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ぼくは2年生

眠る前、僕はいつも

「僕は幸せだ。住む家があるし、僕をかわいがってくれる父さんがいる」

と考える。

自然にいつもそう考える。そうすると早く眠れるのだ。

母さんのことは考えちゃあいけないと思う。

「今何をしているかな」

とか、

「どんな所にいるのかな」

とか、考えると泣きたくなるからだ。

僕は、泣きたくないから、母さんのことはなるべく考えないように気を付けている。

 

父さんは小学校の先生をしているから、わりあい決まった時間に帰って来る。

僕の好物のハンバーグとトマトサラダ、体にいいお魚に、ご飯と味噌汁。

毎日、そういう晩ご飯を作ってくれる。

晩ご飯の後片付けは僕と父さんと二人でやる。食器を拭いて、食器棚に入れるのは僕の役目だ。

それが済んでから僕がするのは『昆虫図鑑』を広げることだ。いつもそれで、いろいろな昆虫の名前をおぼえるんだ。

 

小さな知らない生き物を見つけるのは楽しい。

登校の時、僕は小学校の土手の生け垣の根元にとても小さいキノコの様なものを見つけた。色は土に似た黒っぽい色で、てっぺんが蓋の様な形をしている。三つあった。

翌朝もまた同じ所にそれがあった。今度は、丸い蓋のようなものが開いていて、薄いピンク色の、軸の中が見えていた。

なのに、気になって帰りに探してみたら、それが全部消えてなくなっていた。とても不思議に思った。

そいつが植物ではなくて「キシノウエトタテグモ」というクモの巣なのだ、と図鑑で分かった時には、僕を取り巻く世界の一部分が急にはっきり見えたような気がした。

それから、小学校の裏手の、壁際の砂が盛りあがっている所には、ウスバカゲロウの幼虫のアリジゴクの巣があることを僕は知っている。そのことを僕は友達にしゃべろうとは思わない。   

僕はちょっと秘密をもっているのが好きなのかな。

 

僕の家の周りには丘や林が多くて、色々な昆虫がいるけれど、僕の一番好きなのは断トツ、カブトムシだ。大きくて力が強くて、毛が生えている背中は黒っぽい色でピカピカ光っている。

七月の夜になるとじっとしていられない気持ちだ。僕はカブトムシを取りに行きたいと父さんに頼む。そんなとき、父さんは必ず一緒に付いてきてくれる。僕は懐中電灯と捕虫網を持って、それから虫かごも持って、暗い林の中に長袖、長ズボン、そして長靴をはいて入っていく。懐中電灯の光に照らされて、夢中でクヌギの樹液をなめている大きなカブトムシやクワガタを見つけるまでは、背の高い藪の中でも構わずに歩き回るんだ。

大きいのが捕まると、僕はやったぞと思ってはしゃぐけど、父さんは静かにほめてくれるだけだ。けれどそんな時、本当に僕はうれしい。

昼間に林に行って、木の幹に傷をつけておくと、樹液を吸いに虫たちが夜に集まるのは知っているけれど、自然を自分勝手に傷つけてはいけないと、父さんは言う。僕はその父さんの言いつけを守ることにしている。

 

父さんは、顔はいつも厳しい表情をしているし、あまり笑わないけど、僕は好きだ。

同級生のお母さんが「翔君のパパはハンサムねえ」と言ったこともある。父さんはハンサムなんだ。それだって、僕の幸せのひとつだ。

 

 

僕は放課後、小学校の校庭の隅にある「学童保育」に通っている。平屋建ての小さな体育館に似た感じの建物だ。台所があって、そこでよく先生がおやつの支度をしている。

一年生の時は母さんが家にいたから通っていなかった。二年生になる少し前から通い始めた。

先に入っていた皆に、まだ僕は少しなじんでいない気がする。でも草むらで昆虫を捕まえて、友達が寄ってきて、それでだんだん楽しく話ができるようになった。虫のことになると僕は「博士」と呼ばれるんだ。

