰ぎ見てみると、俊子の手に男と並んで移る写真があった。

「やっと、プロポーズ? でも、突然やもん。驚くわよねぇ」

 俊子はそう呟いて。目尻を指先でぬぐう仕草を見せた。

(涙……)

 チッピイはそう気づいたが、悲しくはないらしい、むしろ幸福感を感じているようだ。人の言葉は分からないものの、今までこの家で聞いたことのないプロポーズという言葉が、心に引っかかって、俊子の涙の原因と結びつけた。ただ、もしチッピイが口がきけて訊ねたとしても、俊子自身、とまどいが多く、自分の心を整理して説明することは難しかったに違いない。

 俊子は唐突に何かを決断して言った。

「チッピィ、お前はこの家がいいわね?」

 俊子の言葉には、新しい場所、新しい家というイメージがこもっていた。もやもやした気持ちでいた。そんな彼女が一つの決心をした瞬間である。

 

 俊子が父と母に、日曜日に挨拶に来る婚約者の存在を告げたのは、この夜のことである。

「お父ちゃん、お母ちゃん。私、結婚するわ」

 プロポーズを受けたという事実と、それを受け入れるつもりだということを、ありのまま、彼女の決定事項として父母に伝えたのである。

「えっ、あんたが?」

 ふだんから食事の箸の上げ下げにまで朗らかな話題を見つける母親は、心の躍動感と言葉を失ってそれだけ言った。傍らの父親は呆気にとられたように黙ったままである。

 狩をする猫が気配を消すように、俊子は二十歳を過ぎても結婚という気配を消していた。隠すというつもりもなかったらしい。一つの区切りを迎えて、両親に話す段階になったと言うだけのことだ。両親、特に男親にとって、娘が二十代半ばで結婚するとしても、あと数年は心の準備をする余裕はあるはずだった。

 夫婦はまるで奇襲でも受けたように心の余裕を失った。ただ、俊子の告白の手際の良さは心地よい。

 

 チッピイがふらりと居間の入り口に姿を見せて、洋子と浩の姿を見上げた。家族の一員として同席しても差し支えないはずだが、居間の中で両親と長女にそんな会話を始められると、どんな顔をして会話に加わって良いのか分からない。洋子と浩は取り残されるように部屋の外から居間の三人を窺っていたのである。

「浩、聞いたか? 俊子姉ちゃん、結婚するんやて」

「『けっこん』ってなんや?」

 浩は奇妙な質問をした。『結婚』という言葉は知っていても、自分の姉が今の家族を離れて、別の家族になると言うイメージが湧かないのである。

「あほか。結婚って夫婦を作るっていうことや」

「俊子姉ちゃん、夫婦か」

 洋子が浩の肩を抱くように、浩もまた心の動揺を防ぐためにチッピイを抱いている。浩はそのチッピイにしっかり言って聞かせた。

「チッピイ、聞いたか? 俊子姉ちゃんが夫婦を作るんやて」

 抱きしめられる腕の力の強さを迷惑に感じて、チッピイはするりと浩の腕を抜け出して、俊子の足元にすり寄った。事情は良く飲み込めないが、ここが違和感の中心地らしい。猫は何かを確認するように、俊子を見上げて一声短く鳴いた。

「みぃ?」

 そのチッピイの質問には答えず、俊子はチッビイを抱き上げて満足そうに頬ずりをした。若い頃のチッピイが庭の雀や台所のネズミを狩った後、家族に獲物を見せに来た。平静を装ってはいるが自慢気な様子が隠しきれずに窺い知れた。結婚に至る幾つかの段階の中で、婚約を両親に報告するという段階を無事経過した俊子の様子が、あの時のチッピイを思い起こさせた。

 俊子の結婚という突然の喜び事に、驚きを押さえて笑顔を浮かべるのに間が空いた。その驚きが喜び事に変わって広がり、この一家の幸福感が湧き上がるのは数分間を要した。もちろん、チッピイにはその意味は理解できないが、家族を包む感情に包まれ染まって、一員になる術は身につけている。チッピイもまた家族の喜びに染まって、俊子の腕の中で幸福そうに目を細めた。

 

 その夜から幾日かが過ぎる中で、チッピイはこの家族の中に妙な緊張感が高まっているのに気づいていた。チッピイが家族の中に溶け込んだ年月、この家の中では日中は閑散とした日々が続いたかと思うと、家族が顔を揃えている日がある。チッピイは七日間という数は分からないものの、ぼんやりとだが一週間の生活サイクルがあることに気付いてもいる。今日はそんな休日である。

 朝食後、チッピィは家の中を散策するように居間にやってきた。家族が全員顔を揃えて外出の気配がない。今朝は妙に緊張感に満ちた違和感がある。しかし、家族は意図してそれを隠すようにぎごちなく振る舞って、チッピイには違和感の理由を家族の雰囲気の中に読み取ることができない。

 

 正確に時間を計ったような呼び鈴で、俊子はその人物を察した。俊子は台所から飛び跳ねるように玄関に向かい、チッピイは本能でその後ろ姿を追った。

 開け放たれたドアの向こうにいた男に、チッピイの記憶はない。照れくさそうな笑顔の中に真っ正直な緊張感が隠しきれずに漂っている。生身の男は独特の暖かみのある雰囲気を纏っていて、チッピイはこの男の顔と俊子の机の写真で見た男を結びつけて思い出せないのである。

 チッピイは俊子の傍らの男の足元でふんふんと鼻を鳴らした、足下を回りながら男の顔を見上げた。この男の匂いには記憶がある。歳をとって古い記憶は定かではないが、この香りの記憶はつい最近のものだ。

(俊子の部屋で見た縫いぐるみ黒猫と同じや)

 あの黒猫の縫いぐるみはこの男から俊子へのプレゼントだったらしい。香りを探るチッピイが足元にまとわりついて、男は足元がふらついた。しかし、その男の笑顔は素直で取り繕う気配はない。

(俺のことは嫌いやないらしい)

 チッピイはそう判断した。しかし、猫の香りはない、チッピイにとって不快な犬の香りでもなく、何かチッピイの知らない小動物の香りがする。考え込むチッピイを残して、俊子は男と共に両親の待つ居間に消えた。

 ぴしゃりっとドアが閉じられて、チッピイは閉め出された。

「ふっ、にぃぃぃぃぃぃぃ」

 チッピイは一人、ぶつぶつ文句を言いつつ台所に戻らざるを得ない。

 

 両親と婚約者同士の四人が、閉じこもるようにして居間にいて、洋子と浩とチッピイは台所に隔てられている。洋子が偵察を兼ねて居間に飲み物を運んだ。浩は台所に帰ってきた姉に飛びつくように好奇心を露わにした。

「どうやった? どうやった?」

「六十三点。ぎりぎり、合格ラインかな」

「どんな話しとったん?」

「仕事とか趣味とか、ありきたりのことやわ。せっかく来といて、他の話は無いのかっちゅうねん」

「どんな人?」

 弟の質問に洋子は指で自分の長い髪を梳いてみせた。

「二十代後半のくせに、もう、髪の毛、薄いで。あれはおでこから禿げあがるタイプや」

 浩は多少困惑した、禿げるだろうと言うだけでは男のイメージが掴みきれない。

「何してる人?」

「与那国島の出身でな、沖縄で観光の仕事をしてて、長期出張でこっちに来てるらしいわ」

「よなぐにじまって、何や?」

「南の最果てや、景色のええとこらしいで」

 洋子はその南の島の名前を憧れの口調で口にした。浩はため息を付いた。この家の女性の言葉は客観性が無く、常に彼女たちの願望が溶け込んで、事実を抽出しにくい。浩が知りたいのは、姉が嫁ぐという土地がどんな場所か知りたいだけである。知り得た事実は、アウトドア派の洋子の興味を満たす土地だと言うことだけである。

「俊子姉ちゃんは?」

「大人しぃもんや。猫をかぶるってああいうことやで」

 この家の女どもは気配を消す。この時には、いつの間にか会話をする二人の後ろに腕組みした俊子が立っていて、妹と弟に声をかけた。

「こそこそしてないで、あんたらもちゃんと紹介するからおいで」

 彼女は最後に一言、添えて居間に姿を消した。

「チッピイも連れてきてや」

 

「古い靴下を折り返して入れてやると、喜ぶさぁ」

 挨拶がてらポン太郎を紹介された男は、俊子に寄り添いつつそう言った。不要になった靴下を与えてやると、ハムスターが喜んで巣にして潜り込むと言うのである。言葉は聞き慣れた大阪訛りではない。

 仕事で大阪に在住して一年になるとの事だが、まだ大阪言葉に染まらない新鮮なアクセント持っている。軽やかな感じがする聞き慣れない言い回しだったが、浩は素直に受け入れて男の提案を試してみようと思った。靴下をというのは、本には書いていない知識で小動物を飼ったことにしか分からない事実だ。この男はハムスターが好きに違いない。

(ハムスター好きに、悪人はおれへん)

