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プロローグ311

どこが”道だった”のかもわからず、グーグルマップもあてにならない瓦礫や残骸だらけの暗闇の中、友人の車の中で僕は揺られていた。突然窓に飛び込んでくる「街の中にそびえる」巨大な船。あまりの非日常な光景に驚きと共に自然と言葉を失う。僕らはいつしか無言のまま、自衛隊の車両に挟まれながら、ただひたすらに暗闇を走っていた。

 

2011年3月に起きた東日本大震災が起きてから2ヶ月後の5月。”何としても早く被災地に向かいたい”しかし、混乱しているであろう”被災地の邪魔になってはいけない”そんな板挟みの感情と混乱していた情報の中で爆発しそうだった僕は岩手県大船渡市に実家のある方から”来ませんか?”と声をかけてもらう事で「ようやく」(個人的にはギリギリのタイミング)で友人たちと被災地へと向かっていた。

 

 

被災地へと向かう。とはいっても直接ボランティア活動に参加するわけでもなく、かといって何かしら被災地で役に立つ特別なスキルもなく、ただ実際に「知らなければ」と衝動的に手ぶらで向かった僕は、ただの野次馬と非難されても仕方がないとわかっていた。それでも。僕は何もわからず大阪の自宅で手をこまねいているよりは「自己責任でまずは現地に向かう」のが最善と判断したのだ。

 

そうして訪れた岩手県大船渡市、合流した来る事を誘ってくれた現地の方にまだ傷跡も生々しい被災場所を案内してもらいつつ、数日間、被災者の方々、レスキュー隊、そして全国各地から集まってきていたボランティアの方々から様々な話を聴いた。

 

「日本のレスキュー犬だと”生きている人”は探せても”死んだ人”は探せないのです」悔しさと無力感を感じさせる表情で話してくれたレスキュー隊員、「この震災で全て失ったからこそ、全てを一から始める事に決めました」と淡々と悟ったように語る高齢の女性被災者、「人として正しいことをしなければと仕事を辞めてここに来ました」妙に生気のあるキラキラした顔で話すボランティア。様々な喜怒哀楽と混乱が「非日常のその場所」には溢れていて、僕は名前をつける事ができずに、ただ混乱した気持ちになっていた。

 

そして「仕事という日常」に戻る為に、先に友人達と別れ仙台から新幹線で大阪へと一人帰る車内、被災地でのボランティア活動の帰りであろう隣席の女性達が現地での活動の様子や福島の原発事故の噂話をあれこれと話すのをぼんやり聴きながら考えていた。

 

心苦しい気持ちはあったが、僕にはボランティアとして仕事や家庭の事情で「現地で直接的に関わり続ける事」を選択する事はできなかった。それでも「知ってしまった」からこそ「何かしなければ」と思った。

 

被災直後の3月にも友人と共同で「たくさんの人たちにとって、日常生活を過ごす中での被災地に向けての気軽なワンアクションとなれば」と大阪でチャリティーイベント「playfor(https://namba.keizai.biz/headline/1745/)を主催したりしていたが、実際に訪れた後の今回も”まず出来る事”として「被災地での様子を話す報告会」を企画した。

 

ただ報告会で参加者に話しながら何となく違和感というか”もっともっと日常の中で出来る事があるのでは?でも何をしたらいいんだ?”行く前に自分の中で爆発しそうだった気持ちが、今度は無力感へと形を変えて僕を襲い始めていた。でも、答えはなかなか見つからず。苛立ちだけが僕の中に溢れ始めていた。


選択は「住み開き」

遅ればせながらの自己紹介にもなるが、僕は銀行で働きながらアートNPO輪音(わおん)プロジェクトを2007年に別に立ち上げ、主に若手アーティストの支援にも取り組んでいる。2011年当時はその流れで採用された大阪市のアートインフォメーション&サポートセンター中之島411の企画委員としても、同じく若手アーティスト支援の事業を担当していた。

 

その時に、同じ企画委員の一人として知り合いになったのが、当時”住居の一部をセミパブリックに開く”事を「住み開き」と名付けはじめて、実際に訪れるツアーイベントの開催やその様子をミニ冊子やWEB上に集めて紹介し発信していた「住み開き提唱者」こと、アサダワタル氏だった。

 

でもその当時の僕は「住み開き」ツアーにこそ何度か参加させていただいたものの”へえ〜自宅で面白い事をしている人がこんなにいるんだ”と確かに興味深くは感じたが、同時に”でも、自分の家に見知らぬ人を呼ぶなんて、僕には絶対無理”と思っていた。(そもそも学生時代から含めても、友人を自宅に呼ぶ事に心理的な抵抗のある性分だった)