 

二年生になった初めての日、学校が終わって、いつものように走って「学童」に行ったら、新しい女の先生がいた。

僕らのお母さん達よりずっと年上のようだけど、しゃきんとした感じで、にこにこして、ランドセルを背中から降ろして棚にしまう生徒たちを一人一人優しい目で黙って見つめていた。

僕は恥ずかしくって、なぜかあんまりその人を見ることができなかった。

女の子たちはすぐにその新しい先生の周りを取り囲んで、上着のすそをつかんで、いっせいに、名前などてんでなことを聞いていた。

男の子たちも、男の子同士で目を見かわしながら、その先生が気になってしようがない風だった。

その先生がおやつの時間に挨拶をした。以前は中学校の先生をしていて、名前を川瀬というんだって。「川ちゃんと呼んでください」と、その先生は言った。

 川ちゃんが、中学校で先生をしていたので、ほかの先生たちより厳しいんじゃあないかと僕たちは思った。

 

 学童にはおやつの時間というのが毎日ある。その時間になると、いそいそと僕らは部屋の隅に積み上げてある椅子とテーブルを並べる。おやつは普通のビスケットだったり、フルーツゼリーだったり、サンドイッチだったり、いろいろだ。

サンドイッチは食パンに薄くいちごジャムを塗っただけで、それを半分に切るから、薄いパン一枚分だ。だけどみんなで食べると結構おいしい。なにかとふだんから文句を言う子が多いけど、おやつに文句を言う子はいない。

みんなで机を囲んでおやつを食べ、片づけが済んだら、次は好きな遊びをてんでに始めるんだ。

室内でピンクや黄色や青色のビーズをつなげて遊ぶ子もいるし、床に絵本を広げて読む子もいる。いつも砂場に穴を掘っている一年生男子たちもいる。校庭の一番遠い隅にビオトープという池があって、そこにアメリカザリガニを捕まえに行く子もいる。

 

「ドロケイ」という追いかけっこが好きなのは二、三年生の子たちだ。どっと部屋から飛び出して、男の子も女の子も、もう学校の生徒がいない広い校庭をおもいっきり走り回る。

泥棒は警察にタッチされたらアウトだから、捕まらないように、素早く身をかわしながら逃げる。警察は夢中で泥棒を追いかける。ワーッとか、キャーと歓声があがる。

 追いかけてきた警察にタッチされた泥棒は、警察の牢屋に連れていかれる。牢屋といっても木の下に線を引いただけだけど。

捕まっている泥棒が、助けに来た泥棒にタッチされたら、その子は牢屋から逃げ出していい。助けに行く泥棒には勇気とスピードが必要だ。見張りの警察に捕まらないためには、校舎の裏を通って牢屋の後ろから回り込むのも手だ。

警察のほうは、泥棒を捕まえるために狭い所で挟み撃ちにする作戦をワクワクしながら狙うんだ。挟み撃ちにするのにも、校舎の裏が狭いのでちょうどよい。足の速くない子でも、仲間と組んで挟み撃ちに参加すると、足の速い泥棒を捕まえることが出来る。

泥棒の群れと、警察の群れが、広い校庭はもちろん、先生が入ることを禁止している校舎の裏だって、黄色い花が踏まれてまばらに生え残っている花壇の中だって、構わず無茶苦茶に走りまわるんだ。

 

 走りながら皆に大声で指示を出すのは三年生の双子の兄弟だ。どっちが健太で、どっちが勇太か、見分けがつかないくらい似ているんだ。

二人は仲良しで、息が合っていて、二人して先生に逆らうのも全然平気で、みんなは双子についていくのが楽しいのだ。僕も大抵いつもその群れの中で、興奮して遊ぶんだ。

 「おい、雑魚ども集まれ。ドロケイするぞ!」

と健太と勇太が言うと、すぐに 僕らは雑魚の意味が分からなくても、喜んで組み分けじゃんけんに加わる。

 誰が雑魚と呼ばれているのか、年中その言葉を二人が使うので、みな特に気にしないばかりじゃなくって、愉快なことのような気持になるんだ。

途中で遊びから離れる子たちがいると。

 「おい、雑魚なんてほっとけ! 行こうぜ!」

と、健太か勇太があからさまに馬鹿にした調子で言う。

すると僕らは

「自分は雑魚じゃあないんだ」

と、褒められたような嬉しい気分で、健太と勇太に付いて、また走り出すんだ。 

 