 浩はそう考えたのである。浩は姉の婚約者に対する警戒をやや解いた。浩の目から見ても、真面目そうだが、風采の上がらない人物だった。ネクタイの締め方は不慣れで、スーツを着るのにぎごちない。ただ、眼鏡の奥の目は小さくてハムスターのように丸々として優しそうだった。きっと、ラフな服装なら緊張感がとれて、自然な笑顔が似合いそうな雰囲気だった。俊子が躊躇うように男に寄り添って、浩にウィンクして見せた。

「にゃぁ」

 一瞬、浩は俊子が鳴いたのかと思った。チッピィが俊子の足元に寄り添って、甘えるように、これからの出来事を尋ねたのである。

 チッピィを含めた小林家の人々にとって、新しい家族との出会いはこんなものだった。婚約者が帰宅したこの日の夕刻には、その話題も尽き、家族は静かな夕餉の時間を迎えた

 

「ごちそうさま」

 浩が立ち上がって部屋に戻った。普段はハムスターのことなどを語りながら、ご飯をお代わりする子だが、今夜の食事は一膳だけだった。

「私、部屋でレポートを仕上げるから」

 洋子はそう言って食卓から離れた。もともと、レポートなど学校の図書館でこなすものだと主張しており、家に宿題を持ち込んだ姿を見せたことが無い娘だから、彼女の言葉も言い訳じみて、本人が真面目な顔をする分、滑稽さが滲み出している。

「私、部屋を片づけなあかんから」

 俊子がそう言って居間を去ると、居間には夫婦だけがひっそり残された。

 

 夫婦は会話の話題を失って黙りこくった。

 

「そぉかぁ、結婚するンかぁ」

 先にとぼけた事を言ったのは夫の伸一である。娘が結婚するという実感が湧かない。妻の英美が膝に抱いたチッピィの背を撫でながら言った。

「ほんと、あの子がねぇ」

 チッピイはもっそり立ち上がって、英美の顔を見上げてすまぬと言うように鳴いた。

「みぃ」

 そして、ゆっくりと伸一があぐらをかいた足の上に移動した。英美の膝の上よりこちらの方が安定感があって良い。

 英美はチッピイが自分を捨てたことを怒るのも忘れ、今更気づいたように、そののろのろした足どりを眺めてため息を付いた。

「あら、あら、すっかり、おじいさんね」

 チッピイがと言うより、何やら自分たち夫婦が老いたような気がするのである。

「もう十五年くらいになるか?」

 夫の疑問に妻が答えた。

「いえ、もっと前。俊子が4つの時よ」

 そして英美は呟くように言葉を継いだ。

「しょうがない、か」

 夫も黙って頷いたが、語尾を締めくくった「しょうがない」という言葉が、チッピイの老いに付いてのものなのか、チッピイに照らし合わせた自分たちの老いなのか、娘がこの家を離れて嫁ぐことについてなのか、この夫婦はどちらも明快な答えを持っていない。

「あら、そうよ」

 気まぐれな猫のように妻が言葉を発した。先の会話と何の脈絡もない。妻は言葉を補った。

「あの時、あの子がここにいたんだわ」

「何や?」

「俊子が猫を飼いたいって言ったときのことよ」

 夫は何となく否定した。

「違うで、」

 伸一も何となく不満と共に記憶している。チッピイをこの家に迎えるきっかけになったときのことである。

 生活感の染み込んだ部屋の夫婦二人の光景に、新築の頃の部屋の記憶を当てはめると、過ぎた年月は既に十九年になる。

 伸一には幼い俊子がソファでくつろぐ自分の膝の上にいたという記憶がある。ただ、俊子がテレビを見ていたものか、今のチッピイと同じく体の安定感を求めて動き回っていたのかはっきりしない。ただ、ドラマを観ていた伸一は、画面に映し出される親子の周りを回っていたのが柴犬だったと記憶している。

 そして、画面の中をはね回る子犬とリズムを合わせて体を揺する娘をあやすように、娘の顔をのぞき込んで言ったのである。

「犬、飼おか?」

 考えてみれば、夫に寄り添う愛情深い妻と愛らしい娘、その一家を取り持つようにはしゃぐ忠犬というイメージは、伸一が若い頃から結婚と家族に対して抱いていたイメージそのものなのである。今の家族に犬が加われば、伸一のイメージ通りの家族になる。

 愛情深い妻という表現は気恥ずかしくて使えない。伸一は傍らの妻に遠慮がちに言った。

「なぁ、犬でも飼おか?」

「そうね。何か、生き物を飼うのもいいかな」

 犬を飼おうかという問いかけに、何か生き物でもと返されている辺り、既に英美のコントロール下にあり、趣旨をすり替えられている。

 英美は夫ではなく娘の顔をのぞき込んだ。

「ねぇ、俊子。可愛いニャンニャンなんか欲しくない?」

 俊子は疑うこともなく頷いた。子供にとって遊び相手という意味で、子犬でも子猫でも大差ないように思われたのである。

「そうね。それじゃあ、猫にしましょう」

 問題は見事にすり替えられて英美の意見の通りになった。伸一がこの状況を記憶していると言うことは、状況に不満を感じたからに違いないのだが、それでも物事に捕らわれない性格が、生活のイメージを犬から猫にすり替えて受け入れた。

 英美のイメージにあるのは、血統書付きのアメリカンショートヘアと、その猫を膝に抱いて、その背を優雅に撫でる自分と娘の姿である。

 

 英美の計画に齟齬を生じさせたのは、幼い俊子だった。幼いながら生き物を飼うと言うことが楽しみでならないらしく、彼女は猫を飼うと言うことを友達に盛んに吹聴した。情報が随所に伝わって広がり、彼女はある日友達から捨て猫の情報を得た。

 それが一月だったか二月だったか、英美は覚えていないが、まだ吐く息が白い時期の水曜日だったと記憶している。次の日曜日にペットショップへ猫を求めに行こうと考えていた4日前という記憶と言い換えても良い。

 俊子は泣きべそをかいて英美の前に姿を表した。両の掌に乗せるように連れ帰った子猫が冷たく、身動きしないというのである。家の中でも暖房を切らせば凍える時期だから、屋外に捨てられていた子猫が凍死寸前なのも当然である。子猫はやや目を開けて英美を見ると、少し口を開けた。挨拶をしたものかも知れないが、声はか細く英美の耳に届かない。

 彼女は娘と子猫を暖め、夫の帰宅と共に電話帳を頼りに獣医を探し当てて子猫を連れ込んだ。深夜だと恐縮する夫婦に、若い坂井獣医は気さくに応じた。

 この人物の真摯な人柄と、子猫に語りかけた言葉が、子猫の運命を決めた。

「大丈夫、生きますよ。いい人たちに拾われて、せっかく家族になったのに死んでいいはずがないよね」

 彼はこの子猫が自分たちの家族だというのである。チッピィを通じて幾人もの知己を得たが、坂井獣医がその最初の人物だった。坂井獣医との家族ぐるみのつき合いも十九年間に及ぶことになる。

 ただ、英美はこの人物が、人の良い笑顔と共に語った言葉も覚えている。

「この子は雑種で、抵抗力もありますからね。すぐに回復します」

「雑種ですか?」

「そぉ、正真正銘の雑種。生後2ヶ月ぐらいかな」

 血統書付きの猫を飼うという英美のイメージを打ち砕いた言葉である。

 

 英美は過去の記憶から解放されるようにチッピィを撫でて言った。

「でもね、チッピイ。出会えたのがあなたで本当に良かった」

 その言葉の響きでチッピイは満足そうに喉を鳴らした。


老いと晩秋の日々

 俊子の机の上にカレンダーがあり、その日付の余白に、何やらあちこち書き込みがある。じっと観察すれば『案内状の文面作製』といった実務的な内容が、枠をはみ出すことなく書かれているのみで、内容から彼女の夢や希望をくみ取ることは出来ない。

 カレンダーと対になるように位置して置かれた黒猫の縫いぐるみは、俊子の手作りの蝶ネクタイが加えられ、婚約者の代理人として愛情が注がれている。彼女にとってカレンダーの事務処理と、縫いぐるみに託した男性への愛情は別物であるらしい。

 ただ、日を追って毎朝の様子を眺めれば、俊子は縫いぐるみの位置と角度を少し変化させる。猫が少しづつカレンダーに接近しつつ、最後にカレンダーの日付にキスをするという密かな遊びである。チッピイも最近はこの縫いぐるみの存在を受け入れたようで、机の上で昼寝をしても、蹴り落とすことはなかった。

 居間の壁に掛けた大きなカレンダーは家族の平静を装っていて、大した記載は見られない。その月替わりのカレンダーをめくるのは父親の伸一の役目である。これまで、伸一はこれほど心騒ぐほどの緊張感で古いページを破り取ったことはなかった。伸一は十月分のページを大きな決心と共に破り取った。現れた十一月のページの下旬の日付に赤い○印が付いている。娘の結婚式の日である。

 様々な慌ただしい手続きの中に日常が埋もれて過ぎて、この家族の中に胸を躍らす波乱がない。

 