 

そんな僕がなぜ、後に何故24時間フルオープンの「住み開き511」を始めたのか?と言えば、アサダワタル氏が2012年1月に発刊した「住み開きー家から始めるコミュニティ」をなんの気なしに読んでいた時に見つけた(うろ覚えだが)”東日本大震災の時に他のアーティスト達の家が避難所的役割を果たした”という一文を読んだのがきっかけだった。東北の被災地を訪れたものの、その後に結局は「何もできず」に無力感を感じていた僕が住んでいる大阪で「何をすべきか」その答えを見つけた気がしたのだ。

 

具体的には被災地を訪れた後”次に同じような自然災害があった時、そこまで特別ではなくても、何かしら日常生活において家族と喧嘩したり、終電を逃したりといったトラブルが起きた時の駆け込み寺「一時的な避難所」をつくれないだろうか?”と考えつくも、主に資金面で断念していたアイデアが(流石にその為に個人で物件を別に借りるのは厳しいと考えていた)”住み開き”という形なら実現できるのではないか?と僕の中で結びついたのだ。

 

とはいえ、やはり自宅に知らない他人を呼ぶの嫌だ。という心理的抵抗は残った。しかし、何かしら「新しい物事を実現させる為には」自分も何かしら「新しく変わらなければ」と迷った挙句、最終的には僕なりの勇気を振り絞り覚悟を決めた。

 

 

丁度、うまい具合に大阪R不動産で梅田から徒歩圏内のアクセスの良い場所にある「部屋内部の階段で1Fと2Fを分ける事ができる」マンションを見つけ、契約する事もできた。

 

部屋をはじめて見学した時に、窓際から見える淀川の美しい景色を眺めながら”ああ、この場所なら1Fを住み開きスペースとして公開しつつ、2Fはプライベート空間に分けて”僕にとって”理想的な形で住み開きに挑戦できるかも?”そんな事を考え、やるぞと決意を新たにしたのを覚えている。


511始まる

「住み開き」をする為に淀川の河川敷すぐそばにあるマンションの「511号室」を借りる時、賃貸契約書に一文だけ追加で”わざと”お願いしたのが「壁を白く塗らせてもらう」という条件だった。

 

現実的に白壁が老朽化で黄ばんでしまっていたのも理由でもあったが、この閉じられた空間であるマンションの一室を外部に「住み開き」として開く事にチャレンジするなら、始める前からいっその事”わざと誰でも参加できる作業”を用意し、その様子を公開する事で「ひっこし作業」それ自体を「イベント化」できないか?そんな事を内心、考えていたからだ。

 

ソーシャルメディア上で「住み開きをはじめます!」と作業を手伝ってくれる人の募集を行い、約3ヶ月間にわたっての「ひっこし作業」という「イベント」が始まる。参加者全員で壁を順番に白く塗り始めるのと並行して、掃除から始まり、照明器具の設置、エアコンや洗濯機の手配(冷蔵庫は転居する友人から”それなら”と貰い受けた)などなど友人や呼びかけで集まった初対面の人との共同作業が続く。

 

 

一方で、覚悟こそ決めたものの、やはり”自分の住む家を知らない不特定の人に開く”という行為に対する”何かしらトラブルが起きたらどうしよう?”といった類の不安を僕は内心消しきる事ができなかった。その事を少しでも解消する為にシェアハウスを経営している友人や、ゲストハウスを運営している友人に足を運んでもらっては”大丈夫だろうか?どうしたらいいだろうか?”そんな相談も同時に「こっそり」していた。

 

こうして無事に一通りの準備作業が終わり、部屋が完成した後には、さらに友人達と何回か「住み開き」シュミレーション的なイベントを開催して僕自身の「住み開き」の実行イメージを確認した後で、ついにこの511号室という場所にシンプルに(自分の部屋に別の名前をわざわざつける事が気はずかしかった面もある)「住み開き511」と名付け、WEBサイトも新しくオープンさせた。

 

そして2012年11月28日、遂に自宅もとい「住み開き511」のお披露目紹介を兼ねた初の住み開きイベント日を迎える。

 

”自宅でイベントなんてしても、だれか来るんだろうか?”