 

僕らの群れに入らない男の子が一人いる。皆とも先生とも、あまり口を利かない。

豪君という。

二年生なのに、学童のどの子よりも体が大きくて、もう四年生くらいに見える。いつも大体不機嫌だ。

でも、川ちゃんとは、テニスラケットとボールで長い時間、遊んでいることもあって、その時には豪君は珍しくおしゃべりになって、とても得意そうに、テニス漫画の話などをしている。

 

豪君が特に不機嫌な日、鉄棒にずっとぶら下がって降りてこない夕方もあった。

帰りの集合がかかって、みんなてんでに学童の建物に入ってきて、校庭に一人の生徒もいなくなり、全員での床掃除が済んでも、豪君は鉄棒から降りてこなかった。

外は暗くなってきたけど、川ちゃんが、ずっと彼のそばについて何か静かに話しかけ続けていた。豪君にそっと手を伸ばすのが、時々見えた。

健太と勇太が部屋の中から、その二人を何気ないふりで、でもずっと気にしてちらちら見ているのに僕は感づいた。

電灯の下の鉄棒に、遠目にはオランウータンがいるみたいだった。

「双子は、仲間にならない豪君に対して案外優しいんだな。先生たちにはいつも反抗的な双子だけど、今は川ちゃんのやり方を観察しているんだな」

と僕は思った。

 

豪君は、おやつの時間が終わると、部屋の壁に作り付けてある大きな本棚の上に登って、天井との隙間に潜り込んでしまう時がある。

園長先生が

「降りなさい」

と命令しても、まるで無視していつまででも寝ころがってそっぽを向いている。そんな時は彼がまるで言葉の通じない野生動物のように見える。

でも、誰も彼を笑いものにしたり、意地悪をしたりはしない。

双子は無視しているみたいだ。

体が大きくて、男みたいな言葉づかいの、二年生の由衣ちゃんは

「ほっときな!」

と、誰に言うともなく叫ぶ。

皆は彼に同情しているのだろうか。そうじゃなくって、ただ近寄るのが怖いだけかもしれない。あんなに体が大きいのだもの。

その体の中に、消えない大きな怒りをもっていて、それにいつも重りをつけているような、なんか危ないものを皆に感じさせるのかもしれない。

 

豪君にはお父さんがいなくって、お母さんはどこかの小さな映画館の切符売り場で夜遅くまで働いているらしい。お母さんは自分の子を学童にお迎えにも来ないし、父母会にも来ない。

たぶん登校の朝、お母さんは寝ていて、豪君はいつもご飯も作ってもらえないで、「行ってきます」も言わないで、一人でアパートの扉を開けて、毎朝学校に来るんだ。僕は彼と同じクラスだから、彼が授業中は静かで、暴れて先生に迷惑をかけたりはしないのを知っている。

でも、給食の時間には彼がすごくお腹が空いているのが、食べ始めるときの目つきでわかるんだ。

 

土曜日に学童に来る子はお昼のお弁当を持ってこなくちゃいけないのだけど、豪君はいつも手ぶらだ。 

僕がたまに土曜日にも学童に行く日、お昼前に園長先生が彼のおじいさんの家に電話するのが聞こえる。おじいさんはお母さんのアパートとは離れた別の家に、おばあさんと二人で住んでいるんだ。