 生活習慣の違いから、結婚に相手の両親の大反対を受けたとか、

 与那国島と大阪との距離の長さが、愛する二人を引き離したとか、

 結婚前の男に、他の女の存在が発覚したとか、

 不幸にも男がハブに噛まれて亡くなったとか、

 姉が男の性格に飽きが来たとか、

 

 浩が洋子に教えられる結婚前の波乱というのは、想像すれば数限りなくある。馬鹿げた妄想だが、浩はそんな次女の言葉を笑いもせず、密かに期待をしていた。最近の俊子の優しさに接していると、幼い頃に意地悪や悪戯をされた記憶が、宿題を手伝ってくれたり、おやつを分けてくれた優しい姉の記憶で塗りつぶされる。年が離れていることもあって、浩にとって姉は母親を補う存在で、人生から切り離すことができないような気になる。金城という男は、その切り離せないものを引き裂いて持ち去ろうとするかのような不満がわき、金城が好人物で、姉の信頼も厚いということを知ってはいても、好感が不満で押し流される。浩は自分でもよく説明ができない不満と不安を抱え込んでいた。

 ただ、俊子の場合に限って言えば、男女間の波乱はなかった。呆気にとられるほど順調に、夏から初秋の日が過ぎ去った。

 しかし、この夏の暑さはチッピイの体力を奪った。チッピイは歳の加減か、健康を壊して、秋に入っても食欲がもどらない。

 そんなチッピイを気遣って、俊子は自分のお古のセーターをチッピイの寝床に与えている。梅雨の時期にはあれほど散らかっていた俊子の部屋が、今は信じられないほど片づいていた。几帳面さを取り戻してのことではない、荷物が少なくなって、がらんと殺風景になり、残っているのは窓辺の机くらいのものだ。チッピイの寝床になった穴の空いたお古のセーターは、この部屋から荷物を運び出したときの余り物である。

 

 浩は縁側で耳を澄ませて、傍らのチッピイの背をなでた。うるさかった蝉の声が響いていたのがついこの間だったような気がするのだが、今は庭の片隅でコオロギの鳴き声が聞こえる。チッピイはそんな変化には興味がなさそうに、日当たりのいい縁側で目を閉じていた。

 浩はふと不安げに眉をひそめてチッピイの鼻面を指で突いた。チッピイは髭をぴくりと動かした後、ゆっくりと目を開けて、傍らの弟を迷惑そうに眺めた。ただ、そこには悪戯者の顔ではなく、心配そうにチッピイを眺める表情があり、チッピイは一声鳴いた。

「みぃぃぃ」

 心配するなと言ったつもりである。事実、体調は落ち着いていて呼吸は苦しくない。ただ、呼吸がゆっくりしているだけに、チッピイに動きが無く、浩にはその生命感が感じとれなかったのである。

「よかった。生きてたんやな」

 チッピイに言葉がわかれば、そんな呟きも恥ずかしくてできなかったかもしれない。しかし、チッピイは傍らの弟の顔を見上げて、彼の感情をくみ取ったように小さく感謝の鳴き声を上げた。

「にぃぃ……」

 心配してくれてありがとうよ。人の言葉を交わせたら、そういう意味である。

 この時、玄関で呼び鈴が鳴り、浩は来訪者の姿まで思い浮かべた。裏付けるように姉の洋子の声が響いた。

「金城さんや。浩、あんたがでて」

 姉の洋子は台所で訪問者のために飲み物と軽食の準備をしているのである。チッピイの世話をする浩に、来客の出迎えを押しつけた。浩は眉をひそめて立ち上がった。チッピイは頭を上げて、弟の後ろ姿を見送ったが、チッピイ自身は客に対する興味も、客を出迎える意欲もわかなかった。ただ、寝かせていた耳を立てて人々の声に耳を澄ませただけである。

「こんにちわ、浩君」

 チッピイの耳に届いたのは、あの男の声である。すでに何度か訪問を受けていて、俊子の机の上の写真との男と声は関連づけて覚えていた。その男、金城の挨拶に答える浩の声は耳に届かず、二人が玄関から居間に移動する足音のみ聞こえた。

「ようこそ。お姉ちゃんはあと一時間で帰ってくるわ」

 盆にのせて運ぶガラスコップの音と、このコップをテーブルに並べる音が3回響いて、洋子が居間に移動した事が知れた。最近の日常の一コマに過ぎず、チッピイはこの状況に興味を失って、微睡みに身を任せた。

 

 洋子が居間に飲み物を運んだとき、浩が金城から手荷物を託されていた。

「残りのアイスは、冷凍庫にしまっておいて」

 土産物のアイスクリームが溶けないうちに、テーブルに出した3個を残して保管してくれと頼んでいるのである。浩は黙ったまま、ビニールの手提げ袋を下げて台所へ姿を消した。その後ろ姿を、金城は少し首をかしげて見送った。

「僕は、浩君に嫌われているのかねぇ」

 この家を訪ねるのは四度目である。金城の目から見れば、この家族は実に大阪らしい。コメディアンの巣窟のような陽気な雰囲気の家庭だが、家族に対してはそのコメディアンの一員として振る舞う浩が、金城に対して妙によそよそしい態度を取る事がある。今日もまた、黙ったままで心を開く気配がない。

「あの子はお姉ちゃん子やから」

 洋子はそう言った。浩は姉が結婚してこの家から出て行く。それを理解はしているはずだ。ただ、理解しかねて首をかしげる金城に洋子は言い添えた。

「大事なお姉ちゃんを、よそから来た金城さんに盗られるような気がしてるんやわ。きっと」

「ボクは、もう、よそ者じゃないつもりだけどねぇ」

 やや困惑する金城に洋子は話題を転じた。

「お姉ちゃんは、あと一時間ぐらいで帰れるわ。急に外出してゴメンなって言うてたよ」

「でも、俊子さんらしい話さぁ」

 笑顔の金城自身も俊子から連絡を受けていた。結婚退職の予定で引き継ぎもすませていたが、生徒にトラブルがあり、後任の教師から急な相談を受たのである。結婚式の相談をする予定を変更して、生徒のために婚約者を後回しにして出かけた。ただ、洋子の目からみれば、生徒のために予定を変更する姉のお人好しだと思うが、それを見守って受け入れる金城の人柄にも好感が持てる。ただ、その洋子が突然に視線を転じて眉をひそめた。弟が戻ってきて、テーブルの上の幾種類かのアイスクリームの一つに手を伸ばしたのである。

「こらっ、浩。そのラムレーズンは、私のや。子供はチョコレートでええねん」

「ボクはラムレーズンが似合うお年頃や。姉ちゃんには、可愛い弟にラムレーズンを譲る優しさを期待したいわ」

「私は優しいで。赤ちゃんの時のあんたのオムツ換えたげたことあるからな」

 オムツを換えてもらったという話題には反証すべき理由は無かったらしく、浩はラムレーズンのアイスクリームを奪うように手にして居間を離れた。

「こらっ、浩。金城さんに、ありがとうは?」

 土産物のアイスクリームの礼を言い忘れているという姉の叱責に、浩は振り返って口ごもった者の言葉には出さずにぺこりと頭を下げただけである。

「ホントにあの子は……」

 ため息をつく洋子に、金城は笑って洋子の言葉を継いだ。

「お姉さん似?」

 金城は二人の漫才のような掛け合いを黙って見守るしか無く、この人々と家族になる難しさを考えた。故郷の与那国島の人々にも、三線のメロディに乗って踊り出す楽天的で陽気な気質があり、彼自身もそんな一人だと自認していた。ただ、この地域の人々を踊らせるものは三線のメロディではないようである。

 洋子が柱時計を眺めるのと同時に金城が腕時計で俊子の帰宅時間を考えた。同じ発想と行為に二人は苦笑いせざるを得ない。俊子が磯区味取りが思い浮かぶようだが、帰宅まであと40分はかかるだろう。両親は町内会の温泉旅行に出かけて不在である。姉の婚約者と二人っきり。この状況は洋子にとって非常に都合がいい。姉の口から聞けない二人のなれそめを、この男を尋問して聞き出すのである。

「で、きっかけは何やったん?」

「大阪市内で沖縄の観光案内の催し物があったのさ。その時、与那国島のブースを担当していたのが僕なのよ」

「与那国島かぁ……、ええなぁ」

 洋子はアウトドア派として、まだ訪れたことのない南の島の光景を思い浮かべてうっとり目を細めた。

「洋子さんも来るといいさ。歓迎するよ」

「それで、俊子姉ちゃんは、どうしたん?」

「子どもを何人も引率した女の人がやってきて、手話を使う様子から、聾学校の先生と生徒だってわかったよ」

「その先生が俊子姉ちゃんだったと」

「そう。僕は、海水浴や珊瑚礁の説明をするつもりで、子どもたちが近づいてくるのを待ってたのよ。そうしたら、俊子さんが何を聞いたと思う?」

「どうしたの?」

「子供たちに、与那国島のきれいな海の波の音を教えてくれって……」

 金城の言葉に洋子は笑った。確かに、姉の性格で言うと、子どもたちに、目を閉じて肌に感じる振動とともに耳に響く音を伝えてやりたいと考えるだろう。しかし、困難な要求に違いない。金城が居間も広げた腕を、波を表現するように上下動させる様子が、突然の意外な要求をされたその時の困惑を表しているようだった。おそらく、このきまじめな男は全身を使った身振り手振りを交えて、波の音を伝えようと奮闘したに違いない。