 

ワクワクという期待と、見ず知らずの他人がふらりと来るかもしれない緊張感の両方を紛らわす為に、必要以上に周囲に対して饒舌だった記憶があるが、そんな僕の懸念とは裏腹に面識の全然ない行政関係者や学生さんが多数訪れてくれた事には本当にびっくりした。

 

当日の、初めての対談ゲストは当然のように「住み開き提唱者」アサダワタル氏。彼の提唱する「住み開き」を始めるにあたり何となくケジメというか”はじめます”とことわりを事前にしておきたかったのと、「住み開き511」の活動で考えている「日常避難所」というコンセプトについて話す事で、様々な他の「住み開き」スペースを知っているアサダワタル氏からのアドバイスをもらいたかったのだ。https://www.youtube.com/watch?v=cbjbq12gYhk

 

そして無事に「住み開き」1回目のイベントが終わり安堵した僕にアサダワタル氏から”しかし、住み開きを始める為に物件を借りるなんて、ここだけですよ”と半ば呆れた様な言葉をかけられた。(通常は既に所有している物件の空きスペースを使う場合が多いらしい)

 

僕なりの「住み開き」の解釈として、住んでいる住人それぞれの考えでそれそれ「住み開き」を始める訳だから、画一化された同じような「住み開き」パターンはないだろうとは考えていたが、(むしろ同じだったらディストピア的な恐怖をそれはそれでを感じる)ふと”そう言われれば、確かに変かもしれないな?”とイベントが終わり、誰もいなくなった部屋で一人、ふと可笑しく感じた。

 

それでも僕は例え”変”でも「住み開き」で「日常避難所」というアイデアを実現したかった。


表と裏の511(2012-2013)

慣れとは怖いもので「住み開き」初日にあんなに心配したり緊張していた事が嘘であったかの様に、毎日のようにイベントをして2、3ヶ月過ぎるとFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアで募集し開催するイベント毎に自宅こと「住み開き511」へと様々な人が訪れてくるのが僕の当たり前の日常になっていった。

 

そして余裕が出てくると、いわゆる僕自身が飲み屋の様な、ギャラリーの様な場所「アトリエ輪音」を別に運営していた経験があったからこそ比較して「住み開き」ならではのメリットが幾つか見えてきた。例えば自宅で開催する事での文字通りの「ホームアドバンテージ」。イベント毎に場所代を考慮しなくて良いので資金面、集客自体も特にプレッシャーを感じないし、何より片付けとか終電を気にしなくて良いのは有難かった。そして開催するイベントの内容自体も店舗や商業スペースとは違い、あくまで「住居」でもあるので、「制約なしのなんでも有り」にできるのも新鮮だった(もちろん、隣近所に迷惑をかけない範囲であるのは言うまでもない)

 

この何とも”やってみるとわかる”楽しさを「住み開き」に関心のある人に伝えたくて、きっかけ作りになればと2013年3月には立ち上げ時に協力したCSRスペース、プロミス心斎橋お客様サービスプラザにて他の住み開きを実際にしている人達と「住み開きサミット」という情報交換、交流の機会を始めたりもした。ただ「家を少し開いているだけ」なのに、不思議な高揚感がこの時の僕を包んでいた。(https://namba.keizai.biz/headline/2455/)

 

 

でも、この話が仮に「住み開き」としての表の「住み開き511」の話だとすれば「日常避難所」としての活動については少し違う面があった。僕は別にイベントを開催する場所が必要だったから「住み開き」を始めた訳ではなくて、むしろ、イベントをオープンに開催していく事で、この「住み開き511」という「マンションの一室」の認知度や信頼度をあげて、考えていたコンセプト通りに「日常」的に何かしら困っている人の一時的な「避難所」としての役割を果たしたかったからだ。

 

こちらは活動の目的上、今までソーシャルメディアやWEB上ではプライバシーに配慮して細心の注意をはらってきたつもりだが、当初はTwitterのみに限定して「困っている人なら”誰でも”来てくれていい」と毎日発信し続けた事で本当に不特定の様々な”一時的に避難したい位の日常的なトラブルを抱えている”方からのコンタクトがあった。しかし結論だけを言えば、僕の日常生活の中の限られた時間では充分にそれら全てに応えるにはやはり無謀で、修正をすぐに余儀なくされた。”誰でも”から”友人の友人まで”と言葉的には”わずか”でも”大きく”日常避難を受け入れる条件を修正したのだ。

 

それでも、名前は当たり前に伏せるが「避難してくれた人達」と夜遅くまで、それぞれの悩みについて見返りを求めず何時間も(時には朝まで)語り合ってきた時間は「住み開き511」の「イベントスペース」としての表の顔とはまったく違う、言わば「駆け込み寺」的なWEB上ではわからない裏の顔で、僕に東日本大震災の被災地を訪れてからずっと抱えていた「何かをしなければ」という気持ちの拠り所となり、仮に悪意で考えると「いつトラブルを起こされるかわからない」自分にとってはリスクのある状態を「わかった上で」その中でも逆に僕に「無条件の善意で相手に向き合い続ける事」その大切さを感じさせてくれる時間となった。