「豪君は今日も、お弁当を持ってきていません。すぐに作って持ってきてください。学童ではかわいそうと思ったって児童に昼食を与えてはいけない規則なんですよ」

園長先生は厳しい口調で電話口のおじいさんを責める。

 

「僕のおじいさんは囲碁の先生をしているんだよ」って、豪君は以前、川ちゃんに自慢していた。豪君はおじいさんのことを尊敬しているんだ。その時は僕はほっとした。

 

しばらくすると彼のそのおじいさんが自転車でやってきて、部屋の奥にいる豪君を呼ぶ。豪君はおじいさんに叱られると思うのか、呼ばれているのに動こうとしない。おじいさんはお弁当を園長先生に手渡しながら怒鳴るように言う。

「まったく、バカ娘で!」

「娘がバカだから、その子までバカだ」

僕らはそれを聞いてしまう。

おじいさんが帰ってから、豪君は無表情に先生からお弁当を受け取る。

 

学童にはもう一人、変わり種の子がいる。トモヤと僕らは呼ぶ。

その子は豪君とは反対に、上機嫌すぎるんだ。

同じ三年生の双子にいつもくっついていて、身を捩ったり変な顔をしてみせたりする。双子はそれを見て笑うんだ。双子を笑わせたくって、トモヤはそうやっておどけているんだと思う。

帰りの会になると、トモヤのふざけるのが特にひどくなる。

学童の部屋でみんなが帰る方面別に列を作って、体育座りをしていると、

「はい、登場しました」

と言わんばかりにトモヤはその中に割って入る。おどけた踊りが始まり、皆はじりじりと壁際に下がって、自然にトモヤを囲む輪のようになる。

先生たちが怒っても怒鳴っても、トモヤはやめない。

輪の中心で、ピョンピョンとんぼ返りをしたり、片手をついて激しく回ってみたり、くにゃくにゃ手足を振ったり。

それがあんまり変な格好なので、みんな、笑い始め、トモヤのおどけ踊りは調子に乗って、ますます止まらない。

双子なんか、手をたたき腹を抱えて笑いころげている。

トモヤが疲れるまでおどけ踊りは終わらず、時間がずっと過ぎてから、やっと帰りの会が始まって、列ごと順々にまとまって皆が帰っていく。

自分の子供を迎えに来る親もいる。トモヤの踊りを呆れて見ている。先生もそれをやめさせられない自分たちがかっこ悪いと思って、気まずいだろうな。

でも、園長先生はそういう親たちに笑顔をみせ、訳知り顔をしている親たちに生徒を引き渡してゆく。

 

 

長い夏休みの間、学童にほとんどの子は行くけれど、僕は行かない。

家に父さんがいる日が多いからだ。

小学校の友達と遊ぶ日もあるし、父さんが遊園地のプールや遠くの公園に遊びに連れて行ってくれる日もある。

 

夏休みの宿題をしながら、ふと考える。

なぜ、僕の母さんは家を出て行ったんだろう。

去年のある夜、父さんと母さんの口喧嘩が始まった。

今までもそんなことが時々あった。

でも、その日は特にひどい喧嘩だった。

僕は家の外に飛び出した。

暗くって遠くに行くのも怖かったので、すぐ近くの駐車場で、車の下に潜り込んで時間がたつのを待った。子供が一人で外にいるのを、通りがかりの人に見られたくなかったんだ。時間の長さに我慢が出来なくなって、そっと家に入ったけれど、両親とも僕に「どこに行ってたの」とか、何も聞かなかった。

一人で布団に入って、胸がプルプル震えるのをじっとこらえて、眠った。

 

その、僕が一年生だった秋に、どんなことが起こったのかは知らないけれど、ある日学校から帰ったら、母さんがいなかった。母さんの服も洗面所の化粧品もなくなっていた。

帰ってきた父さんに

「かあさんと喧嘩したの?」

と聞いた。

「母さんが自分から出て行ったんだよ。友達と住むんだ。遠くに行くと言って、出て行ったよ」

「僕を連れて行かないの?」

と、僕は驚いたので、なんと聞いていいかわからなかったけど、そんな言葉が口から出た。

「翔は知らない人のところに行きたいのかい? その人と一緒に住みたいのかい?」

僕は黙っていた。

そして、父さんと二人だけの生活が続いた。

 