「それで、その変なダンスで音を伝えたの?」

「子どもたちの様子を見ていると、嫌とはいえないさぁ」

「なるほど」

 この男性のきまじめな性格は姉の好みに一致する。そして、耳が不自由な子どもたちに、自分の故郷の音という意外な情報を伝えてやろうとする俊子の願いは、金城の心に残ったらしい。

 そんな二人の会話を、浩のあわただしい足音が遮った。

「お姉ちゃん。チッピイが大変や」 

 浩に導かれて縁側のある部屋に移動してみると、確かに、寝床からはい出したチッピイが意識を失ったように、頭を床に垂れ、不自然に体を伸ばして倒れていて生気がない。未消化のまま吐き戻した食べ物で口元が汚れていた。

「ボクが悪いねん。アイスクリームやったら嘗めるかなと思てん。最初は喜んで嘗めてるように見えたのに……」

「あんたのせいやないわ。タオルを濡らして持っといで」

「ごめんな。チッピイ」

 姉の言いつけに素直に応じた浩は、そんな一言を呟いて、タオルがある浴室へ走った。

 洋子はチッピイの吐瀉物で衣服が汚れるのもかまわずに、チッピイを抱き上げて寝床に戻した。チッピイは弱々しく目と口を開けたが、鳴くことはなく、横たえられた姿勢を崩さず目を閉じて、寝床に頭をたれた。濡れタオルを持ってきた浩に、洋子はチッピイの口元を拭ってやるよう指示をして、彼女自身はティッシュで床の吐瀉物を拭き取って片づけた。姉と弟の手際がいい。金城は二人を眺めてこういう出来事が何度か繰り返されているのだろうと推測した。浩が眉をひそめて後悔の言葉を発した。

「ボクのせいやわ。チッピイは嫌がってたかもしれへんのに、ボクが無理にアイスクリームをたべさしたから」

 浩はチッピイの口元の吐瀉物を拭き取りながら、謝罪を繰り返した。

「チッピイ。ごめんな」

「その猫をお医者さんに診せなきゃ」

 金城のそんな提案を洋子が否定した。

「今日は日曜で休診やわ。明日、朝イチでかかりつけのお医者さんに連れて行くわ」

「今から診てもらうよう僕が頼むさ。電話番号は?」

 チッピイの健康状態には波があり、元気にしているかと思うと、ふとした出来事をきっかけに体調を崩す。既に何度か体調を崩したチッピイの診察を受けたことはあるが、病や怪我ではなく、老いがチッピイの体をむしばんでいて有効な治療方法がない。診察は洋子や浩の気休めになるかもしれないが、チッピイの立場で考えれば、病院と家を往復するより、家でそっと寝ている方を望むかもしれない。しかし、この一途な男に任せれば、事態が好転しそうな気もする。何より、その申し出に、浩はすがるように金城を眺めていた。洋子が玄関で電話の受話器を取る間もなく、その傍らで金城は携帯電話に洋子が指した電話帳の番号を入力した。

「僕が車を出すから、洋子さんは病院まで案内して。浩くんにはチッピイを連れて行く準備を……」

 金城がそこまで言った時、電話がつながったらしい。金城は洋子に居間を指さして指示に従えと伝え、電話に専念した。

「もしもし、坂井獣医医院さん?」

 金城という男性はこうやって、何かに一途になれる男だった。洋子はそんな金城を背中に感じながら、姉がこの男を生涯の伴侶に選らんだ姉の判断の確かさに感心した。ただ、切れ切れに聞こえる金城の声に、彼女は肩をすくめた。

 

「休診? うちの猫が苦しんでるさぁ」

 

「苦しんでる患者がいれば、助けるのが医者の道だね」

 

「先生は医者じゃないのかね」

 

 診察を頼めば坂井獣医は嫌とは言うまい、そういう人物である。ただ、金城との会話の間に微妙なすれ違いがあるようだ。金城に悪気はないだろうが、一途なあまり坂井獣医をそしる言葉を吐いている。診察の前に洋子が代わって詫びねばならないだろう。ただ、出会いがあれば、まじめな両者のこと、誤解は解けるに違いない。

 

 坂井獣医は突然の来院にも関わらず、普段と変わりない気さくさで、医院の入り口までチッピイを出迎えた。チッピイを抱いた見知らぬ男にやや首をかしげたが、ぐったりしたチッピイを優先して診察室に招き入れた。休日の動物病院の診察室はエアコンを入れたばかりか、まだ肌寒く、閑散として寂しい。奥から入院中の動物の鳴き声が響いていたが、チッピイはそれに反応する様子はなかった。

「ボクがアイスクリームを食べさせたからやねん」

 チッピイの体調に責任を感じているらしい浩の言葉に、坂井獣医がその症状と原因を語った。

「チッピイも、もうすぐ二十歳やからね。人間でいうと九十歳位のおじいさんやねん」

 坂井獣医はそう言って、浩に手を添えて痩せて肉付きが落ちた体に触れさせた。横たわったチッピイの体は、肋骨の凹凸が毛並みの上からでも確認でき、浩の指先に伝わる体温もない。坂井獣医はチッピイが体調を崩した原因が、浩のせいではないと教えたのである。坂井獣医は老いてやせ衰えたとは言わず、別の表現でチッピイを讃えた。

「チッピイも一生懸命に長く生きてきたからね」

 今日は助手が居ないため、坂井獣医自身が点滴の準備を整えて、目をつむったままのチッピイに優しく声をかけた。

「チッピイ。ちょっとチクッとするからな」

 太ももに点滴の針を刺されたものの、チッピイはやや目を開けただけで、あらがう様子はない。しばらく眺めていると呼吸も落ち着きを取り戻した。

「今日はこのままそっとしておく方が良いでしょう。今晩は、うちで預かります。明日、どなたかご家族の方が迎えにきてください」

 坂井獣医の言葉にこの場の誰より喜んだ金城が浩の頭を撫でて声をかけた。

「よかったね、浩くん。きっと元通り回復するよ」

「貴方は?」

 坂井獣医はここで初めて、見ず知らずの男の正体を尋ねた。声から判断して、慌てた口調で電話をかけてきた人物だと判断している。金城が名乗る前に、洋子が紹介した。

「金城さん。俊子姉ちゃんの婚約者です」

「それじゃあ、浩くんのお兄さん?」

 浩に視線を転じた坂井獣医の言葉に、浩は金城から目をそらしたまま小さく頷いた。

「うんっ」

 浩が金城を兄として認めて受け入れた瞬間だった。

 

 さざ波。家族はチッピイの健康状態に、そんなイメージを持っていた。好奇心を失ってぐったりと寝ているだけだったかと思うと、次の日には床から椅子へ、椅子から机の上に飛び移る元気を見せて、パソコンでレポートを仕上げている最中の洋子に、遊び相手になれと指示することもある。ただ、その小さな波も、加齢という大きな波の一部として、広く遠く、チッピイの体が拡散してこの世から消えてしまうかのような不安を感じさせていた。ただ、家族はそれを感じつつも何も口にしなかった。

 体調不良を気遣った金城のおかげか、坂井獣医の治療が的確だったのか、チッピイはその後三週間を経て、これから下りゆく大きな健康の波の頂点にいた。十一月の末のことである。

「明日かぁ」

 洋子はベッドで寝返りをうってそう呟いた。洋子にとって十一月の日々も過ぎてしまえば、彼女が姉と過ごした日々の経験の範囲内。彼女は早く眠ろうと思いつつ、目が冴えて頭の中が、しんっと澄み渡っている。

「明日かぁ」

 洋子はもう一度呟いた。何の波乱もなく平穏に過ぎた日々の事を考えたのである。家を離れて新たに夫婦を作るという行為は、もっと特別なものであって良いはずだ。洋子の中で、そんな思いがわだかまっていて晴れない。

 洋子のあけすけな性格を反映して、洋子の部屋のドアは開け放たれている。本人はそれを風通しが良いと称している。

 洋子がそのドアの所に誰かのの気配を感じて振り返ったのと、俊子が洋子に声をかけたのはほぼ同時だった。

「洋子。浩は、もう眠ってたわ」

 俊子はそう言って苦笑した。彼女がこの家で犯した最後の誤算だったのかも知れない。俊子の言葉は、先に浩の所へ行ったが目的は果たしていないと言うことを言外に臭わせているのである。

「俊子姉ちゃん」

 洋子はそう声をかけることしかできない。いつから立っていたのだろう。そう感じるほど姉は場面に溶け込んでしまっている。正装しているというわけではないが、身なりを整えた普段着の俊子に、いつになく一線を画した礼儀正しさがあり、大げさに言えば荘厳さを身に纏っている。俊子の足下にまとわりつくチッピイがそんな彼女の雰囲気に敬意を表するように見上げていた。