 

「住み開き511」という挑戦を始めた事で、東日本大震災以降にずっと抱えていた無力感が表と、そして裏の両方で救われ始めていた。


変化(2013-2014)

確かめたわけではないが、変化を感じ始めた。「住み開き」が「住み開き提唱者」のアサダワタル氏の精力的な活動もありマスメディア等で頻繁に紹介されたり、この年のトレンドワードに選ばれるなどした事で、2013年の始めくらいから「住み開き511」に新しく”住み開きをはじめようと考えている”そんな人たちが頻繁に見学に来るようになりだしたのだ。

 

当初は僕自身も「住み開き」をはじめたい人のきっかけ作りの為に、前年に続いて今度は京都「つくるビル」で2回目の「住み開きサミット」を開催したりもしていたので、概ね好意的にその変化を捉えていたし「住み開き提唱者」のアサダワタル氏と違い、実際に毎日「住み開き」をし続けている立場としてできる限り親身になって相談にのるようにもしていた。

 

ただ中には明らかに「特定の目的のために」”(あなたみたいに)家の一部を活用して副収入を得たいのだけど”あるいは”孤独死に備えて(僕は中年独身男性でもある)住み開きをしたいのだけど”そんな相談をする方達も増えてきていた。それはどうやら不動産会社の情報サイトや、住み開きは「孤独死対策に有効」的にテレビで紹介された事が原因のようだった、これがとても僕には居心地が悪く、違和感を覚え始めていた(余談だが、まだ世間では知名度が低かった住居のシェアリングサービス、Aiebnbの紹介イベントを511で開催したのもこの時期だ)

 

もちろん「住み開き」を始める事にはそういった経済的な面や社会福祉での効果もあるかもしれないし、各自が「住み開き」をどのような目的で始めたとしても、もちろん全然構わないと思う。ただ、僕がしている「住み開き511」は、副収入を得る事や、ましてや孤独死に備える事を目的にしていなかったので、居心地が悪くなってきたのだ。少なくともそういった事を目的として来てくれる人に「住み開き」をしている先輩として向き合うのは誠実さを欠く気がしたし、正直、僕が「住み開き511」でしている「日常避難所」活動が同じように捉えられるのも耐えられなかった。

 

そんな「住み開き」自体の知名度があがってきたからこその、必然的な”言葉としての消化”「住み開きとは」の定義づけなどが各所で紹介される中で僕自身は逆に「住み開き」の普及を積極的に広める役割は終ったと感じ始め(それは、そもそもアサダワタル氏の役割だと思うし)自然に前述の「住み開きサミット」を開催する事もやめた。

 

むしろ、「住み開き」それ自体への興味より「自宅だからこそできるイベント」を追求する事に関心ごとが移りつつあった。きっかけとなったのがWEB上で話題となった素麺屋さんの販促イベントも兼ねているのであろう「夏の秘密結社 フリーソーメン」(http://freesomen.org/)を大阪で紹介した事だ。

 

一見、冗談活動のようで、実際に「夏の秘密結社 フリーソーメン」を真面目に場所を借りて行おうとすると「不特定の人に食べ物を配る」という行為は実はかなりハードルが高い。ソーメンという飲食物を調理するスペースの確保や配る事自体の衛生面的な問題をクリアする事や、不特定の誰かに”もし悪意があったら?”そう考えるとイベント企画者としては悩ましい事ばかりだと実際にやってみて感じた。

 

でも逆に「住み開き511」という自宅マンションを活用した場所では、そもそも悪意のある人が”わざわざ”来る可能性も低く、また当たり前だが調理用のキッチンもあるので「何のハードルもない」事がかえって新鮮に感じたのだ。こうして今度は「自宅だからこそできるイベント」を追求する日々が始まった。

 

 例えば「夏の秘密結社 フリーソーメン」のフォーマットをあえて意識した上で僕なりのアレンジを施し「誰かの選択肢になれば」と始めた「冬の騎士団 天ぷら騎士団」という活動もその一つだ。(https://templanight.jimdo.com/)

 

 

もちろん「日常避難所」としての駆け込み寺的な活動も同時に続けていた。こちらでは深刻なものが多かった当初とは違い、気軽な相談、例えば社会人や学生さんの飲み会や勉強会の場所としての利用相談などが増える一方で、クラウドファンディングサービス「CANPFIRE」などでIT業界で知られる家入一真氏と仲間たちが「現代の駆け込み寺」をコンセプトに全国で「リバ邸」という活動を始めた事で、そこを利用する人が同じような流れで”日常避難”しにくる事も増えていた。

 

こうした様々な変化が「住み開き511」内外で起きはじめていた。



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