昼間、一人で家にいる時間があると、ふと、母さんが僕を迎えに来そうな気がする。ついていくのは怖い。僕は、母さんがこの家に帰ってきて、ずっといてくれるといいと思う。家にいてほしい。

今年の夏休み中、母さんは一度もうちに帰ってこなかった。

 

 

二学期の学童が始まった。

始まりの時期は、なぜかぎこちない。

僕は友達と仲良くしたくって、夏休みにデパートの「昆虫展」で、父さんにねだって買ってもらったすごく大きなカブトムシを、虫かごに入れて持っていき、始業式の後、学童で友達に見せた。

目をまん丸くして、同じ学年の友達が僕のカブトムシを見た。皆が寄ってきた。

そんな気はなかったのに、寄ってきた友達の真ん中で、僕はそのカブトムシの入った緑色の虫かごを、まだ目をまん丸くして驚いている一番小さい友達に突き出した。

「捕まえたんだ。あげるよ」

言った自分でドキッとした。高いお金を出して、父さんが買ってくれた特別でかいカブトムシ。大事に世話をやいてきたのに。

カブトムシを受け取った子は両手で虫かごを顔の前に支えていた。

川ちゃんが寄ってきた。

「すごいカブトムシだねえ! 翔君がつかまえたの? すごく大きいじゃないの。めずらしいでしょ、こんなに大きいの。もったいないじゃない。あげちゃうのはおやめよ」

「いいんだ、あげるよ」

すました声で言っている僕がいた。

川ちゃんが「おやめよ」と繰り返し言ったので、ますます僕は気取ってしまった。

「いいんだよ。また捕まえるから」

本当はあげたくないのに。

友達に見せて自慢したかっただけなのに。

川ちゃんが僕の嘘に気付いているような気がして、僕は恥ずかしかった。でも、平気な顔をするしか、もう僕には出来ない気がした。

「父さんになんて言おう」

本当は、僕はすごくがっかりしていた。川ちゃんに「尻尾をつかまれた」っていう、やましい気持ちもした。

 

 

時にはドロケイをやる仲間から外れて、違う遊びをする日もある。

砂場のそばで、僕は泥団子を作っていた。

泥団子を作るのも人気の遊びだ。ピカピカ光るまで磨き上げられれば、それは自慢できる宝物になる。

その時泥団子を作っていたのは僕一人だった。寒い日で、土を水でねった泥が手に冷たかった。

 

「おい、翔! 元気出せよ」

突然後ろから声をかけてきたのは、僕と同じ二年生の由衣ちゃんだった。声のでかい元気な女の子だ。

「おまえのお母ちゃんは出て行っちゃったんだ。出て行っちゃったもんを、いつまでぐじぐじ思ってても、帰って来やしないよ。

もう帰ってこないんだから、あきらめな」

僕は内心びっくりした。僕が泥団子を作りながら、ずっと母さんのことを考えているのが、どうして由衣ちゃんに分かったのだろう。

そのまま、由衣ちゃんは僕をほったらかして、どこかへ行ってしまった。

 

その日の夜、僕は昆虫図鑑を見るふりをしながら、母さんのことを考えてこっそり涙を流していた。

僕をじっと見ていたのか、しばらく黙っていた父さんが僕に言った。

「翔、母さんを待つのはやめなさい」

父さんは途切れ途切れにゆっくり言った。

「母さんは、きっとそのうち帰って来るよ。時間はかかるかもしれないけれど」

「待つってことはつらいだろ? 待っている間、心がじっと止まってしまうだろ? 」

「母さんを待ってしまっているお前の足は、ずっと止まったままになっちゃうじゃあないか」

「翔は前を見ながら歩いて行かなくちゃいけないんだよ。止まってばかりいちゃあつまらない。母さんを待ってばかりいちゃあいけないんだよ」

それ以上父さんは母さんのことを僕に言わなかった。

その夜、僕は布団の中で長いこと泣いた。母さんを連れて帰ってくれない父さんも、帰ってこない母さんも、嫌いだと思った。

 