 俊子はするすると部屋に入ると、起きあがろうとする洋子を手で制して、ベッドの傍らに腰をかけ、静かに妹を眺めた。チッピイが洋子のベッドに前足をかけたが、よじ登る元気はないらしい。洋子はその気配を察してチッピィを抱き上げた。ただ、洋子は姉の雰囲気に押されて黙ったままだ。

「洋子、今までありがとう」

 これが姉の別れの挨拶だった。彼女はゆっくり言葉を継いだ。

「お父ちゃんとお母ちゃん、浩の事をよろしくね」

 やや間をおいて、洋子はチッピイを抱いてその背を撫でて、姉に尋ねた。

「チッピィは残していってくれるんやろ」

 チッピイの保護者をただ一人挙げろと言われれば、子猫のチッピィを拾い育てた俊子に違いない。俊子がこの家から一人、与那国島に嫁ぐと言うことは、チッピイを捨て去るような心苦しさもあるだろう。洋子は「残していって」という言葉で姉の最後の心の重荷を取り外したのである。

 チッピイの立場に立てば、この家を離れることは望むまい。この猫にとっての幸せは、家族が老猫の思いを優先してやることである。

「うんっ。チッピイとは明日でお別れやわ」

「与那国島もええとこやから」

 洋子は観光ガイドで調べた知識を披露した。姉が嫁ぐ土地に不安でも持っているのではと、心遣いを見せたのである。しかし、次の挨拶のことが頭にあって、俊子はその妹の言葉を聞いていない。

 俊子は静かに部屋を離れて階下に降りた。身なりを正し、かつ自然に、父と母に今まで育ててもらったお礼を言いに行くに違いない。

 洋子は姉の姿を目で追いつつ、呟いた。

「やるなぁ、俊子姉ちゃん」

 いつもの雰囲気と一線を画した姉の毅然とした態度が心地よい。部屋の中に目を移せば、部屋の隅に正装の衣類がハンガーに掛けて吊されている。明日、彼女が姉の結婚式に出席するときの衣装である。それがこの夜の洋子の最後の記憶だった。

 洋子は深く心地の良い眠りに落ちた。

 

 チッピイが目を覚ましてみると暖房の利いた居間にいた。周囲の賑やかさにまどろみを中断されつつ、本格的に目覚めてみると、部屋の中は明るくて次の日を迎えていることを知った。部屋は暖かいが、閑散として人気がない。目覚めつつ多少不満がある。俊子の記憶の詰まったセーターの寝床からやや強引にこの暖房の利いた部屋に移されたのである。既に、彼をここに移した英美も、伸一も、俊子も、洋子も、この家から姿を消しているのである。

(何か、あったのか?)

 若い頃なら抱いた新鮮な疑問が、澱のようにわだかまった老いに妨げられてわいてこない。チッピイにとって外出するのもおっくうだが、この夏は体を動かすのも面倒だった。許されるものなら身動きせずに目を閉じたまま過ごしたい。しかし、その気になれば雀だって獲ってみせるという、老いを否定する気概が僅かに残っている。

 静かな家の中で、チッピイは目を閉じたまま、背を撫でる手つきから、傍らにいるのが浩だと判別した。耳が随分遠くなって、この弟が接近するのに気づかなかったのである。

 浩はチッピイを撫で続けるわけでもなく、気まぐれにその場を離れて、うろうろと落ち着かない。やっと目を開けたチッピイは、その浩の背を見ながら思い出すことがある。

 チッピイは赤ん坊の浩を記憶している。母親の英美が長らく姿を消していたと思ったら、今のチッピイの寝床みたいに温かで柔らかい産着にくるまれた浩と共に帰ってきた。俊子や洋子が歓迎する様子がある。

 考えてみると洋子が家族に加わったときにもこんな感じで、その経験から新しい家族だと分かった。浩は甘い乳の香りがする小さな生き物で、柔らかな指でチッピイの髭を掴もうとした。

 好奇心に満ちて視点がくるくる切り替わる。その表情が不思議な物のようで、舐めてみるとくすぐったそうだが心地よさそうな笑顔を浮かべた。不意に尻尾を握られてびっくりしたのも覚えている。

 浩はうねうねと自在に動く尻尾に興味をそそられたのかも知れない。浩の小さな指に意外に力があって、尻尾を放してもらえないのかと恐怖に駆られて、チッピイは情けなく鳴いた。今のチッピイが苦笑と共に思い出す記憶である。

 その尻尾を掴む迷惑な癖は、後々まで残っていて、それが原因で何度か兄弟喧嘩をしたこともある。チッピイにはこの弟に負けた記憶はない。浩の腕力に恐るべきものがあるのだが、動きの素早さの点で浩はチッピイにかなわない。

 チッピイの教育はよほど行き届いていて、浩はりっぱに分別をそなえて大きくなり、父親の伸一と同様に、浩はチッピイと互いに迷惑な干渉をすることのない関係を築いている。

(そやけど、いつの間に、こんなに分別をそなえた生き物に育ったんやろ)

 その思いには、ちゃんと躾を成し遂げたという満足感が籠もっている。想い出に浸っていると、気怠い体に生気が少し蘇ってくるようで心地よい。

 チッピイはゆっくり立ち上がって、けだるさを振り払うように身震いをした。今日、この家のことで少し確認しておきたいことがある。

「にゃあん?」

 チッピイが年寄りらしいゆったりした足どりで、家の中を彷徨って浩を捜し当てた。餌を催促しているのかもしれない。そう考えた浩はチッピイ本人に確認した。

「お腹すいたんか?」

「にぃ」

「もうすぐ、僕らをほっといて、お姉ちゃん達だけ、美味しいモン食べるねん。ええやろ」

「ふにぃぃ」

「ボクがご馳走食べられへんのは、お前のせいやで」

 チッピイは浩の膝の上で、顔洗いの仕草をした。その前足で目を擦る姿は、御免なさいと詫びているように見える。浩は強く言い過ぎたかと心苦しい。何しろ、姉からこのチッピイの世話を託されたのである。浩は結婚式に出発してから読みなさいと、姉から託された手紙を、封筒から取り出してもう一度眺めた。

 

 

 

浩へ

 

 この家で、浩を始め、家族との思い出は、数えきれません。思い出せば、懐(なつ)かしくなることばかりです。

 

 でも、今日から、お姉ちゃんは、与那国島(よなぐにじま)で、金城さんと一緒に新しい家族の思い出を、作ります。今、私は幸福です。

 

 そして、この家での出来事を振り返れば、今まで過ごした暖かな日々も、家族にはぐくまれていたのだと、暖かい家族を作り上げてくれた両親への感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 いつか、浩や洋子も、良い出会いを経験して、新しい家族を作れるように祈っています。

 

 チッピイのことは、これからは、私の分も、可愛がってやってください。

 

 

                                                 俊子

 

 浩はため息をついてチッピイに語りかけた。

「チッピイとは、これからも仲良しやっちゅうねん。そやろ、チッピイ」

 浩はチッピイの背を撫でながら、独り言のように言葉を継いだ。

「そやけど、もう一言ぐらいあっても、ええんとちゃう?」

 姉は仕事のことは家に持ち込まない主義らしく、浩は姉が学校のことを語るのを聞いたことはない。しかし、金城が語った様子から想像すると、生徒に細やかな配慮をする教師で、生徒からも慕われているらしい。

 しかし、細やかな配慮をする教師としては、この手紙は手抜きでは無かろうか。浩と姉の十二年の関係が、たった数行に集約されてしまっていて、思い出に浸る雰囲気がない。ただ、今の浩は気づいてはいないが、手紙の文面は難しい言葉や言い回しを使わず、やむなく使った漢字にはふりがながつけてある。文を区切り、わかりやすく意味を伝えるための句読点が多く、メッセージをじっくり噛みしめながら味わえる。感傷的になることを、意図して避けた気配があり、文面には照れ屋の俊子の性格がにじみ出すようでもある。

「ふみぃぃぃ」

 チッピイは手紙の文面ではなく、手紙から漂う俊子の残り香に何かを思い起こすように鳴いた。

 夏の暑さで体調を壊した後、チッピイは間もなく冬を迎えようかという時期になっても体調が充分に回復しない。健康に悪化と回復が交互に現れ、一週間前の早朝、洋子がチッピィが食べたものを吐いて気を失うようにぐったりと横たわっているのを発見して坂井獣医の元に運んだ。

「チッピイも、よく生きましたからね」

 的を得た端的な言葉を吐く人物だが、チッピイに尊敬を払って発した言葉が改めて家族の心に浸みた。老いがチッピイを蝕んでいる。食が細くなっていることを気遣った家族が、老いたチッピイに無理に食べさせすぎたのかも知れない。

 坂井獣医の指示通りチッピイの体を暖かく保ってそっとしてやることで、チッピイは多少、体力を回復した。俊子の結婚前の波乱と言えばこの事件だけだ。当日、チッピイを気遣った一家は、浩をチッピイの世話係として残したのである。その代わりと俊子は約束した。春休みには浩を与那国島に招くと。浩はその条件で折り合いをつけてここにいる。

 

 浩はキャットフードの缶詰に手を伸ばした。しかし、チッピィはお腹は空いていないらしい。浩が手に取ったキャットフードには興味を示さず、浩の膝の上で腹を見せて浩を見上げた。目を細めて不思議そうな表情である。

 チッピイは、体を伸ばしたり、丸めたり、くつろいで落ち着ける姿勢を模索しながら、気怠そうに辺りを見回して鳴いた。

「にぃぃぃぃ?」

(雰囲気がいつもと違うな、どうしたんや?)