 

クリスマスもお正月も、父さんと二人で過ごした。

学童の三学期が始まった。

もうじき三年生たちが学童を卒業して、僕ら二年生が学童の最上級生になる。

 

帰り時間がそろそろの、ある日のことだ。

雨が降りはじめたので、皆室内で遊んでいた。四十六人の生徒がいても困らないくらいに学童の部屋は広い。僕は部屋の隅で、友達と電車のレールを敷いて遊んでいた。

 

そばに、将棋を終えたばかりの双子がやってきた。

川ちゃんが双子に声をかけたのが聞こえた。

「君たちは、みんなのリーダーなんでしょ」

ちょっと重々しい気配だった。

「え? リーダー? そんなの誰にも頼まれちゃあいないよ」

「リーダーなんかじゃあねえよ!」

双子が先生を馬鹿にするように薄笑いを浮かべて答えた。

川ちゃんがちょっと息をついた。

「じゃあ、トモヤが君たちを大好きなことは知っているよね」

と川ちゃんは言った。

「トモヤがバカなことをするのは、君たちに笑ってもらいたいからなんだよ」

双子はまじめな顔を二人で見合わせた。

川ちゃんの声は厳しかった。

「今日の帰りの会を見てごらん。トモヤは踊っている間中、君たちの顔をずっと見ているんだよ。気付いていた? 君たちに笑ってもらうのが嬉しくって仕方ないんだよ。だから、トモヤはあんなにふざけて大人たちを困らせるんだ。君たちが笑ってくれるから」

双子は何も言わずに川ちゃんの言うことを聞いていた。

「君たちは学童をやめたらきっと塾に行くんでしょ?

ご両親と同じ医者になるために、勉強を始めるんでしょ?

その時、トモヤは一人ぼっちだよ。トモヤは誰を頼ればいいの?」

川ちゃんの声には双子を黙らせるような「本気」があった。

「君たちがいなくなったら、トモヤは自分がどうふるまえばいいのか、自分で考えることができるだろうか。

トモヤがまっとうな小学校上級生になるためには、『もうバカなことはやめろ』って、君たちがトモヤに教えてあげなくちゃいけないんじゃないのかな? 」 

 

その日の帰りの会で、やっぱりトモヤは輪の中心でおどけ踊りを始めた。

僕は川ちゃんの顔を見た。怖い顔だった。川ちゃんは立って腕組みをしたまま、並んであぐらで座っている双子を見つめていた。

その日、双子はトモヤの踊りをちっとも笑わなかった。ずっと真面目な顔をトモヤに向けていた。トモヤはいつものように目だけを双子からそらさずに、喜びにキラキラしたまなざしで踊りまくっていたが、双子は一度も、にやりともしなかった。

「やめろ、やめろよ」という健太か勇太かのひそひそ声が聞こえた。

それからずっと「やめろよ、やめろよ」という二人のささやきが続いた。少しずつ悲しそうな響きになって。

だんだんトモヤの目に不審そうな色が浮かんだ。トモヤの踊りに勢いが消えてゆき、戸惑ったように、トモヤの踊りは終わった。

「やれやれ今日は早く終わった」

と先生たちは嬉しそうで、帰りの会は元気に始まり、僕の心には驚きが残った。

健太と勇太の真剣な顔が、僕の記憶に焼き付いた。

 

 

ドッジボール大会が近づいて、僕たちはほかの遊びをやめて、ドッジボールの練習に熱中し始めた。

地区のいくつかの学童が集まって、ドッジボールの勝ち抜き戦をするのだ。

僕たちの学童は、広い校庭で練習できるから、毎年強かった。児童館に付属しているような小さい学童は、屋内体育室しかないので、どうしても弱かった。

今年は優勝したいとみんな思った。あの豪君ですら、練習に参加して、強い腕力を見せた。トモヤもドジが多かったけど楽しそうに練習した。

親たちにとっても、年に一回のこのドッジボール大会は、学校の運動会に匹敵する大行事だった。

試合当日の朝、僕たちは学童を出て、列を作って隣の、会場となる小学校へ向かった。散歩に皆で遠出する時の列と全然違って、列からはみ出す奴も遅れる奴もいなかった。まるで戦士の集団のような気合で、近道になる公園の根株の上も、家々の間も、横断歩道もずんずん歩いた。

目的の学校に着いて、僕たちはドッジボールを一回戦から戦い始めた。

戦術はしっかり決まっていた。

弱い者は球をよけて、陣地の中で逃げ続ける。うかうかボールを当てられる奴はいない。

強いものは当てられるのも覚悟で、前に出てボールを奪うのだ。皆、塊にならないように、強いものは自分の守備範囲を守って一人一人がボールに向かっていくのだ。

体は大きくない双子も闘志満々で、球を奪っては敵を倒した。女の子でも、普段ドロケイで鍛えているからすばしっこくて強かった。由衣ちゃんは特に目立った。水玉模様のスカートを翻し、おなかと胸で、強いボールを受け止める。バシンと音がするんだ

けれども、僕は、どちらかというと半分は逃げながら、チームに加わっていない豪君が時々気になったりしていた。彼はどこにいるのだろうか。

 

それは休憩時間に分かった。豪君は又、機嫌を損ねているんだ。

学童の部屋で本棚の上に寝ころがっている時と同じ、野獣のような目つきをして、ドッジボール会場の周りを歩き回っているのだ。

フェンスの周りには、参観に来たお母さんやお父さんがびっしり並んで応援していた。お弁当の入った手提げを持って、自分の子が戦っているコートの周りを囲んでいた。その中にはもちろん僕の父さんもいた。

その大人の間を、豪君は不機嫌な顔をして歩き続けている。先生たちがいくら声をかけても、その手を強く振り払ってどこかに行ってしまう。

 

見に来ると約束したお母さんを探しているのではないかと、その様子で僕は気が付いた。

 

お弁当時間も終わってしまって、僕たちが次の決勝戦を前に意気が上がっているころに、やっと彼のお母さんは姿を現した。それが彼のお母さんだということは、彼が会場の外れの非常階段下から、その女の人に近寄っていくのでわかった。

でも、その途中で彼の足はのろのろと止まってしまった。お母さんは男の人と一緒だった。長い赤い髪をしたお母さんは、なんかニヤニヤした男の人とびったり腕をからませて、豪君にお弁当が入っているらしいコンビニの袋を渡そうと片腕を伸ばした。

豪君は何か言ったらしかったが、それを受け取らなかった。

それから豪君は鉄の非常階段を上がっていって、階段の手すりによじ登ってしがみついたまま、もう降りてこなかった。

 

 

その後しばらくして、豪君のお母さんがアパートを出て、どこかに行っちゃって、豪君はおじいさんの家に住むことになったらしい。

おじいさんは腹を立てているらしい。

そういうことをよく知っているのは、泥団子の時に僕に声をかけた由衣ちゃんだ。

由衣ちゃんはいつもお父さんのお迎えが遅いので、迎えに来たよその親が話すことを全部聞いているのだって。

 

 

由衣ちゃんからそれを聞いた夜、僕は布団の中で仰向きのまま、豪君のために祈った。

僕のよく知らない神様に向かってお願いした。

「どうか、豪君に、無事な日が続きますように。楽しいことがありますように」

変なお祈りかもしれないけれど、僕は、僕よりずっと不幸だと思える豪君のために、心を込めて祈った。

 

 

 

                                 


この本の内容は以上です。


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