 たぶん、そういう意味だ。浩はそう解釈しながら、答えることはせずチッピィの毛並みを撫でつけた。温かい。しかし、皮の下にごつごつと骨が出っ張っていて、浩のポン太郎に比べると、毛並みも風格があってざらざらだった。チッピイの年齢を感じさせる。

(こいつ、ボクが生まれる前から、この家おったんや)

 浩は改めて気付いたのだが、チッピィも家族の一員だった。この家で浩より長く、姉の俊子と過ごしてきたのである。浩はチッピイに同意を求めた。

「幸せになったらええな」

 やや生意気な口調に、姉が聞けば苦笑いするにちがいない。しかし、浩には実感が湧かず、姉の結婚を他にどう表現していいか分からなかった。時計を見上げると朝の10時半で、まだ結婚式が始まるには少し早い。しかし、俊子は衣装を白無垢に着替えて、その時をじっと待っているはずだ。

 俊子が結婚式場で手に入れてきたカタログを、洋子の脇で見せて貰って、姉が着るはずの衣装がどんなものかということは知っている。ただ、Tシャツとジーンズ姿の姉のイメージが強くあって、白無垢姿の姉のイメージと重ならない。

 これから行われる儀式が、遠い別の世界のことのようで、昼を過ぎる頃にはTシャツ姿の姉が、自分だけの姉としてひょっこり自転車で帰って来そうな気さえするのである。

 からかわれたり、喧嘩をした想い出より、結婚前の優しく料理好きな部分ばかり誇張するように思い起こされて、浩は大事な人を奪われてしまったようだ。寂しさはあるが不快ではない。ただ、あの男を『お兄ちゃん』と呼ぶのは、まだ気恥ずかしく抵抗がある。

 チッピイを撫でる手の平に、チッピイが過ごした年月を感じながら、浩は『チッピイの幸せ』という俊子の言葉を思いだした。俊子本人の記憶も定かではないが、幼い俊子がねだって自分で世話をすると主張して迎え入れた家族である。飼い主という言葉を使えば、俊子がチッピイの飼い主になる。姉は新しい家に連れていきたい希望もあったのだろうが、チッピイは慣れない環境に戸惑うに違い無い。

(チッピイはここに居る方が良い)

 俊子はチッピイになって、そう判断した。浩も姉の判断は正しいと思う。この家にはチッピイの想い出も染みついていて、時々、訪ねてやってくる友達の猫もいる。浩は拙い知識で、離別と言うことを考えた。寂しいことだが、俊子との別れはやむを得ないことに違いない。しかし、止む得ないと言うことをチッピイに伝えるすべがない。チッピイは白い腹を見せて仰向けになり、弟の顔を不思議そうに。見上げた言葉を交わせないもどかしさを感じ続けているのはチッピイも同じである。

 チッピイはするりと身をかわすように浩の膝を離れた。やはり、今日のこの家の雰囲気はいつもと違う。その原因が何か知っておく必要があるだろう。浩から得られる情報が少なく、チッピイは情報を求めて家の中を散策することにした。

 今日は、この一家は几帳面さを失っている。普段閉まっているドアが中途半端に開いていたり、台所の引き戸すら開けたままで、中の食器が覗いて見えた。静まり返った台所を通り抜けようとしたチッピイは、ふと柱に目を止めた。

 縦に長く筋がついていて、若い頃のチッピイの爪研ぎの跡である。何故かは自分でも良く分からない、この柱の木目か色調か何かが妙に好奇心をそそって、他の柱ではいけない。床の足場がしっかりして、柱に爪を立てたときに、爪の先が僅かに柱の木目に沿って食い込む心地よさがあり、爪を引き下ろす行動がぞくぞくする快感を増幅するのである。チッピイは爪研ぎをするのはこの柱だと決めていたのである。

 当時は、夫婦が三十年ものローンを組んで手に入れた新築の一軒家である。チッピイは爪を研ぐ度にこっぴどく叱られた。一晩、家から追い出されてしまったこともある。今はチッピイの懐かしい想い出である。柱の傷もしっとり飴色に染まって、柱の地肌と一体になってしまっている。

 その柱を通り過ぎたチッピイは、俊子の部屋の前を通り過ぎた。ここは荷物が運び出されてしまって空っぽで、俊子の存在が失われた気がして不安感をそそった。

 こうやって家の中を歩き回っていると、頭がぼけたように、初期の目的を見失って、立ち止まって懐かしい記憶に浸ることがある。歳を取るにつけ、何か本能に急かされるように、この家の記憶を留めておきたいと思うのである。

 畳の部屋でごそごそ音がする。ハムスターのポン太郎が這うように歩き回っていたのである。ケージから脱走するのに成功したらしい。こいつが金網を囓るうるさい音を聞かされずにすむのは好ましい。ポン太郎は丸々太った腹を畳にこすりつけるように、気まぐれに歩き回っている。チッピイが観察したところ、ポン太郎は見つけたティッシュを、箱からくわえ出して家具の隙間に運んでいる。巣を作るつもりかもしれない。チッピイはそう判断した。

 一方、箱の中からテッシュの一部を引っぱり出したために、その中にポン太郎が身を隠す空間が出来た。その居場所の心地よさに、ポン太郎は家具の隙間の巣造りを忘れた。ポン太郎は箱の中の新たな巣の穴の縁から鼻先だけ突き出して、くんくん満足気に外をうかがった。

 ポン太郎の行動に長期的な目的というものが感じられない。チッピイはポン太郎の観察を止めた。おそらく、こいつは猫以上に衝動的な行動をする生き物だ。観察していても、ポン太郎の行動に意味はなく、得られる情報はない。

 家の中を彷徨っていたチッピイは、普段は薄暗い階段の上に、明かりが射しているのに気付いた。経験から察すると、二階の部屋のドアが開いているに違いない。

 チッピイは階段の半ばで立ち止まって下を窺った。体重を支える後ろ足が少しふらつくようで、自分の足腰が弱ったことが自覚でき、何か侘びしい。昔は自在に駆け上がったものだが、今は階段を半ば登ったものの、下りるのに少し不安がある。

 それでも、この家の雰囲気の変化の原因が知りたい。そういう思いがチッピイを突き動かした。チッピイは一呼吸入れた後、階段を上りきった。空いていたのは洋子の部屋のドアである。

 部屋の中が片づいている。そんな感じがするのは、俊子のように小物の整理整頓が行き届いていると言うというわけではない。整理整頓するべき小物を一緒くたにプラスチックの容器に放り込む癖があるからだ。そのプラスチックのコンテナが無造作にベッドの下に入れてある。部屋の壁には夏物と冬物の寝袋が掛かっている。干してあるのか保管しているのか区別がない。洋子の汗の香りを感じることが出来、トレッキングに出かけた後の手入れが不十分だと言うことが分かる。

 こういう、細かいことは気にならないと言う気質は、父親から受け継いでいるらしい。チッピイはベッドの下に入り込んだ。ベッドが空調機の風が直接当たるのを防いで、しかもフローリングの床が適度に冷たく、夏はここが絶好の避暑地になる。しかし、今は何も興味を引く物はない。チッピイはベッドの下から抜け出した。俊子の部屋ほどではないが、猫に関するグッズがあって、ジクソーパズルもその1つである。ただ、チッピイのここ数ヶ月間の観察によれば、三分の一ばかり組み立ててあり、その後は進展する気配がない。洋子の猫好きだが飽きっぽいという性格は母親譲りである。チッピイはそのパズルの中の猫の断片に呟くように鳴いた。

「にゃゃゃ」

 多少、呆れるような響きを持った鳴き声である。妹が飽きっぽいのは子供の頃からである。もう少し執着心があればいい。部屋の中は洋子の性格を現すようにあけすけで秘密を感じさせるものはない。ここには秘密はないようだ。

 下の部屋が賑やかになってチッピイの興味を引いた。

 家族が帰ってきたのかと思ったのである。チッピイは耳をぴんと立てた。ただ賑やかだが、その物音の発生源は常に一つで、家の中を盛んに移動していることを探り当てた。この家の中で、あれほどの物音を立てるのは、弟の浩以外にはない。物音は急を要する響きを立てていて、チッピイはパトロールを中断して、様子を見に行ってやらざるを得ない。

 

 危なっかしい足どりで階段を下り終えたチッピイは、筋肉を次の動きに即応させるように静止した。チッピイは目だけ動かして弟の姿を追った。チッピイは浩がうるさく騒ぐ理由が分からないでいる。浩がばたばたと部屋の中を駆け回って隅という隅を覗き回っているのである。その様子はさっきのポン太郎のようで、目的が感じ取れない。

 やがて、浩はチッピイに気付いた。浩はおもむろにチッピイに接近し、逃げられないよう抱き上げた。

「別に、お前を疑ごうてるわけやないねんで」

 浩は言い訳じみたことを言い聞かせながら、指先でチッピイの口をこじ開けた。もちろん、チッピイの口の中にポン太郎の残滓はない。そして、浩は幾本も牙が抜けてしまったチッピイ口の中を眺めて、ポン太郎を食い殺すには困難を伴うに違いないことを理解した。

「お前、ホントに、もう……」

 浩は最後の言葉を口にしなかった。最近のチッピイの老いに触れて、おじいちゃんだと表現をするのは、そのまま死の別れにつながるような気がするのである。浩はチッピイをそっと床におろして、ポン太郎探しを再開した。

 家族は自然に似てくると言われるが、チッピイの見たところ、今の浩の慌ただしさは、ケージを囓るポン太郎に似ている。チッピイは浩の顔を見上げて安心した。取りあえず、浩は無事だ。チッピイは迷惑そうに浩の側から去り、浩は複雑な表情でそのチッピイの背を見送った。

 

 その後、どう過ごしたのか、浩自身ははっきり思い起こせない。ただ、結婚式から帰ってきた母親と洋子が言うには、浩は猫のように四つん這で、隙間という隙間に向かってポン太郎の名前を呼んでいたということである。

 責任は浩自身にある。朝、家族が結婚式に出かけた後、浩はポン太郎に餌のひまわりの種を与えた。その時に、ケージの入り口を閉め忘れていたらしい。ポン太郎は、浩にも行く先を告げず外出してしまったわけである。

 しかも、ハムスターは狭いところや暗いところが大好きで、家具の間や、本棚の後ろに入り込んでしまったら、見つけることが難しい。帰ってきた家族が目撃したのは、そんな隙間をのぞき込んで、ポン太郎の名を呼んでいる浩の姿である。

「まあ、そのうちにお腹が減って出てくるわ」

 洋子がそう言ったのだが、浩の慰めにはならない。

「お腹が空いたら這い出て来るのは、洋子姉ちゃんだけや」

 洋子にも自覚がないわけではないが、面と向かって指摘されると腹が立つ。洋子は弟の額を指で突いて脅しの文句を吐いた。

「気ぃつけや。チッピイがそろそろお腹空かして餌を探す頃やで。今頃、ポン太郎の美味しそうな匂いを嗅ぎつけてるわ」

 浩は洋子との会話をあわてて打ち切って、ポン太郎探しを再開した。浩のポン太郎は洋子とは違う。ずいぶんデリケートな生き物だ。暖房のない部屋の中で凍え死んでしまうかもしれない。洋子が指摘するように、この家には猛獣チッピイがいる。たとえ牙はなくても鋭い爪がある。小さなポン太郎など、チッピイの前足の一振りで命を失うだろう。

 父親の伸一が椅子に乗って、本棚の上にポン太郎の姿を求めているのも、あながち的外れではない。ポン太郎には過去にも脱走歴があって、家族の心配をよそに、どうやってよじ登ったのか本棚の上でくつろいで毛づくろいをしていたことがある。外見は手足の短い丸々した毛玉だが、意外に器用に、狭い隙間に姿を消したり、思いもかけない場所に登ったりする。しかし、この夜、ポン太郎はこの家に溶け去ったように姿を消し、家族に姿を見せなかった。

 

「こら、こらっ」

 かりかりドアをひっかくチッピイを、洋子は寝ぼけ眼で叱りつけた。豆電球の淡い光に目覚まし時計をかざすと、まだ夜中の3時半で、これからじんじんと冷え込む最も寒い時間帯になる。温みのあるベッドから抜け出すのに、少し勇気と決断力がいる。

 昨夜、日付が変わる頃まで弟につき合って、あちこちの隙間をのぞき込み続けたが、ポン太郎を見つけることは出来なかった。まだまだ眠り足りないが、この部屋に隔離していたチッピイが、何かに急かされるようにドアを前足でひっかいて五月蝿いのである。

 監禁のお詫びに、洋子はチッピイに自分のベッドを半分提供していたのだが、チッピイは寝床と枕元の人物が変わって眠れないのかも知れない。洋子は部屋のドアを少し開けた。チッピイを眠り慣れた場所、階下の姉の部屋に移してやろうと考えたのである。

「あっ」

 洋子は小さく驚きの声を挙げた。この家から姉が欠けている。妙なことに、唐突に、それを思い起こしたのである。昨夜、姉の結婚式から帰宅した後、ポン太郎探しに気を奪われて、思い出すことがなかった。洋子を包む闇と静けさの中に、取り残された者の幸福な孤独感が湧いた。

 チッピイはそんな洋子の心の隙間からするりと抜け出すように、洋子の部屋から姿を消した。

「ドアは開けとくから、寒くなったら帰っといでや」

 脱走中のポン太郎を守るために、チッピイを部屋に監禁していたと言うことを、洋子はすっかり忘れてしまっている。洋子は何かを考え込むように、ドアをそのままに、まだ暖かみの残るベッドに戻った。

「泣けへんかったな」

 ベッドの中の洋子は、結婚というのはああいうものかと思ったのである。父親が娘の結婚式で感極まって涙ぐむという、洋子が想像した光景はなかった。戸惑うような照れくさそうに娘を誇る父親の表情が彼女の記憶に残っている。たぶん、自分の結婚式の時もそうだろう。自分もいつか迎える日に違いないのだが、今の彼女には夢の中でさえ実感が湧かない。

 

 十一月の下旬。早朝は肩をすくめて腕を抱くほど肌寒く、エアコンのスイッチを入れたばかりの室内は吐く息が白い。家族はみな眠っているようで、家の中はしんと静まり返って、浩の足音がよく響く。浩はポン太郎探しを再開したのである。この寒さに、ポン太郎は独りぼっちで凍えているに違いない。

(ボクの責任や)

 浩は真摯に考えている。家具の隙間をのぞき込み、部屋の中を見回すほど、昨夜の内に、探し尽くしたという事実を思い起こさせた。本当に、まだこの家の中に居るのだろうか、ひょっとすれば今頃は家の外に逃げ出したのかと訝るほど、ポン太郎は姿を消したまま見つからない。

 いつ戻っても良いようにひまわりの種も、新しい水も、乾いた寝床も準備して、ケージの入り口は開けてある。しかし、姉の洋子以上に食い意地がはって寒がりのポン太郎が戻ってくる気配がない。悪いとは思いつつ、浩は再びチッピイを疑い、小さくその名を呼んだ。

「チッピイ」

 いくら探してもポン太郎の姿が見つからない。浩が探す相手はいつの間にやらポン太郎からチッピイへと変質した。浩はそのチッピイを意外なところで見つけた。姉の俊子の部屋。彼女が残した机の上である。もう、ぬいぐるみや写真は無くなってはいるが、東の角部屋で日当たりの良さは変わらない。いま、この家の中で一番明るく暖かい場所である。浩の目の前の光景は今までに見たことがないほど優しく綺麗だった。

 窓から差し込んだ静かな日の光が創った日溜まりの中に、チッピィが体を丸めて寝そべっていて、温かさに満足するように、伸ばした尻尾の先をゆっくり振っていた。行方不明だったポン太郎は、そのチッピィの丸まったお腹の間から頭をのぞかせて、ぬくぬく気持ちよさそうにあくびをした。浩の心配をよそに、のほほんとした性格を隠そうともせず、幸せな雰囲気にくつろいでいた。チッピィはポン太郎を食べるつもりはないらしい。温かさに目を細めている表情を見ると、優しくハムスターを見守っているようにも見えて、たぶん、何処かで寒さに震えていたポン太郎を見つけて、この日当たりのいい場所にくわえて連れてきたのだろうと思わせる。

 浩はチッピィの優しさを見直した。そのイメージが結婚前の姉の俊子の優しさと重なって、この光景を、俊子にも教えてやりたいと思った。

「こんなとこにおったんか?」

 浩のことかポン太郎のことか、チッピイのことなのか、聞こえた言葉は主語が欠けていて良く分からない。洋子が欠伸をしながら姿を見せてそう言ったのである。浩はくすりと笑った。ポン太郎の欠伸につられるようにチッピイが欠伸をし、続いて欠伸をする洋子が現れたのである。順番に欠伸をする姿は、仲のいい家族を想像させて心地よい。

「ほらっ」

 浩は一塊りになったチッピイとポン太郎を指さした。この感動を分かち合いたいと思ったのである。しかし、洋子は大人で、浩が期待したほどの感動を見せない。浩はその姿に抗うように、優しかった長女を思いだした。そして、改めて洋子を眺めてふと気付いたように首を傾げて呟いた。

「洋子姉ちゃんも、いつか、この家からおれへんようになるねんな」

 洋子は少し考えて、弟の額を人差し指でつついて答えた。

「当たり前や。二十五迄には玉の輿よぉ」

 姉弟にとって、俊子がこの家から嫁に行ったという変化を、事実として受け入れた瞬間かも知れなかった。

 ポン太郎は温かな老猫のそばを離れようとせず、チッピイもまた、膝にチッピイを乗せるときの伸一のように自然で、迷惑そうな顔もせず一緒にいる。部屋にいつしか伸一と英美が加わって朝の挨拶も忘れて机の上を見入っている。浩は部屋の中を見回して、いつか、この家族全員が顔を揃えた光景のことを、俊子に話して聞かせようと考えた。


離別の冬とめぐり来る春

 

 チッピイとポン太郎の暖かな光景を、浩が姉に伝える機会が来たのは、年が明けて春を迎えてからである。俊子は赤ちゃんが出来たという報告とともに実家に帰ってきた。

 お腹の大きな妊婦姿という家族の想像は裏切られた。痩せ形だった姉は、少しぽっちゃりして、柔らかな女らしい体型を身につけた程度で、赤ちゃんがいると言われなくては妊娠していることが信じられない。浩は姉がとりたてて美人だと思ったことはないが、子を宿した姉の雰囲気は、じっと見つめたくなる魅力を秘めている。

 考えてみれば、俊子は浩を春休みに与那国島に呼ぶ約束をしていたはずだが、その約束を一方的に延期したことになる。

 そんな俊子らしさではなく、彼女の柔らかで母親らしい雰囲気の体型は、浩に俊子の優しさのみ思い起こさせる。結婚直前に優しい言葉をかけてくれたり、おやつをくれた時の俊子のイメージが膨らんだ。浩はそういうイメージで、姉に大切な思い出を語った。

「机の上がお日さまで暖かくなっててん。そこにチッピイとポン太郎がおってん。ポン太郎がチッピイの側で幸せそうやってんで。すごく綺麗やったわ」

 浩は手の平の上にポン太郎を乗せて、あの時のことを、俊子姉に話して聞かせた。俊子の見るところ、この毛玉ともいえるハムスターは幸せそうに丸々と太って、弟そっくりの性格らしい。

「家族にあんな大騒ぎをさせて……」

 洋子は姉の結婚の日のポン太郎の脱走事件の迷惑さを語った。しかし、必ずしもポン太郎だけではない。ほんの二週間前にはチッピイがこの家から姿を消した。よぼよぼのお爺ちゃんの失踪に、家族はポン太郎の行方不明以上に気を揉んだ。誰も口には出さなかったが、死を予感した猫が飼い主の元から、ふっつり姿を消すという、伝説めいた伝承が家族の頭を横切っていて、暗い結末を予感させた。

 しかし、失踪後二日目には、チッピイは元からそこにいたように、家族が気づけば台所の隅のマットに体を丸めて休んでいた。そんな感じで、ふらりと家に戻って来た。この外出の結末は、チッピイが家族の心配を苦笑しつつ否定するように、一声、小さく鳴いたというだけである。

「にゃぁぁ」

(家に帰るのに、何の不思議がある?)

 そう言ったに違いない。考えれば、ただ、長らく顔を合わせていなかった仲間に挨拶に行っただけなのかも知れない。

 しかし、それを聞いた俊子は別の解釈をした。

「チッピイは私が帰ることを予感して、迎えに来ようとしたのかもしれへんわ」

 俊子が、子供が出来たと言うことと、一度実家に帰ると言うことを連絡したときに、チッピイは英美の横で、受話器から漏れ聞こえる懐かしい声を聞いていた。彼女はチッピイの失踪がその直後だと言うことと結びつけて考えたのである。

 

 浩はもう一度ポン太郎の事を言った。

「そやけど、ホンマに仲のいい、可愛い景色やってんで」

 実家に帰ってきた俊子はけらけら笑いながら言った。

「当たり前やん。チッピィはグルメやってんから、そんな不味そうなもん、食べへんわ」

 ポン太郎が浩の手の平の上でぬくぬく丸まっている。俊子は浩のかわいいポン太郎を『そんな不味そうなもの』と表現したのである。優しくなっていたはずの姉は、結婚式が終わったら、元の姉だった。猫好きな女というのはこういうものかと、浩は姉を通して猫好きな女どもの本性を見た思いである。

 しかし、こんな冗談を言っておかないと、チッピィの話題は、家族の中でしんみり寂しい。チッピィが亡くなったのは、俊子が帰る5日前の夜だった。

 俊子の結婚という幸せな離別に続いて、チッピイの死と言う別れを受け入れて、この家族は一つの区切りを迎えたたのである。チッピィの餌箱、チッピィのお気に入りの玩具、チッピィの寝床、まだこの家の中にチッピィの温もりが残っている。

 

 失踪したチッピイは、帰宅を境に、全身の力を使い尽くしたかと思えるほど急速に老いを進めたのである。食事を自ら咀嚼する力や気力すら失った。昨晩よりやせ細っているのが分かるほど急激に衰え、呼吸が細くなった。

  食事を咀嚼できないため、スポイトで暖めたミルクを与えたり、脱脂綿に含ませた水を与えなくてはならない。尿を垂れ流すために頻繁に寝床を変えてやったのだが、6日目にはその尿すら生物としての臭気を失った。ぼんやりと開いた目に生気も感じられない。

 

 そんなチッビイがふと思いついたように、洋子に支えられて重い頭を上げ、家族を見回して、細くかすれた声で一声鳴いた。

 目を閉じて眠ったように見えたが、その後、チッピイが目覚めることはなかった。

(長いこと、ありがとう。ええ人生やったわ)

 洋子によれば、チッピイはそういうことを言ったらしい。

「可哀相やて思たらアカンで、一生懸命生きたんや」

 英美が浩にそう教えた。英美は息子にチッピィのやせ細った惨めさではなくて、最後まで一生懸命生き続けた事を誉めてやりなさいというのだ。しかし、そんな英美も落ち込んで、もう生き物は飼いたくないとも言った。

 話を聞いた俊子も三ヶ月になるお腹の子に聞かせるように言った。

「ええ家族やったで」

 二日後、帰るという言葉で表現して、彼女は大阪の実家を発った。彼女にとって帰るべき土地は、この大阪の実家ではなく、与那国島という遥か南西に隔てられた島であるらしい。

 

 しかし、距離は大きく隔てられても、時が心を癒やすと言うことをこの家族は実感した。チッピイの死の悲しみが薄れたというわけではない。チッピイの記憶が心の中に残って自分と共に生き続けている。悲しみがそういうふわふわした柔らかな信念に置き換わったと言うことである。

 チッピイの死後、数ヶ月を経たが、この大阪の家に新たな猫の姿はない。しかし、柱の傷やお気に入りだった玩具は、家族に穏やかな笑顔と共に、チッピイを懐かしく思い出させる。

 チッピイがいなくなった今でも、浩にとって猫と言えば、チッピイとポン太郎の姿が目に浮かんで、暖かな光景が記憶から離れない。

 その温かな光景が、浩が手にした絵はがきと重なった。姉の手作りの絵はがきで、姉の細やかで几帳面な性格を現していて、家族一人一人に当てて出されたものだ。自分だけに宛てられた葉書は、姉から一人前の男として扱われたような気にさせて嬉しい。

 父、母、次女、それぞに宛てて出された絵はがきを裏返して並べると、大きなお腹をした俊子と夫が仲良く日陰でくつろぐ姿、赤ちゃんを愛おしげに抱いた俊子とそれを見守る夫、そんな親子の足下に小さな猫が加わる。最後に並べた浩宛の絵はがきは、子猫が薄桃色の産着に包まれた赤ちゃんに寄り添って、不思議そうに見守る姿で、子猫の表情は幸福そうな笑顔を浮かべているように見えた。俊子は金城家の半年の歴史をこの4枚の手作りの絵はがきと、数行のメッセージで伝えてきたのである。

『我が家の王女さまを見守るチッピイⅡ世。 綺麗な海と、空の下、みんな幸福に過ごしています』

 浩に宛てた絵はがきに記されていたメッセージである。チッピイの名前は、俊子の家で、とら縞の子猫に引き継がれて、俊子夫婦の新しい家族に加わっていた。

 

 姉夫婦に生まれた女の子は、新しいチッピイと一緒に育って、きっと、猫好きになる。浩は掌に乗せたポン太郎にこっそり言うのである。

「猫が悪いわけやないねんで。そやけど、猫好きな女が増えるのは、怖いわぁ」

 この家の長男は、写真の笑顔を眺めながら、世代が引き継がれ、命が空間や時間の中を広がって行くと言うことを、チッピイのお気に入りだった縁側で、なんとなく考えている。

 

                                       


あとがき

物語を最後まで読んでいただいてありがとうございました。

 この作品は第二十一回織田作之助賞の一次通過作品を改稿したものです。十年以上も経過していますが、振り返ればあっという間。その間、政治情勢は変わっても人間が語り継いでゆく本質は変わりませんね。

 

 人が語り継いでゆくものが変わらない。

 そういう意味で、よろしければ次の作品もお読みください。約250年後の物語ですが、人々は今と変わらず幸福と悲しみの狭間の平穏の中で、しっかりと生きています。

アスカ物語 ~夢のかけら~ 」

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奥付



チッピイの想い出


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著者 : 塚越広治
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